林檎
十二月一日――小樽。
此の前の手紙にも林檎の話を書いたね。海峡を渡つて、函館から小樽に来る汽車の窓から、新鮮な雪を着た林檎の林を見た――その雪と林檎の配合が、どんなに美しかつたか、てなことを長々とね。
今日もその林檎の話だ。
昨日の午後のことだつた。その北海道のすばらしい林檎の一つを、港の石に腰をおろして、がりがりやつていたと思い給え。
降り続いた雪が珍しく晴れた日曜日、空には白い光が満ちて、街が透明な硝子のように美しい。
ところへ、だしぬけに後から、
「よう」
と、肩をたたいた奴がある。ふりむくと、活動写真のカウボーイみたいな、鬚の青いいい男が、外套のポケットに両手を突込んで陽気に胸をそらしている。
「よう」
僕も陽気に笑いを返す――と言つてもわかるまいが、実はこんな話があつたのだ。
二三目前のことだつた。
港の
十二時近い柱時計。――窓の外は、もちろん雪。
ところへ、パンと
その音に、寝ていた男が眼を醒して、
「
これはまぎれもない日本語だつた。
あとで聞いて見ると、此の男、商売が船乗りで、去年の暮からまる一年あまり、沿海州をうろついていて、一二週間前に内地へかえつて来たばかり。それが、散々酔つぱらつて寝ているところを突然たたき起されたので、すつかり戸まどいして、使いなれた沿海州の
その晩のその男が、林檎を食つている僕の肩をとんとたたいたのだから、僕だつてだまつてはいられまい。
「よう、今日は。どうです一つ」
と、右のポケットから残つた林檎を一つ、好意のしるしにさし出した。
「ああ」
彼は太い眉をちよつと動かしたが、食べるとも食べないとも言わない。
「どうです」
と、掌の上でごひごひさせながら鼻の先きにつきつけるようにすると、やつと受けとりはしたものの、不思議に感慨無量な顔をすると、そのまま僕の隣りに坐りこんで、じつと林檎を視つめたまま黙りこんだ。まさか林檎の皮に死んだ
「話そうかね!」
「え?」
僕の不審顔に気がついたのか、男はくるりとふりむいてだしぬけに話そうかね、と言つた。そしてまたもとの陽気な笑顔にかえつて、手の中の林檎をぽいと港の空気の中にほうりあげると、上手にそれをうけとつた。
「林檎の話さ。林檎で鮭を釣る話さ。話そうかね?」
「聞こう」
こうあつさり気持よく来られては、僕だつてあつさりと行かざるを得ない。
「聞こう」
と、そう答えて
次に書くのがその男の話の荒筋だ。
退屈かい? でもなかろう。少々長くなるがまあ聞けよ。
――冬は、北海道の市民に、
「そら、あすこにいるような奴でね」
男が言葉を切つて指さす方に
――毎年、その失業季節を狙つて、そうしたスクーナーや貨物船を速成の漁業船に仕立てて沿海州行きの漁業人足が募集される。食費は向う持ち、取れた鮭は船主一、人夫二の割合で分配する。だから、一人あたり少くとも三十本は貰える。何しろ人間の背の高さもある鮭だから捨売りにしても、一匹二円五十銭、まる七十五円は残るわけだ。吹雪の中で仕事もなく、凍えて死ぬよりどの位いいかも知れない。と、誰でも思う。三四十人の人夫がたちどころに集る。
今から五六年も前のことだつた。そのころ内地からこの小樽に流れて来たばかりの若い渡り労働者であつた彼も、喜んで、その鮭取り人夫の一人になつたものだつた、と言う。
兎に角これで、仕事にはありつけた。外景気だけはいい出帆。
だが何しろ、冬の
「それまではよかつた。が、話はこれからだ」
と、彼はもう一度、ぱんぱん林檎をたたいて見せる。
――約束通り、一人あて三十五本の鮭も貰つた。いよいよ帰航、と言うところで奇妙な事が起り始めた。船の中の人間が段々黄色くなるのだ。五体の力がげつそり抜けて、日がたつにつれて四肢が漬かりそこねた
野菜はもう切れてしまつた、積めるだけ積んで来たのだが、と船長は言う。今更、沿海州の港に引きかえすことも出来ぬ。またひき返してみたところで、雪に包まれた野原と街だ。おいそれと青い野菜が手に入ろう筈もない。
「困つたね、その時は。どうなることかと思つたよ。眼に見えない蛭に、身体中の血を吸いとられて行くのを、みすみすそのままにしておかねばならぬ時の気持を想像して見るがいい」
男は、回想的な顔をして、腕の皮膚をぐいつとつまみあげて見せたが、
「ところがその時」
と、すぐ言葉を続けて、右手の林檎をぐいつとつき出した。
「此奴だ!」
――と言うわけは、船底に壊血病が襲い始めたその時、船長が、甲板のどこからか、林檎の樽を持ち出して来たのだつた。林檎と鮭とをとり換えろと言うのだ。陸で買えば、せいぜい十銭位の林檎一つと、人間の背の高さもある、投げ売りにしても二円五十銭にはなる鮭とをとり換えろと言うのだ!
「口惜しかつたろ。――せめて林檎一つに鮭一匹なら、まあ我慢も出来ようものを、一つに三匹だ! しかもその鮭の一つ一つは、一ヵ月にあまる難行苦行の
男は手の
「そうしたわけで、小樽へ帰りついた時はもとの
こう言いきると、彼はその林檎を、両手の指でパンと上手に二つに割つて、がくりと
どうだい、面白かつたかい? ――今度は僕が君に問おう。
え? つまらない? よくある手だ。船主、工場主、商人、株屋、銀行家 ――その他資本家一般の常套手段だと言うのかい?
よしよし。まあ、次の話を聞け。
「林檎で鮭を釣る。何んて面白い商売じやないか」
それから男は、そう言葉を続けると、林檎の皮をべつと海の上にはき出して、じろりと沖の方を睨んだのだ。視線を追うと、さつきの黄色いスクーナーの上に、じつと瞳が止まつている。
――おや?
「どうしたい、君?」
「解らんか?
「え?」
「彼奴がさ」男は手をあげてスクーナーを
「ほう」僕は思わず眼を見はつた。「それで?」
「もう一度乗りこんで林檎を食わせて貰おうと思つているんだ」
「そうしてまた、すつからかんになろうと言うのかね」
「違う。五年前の俺じやあるまいし。
「うまい!」僕は思わず手をたたいた。「その手だ!」
「ふん」ところが男は、ちよつと不機嫌そうな顔をすると、僕の顔をじろりと見た。「おい、隠すねえ。隠さなけりやならぬような奴だつたら、こんな話はしない筈だぜ」
「え!?」
「
と、彼は突然右手をのばし、僕の外套の襟をぐいとめくつて、上衣の胸の日本労働組合評議会の会員章を、とんと突いた。同時に左手で自分の外套の襟をめくると、めくつた裏をつき出すように胸をそらせて見せるのだつた。僕は見た。日本水火夫組合の赤い徽章をこの痛快な同志の胸に見た。
「ワッハッハ、驚いたか?」
「むう、驚かねえ、ワッハッハ」
大笑いに笑いながら、僕はだまつて彼の方へ、右の手を差し出したのだつた。
話はこれだけ。最後に一つ快報を送ろう。予定通り、仲間の奮闘によつて、小樽にもいよいよ合同労働組合が出来ることになつた。沖仲仕も三百人ばかり組織された。冬期の失業季節がもう眼の前だ。快戦一番、沖仲仕千二百をオール(全組織)にしたいものだ。
ついでに林檎を送るといいのだが、が惜しいことには鮭取り船の船長に、林檎の保存法を聞いておくのを忘れた。
草々頓首
此の一篇を、日本労働組合評議合「小樽労働組合」の同志に贈る。 丸木小屋のいろりに、吹雪の音を聞きつつ。 組合の再組織を論ぜし夜の記念のために。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/07/06
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