最初へ

二人の時頼

 のちに人口に膾炙されることになった、「人生は不可解なり」の一節を含む「巌頭之感」を遺して、日光の華厳の滝に投身自殺をした旧一高生藤村操のもうひとつの絶筆のことを知ったとき、わたしはつよい衝撃を受けた。それは、死の直前に、ある女性に贈った高山樗牛著『瀧口入道』に書きこまれたものであった。そして、『瀧口入道』は、十六歳でやはり死を選んだ弟が、最後まで手にしていた本であった。

 本の虫などと叱られ、濫読癖のあったわたしと違い、二つ年下の弟は小さい時から、本を読むことよりも機械いじりが好きで、殊に時計には目がなく、次々とこわしては母を困らせていた。中学生のころは音楽に興味をもち、ヴィブラフォンでウインナワルツやモォツアルトの小品などを弾く一方、ひまさえあれば、ラジオやレコード・プレイヤーを作ったり分解したりしていて、「ラジキチ」(ラジオ気違い)とあだ名され、読書の方には関心をあまりもたなかった。父にもよく、二人(なら)せばちょうどよいのにと言われたものであった。

 その、文学には興味をほとんど示さなかった弟が、『瀧口入道』を死の際にも携えるほど愛読していたことを、父も母もわたしも知らなかった。亡骸の傍にあった薄い文庫本は、幾度となく読み返され、持ち歩かれたらしく、角が擦れていて表紙も痛んでいた。十六歳の少年にはわからないところもあったのだろう、何個所かに鉛筆で仮名がふられ、簡単な語釈めいたものも書きこまれてあった。

『瀧口入道』は明治二十六年、読売新聞が歴史小説及び歴史脚本を募集したのに、当時、東京帝国大学一年であった高山樗牛が応募し、入選したもので、『平家物語』に素材を得ている。平重盛に仕える無骨一偏の青年武士齋藤瀧口時頼が、ふとしたことから恋におち、懊悩のあげく出家するが、結局、世を捨てきれず、入水した重盛の嫡男維盛に殉じて切腹するというもので、和漢混淆の流麗な美文でつづられている。

 明治の哲学青年が『瀧口入道』に絶筆を書きこんだのは、主人公時頼に託して、自分の胸のうちを思うひとに伝えようとしたものとおもわれるが、昭和のラジキチ少年は何をおもい、何に感動して、この世における最後の書とするほど、『瀧口入道』を酷愛したのだろう。久しぶりに古い文庫本を取りだしてみた。

 しかし、弟の死後、父や母が繰り返し読んで、息子の死の意味を探ろうとして探り得なかったものを、今、わたしが読んだところで何がわかろう。ただ、みずみずしい少年の心が、たまたま出会ったこの小説のロマンチシズムにつよく心惹かれたのだろう、抒情的で嫋々(じょうじょう)とした和文に漢語や仏語(ぶつご)象嵌(ぞうがん)した文章のリズムに、音楽少年は人一倍、感応し、酔わされもしたのだろうと考えるしかなかった。

 高山樗牛がこの小説の典拠とした『平家物語』によれば、時頼は、建礼門院の雑仕(ぞうし)横笛と相思相愛の仲であったのを、父親に身分違いを叱られ、それが動機で出家したことになっている。この時の時頼の言葉にわたしは興味をひかれる。

 

 老少不定(らうせうふぢやう)の世の中は、石火(せきくわ)の光にことならず。たとひ(ひと)長命といへども、七十八十をば過ぎず。そのうちに身のさかむなる事は、わづかに廿余年なり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をかた時も見て何かせん。

 

「老少不定の世の中」「夢まぼろしの世の中」とは、十九歳(一説には十八歳)の若武者も、当時の人々に深く浸透していた無常感の外ではなかったらしい。しかし、たとえ、長生きしたところで七、八十年、そのうち、若く元気であるのは二十年そこそこでしかない、それなのに眉目(みめ)よからず気に染まぬ者と、ほんの少しの間でも連れ添ってどうなろうという言葉は、やや、刹那的とも、現世享楽的ともいえるひびきを帯びているように感じられる。時頼の出家は養和元(一一八一)年とも、その前年とも伝えられている。養和元年といえば清盛の没した年、平家滅亡はその四年後にせまっている。天皇の外戚になるという宿願は果たしたものの、平家の栄光にかすかな翳りが生じ初めたころである。ひとつの時代が頂点を極め、終息に向おうとする時の頽廃臭が早くもただよいはじめていたのだろうか。そうした空気が時頼をして、「夢まぼろしの世の中に、みにくき者を、かた時も見て何かせん」と言わしめたのだろうか。

 樗牛の『瀧口入道』では、時頼は『平家物語』より年齢を四歳ひきあげられ、二十三歳とされている。これは、のちに示される時頼のみごとな悟りぶり、老成ぶり――それは一時のものでしかなかったのだけれど──が、二十歳前では不自然に見えかねないというおもんぱかりからの操作であろうが、もうひとつ、二十三歳という年齢は、執筆時の著者の年齢であることも考えに入れたい。樗牛は、男子たるもの、かくあるべし、我もかくありたしという思いをもって、『平家物語』とはかなり異なった時頼像をつくりあげ、年齢も自分と同年にしたのかも知れない。

 横笛との仲も、時頼の熱心な求愛にもかかわらず、横笛は内気で(うぶ)な上に、もう一人、熱心に言い寄ってくる男性がおり、ちょうど真間手児奈(ままのてこな)か、菟原処女(うないおとめ)のような立場に立たされていて、一通の返書をしたためることもしないままに終ったという設定になっている。そして、時頼は、何の反応もない恋に疲れ、悩みぬいたあげく、父親に横笛と結婚したい、妻として迎え入れるようはからってほしいと申し出て、武骨一徹な上、しかるべき家の娘をと心がけていた父の怒りを買い、出家してしまうということになっている。

 写真で見た藤村操の絶筆は、父茂頼(もちより)が恋に魂を奪われてしまった息子を諭した、「(ひと)(わか)き間は皆(あやま)ちはあるものぞ、萌え出づる時の(うる)はしさに、霜枯(しもがれ)の哀れは見えねども、(いづ)れか秋に()はで果つべき。花の盛りは僅に三日にして、跡の青葉(あをば)(いづ)れも色同じ、あでやかなる女子の色も十年はよも続かぬものぞ」の部分に赤鉛筆で傍線を引き、ページ上の余白に、やはり、赤鉛筆で書きこまれていた。

 

  そハ色ぞかし

   愛にハあらじ

  色ハ花よ

   無常の嵐に

   散りもせむ

  恋ハ日よ

  真如の光に

  春秋のけじめの

  あるべしやは  (「別冊太陽 日本人の辞世・遺書」一九八七年刊)

 

 茂頼の訓戒に反論し、時頼を弁護するかのようなこの言葉は、すなわち、藤村操自身の心中の披瀝であり、おもうひとへの愛の告白と読めよう。こういうかたちでしか自分の思いを相手に伝えられず、しかもその直後、死におもむいている藤村操は、樗牛の造形した時頼におとらず、一途で純なところのある青年だったのだろう。

 

 嵯峨野の祇王寺の奥を少し上がったところに瀧口寺というお寺がある。お寺の話によると、齋藤時頼が出家後、瀧口入道と名を改め、修行していた草庵の跡とのことである。もとは往生院三宝寺といったが、明治維新の際に廃寺となり、その後、再建された折りに、佐佐木信綱が瀧口入道にちなんで瀧口寺と名付けたのだそうである。となりの祇王寺が建物にも庭にもこまかく神経が配ってあるお寺であるのに較べると、ざっと竹藪を拓いた地面の上に、何となくがらんとした感じの建物が乗っているといった風で、簡素といえば簡素であるが、あまり、おもむきは感じられない。しかし、まわりの竹藪がまことにうつくしい。

 一度、竹の落葉期に行き合わせたことがある。めずらしくつよい風が吹いていた。風の止み間、黄ばんだ葉がさりさりと降ってきた。晴れていたが、少し、うるんだような空の高みから、光をひきながら降ってくるそれは、目の前にある竹から離れたものというより、何か、天界から舞い下りてきたもののようにおもわれた。かなりつよい春の疾風であったが、竹藪に降り積もったのや、庭にこぼれている細い葉が舞いあがることはなかった。地形のせいなのか。竹の葉の性質なのか。

 

 時頼が出家したと聞いて、横笛が往生院の庵を訪ねる場面がある。

『平家物語』の作者は、愛しあっていた自分にも知らせず遁世してしまったことを恨んで嵯峨野へと向かう横笛を、

 

 ころはきさらぎ十日(とをか)あまりの事なれば、梅津(うめづ)の里の春風に、よその(にほひ)もなつかしく、大井河(おほゐがは)の月影も(かすみ)にこめておぼろなり。

 

 と、のどかな、そして、ふたりの愛の時をおもわせる、あまくけだるい春の宵景色のなかに置いている。一方、樗牛は、

 

 ころは長月(ながつき)中旬(なかば)すぎ、入日の影は雲にのみ残りて野も山も薄墨(うすずみ)を流せしが如く、(つき)(いま)(のぼ)らざれば、星影さへも()と稀なり。袂に寒き愛宕下(おたぎおろ)しに秋の哀れは一入(ひとしほ)深く、まだ露下()りぬ野面(のもせ)に、我が袖のみぞ早や(うるほ)ひける。

 

 あるいは、

 

 大堰川(おほゐがは)(ほとり)沿()ひ行けば、河風(かはかぜ)(さむ)く身に()みて、月影さへもわびしげなり。

 

 といった情景を、熱烈な求愛に応えられなかった事情を語り、「我が誠の心を打明(うちあ)かさばや」と、時頼の庵を目指す横笛に用意している。この恋物語のあわれを強調するとともに、やがて剃髪し、ほどなく世を去ってしまう横笛の運命を暗示する、みごとな操作といえよう。

 時頼の籠っているのは嵯峨野の奥というばかりで、そことはっきり、所在がわかっているわけではなかった。あなたこなたをさまよった末、『平家物語』の横笛は、とある草庵から洩れてくる読経に恋しいひとの声を聞きあてて案内を乞い、『瀧口入道』の横笛は、通りがかりの僧に訊ねて荒れ果てた庵にたどりつき、「うら若き女子(をなご)の身にて夜を(をか)して来つるをば、蓮葉(はすは)のものと卑下(さげす)み給はん事もあらば如何にすべき」と、ひるむ心をはげまして戸をたたく。

 しかし、時頼は逢わない。

 横笛がまいりました、もう一度、お逢いしとうございますという訪いに、『平家物語』の時頼は、一方ならず乱されてしまう。戸の隙間からそっとのぞくと、ようよう尋ねあてたといった風情もいたわしく、飽かず別れた女が立っているではないか。同宿の僧に、お尋ねの者はここにはおりません、お間違えでありましょうと言わせて、女を帰したけれど、心の波立ちはおさまらない。一度は気強く堪えたけれど、もし、再び横笛が訪ねてきたら、心乱れ、どのようになってしまうかわからない。彼は修行の場を高野山に移すべく嵯峨を去ってゆく。世を捨てたとはいえ、十九歳の五体を流れる血は熱く、道心もまだ固まってはいない時頼のこの動揺ぶりは、さもあろうと共感され、その苦しさも推察される。

 樗牛の造形した時頼はちがう。彼は身も細るほど恋い焦がれた横笛の来訪に、座を立つこともしない。戸を隔てたまま、過ぎ去ったことはすべて夢、仏道に入った身には恨みも何もない、今さら逢ったとて詮ないこと、何も言わずにお帰りあれと言ったきり、その後は、横笛の涙ながらの哀訴にも一言の返答もしない。時頼と横笛が言葉を交わしたのは、これが初めてで、そして、最後になってしまうのだが、修行者瀧口入道になりきっている彼の心には、つゆほどの乱れも生じてはいない。

 この時の時頼は、出家後、一月と経っていないはずであるが、その道心の堅固なのには、おどろくほかない。恋を知る前の彼は、太平の世に馴れた文弱で華美な風潮を憤る、武骨一点張りの若武者であった。そして、一度、恋に落ちるや、身も痩せ細るまでおもいつめ、世を捨てるに至っている純な若者であった。こうとおもいこんだら、一すじにつっ走る一本気は、仏道修行にも遺憾なく発揮され、短期間に、「天晴(あつぱれ)大道心者(だいだうしんしや)に成りすまし」得たのであろう。

 時頼に拒まれた横笛は、もうこの世に身を置くところがなかった。髪をおろし仏門に入るが、やがて、はかなくなってしまう。『平家物語』には、奈良の法華寺に入ったとあり、時頼とのうたの贈答なども記されているが、樗牛は、横笛を深草の草庵に籠らせ、時頼とは何の往来もないまま、幾許も経ずして、みまからせている。

 深草といえば、小野小町に百夜通いの試練を課せられ、九十九夜まで通ったが、ついに命尽きたあわれな貴公子の名を深草少将といったことが、思い出される。さらに、『古今和歌集』にある哀傷歌、

 

  深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け

 

                     上野岑雄(かみつけのみねを)

 

 や、相手の女に飽いた男が、

 

  年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ

 

 と詠じたのに、女が、

  野とならば(うづら)となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ

 

 と、あわれにもしおらしいうたを返したので、男の愛がよみがえったという『伊勢物語』百二十三段。それから、これに拠った、

 

  夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里     藤原俊成

 

 ほか、深草を詠んだうたの数々。樗牛は、こうした、死のイメージ、ものさびしい秋のイメージに、幾重にもぬり重ねられている深草を、自作のヒロインの最期の地に選んでいる。

『瀧口入道』の時頼が横笛の死を知ったのは、行脚の足をのばした深草で、里人の何気ない世間話からであった。この時の時頼はさすがに涙をおさえかねている。里人が恋塚と呼んでいる、横笛の、墓ともいえないような粗末な土まんじゅうの前に立って、経文を唱え、感慨にふけるうちに次第に感情が昂ぶってくる。

 

 あゝ横笛、花の如き姿今(いま)いづこにある、菩提樹(ぼだいじゆ)(かげ)明星(みやうじやう)(ひたひ)を照らす(ほとり)耆闍窟(ぎしやくつ)(うち)香烟(かうえん)(ひぢ)(めぐ)るの前、昔の夢を(あだ)と見て、猶ほ我ありしことを思へるや否。逢ひ見しとにはあらなくに、別れ()つらく覚ゆることの、我れながら(いぶか)しさよ。

 

(なう)瀧口殿、ここ開け給へ、情なきのみが仏者(ぶつしや)かは」と戸をたたく横笛に、ついに応えなかった人とおなじ人ともおもわれない。僧侶にあるまじき心の乱れようであるが、また、まだ若く、しかも純な魂の持ち主時頼ならば、当然だという気もする。

 この、横笛の墓前の場面は、あたりのものさびしい情景と、時頼の世の無常をおもいつつも、過ぎし日の回想におぼれてゆくさまが、謡いものになりそうな美文でつづられている。樗牛が、典拠とした『平家物語』に通暁していただけでなく、大学在学中に近松門左衛門を研究し、論文を発表していることがうなづけるとともに、若かった著者自身、みずからの文に酔うているけはいも感じられる。

 

『平家物語』の横笛が修行したという奈良の法華寺に、彼女のちいさな坐像がある。時頼からの文を貼り重ねてつくられたものだという。丈は三十センチくらい、無彩色である。ちょっとうつむいているのもしおらしい。顔の下寄りに小さな目や口があるせいか、どことなく、あどけなさの残っている面差し、そして、剃りあげられた丸い頭がいたいたしい。頸もほっそりしていて、肩も華奢な撫で肩である。青年と愛を交した経験をもつ若いむすめというよりは、世馴れぬまま、男の求愛を受け止めかねて苦しみ、世を早くした薄倖の少女の方が似つかわしい風情である。もちろん、製作者は、はるか後年になって、『瀧口入道』という小説が書かれようとは、知るはずもないのだけれど。

 あちこち、虫に喰われたあとがあるが、よく見ると、少し黄ばんだ紙の裏側に何か文字の書いてあるのがところどころに見てとれる。時頼の筆跡ということになるのだろうが、ほそくくねった薄い墨のあとは恋文らしいなよやかな感じ、弓矢や太刀に馴染んだいかつい手で、一所懸命、思いの丈をつづったのだろうか。目をこらして見たけれど、何が書いてあるのか、わたしには、読めなかった。

 寺伝によれば、この像は横笛自身の作ということになっている。時頼からの恋文を出家後も大切に持っていたのはわかるが、それでわが姿をかたちづくったとなると、どういう神経なのかと鼻白む思いがする。べつに、時頼と横笛の悲しい物語や、この像の由来のすべてを信じているわけではないが、おなじことなら、横笛の死後、誰かがあわれんで、在りし日の可憐な尼僧姿を、彼女の青春のすべてともいえる時頼の恋文でつくったとでも伝わってくれればよかったのにと、おもう。

 

『瀧口入道』は『平家物語』に拠っているとはいいながら、かなり、潤色され、「平家」離れしていることが指摘されている。そのひとつが、時頼と横笛の関係、出家した横笛のその後であるが、もうひとつ、時頼の主君平維盛の最期も『平家物語』とは大いに異なっている。

『平家物語』の時頼は、横笛の草庵来訪に道心の鈍るのをおそれて、逃げるようにして高野山に入っているが、『瀧口入道』の時頼はその後も嵯峨の往生院にとどまっている。が、その時頼も嵯峨の庵を捨てる時が来た。横笛の訪いにはいささかの心ゆらぎも見せなかった時頼であったが、平家一門の都落ち、そして、一夜にして灰燼に帰した平家栄華の跡を目のあたりにするに及んで、とても都近くにいることに耐えられず、高野山に籠ってしまう。

 しかし、「山遠く谷深ければ、入りにし跡を()ふ人とてあらざれば、松風ならで世に友もなき」奥深い霊地に籠ったにもかかわらず、時頼は俗世との縁を絶ちきることも、確乎たる信仰心を得ることもできなかった。主君維盛が都に残した妻子恋しさに屋島を抜け出し、彼を頼って来たのである。

 時頼は動揺する。しかし、彼の感情のうごきは、もっぱら、かつて楊梅(やまもも)少将の名を得、宮廷社会の寵児であった主君の変り果てた落人姿に象徴される平家一門の運命の激変に向けられ、とどまるもので、この世の定めなさを観ずるには至っていない。僧衣をまとい、瀧口入道と名乗っていながら、この時の彼のものの見方、考え方は、以前の齋藤瀧口時頼、「弓矢の外には武士の住むべき世ありとも思はぬ」若武者時代のそれを一歩も出たものではない。

 したがって時頼は、維盛の戦線離脱という、武士の倫理にもとる行為を諾うことができない。自分のような一介の出家者を頼りとしなければならない旧主の現状に心乱されつつも、維盛の、ここで髪をおろし、僧侶姿に身を変えて何とか都に紛れ入りたいという頼みをうけ容れることができない。涙をふるって、平家嫡流にあるまじき未練なふるまいを諫め、屋島へ戻るよう進言する。

 どのような莫大な供養も、たった一日の出家の功徳に及ばないという。人目をくらます手段としての出家にせよ、宗教人として喜ぶべき出家の申し出を拒んだ時頼は、もはや、僧侶としては生き得ない。主家の運命に殉ずるしかない。解脱の境地はついに彼のものたり得なかった。

 これに較べると、『平家物語』の時頼は堂々たる(ひじり)ぶりを見せている。維盛も妻子の恋しさをしきりに口にはするが、死を考える心境になっている。一目、妻や子に逢いたいと屋島の陣を抜け出したものの、落人として人目に怖じつつ海山をたどるうちに、都への潜入の不可能なのをさとり、「是にて出家して、火の中水の底へも入らばや」とおもうようになっていた。

 こうした維盛に対う時頼も微塵も動ぜず、「夢まぼろしの世の中は、とてもかくても候ひなん。ながき世の(やみ)こそ心憂(こころう)かるべう候へ」と、いかにも仏門の人らしい応じ様である。維盛に武将として身を処すことや、平家嫡流の自覚を求めたりなどしていない。『瀧口入道』の時頼とは、スケールも視点も全くちがう。愛していた女の訪れに慌てふためいて嵯峨の庵を捨てた新発意(しんぼち)の、その後の三年間の精進のほどがおもわれる。

『平家物語』の伝える維盛は、高野山で剃髪後、熊野に詣で、浜の宮(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)から熊野灘に出て、沖合で身を投じて終るのだが、時頼は終始、維盛につきそい、その最期も見とどけている。最後の念仏を唱えていた維盛の、「あはれ人の身に、妻子(さいし)といふ者をばもつまじかりけるものかな。此世にて物を思はするのみならず、後世菩提(ごせぼだい)のさまたげとなりける口惜(くちを)しさよ。只今も思ひ出づるぞや」と、めめしいといえばめめしいが、まことに情の深いあわれな心情の吐露には、さすが、修行を積んだ瀧口入道もこみあげるものを感じている。しかし、ぐっと堪えて、ごもっともではありますが、生者必衰、会者定離は浮世の慣い、どんなに長生きなさろうとも死別を免れることはできませんと説き、たとえ、一日でも御出家なさった功徳に、極楽往生は疑いありませんと、慰めている。

 この言葉に力を得て維盛は入水するのだが、いかに、来世が信じられていたとはいえ、そして、「思ひ入れたる道心者」とはいえ、目の前で主君が投身自殺するのを見守る心中はどのようなものであったろう。さらに、読んでいて凄いとも恐ろしいともおもうのは、浮きあがって来ないかと、しばらく舟を漕ぎめぐらしていたとあることである。浮きあがって来ればよいとおもっていたはずはない。「浮きもやあがり給ふ」と海面に目を放っている姿を想像すると、何か、ぞっとするものを感じる。もし、浮きあがって来たらどうするつもりだったのだろう。

 樗牛は、維盛の入水地を熊野灘ではなく、和歌の浦に設定している。

 時頼の諫めにもかかわらず、維盛は屋島へ戻らなかった。時頼が谷に水を汲みに出てもどってみると、維盛の姿がない。書き残された二首のうたから維盛の決意を察し、それらしい人物の行方を尋ね訪ねして、和歌の浦にたどりついた時頼が発見したのは、けずられた松の太幹に「三位中将維盛年二十七歳、寿永三年三月十八日和歌の浦に入水(じゆすゐ)す」と大書きされたものだった。「あはやと(ばか)り松の根元(ねもと)伏転(ふしまろ)び、『許し給へ』と言ふも(せつ)なる涙声」であった時頼は、そのままそこで切腹して果てる。維盛に武人として全うすることを求めた時頼は、自身も主家に殉じ、武人として死を遂げて終るのである。

『瀧口入道』にえがかれている時頼は、いかにも熱い血の、そして、振幅のはげしい若者である。色恋沙汰に全く無縁で武骨ぶりを笑われていた身が、恋に落ちるとなるとやつれるほどおもいつめ、その恋が叶わぬとなるやただちに世を捨ててしまう。みごとに行いすましていたかとおもうと、なまなかでない乱れようを見せる。そして、結局、宗教を捨て、武士としての道を選んでいる。少しずつ、しかし、確実に信仰心をゆるぎないものにしていった『平家物語』の時頼とは、対照的といってもいいほど異なった性格の人物につくられている。若かった著者高山樗牛には、こうした人物の方が興味もあり、共感もできたのであろう。また、この小説が書かれたのが、日清戦争勃発直前という時代であったことも、影響していよう。

 

 嗚呼(ああ)是れ、恋に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に(ただよ)はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり。

 

 時頼の死を詠嘆するこの一節で、高山樗牛は『瀧口入道』を閉じている。

 

 地図をひろげてみると、高野山から和歌の浦は、『瀧口入道』には「歩めば遠き十里の郷路」とあるが、五十キロくらい、浜の宮海岸はその三倍近く離れている。樗牛が維盛最期の地を和歌の浦としたのは、戦陣に復帰しなかった維盛を、せめて、屋島に少しでも近いところで死なしめたかったのだろうか。時頼に追いつくいとまを与えないために、高野山から一番近く、しかも、優美な公達にふさわしい、歌枕の地和歌の浦を選んだのかも知れない。それにしても、五十キロの山道を一夜で下るのは、かなり早い速度のようにおもわれる。

『平家物語』に、時頼と維盛が小舟を出したとある浜の宮海岸は、紀伊半島の南東部、紀勢本線那智駅のすぐ南のうつくしい海岸である。やや、黄色味を帯びた白い砂に続いて、とろりとした感じの重たそうな水をたたえた熊野灘がひろがっている。ここは、昔、補陀洛渡海(ふだらくとかい)の船出の浜辺であったとされている。

 熊野の海は、古く、はるかはるか海阪(うなさか)を超えて、妣の国に通じていると信じられていたという。この伝承が、やがて、補陀洛信仰に発展していったのだろうといわれている。南の海のかなたに観音さまの在す補陀洛浄土があり、はるばる海をわたってゆけば、そこに到り着くことができるというのである。これを補陀洛渡海といい、九世紀半ばから十八世紀のはじめころまで、多くの僧や信者が小さな舟に身を託して、この浜辺から観音さまの浄土を目指して出ていったという。

 北風が七日も吹き続いたから、無事、補陀洛にたどりついたろうと噂された渡海者がいた。また、三十日分の食料を積み込んで船出した渡海者もいたという。七日間の追風や、一月の船旅で着くことができると考えられるほど、補陀洛の存在を確かにも、また、まるっきり手のとどかないものでもないと信じていたのだろうか。しかし、水死体となって、もとの浜辺に漂いもどった渡海者もあったろうし、海の恐ろしさに人々が無知だったはずもない。よほど僥倖にめぐまれねば生きながら補陀洛に到り着くことはむつかしく、渡海者の多くは海で落命し、死後、補陀洛浄土に迎え入れられると、考えられてもいたのだろう。

 維盛がこの海岸から、「一葉(いちえふ)の船に(さを)さして、万里(ばんり)蒼海(さうかい)にうかび」、沖合で身を投げているのは、補陀洛への道をこころざしたものといわれている。しかし、成功不成功はともかく、舟とともに波風に身を委せて、生きながら補陀洛を目指そうとしていないのはなぜだろう。死ぬ確率の極めて高い孤独な舟旅に耐える強靭な精神力は維盛のものではなかったからか。それとも、生きたまま補陀洛に到り着き、観世音菩薩に迎えとられるとは、維盛、そして、時頼も、信じていなかったからか。

 那智駅から北に三、四分のところに、補陀洛山寺というのがある。海をへだてて、補陀洛浄土に対いあっているとされ、補陀洛渡海をこころざす人々の道場であり、渡海の際の儀式を司ったお寺というが、現在は小さな本堂だけの、いかにもさびれ果てた感じのお寺である。境内は乾いた砂地が冬のひかりを吸って白く、木立もふかくない。冷や冷やした明るさに背中が寒くなる。

 本堂の裏にまわり、夏蜜柑の植わっている畑を抜けて山の中の道をゆくと、渡海僧たちのお墓が並んでいた。刻まれてある「渡海上人」という称号に気づかなければ、普通の僧侶のと変りない卵塔型であるが、暗い樹の下にしずまっているこの十幾基かの墓石の下には、一かけらの骨も埋まってはいない――。

 井上靖の小説『補陀落渡海記』には、渡海する境地に達していないのに、周囲から渡海するものと決められてしまった主人公をはじめ、幾人かの渡海僧が登場する。補陀洛浄土をまざまざと幻視し、生きながらそこに到り得ると信じて渡海した僧、死後に期待して死の舟出をした僧、死んで海底に沈むだけのことだと観じて舟の上の人となった老僧など。なかには、厭世自殺と異ならない渡海もある。ここにある墓石の数だけの補陀洛浄土があり、補陀洛渡海があったということなのだろう。

 小高い山の上に出ると維盛の供養塔があった。「正三位平維盛」と書かれた真赤な小振りの幟がかすかな風に時折うごいている。まだ真新しい。家々の屋根の上に海が真近く見えるが、波の音はとどいて来ない。おだやかに凪ぎわたり、一枚のプルシャンブルーのベルベットの布を延べたような海面に小さな島がいくつか浮かんでいる。補陀洛渡海の舟を曳航してきて、その綱を切ったところという綱切島、「南無阿弥陀仏」と書いた帆を立てたところという帆立島はどれなのだろう。どれが、維盛がいったん上陸し、松の幹に自らの墓碑銘を記したという山成島なのだろう。維盛の末期の眼に、この海の色は、どう、映ったろう。時頼の「御身(おんみ)こそ蒼海(さうかい)の底に沈むと思召(おぼしめ)さるとも、紫雲のうへにのぼり給ふべし」という言葉に力づけられて、この海に身を投げた維盛に、死の際まで補陀洛浄土は見え続けていたろうか。

 

 藤村操のことは、「巌頭之感」を残して華厳の滝に投身した旧一高生とだけ、そして、最近知った、もうひとつの絶筆のことしか知らない。したがって、ただ、想像するしかないのだが、旧制高等学校生徒の教養のほどを考えると、藤村操が『平家物語』を読んでいなかったとはおもわれない。遺言ともいえる言葉を書きこんだ『瀧口入道』のもととなった『平家物語』巻十の、「横笛」から「維盛入水」にかけては、読みかえしたともかんがえられる。しかし、近代の知性と知識を具えたこの青年に、補陀洛浄土など、あろうはずもない。

 「死にたいので」死んでしまった弟はといえば、ラジオいじりや音楽に明け暮れていたことといい、十六歳という年齢といい、『平家物語』は飛び飛びにしか読んでいなかったにちがいない。よしんば、『瀧口入道』にひかれて、巻十を読んだとしても、無神論者の父に育てられ、理屈屋でもあった少年には、時頼の、「御身こそ蒼海の底に沈むと思召さるとも、紫雲のうへにのぼり給ふべし」という言葉も、極めて具体的に語られる来世のことや弥陀来迎のさまも、荒唐無稽なおはなしか、昔の人はこんなことを本当に信じていたのか、くらいのところであったろう。弟にも、死後の世界は無かった、とおもう。

 しかし、たった十六歳で生きることをやめてしまった弟の死の際が、荒涼たるものであったとはおもいたくない。好きだったモォツアルトの音楽が、聞えていた、感じられていた最期だったと、おもいたい。

 

『瀧口入道』の時頼は、維盛の入水を知るや、「刃持つ手に毛程の筋の乱れも見せず、血汐の(のり)(まみ)れたる朱溝(しゆみぞ)の鞘巻逆手(さかて)に握りて、膝も(くづ)さず端坐(たんざ)せる姿は、(いづ)れ名ある武士の果てならん。」と、発見者を感嘆させた、みごとな割腹を遂げているのだが、『平家物語』に語られる時頼は、維盛の最期を見とどけたのち、高野山にもどっている。

 

 さる程に、夕陽(せきやう)西に傾き、海上(かいしやう)もくらくなりければ、名残(なごり)はつきせず思へどもむなしき舟を()ぎかへる。とわたる舟の(かい)のしづく、(ひじり)(そで)よりつたふ涙、分きていづれもみえざりけり。聖は高野へかへりのぼる。

 

 このくだりを琵琶法師はどんな節で謡ったのだろう。

 これ以降、時頼の名は『平家物語』に見えない。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/06/28

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

和泉 鮎子

イズミ アユコ
いづみ あゆこ 歌人 1935年 京都市に生まれる。

掲載作の初出はエッセイ集『鬼の棲処』(1988年1月7日、短歌新聞社刊)の中の一篇、少し、手を加えてある。