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海で三番目につよいもの

僕は地下鉄を手なずけねばならなかった。というのもそのころ、僕は

すべてに不慣れで覚束(おぼつか)なげだったが、地下鉄はそんな僕を

有無をいわさず暗い穴ぼこに押しこみ、見知らぬ場所からもう一つの

見知らぬ場所へと無造作に放りだすように思えたのだから……。

                        ──金世光(キムセグワン)

     1

そう、そのころ──つまり一九七五年の春。こう言ってよければ、ぼくは確かに地下鉄を手なずけなければならなかった。

ぼくはそのとき十八歳。その春、志望した大学の入試に失敗し、上京して神田の予備校に籍をおいた。そして右も左もわからぬ東京で一人暮らしをはじめたからである。

 雑司が谷(ぞうしがや)に六畳一間とトイレ・台所つきの部屋をかり、そこと予備校の二ヵ所を地下鉄で往復する毎日。最初のひと月は無我夢中のうちにながれさった。

はじめぼくは驚くほど勤勉だった。十八歳の自分にあたえられた現実はただひとつ、受験のラットレース。それ以外はいっさい無関係だ。かたくなにそう思いこんで、高校時代の友人たちとの接触もさけ、黙々と銀色の地下鉄に乗りこんだのを憶いだす。

たぶん猶予(ゆうよ)された者の感じる過剰な慰みの意識が、ぼくの生活を律していたのだろう。世の中の出来事いっさいをこちらのほうから排除して、そのじつ、自分がそれらから排除されていることを忘れる無意識のつじつまあわせ……。ぼくは外界に対して隔壁をめぐらし、一人ぼっちのひそかな充実を感じていたのだ。

ミッキーと出会ったその日も、だからぼくは帰りの地下鉄でせっせと英単語帳を繰り、それが終わって新聞をひろげながら、そこにのった出来事を一種の絵空事のように眺めていたのだと思う。記事がどんなことを伝えていようと、しょせんは自分のあずかり知らぬ他人の〝現実〟ではないか──、とそんなふうにかんがえて。

      *

新聞の一面トップが伝えていたのは〝狼〟たち──つまり、三菱重工ビル爆破をはじめ、十一件にのぼる企業爆破事件をひきおこした犯人グループが逮捕された、という報せだった。反日武装戦線を名のり、虐げられた東アジアの民衆にかわって資本家どものビルに爆弾をしかけた極左テロ集団の男女たちが、大きな顔写真入りでのせられていた。

彼らが何をかんがえ何を実行しようとも、また人々がそれをどのように告発しようとも、ぼくにはいっさい無関係。そう割りきったつもりで記事を読みながら、しかし、ぼくは奇妙な昂ぶりに胸がしめつけられるのを感じた。顔写真の彼らの目には憎悪がむきだしだった。それが彼らを断罪する「爆破集団の歪んだ青春」とか、「強い自己顕示欲」という紋切り型のリードとあいまって、不思議にぼくをそわそわと落着かない気分にさせているのだ。

地下鉄をおりて地上へとむかう階段を上がるときも、この昂ぶりは去らなかった。ぼくは理由がわからず、何だかムキになって勢いよく階段をかけのぼった。──だが、そうやって出口へむかいながら、ぼくはもう自分一人ではおさまらない、他人と共有する〝現実〟に一歩、一歩、近づいていたらしいのだ。階段をのぼりきった刹那、それにぶつかった。

      *

それは一瞬、黒いちいさな影のように視界に入り、勢いよくぼくに突きあたってきた。そして弱々しい緩慢な動作で、びしゃりとアスファルトの鋪道にたたきつけられた。

──大丈夫?けがはない?

あわてて抱きおこしたぼくの腕の中で、ちいさな男の子が毀れたヴァイオリンのようにくずおれていた。

     2

──大丈夫?

夢中になって抱きおこしながら、しかし、こわばった男の子の身体に、ぼくは奇妙な重さを感じていた。どう言ったらいいだろう? ズシリと重いようで、それでいて軽い、不思議に重量のさだまらぬ感じ……。男の子は胸をつよく打ったらしい。息ができずに青ざめている。その子の背中をさすりながら、ぼくはうろたえ気味の視線を周囲にめぐらせた。

鋪道の上には、ぶつかった拍子に、ぼくのポケットからこぼれ落ちたのだろう、小銭があたりいっぱいに散らばっていた。街路樹をすりぬけた午後の陽射しがゆらゆらと路上を漂い、突然、何かに触れたようにピタリととまる。急に世界が、ほくと男の子の何メートル四方かに収縮するような、そんなおかしな感覚におちいりそうになり、ぼくは思わずその子の身体をつよく揺すぶった。

「……お兄ちゃん、苦しいよ。そんなにつよく揺すらないで」

気がつけば男の子が身体をねじって、口をひらいていた。弱々しいが、はっきりとした口調だった。ぼくはホッとしてその子に微笑みかけた。そして、たぶんそのときだったと思う。その男の子が青い目と、彫りの深い顔立ちと、ブロンドにちかい栗色の髪の毛をもっていることに気づいたのは……。

      *

「お砂糖とミルク、おつけしますか?」

五分後、ぼくは男の子の手をひっぱって、近くのハンバーガー・スタンドの中にいた。赤い制服を着た顔じゅう雀斑(そばかす)だらけのウェイトレスからミルクセーキと珈琲を受けとり、二人いっしょに通りに面した明るいテーブル席に腰をおろした。

「お兄ちゃん、ありがとう。ボク、これ好きなんだ」

男の子はすっかり気分がよくなったらしい。ジュルジュルと音をたててストローをつかいながら、彼は母親が日本人で父親がアメリカの兵隊さんであることや、ふだん自分がミッキーと呼ばれていること(本名は美樹夫という名前なのに、母親が好んでそう呼ぶらしい)、つい最近沖縄から引っ越してきたこと、などをちょっぴりうわずった調子でにぎやかにしゃべった。

「で、お兄ちゃんの名前は?」と男の子はぼくに訊いた。

「ぼくか? ぼくは洋一というんだ。洋は太平洋の洋、一は一番の一。だから海で一番つよいっていう意味だぞ」

「ふうん」

「でも、まあ、海で一番つよいのは、たぶんきみのパパたちさ。アメリカの海軍は世界一だからね」

なぜか男の子に対してちょっぴりへつらうような、そんな科白(せりふ)を口にしたとき、だ.が、彼の反応は予期していたものと違っていた。ミッキーは寂しげに首をふったのだ。

「ううん、違うよ。パパはもういないんだ。ベトナムで死んじゃったから……」

ミッキーの頬をウインドーごしの五月の陽光がやわらかく染めていた。ぼくらの席に氾濫するその明るい陽射しのなかで、ミッキーの顔が一瞬輪郭をうしなったように感じられる。きまずい予感のようなものが走って、ぼくは居ずまいを正した。もちろんこの時点では、彼とぼくの間でいったい何が起きようとしているのか、ぼくはまるで理解していなかったのだが……。

     3

翌日、ミッキーは地下鉄の出口でぼくを待っていた。べつに約束していたわけではない。前日、ハンバーガー・スタンドのまえで別れるとき、じゃあまたね、と言っただけだ。ところが、ミッキーは待っていた。それも偶然ばったり出会ったふうをよそおって、コーデュロイの半ズボンに両手をつっこみながら。

「こんにちは、お兄ちゃん」

「ああ、こんにちは」

ぼくの挨拶はけっして上機嫌のそれではなかったはずだ。

「いま帰ってきたの?」

「そうだよ。これからスーパーマーケットに行って買物をして、すぐアパートに帰って、それからお勉強をしなきゃいけないんだ」

「忙しそうだね」

「うん。とびきり忙しいよ」

ミッキーはちょっとうつむいて、しらじらしくありもしない小石を蹴るまねをした。おもむろにあげた顔につい、と懇願(こんがん)の色が浮かんでいる。ぼくはその目つきに少し気弱になった。

「……スーパーについてくるかい?」

      *

スーパーで、ぼくはインスタント食品やティッシュ・ぺーパーを買いこみ、ついでに思いたってミッキーのためにキス・チョコを(かご)に入れて、レジスターのまえに立った。ミッキーは横にぴたりと寄りそって、五千円札を一枚、レジ係に渡すぼくを見ていたはずだ。

レジの女の子は細くてきれいな指をしていた。百回レジに通いつめても出会えずに、百一回目になってはじめてお目にかかれるようなそんな指だ。透明なマニキュアをほどこしたその指先が、ピアノの練習曲でも弾くみたいにリズミカルにキーを打っていた。

ところが滑らかに動いていたその指先が、おつりを返してくれる段になっピクリとふるえた。同時にアッと息を()みこんだ気配もする。ぼくはレジ係の顔を(のぞ)きこんだ。

レジの女の子も大きな瞳でぼくを見返していた。額がちょっと狭いようだけれど、すっきりした目鼻立ちの勝気そうな娘だった。たぶんぼくとおなじくらいの年齢なのだろう。ポニーテイルがぴったり似合う、まだ少女っぽさの残った顔に酷薄そうな笑みが浮かんで、すうっと消えた。

「どうかしましたか?」

訊ねるぼくに彼女はけれど、打消すように首をふり、黙ってレシートとつり銭を押しつけてきた。そしてすばやく後ろに並んでいた客の籠をひきよせると、もうれつな勢いでレジスターを打ちはじめた。ことさらにぼくとミッキーを無視しているみたいなのだ。ぼくはムッとなった。からかわれたような気になり、わけがわからないまま、急きたてられるかっこうでレジを離れねばならなかった。

もっともスーパーマーケットを出ると、レジ係の不作法なんてすぐに忘れた。その日も五月の上天気だったし、街路樹をわたる風には微かに甘い花の香りがこもっていたからだ。ぼくらはのんびりと鋪道を歩いていった。四、五十メートルも行けば通りは三叉(みつまた)になっていて、鋪道から矩形にコンクリートの陸橋がかけわたされているはずだ。

その陸橋のてまえで、ぼくはミッキーと気持ちよく別れようと思っていた。歩きながら、あれこれ彼と別れるための上手な言葉をさがした。しかし、どうやらそんな必要はなかったらしい。

「ちょっと待って!」

ふりかえると、急いであとを追ってきたのだろう、レジの女の子が息を弾ませながら立っていたのだから。

      *

きついまなざしだった。彼女は意味ありげに、ぼくとミッキーを見つめ、尊大に腕を組んだ。

「なぜ呼びとめたか、わかるわね?」

レジでの対応といい、この言葉といい、どうも合点がいかなかった。いぶかしげに首をひねると、彼女の声がいらだった。

「とぼけるのもいい加減にして!」

もっとも、自分でもその声の棘々しさに驚いたらしい。ひと呼吸おいてしゃべりはじめたとき、彼女の語気はずいぶんとやわらいでいた。

「わたしが言いたいのはこれよ……」

ゆっくりとミッキーの腰のあたりを指さした。

見ると、彼のズボンのポケットが両方ともぱんぱんにふくれている。当のミッキーはふて腐れたような、開きなおったような、バツの悪い薄笑いを浮かべていた。ぼくと女の子と二人の目を交互にうかがって、あっさり観念したらしい。次々とポケットの中身をとりだしはじめた。

あっけらかんとしたものだった。チョコレート、オマケつき風船ガム、ペパーミント・ドロップ……。驚いたことに、どうするつもりだったのか、最後には半ダースのゴム製産制用品までがあらわれた。

一瞬、スーパーの裏にある警備員の詰所(つめしょ)かどこかに連れていかれる自分の姿が、ぼくの脳裏をかすめた。よくはわからないが、代金を返済し、調書とか念書とかいったものに住所氏名を書かされ、拇印(ぼいん)を押し、それでも運が悪ければ警察につきだされる、そんな場面だ。

背中をまるめて、かるい絶望にぼくは浸っていた。だから女の子が思いのほか優しい口調で話しはじめていることにも、ほとんど(うわ)の空だった。

「ねえ、ちょっと。聞いてるの」

「え?」

「あのね、霊園の入口よ。知ってるでしょ。そこの道をまっ直ぐ行って左に折れたところ。あそこの(けやき)の木の下にベンチがあるの知ってる?」

「……………」

「知っているの、知らないの?」

女の子は()れていた。

「……たぶん、わかると思うけど」

「そう、じゃあ大丈夫ね。いい、よく聴いてちょうだい。あそこで三十分くらい待っててくれない? わたしいまレジを他の子にたのんで走ってきたから、へんにサボッていると思われるのが癪なの」

「どういうこと?」

女の子は自分の腕時計を、ぼくの目のまえにつきだした。

「ほら、もうすぐ四時でしょう。四時になったらパートの時間が終わるの。急いで着がえていくから待ってて」

「……………」

「何を妙な顔しているのよ。見逃してあげるって言ってるんじゃない」

「でも、どうして? どうして見逃してくれるの?」

こんどは彼女が驚いたみたいだった。

「あら、そんなことわたしだってわからないわ。とにかく万引きのこと知ってるの、わたしだけなんだから。理由? 理由は後からかんがえたっていいじゃない」

女の子はいたずらっぽく笑い、「じゃあね」と言ってくるりと背をむけた。そして、小走りにスーパーのほうへ消えていった。その後ろ姿を目で追いながら、気がつくとぼくはばかげた科白(せりふ)を何度か声にださずに繰返していた。――じゃあね。

     4

 

その夜ぼくは起こった事態について、あきれたり、驚いたりしながら、くどくどとそれを反芻するハメにおちいった。机に頬杖をつき、惰性で予備校のテキストをめくりながらも、まるで勉強は手につかないのだ。

しかたがなくノートに三角関数の問題を書きうつしたりしていたのだが、気がつけば、解を求めるかわりにその三角形の頂点に、ミッキーや茉莉(まり)――それが女の子の名前だった――そしてぼくの文字を書きしるしたりもしているのだった。こんなふうに。

(原作には、ここに正三角形が描かれ、頂点に「ミッキー」底左辺に「ぼく」底右辺に「茉莉」と書いてある。)

何だかばかばかしくなって畳の上にひっくり返り、そのまま寝そべってノートを眺めると、三角形は何やら意味ありげな符丁(ふちょう)であるようにも見える。ぼくはちいさくいらだった。まったく、ミッキーもどうかしているけど茉莉も普通じゃない。でも、それ以上にどうかしているのは、このぼく自身ではないのか?

      *

……そう。はじめはぼくだって、ベンチで辛抱づよくミッキーに言ってきかせていたのだ。

「ねえ、ミッキー、ものを盗むってのは悪いことなんだぞ」

「知ってるよ、それくらい」

ミッキーはベンチのうえで逆立ちをし、上げた両足を背もたれにそろえて聞いていた。ちょうど彼が盗んだチョコレートのエンゼルマークみたいなかっこうだった。

「知ってて、どうして盗んだのかなあ」

「だって、あんなにたくさんあるじゃない」

「あるなしには関係ないさ」

「でも面白いよ」

ミッキーはくるりと前に転がった。ベンチにすわり直すと、そばにおいてあった盗品のチョコレートに手をのばし、アッという間にその箱を開けた。

「お兄ちゃんも食べる?」

冗談じゃない。にんまり笑って彼がさしだした手をふり払おうとしたそのとき、さっともうひとつの違う手がそこにのびていた。

「わたしにもちょうだい」

茉莉がうきうきした顔でぼくらのまえに立っていた。茶色のローファーにダーク・マドラスのミニスカート、オックスフォードのボタンダウン・シャツ。首にはアスコットタイのアクセント。スーパーマーケットのお仕着せを脱いだ彼女は、ひどく雰囲気が違ってみえた。

「見違えるね」

「何が?」

「かっこうが、さ」

「子供っぽい? いつもはこんなんじゃないのよ。でも、あのアルバイトじゃ踵の高い靴ははけないし、結局こんななのよね」

ちょっとすわるわよ、とベンチにミッキーをはさんで腰かけ、彼女は肩からさげたバッグの鰐口を開けた。黙ってみていると煙草と臙脂色のライターをとりだして火を点ける。ひどく手慣れた感じだった。

「喫う?」

ぼくのほうに煙草をさしだした。首をふると、そう、と言って脚をくむ。しばらく間をおいてから身体をひねってぼくを見つめ、きりだした。

「ねえ、この子とはどういう関係なの?」

      *

話をしていくうち、当然ながら、ちょっとした誤解が働いていることが判明した。

「あなたがこの子を(そそのか)したんでしょう? でなかったら、コレ、なあに

――と、茉莉は人さし指と親指でコンドームの箱をつまみあげ、ぼくの鼻先でゆらゆらさせたのだから。

そうしながら彼女は大きな黒目がちの瞳でぼくを見すえた。なんとも逃れがたい視線だった。軽蔑されることがわかっていながら不思議と()らすことができないまなざし……。以後、幾度か出会わねばならなくなった、あのまなざしのはじまりだった。

ひるみはしたものの、ぼくだってのっけから彼女に威圧されてしまったのではない。誤解をとこうといろいろ試みもしたのだ。だが彼女はいったんそうと思いこんだことはなかなか撤回したがらない性質(たち)、しかも間違いだとわかればわかるほど、それに固執するタイプであるらしかった。いくら抗弁しても、ふんふんと頷いたふりをして、結局ますます思いこみは募っていくようなのだ。

話をはじめて二十分かそこらはたっていたと思う。ぼくはついにあきらめた。というより、なりゆきにまかせて話がさらに極端になっていくのを、止めようとはしなくなった。恥知らずといわれてもしかたがない。ふと気がつくとぼくは、彼女の思いこみに計算ずくで加担しはじめてもいたのだから……。

茉莉が興味をしめしたのは、ぼく自身がそうかんがえているぼくではない。それはハッキリしていた。地下鉄に乗って予備校とアパートを往復するぼくは、何者でもないからだ。あの〝狼〟 たちや彼らの憎悪する社会にとって、ぼくが何者でもなかったように、彼女にとってもぼくは何者でもない。茉莉がそう認め、なんらかの興味をそそられたのは、青い目をした子供を(あお)ってゴム製品を盗ませるぼく。ちょいと堕落した、小児病のワルの、ぼくなのだ。

しかし、そんな他愛のない誤解と、そこから出発した歯車の噛みあわない会話をぼくは(たの)しみはじめていた。そう、自分さえその気になれば、事態はがぜん現実味を帯びてくるのではないか? かるい麻痺のような快感がはしり、ぼくは求められた役割を演じつづけ、気がつけば、その役割が自分自身とすり替ってしまう心地良さを味わっているのだ。

いっぽう茉莉はそんなぼくに、架空ではない生身の魅力を発散しはじめていた。もちろん彼女も生地(きじ)の自分とは違った彼女自身を演出させられていたのかも知れない。だが、たとえそうだったとして、事実はどう変わるというのだろう? いずれにせよぼくらがはまりこんだ認知ゲームの中で、彼女はちょっと蓮っぱな同い年の専門学校生。いっしょに連れだって街を歩きたくなるような、そんな悪くはない女そのものじゃないか。

ぼくは事実から大はばに逸脱しない程度に話をでっちあげていった。まず、前日聞いたミッキーの身の上話にほんの少し尾ヒレをつけてみる。

彼の父親はアメリカの海兵隊員(?)で、ベトナムでLSTに乗っていて名誉の戦死をとげたこと。父親の死後、東京に出てきた母親がけなげにも女手ひとつでミッキーを育てていること。また小学校三年のミッキーは、青い目と栗色の髪の毛のおかげでクラスの仲間からつまはじきにされていること。それでときどき学校をサボッて、登校拒否児童の烙印を押されかけているけれど、ほんとうは父親のような誇りたかい海の戦士になろうと夢みる純粋な子であること、等々……。

(ところで、これらは驚いたことに、後でミッキーの母親と会ったとき最初に彼女から聞かされることになった身の上話と、ほとんどおなじだった)

      *

話をしながらしかし、ぼくはしきりに子供時代からのひとりの友だちを思い出していた。

金世光(キムセグアン)という一歳年上の在日朝鮮人だ。彼の父親は強い信念をいだいた北朝鮮系の人間で、彼を中学の途中から、ぼくらの故郷の町から遠くはなれた寄宿舎のある朝鮮初中級学校へ通わせた。以後、夏や冬の長い休みにしか会うことはなくなったが、それでもぼくは彼を非常に親しい友だちとみなしていたし、たぶん彼のほうも同様だと思う。

小学校低学年のとき産休教員として彼を受けもったぼくの母親が、とびぬけて成績優秀だった金とぼくとのつきあいを喜んだことが、幼い二人が親しくなる大きな理由のひとつだった。だが、ときにはぼく自身もそれにくわわって《チョーセン、チョーセン》と(はや)したてる悪童たちの世界で、ある種の感情は自己増殖する。ぼくは子供心に彼がしめす朝鮮人としての誇りといったものを感じとり、いつしかその毅然とした態度に魅了されていった。

そしてあの、もともと骨太で大柄だった金がときおり見せた早熟な一面。ぼくは常に彼の手びきで、ぼくの周りから巧妙にとりあげられ、遮蔽されていた世界にはいりこんでいったのだった。

例えば学校の便所でこっそり見せてくれた全裸の男女がからみあったモノクロの写真や、彼の同胞で町の乱暴者として知られていた若者のバスガールとの強姦まがいの情事の話。金はそれらを屈折した誇らしさでぼくに耳打ちした。

「日本人の娘のあそこにコーラの瓶をつっこんだんだぞ……」

子供っぽい興奮と、あるべき正義に対する困惑が、いくぶん投げやりな言葉となって響いた。それが思い出と呼ばれるあのざわめき、悲しげで懐かしいざわめきとなって、ぼくの耳に今でも残っているのだ。

      *

とにかく茉莉にむかって話し進むにつれ、ぼくは金を思い出し、知らず知らずに金の男らしい性格をミッキーに付与していった(なぜそうしたのかはわからない。たんなる気まぐれというか、そのときにはちょっと気が利いていると感じられた思いつきだった)。

話に聴きいり、ときには合槌までうつ茉莉に、いきおいぼくはミッキーの保護者然とした立場をとることになった。そして(ぼくが教唆したはずの)彼の万引きを正当化しようとやっきになり、意味もわからずに、どこかで聞きかじったことのあるブルードンの「財産は窃盗である」という言葉をもちだしたりまでした。

だが、そんなぼくに茉莉はやわらかな微笑を返し、ゆっくりと首をよこにふった。

「いいのよ、そんなこと。要は盗むのが面白いってことでしょう」

何本目かの煙草に火を点け、彼女は落着いて言った。

「わたしにむかって、そんなこと言わなくってもいいわ」

平然とした彼女の顔つきを眺めやって、かるいショックを受けた。茉莉は物事を割りきっている。それもぼくよりも数等スッキリと……。はじめから気づくべきだったのだ。でなかったら、あのとき見逃しなんてするわけもない。苦笑いしてミッキーに目をやった。

ところが彼は彼で、二人の会話に耳を貸してなんかいなかったらしい。ミッキーはまた一人で、ちょいとした 〝遊び〟 を遊びはじめていたのだ。茉莉があわてて黄色い声をあげた。

「ちょっと、やめさせてよぉー」

ミッキーはコンドームを開いて、それを風船がわりに膨らませていた。ゼリーのついたピンク色のゴムが、誰かを(あさけ)ったようにむくむくと大きくなる。ぼくの手がひったくる寸前、それはシューッと虚ろな音をたててしぼんでいった。

      *

……ぼくは溜息をつき、わけのわからぬ三角形を描いたノートから目をそむけた。机の脇においたカラー・ボックスの上にミッキーからとりあげたコンドームが転がっている。その箱を手にとって、舌打ちしながら印刷された文字を眺めた。

《明るいお二人の家族計画》

まったく、とんでもない約束をしてしまったものだと思う。そりゃあ確かに日曜日の池袋は、――とくに駅前のテパートは混雑しているに決まっている。茉莉の言うように三人がその人混みの中に紛れれば、気づかれる心配なんてほとんどないのかもしれない。しかし裏返せば、その混雑だけが味方ではないのか?

ぼくはふたたび、大きな溜息をついた。結局はぼくと茉莉の落着きぐあいにかかっているのだ。ミッキーには決行前にもう一度、噛んで含めるように言ってきかせねばならないだろう……。

霊園のベンチで仲間(?)にくわわった茉莉と、あれから三人で打ち合わせたのは、どうやったらデパート店員の死角をつくことができるか、ということだった。

――まず、茉莉がミッキーを連れてめざすモノのところへゆっくりと歩いてゆく。ぼくは反対側から紙袋をさげてやってくる。すれ違いざま、ミッキーが二人の影に入ったとき、彼がすばやく盗品を紙袋に入れる。バスケットボールのプレイからかんがえついたものだったが、何だかあまりにも稚拙な気がした。しかし、そんなことはない。単純な手口ほど案外わからないものだ、と茉莉が自信たっぷりに断言した。

「それに、紙袋はデパートのじゃなくって、違ったお店のものがいいわね。いっけん関係なさそうなところで、さりげなく()るってわけ」

言っていることがよくわからなかったが、結局、おなじ駅前の有名な男性専門店の紙袋をもち歩くことになった。

「万が一、現場を押さえられたらどうしょう?」

「決まっているじゃない。シラをきるのよ」

ぼくと二人は見知らぬ他人で、ミッキーが悪戯(いたずら)をして、たまたまぼくの紙袋に商品を放りこんだというわけだ。そのためにも盗品は極力、ぼくが使いそうもないモノにすること。

深呼吸して目を(つむ)った。かんがえたところでどう事態が変わるわけでもない。くよくよ思いわずらわずにもう寝てしまおう。そうかんがえてのろのろと立ちあがり、向かいのアパートの女子学生が住む部屋のあかりを眺めながら歯をみがいた。パジャマに着がえ、目覚し時計をセットして布団にもぐりこむとき、窓の外でさかりのついた猫の鳴き声がしていた……。

     5

ところがぼくらは成功した。――それまでの心配がウソのような、うんざりするほどの大成功だった。

思惑どおり、あまりにも素朴な手口がかえって功を奏したのかもしれない。また純然たるツキもあったろう。しかし、なんといってもモノをいったのはミッキーの大胆さだった。

「この子、ちょっとした天才よお」

打ち合わせどおり東口のデパートの五階からはじめて、一階まで計五回。まったくおなじ要領でことを済ませたあと、三人で入った喫茶店の扉のまえで、茉莉が頬を紅潮させて口走った。

「ああ、ほんとにたいしたもんだよ」

合槌をうったものの、ぼくはといえば、正直、やっと終わったという安堵のほうがつよかった。だが、喫茶店のテーブルにひろげられた現物を見たとき、ぼくは驚きを通りこして困惑した。

たかをくくっていたのだ。なあに、子供のことだ、テープを貼ったそれほど大きくない紙袋の隙間に、ほんのワンチャンスで滑りこませる品物はどうせたいしたシロモノじゃあない。そんな判断から、ぼくはとにかく店員に怪しまれないことに腐心していた。

だから前方をしっかり見つめ、その場でミッキーが何を紙袋に入れたのか、いちいち確かめることなど念頭になかったのだ。決定的に見当はずれだったと思う。ぼくは高価なモノほど、案外かさばらないということを忘れていた。

女物の外国製高級腕時計、有名ブランドのネッカチーフ、いかにも職業作家が使いそうな太い万年筆、輪島塗りの夫婦(めおと)箸、そして本物そっくりのオモチャのデリンジャー。かるく見積っても十万円をゆうに超える金額だった。人ひとりの一ヵ月分の生活費以上じゃないか?

ウェイターの目を気にして、そそくさとブツをショルダーバッグにしまいこむぼくと茉莉を見ながら、ミッキーが不安げな口振りでつぶやいた。

「なるべくさ、高そうなモノと思ってさ……それに、三人に不公平にならないように、選ぶのに気をつかったんだよ」

あらためてミッキーの顔をまじまじと見つめた。どうやらミッキーが心配しているのは、ただただ、彼の行為が、ぼくらに気に入られたかどうか、ということらしいのだ。たしなめるぼくの言葉に力はほとんどなかった。

「だめだぞ、こんな高価なモノを盗っちゃあ」

「うん、これからはね」

「そうね。これからはもう少し趣味的なモノがいいわね」

ねえ、そうでしょう? と見つめる茉莉の瞳に気おされ、頷くともなく頷いた。なんのことはない、ぼくらはしでかしてしまった事実の驚きをとり繕うために、またぞろ新たなスリルを準備しはじめているのではないか……?

ご褒美のつもりか、茉莉がたのんだストロベリー・クリームソーダのお替りをミッキーがすますと、ぼくらは喫茶店を出て日曜日の池袋を散歩しに行った。街は歩行者天国で、暖かな陽射しが気持ちよかった。清涼飲料水の会社がロゴマーク入りの赤いヴァンを止めてパラソルを開き、その周りで男女の私服の高校生たちが連れだってラッパ飲みをしていた。誰がもちよったのか、彼らの足元にはカセット・デッキがおいてあって、そこから古いロックンロールがながれている。

映画や買物帰りの親子連れと何度もすれ違った。子供をからかう父親の朗かな声。黙って歩いているにもかかわらず、その足どりやいまにも(こぼ)れそうな微笑みで、周りの空気が華やいでみえるカップルたち。

ぼくらはそれらの人々の間を縫うように、しばらく無言で歩いていった。ミッキーはぼくら二人としっかり手をつなぎ、ぶらぶらと大股のスキップをしたりしている。茉莉がそんなご機嫌なミッキーに訊ねた。

「ねえ、どこに行きたい? キミはもうクりームソーダを飲んじゃったし、ゲームセンターでゲームでもしようか? お姉ちゃんはライフル・ゲームが得意なのよ」

優しく問いかける茉莉に、ミッキーはすっかり有頂天だった。「ほんと? どこでもいいの? ほんとにどこへでも連れてってくれる?」

「ああ、いいさ。好きなところを言いなよ」

ぼくと茉莉は片目を(つむ)って合図をかわした。

「じゃあね、西口のデパートの屋上へ連れていって」

「デパートの屋上?」

「うん。あそこならメリー・ゴーラウンドもあるし、鬼にね、鬼にボールを、ぶつけて、そいつを泣かせることもできるんだ。お兄ちゃんたちゲームが面白いんだったらそれをしなよ。ポクは海を見るから」

「海?」

「うん、海だよ」

頬をほんのりとあからめた。

      *

なるほど、確かに屋上からは海が見えた。もっともそれは頭上いっぱいにひろがる大きな海。じつに清潔で、吸いこまれてしまいそうな青空なのだった。――子供っぽい思いつきと言ってしまえばそれまでだ。だが、その気になってみればメリー・ゴーラウンドの賑やかなメロディが透明な大気の中に波紋のようにひろがり、万国旗でかざられた屋上の遊園地が満艦飾の船の甲板と思われなくもない。

苦笑し、手摺りの金具を握りしめながら、束の間、澄んだ空の(あい)に染まりそうな途惑いをぼくは覚えていた。ミッキーに訊ねる茉莉の言葉が、遠くから吹いてくる風の囁きのように聞こえる。

「ふうん……。キミって洒落(しゃれ)てるわね。いっからなの? 空を海にみたてるようになったのは」

「いつからって、引っ越してきて、海が見えなくなってからずうっとだよ」

ミッキーの声がどこか心細げだった。

「笑わないでね。学校でね、クラスの子たちに言ったら、アイツら、ボクをばかじゃないかって……」

ボールをぶつけられた鬼が〝ぐわぁぁん〟と悲しげな声をだして泣いた。

「あら、笑わないわよ。素敵じゃない。空が海に見えるなんて」

しかしぼくはなぜか、茉莉のそんな理由(わけ)知りな言葉にいやらしい甘ったるさを感じた。彼女じゃなくって、かわりにぼくが答えていたとしても、たぶんおなじことを言ったに違いない。だからなおさら、その甘ったるさが気にかかった。黙って巣鴨プリズン跡地に建設中の超高層ビルに目をやった。赤茶けた巨大な鉄骨の群れが空につきだし、オモチャの積木でも重ねるように、ゆるゆるとクレーンが動いている。

ぼくは何かを確かめるように、もういちど頭上を仰いだ。そして仰ぎながら、しだいにわけもなく苛立ってくる自分を感じた。頭上にひろがっているのは、ただ青い空だった。なんの変哲もない、ただの青空。

ふいに、空を海だなどと言いはるミッキーも、それに感心したふりをするぼくらも、いやらしいニセモノじゃないか、と思った。よくはわからないまま言葉でいいくるめたウソの風景を生きている、いやらしいニセモノ。――視線をふたたひ地上におとそうとしたとき、茉莉と目があった。慎ましい猥雑さをはじめて彼女に感じた。

     6

《拝啓 金くん、お元気でしょうか?

もうご存知かもしれませんが、ぼくは今春みごとに大学に落っこちました。去年の夏に会ったとき、あなたはいかにも大学生然とした議論を吹きかけ、ぼくを困らせたり驚かせたりしながら、それでもちょっぴりぼくの受験勉強へのとり組みがあまいことに不満そうでしたね。身からでた錆というか、あなたの不安が的中しました。三月の末に上京し、今は豊島区のアパートで一人暮らしをしながら予備校に通っています》

こんな文面ではじまる手紙を金世光にしたためたのは、その日の夜半。ミッキーや茉莉と別れ、一人になっても、まだ心のどこかで万引きの興奮が尾をひいていて、なかなか寝つかれそうにもない枕元でだった。

なぜ急に金にむかって手紙を書こうなどと思ったのか? 理由はじつをいえば、自分でもよくわからなかった。例えば久しぶりに彼に会いたいとか、そんなことだったならば、都下の小平にある朝鮮大学校寮に住む金には、電話一本で用件はこと足りたはずだった(どうかすると、ほくは田舎の家族との連絡も、近くにある公衆電話で済ますくらいの筆不精なのだから、何か彼に用件があってのことならば、きっと電話を使っただろう)。それがなぜかその夜は、金にむかってさしたる意味もない手紙をえんえんと書いたのだった。

ひょっとすると、ぼくは、そんないかにもとりとめのない行為にふけることによって、その日、ぼく自身に起こったあれこれについて納得したり、反省したり、あるいは見て見ぬふりをして忘れようと思っていたのかも知れない。

ときどき何の脈絡もなく脳裏に(よみがえ)ってくるあのデパートの屋上から見た青空のイメージにいらいらさせられながら、ぼくは大げさにひとりごちた。

《……おい、洋一。オマエ、ほんとに大丈夫か?》

かんがえてみれば東京で一人暮らしをはじめて以来、ぼくは金ばかりか高校の同級生たちとも会うことを避けて、ひたすら孤独な受験生活に徹していたのだ。猶予され、待機させられた自分を卑下せずに、精一杯気をひきたてる勤勉な毎日を過ごしてきたはずなのだ。それが何のことはない。気がつけば、ちいさな子供をはさんで同い年の女の子といっしょに万引きごっこをしているとは。

しかし、ぼくはともかく、文面にはそんなことなどおくびにもださずに金への手紙を書き続けた。書きながら執拗に甦ってくる青空のイメージに、いい加減うんざりさせられながらも……。

      *

だが、結果的にその日みた青空は、ぼくと茉莉、そしてミッキーがかたちづくった三角形の、いちずに牧歌的な形象だったのだ。というのも、ぼくらの行為はその日以降、ひいき目にも牧歌的とは呼べないものに変わっていったし、そうした逸脱は時を経るにしたがい、(なく)したものを奪い返そうとするような熱っぽさをくわえていったのだから。

     7

〝梅雨入り宣言〟がでる何日かまえだった。最初の万引きから一週間たった日曜日、ぼくらはあらたな盗みを働いた。

こんどは茉莉の提案で、銘柄のちがう石鹸を一個ずつ集めるという、いわば趣味(?)のコレクションだった。この場合、盗む場所が限定されていて、いちどに大量のブツを取捨選択しなければならぬ煩わしさをのぞけば、幸運の女神に加護を祈る必要などどこにもなかった。ミッキーの腕としだいにぴったり合ってきたぼくと茉莉との呼吸からすれば、まず大丈夫。――ぼくらはすでに充分大胆に、図々しくなっていた。

      *

「アラッ、だめよ。そんなにハシャいだらだめだってばぁ……」

万引きはタオルやバス用品、ドライフラワーや輸入香料、入浴剤、それにめざす各種石鹸などをとりそろえたフロアでの、茉莉のこんな黄色い叱り声ではじまった。

ミッキーが興奮してデパートのフロアをはしり回るがきんこの役割を演じて、商品の間をちょこまかとかけぬける。そして勢いあまってちょうど通りかかったぼくと衝突する。ひっくり返ったところが、石鹸のコーナーとは目と鼻の先の、入浴剤とか香料が見映えよく重ねられ、並べられた場所。

もうおわかりだろう? ひつくり返ったついでにミッキーは、きれいに積みあげられたそれらの商品をバラバラにくずして泣きわめき、ぼくのほうもぶつかった拍子をよそおってタオルやシャンプーののったワゴンをひつくり返す、という段取りだ。

あわてて近くの、石鹸やバス用品コーナーから店員が集まったとき、茉莉がやおらかけつけてミッキーを叱りつけ、ぼくや店員に平謝りに謝って、いそいで商品を元にもどすお手伝をする。かくして、ぼくもいっしょに上気した顔で女店員にスミマセン……、などと話しかけながら商品を陳列しなおしている間、――ミッキーが誰もいない石鹸コーナーで悠々と彼の背負ったリュックの中にブツをちょうだいするという寸法だ。

      *

ことほどさように他愛ない陽動作戦で、ばかみたいにかんたんに二ダースほどの石鹸を盗みおわり、その日はそのまま、もう堂々と三人で、デパートと地下鉄を連絡する階段をぼくらは下りていった。下りながら、いち早く外の騒ぎに気づいたのは、だから神経を張りつめていたからではなく、逆に余裕たっぷりだったからだ。

デパートの外で何やらかまびすしく人々が集まりはじめ、サイレンの唸りらしきものが近づきはじめているようだった。

「なあに、あの音。消防車?」

「火事かな」

「近いわね。どこかしら?」

とにかく見よう、ということになった。ぼくと茉莉は鼻の頭にシワをよせてそわそわしはじめたミッキーの腕をひっぱり、かけ足で階段をのぼっていった。

      *

たぶん五階か六階なのだと思う。斜す向かいのデパートのフロアから黒煙がたちのぼっていた。後からニュースで知ったところによれば火の回りはそれほど早くなく、五人にも満たない軽傷者がでただけの、百貨店としては比較的小規模な火災であったらしい。とはいえ、実際にその場でたちあった火事にはテレビや新聞の報道とは違うナマの迫力があった。

唸りをあげて到着する散水車や梯子(はしご)車。一瞬の遅れもなく持ち場について、きびきびと掛け声をかけ合い、次々とホースをひろげてゆく熟練した消防士たち。くわえて整理に駆られる警官たちを無視して、ごったがえす野次馬の群れ。

人の出が多いと思ってはいたものの、これほどの数がいったいどこにかくれていたのかと驚くほどの黒山の人だかりだ。それも、われがちに少しでも良い見物場所を得ようと殺到するのだから、まごまごしていたらミッキーや茉莉とだって離ればなれになってしまいそうだった。

「おじちゃん。全然見えないよぉ。おじちゃんの頭ばっかじゃん!」

少し離れたところで茉莉と手をつなぎあっていたミッキーが、まえをふさいだ一人にむかって悔しそうに訴えていた。少し頭髪の薄くなった四十がらみの男の人が、ふりむいて人の好さそうな声をだした。

「おぉ、そうか。ゴメンなぁ、坊や。どれ、おじさんが肩車してあげよう。乗りな」

茉莉が澄まして、スミマセンと声をかけると、いや、なぁに、などと事もなげな返事をして、男はミッキーを担ぎあげた。

「すごいや」

はしゃいだ声をだすミッキーに、

「そうか、よく見えるか」

子供といっしょになって喜んでいる。

ぼくと茉莉は、この突然の好人物の出現に思わず顔を見合わせた。

おりからデパートのウィンドーをつき抜けて焔がいきおいよくとびだし、野次馬たちの間にどよめきがひろがっていた。どこかで煙にまかれた人間が飛び下りた、という声までする。もっとしっかり見ようと目を凝らしたとき――。

「な、なんだあ?」

中年の肩車おじさんが狼狽した声をあげた。

とっさに、ミッキーが何かしでかしたと思った。無我夢中で男からミッキーをひったくり、品物みたいにかかえて、なぜだかわからないけれど、ウォーッとひと声、ぼくは叫んだ。叫びながら一目散に逃げだした。茉莉がすばやく後に続く。

茉莉もぼくもジーンズにスニーカーというおあつらえ向きのかっこうだったし、ついさっきまで多すぎると思っていた人々の数がうまい具合に味方した。二百メートルくらいも走ったろうか? 地下街の隅にある凹型になった場所に逃げこんで、どうやら大丈夫と判断した。三人でホッとしてしゃがみこむ。

「ねえ、いったい何をしたの?」

息を弾ませながら訊く茉莉に、ミッキーはバツの悪そうな表情を返した。これ……、と自分の腰のあたりに視線をおとす。薄いグリーンの綿パンがみごとに地図状の染みをつくっていた。

「やだぁ、ミッキー、おもらししちゃったの?」

吹き出したぼくらにミッキーはそっぽを向いた。そして歯をくいしばり、地下街の出口に開いた明るみをちょっぴり悲しげに見つめた。

      *

ミッキーの汚れた服をとり替えるため、ぼくらははじめて彼の住んでいるアパートを訪ねた。「ママは今いないよ」という彼の言葉を信じたのだ。女子大をはさんで〝目白通り〟とぶつかる〝不忍(しのばず)通り〟を、少し雑司が谷霊園よりに中に入った、最近建ったばかりといった感じの二階建てハウス。――その二階の南端、『与那嶺』と表札のかかったドアを、ミッキーは自分がもっていた鍵をつかって開けた。中は意外とゆったりした2DKで、半ば想い描いていたのとは違って、埃ひとつないほどきちんと整理されていた。池袋の社交クラブのホステスだと聞いていたミッキーの母親への先入観と、これまでの彼の挙動から、ぼくはケバケバしい衣装とか、その他さまざまな小道具と結びついた自堕落な生活を予想していたのだ。

けれど、部屋の中には簡素と清潔が住まっていた。装飾らしい装飾といえば、それほど値がはるとは思われないサイドボードと、その上におかれた陶製のブタとも犬ともつかない置き物(いやだなぁ、それ〝獅子<シーサー>〟だよ、とミッキーは言った。どうやら沖縄特有の魔よけの焼き物らしい)。それに、やはりサイドボードの上で額に収まっているセピア色に変色しかかった写真くらい。茉莉がミッキーを着がえさせている間、ぼくはその写真を手にとって眺めた。

写っていたのは、ビンロウジュ(?)の木の下で白人の大男がはっとするほど若く美しい女の腰に腕をまわしている姿だった。ガムでも噛んでいるのか、クルーカツトの男は陽気に白い歯をのぞかせている。男にくらべて女のほうにはどこか繊細な(かげ)があった。こちらのたんなる思いこみか、あるいは撮ったときの光線の加減にすぎないのかも知れない。だがその翳がミッキーの母親らしい女性の、かたちのよい姿をさらに印象づけているのは確かだった。ミッキーの顔立ちはどちらかといえば母親似だろうか?

「やめてよ、お姉ちゃん!」

そのミッキーのとり乱した声が聞こえてきたのは、写真を元あった位置にかえした直後だった。

「あら、いいじゃない。ねえ、ねえ、洋ちゃん、ちょっとコレ見てよ」

何をまたふざけているんだろう? おっとり刀で襖をあけて驚いた。下半身を裸にされたミッキーが、今にも泣きださんばかりになって屈辱に耐えていたのだ。

「オイ、やめろよ!」

だが茉莉の指はとまらなかった。茉莉はこともあろうにミッキーの陰茎(ペニス)をつまみあげ、包皮を剥こうとしているのだ。赤桃色の幼い亀頭が露出すると、彼女はちょっと(しゃが)れた声をだしてつぶやいた。

「……口紅みたいね」

目をそむけようとするぼくを、彼女のあの濡れたように大きな瞳が、じっと見すえていた。どこか挑戦的で、それでいてたじろいだようなまなざし。

その夜、ぼくははじめて茉莉と寝た。

     8

 

数日後、東京は梅雨にはいった。

ぼくはその湿った大気のなかで眠るように失墜しはじめていた。目には見えなくてもすべてがゆっくりと変わってゆくのだ。週に一度、定期的に繰返される万引き――ぼくらはそれをピクニックと呼んだ――は、しだいに快楽とか気晴しといった性格を失っていった。それらはただ三人の絆を確認するだけの儀式に変質しはじめたらしいのだ。ぼくらは敬虔なカトリック教徒が礼拝にはげむように日曜の聖務にはげんだが、しかし、アパートの押入れの中に増えていく盗品は、ひそかに育ち、はみだし、溢れかえるまで、その本性を(あらわ)そうとはしないようだった。

ぼくと茉莉は会うたびごとに、えんえんと息をいれて行なうエアロビック体操のような性交を繰返した。そうすることによって、知らずにお互いの中に宿った本能的な畏れを相殺(そうさい)していたのかもしれない。ときに強く、ときに弱く、窓ガラスを打つ雨の音を、ぼくと彼女は、二人の運命的な恋の抑揚と錯覚した。そしてそのじつ、梅雨のやわらかな雨が、ぼくらの内側で(くすぶ)りはじめた火種を鎮静していることに気づかなかった。

      *

そんなある日、茉莉がカセット・レコーダーを、ぼくの部屋にもちこみ、モーツァルトをながした。

「悪趣味かしら?」

ブラジャーのホックをはずしながら、大真面目で彼女が訊いたのを憶えている。

閉めきった部屋は生暖かく蒸していた。ぼくらは裸になってじゃれあい、カール・べーム指揮・ケッヘル五五〇番と五五一番の交響曲が入ったそのテープが終わるころ、ようやく疲れて、汗で湿ったシーツの上に横たわる。天井の染みを見つめるぼくに、茉莉が火のついた煙草をくわえさせる。閉じこめられた木枠の窓辺で、一匹のアブが翅音をたてていた。人生の細部をアブが見ている。そんな錯覚に捉われた。ぼくらがこんなふうに同盟を結んだことに、アブも当惑しているのではないのか……?

      *

ところでぼくは、まだ受験勉強を忘れたわけではなかった。ミッキーは相変わらずあまり学校に行きたがらないようだったが、ぼくはちゃっかりと予備校に通っていた。むろん予復習は怠りがちになっていた。けれど、成績は落ちこむどころか、少しずつ上がりはじめているのだ。――ぼくは驚き、なにか自分がひどく不当な扱いを受けているような気持ちになった。

      *

ミッキーと茉莉はときどき、予備校からの帰りを地下鉄駅出口の、通りをへだてた反対側の鋪道で待っていた。ぼくがコンクリートの陸橋を上がりはじめると、二人はそれを確かめておなじ陸橋を上がりだし、反対側からやってくるぼくと橋のまん中で出会った。誰が言いだしたわけでもないこの出会いの形式は、ひどく、ぼくらの気分にあっていた。そうやってミッキーをはさんで三人、雑司が谷霊園や護国寺墓地のほうへと、小雨のなかを散歩にでかけた。

途中、ミッキーはよく口笛を吹いていた。ぼくが教えてやった『ザ・ロンゲスト・デイ』だ。そして、しょっちゅう、ベトナム戦争の話を聞かせてくれとせがんだ。ぼくはディエン・ビエン・フーの陥落から、米軍の介入、北爆、さらにはベトナミゼーションヘといたる過程を、時間も事実もデタラメなまま、アメリカの聖なる戦いとして脚色してやった(じっさい、ぼくは正しいベトナムの歴史など知らなかったのだ)。御伽噺(おとぎばなし)の主役はもちろんミッキーの父親。彼はテレビ映画『コンバット』のサンダース軍曹さながら、めつぽう強く、たのもしい存在として繰返したち現われるのだった。

 そんなふうにして徐々にぼくは、ミッキーに見当違いな兵士の子供としての誇りを植えつけていった。けれどそれは意図的というより、自分自身にとって戦争が絵空事であり、テレビのニュースや戦争映画によって消費される一種の娯楽(?)である、という気分に由来していた。だから話がどうエスカレートしたのか、ミッキーが、大きくなったら海上自衛隊にはいる、と言いだしたときには面くらった。

「海上自衛隊だなんて、おまえ、いったい誰に教わったんだ?」

「お姉ちゃんだよ、茉莉お姉ちゃんの弟がはいっているんだって」

あとで茉莉に確認すると、彼女はケロリとして答えた。

「ばかねえ。本気にしたの? わたしは一人っ子よ。弟なんていないわ。あなたがデタラメな戦争ごっこの話をするみたいに、わたしもちょっぴりつくってみたんじゃない」

      *

いずれにしろ、そうやって各自、ぼくらは雨の中の散歩を愉しんだのだ。言葉がでないときには周囲の風景ひとつひとつがしっとりとぼくらを包みこみ、ぼくらがつくりあげた三角形の現実と何の齟齬もなく親和するように思われた。

たとえば護国寺の石段を上ってゆく足音のしめやかな響きや、いっせいに舞いあがるハトの群れ。靄の中から浮かびあがる雨傘の色。墓石のかげで抱きあい、じっとキスをする男女の高校生の姿……。それらすべてがわけもなく新鮮に映り、ぼくと茉莉はミッキーの手を握りしめてうっとりと眺め入った。

そして匂い。雨が降っていない日も墓石は甘く湿った雨の匂いがした。黒土をおおう苔がつよい緑で御影石の白と対立し、霊園のどこかで、誰かが練習して吹くトランペットの音が、初夏を葬送するかのように鈍くゆるやかに響いてくるのだ。

こうしてぼくらは(つか)の間の、水の季節の安息(やすら)ぎを惜しんだ。決定的な失墜は夏にもち越された。

     9

夏期の休暇に先だって、茉莉はその間の喫茶店でのアルバイトをきめていた。池袋の東口にある『ポピイ』という寂しげな名前の店だった。両親が離婚し、現在はそれぞれが違う配偶者とともに別々の家庭を営んでいるというそんな複雑な家庭環境にあるらしい彼女は、ふだんも半ば親から独立した生計をたてていたから、これはまあ、当然のなりゆきといえた。だが、当然ではないことがひとつ起こった。つまりぼくも、予備校の夏期講習と重なる二週間ほど、夜のアルバイトをすることになったからだ。

潤沢とはいえないまでも、月々きちょうめんにふりこまれる親からの仕送りをかんがえればまったく不要なアルバイトだった。しかし、ぼくはそれをあえてする気になった。なぜならそれは、ぼくと茉莉を結びつけたマスコットにして、幼いヒーロー〝ミッキー〟の母親からの依頼だったのだから。

      *

「へえ一、お()ばれ、ってわけね」

茉莉はちょっぴり鼻にかかった声をだしてミッキーに確かめている。

「うん。ママがね、いつも遊んでもらっているお礼に、おウチに来てもらって、いっしょにお食事しましょうって」

ぼくと茉莉は、根ほり葉ほりミッキーに訊ね、確認し、細部をつめていった。食事の日取りについてではない。以前から固く口止めしてあったが、万引き仲間としてひき合わされてはたまったものじゃないからだ。ミッキーの話やこれまでの三人の行動いっさいを考慮して、まずまず、母親と会うことに問題はなさそうだと結論をくだした。

ぼくは紺のチノ・パンツにマドラスチェックの半袖。茉莉は薄茶色のキュロットにウェスタン調の刺繍がはいった半袖ダンガリー・シャツ。鏡をのぞいてにっこり頷いた。あとはお揃いのスリップ・オンをはいて嫌味ったらしいほどご清潔なカップルの出来上がり。ぼくらは舌をだして、かって知ったる〝不忍通り〟奥のアパートヘとでかけていった。

ミッキーの母親がさりげなく、彼女の働いている社交クラブの照明係の話をもちだしたのは、ちょうどその席。これが沖縄風だというパイナップルソースがたっぷりかかったステーキを御馳走になり、打ちとけた雰囲気で会話が弾みはじめたころだった。

      *

「もちろん無理だったらいいのよ。きっとお勉強で大変でしょうし」

ミッキーの母親は初対面のぼくに対していくぶん遠慮がちに、距離をさぐるような口調で訊ねてきた。

「それほど大変ってわけじゃないんですが、でも……」と、ぼくは歯切れの悪い返事をしてかたわらの茉莉を見やった。

「あら、アルバイトをするのはわたしじゃなくって洋ちゃんよ。だったら、決めるのだって洋ちゃんが一人で決めたらいいじゃない」

茉莉はしかし、例のまなざしでぼくを見すえて答えた。

「あとから茉莉が言ったからそのとおりにしたけど、やっぱり違うふうにすればよかったなんて言われるのは、わたし、イヤだわ」

確かに茉莉はこのとき、いつになくつきはなした言い方で応接したと思う。自分には関係がないと強調することによって、かえって彼女の存在が周囲にいる人間たち――つまりほくとミッキーの母親――にクローズ・アップして見えてくるような、そんな屈折したものの言い方だった。

「期間はそんなに長くないんでしたよね?」

ぼくは、何だか自分のアルバイトについてではなく、茉莉のそれを斡旋しているような気分になりながら、ミッキーの母親に訊いた。

「ええ、そのはずよ」

頷くミッキーの母親はしかし、額にかかった前髪をかるくかきあげて、茉莉の素振りを気にしたふうもない。そんな彼女のうなじのあたりを眩しく見つめながら、ぼくは彼女の仕種に匂うような女っぽさを感じた。そして、かるく咳払いをしようとして、思わず咳こんだ。サイドボードの上の写真の彼女と実物の彼女とを、まるで好色な老人のように、不遠慮な視線で比較している自分に気づいたのだ。

だが、頬を染め、何かに()せた風情をよそおいながらも、そのとき、ぼくはすでに決心していたのかもしれない……。いずれにせよ、二人いる照明係のうち、突然辞めたひとりの替りが見つかるまでというその仕事は、いたってぺイがよく、かんがえようによってはずいぶんと特権的なアルバイトなのだったから。

     10

クラブ『新世界』は池袋西口の大きなビルの六階全フロアを占める、ホステスを百人近くもかかえた大規模な社交場だった。毎夕六時の開店だが、五時半までにはその日出勤するホステスのほぼ全員が集まってくる。

「オハヨウございます」

「あら、オハヨウございます」

ぼくのバイトはまず、彼女たちホステスにまじって、こんな昼夜逆転した挨拶をすることからはじまった。

午後の三時ごろ、予備校の講習を終えてその足で池袋へでる。『ポピイ』で茉莉のはこんできた珈琲を飲み、その日の講義ノートとテキストを読んでざっとポイントを確認する。それからおもむろにクラブヘとむかう。五時に従業員入口からはいり、ボックス席のスポットやその他のライトを点検しはじめる。この間になんとも真面目くさった「オハヨウございます」を連発する、というわけだ。

毎夕、開店に先だって従業員全員が集合して、総支配人のみじかい訓辞があった(月曜にはこれにまえの週のナンバ一ワン・ホステスの表彰、金一封の授与、新人ホステスの紹介などの行事がくわわる)。ひきつづき、何人もいる支配人たちのひとりが、その日の細々とした注意をあたえ、ホステスやメンバーたちが控え室に入ったり、フロントやそれぞれの持ち場に散って、クラブの扉がひらく。

この間、ぼくはもうひとりの照明係といっしょに、その日のショーの出演者の楽屋に入ってゆく。ショーは『新世界』第一の呼びもので、八時半と十時の二回、売れなくなった元有名歌手やボードヴィリアンが日替りで出演していた。照明係の主な仕事はフロアの空気調節とそのショーのライトあてで、ぼくらは事前に出演者とバックの色やマイクのエコー、音質、スポットのあて方などを打ち合わせしなければならないのだ。

もっともほとんどすべてを、大学七年生だと称するヴェテランの照明係が一手にひき受けてくれていた。何も知らないぼくはただよこで、数年前にテレビで見かけた元スターの希望を失いつつある素顔や、きざしはじめた退嬰の翳りをドーランで押し隠そうとする姿を眺めていた。クラブ専属の司会者が打ち合わせに割ってはいり、間尺にあわない注文をつけることがよくあった。そんなときは、あきれたり憤慨したりする出演者をよそに、ぼくらは無言で照明室へとひき返した(それが決まりらしかった)。

ヴェテランの照明係は簡単なスポット・ライトの扱い方を教えてくれ、アーク芯を送りこんでショートさせ、それを光源にするライト回しの要領を、ぼくはほとんど一日でのみこんだ。二日目に気がついたが、結局ぼくら照明係はワンステージ三十分・計二回の六十分と、ラストの十五分をのぞいて、ひどく暇なのだった。不測の事態に備えてどちらか一方が持ち場を離れなければ、何をしてもよかった。

くわえてぼくらはアルバイトの〝学生さん〟として、クラブの階級機構ときり離された別個の位置をあたえられていたらしい。ショーの合い間、バック・バンドが演奏しているとき照明室はクラブの中ではっきり異質の空間になった。五、六人はいる支配人たちの誰かひとりが、きまってビールやオードブルをもって油を売りにくるのだ。

ぼくらはそのビールを飲み、頬に刃物キズがあったりする黒服(支配人)たちが笑顔でさしだす洋モクをもらい、意外とまっとうな彼らの話に神妙に合槌をうったりした。いささか面倒なことといえば、太った売れないホステスのひとりが「坊や、暑いわ。もっと冷房をきかせてよ」と、そう言いにくるたび、彼女の気休めのためフロア裏の空調室へ行くふりをしなければならないことくらいだった(暑くなんてないんだから当然だろう?)。

黒服の扱い方は、まえもってミッキーの母親が多少の知識をあたえてくれていた。委細はヴェテランの照明係が、ぶっきら棒な言葉使いだが、親切に教えてくれた。彼は長髪で、色の腿せたジーパンにTシャツか、あるいはヨレヨレの作業シャツのようなものを着て、いつもバスケットシューズをはいて前屈みで歩いていた。

「どうして下を向いて歩くんですか?」

そう訊くと、彼は急に真顔になり、

「はっきり背筋を伸ばして歩けるのは、選ばれたヤツか大ばか者か、どちらかだ」

と答えて、口許を(ほころ)ばせた。

あるとき、彼のもち歩くバッグのファスナーが開いていたのでチラリとのぞくと、週刊の少年漫画雑誌が二冊に、『ローザ・ルクセンブルク選集/第三巻』と表紙に書かれた本が入っていた。ぼくはなんとなく彼が好きになった。

「おい、坊や」と、照明係もぼくのことを坊やと呼んだ。「坊やは大学浪人なんだろう? こんな所に長居するもんじゃあねえぞ。しまいにゃ人間がくさっちまう」

彼はときどきそんな科白を繰返した。

それは言われなくてもわかっていた。ぼくはこのバイトに退屈と喧噪がいりまじった奇妙な居心地良さを感じていたし、その微温的な雰囲気には、警戒してしかるべき充分な魅力が備わっていたからだ……。そう、白状すれば、ぼくはこのアルバイトに、二重生活者の優越意識みたいなものまで見出しはじめていたのだ。

朝早く、夏だというのに青白い顔をした貧血気味の競争者たちにまじって予備校の席に着くとき、しばしば、自分だけは違っている、彼らとは違って実人生のひそかな側面をかいま見ている――、と感じる屈折した優越感がぼくを捉えた。

なるほどそれは愚劣な錯覚に違いない。たかだか大人たちの夜の風俗をのぞきみたところで何ほどのことがあるのか、という認識もあるにはあった。だが、かまわずにぼくは、その優越意識にずるずるとひきずられているのだった。

ミッキーの母親は、そんなぼくのいる照明室にときどき顔をだした。彼女だけがぼくを坊やと呼ばなかった。

「ねえ、洋ちゃん。すまないけど背中のジッパー、上げてくれる?」

とりようによってはきわどい言葉を事もなげに言って、彼女はときに、ひどくしどけなかったり、妙に蠱惑(こわく)的だったりした。十代でミッキーを産んだという彼女は、二十七、八歳にはなっていたはずだ。しかし、ぼくや茉莉との年齢の開きを感じさせないほど彼女は若々しく綺麗だった。

アルバイトの世話をしたこともあって、彼女はきっと何くれとなく気を配ってくれていたに違いない。ふいに故意とわかる冷たさで黒服たちとは一線を画すよう無言の忠告をあたえてくれたり、冗談まじりに七年生にぼくの面倒を見てくれるようたのんだりしてくれた。

「照明さん、この子をいじめちゃダメよ」

こんな言葉を聞いて、ぼくは彼女を年上の美しい女性として意識しはじめていた。そしてときどき彼女を眩しく見つめ返すことがあった。

そんなぼくらの様子をみて七年生が訊いた。

「坊や、おまえさんはカンナとはどういった関係なんだ?」

ミッキーの母親の本名は〝ひろ子〟だったが、クラブではカンナと呼ばれていた。

「このバイト、あの人の紹介なんです」

「そうか」七年生は頷いた。「そういやあ、そんなことを誰かから聞かされたような気もするな。……でもな坊や、覚えとくんだぞ。どんな訳ありか知らんけど、ホステスだけには手をだしたら、あかん。このまえまで入っていたサブのバック・バンドな、あそこのバンマスが美すずって娘に手をだして、ちょっとしたごたごたがあったばかりなんだ。なんたって相手の後ろについているのは、ひと皮()けばヤクザ屋さんだ。そんなことになったら、こっちもちょいラジカルに気ぃ張んなきゃならねえからなあ」彼は嬉しそうに笑った。

「大丈夫ですよ。そんなんじゃありません」言いながら、しかし、ぼくは茉莉のことを思っていた。茉莉もこのバイトにはそれほど賛成というわけではなかった。というより、はっきり不賛成だったはずなのだ。

      *

「なにも好きこのんで、水商売のアルバイトをすることないじゃないの」

あの日、カンナさんにステーキを御馳走になり、ミッキー母子のアパートから帰ってくると、そくざに彼女は不満を述べたてた。

「それにわたし、あのミッキーのお母さん、なんとなく好きになれないわ……」

ぼくはその言葉を、まだどこか幼い茉莉の成熟した女性に対するかるい嫉妬と受けとった。だからというわけではないが、それ以来、ぼくは、これみよがしにミッキーの母親の美点を、茉莉にむかって並べたてたりすることがあった。そして、この時点では気づかなかったが、そんなぼくのひとり合点が、茉莉と、ぼくの関係――ミッキーをはさんだ二人の力関係に、微妙な変化をもたらしつつあったのだ。

じっさいいつの間にか、ぼくは、茉莉のあの瞳に出会っても、射竦められるような居心地の悪さを感じなくなっていた。それにまた、もともとぼくと彼女を結びつけた三角形の頂点ミッキーを、どうとでも自分の意のままになる存在と思いなしはじめていた。知らず知らずに、だからこそ確実に、ぼくは増長しはじめていたのだ。

     11

クアラルンプール事件が起こったのはアルバイトをはじめてちょうど一週間目、八月四日のことだった。日本赤軍がマレーシアでアメリカ領事部とスエーデン大使館を武力占拠したのだ。五日には、赤軍コマンドが人質をとってそこにたてこもり、日本政府に過激派の政治犯ら七名の釈放を要求してきたことが大々的に報じられた。

「チックショー、やりやがったか!」

七年生が手にした新聞から目を離さずに、歌でも口ずさむような調子でつぶやいたのを憶えている。七人の政治犯たちには、ミッキーと初めて出会った日、地下鉄の中でぼくをそわそわと落着かない気分にさせた、あの反日武装戦線〝狼〟の兵士もまじっていた。

二回目のショーが終わった十時半、七年生は読んだはずの赤軍事件の記事をもう一度なめるように読み返しはじめていた。あらかじめ早退すると断わってはいたものの、ぼくは彼に遠慮気味に声をかけた。

「それじゃあ、申し訳ありませんが、これであがらせていただきます」

「ああ、お疲れさん」

ぼくはそそくさと従業員用エレベーターに乗りこんだ。急がねばならない。もうすでに茉莉とミッキーが雑司が谷霊園近くの空地で待っているはずだった。――その夜、ぼくらは半間(はんげん)の押入れにかさばりはじめた盗品を処分することにしていたのだ。

下ってゆくエレベーターの中で、ふと釈放を要求されている〝狼〟たちのことをかんがえた。彼らは首尾よく奪還され、自由の身となるのだろうか? ふたたび武装したコマンドとしてぼくらのまえに姿を現わし、世間の人々を憎悪や賛嘆や、わけのわからない感情で揺さぶるのだろうか?

      *

三十分後、ぼくはミッキーと茉莉の二人といっしょに霊園のかげにある奥まった空地にいた。ぼくらの眼前には人目につかぬよう用心しながら焚かれた火があった。もともと霊園からでるゴミを燃やすため、その空地におかれたドラム缶を無断借用して、ぼくらが焚いた火だ。中で燃える焔をのぞきこみながら、そのドラム缶の焼却炉に、ぼくらはもったいぶった仕種で盗品を投げ入れていった。事実それはちょっとした儀式のつもりだった。

火ははじめ、ほんの少し日時を間違えた盂蘭盆の送り火のように小さく(くすぶ)っていた。用意したポリ容器の灯油を新聞紙にたっぷり吸いこませ、それを炉へおとすと、いっとき火が舞いあがって勢いを増す。火はいったん安定するや、瞑想するかのようにゆるやかに揺れ、ときおり思い出したようにそのほむらを強めた。

間歇的な照り返しにミッキーの頬が赤く染まっていた。チロチロ燃える焔を見やって、彼はふいに何かから目醒めたみたいにぼんやりと顔を上げる。そしてぼくと茉莉の顔を交互に眺め、深い溜息をつく。

ぼくは黙って何度も(おき)をかき回し、茉莉が灯油を吸いこませた新聞紙をその上に重ねていく。ミッキーの興奮を受けとめて、その火の中に、ある種の熱情を、ぼくは感じはじめていた。押入れの中で密かに育てた、静かで禍々(まがまが)しい、それでいて無意味な熱情……。茉莉が無言で焔を見つめていた。

「ねえ、何でぜんぶ燃やしてしまうの?」

最初に口を開いたのは、やはりミッキーだった。証拠を湮滅(いんめつ)するためだよとは言えずに、彼の口調をまねて明るく答えた。

「お祭りだからさ」

「お祭り?」

「そうだよ。クアラルンプールでね、日本赤軍の兵士たちが戦っているんだ。火を焚くのはそれを記念する意味もあるんだ」

いい加減にしたら、という感じで茉莉がぼくの肘を小突いたが、ぼくはやめなかった。

「どことどこが戦っているの?」

 訊ねるミッキーに、ぼくはわざと真面目くさって答えた。

「日本の政府と日本の人民の一部さ」

「どっちがイイモノなの?」

「さあね。きっとどっちも自分たちのほうが正しい、と思っているんだろう」

「じゃあ、どっちが立派な兵隊なの?」

「まあ、自分たちを兵士だと思いこんでいるのは日本赤軍のほうだろうな」

するとミッキーは大きく頷き、ぼくを見つめてきっぱりと言った。

「だったらボクは赤軍の味方だ」

「どうして?」

「だってさ、いつもお兄ちゃんは言っているじゃない。戦う兵士はみんな立派で美しいって」

ぼくは思わず吹きだした。「ミッキー、おまえねえ」と言葉を返そうと思いながらも、肩を震わせて笑う茉莉にひきずられて、声にだして笑った。

「なにがおかしいの? どうしてそんなに笑うのかなあ?」

憤ったミッキーの顔が、燃える焔のまえでさらに赤味を増したようだった。

「命がけで戦うのはエライんだ。お兄ちゃんもそう言ってたじゃないの……」

火に酔ったように確信をこめて言うミッキーを、一瞬、ぼくは珍しい動物を見るみたいに眺めまわした。……ひょっとしたら、雨の中の散歩で聞かせた戦争の御伽噺は、いつの間にか彼の態度決定の重要なモーメントになっているのではないか? ぼくのしゃべりちらしたでまかせを信じて、この子はそのでまかせと折り合わない事実を、頭から拒否して生きはじめているのじゃないか?

ぼくはつい今しがただらしなく笑った口許をひきしめなければならなかった。何者でもないはずのぼくの言葉は、ことミッキーにかぎっては、しかるべき権威の陰影がこもっているかも知れないのだ。

「ねえ、エライよね。赤軍は」

なおも言いつのるミッキーに、ぼくは言葉を濁した。知ってか知らずか、茉莉が話題を変えた。

「ところでミッキー、キミは明日からボーイスカウトのサマー・キャンプに行くんでしょう?」

「うん、そうだよ。十日間、ほんものの海がいっぱい見れるんだ」

「オネショなんてしたらダメよ」

「するかい!」

しゃがみこんでいたミッキーがムキになって立ちあがった。茉莉はまあまあ、とあやすように彼のお尻をたたき、土埃をおとしてやる。それを機に、ぼくは火の後始末をはじめた。カンナさんが帰ってくるまえに、彼をアパートに送り返さねばならない。

その夜、ミッキーと別れた後、ぼくらは大きな紙袋をひとつかかえて茉莉のアパートへ帰った。袋の中身は焼却し残した石鹸のコレクションだった。寝静まりはじめた住宅街の郵便受けに一個、一個、それらを放りこんでいった。世の中を少しでも美しく清潔に!ぼくらはクスクス笑い、途中、電信柱のかげで犬みたいに何度も立ちどまって、キスをしながら戻っていった。  

     12

照明をあてていたクラブの下の階が改装され、ディスコティック『アダムズ・アップル』としてオープンしたのは、それから二、三日たってからだった。『新世界』と同系列の資本らしく、ぼくらのところにも何枚か無料の招待券が回ってきていた。ぼくは茉莉といっしょにそこに行く約束をした。一晩二回のショーの時間さえはずさなければ、七年生の照明係にたのんでバイトを抜けだし、一時間くらい遊んだって、どうっていうこともないのだ。茉莉は二人でディスコにでかける日を愉しみに待っているようだった。

      *

ところがディスコへ最初に足をはこんだ相手は茉莉ではなかった。ほかならぬミッキーの母親、カンナさんとなのだ。カンナさんはディスコが開店した当日、一回目のショーが終わっておしゃかになった照明のアーク芯をとり替えているとき、一人でふらりと照明室にやってきた。

「洋ちゃん、ちょっと抜けだして、下へ踊りに行かない?」

だしぬけにそう言った彼女の表情は、どこかひどくくつろいだそれだった。

「踊るっていったって、ぼくはステップなんて踏めませんよ」

 ぼくはそう答えたが、それは彼女がクラブきってのダンスの名手であることを意識した言葉だった。

『新世界』ではショーの合い間にスロー・テンポのダンス音楽がながされ、気が向いた客たちがホステスとブルースやワルツを踊る。巧拙はあるものの四十過ぎのクラブの客は一様に、彼らが若かったころ進駐軍によってブームがもちこまれたボールルーム・ダンスヘの情熱をかくしもっていた。彼らはその情熱を酔いの力をたのんでまったくふいに、心地良げに開陳するのだ。

 カンナさんはそんな過去の情熱のパートナーとして出色だった。メインのバック・バンドはスィング・ジャズがお得意のいわゆるビッグジャズ楽団だったが、彼らの奏でる曲にのり、彼女はたまに現われる名人級の客と複雑なステップを苦もなく踏んだ。そして、さながら忘れられていた甘美な過去を一瞬のうちに現出するようなのだった。

 特にジルバが素晴しかった。ぼくは彼女のジルバに、コザの街でミッキーの父親と踊ったり、笑いころげたに違いない、ごく若いころの彼女の姿をダブらせることがあった。踊る彼女はいまもひどく魅力的で華やかだったが、それはとり残されたクリスマス・ローズのように場違いに、だからこそ美しく咲いた華やかさのようにも思われるのだ。

ぼくはセンチメンタルになっていたのかもしれない。ときどき照明室から踊る彼女のステップを眺めては、失われた何かに拍手するように、ひそかにリズムをとったり、彼女といっしょにステップを踏んでみたりする自分を想像してもいたのだから。

もっとも彼女がそんなことを知っているはずもない。案の定、ぼくに答えた彼女の言葉には何の屈託もなかった。

「いいのよ、ステップなんてかまわない。なんだったらわたしが教えてあげる。ね……」

 彼女は七年生のほうにむきなおった。

「照明さん、かまわないでしょう? ちょっと洋ちゃんを借りても」

 七年生は鷹揚に頷いた。まあ、いっちょう行っといで、とぼくを促したその言葉にあまえて、カンナさんにせきたてられるまま、階下のディスコティックヘとむかった。

      *

 オープンした当日で、客の入りが半分にも満たないディスコのフロアで、しかし、ぼくとカンナさんの二人は思いがけず注目を集めることとなった。バンドが何をかんがえたのか、4ビートの古いロック・ナンバーを演奏しはじめたからだ。

「あら、これならジルバでいける」

 彼女は独り言のようにつぶやき、ふっと溜息に似た小さな笑みを洩らした。黙って、ぼくの右手をとり、彼女の左のウェストにあてがう。いつもブレスレットをはめている左手が、かるく、ぼくの右肩におかれた。

「いい、難しくなんかないわよ。すぐに覚えるわ。……ちょっと斜めになって。そう、ちょうどVの字みたいになるの。左、右、左、右。これを(スロー)(スロー)(クイック)(クイック)、でいくの。わかる?」

 彼女の言うがままにステップを踏んだ。妙な気分だった。おかしなところで照明室でのステップ見学が役立ってくるなんて。

「うまいわ。そう、(スロー)(スロー)、と最後の(クイック)でほんの心もちバウンドするの。……うん、いい。その調子よ」

 彼女は絶えず耳元でカウントを囁きながら踊った。完璧なリードだった。慣れてきたとみるや、ふいに身体を回転させる。

「チェンジ・オブ・ブレース」

 ウインクしながら言った。……そうやって彼女はウォークや、回り終えてからの手のもち替え方を、無理なく、自然に教えてくれるのだ。

「ねえ、ほんとうに初めてなの? ジルバを踊るのは」

 ぼくはすっかり赤面していた。ちょっとしどろもどろになって、いや、ほんとにダンスは中学校のオクラホマミキサー以来です、などと答えてしまう。

「それじゃあ、すごい才能よ」

 彼女は長めの髪を踊りながらかきあげた。コロンの混った甘い汗の香が漂ってきて、ぼくの鼻孔をくすぐる。

 バンドはぼくらのジルバを面白がったらしい。ビートルズ・ナンバーを含めて4ビートのちょっと古くさいロックをたて続けに何曲かながした。ぼくは調子にのった。あの映画の『ピクニック』でウィリアム・ホールデンとキム・ノヴァクが踊ったジルバの気分、といえば大げさだろうか? 髪を茶色に染めてチリチリにした女子高生や、アイヴィ・ルックの大学生が周りをあけてぼくらを見ている。

 カンナさんも十代に戻ったような、おおらかな笑みを浮かべて、しだいに頬を紅潮させていった。(スロー)(スロー)(クイック)(クイック)(スロー)(スロー)(クイック)(クイック)……。二人が目線をあわせて最後のステップを踏みおわったとき、ライトがいっせいに暗くなった。バンドの曲がスロー・テンポに変わる。 ぼくらはそのままスクェア・ルンバのかたちをとり、ゆっくりと、どちらからともなく身体を密着させていった。やわらかな衣擦れの音がした。音楽がそれにからみあい、戯れあって二人にまといつく。

 ぼくは不思議な時間にひきずりこまれはじめていた。彼女とぼくの全存在が、触れあった身体の表面だけに棲まっているような、そんな時間。二人が裸以上に裸になってしまって、だから、自分の意志とは無関係に身体が小刻みにふるえそうになる――。

 しかしその瞬間、彼女はふりほどくように身体をひき離した。途惑ったような視線をぼくにむけ、かすかに掠れた声をだした。

「何か飲まない? 喉が渇いたわ」

 ぼくらは無言でボックス席につき、ジンジャー・エールを飲んだ。彼女はひとくちだけ口に含むと、まっ直ぐにダンス・フロアを見つめて、もうぼくをふり返らなかった。むきだしになった肩から続くうなじに、小さな黒子(ほくろ)が見えた。ぼくの間近に年上の女性の端正な横顔がある。なぜか許されて自分ひとりだけが眺めている、そんな気がした。

 どのくらいの時がたったろう? ことり、とグラスをおく音がして彼女が静かに言った。「……ごめんなさい」

 突然で意味がよくのみこめなかった。黙っていると、彼女は唇をちょっと噛んで、舌でそれを舐めるような仕種をした。ぼくを見ずにふらりと立ちあがる。「行きましょう……。あんまりサボッていると、照明さんが気の毒だわ」

     13

 その夜の一件を内緒にして、二日後、茉莉といっしょにディスコにでかけた。

 カンナさんとはジルバの夜以来、顔をあわせていなかった。彼女に会うのがなんとなく躊躇(ため)らわれたし、むこうもなぜか照明室にやってはこなかったからだ。

 しかし開店三日目の『アダムズ・アップル』は、たった二日まえぼくにあたえたかるい風邪のような記憶をよそに、すでにその場本来の性格を剥きだしにしはじめていた。そこにあるのはハッキリとした消費。それも、ぶしつけで、露骨で、徹底した消費なのだった。あのジルバがウソのような喧噪。強烈なビートと、最大級にあげられたヴォリューム、そして汗と熱気。ニキビ面の男女がフロアにひしめき、これでもか、これでもか、と無理じいされた日常から解放されて、酔い痴れるように踊っていた。

 フロアの前部で何列かを作り、すでに常連という感じで流行(はや)りのステップを踏んでいるのは、きっと新宿あたりのディスコから鞍替えしてきた連中だろう。彼らはリズムに合わせて足を交叉させ、繰返されるリズムの何拍目かで、頭上で手を打ちながら《ハァイ》といっせいに叫ぶ。目まぐるしく変化するストロボ・フラッシュ。壁一面に投射されたライトの(ひず)んだ原色の映像……。それらが、夢中になって踊る彼らを特権的なシルエットで浮かびあがらせている。

 ボックス席に陣どりながら、ぼくは圧倒され、呆けたようにあたりを眺めまわしていた。茉莉はといえば、彼女は全然気にならないらしく、つくったばかりの水割りを口にしながら、フン、フン、と頭をふって常連風の連中の踊りに目をやっている。

「ダメよ。怖気づいちゃ」

 結局、茉莉にうながされて隅のほうで踊っているぎごちない男女の群れにまじった。勝手なステップを踏んでみる。ダ! ダ! ダッタッタ! ダ! ダ! 何とも心許(こころもと)なく、味気ないステップ。茉莉が何か大声でしゃべっていた。

「え? なあに? よく聞こえないよ」

「だからあ、……だって!」

 耳元を彼女の口に近づける。彼女も両手でぼくの耳元を囲う。

「意外とさあ、洋ちゃん、サマになっているじゃん」

 なんだ、そんなことか……。

 肩を竦めるぼくに、茉莉はしかし続けて、じゃあ、ちょっと行ってくるわよ!と言いおいて、するするっ、とまえへむかってステップしていった。常連たちのほうへ一直線に近づいていく。壁に投射された映像がたていっぱいに背伸びして、ついでよこにひっぱられる悲鳴のように形を変えた。――いつの間にか、常連たちが彼女のためにしずしずと空間を開けていた。

 ダ! ダ! ダッタッタ! ダ! ダ! 緑と赤紫のシールドを通ったライトが執拗に揺れた。狂ったように明滅するストロボ、描きだされる男女のストップ・モーシヨン……。気がつけば、茉莉はあっさりと常連そっくりに、いや彼ら以上にみごとに流行りのステップを踏みはじめているのだ。

 ぼくはあっけにとられた。一度や二度ディスコをのぞいたからって、とうていまねのできない滑らかさだ。以前、新宿か渋谷あたりのディスコに通いつめたことがあるに違いない。

 ぼくは驚いたり、感心したり、あきれたりして彼女を眺めていた。すごいなあ、茉莉。教えてくれよ!――快活にそう言おうと思えば、言って言えなかったはずはない。しかしぼくはそうしなかった。ぼくはしだいに鼻白んでゆく自分に気づいていた。

 茉莉がやりきれないほど子供じみた、ノータリンに見えはじめていた。ダメだ、ダメだ、というふうに首をふり、ぼくはわざとらしい溜息をついた。かたわらに〝日の丸〟のハチマキをして、イカレたかっこうで踊っている男の子と女の子がいたが、ぼくは彼らの動きを無視してその脇をすりぬけ、黙ってボックス席へ戻った。

 自分でも見当はずれだとはわかっていた。だが、どうしてもおさまらないその手前勝手な怒りを鎮めるため、ぼくはたて続けに濃い水割りを飲んだ。隣のボックスで、知り合ったばかりらしい男女が大声で話しているのを聞きながら、乱暴にグラスをあおる。

――ねえ、キミさ、どこから来たの?

――あっち。

――あっちって、どっち?

――あっちは、あっちよお。

 女の子の声が面倒くさそうに荒らげられた。

――知るわけないじゃん。

 ……そうなんだ、知るわけがないんだ、と何杯目かの水割りを胃の中に流しこみながら思った。女の子じゃなくったって、誰だって本当は、どこから来てどこへ行くかなんて、わかっていないはずじゃないか! おさまらない怒りが、とんでもない方向へむかっていきそうだった。

 茉莉を捜した。茉莉は自信たっぷりに常連たちの中で踊っている。そんな呆けた彼女をこちらから呼びに行くなんて絶対にいやだった。さらにグラスを空けた。身体じゅうの血管がいっきょに開いて、それにつれてどこか間延びして単調になったリズムと、熱気や音やライトの色が周囲に(あふ)れかえる。それらがひと塊になり、どこまでも際限なく膨らんでゆく。ふいにその夜の東京じゅうのやり場のない怒りが集まって、ギラギラと血ばしった眼球となってぼくを見つめている、そんな気がした。……だから、ぼくはびっしりと皮膚にまとわりつくそれら一千万住民の性欲に()せかえって、ほら、目のまえがグラリと揺れる。

――待ったあ?

 聞き覚えのある声で、ひきずりこまれそうになった酔いから呼びもどされた。

「洋ちゃん、全然踊らないんだもん。つまらなくない?」

 茉莉が汗で肌に貼りついたシャツをつまみあげながら席に着こうとしていた。ぼくは上目使いに、二重に映りはじめる彼女の姿を見た。ちょっぴり兇暴な目つきだったのかもしれない。

「どうしたの? 恐い顔して」

 紅潮し、発汗した茉莉の顔が赤裸の猿のように見えた。その猿が流行りはじめた光沢のある口紅で唇をぎとぎとさせながら、シャツの襟を両手でパタパタふって、胸元に風を送りこんでいる。まあ、スカートであおがないだけまし、というわけか。ぼくは立ちあがった。

「どこへ行くの?」

「あっち」

 でたらめな方向を指さした。

「あっちって?」

 不安そうな茉莉の声にそれでも口許が小さく綻びた。

「トイレだよ。心配するなよ」

 言いおいて化粧室へむかう背後から、しかし、頓狂な茉莉の声がおおいかぶさってきた。

――ねえ、わたしをほうっておいたら、他の男の子とチークを踊るわよお。

      *

ぼくはトイレで吐いた。指を無理やり喉につっこみ、飴色をした粘っこい液体がもうこれ以上でてこなくなるまで、何度もしつこく繰返した。そうしてからようやっと顔を洗い、ハンカチでていねいに拭いながら、衣服に汚れがないのを確かめてホッとした。

 ミッキーの母親に会ったのは、そうやって気をとりなおして化粧室をでてすぐ。――凹型にひらいて、ソファがおかれた広い廊下でだった。

「あら? いけないんだ、洋ちゃん。こんなところでサボッてたら、黒服さんたちに言いつけちゃうゾ……」

 透きとおった声で冗談めかした囁きが聞こえ、ふりむいたぼくの両肩に、彼女の手がさりげなくおかれた。

     14

 彼女を案内してボックスに戻るとき、若い男が二人、茉莉をはさんで何かさかんに話しかけているのが目に入った。遠目からも確かに茉莉は、彼らを冷たくあしらっているように見えた。それでも髪をリーゼントにした背の高いほうが茉莉に耳打ちすると、彼女はまんざらでもなさそうにちいさく笑い、男たちはその笑みに力を得て、またしきりに何事かを言って茉莉の気を惹こうとしているのだ。

 カンナさんはそんな様子を知ってか知らずか、視線をゆっくり周囲にめぐらせてつぶやいた。

「ここの雰囲気、アッという間に変わってしまったのね。もうジルバなんて踊れないわ」

 ぼくがボックス席にあらわれ、よこにカンナさんがいるのに気づくと、茉莉の顔は急にひきしまった。

「あら、ひろ子さん」

「ちょっとお邪魔してもいい? 洋ちゃんとそこでバッタリ会っちゃったの」

      *

 茉莉とカンナさんが型通りの会話をかわしている最中、ぼくはリーゼントともう一人の太ったやつを眺め回していた。彼らはぼくが戻ってきても、図々しく席を立とうとはしなかった。ようやく彼らが席を離れるとき、リーゼントがカンナさんにながし目をくれた。ぶしつけな視線だった。

「茉莉」とぼくは訊いた。「あいつら、いったい何者だ?」

「知らないわよ。洋ちゃんがわたしをほうっておくから近づいてきたんじゃないの」

 茉莉は少々おかんむりだった。しばらく気まずい沈黙があって、突然立ちあがると「わたし、踊ってきます」と言った。ぼくにむかってではない。カンナさんにむかってだ。どこか態度が幼く、高飛車だった。カンナさんの手前、ぼくは一言、二言、その場をとり繕うべきだったかもしれない。だが、ぼくはそれをしなかった。強情からではない。その夜は、もううんざりしていたからだ。

      *

 茉莉が踊りの集団に紛れて見えなくなると、なんとなく間をとろうとして、ぼくは煙草に火をつけた。ひどくいがらっぽかった。ただむやみに重たいものがアルコールを吐きだした胃の中に沈下してゆく。鈍い痛みを感じたが痛みそのものが鈍いのか、感じる自分の意識そのものが鉛のようになっているのか、どちらとも判断がつきかねた。カンナさんがグラスのミネラルウォーターに氷をたして、ぼくに渡してくれる。

「カンナさん」とぼくは訊いた。「カンナさんはジルバとかああいったダンスのステップをいつ覚えたんですか?」

「いつって、そうね……。ジルバはずうっとまえから知っていたわ」

「まだ沖縄にいたときから?」

「そうよ。でもね、タンゴとかああいうのは後になってから、営業用にね」と、彼女は片目を(つむ)った。

「そうか、やっぱり」

「やっぱりって?」

「カンナさんがジルバを踊るときと、他のダンスを踊るときとじゃ、まるで雰囲気が違うから」

「そんなに違っているの?」

 ぼくが頷くと彼女は小首を(かし)げた。しばらくして立ちあがると、明るすぎる声で言った。

「わたしも踊りたくなっちゃった。行きましょう」

 ぼくの手をとった。

 しかし、ぼくらがフロアに立つと一転して音楽がスローに変わり、光量もみるみるうちに絞られた。踊っていた男女が潮が引くように席へ戻りはじめる。チーク・タイムだった。「いやあね。ここのバンド、わたしたちを踊らせてくれないつもりよ。戻りましょう」

 カンナさんがそう言ったとき、けれどぼくは茉莉の視線を感じていた。茉莉がぼくら二人を見ている。ぞろぞろとボックスヘひきあげてゆく若者たちの、飼い馴らされた牛のような目にまじって、彼女の瞳が見つめている。茉莉の肩にリーゼントの手が伸びていた。一瞬、彼女は身体を硬くし、しかし、決心したように肩をそびやかす。顔をそむけ、茉莉は傲然とリーゼントとチーク・ダンスを踊りはじめた。ぎこちなく、それでも、しだいに大胆に。

 ぼくは戻ろうとするカンナさんの腕をひきとめた。

「どうしたの?」

「一曲だけ、ぼくと踊ってください」

「踊るといっても」

 彼女もまた茉莉がリーゼントに身体を預け、これみよがしの態度にでていることに気づいていた。困惑した彼女を見ずに、ぼくはいくらか怒ったように言ったのだと思う。うつむきながらつぶやいた自分の声には、どこか()ねてあまえきった響きがこもっていた。

「そうね……。そうかも知れない」

 ぼくにはひどく長く感じられた沈黙の後、彼女はぼくの視線を恥ずかしそうに受けとめた。スクェアのポジションをとる。

「でも、これ一回だけね」

 ぼくと彼女は礼儀正しく、距離をとってステップを踏んだ。彼女の(かかと)がメトロノームの正確さでフロアにリズムを刻みこむ。、ぼくも真剣にそれにしたがう。でも、どうしたことだろう? 音楽に乗りながら、リズムに乗りながらも、どこか呼吸の合わない、気遅れした二人のステップ。ミラー・ボールの湿った瞬きがぼくらの翳を掠めて消える。

 曲が終わるとカンナさんは寂しげに微笑んで、茉莉とは顔をあわせずに、そのまま彼女の階上の仕事へと戻っていった。

      *

 その夜、ぼくは気まずい思いで茉莉を彼女のアパートまで送った。ぼくらはドアのまえで別れた。意地を張り続けたつもりなど毛頭ない。ただ、ちょっとした仲直りのきっかけがつかめなかったにすぎない。

 明日になれば、とぼくはかんがえていた。そう、明日になれば茉莉だって……。

『ボビイ』のいつもの席で、いつものようにテキストをひろげるぼくに、いつものようにウインクして店長には内緒でお替りの珈琲をはこんできてくれる。そうに違いないのだ。――ぼくは自分自身に対して強気になろうとしていた。気をひきたてて帰る夜道の集蛾灯に羽虫がぎっしりと群れて、あたりにムッとする夏の匂いが漂っていた。

     15

 アパートにたどり着いたぼくは、ノブに鍵をさしいれようとして、郵便受けが一杯にふくらんでいるのに気づいた。力まかせに中身をひっぱりだす。断わっても断わっても、いまだに入り続けている新聞。引っ越しセンターや紳士服量販店のチラシ広告。そんなものにまじって手紙が三通はいっていた。

 部屋に入って窓を開け放つと、それらに目を通した。一通目は語学教材の販売会社からのダイレクトメール。これは封をきらずに広告ビラといっしょに丸めてクズ籠に捨てた。二通目が夏休み直前に行なわれた全国模試の結果通知。これも開封せず、黙って机の抽出に放りこんだ。しかし、最後の三通目が注意を惹いた。

 宛名が斜めに上がり気味の、筆圧のつよい、特徴のある字で書かれていた。横書き封筒だったので、文字はちょうど一面にたなびいた麦穂のように見える。――差出人は見なくともわかっていた。金だ。幼なじみの金世光だ。なつかしさに駆られて、そのかさばった手紙の封を切った。

《拝啓元気なことと思う。僕は元気だ、と書きたいところだが、じつはそうでもない。正確に言えばやっと元気になりつつある。

 五月の末に手紙をもらったが、返事がだせる状態ではなかった。そして今ようやく僕は返事がだせるまでに回復した。こう書けば、きみは僕にいったい何がおこったのか、怪我でもしたのだろうか、といぶかしく思うだろう。まあ、読んでほしい。

 この三月に帰省したおり、きみの家を訪ねたのだが、きみはすでに東京の予備校に通うべく出発した後だった。僕はきみのお母さんにきみの住所をしたためてもらい、おなじ東京に住むことになるのだし、いつでも会えるだろうと気楽にかんがえた。いや、かんがえようとした。今から思えば、もうそのとき、僕は初期の徴候の中にいたのだ。

 僕は五月の半ばに発病した。

 強度の、しかしたぶん一過性の神経症、というのが現在入院している病院の担当医の診断だ(じっさいにカルテに書きこまれた病名がどのようなものであるか、僕は知らされていない)。しかし医者の見立てなど、いまとなってはどうでもいい。少なくとも彼は僕にとって向精神剤を投与し、それを増減し、その種類を変えては患者の症状を観察する、近代医学の制度的権威の代弁者にすぎないのだから……。

 とはいえ、いまは医師と患者が構成する権力のあり方について言及すべきではあるまい。そんなことをすれば、例の悪いくせが出る。僕がしょいこんだ致命的で強迫的なパッション――熱情とでも、受難とでも、きみの好きなようにこの言葉の意味をとってくれてけっこうだ――を逃れるべく、手当りしだいに読んだ精神分析関係の書物から、手前勝手な受け売りをはじめるに決まっている。この手紙の趣意はそんなところにはない。

 僕はこの手紙で個人的な体験を、したがって他人には理解されても共に感ずることが不可能な体験を、ごく個人的な友人たるきみに語りたいのだ。きみには悪いが、この手紙を僕自身を映すための鏡として利用する。僕の個人的にすぎる体験を、きみに語ることを通して理解し、僕自身に納得させようと思っている。

 つまるところこれは治癒の確認であり、持続しなければならない自己療養への試みなのだ。自分自身へのメッセージがきみ自身へのメッセージになってくれれば、と切に願う》

 金世光の癖のある筆跡の手紙を、この最初の部分だけでも、ぼくは二度、三度、と繰返して読んだ。あまりにも唐突すぎるその報せに、正直なところ、いまひとつ内容がしっくりとつかめない心持ちがしたからだ。酔いが頑固に沈澱していて、身体ぜんたいに石膏のように張りついている気がした。

 汗の滲んだシャツを脱ぎ、顔を洗って椅子にすわりなおし、もう一度ぼくは真剣になって字面を追った。しかし、そんな悪あがきじたいが一種のポーズ――つまり、彼の手紙を理解しようと試みている、と自分に思いこませるポーズだったのかもしれない。手紙の伝えるショッキングな報せを無意識のうちに拒み、できることなら無視してしまいたい、とぼくは思わず知らずにかんがえていたはずなのだから……。

 じっさい、ぼくは彼の手紙に驚きつつも、どこか頭の片隅で、いや、いや、騙されないぞ、とつぶやく自分を感じていた。頑健無比で、意志とか性格とかいったもののひ弱さとは無縁な金が神経症を患う。――ぼくはいっぽうでこの事実に驚き、打ちのめされながらも、それを伝える手紙の文面が、いかにも金らしいケレンみたっぷりな衒気に染めあげられている、とつよく感じてもいたのだ。

 いずれにせよ、金世光はいかにも彼らしい自信と確信に満ちた調子で、その手紙を書きすすめていた。

《……まずは、去年、僕が小平の大学校へ進んだところから回顧する。

あのころは猛烈に忙しかった。寸暇を惜しんでの学習と労働の毎日だった。〝八時間労働、八時間学習、八時間睡眠〟とは、わが貧しくも美しき社会主義労働法のさだめるところだ。しかし、当時の睡眠時間は多くて五時間。二日、三日の徹夜なんてザラだった。そのかわりグッスリ眠ったし、残念なことに猥雑な夢などいっさい見なかった。ひどく清潔で、(みだ)らなほど潔癖な毎日がつづいた。寮の仲間や学外団体との研究会をつうじ、僕は全身で〝チュチェ思想〟を吸収する自分を感じていた。大げさでなく魂が根底から揺すぶられていたのだ。

 ところが夏休みに帰省してきみと会ったとき、少なからぬショックを受けた。きみと話しながら、〝チュチェ思想〟の偉大な哲学原理で理論武装しているはずの僕が、当惑し、迷ったり躊躇(ため)らったりしているのだ。

 じつをいえば僕はきみを、一歳年下で、まだ思想的に幼い啓蒙の対象と不遜にもかんがえていた。子供のころからのきみとの力関係が、そう考えるようにしむけたのかもしれない。きみは小学校のころ、よくめそめそ泣いていたし、喧嘩やちょいとマセた悪戯となれば、イニシアティブをとったのはいつも僕だったからね。

 でも僕のオルグにきみは頑として動じなかった。大きくなった手足をもてあますように折り曲げ、話に熱心に耳を傾けるような素振りをみせながら、しかし、ときどき不信に満ちた目つきで僕を見返した。このプチ・ブルめ、と軽蔑することも僕にはできた。だが、そうしなかったのはきみと僕が共有する、ある分かちがたい感情の複合からだ。

 きみは僕らが子供だったころ、僕がとなり町の高校生に殴られて肩が上がらなくなったときのことを覚えているだろうか? あのとき殴られもしないくせに、きみも僕とおなじように肩が上がらなくなったね。合理的にかんがえると、あれは少年期によくある一種のヒステリー症状だろう(なにしろ、あのとき殴られる原因を作ったのはきみで、身体の大きな朝鮮人の僕がかわりに殴られたのだから)。

 だが僕は、あれをヒステリーと呼ぶことによって、何かが解決するとは思わない。少なくとも事実は、僕と同様、きみがそう意志しても、どうしても肩を上げることができなくなったということであり、そういったある種の痛みを分かちあう僕ときみの関係はいぜんとして残存していると考えるからだ。

 繰返すが去年の夏、僕は動揺した。きみが愚かであるとか、間違っているとか、そう断罪するまえに、自分を恥じた。感情で分かちがたく結ばれていると思ったきみ一人さえ納得させることのできぬ、自己のイデオロギーの覚束なさに正直いって、きみと別れてから悔し涙をながした。そして自己の当惑や不信、つまりはきみとのギャップの存在を、自己自身の姿勢に還元した。思想主体としての軟弱さこそが問題なのだ、と。

 思えばそのときこそ僕は、自分をめぐる生来の罠に、つまり世界が僕にしかけた陰険な罠に気づくべきだったのだ。しかし僕はそうしなかった。逆に自ら進んでその陥穽にとらえられ、はまりこんでいった……。

 以後、僕は誰の目にも恥じない強固な思想主体としての自己を造りあげるべく、刻苦した。〝三大革命小組〟の日本における細胞作りとその思想革命の研究に積極的に関わり、もちあがりつつある主席さまの後継者問題を通して、たえず自己自身を鍛えぬこうと努力した。

 仲間や組織の指導者たちも、そんな僕を好意的に眺めてくれているように思われた。あまりの堅物として、ひそかに敬遠されていることに思いはおよばなかった。限度を超えて疾駆しようとする者にあるのは、その疾駆の感覚だけだ。僕は周囲を見なかった。そしてあるとき、ふと周りを見回すといっさいが違っていた。僕と世界とをながれる時間の速度が、遠くへだたっているのだ。

 周囲の連中はうすうすこの事実を察していたに違いない。だが彼らはそれが誰の目にも決定的と見えるようになるまで、実力を行使しなかった。僕の逸脱はむしろ、初期には彼らの称賛の的ですらあった。

 ひそかな自信が芽生え、今度こそきみに弁解がましくなく、強い確信をもって語れると思った。僕のまえに開けつつあるもうひとつの正しい世界について語ることができる。そう信じはじめた。

 たとえば去年の夏、きみは〝チュチェ思想〟を教条主義といい、さらには主席の個人崇拝にまで触れた。きみはそんな言葉など自分は知らないし、使いもしなかったと言うかもしれない。だが、きみがきみたちの言葉で言った内容はまさしく、僕の言葉に翻訳すれば教条主義であり、個人崇拝の問題だった。しかし先にも述べたように、きみの意見に悪意は感じなかったし、感じるべきでもなかった。きみら日本の若者に蔓延しつつある極度に相対主義的な観点から見れば、すべての思想は教条であって、『唯一思想』などということじたいが事大主義なのだから……。

 あのときはだから、内心の動揺を押し隠して微笑み、〝チュチェ思想〟はその事大主義、教条主義との闘いを通じてこそ築きあげられたのだ――、とそんな抗弁をしたと思う。だがそのじつ、僕は僕自身にむかって、内なる相対主義者にむかって抗弁していたのだ。

 そう。あのとき僕は、いまは現実と理想のまえにひき裂かれているのだ、最初の試練だ、と自分自身に言いきかせたのだ。僕は理想を()らねばならぬ。〝チュチェ主義〟を選択しなければならぬ、とそう思った。なんとも憐れなことに、真理は〝チュチェ思想〟の中にこそなければならなかったからだ。

 もちろん今はそうかんがえてはいない。しだいに懐疑をつのらせていることは否定しないが、いまだに〝チュチェ思想〟の中に偉大な側面を認めているし、自分の多くの社会認識がそこから出発していることを誇りにすら思っている。が、問題は〝チュチェ思想〟以前なのだ。問題はそれへのコミットの仕方なのだ。

 冷静になってふりかえると、あのとき僕は〝チュチェ思想〟を理想としてではなく、現実として選択し、また選択させられていた。したがって僕は『理想と現実』との間にではなく、『事実と事実』との間にひき裂かれていたのだ。

 僕はそれを知らなかった。いや、知っていてもそれを拒否しようとした。そしてひたすらつっ走った。魂をおののかせ、昂ぶらせ、喜ばせるパッションを発見するまで、つまり、あの異様で、至福的で、破滅的な高揚を迎えるまで……》

     16

 ……えんえんと続く金の手紙の字面をなんとか読み終わったときは、アパートに帰りついてから一時間ばかりもたっていただろうか? 全身にまわった酔いと、無意識のうちに彼の言葉や意識のリズムに同調すまいとする何かが、彼の手紙を理解し、事実を素直に受け入れることから、ぼくを遠ざけていた。

 ぼくには(こわ)れてはならない彼のイメージがあったのだ。金世光は、迷ったり、躊躇したり、ましてや狂気に追いこまれるほどひ弱であってはならなかった。彼は強じんで、純粋で、堅忍不抜でなければならない。ぼくは幼児期の記憶をまさぐりながら、あるべき牧神のような金の姿を思い浮かべた。

 そのイメージのなかで彼は、黄金色(きんいろ)に滴りおちる豪奢な夕陽を浴びて、不敵に、快活に笑っているはずだった。浅黄色のシャツの似あう骨太で胴長の身体を敏捷に動かし、小平にある朝鮮大学校で力づよく学習や実践労働にはげみながら、重々しく、確実にその青年期を生きはじめていなければならなかった。

 ぼくは納得のいかない彼の挫折を、まったく正反対のイメージに訴えて解消しようとしていた。手紙はいっさいデタラメで、明日目覚めると、金がかたわらで「冗談だ、かるい冗談だよ」と笑っているのではないか? 気休めにも似たそんな妄想に自分自身を浸して、しかし、いっぽうではその妄想を信じきれない自分を呪う。そして手紙の終わりのほうに書いてあった金の「見舞いは不要。もう一週間もせずに退院のはこび……」との言葉を思い出して、奇妙に慰められ、ホッとしたりもする。ぼくはそんな、よくは整理できない複雑な感情の揺れを意識しながら、その夜、床に就いたように思う。

      *

 だが、そうやってもぐりこんだ布団のなかで、ぼくは妙に目が冴えてなかなか眠りに落込むことができなかった。身体は疲れきって根がはえたようになっているのに、意識のどこかある部分がどうしても目醒めたままなのだ。眠れないままに、金の手紙を読んだ後では、すでに遠い過去のような気がするその夜の出来事について、ぼくはふりかえりはじめていた。

 ディスコのぶしつけな狂騒。茉莉の見事すぎたステップ。カンナさんとの気まずいスローダンス。そんなものが、目を(つむ)ってみじろぎしないぼくの頭のなかを駆けめぐり、しだいに、ミッキーのこと、アルバイトのこと、三人でやった万引きや、さらにはあの〝狼〟たちのことへと想いが移っていく……。東京へでてきて以降の、省みることをシャットアウトしてきた生活が露出し、輪郭をとりはじめていた。

 身体がじっとりと汗ばみ、ぼくは何度も苦しい寝返りを打った。気がつけば敗北感のようなものが、こすってもとれない壁の染みごと滲みだし、ぼくの部屋を支配していた。

 ぼくは自分が不純だったこと、手に負えないほど鈍感で、偽善的だったことを認めねばならなかった。うなだれて、ぼくには権利がないと感じた。金にはまだしも発狂する権利があったが、ぼくにはそれすらない。自分をごまかし、騙し、高慢に慰んでいただけじゃないか? ミッキーを利用し、茉莉を利用し、万引きを利用して、自分で慰んでいただけじゃないか……?

      *

 翌朝目覚めたとき、陽はすでに高かった。

 ひどい暑さだった。窓を開け放っても、暑気は弱まるどころか、かえって激しさを増した。何もかもが熱に揺らいでいた。

 向かいの女子学生が住むアパートは、そのモルタル壁の灰色を膨らませ、()えた油絵具のように浮きあがらせていた。肌色の下着がいくつか女子学生の部屋の窓際で暑さに首をくくったみたいにダラリと垂れている。ぼくは歯ブラシにチューブ入り歯みがきをていねいにつけ、ゴシゴシと歯をみがきながら、黙ってそれを眺めた。

 頭が3t積みトラックのように重たかった。どこか近所で赤ん坊の泣く声が聞こえる。二度、三度、と汗に濡れた首と肩を回し、それからコーラと煙草を買ってこなくては、と思った。《そう、コーラと煙草だ》と口にだして言ってみた。顔を洗うとき、気をひきたてようとして鏡のまえで笑顔をつくってみた。濁った目をして黄ばんだ顔が、頬をひきつらせて映っていた。好きになれない顔だと思った。

 結局、その日は予備校を休んだ。半裸のかっこうで午後いっぱいぐずぐずと部屋の掃除をしたり、コインランドリーに行って洗濯をしたりして暇をつぶした。金からの手紙をふたたび手にとってみたが、読み返す気力がおきなかった。かわりに模試の結果通知を開いた。今までとったこともない最悪の成績が記されていた……。

 時計の針が夕方の五時をまわると、ぼくはのろのろした動作でまだいちども袖を通していないTシャツを着こんだ。胸に〝POPEYE〟と書いてある黒いTシャツ。――茉莉と色違いのお揃いで買ったものだった。洗いざらしのホワイトジーンズをはき、気をとり直して、その日がちょうど二週間目、つまり最後の日になるアルバイトにでかけた。休むことは思い浮かばなかった。《ぼくにだって、約束を履行するていどの信義のもちあわせはあるんだ……》とつぶやいてみたが、少なくともアルバイトの数時間だけは気を紛らすことができると知っていて、それを利用したにすぎなかった。

 ところがそうやって時をやりすごし、何かを自分に言いくるめて忘れさろうなどというのは、しょせん場あたり的な作為以外の何ものでもなかったらしい。ぼくはこの一人よがりに水をさされ、追い討ちをかけられた。――カンナさんが泥酔して、ぼくを呼んでくれ、と訴えているのを聞いたのは、その夜の二度目のステージが終わろうとするころ。だから、十時半になったか、ならないか、くらいの時刻だったと思う。

     17

「おい、坊や。悪いけどカンナを家まで送ってやってくれ。オマエさんじゃなきゃダメだそうだ。……あいつ、言いだしたらきかないからな」

 黒服のひとりに呼ばれて、ぼくははじめてホステスの控え室に入っていった。十五畳くらいもあるだろうか、一方の壁が鏡張りになったたてに細長い美容室のような部屋だった。入ったとたん、五、六人いた指名やヘルプのついていないホステスたちの視線が自分に集まるのを感じた。

「あら、坊や、こっち。こっちよ」

 三十すぎの(あか)い髪をしたホステスが手をふって呼んでいた。彼女がいたのは部屋の一番奥まった場所だった。かたわらにおかれたソファの上にカンナさんがタオルケットのようなものをかけて横になっている。脇にホウロウびきの白い洗面器が見え、近づくと香水やパフの匂いにまじって、吐瀉物の臭いがかすかに鼻をついた。カンナさんはぼくを見て起き上がろうとした。でも、急に身体を動かしてまた吐き気がこみあげたのだろう。ウッと言って口許に手をやった。手招きしたホステスがあわてて洗面器をあてがう。

「すみません……。もう大丈夫。吐きだすものはぜんぶ吐いたわ」

 弱々しく言って、それでも背中をさすられたカンナさんは、タオルケットを首のところで合わせ、身体をブルブルふるわせはじめた。

「寒いんですか?」とぼくは訊いた。

「なに、良くなってきているのよ」

 答えたのは、世話を焼いていた赫い髪のホステスだ。ちょっとかん高すぎる声だった。けばけばしい(かつら)のような髪をかきあげて、大げさな溜息をつき、続けた。

「ほんとにねえ。お客に酔ってもらうほうのホステスが逆に酔っぱらったら、話にもなにもなりゃしないわよ、……ねえ、カンナちゃん、あんた、ちゃんと聞いてんの?」

 カンナさんは目を瞑ったまま首をたてにふった。三十すぎのホステスは、ふん、というふうに顎をしゃくり、今度はぼくにむかって言った。

「このコねぇ、たまにコレやるのよ。確かにさあ、こんな商売やってたらつらいことも色々あるけどお……」

 彼女は蝶の模様をあしらった銀のシガレットケースから、金色のフィルターがついた黒くて細長い外国煙草をとりだした。カチリ、とライターの音を響かせて火を点ける。万事が大げさな態度だった。

「まあ、坊や、あんたがカンナちゃんのご指名なんだから、せいぜい気をつけて送ることね。家は知っているんでしょう?」

 ぼくは黙って彼女に頷き、カンナさんのハンドバッグを受けとった。

「持ち物はこれだけですか?」

「……えっと、それだけみたいよ。カンナさんがほかに何かもってきてても心配ないわ。あたしが預かっておくから」

 知らぬ間によこにきていた顔見知りの若いホステスが気のいい返事をして、下でタクシーが待っていると耳打ちしてくれた。

      *

 無理を言って細い路地に入ってもらったタクシーからおり、はげましてアパートまでたどり着くと、カンナさんはミッキーが留守のそのアパートのドアを開けるのももどかしげに、玄関にくずおれた。少し躊躇らったが、足首をつかんでハイヒールを脱がせた。ベッドまで曳っぱっていこうとすると、それまでぼくに預けっぱなしだった彼女の身体が、とつぜん硬くなった。

「待って。シャワーを浴びる……」

「だめですよ。こんなに酔ってちゃ」

 彼女はこくんと頷いた。ちょっとあまったれた声をだして、囁いた。

「それじゃあ、服を脱ぐから手伝って」

 ひるむべきではなかった。何も言わずに首をたてにふると、ぼくは誰もいない、ただ二人だけの部屋の存在を意識しながら彼女のドレスのジッパーをおろした。薄いグレイのパンティストッキングが二人の足元で丸まる。されるがままに下着だけになった彼女をもちあげ、ベッドにはこんだ。そして無言で、ぼくの首に巻きついていた腕をほどいた。

 押入れから、クリーニングして封のきられていないタオルケットをだして、彼女にかけた。それからベッド際にあった水差しの水をキッチンへ行って新しいのにかえる。思いついて冷蔵庫から氷をだし、それを水差しに浮かべながら、ついでにぼく自身もグラスに一杯冷たい水を口に含んだ。そのとき、やっと自分の喉がカラカラだったことに気づいた。――何杯もたて続けに水をながしこんだ。

 水差しと、力を入れて絞った濡れタオルをもって寝室へ戻ると、彼女は微笑んで待っていた。おいしそうに水を飲み、ごめんなさい、もっとクーラーをきかせて、と例の太ったホステスのような科白を言いながら冷えたタオルを顔にあてがった。拭ったタオルの白地に口紅が赤い染みをつくる。

 ぼくはそれを黙って見ていた。折り畳み式のデッキ・チェアにすわり、いつかどこかで見た光景のようにそれを見ていた……。話しはじめたのは彼女のほうからだ。彼女は左手にいつもはめているブレスレットをはずしながら、酔ってなんていないと誇示するようなひどく落着いた声でしゃべりはじめていた。

「ねえ、洋ちゃん、知っていた?」

「何のことですか?」

「これ、よ……」

 彼女はブレスレットで隠されていた左の手首を示した。幾すじか、ナイフの傷痕がはっきりと見えた。

「もうかれこれ十年近くたつわね……」

 一瞬、唇をキュッと結び、()っとぼくを見つめた。ゆっくりと口許を綻ばせ、タオルを裏返しにして目にあてた。

「聞いてくれる? 今夜はわたし、どうしてもおしゃべりしたい気分なの」

     18

 彼女はところどころで言葉をきり、呼吸をととのえるようにしてしゃべった。多少の自己劇化がまじっているに違いないその話に、しかしぼくは、わかっていながらもひきこまれていった。腋の下を汗がつたうのを感じた。クーラーをめいっぱいきかせて窓を閉めたままの部屋は肌寒いほどなのに、ぼくの腋をつたう汗は奇妙に生暖かな汗だった。

「このあいだ思ったの。不思議ねえ、あなたと茉莉ちゃんがなぜミッキーといっしょに遊んでくれるのか、まるでわからないの」

 彼女の言葉にはすべてを見透かしたような響きがこもっていた。

「でもね、じつを言うと、わかりたいとも思わないの。変かしら?」

「…………」

「あの子がね、ミッキーが生まれるってわかったとき、ほんと言うとずいぶん迷ったのよ。(てて)なし子を産んだってしょうがないって」

「戦死した後だったんですか? ミッキーが生まれたのは」

「ううん、生きてた。生きてたし、今も生きてるかもしれない」

「じゃあ別れたんですね、あの米兵とは」

「あの米兵? あの米兵って? ……ああ、ディックのことね。サイドボードの写真の」彼女の頬に皮肉な笑いが浮かんだ。「ディックだったら、ミッキーが生まれる一年以上もまえに死んでたわ。だから誰が父親って、ディックだけはミッキーの父親じゃないってわけよ」

「……どういうことですか?」

「ディックとは確かに恋仲だったの。あの写真、わたしの十八の誕生日のときのよ。あれを撮ってすぐ、彼、キャンプ・ハンセンの野戦訓練に行ったわ。知ってた? あのころキャンプ・ハンセンに武闘訓練に行くってことは間違いなくベトナムの最前線送りだってことを。三ヵ月後には彼、ケサンのあたりで死んだそうよ。額をきれいに弾丸が貫通していて、ほかはどこにも掠り傷ひとつなかったって」

「…………」

「それを教えてくれたのが、彼とおなじ部隊にいたコワルスキーって軍曹なの。いけ好かないヤツだったわ。太った金髪で、まだ三十まえなのにピンク色の頬がだらしなく弛んでいるのよ。コワルスキーはね、ディックの形見だって言って、書きかけの手紙と海兵隊の制服をもってわたしのところへやって来たの。そのときは涙をながすわたしを見て、とっても親切に慰めるふりをしてた。そして、その日から毎日わたしのところへやって来ては、いろいろと世話を焼いてくれるの。

 一週間くらいたったかしら、いっしょにパーティに行こうって誘われて、わたし、ついていった。テリブルなパーティだったわ。お酒やわけのわからないドラッグを次々に飲まされて、気がついたらわたしの上に黒人兵がおおいかぶさっているじゃない。それもバスルームの中でよ……。

 コワルスキーやほかの女の子や兵隊たちがニヤニヤしながらこっちを見てたわ。とちゅうで歓声をあげて、冷たいシャワーをかけるの。鶏の目がたくさんあって、ときどき『ガッデム』って言って黒人兵がそれを追い払っていたわ。それからどういうわけかFENのディスクジョッキーが聞こえてきて、最初ウルフマン・ジャックだったのが次々と声が変わって……。手首をきったのはね、それから三日くらいたってからだったかしら」

「訴えたんですか?」

「訴えるって、どこへ、何を?」

「どこへ、何をって……」

 カンナさんの口調にかすかに冷ややかなものがまじった。「洋ちゃん、あなた、まだ子供ね。やっぱり何もわかっちゃいないわ」

「どういうことですか ?」

 彼女はふいに口許を歪めて笑いだした。

「怒つたの ?」

 ぼくは彼女から目を逸らせた。手をジーンズのポケットにつっこんで、あちこち煙草を捜した。

「煙草? 煙草ならハンドバッグに入ってるはずよ。とって。わたしも一本喫いたい」

 黙ってバッグごと渡すと、彼女は自分のを口にくわえた後、パッケージをさしだし、マッチを擦ってぼくにかざした。

「……じゃあ、もうひとつだけ言わせて。ねえ、どうしてミッキーを産もうと思ったか、わかる?」

「さあ? 気がついたときには手遅れだったとか、そういうことですか?」

「そうじやないわ」彼女は烟りをゆっくりと吐きだした。「そんなんじゃないの。完全に意識して産んだのよ。自分がいやで、憎くて、このままじゃやりきれないから、産んでやろうと思ったの」

 ぼくは首をひねった。言っていることの意味がハッキリしなかった。

「いい? わたしのお腹の中にもうひとりのわたしが育っているのよ。デタラメで、いい加減で、誰の子かわからない子供よ。あのころは(すさ)みきっていたわ。高校をでたばかりで、惨めで、目の前がまっ暗だった。……でも、もう一度やり直そうと思ったの。いままでのことを清算して一から出直そうって。子供を産んで、わたしの中の汚いものをぜんぶ外へ吐きだして、生まれ変わろうと思った。もっとも産んだ後からは、だいぶ考えが変わってしまったけれど」

 彼女はひと呼吸おいた。灰皿をひきよせて煙草を揉み消す。

「ミッキーが生まれて、人並みに可愛いらしいと思うようになると、わたし、怖くなったの。あの子はわたしの過去を背負って大きくなるのよ。あの子はなにも悪くないのに、あの子は悪意そのものというわけ。わたし、見届けなくっちゃと思った。マイナスのわたしが育っていくのをずうっと……。

 でもね、そうやって育てていくうちに気づいたの。ひょっとしたら、わたしがあの子に見られてるんじゃないかって。そりゃあ確かに放っておけば、あの子ひとりじゃ何もできない。子供は三界の(くび)(かせ)というけれど、ほんとに大変よ。夜中に熱をだしたり、吐いたり、お金だってひどくかかるわ。けど、やっぱりあの子はわたしを見てるのよ。監視しているの。

 わたしね、ときどきあの子を着せ替え人形のお人形さんみたいにとり扱うの。いろんなものをとっかえひっかえ着せて。でも、そんなとき、あの子は青い目で凝っと見つめるのよ。お人形さんのように手足がもげたからって、捨てられはしないぞって……。

 わかる? あの子とわたしの(こん)くらべなのよ。やめちゃいけないの。たとえわたしたちのやっていることがママゴトでも続けるしかないのよ。わかる?」

 彼女はぼくを見つめた。どこか遠くを見るような寂しげなまなざしだった。ぼくは見つめられ、途惑いながら頷いた。

「……わかるような気も、します」

 その言葉を聞いて、彼女は目を屡叩(しばたた)いた。そしてかるくあやすように言った。

「ウソつきねえ……。洋ちゃんって」

      *

 結局、ぼくは彼女の部屋でデッキ・チェアに腰かけながら、まんじりともせずに夜を明かした。彼女は話すだけ話してしまうと、眠気のさしはじめた声でおやすみを言い、訊くとも、つぶやくともなく、ぽつりと言ったのだ。「ねえ、こんな女って、キライよね」

 そして一瞬、答えに窮したぼくを見つめてケラケラと笑い、真顔でつけ加えた。

「でも、眠ってる間に帰っちゃダメよ」

「え?」

「眠ってその後、朝目を覚ましたとき、そばに誰もいないのってやりきれないの」

 どこまで彼女の言葉を真に受けていいかわからず、すでにかるい寝息をたてはじめた彼女のかたわらで、ぼくはなぜカンナさんがこんなことを打ち明ける気になったのか、あれこれ理由をかんがえ続けた。もっとも、整理してきちんとした回答を得ようとする気があったのか、どうか? それすら、カーテンごしに揺らぎはじめた朝の光に気づくころには覚束なくなっていたのだが……。

 陽の光がうっすらと部屋に満ちはじめると、ぼくはキッチンへ行って珈琲をたてた。ミルで豆を()き、ドリップを使ってきっちり二杯。白いカップに入れると、それを希望をのせるように銀色のトレイにのせて、寝室へはこんだ。ぼくはそこで例のチェアにすわり、ゆっくりと珈琲を飲んだ。彼女はまだ目覚めていない。ナイトテーブルにおいたトレイに空になったカップを戻すとき、よこでもうひとつの冷めかかった珈琲が、かすかに思い出のような湯気をたてていた。

 静かに彼女に近づき、そっと唇にキスをした。冷んやりとした感触が伝わり、彼女はほんの少し顔をよこに傾けたようだった。ぼくはすっと身をひいて、頷いた。それから眠っている彼女と冷めた珈琲をそこに残してアパートをでた。

      *

 まだほとんど誰も起きだしてこない朝の径を歩きながら、ぼくは確かにそのとき何かを決意しようとしていたと思う。アスファルトを踏む自分の足音が、結論に迫り、あるいは迫られている思考の歩調に干渉して、急に大きくなったり、小さくまるまって消えるような気がした。ぼくは何をかんがえていたのか? それがはっきりしたのは、帰りついてアパートのドアを開けたときだった。

「どこに行っていたの?」

黄色い顔をした茉莉が部屋の中で待っていた。

     19

 ものごとに潮時というものがあるのなら、たぶんこの瞬間がそうだったに違いない。茉莉の視線に射竦められ、石化したようになりながらも、ぼくはこれから自分がやろうとしていること、やらなければならないことを理解していた。

 ミッキーは三日後に帰ってくる。照明のアルバイトは約束の二週間が昨夜で終わった。絶好のチャンスだった。このチャンスを利用してミッキーと別れ、以後、カンナさんともきっぱりと会わないこと。――手のひらを返すような言動に、ミッキーが傷ついたり、彼の母親が途惑ったりしても、それはまったく一時のことにすぎない。今後のことを考えればここではっきりとミッキーやカンナさん、そしてできれば茉莉との関係を断ちきったほうが、ぼくら全員のためではないのか?

 白状するがぼくは少なからず怯えていた。怯えがぼくをその場にクギづけにし、かえって落着きはらったような素振りで茉莉の瞳を見つめ返させていた。

 ぼくは自分だけの保身をかんがえていたのだろうか? たとえばこのまま続けば早晩露見するに違いない万引きや、予定調和的にやってくるだろう再度の不合格、茉莉とのいさかいの増大など、あれやこれやの破滅を怖れていたのだろうか? もちろんそうには違いない。だが、ぼくを結論へと導いた怯えの正体は、怖れの正体は、ただそれだけではなかった。

 子供っぽいと言われようが、何と言われようがかまわない。ぼくを捉えてはなさなかったのは、人が人をオモチャのように扱い、知らずに傷つけてしまうことへの大真面目な怖れだった。

 ミッキーはいまや万引きのさいの都合のいい遊び道具で、ぼくにとっても、茉莉にとっても、言うがままになる〝操り人形〟だった。茉莉にしたところで、つきつめればときどき部屋にやってきては、淫蕩に身体をこすりあわせる一種の〝おしゃべり人形〟じゃないか? もうこれ以上、自分を慰むためにミッキーや茉莉を利用したくない。誰も傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくない。

 ぼくは恥知らずなほど大真面目だった。ぼくとミッキーそして茉莉――この三人がはまりこんだ現実ゲームのなかで、偶然つくりあげてしまった権力の、無自覚で鈍感な行使という観念が、ひとしきりぼくの良心を締めつけていた。……うすうす気づきながらも、だからこそ直視しなかった事実に、ぼくは今こそ立ちむかわなければならない。覚悟を決めて口を開こうとした、そのときだ――。

「だめよ。だめよ!」

 茉莉が突然、堰をきったように涙を(あふ)れさせ、ぼくに飛びかかってきた。

 そう、彼女はむしゃぶりついてきた。何だかわけのわからない言葉を口走り、ぼくの首に腕をまきつけて、まるで締め殺さんばかりの勢いで。

 ぼくは呆然とした。何が何だかわからぬままにアパートの畳の上にひき倒され、転がされた。茉莉を払いのけようとすればできないはずはないのに、なぜかぼくはされるがままになっていた。茉莉の涙がぼくの頬に落ち、それが唇のほうへ伝いおりてくる。ぼんやりと天井を見つめながら、ぼくはぼくの唇を濡らす彼女の涙を少しずつ舌で舐めはじめていた。

 こんなのいやよ、こんなの……。泣きながら喚く彼女の言葉が耳にはいり、一瞬、ぼくはぼく自身がどこにいるのかわからなくなって、またひとしきり涙を舐める。塩からい舌触りのなかで、ふいに何か、粘っこく生臭いものがぼくらを包むのを感じた。べとべとして、ほの暖かくて、気力を萎えさせる、抵抗しがたい何か……。羞恥で頬が薔薇色に染まった。二人はもう、いやでもこの粘っこく酸っぱい襞々に囲まれ、がんじ搦めになっているというのか?

 ルール違反じゃないか。完全に話が違うじゃないか? 虚ろになった頭の片隅で悲鳴のように叫びながら、ぼくはそれに屈服してゆく自分を感じていた。

 結局、ぼくらは野合していたのだ。暗黙のうちに、抜きさしならなく野合していたのだ。たとえ彼女がぼくのなかにわけのわからぬ人間を認め、ぼくが彼女の納得の形式を理解していなかったとしても、すでに二人はゲームを続けねばならないのっぴきならぬ場所に来ていたのだ。

 たんなる欺瞞ではないか、瞞着の積み重ねではないか? そう幾度も自問した。だが、その都度(つど)、ぼくはぼくと茉莉の間に抗しがたく、がんじ搦めにできあがった心理の機制のようなものを感じてたじろいだ。ぼくはとことんそれにつきあわなければならない。茉莉が信じ、ぼくが信じ、世界じゅうが信じこむまで、ぼくらが作りあげる現実を強固なものにしていかなければならない。――一種の依存と執着からなる、粘っこい感情の襞を受けいれ、それに身をゆだねる自分を感じた。

      *   

 ミッキーはいまや二人の現実を維持し、作りあげてゆくための絶好の生贄のようにみえた。ぼくと茉莉は三角形の頂点たるミッキーを排除し、締めだすことによって、ぼくら二人の現実を確かなものにできるのではないか? ぼくはもう一人のぼくともう一人の茉莉が、ぼくらのかげでほくそ笑んでいるのを感じた。ぼくらと彼らの利害は共通していた。それは保身であり、身のほど知らずの越権行為からの撤退であり、要するに不安の解消なのだった。ぼくらはそうやって、破滅へと、希望の不在へと移行してゆくことへの恐怖をごまかそうとしていた。かくしてミッキーに対する裏切りがはじまった。

 ミッキーが帰ってくる日、ぼくは彼との約束を破って、彼を迎えにいかなかった。かわりに池袋にある名画座の冷房のきいた暗がりに、ハンバーガーをもちこんで午後を過ごした。確かサム・ペキンパーの二本立てだったと思う。映画の中で人間が何人も死んでいった。スローモーションで人が死んでゆくとき、その人間がひどく気持ち良さそうだったのを覚えている。生きて動きまわっているときには重たく疲れきっていた男たちが、撃たれたせつなフワリと宙に浮かびあがって、いままで彼をがんじ搦めにしていた力から解き放たれたように死んでゆくのだ。

 映画館をでると、『新世界』へ行き、これまでのアルバイト料をもらった。法外な高給だった。予定どおり『ポピイ』から茉莉を早退させて、二人で夕食をした。もっと御馳走を食べようと言うぼくに、茉莉はアンチョビーのピッツァにすると言い張った。アンチョビーのピッツァとイタリア・ワインで乾杯した。

 乾杯のグラスの音には共犯者たちのたてる響きがあった。ぼくらは互いにパートナーの表情をのぞきこんで頷きあった。ぼくと茉莉は確信犯だった。二人の違いは、これからぼくらがやろうとすることを、ぼくが三人の関係からの退却と思いこんでいたのに対し、彼女のほうは二人の関係の前進と捉えていたことだろうか? いずれにしろぼくらの現実遊戯は以後、意識的なそれへと踏みこんだのだ。

 その夜から三日間、ぼくらはアパートに戻らなかった。三日間、連れこみホテルの原色の壁紙の中で過ごし、二人は都合よく発情した。

      *

 だが、ぼくらはそんなふうにしてまでミッキーから逃げまわり、彼をつき放す必要があったのだろうか? あとは居留守を決めこむことにして互いのアパートに帰り、二日たち、三日たつと、ぼくはそれを疑いはじめた。――ミッキーからはなんの音沙汰もないのだ。

 ひょっとすると、ぼくはミッキーにとって何者でもなかったのではないか? 季節がかわれば忘れさられてしまう存在、たかだかサマー・キャンプの十日間で忘れさられる大きい遊び相手の一人だったのではないか? 安堵と落胆のいりまじった奇妙な気分に襲われた。

 あてがはずれてぼくは落着かなかった。きみは意外とひとり合点で独善的な性格だなあ、とかつて金世光に評された記憶が甦った。かえって強情になり、五日目にはアパートに閉じこもって、ひそかな期待で彼を待ちかまえた。

 もちろんミッキーはやってこなかった。やってきたのは警察だった。

     20

――もしもし、もしもし?

いるのは判っているんだと言わんばかりの執拗なノックの音に、居留守を決めこむわけにはいかなかった。ドアののぞき穴からノックの主が警官であるのを確かめ、かんがえられるあらゆる疑惑と恐慌から、顔をひきつらせてドアを開けた。

 しかし警官はぼくを見るとサツと右手を顔の斜めまえにもってくる例の挨拶をして、にこやかな笑みを浮かべた。

「今度、ここの担当になったものです」

「はあ」

「何か変わったことはありませんか?」

「いいえ、何も」

「学生さんですね。ええっと……」

 警官はわざとらしく指を舌で湿して巡回カードをめくり、ぼくの名前を確かめた。

「お隣はお留守のようですね?」

 のんびりとした態度をよそおってはいたが、隙のない口調だった。目は少しも笑っていないのだ。

「……ああ、そうそう、これはついでなんですが、最近この近くで放火が二件ほどありましてね。まあ、暑いからいろんなのがでてきますワ。きみなんかも、心あたりがあったら必ず交番に届けでてくれないと困りますよ。じゃ、まあ、気をつけて」

 ドアを閉めて鍵をかけたとき、ぼくの胸中にひろがったのは紛れもない安堵だった。放心しながら証拠品を処分した押入れを眺め、もう大丈夫だ、もう大丈夫だ、とつぶやいた。もうミッキーには会わない。会わないし怯えることもない……、ぼくはそう繰返し、声にだして自分に言いきかせた。

 警官の言った放火については、しばらくしてから回覧板がまわってきた。二件とも近くの女子大寮のコンクリートとバラ線でできた裏門のあたりで起こったものだった。酒屋の倉庫の壁と、個人タクシーの木造ガレージが一部焼けたにすぎないボヤだ。

 ただ、前年にも同様な放火があったらしく、その犯人が捕まっていなかったことから、〝愉快犯を許すな!〟 と見出しに大きく書かれた紙面で、町内会長が声高な注意を呼びかけていた。今後、おなじような放火があった場合、自警団のようなものが組織されるらしい。

 どういうつもりか、回覧板には 〝氏名・印〟 と書かれた箇所があって、ぼくはそこに三文判を押し、隣室の夫婦もののところへもっていった。朝の十一時だというのにヘア・カーラーを巻いたネグリジェ姿の奥さんがでてきて、面倒くさそうに回覧板を受けとった。

「愉快犯? あら、愉快ならそれでいいじゃない。不愉快なのより、よっぽどましだわ」

 そう言って欠伸(あくび)をして、ぼくをにらみつけると、ドアをバタリと閉めた。

 ぼくは彼女の言葉の意味がよくつかめなかった。押しつけがましい回覧板へのあてつけなのか、愉快犯の意味をとり違えたのか、それとも隠然と放火魔を支持したのか? いずれにせよ、彼女は、ぼくと同様に回覧板に氏名を書きこみ、捺印し、欠伸をしながらそれをまた隣へともっていかねばならないのだ。ぼくはそんな回覧板が、何枚もぐるぐると 〝地域住民〟 の間を渡ってゆく様子を想像した。結局主役は回覧板なのだ……。

      *

 ミッキーはやってこなかったが、茉莉は連日のようにアパートを訪れた。回覧板がまわってきた夜も『ポピイ』から直行するなり、いまや挨拶がわりとなった科白で訊いた。

「ねえ、ミッキーは今日も来なかったの?」

 黙って頷くと、そう、と小声で答えて後ろをふりむき、明らかにつくったとわかるハシャいだ声をだした。

「見て、見て、足がパンパンになっちゃってる。見て、このふくら(はぎ)……」

 スカートをずりあげて、水気のない洗面台に寄りかかった。一瞬どきりとした。彼女のポーズが不毛で、それでいてひどく生々しい息苦しさで、ぼくに迫ってくるように感じられたからだ。ぼくは隣の夫婦ものの部屋からときどき洩れてくる獣じみたうめき声や、諍っているらしい物音、それに野菜の()えたような臭いを想い起こした。ぼくらは二人ともそれとは気づかずに、だらしなく、とりとめもなく、このママゴトじみた毎日の繰返しに屈服してゆくのではないか?

 だがもちろん、彼女はそんな、ぼくの思いこみには無頓着だった。頬を赤らめるぼくをふりかえって、きょとんとして、そして明るく言った。

「良かったじゃない。むこうから来なくなるなんて、万事メデタシ、メデタシ、よ」

 だが本当に、万事はメデタシ、メデタシだったのだろうか? ――ほどなく、絶望的な不安が露出した。 

     21

 ミッキーにふたたび出会い、決定的とも思われる現場をとりおさえたのは、それから数日たった夜遅く。霊園近くのふだんから人影の少ない児童公園でだった。茉莉と二人でしまる寸前の銭湯に行き、ついでに終夜営業の付属コインランドリーで洗濯をすませた帰りだから、時刻はもうほとんど真夜中に近かったはずだ。

「ちょっと、洋ちゃん。あれは何?」

 最初に気づいて、小声で指さしたのは茉莉のほうだった。

 大きく枝をはった欅の木々に囲まれ、それじたいがひっそりと闇に溶けこんだような公園の、ゴミ箱を設置してあるあたりがぼうっと妙な感じで明るんでいた。目を凝らすと黒いちいさな人影が動いて、そのよこで鬼火のようなものが生暖かく揺れている。どうやらその影は、まるめた紙のようなものに火をつけ、それを何度かゴミ箱に投げこみ、それではうまくいかないとわかったのか、大胆にもゴソゴソとゴミ箱をかき回している様子なのだ。ぼくは思わず声をだした。

 ――おい、何をしているんだ!

 意外と大きかったぼくの声に、影は一瞬すくんだ。びくびくっとふるえると、それからバネで弾かれたようにかけだした。

 ぼくは奇妙な予感から、乾燥機からとりこんだ一週間ぶんの洗濯物をその場で茉莉に押しつけ、急いでその影を追った。サンダルばきだったので、あるいは追いつけないのではと案じたが、いらぬ心配だった。圧倒的にぼくの足のほうが速かったのだ。コンクリートの塀を曲り、よこの路地へと入りこむまえに肩をつかまえ、まわれ右させた。――やはりミッキーだった。

      *

「何でこんなマネをしたんだ?」

 児童公園のブランコのまえでミッキーと三人でぎこちなくむかい合い、ぼくは高圧的な口調できき(ただ)した。

「何で、って言われたって……」

「答えられないのか?」

「ううん」

「じゃあ、言ってごらんなさいよ。大丈夫、誰にも言いつけやしないから、ね」よこから茉莉が優しく言った。

「…………」

「強情なヤツだな」

「そんな頭ごなしに言ったって、ミッキーが怯えるだけじゃないの」茉莉がまた言葉をさし挿んだ。「ね、ミッキー……。キミはいま、わけを言おうとしてたのよねえ」

 ミッキーはやはり子供だった。意図せず硬軟べつべつの役割をふった、ぼくと茉莉の双方の態度に、しだいに軟化し、しばらくたつと身もだえするようにしゃべりはじめた。

「……ボク、ひとりぼっちで寂しかったんだよお」

 そんな、ミッキーに微笑して、ぼくと茉莉はすでに例の偽善的な、保護者然とした態度をとりはじめていた。

 ぼくは訊いた。「ばかだなあ。寂しいんだったら、なぜお兄ちゃんたちのところに遊びにこなかったんだい?」

「行ったよ」ミッキーはちょっとムキになった。「キャンプから帰ってきてからね、三日も続けて行ったんだよ!」

「そうか……」と、ぼくはしらばっくれた。「ちょうど三日間、お兄ちゃんも、お姉ちゃんも都合でアパートを留守にしたときだな」

「オミヤゲをね、オミヤゲを買ってきたんだ。三人お揃いの船のかたちのキー・ホルダーだよ」ミッキーはそう言って目を上げ、ぼくと茉莉の両方を交互に見つめた。「……でも、ひとつは違うお兄ちゃんにあげちゃったんだ」

「違うお兄ちゃん?」ぼくが訊いた。

「うん。帰って三回目に洋一お兄ちゃんのアパートに行ったらね、そのお兄ちゃんがいたんだ。そしてそのお兄ちゃんが、ボクに『キミも待ちぼうけか。じゃ、いっしょに遊ぼう』って言って、しばらくいっしょに遊んだんだよ」

 ぼくと茉莉は目をあわせて肩を竦めた。

「それ、ほんとのこと?」茉莉が質した。

「ホントだよ。ボク、ウソなんかつかないよ」

 ぼくは首をひねった。他愛のない空想癖はどんな子供にだってある。たぶん、寂しさのあまりミッキーがでっちあげた 〝作り話〟 なのだろうと踏んだ。

「じゃあ、もうひとつの残ったキー・ホルダーは?」ぼくが訊いた。

「捨てちゃった」

「どうして?」茉莉が訊いた。

「ママが、もう必要ないでしょう、って」

「ママが?」

「うん」と、ミッキーはぼくをまっ直ぐに見つめた。「それでね、ママがもうお兄ちゃんに会ったらダメだって言うんだ。勉強で忙しいし、これ以上は迷惑かけちゃいけない、って」

 ぼくは自分の耳を疑った。もうぼくに会っちゃいけない? なぜ? なぜ、あのカンナさんが……? ちらり、と茉莉を窺うと、彼女は勝ちほこったような冷笑を浮かべている。その高慢な表情にむかって何かを言いかけようとして、しかし、ぼくは口を噤んだ。

 いずれにしろ、いま問題にすべきことはそんなことじゃない。茉莉のそんな態度ではないし、ましてや『モウ会ウナ』と言ったというカンナさんのぼくに対する態度でもない。問題はミッキーがゴミ箱に放火したということ。――そしてひょっとしたら、近所で大げさに騒がれているこれまでの放火は、すべてミッキーの仕業かも知れないということではないか……?

      *

 ブランコには三十分ほどもいただろうか?

 こちらの強圧的な姿勢のためか、殊勝な面持ちでちぢこまりながらも、しかし、ミッキーは、女子大寮裏の放火を頑として認めなかった。――彼が言いはるには、回覧板が自分のうちにもまわってきて、それで暇つぶしに公園のゴミに火をつけることを思いたった。それまでは火をつけて遊ぼうなんてかんがえもしなかった、と言うのだ。「お祭りじゃないけれど、このまえ三人でしたみたいに焚き火をしたかったんだよう」

 そんな彼の言い分を聞いたふりをよそおいながら、けれどぼくのとった態度は容赦のないものだった。彼が放火犯ではないかという拭いされない不信。ふたたび玉突きの玉よろしく、彼をいわれのない圧力の下におく後ろめたさ。それにいまのうちに歯止めをかけておけば八方まるく収まるはずだ、というつよい願望にも似た計算。それらが入りまじって、ぼくは自分でもやりきれなくなるほど恥知らずで狡猾だった。

 とりあえず今すべきことは、ミッキーをまだ母親が帰ってきていないらしいアパートに送りとどけ、以後火遊びは絶対にしないようきつく言い含めることだった。

「いいか、絶対にやめるんだぞ!」

「うん」

「万引きもダメだ。あれは悪いことなんだからな」

「…………」

「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、しばらく遊んでやれないけれど、我慢するんだぞ」

 ゴミ箱に火をつけたことをママにばらすぞとか、海の男はウソはつかないんだぞとか、それなりの脅しもかけて、ぼくはミッキーに念を押した。

「お兄ちゃんといま約束したことを、すべて守るって誓えるか?」

「うん。USマリーン(海兵隊)にかけて誓うよ」

 神妙に見上げる青い目と茶色の睫毛に、ぼくの気持ちは複雑だった。出生に関する事実を知ったら恐慌をきたすに違いないミッキーのマリーン崇拝を育てあげ、それに加担してきたのはこのぼくなのだ。げんにいまだってそれを利用し、彼の行動を操作しようとしている。目的のための手段と言いきかせつつも、心中、昏くわだかまるものがあった。

      *

 因果を含めてミッキーを帰したものの、その夜、不安はしっかりとぼくと茉莉の皮膚にまといついた。帰り道の、霊園からつづく裏通りを点々と常夜灯が照らしていた。そのひとつひとつの明りが夏の夜の濃密な闇に干渉して、アスファルトの路面をさざ波のように洗っている。そんなもうひとつの夜からぼくらの夜へ、ひたひたと寄せてくる渚のような街路を、二人とも黙りこくってアパ一トヘと急いだ。なにかをしゃべれば気休めになることは判っていたが、そのような気休めによって得られるその場かぎりの頼りなさが、かえって二人を怯えさせていた。

 恒久的な手段に訴えなければならない。ミッキーが放火犯であろうがなかろうが、以後、彼が絶対に火つけなんてできなくなるような、そんな手段に……。ツケがまわってきたんだ、とぼくは思った。

 かんがえうる最善手は、もういちどミッキーを、ぼくらのゲームにひっぱりこむことだった。よりを戻して彼を監視するのだ。だがその夜、ぼくのアパートで寝物語のうちにかわされた議論で、その提案は茉莉に一蹴された。

「どうやって見張ろうってわけ? 四六時中あの子をつけ回すの? せっかく縁切りしたんじゃない。万引きだって、もう盗品は処分したんだし、むしろあの子をわたしたちに近づけないことをかんがえるほうが先決だわ」

 茉莉は固執していた。彼女はあくまでミッキーを排除し、敵視することによって、ぼくと彼女の関係が強化されるものと信じこんでいるふうなのだ。ぼくらをのみこんだ深い水底のような闇の中で、彼女の目が一瞬、ちろりと光ったように思われた。ぼくは茉莉の黒く濡れた瞳をのぞきこんだ。

 「……いいから、きて」茉莉はタオルケット一枚をかけただけの夜具を開いて、彼女だけはまるで汗をかかない清らかな水魚ででもあるかのように、冷んやりとしたその肌をおしつけ、そっとぼくの腕をとった。

 彼女がミッキーの背後にカンナさんをどこまで感じて、どこまで忌避しようとしていたのか、それは判らない。しかしどうであれ、ぼくは茉莉を責めることはできなかった。彼女は本気なのだ。

 ほとんど漆黒の夜の中で潮が静かに満ちてくるような、押し殺した彼女の声を耳にしながら、ぼくは頷いた。一度はじめたゲームは続行しなければならず、ママゴトは続けることによってのみ、本物になる。ぼくと茉莉はこの事実を言わず語らずに了解しあっていたように思う。ただ、ぼくらにわかっていなかったのは、排除するのであれ、とりこむのであれ、二人にはミッキーが必要だったこと。ミッキーこそが、その夏、ぼくらがのめりこんだゲームの賭け金だったということだ……。

     22

《拝啓先日は勝手な手紙を送りつけて失礼した。現在、僕はめでたく退院して北海道に帰り、母方の親戚がいる札幌に住んでいる。今後は一週間に一度大学病院に通院しつつ、予後を養う予定だ。自ら望んだこととはいえ、ほんの一週間くらいの間で身のふり方がバタバタと決まってしまったので、正直言って僕自身が驚いている》

 ところでミッキーが言っていた「違うお兄ちゃん」については、しばらくしてこんな書きだしではじまる金世光からの長い手紙が届いて、謎が解けた。

《……帰省するおり、どうしてもきみに会いたいと思い、一日だけ時間をつくって雑司が谷のアパートを訪ねたが、きみは留守だった。しばらくボンヤリと帰りを待っているうちに、青い目をした栗色の髪の男の子がやってきた。ミッキーという名の子だ。ミッキーはもう三日も続けてきみに会いにきているのに、きみはなぜかずうっと留守だと残念そうだった》

 文面によれば、金はミッキーと、お互いに待ちぼうけをくわされた同士、ほんの一時間ばかり近くの児童公園の木かげで遊んだらしかった。遊動円木に乗ったり、セミのぬけ殻をひろったり、霊園近くの屋台のカキ氷をいっしょに食べたり、といったふうに……。

 金は《きみとミッキーがどんな関係か穿鑿するつもりはないけれど、あの子はずいぶん可愛いい子じゃないか?》と、いかにも彼らしく率直に書いていた。金によれば、ミッキーは「いっしょに遊んでくれて、カキ氷までおごってもらったお礼」だ、とこまっしゃくれたことを言って、船の形をしたキー・ホルダーを彼によこしたのだという。

《ほんとうはきみへ渡すつもりでもってきたモノだったらしい。僕はお返しに、もっていたオイル・ライターを彼にあげたよ。じつをいえばそのオイル・ライターは、きみがもし煙草を喫っているようだったら、きみにあげようと思っていたシロモノだったのだが。(というのも病気して以来、僕は煙草を受けつけない身体になってしまったのでね……)》

 ともあれ、金はぼくに会えずに東京をひき払い、札幌にアパートを借りて一人住まいをはじめた。彼の両親をはじめとして周囲の者たちは反対したが、なぜか医者が彼の肩をもってくれたという。

《医者の思惑はどうであれ、この一人暮らしは僕自身の現実を冷静に見つめるためには必要な措置だと僕は信じる。

 どう言えばいいか、妙な言い回しになるが僕はいま一人になって静かに僕の来しかた行く末に想いを巡らせている。子供のころからそう教えられた唯一絶対の 〝チュチェ思想〟 ――その実践の過程で訪れた異様に確信的で、至福感に溢れた高揚と、そしてその後、急転直下、美しくもなくなった世界についてじっと想いを巡らせている……》

     23

 以下は、そのとき金からきた手紙の残り、全文だ。

《ぜんたい、あの昂ぶりは何だったのだろう? 僕は子供のころから父親に、自分の身中をながれる朝鮮民族の血の誇りと、独立自尊の信念を植えつけられて育った。父親を絶対的に崇拝し、その背後にある偉大な朝鮮民族の受難と栄光を、すべての出発点であり、かつすべてが回帰する場所であると信じた。常に現実に裏切られながらも、そう信じた。きみも知ってのとおり、僕は日本人に搾取される同胞の姿をまのあたりにして成長した。だから、できることといえば信ずることだけだった。

 むろん、うまくやっている奴もいるにはいた。カネを貯め、名前を変え、日本人以上に同胞を搾取した手合だ。しかしそんな奴らにしたって、本当は弱くて自信なげで可哀相な奴らであるはずだった。そうでなくてなぜ、虐げられた同胞をさらに虐げ、カネだけに執着することができるのか? 朝鮮人であるにもかかわらずなぜ、日本人の社会に色目を使うのか?

 僕はライオンズクラブの妙ちくりんな帽子をかぶろうと必死になった奴らの一人に、石を投げつけようとして、思いとどまったことがある。元 〝雑品屋〟のその男が、近所の悪童たちがどこからかカッパラってきた銅線をつかまされ、結局はその銅線の本来の持主に慰謝料こみでそれを返却しなければならなくなり、さめざめと涙をながしたのを覚えていたからだ。必死で成り上がろうとする人間に石を投げつけるのは、その成り上がりがかつてした行為とおなじではないか?僕はそっと、手にした石をもとに戻した。

 もっとも周囲の他の同胞は、元廃品回収業のその男にくらべて、もっとずうっと貧乏だった。告白するが僕は石こそ投げなかったものの、彼らを元 〝雑品屋〟 とおなじ、いや、それ以上に憎悪のこもった視線で眺めることがあった。なんて貧乏で、なんてぶざまで、哀れっぽい奴らなんだろう、と。

 おそらくそんな僕の目つきを父親は敏感に察知したのだろう。あるとき僕の頬を平手打ちにし、「なぜオマエは本当の兄弟を、オマエ自身をそんな目つきで見るのか?」と詰問した。権威であり、絶対者である者の言葉を小学校にあがったばかりの子供が否定できるだろうか? 僕は信じた。あのぶざまで哀れっぽい奴らこそ兄弟であり、僕自身なのだと信じた。

 しかし今は違う。父親の言葉ばかりでなく彼自身をも客観視せねばならない。――こんなことを言うときみは驚くかもしれないが、 僕はこの客観視の過程で、父親を憎むことを学びはじめている。

 父親を憎む? そうだ。僕はあえて彼を憎悪しなければならない。彼は自分の夢を息子にたくしすぎたからだ。夢を子供にたくすのはあたりまえ、ときみは言うかもしれない。だが、彼の場合は違う。断じて違う。彼は自分の夢を夢としてではなく、絶対的なものとして僕に提示したからだ。

 いっぽうで貧しい同胞の現実を見ている僕に、彼は彼の理想を真の現実としてつきつけた。正しい現実の体現者として、ニセの軌道をはずれた現実のなかへ帰ってこい、というのが簡単に言えば、父親の僕に対する言い分であり、教育方針だった。

 しかし正直なところ彼はニセの現実を、貧しい同胞の現実をこそ信じていたのではないか? 正しい現実なんてどこにもない、いまある現実が現実だ、と割りきっていたのではなかったか? その証拠に彼は同胞を愛しもすれば憎んでもいたはずだ。母親を愛し、僕を産ませ、せっせと僕らを食わせた。人はその現実を受けいれればこそ、愛しもし、憎みもする。そもそもこの二つの概念は片いっぽうじゃ絶対に成立しない概念だ。その意味でこの二つの言葉は同義語だろう? なのに彼は、僕に愛だけを要求したのだ。

 まさしくそれは彼の後ろめたさから出来したものだと思う。彼は後ろめたかったのだ。彼は自己の理想を生きるには充分大人すぎたし、狡猾すぎた。そこで僕の登場だ。彼はあらゆる機会を捉えて僕に彼の理想を吹きこんだ。巧妙にひとつの現実としてね……。彼は病的だったと思う。だが彼の言うことは間違っていなかったし、間違いと感じることは禁忌だった。しかも彼には強力な援軍がいた。朝鮮民主主義人民共和国とその一千七百四十万の人民だ。これはまがうかたなき現実だった。いつだったか、赤軍派の幹部たちが日航機を乗っ取って、わが朝鮮に亡命したことがあっただろう。父親にとってあれは、堕落した日本帝国主義の敗北の予兆であり、あやまてる左翼急進主義運動の日本における終焉というわけで、かっこうの僕への教育材料だった。

 僕は彼に服従し、良き息子として成長し、刻苦勉励し、不信を抱くことそれじたいが自己自身の弱さと思いこみ、ひたすら真の現実に同化しようとした。――その結果やってきたものは麗しい誤解だ。孤立した無援の誤解だった。

 もっとも狂気の中にいた自分にそんなことがわかろうはずもない。まったくその逆だった。僕はあのぶざまでおどおどした同胞に、限りなく純粋で優しい息づかいを感じることができるようになったと思った。彼らの中の娘の涙に出会い、それに涙し、彼らの中の息子の憤りを通じて、彼らの苦しみや喜びとひとつになったと信じた。僕は同胞をもうひとりの自分として眺め、連綿としてひき継がれる民族の血を心底自分の中に感じとる場所にいた! 不思議なことに、いつから自分がそこにたどりついていたのか、判断はできかねた。ただ、確信が知らぬ間に僕の中に棲みつき、ある日とうとうそれを発見した、というわけだ。……世界がいっきょに変わった。

 話が前後するが、去年の夏、きみに日本人がわが同胞におよぼしたいっさいの責任をどうかんがえるのか? と迫ったことがあるはずだ。きみの答えはしごく簡単明瞭だった。きみは韓日併合のときも、第二次大戦のときも、まだ生まれていない。そんな生まれてくる以前に自分でない誰かがしたことの責任などとれるわけがない、そう言ってつまらなそうに欠伸(あくび)した。

 なぜか納得してあのときはひきさがったが、狂気の中、もしそんなきみの意見にひきさがるとしても、今度は微笑しながらだ、と自分自身に言いきかせた。脅しではなく、その微笑がへだてるきみとの差は大きいと思った。僕はひとりではなかった。唯一にして真の社会主義国家が僕を体現し、逆に国家を僕が体現しているという確信があった。哀れなきみには拠るべき何ものもあるまい、とそう考えた。

 ……こう書いてみると、なるほど、僕の狂気にもそれなりに脈絡は存在したのだ。いや、それどころかあのときは明瞭に論理的だったとすらいえる。あまりの思考速度のゆえに僕の論理が理解されないだけのことなのだ。ときどき今でもそう思う。不当とも思われた入院と隔離の記憶については語るまい。ただ、退院の前後から父親について疑いはじめた、とだけ言っておく。彼の悪意についてではない。あまりに善意すぎる虚偽についてだ。

 退院後は意識して、父親の意志とは反対に振舞いはじめた。そしてあえて行ったことのない悪所にまで足をはこんだ。悪所などと言えば、二十年、いや三十年遅れの言葉だと笑うかもしれない。しかし僕の感性では、街行く人々は何年か先を歩いていたのだ。きみを驚かせ、ちょっぴりサービスするために白状しよう。きみに女について講義した僕は、じつはついこの前まで童貞だった。

 しかしそんなことは、まあどうでもいい。問題は僕自身を再組織しなければならなかったということだ。

 そう、退院以来、僕は自己を点検し、改編し、世界と和解しようと必死で試みた。結論を性急に求めることは不可能だが、この間にひとつだけはっきりしたことがあるように思う。――それは、根源的には、世界との和解は不可能ではないか、ということだ。僕は部分的にしか和解できない。治癒とはつまるところ、この部分的な和解の()いではないか? これはかなり絶望的な認識だが、僕はこの異和に親しみはじめている。

 さきに狂気の中で「きみには拠るべき何ものもないとかんがえた」と僕は書いた。しかし、ほとんど皮膚の感覚そのものと化した異和感の中にいるいま、拠るべき何もの、とはいったい何なのか? それははたして存在するものなのか? 僕にはわからない。僕は自分をひき裂いた二つの現実について思いをめぐらす。僕らはきみも含めて、必ず何かに、誰かに、実体的にか観念的にか繋ぎとめられて生きている存在だ。生きるということは、おそらくそういった何者かへの合体だろう。たぶんその事実を無視して自分だけで生きているつもりになったり、自分ひとりに関心をもって生きようとするのは、欺瞞であり、傲慢というものだ。

 だが、その繋ぎとめられる現実が多様であり、不確かであって、その根拠いっさいが、じつはそれに拠っているはずの僕らに由来するのだとしたら? そして無根拠な(つか)の間の安定から僕らが再生産され、その再生産のためにまた、束の間の安定を生産してゆくのだとしたら? 僕はやはり、こんな堂々めぐりに陥ってしまう……。

 結局は生きにくい、とわかったようなふりをして――僕のささやかな再武装によると、このわかったふりがどうやら本当のわかったということらしいのだ――何かに狎れあい、次いでまた違った何かに()れあい、そのうちすべてに狎れあって窒息することが、生活の技術ということになるのか?

 ともかく、このままでは僕は済まさない。断じて済まさない。もう復学するつもりも、貧しくも美しい 〝チュチェ思想〟 に殉ずる気もないが、僕はいま自分にまといつく異和感を手放しはすまい。この異和こそが狂気からの贈り物であり、ただひとつの生きる支えであるように感じられるからだ。

 長い手紙になった。だが、どうしてもきみに胸の内を聞いてほしかった。きみへの一方通行のこの手紙を通して、僕を自分自身にむかって開きたかった。もちろんこんな手紙だから返事は期待していない。だが、いつか機会を見つけて訊ねたいと思っている。

 つまり、きみがこの世界の、東西とか南北とか、つまらぬ分類をとり払ったどこに属し、どこに行きつく場所をもっているのか? そんな場所は存在するのか、しないのか? 存在しないとしたら、そしてまさしくそんな不在の場所をきみが生きようとしているのなら、きみはいかにこの逆説を生きようとしているのか、を……。また会うときまで、僕はこの問いを、僕なりに()まず問い続けるつもりだ》

     24

 金からの長文の手紙が送られてきてしばらく、奇妙なエア・ポケットのような静寂がぼくの周りに訪れた。なによりもまず、懸念したミッキーがあの夜の公園での約束を忠実に守っているように思われたからだ。少なくともその日以来、放火が起こったという話は聞かなかったし、ぼくや茉莉のアパートを彼が訪ねるということもなかった。

 心配しながらも、だから、ぼくはミッキーについてはできるだけかんがえまいと努めた。見たくないものを極力見ないようにすれば、それは実際に見えなくなる。見たいものだけが見えてくる。――そんな心理のメカニズムに自己をゆだねて、ぼくはそろそろはじまる予備校の秋からの講習準備にとりかかろうとしていた。九月のはじめだった。

 しばらくぶりに開く予備校のテキストや参考書の類いは、不勉強のあせりを惹起するよりもなぜかぼくをホッとさせた。茉莉も、『ポピイ』のアルバイトをやめ、うってかわって穏やかな表情でぼくのアパートに顔をだし、彼女なりにぼくの勉強の邪魔にならぬようにと気をつかっているようだった。ぼくはかるい錯覚におちいりそうになった。

      * 

 楽観がうち破られたのは、予備校がはじまって最初の一週目の日曜日のことだった。たまたま泊っていくことになった茉莉が夜食にスパゲッティを作り、それを食べ終わって、紅茶を淹れていた夜中の一時すぎ。突然アパートのドアがつよくたたかれたのだ。

「ごめんなさい……。ミッキーがお邪魔していないかしら?」

 ドア口にカンナさんが青ざめた顔をして立っていた。

「いえ、このところずうっと会ってませんけど……。いないんですか?」

 はっきり覚えた胸さわぎとは逆に、ぼくの口調は意外に冷淡で落着きはらっていた。茉莉の視線が気にかかっていたことも事実だ。だがそれ以上に、どこかでカンナさんに裏切られたという理由のない記憶をすでにぼくはこしらえてしまっていたらしい……。あきらかに冷ややかなぼくの視線を、カンナさんはどこか避けるようにして首をうなだれた。唇をかるく噛みながら、悔んだように肩をおとす。

 そんな彼女の素振りが、銀と黒の縦縞のサマー・ドレスを着た大人の女っぽさとあいまって、妙に頼りなげな印象をぼくにあたえた。ぼくは茉莉をふりむいた。スヌーピーのエプロンをつけた茉莉は、あきらかにそれとわかる優越意識のようなものを誇示して、微笑んでいた。

「ほんと、どこへ行ったのかしら?」

 茉莉の口をついてでた言葉も、木で鼻をくくったような返答だった。彼女とカンナさんの目が一瞬、きびしく交叉したように思われた。ぼくはぼんやりと二人を眺めた。自分では気づかなかったが、あっけにとられていたのかもしれない。ぽかんと二人を眺めながら、だが、次の瞬間には、ぼくは何かに魅せられたように、大胆に心変わりしていた。

 そう、ぼくのとった動作は思いがけなくきっぱりとしていた。びっくりするほど軽率で、大胆だった。――ぼくはふいにカンナさんの手をとり、それを強く握りしめたのだ。

「捜しに行きましょう。心あたりがある」

 背後に複雑な茉莉の視線を感じながら、彼女が何か言うまえにぼくは口走った。

「茉莉はここで待ってろよ。ミッキーが来て、入れ違いになったら困るから」

      *

 もっとも外へでて歩きはじめると、ぼくは急に自分が頑なになっていくのがわかった。自分の身体の表面をつつんで、周囲にむかって開いたり閉じたりして息をしていた何かが、みるみるうちに石膏で固めたように硬化し、窒息して死んでゆくのだ。必要以上に肩をいからせ、黙って、どんどん歩いていくぼくに、それでもカンナさんは遅れまいと急ぎ足でついてくる。

 ぼくはしかし後ろをふりむかなかった。二人の距離が、物理的にも、心理的にも、どんどんひろがっていくのは承知していた。でもぼくは彼女を待とうとはしなかった。ぼくが相手どっているのは彼女ではなく、愚かしく醜悪な、自分自身の不安定さだと知っていたからだ……。

 足はまつ直ぐ、例の霊園近くの児童公園へとむかっていた。茉莉とぼくとがゴミ箱に放火したミッキーの犯行をとりおさえた現場。そして、そのミッキーと金世光が、二人して待ちぼうけをくわされた同士、遊動円木に乗って遊んだという現場。

 以前の女子大寮裏のボヤがミッキーの犯行かどうかは知らない。しかしミッキーが放火という取りかえしのつかない一線を踏みはずすとして、その後であれ、そのまえであれ、彼が行くところはあのブランコしかない。――そんなおかしな確信がぼくにはあって、結果的にはそれが正しく的を射ていた。

 ミッキーはひとり、闇の中でぽつねんとブランコに揺られていた。夏の夜の黒々とした意志が、そこだけ彼に場所を空けていたような、木と鎖でできた遊具に腰かけ、目を伏せ、所在なげに片足で地面をかるく蹴りながら。

「ミッキー!」

 かけ寄って彼の肩をつかまえると、ぼくは強く揺すぶった。そして低く、静かに、だがつよい調子で訊いた。

「おまえ、やってないよな? まだやってないんだろう?」

 ミッキーはぼんやりと、途惑い気味の視線をこちらにむけた。「……いったい、何のこと?」

 演技した気振りもなく巧みにしらばっくれる彼に、さらに何か言いたてて詰め寄ろうとしたとき、背後に大急ぎで近づいてくるカンナさんの気配を感じた。

 逃げるなよ! 腰を浮かせたミッキーを抑えこみ、がっちり肩をつかんで、ぼくは彼を彼の母親のまえにひったてていった。

「何をしてたのよ! 心配するじゃない」

 彼女はその場にペタリとしゃがみこんでミッキーをきつく抱きしめた。よくあるように涙をながしていたのかもしれない。ぼくはそんな二人から目をそむけた。

 ミッキーとカンナさんの母子にいったい何があったのか? 互いに監視しあい、凝視しあう母子の関係に、いったい何が介入し、あるいは何が介入しないことによって綻びが生じたのか? ぼくにはそのことを知る権利もなければ、その意思ももちえないはずだった。

 いずれにせよ、ぼくはこんな愁嘆場など見たくなかったのだ。黙ってその場から(きびす)をかえした。どこか遠くで何か、サイレンのような音を聞いたような気がしたが、ぼくはその物音に注意を払おうとはしなかった。ぼくは嫌悪にせきたてられていた。

 ミッキーにでも、カンナさんにでもなく、もちろん茉莉にむけられたものでもない、ぼく自身にむけられた嫌悪に、だ。気がつくとぼくは、ほとんど全力で走りだしていた……。

      *

 アパートに帰りつきドアを開けると、茉莉の靴がなかった。飲みかけの紅茶が二つ、スナップ写真のようにその場に静かにおかれていた。

 部屋の中に居すわっていたのは空虚だ。安っぽい壁紙がとり替えたばかりの蛍光灯に照らされて、いらいらするほど明るかった。《……誤解だよ、茉莉。誤解だ》そう心の中でつぶやいてみたが、むろん彼女が誤解などしていないこと、今までもしてこなかったし、これからもしないだろうことが、ぼくにだって判っていた。

 しばらくぼんやりと佇み、それから思い出して、ポケットから残り一本になっていたクシャクシャの煙草をとりだして喫った。それからゆっくりと歯をみがいた。練り歯みがきはもうほとんどなくなっていて、チューブを丸めてつよく絞りださねばならなかった。灯りが消えてまっ暗になった女子学生のアパートの窓を眺めながら歯をみがきおえ、顔を洗おうとすると、石鹸もひどくちいさくなっていた。ぼくは目を(つむ)って、深く静かに息を吸いこんだ。何もかもが減って、何もかもが失くなりかけている気がした。

     25

――またあったんですって?

――夜中の一時くらいだったそうね。今度はゴミ箱に火をつけたっていうじゃありませんか。

――夜にゴミをだす人たちがいるから悪いんですよ。

――ほんと……。でも大きな火事にならなくって良かったわよ。つよい風でも吹いてちゃ、たまらないわ。

 うっすらと胸中にあった疑惑が確信に変わったのは、翌朝、表通りの自動販売機に煙草を買いにでて、近所のオバさんたちの立ち話が耳に入ったときだった。

 ミッキーに対するかすかな信頼がこのときに死んだ。言葉にならない猛烈に昏いものがこみ上げた。……やつは、ミッキーは、あのときすでに事をしでかした後だったのだ! 辛抱していた何かが轢きつぶされ、黒々とした怒りがつきあげてくるのを感じながら、ぼくは乱暴な足どりでアパートに戻った。何か自分に狎れたり、触れたりするものがあったら殴りかかっていきかねないほど、完全に自制心を失っていた。

 だからミッキー……、きみはそんなぼくに絶対に会いにくるべきではなかったのだ。会いにきて、ぼくを待っているべきではなかったのだ。なのになぜ? よりによってなぜあのとき、きみは特別あつらえのあどけない顔をして、ぼくを待っていたのか? それも口笛なんか吹きながら。

      *

 ミッキーは両手をサロペットの腰ポケットにつっこみ、アパートのドアに背をもたせて待っていた。ぼくを認めると『ザ・ロンゲスト・デイ』を途中でうちきって、お愛想のような笑みを洩らした。

「何をしにきたんだ?」とぼくは訊いた。

「謝りにきたんだよ。きのうママに怒られたあと、お兄ちゃんにお礼を言わなくっちゃねって言われたんだ。……お兄ちゃんもボクのこと怒っている?」

「帰れ。今すぐに消えろ」1

「…………」

「火をつけるようなやつに用はないんだ。殴られるまえに、とっとと帰れ」

「……ボクじゃないよ。ボク、放火なんかしていないよ」

「言い訳なんて聞きたくない!」

「何で信じてくれないの? ボクじゃないよお」

 ミッキーの顔が苦しげに歪んでいた。だがぼくの顔も負けずに陋劣(ろうれつ)に歪んでいた。

「じゃあ訊くが、おまえは何であんな夜遅くに外にいたんだ?」

「それは……」

「言えないだろう? ウソツキ野郎」

「ボク、ウソツキじゃないよ!」

 強情を張るミッキーが憎かった。ぼくは彼をつよく険しい目で見つめて、それから無視するように首をふった。ミッキーのなかに、ぼく自身の卑しい影を見出して、それを敵視していたのかもしれない。

「ねえ、信用してよ。放火なんてしていないってば……。USマリーンにかけて誓うよ。してないってばあ」

「なにがマリーンだ。寝呆けるなよ。そんなものにかけて誓われたら、こっちが迷惑だ」

 ミッキーの目からじわっと涙が溢れた。「ウソじゃないよ。マリーンに誓ってウソじゃないよお」

 ながれる涙をそのままに、上目使いに見つめるミッキーを、ぼくは無恥で、強情で、そのくせ卑屈で、がまんがならないほど狡猾な異人種を見るような、そんな目つきで見返した。

「ミッキー、おまえは怖ろしい子供だな」

 ぼくは意識して低く、押し殺した声で言った。

「え?」

 途惑うミッキーを無視して乱暴にアパートのドアを開き、彼をしめだす目的で肩口からぐいと自分の身体を玄関に入れながら、ぼくは続けた。いつか、どこかで確かに見た、夢のなかのような光景……。ふいに、ぼくはぼくがずうっと以前からミッキーをこのように扱ってきたのだ、いまぼくが意図してそうしているように扱ってきたのだと確信した。

「おまえ、本当に怖いぞ。このまま育ったら怖いぞ」

 ドアを閉めたとき、一瞬、抗議の対象を見失って息を嚥むミッキーの姿が瞼の裏に映った。だが、ぼくはそれを無視した。ねぇねぇ、ねぇってばぁ……。嘆願するような彼の声が、しだいに転調して、非難のそれにかわった。……キライだ、お兄ちゃんなんてキライだぁ! そう言いざま、かけだす彼の足音がして、やがてその音も消えた。

 そして、それが、――ドアを閉めるぼくに、一瞬見つめる対象を喪失して息を嚥んだそれが、ミッキーの姿を見た最後だった。

     26

 すべてを知ったのは次の日の夕方だった。

 結局、どんな事実も、ぼくのところに届くのは間接的な経路をへたうえでのことなのだ。慌ただしい音をたてて郵便受けに投げこまれた夕刊を手にとり、なにげなくひろげて、それを知った。

   留守番の子「火遊び」で焼死

《十六日午前一時十五分ごろ、東京都豊島区雑司が谷一の××の六、アパート「ハウス・チェリー」四号室飲食店勤務与那嶺ひろ子さん(二八)方から出火、木造モルタル建ての同アパート二階部分約四十平方メートルを焼いた。この火事で与那嶺さんの長男美樹夫くん(八歳)が焼死した。与那嶺さん方は母子二人家族で、出火当時、与那嶺さんは帰宅していなかった。原因は美樹夫くんの「火遊び」とみられ、最近付近で相次いでいる放火事件とは直接関係がないものと思われるが、念のため目白署では近くの住民から事情を聞いている》

 ぼくは新聞を握りしめたまま、ドアの鍵もかけずにミッキーのアパートにむかった。途中、夕陽がひどく眩しくて、鋪道や駐車場の金網に照り映えていたのを憶えている。目を伏せて霊園裏の近道を急ぐぼくと、スーパーマーケットから買物籠やポリ袋をぶらさげて帰ってくる何人もの主婦たちとが行き違った。

 気がつけば、彼女たちのサンダルから生えるふくら(はぎ)が暮れなずむ夏の終わりの空気のなかで、開き直ったように律動していた。他愛もない彼女たちのおしゃべりが繰返し、繰返し、襲ってきて、夕陽のなかで重たく沈んでゆく。二人乗りをした少女たちが自転車のベルを鳴らし、ブレーキの音を(きし)ませながらぼくを追い越していった。

 アパートの周囲には、水をかぶって投げだされたままになった洋服ダンスや布団袋がころがっていた。燻った柱の焼け残りが、竜骨のように空にむかって立っている。「立ち入り禁止」の高札と、ぐるりとめぐらされた黄色と黒のツー・トーンのロープが、中に入ろうとするぼくを拒んでいた。

 ロープを握りしめたぼくの腕に、禁止の札がカラカラと鳴って、振動が重たい手応えとなって伝わってくる。周りを見回すとすべてが、ぼくの頬が、ロープが、竜骨が、夕陽に赤く染まっていた。ぼくは火柱を想った。噴きだす黒煙のなかでミッキーがゆるゆると艫綱(ともづな)を解いていた……。

 彼は短かすぎた、あまりにも短かすぎた碇泊を終えて(いかり)をひきあげてゆく。潮騒(しおさい)のように狂おしく波だつ焔。崩れ墜ちる火のうねり。火群(ほむら)のなかでミッキーが(さび)しげに微笑んでいた。 出港だ。彼は永遠の安息(やすら)ぎをもとめて艫綱を解く。

 ……ぼくは混乱していた。わけのわからぬまま啜り泣いていた。結局、ミッキーはひどく無力だったのだ。この世界のどこにも属さず、行き着くべきどんな場所もなかったのだ。赤く染まった夕暮れの中を、くりぬくようにして進み、ぼくはアパートヘと戻っていった。

      *

 カンナさんとは連絡がとれなかった。何度かクラブへ電話を入れたが、「休みだ」とのつっけんどんな返事がかえってきた。直接、池袋の『新世界』へ訪ねていこうかと何度も思ったが、そのうち、会う必要はないと自分に言いきかせた。あの夕暮れ、焼け跡から静かな部屋に帰ってきたとき、ぼくはすでに彼女やミッキー、そして茉莉ともたれあうようにしてつくった感情の束を、そっくり鍵ごと()くしてしまったのだから……。

 茉莉とは別れた。双方、納得ずくの別れだった。ミッキーを(うし)なって以後、依存と執着からなるぼくと茉莉の関係に、それを成立させる何かが喪なわれたのだ。そして、それに気づいたとき、彼女もぼくも、互いに対して残忍なほど興味を失っていった。ぼくの受験勉強はそんな二人がしだいに疎遠な間柄となるためのかっこうの口実となった。

 最後に彼女と別れたのは、あの三叉になって鋪道から矩形に延びたコンクリートの陸橋の上でだった。彼女は背すじを伸ばして、しっかりと前方を見つめて対岸へと去っていった。ぼくはその後ろ姿を見ながら、まわれ右した。そして鋪道のもうひとつの岸辺に開いた地下鉄口ヘと、ゆっくりおりていった。

     27

 あれからすでに二十年近い歳月がながれた。

 すべてが時とともに移ろい、気がつけばなにもかもが変わった。街はかつての街ではなく、街路をゆく人々の姿はかつての人々の姿ではない。――あれから以後、ぼくはあの年あの時間に出会った誰ひとりとも、ふたたび顔を合わせることはない。

 金世光からは手紙を幾度かもらった。一番最後にやって来たのは一九八○年五月のものだ。どこをどのようにしてかの地に渡ったのか、その手紙には韓国全羅南道光州市の消印があった。そしてその後、彼の消息はふっつりと途絶えたままつかめない……。

 消息といえば、ついでながらあの夏、日本赤軍によって奪回された反日武装戦線 〝狼〟 の兵士の一部は、二年後、ダッカでのハイジャック事件をひき起こしたメンバーに名を連ねていたが、 その後の行方については(よう)として知れない。

      *

 ただこの二月、ぼくは偶然茉莉を見かけた。いや、茉莉によく似た若い母親と彼女の幼い女児を見かけた。地下鉄の中だった。JR総武線にも接続して、外国人労働者が多く乗降することで有名なその駅に電車が停ると、母子は手をつないで乗りこんできた。たぶん幼稚園児なのだろう、女の子は片腕で大事そうに本の紙袋をかかえていた。

 ぼくの真向かいにすわったその女の子は、車両が身震いして動きだすと、紙袋から本をとりだした。なにか子供向けの魚類図鑑のようなものらしかった。しばらくくい入るように頁を見つめて顔を上げ、ぼくの視線に気づいたのか、驚いたように目を屡叩いた。それからおもむろに、ぼくに背をむけて吊革につかまっていた母親に訊いた。

「ねえ、ママ。海で一番つよいのはクジラ?」

「さあどうかしら?」

「それともこのシャチってのかしら? マッコウクジラを食べることがあるって書いてあるの」

「あら、怖いわね」

 女の子は母親の言葉に頷き、それから、ふいに途惑ったように口調を変えた。

「でも、でもね、ママ……。それじゃあ、海で三番目につよいものって何かしら?」

 ぼくは答えに窮した母親の返事を聞かずに席をたった。地下鉄がホームに滑りこんでいた。母親や、娘や、乗客たちの憂いや喜びをのせ、疲労や倦怠や、希望や夢想をのせて、滑りこんでいた。ドアが開いて人々の喧噪がひろがってゆく。

 ぼくはゆっくりとホームにおりたった。潮のようにおし寄せては引いてゆく人々のざわめき。広東語や、タガログ語や、日本語や、その他のみしらぬ言葉からなる想念のうねりの中でぼくは改札をぬけ、一歩、一歩、階段をのぼっていった。コンクリートの階段には奇妙な安定感があった。――しかしいったい誰の、何のための? 束の間の、けれど堅牢な安定感のなか、靴音が眩暈(めまい)のように反響する。

 吹きこんでくる風に身を(すく)めながら、ぼくは出口へ、現実のひろがりへとでていった。

   ─了─

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/01/09

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久間 十義

ヒサマ ジュウギ
ひさま じゅうぎ 小説家 1953年 北海道に生まれる。1990年「世紀末鯨鯢記」により第三回三島賞受賞。

長篇小説『海で三番目につよいもの』は(新潮)1993年1月号初出。

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