日本の文様
1.文様のいろいろ
格別の暑さだった今夏、若い人の彩色豊かなゆかた姿を多くみかけました。それなりに可愛らしく目を楽しまてくれましたが、やはりゆかたは藍の匂う古典柄をすっきりと着てほしいと思ったのは私だけでしょうか。そこで「日本の文様」とは、と考えたのです。
「ねェ、日本の文様といったら先ず何を思う?」と私。「うーん、麻の葉かしら」と友人。
「麻の葉」といってもピンとこない人もありましょう。戦前、赤ちゃんの
重ねて何人かに、同じ質問をしてみました。「私、
これらを分類してみますと、幾何学的な抽象的文様と、花鳥を中心とする具象的な文様とに分けられます。その中、最も単純な直線ものが「格子」、斜めが「たすき」。更にそれが「籠目」「
幼い日。初めて大舞台で踊った「供奴」を一段と凛々しく見せたのが金と黒のたすきの衿。その衣裳に合わせて紫の色足袋を注文しに行ったのが神楽坂。それが美濃屋さんだったか、むさし屋さんだったか、母に連れられて長い坂を登ったことだけを覚えています。
他に「雷」「亀甲」「卍つなぎ」、などが見られ、その変型に「紗綾形」があります。
紗綾形は、TVドラマ「遠山の金さん」のクライマックス、
このようにすっかり日本の文様になりきった麻の葉や紗綾形ですが、実は舶来もの。特に紗綾形は
一方、曲線を中心にして構成されたものに「七宝つなぎ」や「
さて、同じ質問に対する私の答えは「うろこ」と「
でも、現在、私の一番のお気にいりである、黒と丁字茶のうろこ模様の服は、厚手の木綿でインド製ですから、うろこは国際的パターンなのでしょう。
青海波を広辞苑でみると「中国清海地方の風俗楽。雅楽の一つ。それを舞う時の衣服の文様」、また「日本では元禄の頃から流行」とあります。
この間、TVで見た芸能百選「日高川」の中でその青海波が大きな効果を上げていました。清姫が心変わりした安珍を追って日高川に飛込み、蛇体となって泳ぐのです。舞台一面に青海波を描いた
ところで、この「青海波」。同じリズムの繰り返しで描かれていることから、穏やかに広がる海を表わすと云われますが、単に凪いでいるのではなく、その海面下に限りない強い力を秘めた海の穏やかさを表現したものと私は思うのです。その青海波を表紙に選んだ「ここは牛込、神楽坂」の前途は洋々。限りない発展を祈っています。
2.花鳥風月
花鳥を中心とする具象的文様をとり上げてみましょう。抽象的文様に比べて、構成の自由な点が特色になっています。
大昔、花と云えば梅でした。平安後期以降はそれが桜になります。その梅と桜のほかには藤と萩が好まれていました。そして桃山から江戸初期にかけて
その後、松・竹・菊・蘭の「
その中で特に「雪」は面白く使われています。古来、中国では汚れを覆いつくす純白の雪の清々しさに吉祥の意味を託したとのことですが、日本では雪の重さに耐えている、そのしなやかさに風情を見出したようです。「雪持ちの松」「雪持ちの笹」などが例としてあげられ、さらに雪は「雪輪」にまで象徴化されました。歌舞伎「寺子屋」の松王丸。踊り「鷺娘」の衣装を思い浮べてください。
また「
植物以外では吉祥的意味を持つ
俳句の季語にもなっている「
さて、正倉院御物には、いわゆる西方文物の影響を色濃く残した獅子、象、
消えたといえば、室町末期から桃山時代にかけて作られた絞りを中心に、白、藍、茶、紫の花の輪郭を墨ざしで細やかに描き出した上に、摺箔、刺繍を加えた「辻が花」があります。江戸時代になっての奢侈禁止令を経て、一時は「幻」とまでいわれたその技法を、現代の染色家が再現努力されたことは、すでに多くの方がご存じでしょう。
最後にもう一つ。文字を大胆にまた自由に書いたものの存在も忘れてはなりません。
一般的にはよく知られた古歌が多いのですが、
そういえば、神楽坂の夏まつりの宵、坂の街筋を埋めつくした阿波踊りで大発見。どの連も工夫をこらしたお揃いでしたが、特に第一勧業信用組合の白地に赤のそれが目に染みたのです。柄は見慣れたハートですが、程よいその大きさと腰から下、斜めに裾まで散らした意匠に意表をつかれました。これぞ新しい文様の創造と、まさに心を射とめられてしまったのです。
さて、ここまでは衣裳を中心に考えてきましたが、家紋や道具などにも斬新なデザインがあって今さらのように日本人の鋭く繊細な感性に驚かされてしまいます。これを機に一層、身の回りの品々に注意を払い、日本の文様の行方を見極めたいと考えているところです。
3.お宅の家紋は
今回は、家紋をテーマにしてみましょう。
「助さん格さん、こらしめておやンなさい」この
制限があると言えば平安中期に中国から渡来した高貴な菊花文は皇室の文様です。古くは一般にも使われたそうですが、明治二年に皇室以外の使用は禁止されました。
家紋の起こりは、古代から上流階級の衣服、調度品、輿などに付けた文様が家の標識となり、その後、武家社会で戦場において家の識別をするための陣幕、旗印、馬標に用いられました。つまり、家紋は同一家名に属した者が同じ紋を使用して一門の団結を強める役割を果したのです。
戦国時代を経て徳川の世になると為政者は裃に家紋をつけることで出自を明らかにさせました。駕篭や提灯などにも付けています。お互いに家格、
その頃の女性の地位は当然高くはありませんでしたが、紋付を身につけることで堂々と男性と対等の立場を示した例があります。歌舞伎の先代萩、
一方、町人の女性は普通、羽織は着ないものでした。でも、後家さんが紋付羽織姿になる場合は、亡くなった主人に代わって男姿で「私が店をとりしきります」という意思表示になるのです。
江戸中期以後は家紋も装飾の意味が強くなり、華麗な加賀紋、粋な伊達紋、男女相思のあかしとしての比翼紋などが出てきました。
時代によって変化しますが、基本的には男性が羽織・袴、女性が留袖でそれぞれ五つ紋がついて第一礼装。あとは三つ紋。一つ紋。また、染め紋が格が上で、縫紋にすると洒落てくだけた感じになるのです。最近は呉服屋さんへ出自に関係なく綺麗な紋を との注文があるとか。家に対する考え方の変化が判ります。
家紋を分類しますと、動・植物、器物、自然現象などに大別されますが、植物では、橘、桐、柏のように古代から高貴な文様とされたものが代表的な家紋になりました。特に桐は中国から鳳凰の好む木として伝えられて皇室の他、足利氏、織田氏、豊臣氏などが用いています。藤は藤原氏。蔦も万葉集にある古いものですが、徳川八代将軍吉宗が好んだことで権威が増し、形の優美さとまつわりつく性質から粋筋にもよく使われました。また
珍しいものに
泉鏡花の紋は、源氏物語に因んだ優雅な源氏香の「
また、動物では竜、鶴、鳳凰、亀など瑞祥を表すものの他、鳩、兎、
紋帳を開くと五千からある家紋の一つ一つが日本の奥深い文化を語ってくれるので、それに魅せられて時のたつのも忘れてしまうのです。さて皆さんの家紋は何でしょうか。
4.伊勢型紙と江戸小紋
この夏、うだるような暑さの中を渋谷のMギャラリーへ足を運びました。ジャワ更紗のコレクションを見るのが目的でしたが、部屋の一隅に何気なく積まれた伊勢型紙に目が止まりました。美しいオーナーの説明によれば御祖父様が集めた明治、大正の頃のものとか。お許し頂いたので、型紙の一筋でも害なったら大変と、心して見るうちに、その繊細さ、奇抜さに暑さも忘れてしまいました。錐彫と思われる鋭く細かい技法がこちらに強く迫ってくるのです。
伊勢型紙といえば小紋と中形。その小紋とは一般には大柄と中柄(形)とわけた時の小さな柄という意味ですが、現在、素材の上では絹や麻、技法の上では型染片面模様で、大部分が伊勢型紙使用の糊置染めのものをいいます。一方、中形は木綿が主で防染糊を両面から置いた漬け染めが中心。いわばその代表がゆかたです。
この伊勢型紙の生産地は三重県
更に、主として江戸及び東京に集中していたすぐれた型紙も度重なる大火、あるいは関東大震災や大戦の戦禍で古文書と共に焼失してしまったので謎の部分が多いようです。
さて、小紋は「
諸国の大名は特定の紋柄を指定して「留紋」「定め紋」と称して他用を禁じました。将軍家のお召十字をはじめ、綱吉の松葉、前田の菊菱、鍋島の胡麻、島津の鮫小紋などが例としてあげられます。その動きに対して町人は、似た文様を着て咎められては、という恐れと武士に対する日頃の反発心もあって、洒落のめした紋柄を作らせ、下着や羽織裏に仕立てて楽しみました。江戸後期の戯作者、山東京伝の案出した新柄小紋図案帳には
明治中期以降になると下町の粋の世界に対して新興の、つまり地方出身の官員社会、山手風が確立してきました。大きめの大らかな趣が好まれたので、従来からの単色小紋が次第に「江戸小紋」として区別されるようになったのです。
そして大正時代には新しい技法や化学染料の発達によって、ピンクや藤色などで型染された薄手の毛織物、メリンスやモスリンの他、シャルムーズ(地紋のある錦紗)などが流行しました。図案も更に多様化してアルファベットなども見られます。
しかし、現在、この小紋や中形を生み出す伊勢型紙の型彫職人はさまざまな状況の変化から姿を消し、技術保持者として文化財保護の認定を受けた六名(1955)の方も殆ど鬼籍に入られました。従って平成三年に発足した伊勢型紙技術保存会の活動が大いに期待されるところです。
練り上げられた伝統の文様と斬新な意匠を支えたこの手仕事の極致はもう望めないのでしょうか。あの日、そんな淋しい想いにも捉われながら一枚一枚、伊勢型紙を透し見たのです。
註・「江戸小紋」は型友禅と区別して、無形文化財保持者(1955)小宮康助氏認定の折、文化財保護委員会が使用した名称。
5.元禄文様
元禄十五年十二月十五日午前四時頃(寅之上刻)これが浪士の吉良邸への討入りの時。西暦では一七〇三年一月三十日にあたります。
さて、その討入りに浪士たちは何を着ていたのでしょうか。
一般庶民は江戸時代になってやっと今までの粗い麻布、藤布などから保温性の高い木綿を着ることができました。また、経済状態の安定を背景として、質の良い絹糸や織物も輸入され、衣服にする材料も、織物・染色の技術もぐんと豊富に高度なものになったのです。それらの集大成、発表の場が「小袖」と考えてよいのではないでしょうか。
本来「小袖」は
その小袖に描かれた江戸初期の意匠は、一般に寛文模様といわれて戦国時代の荒々しくも闊達な風が残っています。具体的には芭蕉や花丸紋のような花鳥草木の他、碁盤、梯子、三味線、弓矢などのユニークな題材です。
現存する文様の雛型や、当時の風俗を描いた屏風や浮世絵がその貴重な資料になりますが、例えば「彦根屏風」には絞り(鹿の子絞り)、刺繍、摺箔(金銀)など、贅をつくした文様が見られますし、他にも片身替り(左右違う模様)や唐織文の段替り模様、肩裾模様や色紙ちらしなども描かれています。それが十七世紀ころの流行だったのでしょう。また、切手になった菱川師宣の「見返り美人」を思い出してください。髪は毛先を丸めた「玉結び」。少し巾の広くなった帯も「吉弥結び」(歌舞伎役者、上村吉弥考案)。流行の先端をいっています。
その後の元禄模様は繊細で華麗の極みといわれ、色彩も玉虫、鴬、瑠璃紺などの中間色が好まれました。花鳥、風景、諸道具などの図案化が宮崎友禅の出現で一層豊かに表現され、尾形光琳の意匠、光琳桐、光琳梅などともてはやされたのもこのころです。少し後になりますが、鹿の子、弁慶格子、市松、亀蔵小紋の流行も特徴的で、洒落た感覚の発展に歌舞伎の力が大きかったことは注目すべきでしょう。
こうして輝きを増す町人の台頭を押さえようと幕府は奢侈禁止令を度々出しました。しかし町人は反発こそすれ「奢侈」はそのまま深く静かに潜行して江戸的な渋い好みの中に、渡りものの
さて冒頭の討入りの衣装は衿に氏名を書いた刺子のお揃い、火事装束でした。途中で咎められれば申し開きができ、戦闘にむく機能的な服装、しかもお揃いで集団性を強調できるものとなればこれが一番。加えて、水を表わす白の三角が、火を表わす黒のそれを押える、袖の山形模様は、呪術的な水の意匠を意識的にとり入れたものと言えましょう。綱吉の時代には大火が四回もあり、小さい火事は数しれなかった江戸です。抜本的な消火の対策のなかったころには祈るより他はありませんでした。その江戸初期の消防史上、勇名をはせたのが長矩の祖父、浅野内匠頭長直です。庶民はもうこの二人を同一視しました。
火消しで功をたてた殿様が無念の思いで死に、その敵討は当然、火事装束を着て果さなければ亡君はよろこばないと。
従って事件後、四十余年たって上演された「仮名手本忠臣蔵」の討入りの場は揃いの火事装束で見物の庶民を沸かせたのです。本来の記録には「いろいろ異様なる装束_」とあるようですが。
さて、その装束の山形模様ですが、インドネシアのトゥンパル(山形鋸歯状)に思えてなりません。そうだとすると、彼等は「底至り」のさきがけをなした洒落者たちの集団といえるのではないでしょうか。
註・丸谷才一著『忠臣蔵とは何か』をぜひご一読ください。
6.江戸の底至り
先頃、肉筆浮世絵展(出光美術館)に行き、版画とはまた違った味の繊細でにじみ出るような艶やかさを楽しんできました。江戸中期以後の爛熟した文化を
度々出た奢侈禁止令でこの時代の色の好みはどんどん渋くなりましたが、その分、文様の方は工夫をこらして、一見ありきたりに思える縞や格子がさまざまなアイデアをもって表現されています。それと共に渡りもの(輸入品)の更紗が「底至り(註)」の美学にいっそうの彩りを添えました。そしてそれらの流行を支えたのは、歌舞伎役者と芸者だったのです。
まず縞。縞には「千筋」「万筋」それがよろけて「よろけ縞」。太い筋から次第に細くなる「滝縞」などがあります。その縞を基本にして格子が出来、それを歌舞伎役者がいろいろ考えて自分の柄を創案しました。
たとえば「
また十三世市村羽左衛門は六本筋の格子に平仮名の「ら」の字を配した「市村格子」を作り、三世尾上菊五郎は横筋五本、縦筋四本、それに「キ」「呂」を入れて「キ」九(筋の合計)五(横筋)「呂」の「菊五郎格子」、さらに縁起をかついで「
他にも、普通は地色が赤のところを五世岩井半四郎が浅黄にして着た「半四郎鹿の子」や、古くから能衣装にあるのを人気ナンバーワン若手、初世沢村源之丞が着た「観世水」も、文様が復活したよい例です。
そして、
今年は
さて、この時代の流行は「四十八茶、鼠百」と言って茶と鼠とがその代表色。茶には五世団十郎の柿色(弁柄に柿渋)が市川家の色として有名ですが、
鼠は深川・藤・鳩羽・桜など百を数えるくらいあって微妙な色合いが好まれもし、それを染め分ける技術も発達したといえましょう。三代歌川豊国の「神楽坂」(江戸名所百人美女)には、その頃全盛を極めた毘沙門天と共に、鼠地に茶と白の棒縞、印章散らしの衣装を着た美人が描かれています。
このように江戸の「底至り」は、さらに東南アジア、インドなどに深いつながりを持った
註・
7.海を渡ってきた更紗
「ま、いい
小股の切れ上がった姿そのままの江戸弁で
さて、前に述べた「江戸の底至り」に華を添えた更紗は、どんな風に日本に渡って来たのでしょう。
慶長十八年(一六一三)イギリス人J・セーリスの『日本渡航記』に更紗を平戸領主に贈ったとの記録があることからも、その頃、ポルトガル、スペイン、オランダなどからの船載品の中に更紗が含まれていたことは容易に推測できます。そして小袖、帯などの衣料に用いる他、風呂敷、煙草入れなどにもして利用度は高かったようです。
大衆の集まるところで目立つニューファッションとして、この異国情緒豊かな布地が愛好されたのでしょう。確かに今まで絞りや繍いに頼っていた文様が、模様染として鮮やかな色彩に加えて、通気性よく洗濯可能な木綿という取り扱い簡便な素材を伴って出現したのですから、珍重しないわけがありません。日本ではこの外来の手描き、型染めなどの模様染めを更紗、皿紗、佐良紗と記し、金箔や金泥を施したものを金
スペイン SARAZA サラサ
ポルトガル SARACA サラーサ
オランダ SISTS シッツ
ドイツ CHINTZ チンツ
イギリス CHINTZ チンツ
フランス SIAMOISE シャモワーズ
インドネシア BATIK バティック
インド KALAMKARI カラムカリ
中国 花布 ホワプー
更紗のルーツは、紀元前から模様型染めがすでに行なわれていたインドとされていますが、その到来が日本の友禅染めをはじめとする各地の模様染めの発達に大きな影響を与えたようです。
さて、江戸期の資料を見ますと、インド産が中心で、その輸入量も正徳元年(一七一一)に金更紗二〇反だったのが、天明元年(一七八一)には壱番更紗二〇〇反、弐番更紗一、一〇〇反と飛躍的な伸びを示しています。壱番とはベンガルのカシムバザール仕入れの品、弐番とはビハール州パトナ仕入れの物で一段下の品質とされていました。またその文様は日本向けに製作したと思われる扇子、紋手、いちご手などがあり、井伊家伝来の「彦根更紗」の中に実例が見られます。
十九世紀になるとヨーロッパ更紗が輸入され始めました。日本でも和更紗がつくられたように、ヨーロッパでも更紗が作られたのです。文化十年(一八一三)、輸入総量七、八七二反の中、本国上更紗一六六反(上等品)とあってこれがヨーロッパ更紗の初出。ただし、これはオランダ船と称する実はイギリス船によって運ばれたものでした。そしてそのことは、オランダ商館長H・ドゥーフ以下数名と日本側のオランダ大通詞五名のみが知る大きな秘密事でした。寛永十六年(一六三九)以降、オランダが唯一の通商相手国と定められていましたから。
そういえば先頃、TV・長崎奉行・(市川森一原作、NHK)で遠山金四郎の父、長崎奉行の小林稔侍と、日本を脱出して今は清の通辞となった萩原流行とが、イギリス船をオランダ船であるといい切って窮地を逃れるドラマの山場を興味深く見たところです。
8.更紗をめぐる国際情勢と和更紗
いろいろと考えた末、紅色の地に
鎖国下の日本が唯一通商相手としたオランダ商館は
しかし、一八一一年、バタヴィア地方を占領したイギリスのT・S・ラッフルズは日本との貿易を計画しました。あのボロブドール遺跡の発見者です。日本に初めてヨーロッパ更紗を持ち込んだのがオランダ船を装ったイギリス船だった事件は前号で述べました。そのイギリスの望んだ取引内容は従来の日蘭貿易と同じだったのですが、出島の商館長H・ドゥーフはその時のイギリス代表とわたりあってオランダの権益を死守したのです。その後、バタヴィアもオランダへ返還されましたが、まさにイギリスの進出による国際情勢の変化の中、オランダは危機的状況に立たされていたといえましょう。
さて、我が国文政期(十九世紀初)の更紗輸入は年平均八千反余になり、ヨーロッパ産のものがインド産のそれを上回ってきます。本来、ヨーロッパ更紗は色鮮やかで独自の花柄や幾何学紋様が描かれ、インド産よりも高価なものでした。しかし、同時に模造パトナ、模造ベンガルと称してインド更紗を模した下級品も製作しています。産業革命による木綿の大量生産が背景にありますから、非常に安価で本家のインドに対してもどんどん輸出しました。そのため、インドの上質綿布業者は大打撃をうけ、デカン高原が手織綿工業者の骨で覆われたといわれています。
日本にもこうしたヨーロッパの模造更紗が大量に輸入され、より実用的なものとして扱われたはずですが、安価になったとはいえ、この渡り物が実際にどんな値で人々の手に入ったのか知りたいと思います。いずれにしても、衣類として庶民への拡がりが急速だったと見え「近来軽キもの共、ころふくれん(毛織物)さらさ等帯其の他ニも相用候由…」と禁止の対象になり、更に着用した者も罪になる文政十三年(一八三〇)のお
衣類の他「
一方、日本製更紗の発展に関しては十七世紀に「
「鍋島更紗」は三〇〇年余も続いた江頭家の一子相伝で作られ、主に参勤交代の折の土産にしていました。藩の保護の下に図柄も技術も高度に保とうとしたので、一カ月に一匹(二反)しか生産できなかったことや、素材も木綿の他、
しかし、更紗が伝来してから一世紀もたたないうちに和更紗作製の動きがあったのですから、いかに日本人が愛好したかが判りましょう。更紗を通して世界の動きを見ることの面白さも加わって、この魅力ある布がこれから先どんな変容をとげるでしょうか。
9.縞を追って
我輩は縞である。バリエーションがありすぎて定まった名はまだない。といって始めたい縞の話です。今年は縞が流行るとのこと。そういえば確かリカちゃん人形の新しいスチュワーデスの制服も、きりっとした縞でした。その縞と格子・水玉は旧くて新しい普遍的な文様として世界中の人々に愛されています。
特に縞は単純でありながらその太さ、本数に色が加わることによって、一層、複雑な味わいを増していきますが、共通する持味は、すっきりと強く爽やかであると同時に、或種の艶やかさを示している点でしょう。
「あの金時計は、当分私が預かって置きます」
「私からーーええからーー私から誰かに_」
着る物の柄までは余り細かい描写をしていない漱石も、藤尾の美しく、プライドの高い魅力を、このように癖のない洗髪と棒縞の着物とで余すところなく表現しています。「しま」は古くは筋といいました。採集した科や藤を紡いだ繊維を材料として織った布に、わずかな自然の色の濃淡が微かな筋を生んでいたからでしょう。万葉集や日本書紀にも出て来る在来の織物「
平安時代の「伴大納言絵詞」や「信貴山縁起絵巻」などの絵画資料には横段の縞や格子を着た武士や庶民が生き生きと描かれていますが、竪縞は見当りません。格子文様があるからには当然、竪縞が用意されている筈なのに、不思議なことです。
室町時代になると勘合貿易の開始によって、明から美術工芸品と共に
その後、インド、中国、マカオを拠点としたポルトガル、イスパニアの所謂、南蛮船が織物を運んで来ました。輸入品目録に記された
三糎巾に二十本余の竪線が走る特に細かい極毛万筋の型紙は主に小型の切出しで手前に引切って作るのですが、これを引彫または縞彫といって型彫職人の腕の見せどころです。しかし自分の手で最終的な作品を生み出さない伊勢型紙の彫師の存在は特殊ともいえましょう。江戸小紋染の人間国宝、故小宮康助氏が認定の際に言ったという「型彫師にやってくれ」の言葉がそれを物語っています。かみ合った歯車のようでなければならない関係であると同時に、職人同志の意地の張合いが技術を高めていったに違いありません。本来、織文様である筈の縞が小紋に試みられたのは、いかに縞柄の流行が根強いものだったか判ります。遠見には無地に見えても近くによると、なんと、万から引かれた細い竪線。これこそ粋の極みです。
10. 千変万化の縞
今度は、さまざまな顔を持つ縞を取り上げてみます。さて、大名。子持ち。しの竹。よろけ。これらの下につく共通の一字は何でしょう。そう、縞です。このように色々ある変わり縞の中で第一に挙げられるのが
実はこの芝翫縞、共演の三代目坂東三津五郎の「三ツ
芸の上だけでなく、このようなデザインの上でも張り合っていますので、観客も
さらに文政期になると、当代の人気役者七代目市川團十郎の案による
その團十郎にライバル意識を燃やしていたのが三代目尾上菊五郎。さまざまな逸話がありますが、その一つに團十郎(俳号三升)の「三升格子」に対抗したという「菊五郎格子」があって「縦四本・横五本の格子」の中に「キ」と「呂」の字を配し「キ・九(縦と横の合計)五(横縞)」「呂」の字を配し菊五郎と読みました。縞は単純なものですが、このように縦縞と横縞の組み合わせが格子柄を生み、さらにそれが限りなく広がるのです。例えば
この二人は縞、格子に限らず「
それでは、横に一本筋、縦にに六本筋、これに平仮名「ら」の字を配した格子柄はなんでしょう。考えて見てください。(ヒント:一と六と「ら」でこれも歌舞伎の名門)。
このように江戸後期の流行の発信地は歌舞伎役者が主流となっていました。爛熟した江戸文化を背景として、彼らによって創出された謎解きのような斬新な文様が多くの人の目を楽しませたのです。
外国に目を向けると、ヴィトンを始め、フェンディ、ディオール、エルメスなどが裏地や傘、ベルトの金具などにロゴを組み合わせたデザインを用いて、その社の特徴を主張しています。そして、それが大きな効果をあげていますが、軽薄にもそのまま「ブランドもの狂い」にも繋がる現象をどう捉えたらよいのでしょう。
今夏は若い人の間で浴衣と下駄が
縞を食べ物に
次にはクレープの味「絞り」を取り上げてみようと思います。
11. 憧れの京鹿の子
十四万八千、三千、四十五、七十。この数字は何でしょうか。最初が着尺分の絞り目合計、次が一日に絞れるおよその目数、そして布一寸(3・3センチ)四方の中にある
一寸四方にある数は粒の大きさによって三十にも六十にも出来ますが、細かいから良いというわけでもありません。
とにかく「本鹿の子」の手法は布が斜めに伸びる性質を利用して、一日一日指先で布を
このような
その頃、総鹿の子の小袖は、括り手が休まず働いても、一年以上の月日を費やしたでしょうから、高価になるのは当然ですし、それを一度は着てみたいと憧れるのも無理はありません。
一方、以前にも倹約令を度々出していましたが、綱吉の天和三年(1683)幕府は「女衣類製作禁止品目」をさだめて、分に応じた物を着るようにと発令し、華美衣服禁止の例として「総鹿の子」を
また、禁止された鹿の子絞りを模倣した
さて、古く奈良時代の染色法には「
しかし本格的に絞りが発展するのは江戸時代で、京都中心の絹を絞った高級染色「京鹿の子」と、木綿に絞りを藍染めにした「
このように社会の変化に敏感に反応して消長する染織の世界を眺めると、気持ちが乱れてきます。つまり、鹿の子文様などをより細かく、より正確にそめだすことがいとも簡単に出来るハイテクの現代に、伝統の手作りの良さを次の世代に伝えることの大切さをしっかりと主張すべきなのか、どうかと。
次には、そうした社会の移り変わりの中で消えて行った絞り染めをとりあげてみようと思います。
12. 庶民の絞り 有松・鳴海
絞りが全国的に広まるのは江戸時代に入ってからです。あの
また、これらの絹を
消えたといえば「辻が花」。縫い絞った輪郭の中に
このように世界各地には魅力的な絞りがありますが、神楽坂そぞろ歩きの時にどこの店にどんな絞りがあるか
13. 絣 かすり カスリ
犬を連れた上野の西郷さんは何を着ているでしょう。高村光雲作、銅像の西郷さんがです。「ウーン、考えたことないけど。でも、紺絣かな。木綿の」と、ほとんどの人がそう答えるのでした。花柄の友禅を着ているという人は、もちろん皆無です。鹿児島の銅像は当時の軍服を着ていますが、上野のそれは
今回は、彼が着ていると思われる絣について話を進めましょう。絣は飛白とも書くように、所どころ、白くかすったり、また、白が飛んだりした文様。絣糸染めをする時に白く残したい箇所を括って防染したり、捺染したりして、白絣、紺絣、色絣、絵絣など、各地方独特の絣を生産しています。さらにお互いの技法を参考にし、新しく多彩な絣が創り出されました。繊維別には絹絣、麻絣、木綿絣。用途別には衣類、祭壇布、寝具に三分されます。
さて、絣文様の起源については、インド、インドネシア、中国(新彊ウイグル)などの各説あって、現在も東南アジアの国々や、アンデスの国々にも絣布が見られるのはご存じの通りですが、その最古のものと言われるのが、インドのアジャンタ石窟寺院の壁画に描かれた(5~7世紀)貴婦人のスカートの矢絣です。日本で矢絣といえば、紫地に白の矢絣の衣裳で勘平と「
では、絣が日本へ技法として伝わるにはどんな道があったのでしょう。それは太平洋に浮かぶ琉球列島を含む海の道です。福建を中心とした中国南部、タイ、インドネシア、フィリピン、沖縄へと、偏西風にのった最も自然な貿易が、単なる物の交流だけでなく、文化の交流をも果たしたのです。この中に絣の技法があったことは容易に推察できましょう。
沖縄では、日本のどの地域よりも早く、しかも琉球王朝、
京都は平安京造営以来、幾度かの戦乱に巻き込まれながらも政治・経済の中心としてずっと機能していましたから、そこに築かれた文化も、例えば染織の部門でも、その技術、文様は、他の地域に先駆けて大きな刺激を国外から受けていたことでしょう。また、安土・桃山時代にかけての武士階級の台頭に伴う染織工芸の進展は目覚ましいものでした。西陣がその中心です。絹絣が綾織、唐織、などに併用された能・狂言装束、すなわち、
ここで歴史上の人物にふさわしい着物を着せてみることが面白くなりました。高杉晋作には、すきっと
気味悪いとおっしゃらないでください。このごろの世の中のうす気味の悪いことと言ったら。
14. 絣の道は海の道
重要無形文化財「
一枚だけ持っているハナーアーシ(花合)は、着るとすぐに皺になるのが気になっていまだに
その沖縄では王侯・貴族が世界でもっとも美しい絣を
さて、綿絣といえば
同じ頃、浅田五右衛門が
そういえば、鏑木清方の作品に、挿絵依頼に来た小説家(鏡花)が、
一方、薩摩(鹿児島)で琉球から伝えられた綿織物が始まったのは16世紀半ば。紺地に白い絣を”紺薩摩“、白地を”白薩摩“といいますが、庶民に愛され続けた薩摩絣も次第に久留米におされてしまったので、逆に高度の技術を生かした絣文様の高級綿着尺を生産して今に至りました。
その薩摩絣と大和木綿に関して面白い資料があります。幕末から明治初期にかけての短期間でしたが、薩摩藩は大和高田に国産会所を設けました。いち早く洋式紡績工場をつくったのが藩主島津斉彬。藩内の原棉不足を大和との業務提携で補おうというのです。つまり、藩は大和の豊かな物産と資力を利用して財政を潤そうとし、大和の豪商たちは土地の物産品販路開発の援助を薩摩藩に期待した、当時としては壮大な殖産振興プランだといえましょう。
現代の日本にも抜本的な経済政策がなされないものでしょうか。
15. 十二支の模様
今年はうさぎ なに見て跳ねる
この愛敬のあるうさぎを見ているうちに、来年は
辰には格調高い龍紋や粋な雨龍などが、巳には道成寺の三角鱗模様の他に、己・巳という字づくしなどがあり、
また、十二支に猫が入れなかった原因をつくった
猫も忘れてはなりません。猫の目だけを連ねた「猫の目」に添えた文に「この紋から十二時をしる」とあって、細い目の時は昼、丸く大きい時は夜であるというのです。そういう、人の意表を突くような文様が次々と生まれたのは、山東京伝の自在な才能もさることながら、江戸時代の庶民が着物に表された文様そのものを、自由な創造の場として受け入れ、遊び心を大切に生きていた証しといえましょう。
このところ猫で目につくのは招き猫。右手をあげれば金を招き、左手をあげれば客を招く、果ては欲張って両手をあげ、あれもこれもというのもあります。
現代の猫文様にユニークな浴衣があります。それは長唄の今藤政太郎社中のお揃いで、デザインは今藤のお名取さんでもある、かの有名な朝倉摂さん。社中の全員がそれを着ての浴衣ざらいは圧巻でしょう。しかし、考えてみると皮肉なことに、三味線は猫の皮を張るのですから、浴衣の中の猫たちがそのうち、ニャンニャンと泣くのではないかと心配です。丁度、吉野山の狐忠信のように。
狐といえば、今、江戸小紋の狐に憧れています。あの小宮康孝氏に特注したというその着物に出会った時、どんな方がお召しになるのかと軽い嫉妬を覚えました。草むらと狐。地色は若緑、
もう一つの憧れは蝙蝠。こうもりというと、ドラキュラを思い浮かべて気味悪がる向きもありますが、漢字で表すと虫ヘンに“一口田”つまり福、お目出度い意味もあって江戸時代には着物にもよく使われたようです。しかし、細かい小紋柄としては出会っていませんので、どこかにないものかと思っているところ。地は
先日、見せていただいた小紋型紙の中に、動植物はもちろん、思いがけないものがテーマになっている型がたくさんありました。現在、型紙を彫る方も少なくなるばかりと知って、一層、それらの文様をご紹介したいと思います。
16. なんだろう この模様は
しじみ藤、つと卵、焼飯うろこ、うしのよだれ、
はじめにあげた文様の他、興味をひくのは「
また、前述の「まいまい巴」も三つのかたつむりが組みあわされた巴模様になっていて、「一名まいないつぶれ」という説明がついています。それが、まいない=
このように自由に発想を展開させた山東京伝は、『小紋雅話』の序に「われはまた、犬の足跡を見て梅の花と見立て、画なるか字なるか、いつこうわからざる物数十を作し、なづけて小紋雅話という。是ももんがぁのたぐいにして、いずれ怪しかるべし」と述べています。これで彼は絵と文字とそして音の三つを区別することなく、自分の世界を築いていることが判りました。
そこで、もう一度声を出してみましょう。「こもんがわ」という題は、ももんがぁの
先頃、たくさんの小紋型紙を見る機会に恵まれ、宝の山に入ったような気がしました。それも面白山の中にです。海のものは貝、鯉、鯛、海老。鳥類は千鳥、鷺、鶴、雀、そして亀、蛙。道具は
いずれにしても、その昔、自転車に積んで型紙を売りに来たころがあったとか。型紙彫師が減少する一方なので、卓越した意匠を保つ意味もあり、どう保存しようかと、持ち主のむら田染織ギャラリーの方は、考えておられました。それを知ってすぐお手伝いをと申し出たのは、それがそのまま江戸に華咲いた自由闊達な文化遺産を大切にすることに繋がると思ったからです。
17. 和更紗の行方
ジィーーーーーー乾いた音が高いドームに響き渡りました。集まって絨毯の説明を聞いていた仲間の皆が何事かと音の行方を探しますと、すこし離れた所の赤い絨毯のそばに同じツアーの一人が立ちすくんでいました。東西交通の要地にあたるこのブラショフのキリスト教会に、トルコ商人たちは祈りの時に必要な絨毯を寄進して、商売の成功と旅の安全を祈ったとのこと。また、教会側も異教徒の絨毯を心広く大切に飾っていたのです。沢山の絨毯のうち赤いそれは特に立派で、後でゆっくり見ようと思っていた更紗風文様のものでした。目立たないようではありましたが、人が近づきすぎないように防御のためのセンサー装置がしてあったのです。
それをうっかり触ろうとしたからたまりません。時ならぬけたたましいその音に驚いた教会の事務のおばさんや守衛さんたちにたちまち囲まれた本人は、何が起きたのか判らずにきょとん。話し合いで誤解は解けたものの、そのご婦人はひどく萎れてしまいました。でも、まかり間違えば誰でも同じ過ちを犯しそうなくらい、美しい絨毯です。ハプスブルグ家に攻められ、外壁が黒く焼かれたままになったルーマニアの「黒の教会」でのことでした。
そのように印象が強かった更紗文様は、インドで生まれた華麗な彩色綿布の文様です。そして、エジプト・カイロ近郊の遺跡から10世紀頃と思われる更紗製品が発見されて、古くからの交易品だったことが解りました。木綿といえば藍を中心に茶・黄色が染め色でしたが、インドでは
日本では室町末から桃山時代にかけての南蛮船による舶来の更紗は、当時の武士や数寄者らによって珍重され、陣羽織、お茶道具の
一方、その輸入更紗の模造をいちはやく始めたのが、河内木綿の産地を控えた港町・堺や染織の中心・京都。俳諧書『
文様としては、日本向けに作られた扇面、小花などの模倣は勿論ですが、
こうして江戸後期から明治初期にかけて盛んだった和更紗は、明治20年代になると、ヨーロッパからの化学染料の導入で新しい技法になり、却って型友禅に融合吸収されてしまったとか。
更紗は洒落ものに愛されただけでなく、日本の染織に大きな影響を与えましたが、国産品として生まれた和更紗は今どこへ行ってしまったのでしょう。
参考:吉岡幸雄編 和更紗文様図鑑(京都書院アーツコレクション)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/07/19
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