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半生を語る

    一

 

 昭和三年八月三十一日。珍らしく晴れたこの高原の軽井沢で、ひとり静かに机の前に坐つて、わが半生を語らうとしてゐる。古い言葉の通り、過ぎ越し方が頭の中に絵巻のやうに(ひろ)がつて来る。懐しいしかしながら雑然たる絵巻である。(ただ)この一つの生命が、見えざるものに導かれて、その中で育つて来たことを思ふと、過ぎ去つたことはすべて感謝である。

 明治六年九月八日、それは自分の生れた日であつた。小南部藩(せうなんぶはん)の城下町とはいひながら、あの僻陬(へきすう)の小さな町に、その時分時計といふものがあつたかなかつたか、自分の生れた時刻といふものを、つい聞いたことがなかつた。しかし夜ではなかつた。それは祖母の話に、『姉の生れる時に(総領子(そうりやうご)を姉とか兄とかいふ風であつた)、私はちやうど(おこり)のおこる時だつた。悪寒(おかん)を感じて床に入らうとすると、産気づいたといふので、お産の経験のない私は殊にあはてゝ、お産婆に人をやる、お湯を沸させるといふ騒ぎをしてゐる中に、瘧はどこかに行つてしまつて、それつきり瘧と縁切りになつてしまつた。あの時も日瘧(ひおこり)になつて、毎日々々困つてゐた時だつた。毎年(まいとし)のやうに瘧は私の持病のやうになつてゐたから——中でも夏の日瘧は苦しいものだ。」

と、度々いつてゐるのを聞いたからである。私の生れた青森県の八戸といふ所は、気候のよい所ではないのだらう。瘧はそこの風土病で、一度もそれに(かゝ)らないといふ人は殆どない位であつた。一日()きに、大概は二三時間位、悪寒発熱に苦しむ。それがどういふものか、びつくりすると(なほ)るといはれてゐる。三瘧まではそつとして置いて、それからいろいろ手当をして、早くなほしてしまはないと、日瘧といふ休み番なしのになるといつた。中でもびつくりすることが一番よく利くといふのである。

 名物の瘧のことから、霜やけのことを思ひ出す。冬になると、また殆ど霜やけにならない子供はなかつた。私たちの兄弟は、幸ひに瘧にも霜やけにもならなかつた。それで私は殊に丈夫な子供とされてゐたのに、十二三の時瘰癧(るゐれき)になつて、学校はあまり休まなかつたけれど、長い間病院に通つた。瘰癧になる子は腺病質だと今の私は教へられてゐる。その頃の親々では、子供が病気になれば、お医者につれて行く。お医者がもう全快したといふまでは、ちやんちやんとつれて行つて、薬を飲ませて置くといふ程度が、今の言葉でいへば教養のある親であつた。

 歯の痛いこと、頭痛のすること、時々お(なか)のいたいこと、さういふ時にいろいろの古風な手当はしてくれたけれど、それは子供の常として、別に問題にはならなかつたやうである。子供がひきつけるといふことも、随分あつたことのやうだつた。どうも昔の人は今よりも健康的環境の中に、健康的状態において暮らしてゐたとは思はれない。私の故郷にも今は瘧は珍らしいものゝやうである。子供たちも恐らく、以前よりも健康状態がよいのではあるまいか。つまり日常生活が衛生的になつてゐるのではあるまいか。私の母は幼い時に重い疱瘡にかかつたといつて、あばたであつた。私たちは小さい時に、やはり病院で種痘をしたのを覚えている。今考へると日をきめて、一度に病院に集つたのであらう。大勢の子供が泣いてゐるのを覚えてゐる。(かは)つたことがあると、ひとりでに強くその方に注意を向けるのが幼い時からの持つて生れた性分であると見えて、その時私は種痘してくれる院長が、自分の祖父と同じ位の年格好であつたから、よい子よい子といつて針をさすと、爺々(ぢいぢい)といつたと、あとまで原といふそのお医者が話してゐた。院長はまだ若い人だつたから可笑(をか)しかつたのである。母は養子娘であつたので、祖父は四十にならない(うち)に孫を持つた。

 

    二

 

 ほんとうに幼い時のことは絵巻のやうである。間のことは皆忘れて、ある場面だけ覚えてゐるからである。小学校に入つた前後のことも皆忘れてしまつたけれど、校札(かうさつ)といふものを袋に入れて腰に下げてゐたことを覚えてゐる。そして時々その木札(きふだ)を出して、

 

  青森縣三戸郡八戸町長横町六番地

    士族忠隆孫

      松 岡 も と

         五年九ヶ月

 

と、喜んで読んでゐた。さうすると、私の小学生になつたのは明治十二年(1879)の五月だといふことになる。五月が新学期であつたのだろうか。故郷の冬は長い長いものである。一年の半分は冬である。子供たちはその間どんなに退屈をするだらう。今のやうに雑誌や絵本などと読むものも見るものも殆どなかつた。雪の中でも男の子には、とにかく紙鳶(たこ)上げや竹馬があつたらう。女の子にも、往来の雪をならして氷滑りがあつたかも知れない。しかし寒いからどうしても炬燵(こたつ)にあたつて、食べたり話したり眠つたりしてゐる時が、暖国の子供に比べてどんなに多いだらう。自然人間は無精になる。

 梅桜桃梨(ばいあうたうり)一時に開く四月の末から五月にかけては、(しばら)くぶりで乾いた土を踏み、暖かい日に照らされて、大人も子供もよみがへる。私はその頃はじめて学校に行きかけて、どんなに楽しかつたのか。学校の帰りに、学校の近くの大きな家の板塀に持つてゐた蝙蝠傘(かうもりがさ)をたてかけて置いて、一人でどこまでかおはじきをする小石を拾ひに行つた。帰つて来て見ると洋傘がなかつた。うろうろと探してゐると、学校帰りの大きい二人の娘が、笑ひながらそこにあつた蝙蝠傘は、今男の人が警察に持つて行つたといつた。警察署はすぐ目の前にある。私は驚きながらひどく不平でたまらなかつた。自分でこゝに置いてあつたのだ、落しものではないのに警祭に届けたといふ思ひである。少し躊躇(ちうちよ)してゐたけれど、とうとう憤然として警察署に入つて行つた。正面の卓子(テーブル)の前に腰かけてゐたお巡りさんに、私の洋傘(かさ)を返して下さいといつたのだらう。何かいろいろ問答して、にやにや笑つて返してくれた。落したのではない置いたのだといふ心持を通じたいと思つても、それがよく分つて貰へなかつたやうな気持だけは、今もはつきりしてゐる。

 私は決して誰にでも可愛がられるたちの、面白い楽しい子供ではなかつたのだらう。それは(うち)へ帰つても、洋傘(かさ)のことをちつともいはなかつたのでも分る。程すぎてから、出入の米屋の主人が訪ねて来て、いろいろな話の(ついで)に、 長横町の松岡さんのお子さんが、独りで警察に落した洋傘(かさ)を取りにおいでになつたといふので、巡査さんたちは評判してゐるといつたので、(うち)の人たちははじめて知つた。

 その時分十級九級八級といつて、一級は一番上の組だつたことを覚えてゐる。その一級の人たちが、半ば先生のやうに、私たちに臨んでゐた。私のお友達は、大概そのお姉さんのやうな人たちに可愛がられてゐたけれど、私は可愛がられないばかりでなく、随分意地わるくされたことを覚えてゐる。九級生の誰かさんが来ると鼻血が出ると、一人の一番威張つてゐる人がいつて、印肉を紙につけて見せたりした。私よりずつと年上の従姉にも、調戯(からか)はれたりひどくいひ詰められたりして、とうとうしくしく泣き出して、段々声をたてゝ大変泣いたことを覚えてゐる。才気のある従姉は、上手になだめすかして、嘘つこ(戯談(ぜうだん)のこと)ぢやないの、可笑しい人ねと機嫌をとつた。かういふことがあつても、家に帰つて誰にもいはなかつた。やはり無邪気でなかつたのだ。さうして私はどうして大きい人たちに嫌はれるのかといふことを始終問題にして考へてゐた。勿論私の幼い頭に分りやうはなかつた。

 今になつて考へて見ると、やはり、私の妙に主観的な性質が、自分では知らないでゐる所で、大きい人たちに喜ばれなかつたのであらう。洋傘(かさ)を落したのでも忘れたのでもない、置いておいたのだといふやうな、人には通じない自分だけの思ひが多かつた。警察に行つたことも、家へ帰つてよく話し、また母が賢い心で細かにそれを聞いてくれたら、そして自分ではおいたのでも、それは路傍(みちばた)で物を置くべき所ではなかつたのだと、よく話してくれることが出来たら、幸ひに道理のよく分る頭を持つてゐる私は、直ぐに成程とさとることが出来て、拾つて届けてくれた人にも、(いかめ)しい警察に手数をかけたことにも感謝し恐縮することが出来たのに、さうして段々にその(かたよ)りからぬけ出して、ずつと伸びて行くことが出来たのに、私にさういふ行届いた指導者はなかつたのである。それは祖父母や両親が子供を放つて置いた訳でなく、その頃の知識階級でもそれが当り前なのであつた。殊に私の母はあまりにも人の好い世間見ずの婦人であつたことは、段々私に考へられて来る。

 

     三

 

 私の性質にはいま一つの十字架があつて、やはり今でもついて廻つてゐる。それは私の手が非常に不器用なことであつた。遊びことでも手毬(てまり)は上手につけたけれど、お手だまもおはじきも苦労してもよく出来ない。氷滑りなどもさうであつた。殊に()が下手で、画学(その時分図画といはずに画学といつてゐた)といふものに、どんなに苦しい目をしたであらう。ある時も学校から描いて来るやうにといはれたコップの絵が、どうしても書けなかった。一度寝てからそつと夜中に起き出して、机のまはりが画学紙で埋まるほど描いても描いても書けなかつた。

 手は人並以上に遅くて不器用で、頭は人並以上に綿密であつた。()を描くならば寸分も、手本と違ふことを許さない。こゝはカツキリと、そこは(やわ)らかにといふ風に、隅から隅までやかましい註文をする。そのやかましい頭が低能な手を使つてゐる。その苦しさはとてもいひ現はすことが出来なかつた。

 コップの絵を描いた時にも、祖母が目をさまして、そんなに凝ると(かへつ)て出来ないものだから、今夜は眠つて明日になつたら気を落ちつけてゆつくり描いて御覧なさい、きつと描けるからといひ、またその中から二三枚より出して、これなどは実によく描けてゐるのではないか、唯少しこゝの所が悪いから、私がなほして上げようなどと、心から慰めてくれた。涙を以て感謝しても、私はちつとも慰められることが出来なかつた。画の下手なのは今にはじまつたことではないのに、どうしても明日になつたらよく描けるなどと思ふことが出来よう。祖母のより出してよいといつてくれるのも、お手本に比べて勿論全くなつてゐないと私は思ふのだつた。

 (たゞ)手ですることばかりではなく、あれにもこれにも気のつく私の頭は、何事も思ふ所まで行かなければ満足しなかつた。長所の方面は確かにそのために伸びたと思ふ。しかし、その気むづかしい註文にそつて行くことの出来ない他の能力は、あるより以上にいぢけてしまつた。一方が萎縮すればするほど、やかましい頭はいよいよ不満足の度を強めて行く。自分で物を考へることが出来るやうになつてから、それと気づいて、無理な註文を自分にも人にもしないやうに、人は各々長所によつて生き、不得手なことは(へりくだ)つて他人に助けてもらうやうに、しかしどうしても不得手なことにも当らなくてはならない場合には、最善を尽して満足するのがよいことだと思ふやうになつたので、段々にそこにゆとりが出来たけれど、自分で自分を苦しめて来た私の一方面の生活が、第二の天性のやうになつて、今もたしかに残つてゐることに、自身で気のつくことが度々ある。さうしてそれだけが、私の日々の生活をかなりに気重(きおも)に沈滞したものにしてゐる。自分を気重にさせるばかりでなく、人を苦しめてもゐるのであらう。

 幼い時に父母や祖父母が、この一生の重荷となるべき頑固な癖の芽に気がついてくれたらと思ふのは、決して親たちを恨むのでなく、子供の教育といふものは、さういふ所にあるのだと思ふ所をいはうとするのである。すべてがさうした意味でなかつたら、どうしても恥と自慢を交ぜたものになつてしまふやうな、古い話を苦んで書くなどはあまりに愚である。

 一に一たす二、一に二たす三、一に三たす四といふやうなのを、掛図をかけて習つた時に、どうしても早くいへなかつた。一に一をたせば二だなといふ風に、一々考へてからいはうとしてゐたのだらうか。とにかく毎日々々それに(くるし)んで、ある晩とうとう祖母に訴へて、どうして出来ないの出来ないのと泣き怒りながら、祖母の手を引つぱつて、座敷から茶の間から小座敷から、家中を歩きまはつたことを覚えてゐる。祖父も出て来て、それはかういふのだらうといつてくれても、もう無茶苦茶になつてしまつてゐたのか、さうではないさうではないといふので、夜中に弓張提灯をつけて、鬼柳先生といふ校長の所に、祖父が聞きに行つたことがある。

 もう少し上の組になつてから、級長といふやうなものが、出欠簿をつけるやうになつたことがあつた。出席者のために角の中に引く/かういふ棒をどうしてもきれいにスツスツと引けないで、白墨で消しては引くと、 段々その白墨が落ちて来る。あちこち汚れて、出席も欠席も分らなくなつてしまつて、先生にいはうかどうしようかと、幾日も幾日も非常な心配をしたことを覚えてゐる。その後始末をどうしたのか、それは忘れてしまつた。多分その時受持であつた、高橋先生といふ今も恩師だと忘れ得ずにゐる方に見つかつて、心配しないでもよいと許して頂いたのではなかつたかと思つてゐる。

 字を書けないことも(たぐ)ひ稀れなほどであつた。しかしそれは小学校を卒業した頃、ちよつとしたことから、ほんとに愉快に覚えることが出来た。烏丸帖(からすまるてふ)といふかなのお手本を見つめてゐた時に、字の調子といふやうなことが、はじめて私の理義(りぎ)一方の鈍い頭に映つて来たのである。他の人は自然に早くから分りきつてゐることを、私ははじめてこの時感じたのである。点でも線でも調子で書いて、また他の調子でつゞけて行くのだなと、今の言葉でいふならば、さういふことに気がついたのである。それから私を苦しめるものとばかり映じてゐた習字帖が、何だか楽しいものになつた。それから別に習字をした訳でもなく、今も悪筆は依然としてゐても、とにかく全然分らない字を書いてゐたのが、分るやうになつて来た。しかし物にはすべて調子がある、字ばかりでない、私にそれが分らなかつたのだといふことに気 がついたのは、ずつとずつと後のことである。運針も出来なかつた。裁縫は尚更である。

 その時分読本(とくほん)といつてゐたやうであつた。今の国語や漢文や算術や、歴史地理理科、(みな)本で習つた。さういふものは、非常に詳しく読んで、出来るだけ考へてゐたから、小試験にも大試験(学期試験)にも、幾年間も全部百点ばかりとつた。作文は早くから、高橋先生がよくなほして下さつたり、奨励して下さつたりした。幼い頃から、◎や三重丸(=記号丸)を取つてゐた。奨励試験といふものがあつて、郡役所からも人が来て、よく出来る生徒を各級から、二三人づつより出して読ませたりなんかした。ある時のことであつた。舒明(じよめい)天皇ことを、私はぎよめい天皇と読んだ。受持の先生は、それは別の高橋先生であつた。その方も面白いよいお爺さんであつた。ぎよめいかよく考へてといつた。私にとつてはこれほど意外なことはなかつた。ちやんとさう聞いてさう信じてゐるのである。それだからそれが間違つてゐるといはれると、かうであつたかあゝであつたかと思ひ出して見るといふ余地はない。出鱈目(でたらめ)に何とでもいつて見ようといふやうな智慧は尚更ない。私は先生からさう聞きましたと主張した。先生はフフンといつた。勿論冷笑でなく、失望した気の毒がる笑ひであつた。私は全く聞き違ひをしてゐたのだと後になつて分つた。

 私は学校では誰とも競争した覚えはちつともない。この頃になつてそのことに気がついて、それは自分の、一方では困らせられた、一本調子な徹底癖のおかげであつたと思つてゐる。あらゆる学科を一心になつて、どこからどこまで明瞭にして行きたい。——さうしてそこに深い興味がますます湧いて来る。席順だの競争だのといふことは、私の気持の(うち)には何もなかつた。十八史略(その頃の高等科ではさういふものを読んでゐた)なども、幾度も読んでゐる中に親しいものになつて来た。(もと)より支那の歴史を史眼を以て生徒の心に入れて下さるやうなことはなかつたけれど、栃内(とちない)といふ昔からの漢学の先生で、その講義に随分興味を持つてゐた。

    四

 

 その頃になつて小学校は、初等科四年、高等科二年といふことになつた。男校女校といつて、学校が男女に分れてゐた。私たちが中等科になつた時、女生徒の数が五六人になつたので、男子の学校に通ふやうになり、高等科二年になつた時は、とうとう女は私の組に私一人になつた。その上の組には、三人位づつあつたのに。

 私の好学心は、上の組になるほど盛んになつた。しかし男性と一緒になつたことは、自分の心の中にばかり棲んでゐるやうな主観的な私に、大分(だいぶ)(ほか)の人、及びより広い世の中を見せてくれた。男生(だんせい)が私たちに一人々々綽名(あだな)をつけて、学校の門を入つて行くと、大勢で二階の窓から、松岡の饅頭(まんぢう)、何の何といろいろにからかつた。はじめは本当に苦痛であつた。先生たちもそれをピシヤリと上手に取鎮めることが出来なかつたのか、また気にしなかつたのか、とにかくその(まゝ)であつた。

 その(うち)に私たちは、 一人々々の男生に(みち)であふことがあると、相変らず悪戯(いたづら)さうな顔をして笑つて行き過ぎたりするのはほんの一人か二人で、あとは大概()が悪さうにして横を向いたり、真赤になつてうつむいたりして通ることに気がついた。私たちは案外弱い男性を知つた。大勢の時には人一倍いろいろなことをいふ男生(だんせい)は、中でも一番弱いことを知つたりした。ある時私たちは他の組の友だち五六人と一緒に、お友達の家の門の中にかくれてゐて、学校の帰りにそこを一人で通る筈の男生を待ち伏せして、大きな口だとか何とか、つまらないことをいつてやつたことがある。

 この頃の事として中に一つ、いつまでも深く深く私の心にのこつてゐるのは、中等科の上の組の時であつた。二十五六人の男生と、五人位の私たちと一組になつてゐた。地理の時間で、何とかいふ本で、ホッテントット、ビチヤバンブ等を(がつ)すなどと、分りもしない外国の地名を、唯棒読みに読んでゐる時であつた。梯子段に近い方の席で、おならをした人があつた。皆、ドツと笑つてゐる(うち)に、先生も本をかゝへたまゝ 一人で思ひきり笑ふつもりかどうか、梯子段を下りて行つた。

 男生は○○だ○○だと、一人の女生の名をいつた。それは私の後に腰かけてゐる人である。私一人で××だ ××だと、その名をいはれた女生のすぐと近くにかけてゐる男生の名をいつた。さうしてその顔色のかはつてゐるのをたしかに見た。しかし私たちの○○さんも、真赤になつて下を向いてゐる。大勢に、さういふ時に名をいはれたら、殆ど大概の人は皆さうなるであらう。××だ ××だともつと声を大きくしていひたいと思ひながら、私も意気地なくもうろうろしてしまつた。その(のち)○○さんは()たれ屁たれといはれてしまつて、だんだん顔色が冴えなくなつて行つた。よく出来る人だつたのに、出来なくもなつた。その後高等科に進んだのは、私とその人だけであつたが、高等科一年の時に、とうとう長い間病気してなくなつてしまつた。それで私が男生の間に一人になつたのである。

 一人になつてから、男生も皆ひとりでに大人しくしてくれた。○○さんのこともきつと彼等の本心に刺戟を与へたに違ひないのであつた。一人になつた私もまた、二三年間の経験によつて教へられたので、男生を恐がりもしなかつた。勿論調子の悪い人間であつたから、彼等となれることはなかつた。一人で黙つて、少し離れた席にかけて、毎時間彼等の天真爛漫(てんしんらんまん)な行動を見たり、尊敬すべき頭のよい人があつたり、よい人だけれども、気の毒な出来ない人があつたり、調子の面白い人があつたり、淡泊でない人がゐたりするのを、知らず識らずさまざまの人を親しみをもつて観察して、お互に好意を持ち合つてゐたに違ひなかつたのである。それはある時のかういふ出来事についてもよく現はれてゐたと思ふ。

 どういふ機会であつたのか、立つて一人々々演説のやうなことをしたことがある。二三の人がすむと、ある一人の男生が、それは今も親しくしてゐる西村といふ方ではなかつたかと思ふ。『松岡さんもどうですか』とハツキリ礼儀正しくいつてくれた。思ひがけないことながら、私も悪怯(わるび)れずにすぐ立つて、二言三言何かちやんとした挨拶をした。私は男女共学は、小学校でも中学校でも、殊に指導者が深い(かんがへ)を持つてゐたら、立派に出来て、さうして非常な利益を両性に与へるものだと思つてゐる。

 私の親しいよい友達であつた○○さんについて、もう少しいひたいと思ふ。それは私があの時に、×× だと正直思つてゐたことを、強く強く主張し得なかつたのが残念で、時機をのがすものでないといふことを、一生涯の大いなる教訓として得たやうな気がすると同時に、私の思ひが間違つてゐないならば、○○さんに、いゝえ私でないと、我を忘れて立ち上がるやうな強さ率直さをほしかつたと、どんなに残念に思つたか。その後私は××が、○○さんの綽名をいふかどうかといふことに、非常に注意してゐたことを覚えてゐる。(ほか)の人と少しも(かわ)らず盛んにいつてゐた。()しもあの人が、私の思ふ通りであつたなら、汚名を着せられた○○さんがあんなになつてしまつたのを見て、彼は、罪を着せられた○○さん以上に苦しみはしなかつたらうか。若しまた(まぬか)れて全然恥なき人間であるならば、それは一層恐ろしいことである。

 また思ふことは、教場で起つたあの事はつまらない過ちなのだから今の憐みと教養のあるちやんとした子供たちならば、当人のために気の毒に思つて、咄嗟(とつさ)の間にも気をとり直して、知らん顔をしてしまふ所であつたらう。小さい過ちを大げさにしてしまつて、その死は病気のためであつたとしても、可憐な友達をあんなに目につくほどの憂鬱と不幸に陥れるといふことは心しなくてはならないことである。私はどうして、その後○○さんに、あのことは、ほんとにあなたであつたのか、私は××と思つたけれどと、是非とも本当のことをきいて、さうであつたら慰めてやる。さうでなかつたら、外の女の友達にも話してちやんと男生の方に談判をする気にならなかつたのか。どうも××だと思つたのにと、いつもいつも思ひながら、自分の誠と分別のそこまで到り得なかつたことを、今になつて弱かつた弱かつたと思ふ。当人の○○さんはなほいひ出せなかつた筈である。

 

     五

 

 小学校のことで、まだ話したいと思ふのは、前にも書いた本の中やその(ほか)にある分らないことの苦しさである。さうしてそれを(たゞ)すことの出来なかつた弱さである。これはずつと小さい時であつた。「何々をすれば必ず猫に噛まるべし」猫のことを書いた所に、さういふことがあつた。「キツト猫に噛まれませう」と、先生が講義して下さつた。先生は八戸(はちのへ)の藩士でも、定府(ぢやうふ)といつて、江戸勤めの家で、維新後国に帰つて来た方であつた。方言で()ぐことをかまるといひ、噛むことをかじるといふものだから、融通の利かない(わたし)には、かまれませうといふのはどうしても気にかゝつて分らない。いくら子供でも口ヘんに歯をかいてあるその字でも分りさうなものだつたのにと、(あと)になつて思つたが、こだはり出すと本当に馬鹿げたものだといふことを知つた。

 いま一つは「宅前の平地には、芝を植ゑたるよき景色(けいしよく)の所あり」といふ所であつた。「しば」といふのは、程近い村落に行くと、囲炉裏(ゐろり)にくべたりしてゐるのを見る「しば」しか知らない。そのためには柴といふ字が別にあることを知らなかつた(せい)もあつたかして、庭に柴を植ゑたら、景色も何も見えないだらう——どうして庭に柴を植ゑるのかなどと、いつまでもいつまでも思つてゐた。

 明治十四年には、明治天皇陛下の東北御巡幸があつた。非常に暑い日に、町を出外れた(のぼ)り街道まで、小学校がお出迎へに出たことを覚えてゐる。行在所(あんざいしよ)は小学校であつたことは覚えてゐても、その夜の町の光景などは忘れてゐる。(わたし)は小学校の時から記憶力は非常に強いといはれてゐたやうである。後年新聞記者になつてからは、一切筆記などはしないで、落ちもなくよく書くといふので、その頃の名士の方々から、ある時は本当の地獄耳といはれ、実に確かな頭だとよくいはれた。それでゐながら、幼い頃のことは尚更、近年に起つたことでも、唯その事柄やある一二の点を覚えてゐるだけで、全体は殆ど記憶の中から消え去つてゐる。人々の頭によつて、記憶するものゝ種類や形はよほど違ふものなのであらう。つまりどういふことが、その人の頭に強く印象されるかといふことが、めいめいに違ふのであらう。

 大方その御巡幸の時であつたかと思ふ。はじめて(わたし)たちは唱歌といふものを習つた。唱歌とはいはなかつたのかも知れない。神官で先生をしてゐる方が教へた。

「仰ぎ来て、とつくにびーともすみつくや、わが日の(もと)の光なるらん」

といふのであつた。薄い木で出来た拍子木のやうなもので、調子をとつて教へた。(わたし)はこの歌を歌ふたびに、その意味が知りたくて、さうしてどうしても分らないのを苦しく苦しく思つた。『先生どうか歌の(わけ)を教へて下さい』とどうしていはなかつたのか、卑屈だつたのかよい機会を捉へようとしても捉へ得なかつたのか分らない。とにかく非常に疑問にした。それから一二年も過ぎて、十歳(とを)になり十一になりしてからであつたか、私は仰ぎ来ての意味を知つた。しかし「とつくにびーと」はとうとう長く分らなかつた。殊に「すみつくや」が不思議でたまらない。(わたし)故郷(くに)では凍りつくことを、すみつくといふ。(こほり)豆腐のことをすみ豆腐といふのである。が一つである。住むといふことは、日常の言葉にはない。すみつくとは凍りつくとしか思はれないのである。さうしてその次が、わが日の本の光なるらん光なるらんといふのだから、実に訳が分らないのである。

 ()しも今日(こんにち)のやうに、家族が一つの卓子(ていぶる)のまはりに集つて食事をするのであつたら、口重(くちおも)(わたし)でもそれを祖父や父にきいて見る機会もあつたであらう。しかし卓子を囲んで食事をするなどといふことは、想像にさへ浮んで来ないことであつた。祖母や母は全然目に一丁字(いつていじ)もないのである。それは私の家の祖母や母に限つたことでなく、昔の門閥とか御家老とかいふ家に生れた婦人はどうだかきかないが、普通の士族や町家(ちやうか)の婦人は皆それである。そして女が字が読めるとろくなことをしないといつてゐたといふことである。()しまた私に一緒に学校に行く兄や姉でもあつたら、同じ疑問を語り合つて、分らないまでも先生にきく力でも出たかも知れなかつたのにと思ふ。

 

     六

 

 中等科の四級三級の頃になつて、平方に開く立方に開くといふことがまた分らなかつた。どうしても先生の教へ方が不十分だったのである。唯その法を教へるだけだからである。術は誰にでもすぐ分つて、その通りやつてゐても、さうすれば出来るといふのが変に気にかゝつた。しかしそれは簡単なことであるから、間もなく自分で解くことが出来た。さうして二乗(じじよう)したもの三乗したものを、元に返すのには、かうすれば出来る訳だといふことを、よく考へたものだと思つた。それから勾股弦(こうこげん)のことは、四則(しそく)の時のやうに、本気に腑に落ちて行かないので、一体に変な気持で習つてゐた。(こう)の二乗と()の二乗をたして平方に開くと、(げん)が出来るといふ風な表面の規則は教へられて、式や答はちやんと出来ても、それを私の真実な実験と推理を通して、証拠だてられた知識にすることが出来なかつたのである。四則の時は実に気持よく分つたのに、比例式になつて、かなり器械的になり、利息算がまたさうであつた。しかし私は長い間考へて、比例と利息算の(わけ)は自分で合点(がてん)した。利率に元一(その頃しきりに元一(もといち)元一といつた)を加へて元利合計を割ると元金(ぐわんきん)が出るといふのは、元金を一円として利率が一割で、合計一円十銭といふ雛型をつくつて、実際の元利合計が、その雛型の幾倍に当るかといふことを見るために割つて見る、そしてそれが十倍に当つてゐるといふことが分つたら、実際の元金は、仮定した雛型の十倍即ち十円だといふことが分る、同時に利子の方も仮定の倍だといふことが分る訳である、つまり何倍だといふことが分る訳だといふ風に自分で考へた。さういふことは非常に楽しみであつた。苦しみの裏に楽しみがあつたのである。この(ほか)にもまだいろいろの分らないことがあつた。つまり私は性格的に始終問題を持つてゐる(たち)なのであらう。それは自分にとつては、苦しくても与へられた仕事であり、自然その(うち)に人知れぬ楽しみを以て、毎日を望み多く暮らしてゐる訳であるけれど、他人(ひと)から見ると、ちやうどいつでも外面(そつぽ)を向いてゐる人間のやうに見える訳である。大概人に敬遠されたり、ある人には意地悪く扱はれるのも、そのためだと今は思つてゐる。

 唯私はいつでも外面(そつぽ)ばかりを向いてゐるのではない。(かつ)て私が考へて、自分の腑に落るやうな解釈を現に持つてゐる問題や、今自分の苦んでゐる問題、またはそれとは種類が違つてゐることでも、何かの機会に他人の聡明な理解や真剣な疑問や質問にふれる時には、ひとりでに熱心に正面(まとも)に向うの顔を見つめて相対して行くのであつた。さういふ機会は沢山はないやうでも、やはり大小のことについて、一寸した知らない間にもそれがあるものゝやうであつた。さうして私は人をも棄てず、人からも変に敬遠されたり、辛くされたりしながらも、決して棄てられないで来てゐるやうである。

 あゝしかし私は自分にいふ。『(おまへ)はあの時、とつくにびーとを気にしてしまつて、楽んで声を揃へて歌はうとする、稽古しようとする、その多数の心に無関心であつたり、知らず識らず特に(ひやゝ)かであつたのではないか。進んで快く多くの人と共にあることをして、その上に各自の特色が発揮されなくてはならない』と。それは私の十年この方、ハツキリ気がついて来たことである。

 前に学校の先生の教へ方も不十分であつたことをいつたけれど、算術の教へ方など、その時分の僻陬(へきすう)の学校ばかりでなく、ずんずん進歩してゐる社会でありながら、事の内容の一足だけ深くなつて行くといふことは、よほど長い歳月(としつき)を要するものであることを知つた。私の二人の子供を小学校に送つてゐる間に、痛切にそのことを感じた。今いろいろの小学校から集つて来る女学校の一年生を取り扱つて同じことを感じる。

 先生ばかりでなく生徒もである。昔の多くの生徒もしたやうに、先生の教へてくれる表面的のことさへ分れば、それで満足してゐる方が大多数である。一に利率を加へて元利合計を割ると元金が出るのはどういふ訳かと聞くと、だつてさう習つたのだもの、それで答が出来るからよいではないかといふ風に、その先を考へることを余計な面倒のやうに思ふのが、やはり今日の生徒も同じことである。私の学校を創立しようとすることは、知らず識らず自分自身の子供時代にきざし、それが二人の子供の学校時代に燃えて来たのである。

 このやうにして、私はもう少し聞きたい知りたいと思つて、分り得なかつた子供時代の不満の方面のことを考へてみると、また高橋先生の温和で親切で徹底した教へ方のことを思ひ出す。それは女子小学校の主事といふやうな方で、その時分は半年づつ一級を上つて行つたのだから、一年半位持ち上がりで、七級六級五級といつた辺りを教へて頂いたのである。国語は干河岸(ひがし)貫一といふ方の、日本立志編といふのであつた。実に心ゆくまでよく教へて頂いた。質問もしやすかつたのか、あの本で困つたといふほどのことは今覚えてゐない。本当に興味を以て実によく読んだものである。算術の四則時代もその先生であつた。女の小学校ではまた珠算(たまざん)を熱心にした。そして寄せ算は早算(はやざん)をして、度々組々が一つ所に集つて、高橋先生がその江戸つ子の濁りのない声で読み手になつて競争をした。鬼柳校長先生などが見においでになることもあつた。その時私は度々最優者であつたことを覚えてゐる。不思議に思ふのは最も不器用な筈の私の指は、どうして算盤(そろばん)には早かつたかといふことである。指はやはり遅くても、集中して()まなかつたのかも知れない。暗算も高橋先生のおかげで随分達者になつた。作文のことは前に書いた通りである。

 画学の時間には、唯お手本を与へられるだけで、専門の先生がそれを指導するといふことはなかつた。しかし何かの時に高橋先生は、黒板に大きく椿の花を描いた。まづこゝから描きはじめる。かうかうかうと、白墨で太くほそく調子をつけて上手に描いて見せて下さつた。それはかういふ絵であつた。(手本略画割愛)。絵といふものを、どうしても画くことの出来ない私も、この描き方の調子が、面白く目にとまつた(せい)なのだと、後になつて思つたことであるが、不思議に唯この椿の花だけは、いつでも描いて見て楽しんだ。

 私はこのことで思ふ。低能な生徒は、先生が教へることを、皆早速に型にしてしまふものだと。よい先生は一つの椿の花を描くことを通して、描く気持ちを示してくれたのを、低能な生徒は、唯椿の花はかう描くものだとばかり受入れてしまふのである。先生が詰込みのこともあり、先生がさうでなくつても、生徒の方が何でもを詰込みにしてしまふこともある。教師と生徒と双方が詰込み流であれば、それで調子が合つて詰込み教育の授受がよく出来る訳で、その勉強はまたそれで互に面白いであらうけれど、その結果は、人の心の伸びようとする芽を枯らして、知らず識らず大得意の中に、器械のやうに固定した、生きた働きの全然ない頭をつくつてしまふ。今日(こんにち)小学校や中学校の優等生に、どんなにそれが多いか知れない。高等学校や大学の学生にはそれがないであらうか。

 ()ばかりではない。習字について裁縫について、私の非常な不成績は、深く考へてみると手の不器用よりもより以上に、形式のみに囚はれて、それを取扱つてゐた(せい)だと思ふ。画でも字でも裁縫でも、どんなに形式的に手本をまねても、教へられることを詰込流に覚えても、手の器用な人や、反射的に頭の働く人は、相当立派に描き現はしたり言ひ表はしたりすることが出来るけれど、不器用なものが、頭まで形式に囚はれてゐた日には、コツプの絵一つでも出来ようがない。私は私の幼時において、国語算術その他において、頭のよい勉強の仕方と、()習字裁縫三課目について、全然低能者の苦しい下手な勉強をして来たことが、今日(こんにち)及ばずながら、人を教へる使命を与へられるために、有力な準備になつてゐることを思つて不思議な気がする。

 一人の能力の中でも、すぐれた能力もあり、ずつと劣つた能力もある。そしてその高能と低能の差の著しい人と、さほどでない人とある訳である。一身の能力の中で、低能と高能との差の著しい人は片輪になりやすく、高能的にも低能的にも、一体に平均のとれてゐる人は、その本色を見出しにくいと思ふ。家庭でも学校でもよく注意して、子供の中にある著しい高能を愛育すると同時に、またその中にある著しい低能をもすてないで、適当な方法を以て、一生かゝつて徐々に発達して行くやうにしなくてはならないと思ふ。またあのこともこのこともよく出来る子供でも、長い間によくよく気をつけて見ていると、必ず中でも自然に一と際すぐれた能力と、それに比べては劣るものとがあるに違ひない。かういふ場合は、学校でどれもこれもよい点をとるやうになどといふやうな低い考はすてゝ、その子の主たる長所に、一番の勢力をそゝがせるやうに自然の指導をしなくてはならない。あれもこれも出来るけれども、何一つ物にならないといふのも、非常によく出来るものはあるけれども、片輪ものだといふのも、それが必ずその人の人格にまで影響して来る不幸なことである。

 

     七

 

 私たちの卒業するまで、故郷の小学校には唱歌といふ科目はなかつた。東京の女学校に来て、学科の中で、何より困つたのは音楽であつた。何につけても調子のよくない、調子といふものゝ全然分らない人間なのであるから、どうしても歌の節がのみこめず、譜を見て頭で上げ下げをつけようとするので、まるで歌にはならなかつた。試験の時に一人で歌はせられる時など、先生も組中の人もたまらなくなつて吹き出した。笑はれる身になるとまたどんなに辛かつたか知れない。

 この時の助け船はどこから出て来たであらう。それは私自身の持つて生れた、分らないことをそのまゝにしては置けない生真面目な性質であつた。またその探究心の盛んなおかげで、人にまけるから笑はれるからといつて口惜しがつたりひねくれたりする心が顔を出して来る余地が少いからであつた。

 私はその時分、国から来てゐる先輩の女学生の人たちと、日本橋の永代橋に近い北新堀町といふ所にゐた。さうしてその時分は築地にあつた今の府立の第一高女に、毎日歩いて通つてゐたのである。深川からやはり第一に通ふ人があつた。その方のお(うち)は私立小学校なので、ある晩そこに唱歌のおさらひのやうなものがあつた。よばれた私の友達は、あなたもどうと、音楽の下手な私を気の毒さうに誘つた。私は間が悪かつたけれど、どうかして音楽になれたいと思つた。さうして奮発して永代橋を渡つた。

「玉の宮居(みやゐ)」だの「(ねや)の板戸」だの「霞か雲か」だの私もやはり学校で習つてゐるものであつた。丁度壇の下の所で、大勢の軽快な深川つ子の無邪気な明るい調子を、感慨無量で聞いたことを、いつまで経つても忘れることが出来ない。こんな気持で、その頃たまにあつた音楽会によく行つた。一つ橋の高商は、その時分のハイカラであつた。ボートでも英語会でも音楽会でも劇でも名高かつたと思ふ。そこの音楽会に行つた時は黒い制服の胸に薔薇の花をつけた学生が、大勢壇に並んで「岸の桜」を歌つた。おしまひのは「グツドナイト」といふ英語の歌であつた。上野の音楽学校でまたどういふ種類の音楽会であつたか、はじめて四部合唱を聞いた。単音は少しづつ分つて来た私に、四つの別々の譜で歌ふといふことは、頭にも分らないことであり、聞いてゐてもその複雑な調和を感ずることが出来ないで、唯雑然と聞えた。親類の私よりも年上の男の子と女の子が、ニコライの学校にゐた。その人たちの話に、そこには詠隊(えいたい)といふものもあつて、礼拝の讃美歌は、皆四つ(ぶし)(四つ節といつてゐた)で歌ふといふことであつた。さうして一度、何かの大きい礼拝の時に誘つてもらつたことがある。築地には方々に教会があるので讃美歌をよく聞いた。さうして自分には出来なくても音楽の世界によく入れてもらつた。

 早川さんといふ唱歌の好きなまた上手な友達があつて、

『松岡さんお聞きなさい(岡山の人でやはりおききんさいといふ風に聞えた)よろしいか。()うよや来うよや来うよつ——ばく——らめ——』

 などと、首だの手で調子をとつて、親切に教へてくれた。そして『おしまひにこれ』といつて、指先を変に(かゞ)めて見せるのであつた。それが蛇のやうで、私はそれを非常に気味悪く思つてゐた。早川さんは今の西卷都児子(にしまきつじこ)夫人である。私とは全然性格のちがつた、長所を(こと)にするあの面白いお友達を、今に至るまで私はどんなに敬愛してゐることか。

 

 以上のやうに、高能と非常な低能を、正確さと、ある明晰さはあつても、気の毒なほど融通のきかない頭で支配してゐたのは、私の小学校時代であつた。

 明治十七年の頃であつたらうか。文部省で全国の学校の、特に優秀な子供や、篤行(とくかう)の著しいものに、御褒美を下さるといふことがあつて、八戸(はちのへ)の小学校からは、男女三人の生徒が推薦されたと、郡役所の話のあつたことを聞いてゐた。それから随分たつてから、盛大なその授与式があつた。私もその一人だつたのは感激すべきことであつた。私の低能を(おほ)ふほどに、私の長所を、先生方が見てゐて下さるのかと、その時はじめて知つた。御褒美の品は孝経(かうきやう)であつた。私と石橋といふ男生は同じもので、藤村きゑ子といふ本当によい人があつて、その人は親孝行のために、もつと厚い御褒美をいたゞいた。十一二にもなつていたのに、あの時のいろいろな様子も、悉く私の記憶から消え去つてゐる。一つの思ひや感情に頭がこりかたまつてしまふからであらうか。唯広い広い校庭に男女両校の実に大勢の人が集つて、余興の手品があつた。その太夫の扮装(いでたち)や日にやけて黒い顔つきが、今わづかに見えてゐるばかりである。

 

     八

 

 以上は私の小学校生活である。私の幼い頃の家庭生活は、学校のことよりは、勿論ズツトはつきりしてゐる。私の血液の大部分は、そつくり祖父のものをうけ継いでゐるやうである。私の家は私の曾祖父がはじめで、古い家ではないものだから、さうして格式の立派な士族でもないものだから、(ふる)い仕来たりなどに縛られるといふ風は殆どなかつた。祖父のまつ正直なハツキリした頭が合理的に家を支配してゐた。祖母は祖父とは反対に、実に器用な円満な人で、理性的な所や数学的な所の全然なかつた人のやうである。けれども実によく祖父を信じて賢く従順に奉仕してゐたから、祖父母の夫婦間は美しいものであつた。とかく人には敬遠される祖父に、人にやさしいさつぱりした祖母のついてゐることは、私の家を賑かにした。この祖母は、私の母の子供の時に来た後妻で、自分には子供のない人であつたけれど、実に実によい人であつた。

 しかし私の十一の時であつた。私の家に悲しいことが起つた。その前から私は子供ながら、非常に心配して、出来る限りのことをしたのだけれど誰の力も及ばなかつたのである。今も忘れないのは、悲しい心を抱いて、一人で学校から帰つて来る道であつた。私の町にあめりか(ばあ)といふ皺くちやの老婆がゐた。しかし非常に体格のよいがつしりした女で、大きな袖無しを着てゐた。よく町の両側を流れてゐる(せき)といつてゐる水で、(みち)に落ちてゐる草鞋(わらじ)や馬のくつなどを集めて洗つてゐた。若い頃にどこからか来たさすらひ(びと)だつたのであらう。私を見て『松岡さまのおねえさま(お嬢さん)、あなたのお父さんはどこへ行かしつた』といきなり側に来て聞いた。頓知(とんち)の無い私は、さういふ(とひ)を上手に撃退することは知らないで、唯黙つてゐた。養子であつた私の父は、最近のいろいろな事情から起つて来た品行問題のために、私の家を離縁になつたのである。十分に人格的な祖父によつて代表される私の家も、父自身も、私の故郷の狭い社会では、すべての人に知られてゐる人々なのであるから、町中のいろいろな感情を、無遠慮な一人のさすらひ人が代表して、私にかういつたのであらう。

 この事のある二三ケ月も前であつたか、私は母と、ある親しい婦人とのひそかに話してゐる話を、陰から聞いた。父の品行問題である。はじめて知つた私は本当に驚いた。その頃町の料理屋に東京から三人の藝者が来てゐた。年増と中年の女とごく若い女とで、随分評判になつてゐたやうであつた。その関係である。その料理屋の営業の仕方が悪いので、警察ににらまれて、不意に調べられた。父もつれて行かれる所だつたとか、つれて行かれたとかいふのである。よくは聞えなかつたけれど、実に厭な情けない気持ちであつた。

 それから二日と経たない宵のことである。父は家で、新座敷といつてゐた一番外の塀に近い部屋で、寝転んで新聞を読んでゐた。私は父に何かいひたいやうな、いはれたいやうな気で、そのそばにゐた。すると外で『(ひで)ちやんおまちなさい』と土地の人でない声が聞える。ハツとした私は一人で門の外に出た。一目でそれと思はれる女が、家の中をのぞいてゐた。私の家の塀の上の方は格子造(かうしづく)りだつたのである。私は鋭く咎めた。『人の(うち)をのぞくのは誰です』といつたのであらう。びつくりしてお辞儀をして向ふに行つた。そこにいま一人の女が立つてゐた。私は(いへ)の中に引返して、そのことを父にいつた。(うち)をのぞいてゐる女を、咎めて追ひ返したといつたのであらう。そしてお父さんがあんな女を相手にするのは(いや)だといつた。ひどく意外に感じたらしい父は、よい加減にその場をあしらはうとしたのを、こちらはどこまでもまともに父に話さうとしたものだから、子供の癖に生意気だと、その言葉も態度も情けないほどのものであつたであらう。私は卒倒してしまつた。間もなく気がついた時は別の部屋にねかされてゐた。

 それからまだ幾日もたゝなかつた。螢取りに二三人のお友達と、本寿寺といふ日蓮宗のお寺の前の田圃(たんぼ)に行つてゐた。そのそばに祖母の弟の家がある。その大叔父が私の父の暢権社(ちやうけんしや)といふ法律事務所に来る人で、父を尊敬してゐる人であつた。父はその時分の免許代言人、今の弁護士であつた。その叔父がヒョツト田圃に出て来たものだから、七郎叔父さんお父さんは社にゐたのと、ひとりでに聞く気になつた。『ゐない、いろいろ用があるんだが』と妙に心配さうにいつた。私を○○(料理屋)につれて行つて頂戴々々と頼んだ。叔父も決心して『つれて行かう。一度(うち)へ帰るか』といつた。私はこの儘でよいといつた。家へ帰つて着物を着換へたりして出ることは、何だか出来ないやうな気であつた。

 私は『用があるからお帰りなさい』といつた。七郎叔父さんもいつてくれた。それから階下(した)の別の座敷に下りて来た。女たちもついて来た。そこはその人たちの部屋らしくて、いろいろなものがあつた。一番年とつた女が、美しい箱に何かを入れて、お嬢さんによいものがあります、本当に可哀さうにね、御心配あそばして、しかし決して御心配はございませんよ、私たちがついてをりますからなどといつた。『ありがたう。欲しくありません』と野暮(やぼ)に田舎つ子らしく答へた。今すぐ帰るからと父がいつたので、一歩さきに帰つて来ると、父も間もなく家に帰つた。

 父の兄は、故郷の一番大きい銀行の支配人で、先代の頃は貧しかつたのを、めきめき位置も出来富もつくつて、私の家のちやうど裏合せに、その頃広い三階の家が出来た。八戸ではじめての三階建である。伯父は背の低い肥つたあばたの人であつたが、ほんとに器量人(きりやうじん)といふやうな、子供にでも婦人にでも、よい態度で接する人であつた。我欲横着(がよくわうちやく)といふやうなことが、その弊害として出て来ることなのであらう。父は職掌柄、この伯父の実利主義——我欲流に手を貸さなくてはならない場合が近頃度々あるのを、気の弱い父は断りきれず、却て深みに引き込まれさうなことが、皆の憂ひのたねであつた。その当時の私には殆どそれが分らなかつたが、後になつていろいろの事実から察せられたのである。私の家の祖母の妹婿に当る人が、後に国会が開けてから、代議士にも出たやうな有力者であつたので、祖父はその人を煩はして、仕事の仕方も品行のことも、迷ひから覚めるやうに話してもらつたけれど、どうしても駄目であつた。(みなもと)といふその叔父が一日に二度来たことを覚えてゐる。それが最後であつた。

 祖父はすぐと、祖母、母とそれから私を呼んで、『残念なことだが登太郎(とうたらう)は離縁することにしました。家名にかゝはることのあるのは致し方のないことだ』といつた。母は『申訳もございません。私も心をきめて居ります。』といつた。私は唯々悲しい驚きにみたされた。そして父にはもう居場所がなくなつたやうな気がした。あめりか(ばあ)が、あんなことをいつたのはこの噂が町にひろがつた頃であつた。

 

     九

 

 その後月日が過ぎた。父の実家の伯父と叔父と私の父と、その外の人もあつた。多分銀行のことだつたのであらう。訴へられて収監された。そして父だけは予審免訴になつた。それを聞いた時、祖父は喜んで『登太郎は悪いことの出来ない人間だ』といつたのを知つてゐる。悪いことの出来ないだけでは駄目である。人は押しきつてよいことが出来なければ、私の経験したやうな悲しいことが起るものだと思ふ。

 父方の伯父は、その後あの三階の家も処分してしまつて、北海道に移つた。預金者に迷惑をかけても自分は金をなくしないで、北海道で金貸しをしてゐるといふ世間の噂を聞いたのは、私たちの大きくなつてからのことであつた。あれだけすぐれた人であつたけれど、腕にくらべて誠の足らない人は終に(ほろぼ)されてしまふものか、かなり貧しくなつて故郷に帰り、町外れのある寺にその妻である義伯母(をば)と一緒に間借りをしてゐた。私はその時二人の子供をつれて、幾年ぶりかで帰省したので、ある日一人で訪ねて行つた。さうして昔に変る実に気の毒な不自由な有様を見た。しかしその態度は相変らず落ちついて冷静なものであつた。なやむ心砕けた心を、ありのまゝに、絶えて久しい親身の姪に見せることが出来るほど、素直ではなかつたのである。その伯父が私の短い滞在の日の終らない間になくなつたのである。あの中で長い間病まなかつたのは難有(ありがた)いと、骨肉としては思はざるを得なかつた。私はそのとむらひを送つた。○○家の墓地のある寺は、町の他の町外れである。狭いといつても、昔からの城下町だから、一つの端から他の端まで、さまざまの角を曲つたりして、その見る影もない葬列が過ぎて行く。その全盛の間、この伯父が町を通つた時に、○○さんが行くといつて見た限りの人は、何といふ最後の幕かと、ある人は憐み、ある人は笑つたであらう。

 私の父はそのずつと前になくなつて、同じ墓地に葬られてゐる。父は実家に帰つてから、第二の結婚をして、相当の家を持つてゐたが、私の家にゐた時のやうに、大勢の人を置いて、立派に門戸を張ることが出来なかつた。裁判沙汰の間に健康を害し、あふ度に別人のやうに痩せて行つた。父の家の前を通つたり、近所まで行つたりする度に、不思議な気持がした。懐しさの上を、近よつてはならないやうな遠慮が竪く縛つてゐる。さういふ時に父の今の奥さんに逢へば、寄つていらつしやいと、気さくに言葉をかけられた。それに力づけられて、中に入つたことも二三度もあつた。実になつかしさに堪へないと思つても、父はそれほどに取扱つてはくれなかつた。帰るといつてもあまりとめなかつた。思ひがけない会見に、心も落ちつかなかつた(せい)もあらう。ある時咳をしながら吸入をしてゐる父を見た。吸入といふものもはじめて見た。私の(うち)では父の噂をあまりしないのだけれど、誰か心からいひ出す時には、いつも同情のあるものであつた。父は多くの人にすぐれて賢い人でもあり、器用な人で物の哀れも知るたちの人であつた。けれども弱さのために負惜しみの強いたちではなかつたらうか。ほんとに自分の弱さに恥ぢて、祖父やあの時仲に立つてくれた義叔父(をぢ)の親切に頼る心になつてくれたら、(あらた)に生きる道は備つてゐたのにと、それが何よりも残念である。強くて負け惜しみも強い伯父は、若し悔い改める心が起つたら、終りのラツパの鳴る時に、或は強く立ち上らせて頂かれるものかも知れない。しかし弱くて負惜しみの強い父はどうなるであらう。どうかしてあの哀しみを知り得る心が憐まれるやうに。

 今になつて思つて見ると、ある家の子供は、争はれないその家の血をうけて生れてゐる。そしてその境遇と日々の生活から、強い影響をうけて成長する。さうして十五六歳までの間に、すつかりその生涯の人格の骨組が出来てしまふものゝやうな気がする。思ひ合はせて見れば見るほどこの事を痛感する。さうしてそれ以後の年齢において、即ち私たちが、親の力よりも、段々より多く自分の自覚と自力を以て生きて行くやうになるに従つて、幼い時から出来てゐる人格の特徴が、その長所も弱点も、ありのまゝにその生活や仕事の上に現はれて行く。鏡に自分が映るやうなものである。

 背が低いの顔が長いのといつて、失望したり愚痴な心になるのは、死ぬべき生活への第一歩であらう。頭の悪いことでも、しみ込んでゐる生活上の悪い癖でも、気弱でも強情でも、鏡に向つて気がついたら、本気でそれがよくなるやうに、殊に自分の心の中に起つて来るよい望みは、勇んでそれをとりあげて、心を砕いてもり立てゝ行くやうにすれば、さうしたいろいろの願ひが祈りになつて、肉身の親でなく、私たちの生命の本当の天父(おや)に通じて行くやうである。さうして私たちはその導きによつてめいめいの魂の心底に与へられてゐる、本当の自分を発揮することが出来るやうになる。

 許されて私たちの肉親になつてくれた人たちは、また許されて、私たちの人格の大体の骨組をつくつてくれる。私たちの親が子に対して誠実でありさへしたら、そのつくつてくれた骨組みが弱くても、所々に間違ひはあつても、その輪郭は神の許しによつて出来てゐる。さうして私たちの自覚が発達するに従つて、今度は自分自身に、(おの)が生命の経営に当ることを許されるのである。本気で一心にするならば、親のよい力はひとりでに働いて我等を助け、親の間違ひは自分の力で訂正されて行くのである。背の低いことや顔の長いこと、やさしい(たち)強い質、それは肉親を通して与へられた、われらの骨組である。骨組を全然換へることは出来ないけれども、その骨組に最もふさはしい肉をつけ、その骨組の中に、よきもの、美しきものを十分に満たすことによつて、その骨組が絶対の価値を現はして生きてくるもののやうに思はれる。親は本当にあらゆる涙を以て愛し親しむべきものである。親こそ本当に(えにし)の深いものである。

 

     十

 

 頁がないから私は私の記述を急がう。

 私は以上のやうにして小学校を終つた。その後の一年をやはり故郷に送つた。私の仕事は実に熱心な英語の勉強と、どうか東京に出して頂きたいと毎夜のやうに祖父に嘆願することであつた。その時分英語熱が、あの町にも盛んになつていろいろな先生があつた。女鹿(めが)先生、久水(ひさみづ)先生などは、私の主な先生であつた。殆ど訳読一方であつた。そこでもやはり四五人の女生徒が、幾十人かの男の学生と一緒に学んだ。私はその中では年少者であつた。パーレーの萬国史の殆ど終りまで進んだ。例によつて知らない字は一字もない程よく覚えた。読方にももつと身を入れて、直読直解流に頭に入れて行つたなら、あれだけの勉強が後々までどんなに役に立つたかと思ふけれど、その後私の英語の勉強は殆どそれきりになつてしまつた。さうして私の勉強熱心の時代もそこで終つた。

 

 (そり)に乗つて上京したといふと、サンタクロースのやうである。それは明治二十二年(1889)の二月はじめのことである。私の願ひが叶つていよいよ東京に行くことになつた。私の祖父は早くから毎日の新聞——朝野(てうや)新聞であつた——を精読してゐる人であつたから、私を東京に出す気になると、いろいろな学校の規則書をとり寄せて見た。その(うち)に東京府立の高等女学校がはじめて出来るといふ記事を読んで、まだ規則書は出来てゐないといふことであつたけれど、それが一番適当らしいといふことになつた、春の開校までに、少しは東京にもなれるためにと、二月早々に出発することになつた。紀元節に行はれるといふ憲法発布式といふことも、祖父の目ざしてゐる所だつた。汽車はまだ通じてゐなかつた。八戸(はちのへ)は船つきだから、大概は海を行く。しかしこの時どういふ訳であつたのか、日数も費用も多くいる陸路(くがじ)を選ぶことになつた。祖父は私をつれて、いま一人のお連れは、浄土宗のお坊さんだつた。上り街道を車に乗つて出た。五日乗り通して仙台につき、仙台から汽車に乗るとあとは一日で東京につくといふ。二日目には雪が降つて、中山峠を橇で越えた。まだ寒中のことだから、地に積む雪は低い樹木までを悉く(おほ)つてゐた。前の橇と後の橇と呼び合つて雪のふる中を進んだ。とつぷりくれて宿屋についた。あの時の、実は薄暗かつたであらう所のランプの火ほど、明るく見えたことはなく、あの時の囲炉裡の火ほど、暖かに幸福に見えたことはなかつた。石の巻からであつたか、塩釜までは小さい蒸汽船に乗つた。雨と雪との松島は、風景を見る目も鈍かつた私に、そんなに美しく見えなかつたやうである。早朝仙台のステーシヨンのプラツトフォームで、はじめて汽車といふ物を見た時の不思議な気持。殊にその日の空はよく晴れて太陽が輝いてゐた。暗い国からこの明るさにぬけ出した私は、悉くが喜びと驚きであつた。窓の外の植物の葉はつやつやしてゐる。車の中の大勢の人々は、何所(どこ)に行つても知つた顔ばかりの、同じ町の人より(ほか)に見たことのない私に、一人々々が珍しかつた。今東北行の汽車に乗ると、一色(ひといろ)の東北音ばかりでなく、態度にも風采にも同じ一つの特色を感じさせられるのに、あの時は全く反対であつた。上野についた時、あの広小路の広々と見えたこと、本当に東京に来たのだと思つた。

 私たちは浜町の杉嘉(すぎか)といふ宿屋に泊つた。大川縁(おほかわべり)の気持ちのよい家だつた。学校がはじまるまで、毎日祖父につれられて東京見物をした。江戸勤番時代に東京の地理に詳しかつたので、それに引くらべて見て歩くのは、祖父の楽しみであつた。お昼はいつでもそばやで、もりかけはたしか一銭、おかめや玉子とじは六銭だと思つた。銀座の松田といふのは昔からある料理屋だといふことで、多くの人の行く所であつた。私たちもそこに行つた。今川橋の松屋は早くからかたい店だといつて、祖父は帰国の土産をそこで買つた。

 

     十一

 

 私はそれから永代(えいたい)の橋に近い、北新堀町といふ所に、国から来ている女学生の方たちと一緒に置いて頂くことになつた。世話をして下さるその(うち)皆下町(したまち)つ子であつた。私はその(いえ)故郷(くに)の人々とは、悉く調子の違つた言葉を聞き、身振りを見、所かはれば品かはる通りに、日々(にちにち)の生活上の常識に何かにつけて実に大きな違ひのあることを見た。

 新聞といへば朝野新聞のことばかり思つてゐたのに、朝日新聞の半井桃水(なからゐたうすゐ)の小説などと皆がいふのも変つたことだつた。泊つてゐる(うち)の娘さんたちは、新富座だの中村座に行つた。今の歌右衛門の福助時代で、非常な人気のやうだつた。

 学校へ行けばまた、そこには新しい見聞が、(うしほ)のやうに私の頭に押よせて来る。その時分第一高女の修業年限は三年であつた。高等小学校を卒業した人を入れるからであらう。一年を二期に分けて、一年前期一年後期といひ、半年毎に卒業生を出す訳になつていた。私は入学試験の結果、(ほか)の二十四人の人たちと共に二年前期といふ組になつた。さうしてそれは最上級であつた。それで私たちは二年で高等女学校を卒業して、府立第一の第一回卒業生とされたのである。私はその頃もよく出来る生徒ではあつたけれど、学科の勉強はちつともしなくなつてしまつた。唯東京といふ社会が、私の真剣な興味と問題になつてしまつた。最初の帝国議会が開けるといふので、木挽町の厚生館——今の歌舞伎座の所だつたかも知れない——といふ所には、度々政談演説があつた。女の弁士も二三人ある。(わたし)も誘はれて聞きに行つた。学生は政談演説をきいてはならないといはれてから、あまり行く気にならなかつた。その前私は私を演説につれて行つてくれた友達の神田の下宿をたづねて、そこで政談演説をする婦人たちに引き合はされたことがある。さうしてそれは、私にあまり興味ある印象ではなかつた。

 学校はその時分築地であつたから、あの辺にある教会に、臨時に催される講演会のビラを、時々見ることがあつた。さうしてその中に、かねて読んでゐたその時分有名であつた巖本善治先生の女学雑誌で見覚えのある名があつた。いつかさういふ所に行つて見たいと思つてゐたけれど、よい機会をつくることが出来なかつた。するとその頃(あらた)(わたし)たちの組に入つて来た一人の友達が、お弁当の時間に、いつも(かしら)を下げてお祈りをする。はたの人の冷笑にも白い眼にも決して頓着しないのであつた。私はそれに感心して、ある日の帰りみちに話して見ると、その友達が学校に近い明石町の教会に行くことが分つた。さうして私を誘つてくれた。喜んで次の日曜から行つて見ると、そこはまたその頃の私にとつて、驚くべき新世界であつた。男女の西洋人が幾人もゐて、その人たちが、丁寧な日木語で説教したり、初めて行つた私たちにも親切であつた。そこにゐる大勢の日本人は、大概英語がよく出来るやうである。日本婦人の中に二人ほど洋服を着てゐる人があつた。礼拝のあとでは男も女も立つていろいろな報告をする。私たちの入つた日曜学校の組の先生は、思ひもかけず有名な潮田千勢子(しほだちせこ)氏であつた。牧師は小方(をがた)仙之助氏で、はじめて聞くキリスト教は一々驚かれつゝも実によく分ると思つた。私が洗礼をうけたのはそれから間もなくだつた。

 この洗礼のことは、いふまでもないことだけれど、私の生涯にとつて、いろいろな意味を持つものであつた。私はそれまで女学校を卒業したら高等師範に入りたいと思つていた。それより外に道のあることを知らなかつたのである。早くからあつた東京女子師範学校が女子高等師範学校に昇格して、始めての卒業生を出さうとしてゐる時であつた。今の塚本さん野口さん安井さん戸野さん星さんの組だつたと思ふ。ある日それらの方たちの洋服姿——その頃女高師の制服は洋服であつたのであらう——が、ズラリと揃つて私達の学校を参観した。その態度の重々しく立派に見えたこと、それが実にあの頃の子供に、雲の上の人のやうな気がした。殊にあの中の一人の方が、春の新しい学期から、(わたし)たちに家事を教へて下さるのだといふことで、どの方かどの方かと幾日も幾日も噂をしてゐた。いよいよ新学期になつて見ると、それは今の星常子夫人であつた。片岡先生といつた。高知の出身で、有名な谷干城子(たにかんじやうし)の夫人に知られ、そのお子さんの家庭教師として、谷さんから私たちの学校へ通つておいでになるのであつた。先生になつてからは、いつも清楚な和服をきちんと着てゐる美しい方であつた。その態度や言葉のハツキリしてゐることがまた私たちをとらへた。

 東京へ出て来たあくる年、私は女高師の入学試験をうけた。さうして私の組から三人受けた中で、私だけ落第した。合格出来た二人の中の一人は、今の第二の先生の高木光子さんである。故郷(くに)にゐた時のやうに熱心な勉強をしてゐたら、私もきつと入れたらうと思ふのだけれど、私はあの頃、はじめて見る活きた社会の興味に惹かされてしまつて、全然勉強をしなかつた。それでゐて音にも響く女高師の入学試験をうけたのである。知らず知らずではあつても、ほんとうに高慢なことであつた。頂門の一針とは実にあのことである。

 

     十二

 

 教会に行きはじめたのはその前からであつた。さうして洗礼をうけたのはその後であつた。明石町の教会は、居留地の十三番にあるので、十三番といはれてゐた海岸女学校の人たちの来る所であつた。府立の学校にゐる私に、ミツシヨンスクールの風はまた変つたものであつた。女学雑誌を本気に愛読して、その雑誌の理想が実現されたといはれてゐる明治女学校を見出した。そこには女学校の卒業者も入る三年の高等科がある。私は間もなく女高師のことも忘れてしまつて、唯どうかして明治女学校の高等科にと思つた。しかし官費の女高師と違つて、明治女学校は学費がいるのである。祖父が私を東京に出すことを躊躇したのも、下にも妹や弟があるので、多くの学費を出せないといふ、唯その理由であつた。(まと)を明治女学校にきめてからは、唯この問題に苦心した。

 私はとうとう女学雑誌の主筆で、明治女学校の校長であつた巌本善治先生に手紙を書いた。さうしてどんなにお返事を待つたであらう。待ちきれなくなつて、また手紙を書き、とうとう思ひきつて、(しも)六番町にあつた女学雑誌社に先生をお訪ねした。その隣に明治女学校があつた。その時はお目にかゝることが出来なかつたけれど、折返していま一度訪ねて来るやうにと、日と時を約束した手紙を下さつた。さうして私は第一を卒業すると同時に明治女学校の高等科の生徒にして頂いた。月謝は免除して下さつた外に、女学雑誌の仮名つけをさせて下さつて、それが私の寄宿料になつた。その頃すべての原稿に振仮名をつけて印刷所に送つた。印刷所は今の秀英舎であつた。

 明治女学校の寄宿舎には、その時百人少し上の学生がゐた。夜は七時から一同講堂に集まつて、(ゆうべ)の礼拝をする。すぐそこで九時まで復習をした。その時間に私はよく仮名をつけてゐた。私は読む力はかなりあつた方だから、役目は勤まつた方かも知れないが、女学雑誌にゐる人でも出来ることを、特に私のために職業として与へて下さつた先生の御親切と、それに対する余計な手数やお心配りを、人を使ふ身になつて、私ははじめてしみじみ思ひ当るやうになつた。

 巌本かし子夫人、即ち小公子の訳者若松賤子(しづこ)女史の翻訳や随筆が度々女学雑誌に出た。それは達者な読みにくい字であつた。島崎藤村氏の原稿の端正な読みやすい文字には、いつでも朱書(しゆがき)できれいな仮名がつけてあつた。小公子の最初の出版は女学雑誌社からであつた。さうして私はその校正をさせて頂いた。今出てゐるのとは違つた、美しい装幀の小公子を、はじめて出来て来た日に、お礼として頂いたのは本当に嬉しいことであつた。それだのに私はあの記念の本をどうしたのであらう、早くからなくしてしまつた。

 

     十三

 

 明治女学校の寄宿舎及びその新しい学校生活、それは私にとつて、また実に新しい世界であつた。生れてはじめて規則正しい生活のどんなに自分の心身に快適なものであるかを知つた。朝早く起きることも、大勢の洗面所できまりよく早く顔を洗ふことも、食事も入浴も、のろくさしてゐる田舎ものには容易なことではなかつた。しかし私は本気で当たつたそのお蔭で、第一高女時代に、学校そつちのけで、夜おそくまでさまざまの本を読み散らしたり考へたりして、卒業前の半年位殆ど毎日のやうに悩まされてゐた頭痛を、二三ケ月の(うち)にすつかり忘れてしまつた。間食といふものはあの寄宿舎に全然なかつた。それがまたどんなによい習慣を私に与へてくれたらう。田舎は実に食べる所である。私もその中で育つた。それが寄宿舎で救はれたのである。お部屋を代表して、一週一度の献立会議に出る人に、おさつのお味噌汁を注文したり、帰つて来ての報告で今週はお萩があると聞いたりするのが楽しみだつた。舎監(しやかん)の一人で畔柳(くろやなぎ)先生といふ、京都方面の方だつたけれども、江戸子(えどつこ)のやうな利かぬ気の美しい未亡人の先生を想ひ出す。その方の経済的手腕と思ひつきのよいことは、どんなに大勢の人の健康と食事の楽しみを増したであらう。いつも月末に報告される食費もまた実に過不足なくキチンと行くのであつた。またその時の台所頭(だいどころがしら)女中(ぢよちう)を思ひ出す。越後だといふガツシリした、(わたし)たちには(こわ)い人だつた。お豊といつた。彼女の采配によつて、日に三度炊く百人前の御飯の出来に決して出来損じのなかつたこと。お料理の加減のよかつたこと。畔柳先生の御指導は徹底したものであつたと、今になつて一入(ひとしほ)思はれて来る。いせといつて寄宿舎の部屋の方にもちよいちよい来る、仲働き格の女中を思ひ出す。(ほか)に名前を忘れた台所の女中が二人位あつた。朝の食堂ではお味噌汁のお代わりをした。あちからもこちからも、いせ! 誰々(たれたれ)! と、お給仕をしてゐるその人たちを呼んだ。女中を、お手伝(てつだひ)と呼び、さんをつけるなどとは、あの頃の若いものゝ頭にさへも全くないことだつた。おこげを好きな人、生魚(なまざかな)を嫌ひな人など、前以て通じて置く便利があつた。そして私もその(うち)の一人だつた。たまにおこげの好きな人のつく食卓(テーブル)のお飯(はち)に、それが入れてあつた。おさしみの代りに半片(はんぺん)を貰つた。牛肉と野菜のごつた煮やすいとんなどは、人気のある料理であつた。

 (さだ)といふ、(ぢい)やの小使(こづかひ)を思ひ出す。しかもその人が大きな風呂敷包みを背負つて、舎監の呉先生の部屋の前から、寄宿舎の廊下に急いで入つて来る姿を思ひ出す。それは毎土曜日にあることで、定の背負つてゐる風呂敷の中にはお菓子がある。

 といふのは、間食は、一週の間に、唯一度土曜日にあるだけだつた。そして三銭が一人分のきまりである。土曜日の朝になると、皆楽しみにして、一人々々にその三銭の内容を詳しく書いて、室長が一と部屋分づつまとめて、たしか呉先生に出すのだつた。(さだ)が一々それを買つて、午後に部屋毎に届けて来る。入浴は水曜土曜の二日だつたので、お風呂をすまして、お部屋の人が机の前でいろいろ話しながら、おやつをたべるのが楽しみであつた。試みに三銭のお菓子の内容をいつて見ると、やき芋一銭、餅菓子一銭、お豆一銭といふ風に私たちが書いてだした。やき芋は一銭に六つ位あつた。餅菓子が五厘のものなら二つある。外に紫蘇(しそ)パン、(かた)パン、餡パンなどをよく頼んだ。鹿()の子は高い部であつた。だから三銭のおやつは一度に食べきれなかつた。日躍まであつた。今(わたし)は果物を好きだけれど、あの頃果物を買つた記憶は殆どない。今のやうに果物が豊富でなかつたせいもあるだらう。非常に特色のあつた先生は別として、一々先生の顔を覚えてゐないのに、女中の顔をよく覚えてゐる。教科書も一々覚えてゐないのに、あの時のおさつや鹿の子の顔をよく覚えてゐる。人間は食ひしんぼうだといへばそれまでだけれど、もつとよく考へて見ると、日々五分(ごふん)とも違はない規則正しい時間に、よく調理された簡素な食物を、適量にきちんとした体裁において()ることが、どんなによい事であつたか、さうしてそのよい事であつただけそれだけ、印象の深いものになつてゐるのであらうと思はれる。今の私の家の食卓はその頃の明治女学校の寄宿舎に遠く及ばない。先生であるか女中であるかゞ問題でない。影の薄い先生よりも、ハツキリした女中の方が、いつまでも印象されてゐる。善いにしても悪いにしてもそれだけ人に働きかけたことになる。

 

     十四

 

 私はまたあの頃いろいろな名士を見た。文壇の人、宗教界の人、教育界の人などであつた。星野天知(てんち)先生の文学界といふ雑誌が盛んな頃であつた。巌本先生のお使(つかひ)で、いろいろな人を訪ねた。当時の碩学(せきがく)加藤弘之(ひろゆき)博士の所へも行つた。夏の日のそれも非常に暑い日だつた。老博士は白い帷衣(かたびら)の上に、ちやんと羽織を着て出ていらしつた。但馬出石(たじまいづし)の会の日取りのことか何かであつた。若い一人の女の子にでも、ちやんと羽織を着て会ふやうな、唯の几帳面以上の敬虔さが、すべての応対に現はれてゐることを感じた。私はその前にも弘之博士には御縁があつた。それは第一高女(かうぢよ)にゐた時だつた。どういふ訳であつたか不意に、大学総長の加藤博士が学校に来て下さるといつて騒いだ。そして短いお話があつた。そのあとで生徒の中から(たれ)かお礼をいふやうにと、校長が一二の人を指名したけれど、その人たちは立ち上らなかつた。次に私が指名された。言葉の最も不自由な私に、本当に意外なことだつた。しかしためらつてゐられる場合でない。すぐに壇上に出たけれど、何をいつたのか一切夢中であつた。それから十年以上も経つてから、(わたし)は私の雑誌のために侍医の加藤照麿(てるまろ)博士から育児のお話を聞くやうになつた。加藤夫人からも度々適切な家政談をして頂くので、今に至るまで長年の御懇意になつた。照麿さんは弘之博士のお子さんであつた。無宗教唯物主義のお(うち)と、それとは全然反対の立場にある私たちだけれど、各自に信ずる所に忠実な、真面目な人間同士とは、心から親しみ合ひ尊敬し合ふことが出来るものである。

 女子学院に矢島さんを、跡見女学校に跡見花蹊(あとみくわけい)さんを、それから当時の新知識小鹿島筆子(おがしまふでこ)女史、浅井作子といふ方、東洋英和女学校にはミセスラージを、またその頃の田辺花圃(くわほ)女史など、巌本先生のお使として、私の会つて頂いた女の方だけの名を挙げても沢山ある。時代に光つてゐる人物といふものは、一見してもいろいろな特種の(ゆか)しさを持つてゐるものであつた。学校でも女学雑誌社でも、多くの文壇の名士を見た。一番印象の鮮かだつたのは藤村(とうそん)さんである。お店の番頭さんのやうなその風采が、その詩からうける気持とあまりに違つてゐたからであらう。北村透谷(とうこく)さんにもお目にかゝつた筈なのに、その顔もその姿も少しも目に残つてゐないのは不思議である。

 明治女学校の人たちはまた、日曜には、その頃の一番町教会に行つた。植村正久先生の教会で、今の富士見町教会の前身である。私も皆と同じやうに、植村先生の説教には、本当に引きつけられて聴いてゐたけれど、あまり分つてはゐなかつたやうに今になつて思はれる。それは私は神の世界にどうして悪魔があるのだらうといふ、誰でも必ず抱くべき筈の疑問に逢着(ほうちやく)して、学校内の日曜学校で、いろいろな質問を試みた末に、(うま)れかされたものだかから生きずにはゐられない、しかし生れなかつたら、かうした面倒はなかつたのではないかと、全然無感謝のやうな気持になつて、日曜の午後には私たちの学校から程近い、島地黙雷師(しまぢもくらいし)白蓮(びやくれん)社に通つて、またその説教を聴いたりした。植村先生の所に洗礼をうけたいといつて行くと叱られるとその頃皆いつてゐた。学校を出て嫁に行くと、忘れてしまふやうな信者は駄目だといはれるといふことであつた。私は心に多くの疑問を持ちながら、さうしてどうかして植村先生に教へて頂きたいと思ひながら、あなたはそんなことまで分らないのに、どうして洗礼を受けたのだといはれるのが恥しくもあり恐しくもあつて出来なかつたやうである。星野天知先生の唐詩選や詩経の講義、鈴木弘恭(こうきよう)先生大和田建樹(たてき)先生などの枕の草紙や歌の話、会話は全然出来ず、訳は私の実力には過ぎてゐるラセラスであつたけれど、それも本当に面白いものであつた。しかし私の興味はより以上に、周囲の社会にあつた。生きたいろいろの人物の上にあつたのである。お昼のあとでは全校を講堂にあつめて、毎日巌本先生の講話があつた。時事問題あり文学あり宗教あり、その風采その能弁、才気と敬虔、覇気と熱涙とを織り交ぜて、本当に華麗なものであつた。学生の中にも様々の特色を以て輝いてゐる人々があつた。私などは決してさうした(きは)の学生ではなかつたのである。

 

     十五

 

 明治女学校に入学してから、第二回目の夏休みになつて私は国に帰つた。この時はもう私の国まで汽車が出来てゐたけれど、あの時分の学生は、夏休み毎に国に帰るといふのではなかつたやうで、私は上京以来これが二度目の帰省であつた。野暮な私も余程文化してゐた。不思議に私はこの時のことを忘れてゐる。どういふ事情がそのまゝ私を郷里に引きとめたのか、どんなに考へても思ひ出せない。とにかく私は間もなく小学校の教師になつた。それも一寸の間であつた。その頃から私の恋愛時代がはじまつた。上京前には学問に己れを忘れ、上京以後は、目にふれ、耳に聞くすべてのことに強い興味を覚えて、一年も二年も三年も本当に夢のやうに過ごしてしまつた。小学校時代から、不思議な男女共学で、男性と机を並べ、女学校時代にも、国の人たちと大概一緒ではあつたけれど、素人下宿や本式の下宿屋にも住んで、出るにも入るにも勝手のしやすい境遇であつたけれど、実に(せは)しく働いてゐる私の心に、異性との愛情の殆ど成長する機会がなかつたのである。反対に私の小学校教師時代はだれた時代であつた。身も心も打込んでするほどのこともなく、他の刺戟や指導者なしに十分に考へるほどの材料を、一人ではつくり得ない時であつた。私はやはり学校に帰る方がよかつたかと思はれもする。しかしあの頃の明治女学校は、あの盛んな姿の中に、多くの危機を孕んでゐたことが後で分つた。さうして間もなくその一つ一つの危機が、滅びの方向に重く傾いて行つたやうであつた。思ひの定まつてゐない私が、()しもその中にゐたとしたら、その周囲の大勢(たいせい)から、一人でゐるよりも一層困つた影響を受けたかも知れない。明治女学校と巌本先生は私の恩人また恩のある学校である。また私の生涯に劃時代的な進歩を促してくれた学校である。また私はその短かつた全盛時代に、そこに置かれたといふことも感謝すべきことである。私は今も(すで)に滅び去つた明治女学校を忘れることが出来ずにゐる。あの爛漫たる才華のなかに、理もあり情もありながら、生ける信仰を欠いてゐた。その聡明さはキリスト教思想を解してゐても、本気に神に仕へようとはしてゐなかつたのであらう。そのために美しい学校がとうとう魔の国へさらはれて行つてしまつた。

 その頃であつた。私の第一時代の友達で、盛岡の女学校に教へてゐた人が、ある晩不意に訪ねて来た。さうしてその人の結婚が俄にきまつたので、出来るならば私にその後を代つてほしいといふのである。私は新しい恋愛を抱いて、天主教の尼さんの建てゝゐる盛岡の女学校に赴任した。そこはまた私にさまざまのことを考へさせてくれた所であつた。寄宿舎にゐたので、尼さんの生活を見ることが出来た。尼さんたちに親切にして頂いた。かぜ(ひき)位の病気でもおいしやの尼さんが来て見てくれる。皆よい方である。しかしプロテスタントを信じてゐては天国がないから可愛さうだといはれた。学校のすぐ近くに教会があつた。いろいろな時の御彌撒(ごみさ)に私も度々つれて行つてもらつた。夜中にはじまる天主教のクリスマス礼拝のことを、今も忘れることが出来ない。

 明治女学校の中には、キリスト教思想があつても信仰はなかつた。尼さんの方の宗教には、神秘な憧れはあつても、人間の血や肉の上に与へられる信仰ではなかつた。洗礼をうけた最初の教会以來、(いえ)それよりもモツト前から、私は宗教に心ひかれながら、私の(いのち)の中にある生きた信仰は育てられてゐなかつた。しかし私は信者だと思つてゐた。今から思へばキリスト教道徳の中に生きたいと望んでゐたといふだけであつた。

 その頃私の心の中に、本気に熱心に働いてゐたものは恋愛であつた。初めから遠く離れて()んでゐても、互ひの思ひがいよいよ熟して来るので、私たちの敬愛する先輩を通して、私の家に結婚のことを申込んだ。先方の人柄も双方の知り合つてゐることも知らない祖父は、総領のことでもあり、あの子は養子をして家に置きたい(かんがへ)ですと、どういふ場合にも最も明白に自己を語る老人が答へた。さうして実に簡単にその場のことが済んでしまつた。物馴(ものな)れた人、洞察力に富んだ性格の人などであつたら、どういふ経路をとつてさうした遠方の人との間に出て来た問題であるかを、必ず聞く筈なのだけれど、私の祖父はさうしたデリカシーを持つてゐなかつた。私たちはそれから長い間忍耐した。私の下には弟もあるのだから、心から訴へたら許してくれる祖父であつたのに、智慧も力もない私であつた。

 あの頃尼さんたちから、床しいやうな神秘なやうな迷ひ深いやうなお話を沢山聞いた。明治女学校の実に社会的であつたのと反対に、二時頃生徒が帰つてしまふと、全く世の中とは没交渉な世界であつた。天井の高い二階の狭い部屋であつた。一方の壁際に寝台を置いて、割合に大きい机を北窓の下に据えた畳敷の部屋であつた。そして廊下をへだてた南側の同じ部屋は、イタリー生れの尼さんの寝室であつた。そのやうにして、自分自身の事情も周囲のことも、悉く非社会的なさうしてセンチメンタルなものであつた。私はそこで博文館から出てゐた日本文学全書を友として、最も多く日本文学を読むことを楽しみにしてゐた。佛蘭西(フランス)語の稽古を尼さんにすゝめられても気がむかなかつた。あのやうに消極的に日を暮らしたことは、それ以来私の生涯にないことであつた。この時代に私の父も郷里でなくなつた。余りある才気も温かい人情味も多分に持つてゐた人なのに、四十二年の生涯の寂しがつた晩年が気の毒でならない。

 

     一六

 

 私はまた私の恋愛について、一つの新しい心配をしなくてはならなかつた。それは先方の趣味や思想が、その勤めとその住む所を移して以来、段々変つて行くことに気がついたことである。淡泊なピユウリタ二ツクな考から、著しく卑俗になつて行くことである。私は学校をやめて、どうしても結婚しなくてはならないと思つた。はじめて思ひきつて、祖父に私の心からの願を打あけた時、快く承知してくれた。祖父もその頃になつて、私の事情に心づき、気の毒に思つてゐたことを後に祖母から聞いた。反対に先方は長い間熱心であつた結婚に、その頃になつて(には)かに冷淡になりまた躊躇(ちうちよ)してゐることを、飾らうとすればするほど見えすいて来るのであつた。

 私たちがたつた半年で離婚するやうになつた事情を、姑と合はなかつたのだ、激しい新旧思想の衝突のために愛を()かれたのだ、そのために強い女になつたのだなどと、いつか何所(どこ)かの新聞にも書いてあつたのを読んだことがある。老人こそは全くの冤罪(ゑんざい)である。私は姑と同居してゐなかつたのだから、さういふことのありやうはなかつたのである。東北生れの女学生は、先方のかぶれはじめてゐる関西趣味に合はなかつたのである。私はもう少しあゝいふ風な社会についての知識と覚悟があつたら、関西のしかも田舎関西の低級猥雑(わいざつ)な周囲と、愉快な戦ひをすることが出来たであらうけれど、あの時の私にさうした力量はなかつたのである。さうして(いや)なことばかり見聞きした。ほんとうに自分の無力を痛感したあの半年であつた。あの時の自分だけでなく、今でも私は、清らかな水の中に()みたい小さい魚なのであろう。泥の中で大きくなるやうなことは、生得私に合はない苦手な仕事である。先方も同じやうに底のきれいな人なのに、(しゆ)に交つて(あけ)に染む非常な弱さをその外部に、人一倍持つてゐたことは、一個の不幸な人であつた。それも酒を飲むやうになつてから起つたことである。私は死んだ気になつて私の心の中にある愛をすてることを決心した。死んだ気になつてとは、よく人のいふことだが、死んだ気になるとはどんなことだか、それは実際死んだ気になつて見たことのある人でなければ分らないことである。なつかしい人のなきがらのやうに、私の心の冷たい愛の死骸に別れて、決然と自分のより大切な道を(えら)んだあの時、私はほんとうに健気(けなげ)そのものゝやうであつた。京都からいよいよ東京行の汽車に乗つた時、私はいろいろの困難を予想しながら勇み立つてゐた。これからあなたは世の中の多くの人に知られる人になるだらうといふ意味のことを、窓外の人は繰り返し繰り返しいつてゐた。悔いた人の謙遜な姿は尊敬に値するものであつた。

 (わたし)はこの苦しい事件について、その当時も今も多くの恥を感じ、またそれが世の人の(つまづ)く石となるかも知れないことを恐れに恐れてゐる。しかし私は自分の愛のために、自分の全人格を奴隷にし、また相手の虫のよい手前勝手な愛情の冒涜に、意気地なくこの生涯を任せなかつたことを難有(ありがた)いと思つてゐる。考へれば考へるほど、人の力では出来ないことだつた。大いなるものがあの時の私を強くして下さつた。

 

     一七

 

 その後の私は、いろいろな苦労をした。といふのが当たり前のやうだけれど、不思議に勇ましく戦う力を与へられた私は、むしろ興味の深い山登りのやうな一二年を過した。私たちは私たちの離婚の決心も、私の東京に来たことも、むかふの家にも私の家にも、勿論その外の誰にも一と言も話さなかつた。私の立場が()(かく)もなるまでは、(いたづ)らに心配をかけるばかりだといふ考ではあつたけれども、今になつて見ると、勝気な高慢なことだつた。だから私は東京に来ても、その時分はもう巣鴨に越してゐた明治女学校にも、その外のお友達にも、一切顔出しをしなかつた。さうして私は全然一人ぼつちだつた。先方では当分その保護の下に置きたいといふ考で、自分の友人の家に、私の落ちつき場をきめてくれたのは本当の親切であつた。それはよく分つてゐても、それは私に心苦しく、また(いさぎよ)くもないことだつた。私はとうとう女中にならうと思つた。それは桂庵にさへ頼めば直に出来ることで、さうして自分の小説を書きたいと、まづ思つてゐたその頃の望みが、或はさういふ所から、段々熟し段々可能にされて行くものかも知れないと思はれたからであつた。

 私のつれて行かれた所は、その頃九段下から江戸川に行くあの通りの町にあつた、吉岡荒太氏のお台所であつた。夫人(おくさん)は今の吉岡弥生先生である。たしか至誠病院といつた。通りをへだてた向側(むかひがは)には、至誠学院といふ荒太先生の独逸(ドイツ)語の塾があつた。名前は忘れても、太い声でたまにしか物をいはない、さうして随分しつかり働いてゐた台所頭の女中の顔を忘れない。黒紋つきの羽織などを着てゐた車夫、さういふ人たちが私の仲間であつた。一段上に黒目のキビキビした若い女の薬局の方、そのまた上に女医の今村さん、その方は会計もしてゐた。不思議な御縁とはよく人のいふとこであるが、吉岡さんと私との御縁も本当にその中の一つである。吉岡さんは今になるまで、私が桂庵につれられて、女中として先生のお(うち)に行つたことを、誰にもお話しにならないやうである。今になるとこんなこともありの儘に書くことが出来るけれど、両先生のお徳のおかげがなかつたら、かういふことも或は私の世に出る妨げになつたかも知れない。

 私は本気に謙遜に、唯々働いてゐたけれど、お二人の鋭い目がぢきに私の上に光つた。さうして同情して頂いた。今そこを見棄てゝ来たばかりの生々しい結婚生活の事情は尚更のこと、私の生ひたちのことも、その時はどうしても、こゝに書いたやうに明瞭に聞いて頂くことは出来なかつたけれど、出来るだけのことをお話しゝて、それならもつとよい仕事につくやうに、また世に出るやうにと始終励まして頂いた。さうして書生の一人のやうに取扱つて下さつた。はじめはヒロイツクな望みにみちた気持で女中になつても、実際にその境遇になつて見ると、随分気持の苦しいものであつた。私のこの気持の中に棲んでゐたのは、ほんの一と月位であつた。ほんとうに吉岡先生のかげで、 私は家中(いへぢう)の一番広い座敷の中央(まんなか)に置いてある、火鉢のまはりのさまざまの楽しい賑かな団欒の中に入れて頂いて、おいしやの世界や男の学校の世界や、また先生たちの将来の大きな希望の世界のお話などを聞いてゐる時に、この間別れて来たばかりの、西の国にあつた世界と、(しづ)かな北国の故郷(ふるさと)と、人の世の幕も瞬く間に変れば変るものと、寂しい自分の背景の前に展開されてゐる、この陽気な幸福な世界を、不思議な気持で、しかも私は幸福な気持で立ちまじつてゐた。あの時から三十幾年、私もかはつたのだと感謝するけれど、同時に吉岡さんのお仕事のめざましい発展を思はせられる。その時あの部屋の隅には、今村さんの大きな事務の机もあつた。お客もそこに来た、何も彼もそこだつた。至誠学院の生徒募集の立看板を、私がいひつかつてあの部屋で書いたことも思ひ出される。

 

     一八

 

 吉岡先生が仕事を探すことを私に許して下さつた。私は毎日、その頃新設されて間がなかつたように覚えてゐる報知新聞の職業案内を見てゐた。そしてある時は、本所の方まで事務員の口があるといふので行つたことがある。ある日私が九段の中坂を歩いてゐると、明治女学校の寄宿舎の所に書いた畔柳先生のお嬢さんにあつた。二人は喜んで声をかけ合つて見ると、畔柳先生のお家は、今中坂の隣り道になつてゐるもちの木坂にあることが分つた。私のゐる至誠医院とは目と鼻の間である。綾子さんは私よりは年下であつたけれど、二人は学校時代にお互いに信じ合つてゐた友達であつた。今はどうしても思ひ出せないけれど、畔柳先生の知つていらつしやるどなたであつたかに頼んで頂くと、すぐとさし当つてのよい仕事があつた。それは、今の双葉女学校の前身である、築地の女子語学校の中にある小学校で、先生を探してゐるといふのであつた。さうして私は採用された。吉岡さんでも喜んで下さつて、私は早速畔柳さんにうつることになつた。そこから築地の居留地まで、毎日歩いて通ふことを、電車のないあの頃は当り前のことだと思つてゐた。

しかし私の望みは教師ではなくて書くことだつた。どうかしてさうした仕事がほしい。その頃報知新聞社は三十間堀にあつたので、 毎朝学校に通ふ間に、ちよつと寄道をしては、あの社の前に立つて、職業案内を見てゐた。ある日のことだつた。報知新聞ではないやまと新聞社の前を通ると、校正募集の貼札が出てゐた。私は大いそぎで家に帰つて、履歴書とそれに添えて手紙を書いて、走るやうにまたやまと新聞社に行つた。すると気のぬけたやうな受附けがもう校正はきまつたといつた。さうして校正は女ぢやないんだといふやうな顔をした。その変な受附は意気込んで行つた私を失望させた。しかし実に大切なことを教へてくれた。それから私は、校正は普通男かも知れないけれど、女の私が従事して見たい訳を詳しく書いて、履歴書と一緒に持つて歩いてゐた。

 さうすると実に驚いたことには、それから一週間も経たない(うち)に報知新聞の職業欄に、同社で校正係の入用(にふよう)なことが出てゐた。私は夢のやうにとび上つて、すぐと報知新聞社の中に入つて行つた。朝の(うち)でまだ受附が来なかつたのだらう。小使頭(こづかひがしら)の「(ぶん)」さんといふ正直なお爺さんが出て来た。勿論それが小使頭の「文」さんであることは後に知つた。江戸つ子弁で『あんたですか、校正は男ですよ』『頼まれて来たのです。係りの方に上げて下さい』と私はいつた。うそでよいことが出来たと思つてはならない。悪気ではなく、本当に一生懸命だつたので許されたのであらう。私はその後度々自分にさういつた。さうしてあの時正直な「文」さんを(いつは)つたことを恥ぢた。

 翌日報知新聞社から端書がついた。午前何時までに来るやうにといふのであつた。私は嬉しかつた。二階の汚い狭い応接間に通されて見ると、そこには男の人たちが五六人待つてゐた。同じ志望者である。係の方が出て来た。段々に問答が済んで帰つて行く。私は最後になつた。何を聞かれたか、ちつとも今は覚えてゐない。唯私の履歴書も手紙もよく読まれて、十分の同情を以て考へられてゐることを直感した。とにかく今日一日校正でもやつて御覧なさいと、すぐと(ぢき)その隣りになつてゐる編輯局の一部の、校正の机の所に連れて行かれた。紹介されたのは四十位の実に無愛想な人だつた。そしてその人が校正の主任だつた。(せは)しさうに広告の校正をしてゐた。さうしてゲラ刷を、私の前に黙つて押しやつて寄越す。私はそれを一心に校正した。新聞に出る前の記事を読むのも面白かつた。外にも校正の人がゐた。夕方になると、『今日はもうお帰りなさい。あす十時頃においでなさい。あなたを頼むことになるでせう』と津田さんといふその人が、一寸(ちよつと)ニツコリしていつた。

 いはれた時間通りに社に行つて仕事をしてゐると、応接間に来るやうにといつて呼ばれた。そこにゐた方は長い間報知社の社主であつた新聞界の名将三木善八氏であつた。私は勿論三木さんの名前も知らず、今自分と相対してゐる人は、さういふ人とも知らかつた。しかしあの時の三木さんの顔とその言業はいつまでもハツキリして忘れることが出来ない。

 あなたはえらい。津田さんは、男にもはじめからあんなに(たし)かに校正の出来るものはないといつた。それでけふからあなたを採用します。編輯局に婦人は一人もゐないのだから、気をつけてしつかりしなくてはならない。主筆は田川大吉郎といふ人で、若いけれども立派な人物だと、初対面であるのに本当に頼もしいお父様のやうであつた。さうして一番はじめに会つて下さつた係りの方と書いたのは、今の頼母木桂吉(たのもぎけいきち)氏であつた。その頃は井上さんといはれてゐた。編輯局の中で一番賑かな方だつた。私はあとで思つた。「文」さんに渡した私の手紙をまづ読んで、これは面白いと興味を持つて下さつたのは頼母木さんで、チャントやれるなら婦人でも差支へない筈だと裁決したのは田川さん、無愛想なしかし正直な津田さんが、三木さんに聞かれた時に、感情をさしはさまずに本当によく私を紹介して下さつたので、思ひがけない所に私の椅子がさづかつたのだと、感謝と嬉しさに満されてしまつた。私は今学校に出てゐることを三木さんにお話しして、代りのあるまで午後から勤めることになつた。女子語学校の小学校は、公立学校と違つてゐたので、私の受持は下の組であつたから、午後の時間を自由にして貰ふことが出来たのも幸ひであつた。

 動物園に女が来たと、職工の人たちが盛んにいつてゐるのが聞える。動物園とは編輯局のことだつた。それは編輯局に隣りあつて、すぐに工場があつて、その間が、金網を張つた窓で仕切られてゐたからである。職工の人たちが盛んにいろいろいふことを、それほど苦しくも思はなかつたほど、私は私の新しい境遇を喜んでゐた。皆さんも注意して下さつたのだらう、間もなく職工の人たちも大人しくなつた。

 その時報知新聞の一面に、「夫人の素顔」といふ読物が連載されて評判になつてゐた。名流婦人の逸話や日常生活の特色が書いてあつた。それに書く記者は大概きまつてゐたけれど、さうして私の役目は校正であつたけれど、私もどうかしてあゝいふものを書いて見たいと思つた。そしてその時に思ひ出したのは学校時代に、前に書いた星先生から、一寸お聞きしたことのある、谷子爵夫人の熊本籠城のことや、家庭で(はた)まで織つていらつしやるといふ勤労振りのことだつた。私は星先生の御紹介をいたゞいて谷夫人をおたづねした。さうして打解けたお話を伺ふことが出来た。お(うち)の中もあちこちと見せて下さつた。私はそれを四五回の記事にまとめて書いて、増田さんといふその欄の係りの方に出して見た。早速それが採用されて、また三木さんにほめられた。但し三木さんにほめられるのは決して私ばかりではなかつた。ほんとうに熱心に人の才能を愛する方で、気にいつた記事が出ると、階下のその部屋から、階上の編輯局に来て、その恐い顔を実に嬉しさうにして、最大級の言葉を以て称讃するのであつた。さうして私は思ひがけなくも記者に採用された。小学校をやめて専門の記者になることが出来た。それが離婚の決意を以て東京に出て来てから、唯半年の月日の後だつた。いろいろの苦労をしたらしいと、人は皆思つてゐるやうだけれど、苦労が私を(とら)へるよりも、いつでも希望が近くに私を待つてゐた。

 

     一九

 

 私は西有穆山(にしありぼくざん)師のことを思ひ出した。禅門の高僧西有さんは、私の国の貧しい豆腐屋の子供で、徳行と逸事に富んだ方であつた。私は西有さんのおいでになる所を知りたいと思つて、愛宕下のあたりの大きさうな寺々を聞いて歩いた。天徳寺に行つたら宗派が違ふといはれた。おしまひに青松寺で、西有さんは今遠州の可睡斎(かすゐさい)退隠(たいいん)して、島田の奥の静かなお寺に病後の身体(からだ)を養つておいでになることが分かつた。私はそこにお訪ねして見たいと三木さんにお願ひした。すぐに許されて一週間の旅に出た。社のパスを持つて行くのだけれど、女だから濫用と思はれるであらうといふので、特に本当の記者である証明が入用であつたりした。島田に行つて、幼い時から聞いてゐた、さうしていつか国の方へおいでになつた時、多くの人の中から、のびあがつてその姿を見たことのある穆山老師にお目にかゝつた時、さうしてそれが見れば見るほど尊敬すべき人であつた時、その方が手紙を見て待つてゐたといつて、唯のおぢいさんのやうに打とけて、本当に行届いた親切を以て話したり尋ねたりして下さつた時、どなに嬉しかつたか。私は近い過去において、結婚に破れた敗残の身の上である。望みをもつて健気に戦つてはゐるものゝ、哀しい私の半面は特に温い人の(なさけ)に感じる。しかもそれが幼い時から憧れてゐた高徳無比の碩学(せきがく)であつたのである。人は自分で自分を放棄しないかぎり、放棄しないばかりでなく、健気(けなげ)な心を持つてゐるならば、この世の中には、多くの哀感を(おほ)うてあまりある慰めの力が、愛の泉のやうに湧き流れてゐることを、私は自分のさまざまの実験からも信じてゐる。

 老師は私を檀家(だんか)のある家にとめて下さつた。さうして三日の間毎日その(やす)んでおいでになる部屋でお話を聞いた。 日が暮れてお寺から帰る時には、提灯をともして、お坊さんが送つて下さつた。老師の話して下さつた、そのありのまゝな生ひ立の記憶には、人のよい夫を助けて、大勢の子供を育てゝくれた、きかぬ気の母に対する、思慕と同情があふれてゐた。女は大切なものだと何度もいはれた。その時の幼い筆で私はどう書いたか、恥しいほどのものであつたであらうけれど、三面——今の社会面の上段に一と月も連載された。吉岡先生や畔柳先生たちが、私の世に出たことを喜んで下さつたばかりでなく、私は私の家にも離婚のこともそれ以来のことも知らせてやつて、中学を卒業して、福沢先生のまだあつた慶応義塾を目がけて上京して来た弟と一緒に、芝のある家のしづかな日当りのよい二階に、落ちついて暮らすやうになつた。毎日毎日忙しいものだから、訪ねて行つたりすることは出来ないでも、学校時代の先生やお友達に対しても、日陰らしい気持はなくなつて、心から楽しかつた。かういふ風に自分からよい思ひつきを出して本気で働いてゐれば、仕事は各方面にあまるほどあつた。いろいろな会合のことばかりでなく、探訪の人たちの警察などから持つて来た材料でも、女性の思ひと女性の筆で書く方がよいものがあつた。さうしてそれに多くの反響があつた。私は本当になくてならない位置を満たしてゐる所の、さまざまの満足を感じた。これが私の世に出るまでの歴史である。

 

     二十

 

 それから以後三十年、私は一人の公人として衆目の中に暮らして来た。社会ははじめての女新聞記者をいろいろにあつかつた。その数々を書いてゐたら全く限りのないことである。けれどもそれを約言すれば、私に(むか)ふ侮辱や反感や一種の虐待は、世の中の臆病や負け惜しみや愚痴や無理想から出てゐた。さうして私に対する同情と奨励と、どこから来るとも知れないいろいろの(たす)けは、世の中の真実と聡明と良心とから出てゐた。実際個々の場合についていへば、全然の悪意無理解にあふ場合は殆ど少く、全然の好意や奨励を感じて感謝する場合が、それよりずつとずつと沢山あつた。大概はそれがまざり合つて現れてゐた。心の底では感じながら、何となく(しやく)に触つたり、心の中で侮辱しながら機嫌をとつたり、いろいろであつた。私はその中で人の心に浅さ深さのあることを本当によく知つた。さうして自分は出来るだけの深い心を以て、その深い真実を、その時々の小さい気持に妨げられずに、まつ(すぐ)に言つたり行つたりすることが大切だと思つた。人中にもまれていぢけて行くのは、負惜しみや反感が強いからである。涙の多い正直な心で人にもまれると、はじめは味方に対する愛と感謝が深くなり、段々に敵に対しても理解と思ひやりが深くなるばかりである。私たちは苦労してはじめて人になり、また人が分るのである。

 私の書いたものに、いろいろの反響があるのは嬉しかつた。記者になつて間もなく共立育児会のことを書いた時あの記事を読んで会員になりたいといつて来る人があると、弘田博士からいつて下さつたので、社の方でも喜んだ。岡山孤児院の参観記を連載してゐる時、何かのことで、貴族院議長官舎に故近衛公をお訪ねすると、すぐとおあひになつて、あなたですか、岡山孤児院を書いてゐるのは、今までの新聞に珍らしいあゝいふ記事を女性の筆で書くことはよいことだ、自重するやうにと真実にいつて下さつた。西有穆山師は、横浜の根岸に新たに建てられた西有寺(さいいうじ)においでになつた。度々そこにお訪ねするのは本当に嬉しかつた。麻布の日ヶ窪にある曹洞宗の大学林に、ある夏の朝、毎朝老師の御講義を聞きに行つたこともあつた。大勢のお坊さんの中にたつた一人だつた。しかし悪怯(わるび)れもせず生意気でもなかつたと思つゐる。

 私はその頃尼さんになりたいと時々思つてゐた。今考へて見ると、それは多くは功名心のためではなかつたらうか。また張合ひのある新しい仕事にまぎれて、自分でも知らずにゐる寂しさのためではなかつたらうか。老師のおいひになるのに、高貴の出の方は別として、今では尼などは無力なものだけれど、昔は宮中にまでも召されて、世の中に多くの感化を及ぼした尼僧もあつた。と、浅草のたしか海雲寺といふお寺のお坊さんに行つて、今の尼さんたちのゐる所について聞くやうにして下さつたり、本当に望みを持つて私を見て下さつた。老師のおいでになるお寺は、その頃私の心のホームであつた。西有(にしあり)さんが久し振りに帰省なさつた時に、寸暇もない中で、祖父をよんで私の新しい志を話して下さつたことを、私は後に知つた。あの子の望みはこれまですべて妨げずに来ましたけれど、そのことだけは考へなやほすやうに。とお祖父さんはいつた。無理もないことだと憐むやうに老師はおいひになつた。あの頃は(すで)に八十の老齢であつたけれど、さうして総持寺派の管長といふ高い地位であつたけれど、たつた一人の有縁(うえん)のためにも、こまかに心を配つて下さつた。その後老師はいろいろの有力な信者のお(うち)に折のある毎に(わたし)を引合はせて下さつた。今の宮田(しう)氏のお家もその一つだつた。私は宮田さんでどんなにお世話になつたか知れない。さういふことが私の記者といふ仕事にも都合よく、祖父が望んでゐるやうな身の落ちつきにもなるであらうと思はれた(せい)であつた。

 羽仁は私よりあとに報知社に来た。さうしてやはり三木さんにほめられた。私の愛と志の同時に許される時が来た。私たちの結婚について、お世話になつた三木夫人も北川幾之助氏も上島長久(うへじまちやうきう)氏も、今は皆過去の人である。私たちの家庭生活は、私たちの仕事の中心点であり、仕事は家庭生活の延長である。二つのものが一つになつて分れ目がない。そこに(わたし)たちの事業の特色も家庭の特色もあることを感謝する。こゝに来る道筋は険しくても、導かれて(わたし)たちの置かれたこの場所こそ、ほんとうに私たちのものであつた。

——了——

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/12/22

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羽仁 もと子

ハニ モトコ
はに もとこ 自由学園創立者 1873・9・8~1957・4・7 青森県に生まれる。東京府立第一高等女学校を経て、明治女学校高等科卒業。報知新聞社の校正職に採用され、日本で最初の女性記者となる。1910(明治43)年夫羽仁吉一と『婦人之友』創刊。自己の教育理念に基づく自由学園を創立、園長に就任。旺盛な執筆活動とともに婦人運動・教育活動に身を挺した。掲載作は、1928(昭和3)年刊『羽仁もと子著作集』第12巻より表題の一篇を全収録。

掲載作は、1928(昭和3)年刊『羽仁もと子著作集』第12巻より表題の1篇を全収録。

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