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二つの『高山右近』

序章 二つの『高山右近』

 

 1999年8月7日、雑誌『群像』に発表された加賀乙彦の小説『高山右近』、これは97年11月14日国立能楽堂で初演された後、98年10月14日金沢市文化ホールでの改演によって完成した加賀乙彦の創作能『高山右近』と同じ素材を扱う作品である。小説という表現手段で、舞台芸術である能と全く異なる構想・趣向・方法・文体により、安土桃山時代のキリシタン大名高山右近という能と、同一人物を主人公に、能では手中に収めきれなかった“人間”のドラマを描いて作品を完成したものである。

 この小説『高山右近』によって加賀乙彦は、これまでも追求してきた信仰希求の道筋を一本の糸としながら、それをとり囲む宗教弾圧をも絡めて社会の中の相克、そういう社会が刻々と大きくうねりを持って動いていく歴史的転換と、そこに(うごめ)く権力構造、確執を意識的に(えぐ)り出す。同時に、ひとつの信仰が生み育てられる歴史の中で円熟してきた文化・思想までも広く深く視野に入れて、作者加賀乙彦が一貫して求めてきた生と死と魂の問題を創作能以前の小説に比べて一層鮮明に、確実に打ち出してくるのである。

 小説『高山右近』は、平安から中世の文化思想の成熟によって、日本歴史上に定着した全ての価値観念と社会の構造を打ち砕く応仁の乱大転換の直後、そして江戸幕府確立から明治維新に至る、古代日本に勝るとも劣らない中央集権の絶対主義国家に突入する直前に位置する安土桃山時代、すなわち、まさに、日本の歴史の中で馥郁とした文化が円熟し、それを謳歌する人々が自由に生きることができた歴史の一瞬のまばたきの中に生きた人間─高山右近─の人生ドラマを壮絶に形創る。そのドラマの中で、弾圧と社会の確執に打ちのめされ、苦悩する過程を通して浄化され、ついに高さの極みに昇華してゆく魂の行方が、これまでの加賀乙彦の作品に見られないほど透明に感覚化されているのである。その点において、小説『高山右近』は創作能以前の作品と隔絶して、加賀乙彦の小説作品としてひとつ新しい境地に入りつつ、今までと異質の創造性を完結するものである。

 同時にこの小説『高山右近』の完成で、加賀乙彦が創作能『高山右近』によって象徴的に現出させた「永遠の魂」への軌跡が、一層鮮明に、そして意図的に意味付けされてもくる。

 創作能『高山右近』は夢幻能の形式をとっていて、右近の霊であるシテが中入後に地上に舞い降りて、父の死を嘆く娘に肉体の滅亡によって得た魂の平安と、その喜びを説き、娘を慰める。そこに加賀乙彦の創作能に込めた最大の趣向がある。本来、能の発生とそれを演ずる本意は、肉体が死してなお成仏できない死者の霊への「鎮魂」にあった。仏教的無常観を根本思想とする伝統的な古典能においては、肉体の死後もなお、現世の恋情や恨みに苦しめられ執念を持つ修羅の霊が、シテとしてあらわれ、ワキ・ワキツレである僧や祈祷者の、仏教や神道の教理による救済を得て鎮魂される。観客も、ワキ・ワキツレらの祈りによって仏教的悟りや神道の説理に導かれ救われてゆく。

 それとは全く逆の方法で、すなわち、肉体の死後において初めて得られた魂の平安が、シテとして時間と空間を越えて地上に舞い降り、現世の生に苦しむ娘の心を慰めるという形で、加賀乙彦の創作能は構成されている。そこに夢幻能の形式をとりながら、キリスト教教理を根本思想とした新しい趣向が達成されている。そしてその趣向に、加賀乙彦による創作能のキリスト教思想をテーマとする新しい方法の確立が見られる。加賀乙彦が試みた創作能の本質は、まさにその点にこそ生きていて、作者自身、能の分類において自ら「天国能」という新しい分野を創造し、成功したものと言える。

 この方法で右近の霊であるシテは、最終段で人の世の虚しさを悟る悲哀と共に、広大無辺な天上の空間と無量永劫の永遠を語る。そして時間も空間もはるか超越した天上に右近の霊が導かれ昇華してゆく中で、肉体の生と死を超えた天国の「永遠の魂」が象徴化されてくるのである。

 創作能で象徴化される「永遠の魂」、これがなぜ肉体の滅亡後、天国において平安を得ることになるのか、又、なぜ永遠の平和を得なければならないのか、能という表現形態ではそこまでの究明は明確化され得ない。小説『高山右近』は創作能『高山右近』の魂救済の必然性を主人公の人間ドラマを通して解き明かしながら、創作能の趣向を確実に支える力を持つ。そして創作能によって象徴的に現出させた「永遠の魂」による地上救済を鮮明に、意図的に意味付けしているのである。同時に、小説『高山右近』も又、創作能『高山右近』の存在によって、小説では表現し尽くせない霊の行方が暗示され、創作能によって小説が啓示するものを象徴してゆくという関連性を持ち、相互の役割分担が果たされる。各々の作品が、ひとつひとつの意味をもって、密接に噛み合ってゆく関係を生み出してゆくのである。

 小説『高山右近』は、幕府のキリスト教弾圧とキリシタン迫害によって一層信仰を深め、これを貫く右近の信念を追ってゆきながら、創作能では描くことができない“人間”高山右近像を形成する。その中に加賀乙彦の希求する、信仰を持って“生きる”あり方と魂の平安を探ってゆく。その右近が、肉体の死によって香と音と光に満ちる死後の世界へ導かれて作品は終わる。そうして肉体の死後、天上界において永遠の平安を得た右近の魂が、創作能の中で時空を超えて地上に舞い降り、うつそみの生命(いのち)と現世の無常に絶望する人々を救済し、天上界の平安へと希望を導いてゆくのである。それが「天国能」の所以である。小説『高山右近』の出現で創作能『高山右近』が描く天国で得た「永遠の魂」への必然性は、明確に意味付けされながら、同時に創作能の存在があってこそ、小説の作品全体がテーマとして求めてゆく魂の永遠が象徴されてゆくのである。

 小説『高山右近』と創作能『高山右近』とは、各々がひとつの独立した作品として完結しながら、実は二つが密接な緊張関係にあって、相互に一方が他方を照出させ、照出させることで自己の存在価値を明確にする力を持つ。いわば、単独に自立しつつも相互の干渉により第三の作品をも創造しうる、二個の作品なのである。

 これら二つの『高山右近』は、各々の構想・方法・趣向、何よりも文体において全く異質である。文字言葉を伝達媒体とする小説と、音曲にのせてのシテ、ワキ、ツレ達の舞、謡、囃子による総合舞台芸術である能の表現方法が、異なるのは当然であるが、『高山右近』の場合は創作能であって、構成・文体・洋楽使用等、古典能とは異なる新しい表現方法を試みている。いかに高山右近というひとつの同じ題材を扱おうとも、小説と創作能が同一視点、同一基準の構想・方法・趣向、文体で成立するはずはない。むしろ異なるジャンルの二つの作品においてこそ、各々の表現方法でなくては可能になりえない趣向や文体などが、独創性をもって際立ってくるとも言える。

 創作能『高山右近』は97年11月14日に初演されるが、加賀乙彦はこの年の8月にライフ・ワークとも言うべき『永遠の都』を完成している。ライフ・ワーク完成直後の創作能の発表は、作家としての初の試みであり、小説家である加賀乙彦がなぜ「能」という表現様式、それもキリスト教をテーマとする「天国能」物を、夢幻能形式において創作せねばならなかったのか、そこにおける必然性こそ創作能『高山右近』の創造の根源である。同時に、そのような必然性のもとに創作した能『高山右近』の後、なぜ再び、小説という表現で『高山右近』を完結させなければならなかったのか、その意欲と目的こそ創作能で表現しえなかった小説『高山右近』ならではの独自性といえる。

 創作能と小説と、ふたつの『高山右近』から加賀乙彦の表現の可能性を探ってゆこう。

 

第一章 小説『高山右近』の構想

      “語り”から人間ドラマへ

 

 小説『高山右近』は、全十七章立て、冒頭一・二章の、日本からは遥かかなた、ローマに居る妹へ日本の状況を記す西洋人宣教師、クレメンテ神父の手紙で始まる。このクレメンテ神父の手紙は以後の十章・十四章と、最終十七章に配置される。これらの神父の手紙で、作品は大きく前半から後半へ転換し、さらに後半部も全く異なる進行に展開する。神父の手紙は小説全体の進行上、契機になる位置に置かれ、次の展開への方向性を強く示す。そして神父の手紙を除く章が、作家の視点からの客観的描写で構成されるのに対して、手紙で綴られる章は神父の一人称形式で語られてゆく。

 実はこの一人称形式の神父の手紙こそ、小説の主人公、人間高山右近と彼をとりまく社会・歴史を説明してゆく“語り”の役割を担わされていると考えられるもので、そこに、加賀乙彦がこの手紙を小説に配した意図と、小説全体の構想が秘められている。すなわち、クレメンテ神父の“語り”という手紙に、創作能における地謡の部分と、同質の役割を課しているように考えられ、手紙によって作品全体が三段に展開してゆく構成も、能の序・破・急を思わせる進行である。小説『高山右近』の構想としては、この方法が、現代作家加賀乙彦のひとつの新しい試みと言えるものである。

能の地謡はもちろんのこと、その成立に繋がるそれ以前の仏法講話、琵琶法師の語りなど、又、日本文学の流れを遡るに、つくり物語、歌物語、さらに古代歌謡の発生に至るまで、およそ“語り”という手法の存在がなくては、日本文学そのものの本質を考えることはできない。能は、そういう“語り”の手法が、より洗練されて舞台芸術の一役を担って生成してきたもので、乙彦はこの“語り”の手法を創作能と同じ素材を扱う小説に、神父の手紙という形で意識的に取り入れて、表現方法の異なる二つの作品に共通する要素を持たせながら、逆にそれら各々の“語り”の質において、創作能と小説と二つの独自な構想を鮮明にしている。

 加賀乙彦の小説の中にはこのような“語り”とも考えられる趣向が今まで見出せなかった訳ではない。

 たとえば1982年に発表された『錨のない船』は、第二次世界大戦という世界的歴史を時間上・史実上の縦軸とし、日米開戦の直前に特命全権大使となった日本人と、米国人夫妻家族の人間達を横軸として構成される。乙彦は、戦争の時代に国際結婚という婚姻制度に組みこまれたことで、拠り所とする港という意味を持つ国籍や民族、その港におろす錨を持たない一家の運命を描き、国家や民族という枠組みの中で生きる個人の存在を描いた。そこに歴史と文学が共存し得る作品を達成したと言えるもので、乙彦が試みた歴史と文学の共存は、史実やその歴史の中に実在した男性達と、そういう表舞台に残る史実を持たない女性達のフィクションとの創造で可能になっている。そしてそれを可能にした趣向が『錨のない船』の最後に描かれる、私人としての外交官夫人が故国アメリカを旅し、自分の生誕から一生涯に渡る過程を回想し、自分の生涯を自ら語ると言う趣向である。この自己語りがなくては、『錨のない船』は歴史小説としての達成はあっても、文学としての達成を見るには至らなかったであろう。文学として完結するには、公の歴史の史実に登場せず、資料も無く〈(わたくし)〉として生き、死んでいった女性の生と、それを語る“語り”が不可欠なのであった。

 実はこれまでの日本文学においても、歴史的動乱を題材としながら、『錨のない船』と同じく、公人として史実の表舞台には登場しなくなった“私”としての女性の語りによって、歴史物語が、人間のドラマとして生き生きと描かれるひとつの文学に成功した方法がある。

 『平家物語』である。『平家物語』は平安の末期、平家一門の興亡を題材として人の世の栄枯盛衰を描き、千変万化する歴史を表わす思想である無常観に貫ぬかれて、日本中世の夜明けに初めて到達した歴史物語である。そして歴史を軸としながら文学としての達成を可能にしたものが、「灌頂巻」という建礼門院を主人公とした女院出家・大原入・大原御幸・六道之沙汰・女院死去の部分である。この「灌頂巻」とは、平清盛娘・高倉天皇の后・安徳帝の国母として公人であった女性が、平家一門の滅亡と幼帝の入水後、壇ノ浦でひとたび死した後に生還して私人となってからの物語で、その中の「六道之沙汰」で女院は仏教の六道になぞらえて平家一門の栄枯盛衰を語りながら、同時に自己の人生の苦悩を、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という、六界を巡る形で語ってゆく。その過程で女院は公を離れ、「個」として存在するひとりの人間として、歴史や此の世、彼の世を輪廻転生する永遠の宇宙の摂理を説く。この女院の語りで『平家物語』は歴史物語としての達成と同時に、歴史の表舞台から姿を消したひとりの人間の私としての「生」を、鮮やかに新鮮に描き出す文学の成立をも、可能にしている。さらには女性という性をもって生きる人間が、平安から中世へと歴史が転換して行く動乱の中で、時代の限界まで生き抜き、それまでの抑制された女性の人生から、「個」としての人間の生へと再生し、現代の私達に時代を越えた生命の息吹をも吹き込む力を持ってくる。

 こういう様々な力を可能にしているのが女院自身の語り、いわば“自己語り”ともいうべきものであり、日本文学のこのような伝統と方法を生かしながら、82年発表の『錨のない船』は、現代文学としての可能の極限まで、歴史と文学とを見事に調和させた。おそらく『錨のない船』を創作する作家のこの構想の背景には、トルストイの『戦争と平和』があったのではないか。ナポレオン戦争という史実と、フィクションの人物の生を組み合わせて、無味乾燥な歴史に人間の存在を組み込み、生き生きとした命を甦らせたあの方法が、作家加賀乙彦の意識の背景にあったことは考えられる。が、作家加賀乙彦の意図するところではなかったにせよ、結果的に乙彦は『錨のない船』において、歴史と文学という、これまでにない現代文学の新しい方法を達成したのである。

 加賀乙彦は日本文学に脈々と流れる血ともいえるこの“語り”の伝統を小説『高山右近』に取り入れて、歴史と文学の創造を試みた。そこにおいて設定された語り手は、『錨のない船』とは異なり、クレメンテ神父という外国人宗教者である。語られる歴史と人物は彼の見た世界の果ての日本、西洋の列強国から見れば、小さな島国と、そこでの国内権力抗争、そういう中で確固として信念を貫いた日本人である一人の人物である。そういう国家と個人の存在を、神父のつき離した冷静な、そして距離のある視点から眺め、分析して描写してゆく。手紙以外の部分が作家の立場から、客観的な三人称として描写されているのに対し、手紙のみが一人称形式で、作品の主人公や主人公の周囲の他者について解説的に語る。そこに能の地謡と共通する意味を持つクレメンテ神父の手紙の“語り”としての役割がある。小説において、語りが持つもうひとつの意味は、語り手に、キリスト教の聖職者を設定したことである。このことで語りの内容が、キリスト教教理からの視点による解説であることが示される。

 加賀乙彦の小説『高山右近』は、“語り”という日本文学の伝統を現代小説に生かし、能のもつ趣向・方法と共通させて、現代小説において宗教をテーマとする新しい構想を成功させている。

 この神父の手紙は、冒頭

 

  主の平安

   悲報、父上のあとを追い母上も昇天されたと知り、私はとめどもなく涙を流し、長いあいだ両親の霊のために主の祝福を祈り、ようやく心落ちついて、この返事を書く気になった。

 

と始まる。そこに、小説『高山右近』は、乙彦がこれまで一貫して求めてきた生と死と、昇天する霊の行方をテーマとするものであることが、すでに暗示される。

 続く神父の手紙で次々に明示されるのは、15世紀のヨーロッパ列強時代、スペイン・ポルトガルといった経済・文化・軍事などにおいて、他国を圧制しながら時代を先導していった当時の列強国の歴史的事実と、その国々が見た日本の状況であり、乙彦はその日本をはるかかなたから、序々に焦点を絞ってゆく方法で小説に浮上させてゆく。日本は日本人の主観における世界の中心の日本ではなく、列強国からの視点である世界の最果に位置する小さな島国であり、その島国のある一時期の、世界の歴史の中ではとるにたらない歴史的転換を縦軸とし、そこで生きた一人の人間高山右近の存在と生を、彼を取り囲む人々を横軸として構成してゆく。同時にこれから始まる出来事を、この地上においていかに些細なことであるか、しかしいかに重大に人間の本質にかかわることであるかも、乙彦は明示してゆく。この構成と視点で歴史における人間社会の不条理の事実と、その中で人間の“生きる”意味を啓示してゆくのである。

 神父を通して作品が意図する社会の不条理とは、西洋列強国から日本及び日本人への偏見・差別・支配と、それによって生じる日本人側から西洋人への反発・抵抗・拒否、それに相反してさらに強まる西洋人からの日本人や南米・亜細亜人達への差別・偏見による階級化、支配化等である。クレメンテ神父の手紙を通して描かれる西洋人の見た日本人への印象は、1584年、日本からの使節団が、マドリッドを訪れた際の歴史事実を使ったもので、遠国の野蛮人ではなく、彼ら西洋人と同等の人間として親しみを覚えさせた、という印象である。このような印象それ自体が実は、西洋人以外の亜細亜人を当初から、知性・品性に欠ける野蛮人という判断で接している意識が前提にあることで、そこには東洋人を知らない西洋人が、着用しているものやその滑稽さによって東洋人を判断するという偏見が、大前提として隠されている。乙彦はこのように歴史事実の記録・伝記をふまえながら、人種の差別・偏見を神父の手紙の要所要所にとり入れて、触れれば必ず鋭い痛みを感じる針のように、一本一本打ち込んでゆく。

 作品においてはさらにキリスト教の、カソリックが歴史において繰り返してきた布教の名のもとの他国への植民地侵略、経済政策や、植民地政策において常套手段として行なってきた原住民への思想侵略、その中の弾圧から人間殺戮までをも厳しく執拗に抉ってゆく。スペイン・ポルトガル人達の、キリスト教(特にカソリック)以外の人々を異教徒として差別・排斥し、その異教徒を教化する使命感こそが、最も崇高で誇り高いものとする神父の手紙には、自国のカソリック以外の人間を野蛮と決めつけるカソリックの傲慢さ、異端者を排斥する唯一絶対の神信仰の危険性が、鮮明に示される。さらには、世界制覇を目指すため、自国のみの利益存続のために自分達の絶対神を使って、差別化した異教徒の国々へ、教化という名目で抑圧・侵害を行い、これを正当化してゆく傲慢性、根底に生きる頑迷な選民意識などまでをも歴史の事実として記す。神の名のもとの、キリスト教カソリックの歴史的社会的大罪をも、明確に告発してくる。

 特に、キリスト者である加賀乙彦自身が、自己への内省をも含めて、15世紀キリスト教の南米・亜細亜での布教法を述べる部分には、カソリックが厳然として堅持する階級制度、絶対神からすべてが与えられるという、上から下へのみ全ての関係が作られている縦社会、それを形づくる名目上の美徳によるカソリックの支配のあり方が、批判をこめて告発されてもいる。それはペルーやメキシコで布教を行なったホセ・アコスタによる異教徒への三種の分類という歴史で、その中で政府という組織を作り、学校・公共建築を整備している人間らしい習慣を持つ第一の異教徒、軍隊に守られつつ、ある種の宗教を信じて醜悪な習俗と残虐な権力者をもつ第二の異教徒、野獣のような生活をする野蛮人の最低の異教徒という階級付けがなされている。キリスト教、特にカソリックが何らの人間的良心もないまま、宣教を名目に、どれほど神の名のもとに他民族他国家に対し、自己権力拡大と権威強化のため非人道的行為をとり続けてきたかが、ペルーやメキシコにおける布教での、宣教師達の記録を通して描かれてゆく。

 同時に、初めて西洋人に接触した日本人も、西洋人に対して、ヨーロッパという地の果ての国から来た異人として、南の野蛮な人間という意味を持つ南蛮人の呼称をつける。双方が自分を優位に、相手を下位にという意識で互いを見る。日本人達にとっては全く見たこともない異形の人間が、突然自分達の安住の地に力で侵入してきたことに違和感を覚え、野蛮人と受け止めるのだが、そこに、どこまでも対立する人種の問題がある。

 カソリックのこのような歴史的大罪と、それに拒否反応を示す日本人の体質とを、キリスト者である自己への反省もこめて告発してゆく作品に、加賀乙彦が問い続ける真の宗教への探求があらわれていると言える。それは又、この小説『高山右近』の最終で示されてくる次代の世界宗教への模索へ繋がるものであろう。

 西洋人宣教師達にとって、日本は財と美を持ちながら、西洋人宣教師に都合よく、比較的従順にキリト教を容認し、容認だけでなく、積極的に信仰へも入り、キリストを尊重する姿勢さえ示すと見てとれる都合のよい国と民族であった。しかし、日本からは、西洋人宣教師を彼らの思惑通りに無抵抗に受け入れるものではなく、信長の死後、秀吉から家康へと続くキリスト教迫害の時代、西洋人キリスト教宣教師達にとっては、決して精神的な共感を得るには至らない社会状況も、刻々と打ち寄せる歴史的出来事として、たたみかける筆致で追跡されている。

 第一章1613年2月20日付手紙

    1591年 最高権力者秀吉大王から西洋人への南の国の野蛮な者という偏見による圧制

    1597年 長崎の26名教徒の処刑

 第二章1613年12月25日付手紙

    1612年4月 家康大王の禁教令発布

          9月 幕府の伴天連門徒禁制通達

    1613年 家康大王のキリスト教徒への迫害強化。信徒の一掃と禁令の施行。

 このように強大な力をもって他国へ強力拡大する列強と、抵抗・反発する日本との相克が、歴史的事実として、神父の手紙を通して、小説を支える構成の縦軸となってゆく。

 拮抗の中で、作家加賀乙彦が小説『高山右近』の二つ目の構成としたものが、次に明確となる。それは、高山右近を取り巻く伝記や、記録に残る歴史上の人々の関係を横軸として、その上に資料にない人間高山右近の人物像を想定してゆくことである。こうして高山右近の人間が、生き生きと描かれ始める。この歴史の縦軸と、右近を囲む人々の記録を横軸とした構想の上に、資料に残らない人間高山右近を想造したところに、小説『高山右近』の最大の創造が生まれる。

 この構想の中で、初めて小説に登場させられる高山右近は、所作から来る優雅な摺り足を美しく見せて、由緒正しい礼儀格式に乗っ取って行動する武士道を貫ぬく人間として描かれる。高山右近の人物像や信仰を支える気持ちとして、乙彦は、武士道と茶道に励む精神位相を根底に定め、そのような「道」に精進する心の修練と宗教心、ここではキリスト教の信仰への思いであるが、それを同質のものであることを絡ませながら、人間高山右近を描き、このドラマを始めてゆく。

 「道」とは中世において成立した日本固有の理念のひとつで、古くは平安末期に、藤原俊成が、歌を専門とすることにおいて、稽古に励む過程の心の修養を説いたものである。歌の稽古に精進してゆく過程で「精神」も又、ひとつの宗教的な悟りへ到達する。この考えはその後、世阿弥の能楽論に論じられる修道稽古論に至って、日本の芸術理念と宗教理念が一致する「道」という思想に到達してゆく。そしてこの思想によって、右近の生きた時代、武による「道」、茶による「道」という心の鍛練が、堂上貴族や支配大名のみならず、地下廷臣や一般にも浸透していた時代なのであった。

 加賀乙彦は、時代のこのような思想によって支えられた右近の精神と、その現れとしての様式美を描きながら、人間高山右近を膨らませる。それは高槻城や金沢城の築城に携わる建築家右近を描く場合に、城という権勢を誇るものでさえ、形あるものいつかは滅びるという「道」による“理”に基づいて、城を築く美意識としてもあらわれる。

 道という、日本の精神位相をあらわす理念によって貫ぬかれる右近の姿勢に、乙彦は又、信仰への道も一体化して人間の生き方を描き、右近の人間像を形創ってゆく。秀吉の禁教命令に対して、たとえ時の権力者の命といえども、一度志したからには自己の信仰を捨てるべきではないと拒否をする右近、その根底には自己の生命を賭す絶対の価値のあるもののためには、覚悟を込めて生涯を貫くという、武士道の価値観がある。乙彦はいろいろな側面から人間高山右近を描き、その人間像は作品全体を通して、多面性を帯びながら一貫しているのである。

 日本側のキリスト教布教に対する抵抗は、宗教を隠れ蓑に使いながらの支配とも言うべきものへの抵抗でもあった。日本の歴史では、武力によって外敵に攻められる危険が生じたのは鎌倉時代の元寇が最も大きな出来事で、それ以外の外国との接触といえば遣隋使、遣唐使にしても平清盛の日宋貿易にしても、日本側からの働きかけという方向で行なった形での、東洋人同士による交流で、むしろ他国から移入した東洋の文化を日本は、自国の意志で積極的に取り入れて来ている。幕末のペリーの来港に見るように、日本という島国に、他国が予告もなく突然に訪れるということ自体、日本人にとっては、自らの領土である日本国内に、他者が力によって入ってきたという受け止め方になる土壌があった。

 特に、東洋人にとっては、目の彫りが深く鼻筋の通った顔立ち、頬骨の突き出た顔の輪郭から受け取られる強い印象と、肉食生活で異臭の体臭を放つ白色人種の黒くない頭髪に、肉体的な違和感を覚えることは生理的なことであったろうし、何より西洋人の身長、骨格は当時の日本人達に肉感的・生理的な威圧感を与えたものである。人種によるこのような差別、偏見は、双方にとって、決してあってはならないことで、日本人の中に芽生えた西洋人宣教師への抵抗そのものも、現代においてさえ、一民族一国家一言語を自称する島国日本の、閉鎖性の弊害から生じるものに違いないのだが、歴史の中で桃山時代の日本人が、突然の進入者に、生理的な違和感も含む強い抵抗があったとしても、やむをえないようであった。日本人のこのような民族性を土壌として、秀吉は、宗教という大義名分を前面に出しながらの、西洋人宣教師支配を目的とした侵入に強く抵抗する。それは、単なる領土拡大や経済進出にとどまらず、宗教という人間の精神の本質に関わる方法においてなされることで、日本文化、日本人の精神への思想、文化への介入に繋がってくるからである。

 応仁の乱以後、打ち続く戦乱の後、ようやく国土が平定され、文化が円熟し、人々の心も平安を取り戻しつつあった当時の状況で、秀吉が布教の名のもとにキリスト教の、とりわけカソリックという唯一の神による人間支配を招く恐れのある宗教を遮断する決意をしたことは、自らが、日本国の絶対支配者になりえようという状況の中で起こりうる判断である。又、この後、幕府を開いた家康も、封建体制の道徳、法綱の基本に、日本の江戸幕府独自の解釈によるものではあるが、儒教を基本理念におき、将軍を頂点とする封建社会の国家体制を固め、階級・性や宗教・道徳などによる、人民達への支配を強化してゆく幕藩体制作りの中にあった。将軍自らが唯一権力者たり得ようとするをとる幕府の政策に、キリスト教の侵入は真っ向から対立する事実が、歴史において確かにあって、先のような目的を持つキリスト教に、抵抗を示さない筈はないと言える。

 外国列強と日本側双方に、このような偏見、差別と利害による抵抗・反発等があったことも双方の対立の根深さを示す問題である。そこに乙彦は、いかんともしがたい人間の(さが)を突いてゆく。

 このような人間社会の根深さを探る為に、乙彦は、日本国内での権力闘争という、より細部の問題に深くフィルターを分析してゆく。それは幕府内と加賀前田藩内にうごめく各々の内部闘争を、歴史の人物を登場させて事実として構成するものである。国内の分裂を統一して幕藩体制を強固にするために、第三の立場にあるキリスト教へ、問題の矛先を向けるという幕府の思惑もあった。作家加賀乙彦は、初めて取り組む近代以前の歴史小説として、表面的な歴史の奥には、どこまでも不可視な「闇」の人間社会が潜むことを提示する。

 そして慶長19(1614)年、家康は切支丹禁教令を発し、62歳になった右近は国外追放になる。

 ここで乙彦は、歴史の「闇」より、さらにはかないものとして、右近が追放され、金沢から長崎へ向かう道程の中で、かつて信長の天正年間の歴史の損失をあらわすため、キリスト教最盛期の様子を右近の夢で描く。追放の道行きで右近が宿泊する高槻は、自分が治めた領地も、主とした城も自らの所有ではなく、破れ寺の宿で右近はかつての城主とさえ判明されない人物。折しも復活祭と同じ日の春宵、入相の鐘を暮れゆく闇の中で聞き、夢で復活祭の光景を見る右近、夢の闇に灯る揺蕩(たゆた)う光の幻影を、少年の澄み渡る音の中で視る。現実よりもはかない幻影で、無常とはかなさが深められる。

 その幻影は現実の春暁の出発の中でも続く。追放の道行きと、夢の復活祭の行列が示す「永遠の都」エルサレムと、キリストが象徴するこの世ならぬ楽土が重なる。幻想の中で漂う香をかぎ、香の煙の馥郁とする存在しない霞を感じ、幻想の高槻の復活祭の中に、喪失した歴史と過去の右近の生を回想する。

 乙彦は、宗教者としての右近自身が残しながら彼が喪失した足跡を通して、歴史と人間社会の無常を深める。歴史の流れで今は存在しない父飛騨守の創った天主堂、その天主堂はかつて日本の中の小さな一点の異国として天に向かい、折々の花色で四季の移りゆくことを告げ、右近が好む雛菊・野薔薇・白百合に飾られる十字架が、三つの階段の上に白く空に溶け込み、池の背後には純白の十字架の影が、透明な清水に影を映していた。かつて高山右近が信仰のもとに残したものである。そこに右近という人間が、確かに在った。

 金沢を追放された右近の道行きで乙彦は、小説前半の盛り上がりに、復活祭を題材としたキリスト教全盛期の理想境を、幻想として眼前に提示しつつ、この全盛期の一年後、信長の死と共に一変する歴史の無常も、素早く打ち出す。理想郷を喪失させられて一層深まりゆく悲しみ切なさ。それ以上に、喪失が、個人の喪失ではなく、歴史の転換という、社会における喪失であることにおいて、如何ともし難い現世へのむなしさと、無常観が魂の底から突き上げてくる。その無常と絶望こそ、次に現世から超現実の世界へ志向してゆく精神の方向性を求めるものとなる。

 作品中程の第十段、1614年6月3日、長崎にて記したとある神父の手紙を契機として、作品は大きく変化する。おそらくここからが、能の序・破・急の破の部分であろうと考えられる。手紙に記される同年の2月20日に家康が発した禁教令で、社会がどれほど変わってしまったかが示される。独裁者の法令による権力者から個人への一方的な断裁や、そこからの逃亡は、精神が停止するほど肉体が蹂躙される圧殺である。そして、この手紙の直後に描かれる右近像が直面する人間の究極の苦痛を予告する。その意味において、第十章クレメンテ神父の手紙は、小説全体のひとつの要であると同時に、作者加賀乙彦がこの手紙に込めた作品構成上の意図も明確にする。

 日本からマニラへ向かう追放船、乙彦は、この老朽化した一艘の追放船をひとつの人間社会、あたかも人間が生命を左右される極限において、どのような状況になり得るかという、究極の「悪と醜さの闇」の世界を確かめる社会として仕立て、あらゆる極限から人間の生命を脅かす状況をつくってゆく。それはあたかも、『平家物語』「灌頂巻」で説きあかされる、仏教における地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のごとくに……。

 廃棄物とも扱われる人間物を運ぶ追放船、その中での飢え、渇き、排泄、睡眠などの、人間として最低限の生活さえ不可能な動物的な状況、それどころか人々は、動物の営みさえもままならない肉塊の束となって船中に存在させられる。この状況下の人々の焦燥と不安、疑心暗鬼の心理。そこで企てられる日本人達の反乱、そこまで懐疑心が深まってゆく心理と行動の奥底には、西洋人からの差別と偏見で蔑まれ、人格を抑圧されてきた日本人の抵抗と反発、いかに無価値として虐げられ否定された者の中にも、消えることなく潜む人間の誇りがある。乙彦は動物的な存在としての極限状況の中だからこそ顕在化してくる階級意識、根底に強く存在する民族主義、人権差別を人間の究極の問題として一貫して提起している。

 そして後半最終部、これまでの飢え、修羅、地獄とは一変してマニラ到着後、信仰のために日本から追放された右近が、信仰を貫いた英雄として歓待される平安へ急展開する。悪から善へ、闇から光へ、醜から美へ、そして何よりも乙彦が小説『高山右近』で表現したい、不条理の中で正義を貫いた、栄光の喜びに満ちた平安である。最終章は、おそらく能を意識しながらの、ここからが序・破・急の急の構成にあたるところである。

 日本の変動する歴史の目撃者である右近は、カソリック国となったフィリピン人達にとってキリスト教信仰のために追放され、信仰を貫いた人として英雄化される。そして“人間高山右近”その像が明るく浮かびあがってくる。記録や伝記に基づきながら、それのみでは具象性を持たない人間高山右近、それらを通して透視できる右近の人間らしさが、生き生きと鮮明化される。実はこのためにひとつの象徴的素材が用意されていた。

 ドン・キホーテである。乙彦は、冒頭の神父の手紙にドン・キホーテを引用して、右近の人間性を創造させる。権力で不当に抑圧される者や、弱い立場にある者を優しい心理と正義感によって救済してゆく、純粋無垢、正直な勇気のある人間ドン・キホーテ、その人間像をそのまま右近の人間像として想定する。財と権力におもねり、正義も真理を求めることすら忘れてしまいながら、社会的には権威をもって支配者という立場に執着する不正と欺瞞に満ちる現代キリスト者、現代支配者層にも通じる当時の支配側人間社会において、信じる正義を勇気をもって実行してゆく力のある右近を、ドン・キホーテという象徴的人物に託す。

 又、右近と共に、側近サンチョ岡本忽兵衛も、豊かな感情や、生命感溢れる生き生きとした人物として、作品の中で躍動する。それはあたかも『ドン・キホーテ』の中に登場する主人公ドンの従者サンチョ・パンサを想像して、右近と忽兵衛を理解するのに、相応しい明示の方法である。乙彦は例えば『生きている心臓』(91年)などでもドン・キホーテを、理想を貫く時代の先駆けの人物として引用するように、高山右近に自分が求めるひとつの理想の人物像を創造したのである。

 そうして最終章、余命いくばくもない生の儚さの中で究極的に辿りついた、我が身も魂もすべてを神に捧げる右近の決意を描く。宇宙の超越者に自らの全てを委ね、自らも主そのものと一体となって宇宙の摂理に融合してゆくこと、そのように生きることを真の信仰として説いてゆく。人の世にあって、ひとつの態度や姿勢、信念を貫くことは、その立場以外の人・物・社会との対立を生み、そういう対立を突き抜けた所に究極の平安があるという示唆である。ここに乙彦が求める将来への真の宗教への導きがある。

 濃い闇の中に静寂を迎えてゆく右近の死によって、乙彦は死後に来る明るく生き生きとした世界を感覚化する。それは音と香と光から感知する感覚の明るさの存在である。ここにおいて、加賀乙彦が1967年の処女作『フランドルの冬』以来、一貫して追求してきた生と死と、そして、魂の問題が、小説『高山右近』においても、その構想を支える一筋の存在として中心を貫いて来ていることが鮮明になる。

 「魂」の〈感覚化〉である。

 「紺碧の氷のカテドラル……天球……」その透明な光の中で、人間の知や心や、それらすべての奥底のずっと深い「魂」が「鼓舞して」震わせられるのである。現代作家の作品の中で、これほど感覚化された描写で人間存在の最も奥底に訴えかける作品がありえようか。

 この方法で加賀乙彦は、見えない魂をさながら見えるように描写し、信仰のありかとしての魂を追ってゆく。こういう表現・方法は作品の進行につれて、ますます鮮明に度を増す。追放船の中で右近は「魂を震撼される思い」で祈り、船中の飢餓、修羅、地獄の中で「天高く走る風が……魂をも吹き抜けてゆく法悦に浸」り、マニラに到着した右近一行への神の愛は、「鐘楼の鐘」と共に「空間に反響」し、「魂の底まで震撼させる力強さ」で魂をゆさぶる、などと、それらは小説全体を貫き支える一本の透明な構想となっている。そして、この構想を支えるものが、人間社会の醜悪な闇をネガティブに克明に描きながら、それによって照出される一燈一燈がつながって、一筋の糸として導かれ紡ぎ出されながら、一本の光へ志向してゆくという乙彦自身の「魂」の表出なのである。

 この構想による魂の表出で、小説『高山右近』が、創作能『高山右近』に連結して噛み合ってゆく力を持つ。それは小説の最後、自らが全身から離れた「魂」の行方を、時間、空間を越えた栄光ある復活、と結ぶところにある。右近についても、マニラで肉体が滅亡した右近の「魂」が、人々の真上に存在する「天国」として、時空を越えて未来に甦ってくることを予言してくる。あたかも、能におけるワキやワキツレが仏教者、神道者という宗教者としてシテについて語り、シテを救済する役割をもつように、キリスト者の宗教者である宣教師が、一人称語りで右近の未来を語って右近の平安を予言する。創作能の後に作家加賀乙彦が、創作能ではなく小説において『高山右近』を執筆しなくてはならなかった必然性も、ひとつそこにある。

 さらに、創作能以後のこの小説において、乙彦は、『フランドルの冬』以来求め続け、ライフ・ワークともいうべき97年完成の『永遠の都』でひとつの終局を迎えた生と死と魂のテーマについて、ある解答を提示する。キリスト教教理によって「魂」を求める乙彦の作品では、仏教思想とは異なり、死は肉体の滅亡による無常なるものではなく、肉体の滅亡によってこそ得られる魂の平安なのである。そういう乙彦のどの作品にも、鳩・鴎・鵺などいろいろな鳥が作品毎に場面毎に救いをもたらす様々な素材として象徴的に使われている。ライフワークの『永遠の都』は、第二次世界大戦という、日本の歴史上最大の難局であった時代の、ひとつの血族の人々の生と死を追った長編で、最終は空に飛ぶ鳥たちが、魂の化身として赤く輝く夕日の中に、無数の霊の点となって軽やかに舞い、余韻を残して終わる。まるで鳥達が空へ飛び昇ってゆくことが、魂の天への飛翔であるかのように……。

 その意味するものが今回の小説『高山右近』で「心中の青空に聖霊の鳩が羽ばた」く人間の希望として解き明かされてゆく。又、ライフワーク以来、余韻を残してきた加賀乙彦の求める永遠に平安をもたらす都とは、エルサレムやキリスト、その人であることも右近が見る幻想の中の、一瞬の一齣(ひとこま)に秘めている。作家加賀乙彦が、処女作以来『永遠の都』まで求めてきた人間救済への希望を、創作能以後、再び、小説という手段で表現する作家としての意欲がそこにも存在した。

 小説『高山右近』は1997年11月14日初演された創作能『高山右近』の後、小説という表現方法で、創作能と同じ題材を扱う。そこでは歴史的事実と右近をとり囲む人々の社会との構成から、人間高山右近のドラマを創造した。伝記にも記録にも見えない高山右近を透視して創造したところにこの作品の、そして作家の構想と想像力がある。そこに創作能では表現しつくせない小説ならではの創造性がある。

 そしてこの作品が、ひとつの作品としての存在を超える意味は、小説で描かれる歴史の大罪と不条理な人間社会、そういう中で肉体をもって生きなければならない人間の生と、肉体の死と、魂の救済への希求を、「闇」の中でネガティブに描くことで、宗教による救済を小説で説きながら、同時に小説が創作能『高山右近』で宗教によって「鎮魂」しなければならない必然性をもつ力となっているというところである。小説『高山右近』の出現によって創作能は「鎮魂」という能の本質へ迫る大きな説得力をもつことになったのである。

 

第二章 創作能『高山右近』の趣向

      シテによる地上救済「天国能」物

 

 創作能『高山右近』は、1997年11月14日、国立能楽堂で初演された後に、翌98年10月14日の改演で完成した。

 ところで世阿弥の時代、能のつくり方としては、いわゆる、本説と言われる典拠になる作品からその題材を採ることが多く、例えば修羅物においては、『平家物語』等の軍記物語の中から、世阿弥の頃に広く理解されるようになった章段を典拠として能がつくられたり、鬘物では『伊勢物語』『源氏物語』等の歌物語や、つくり物語に描かれる恋の物語を本説として、恋の情念の深さ、恋人への執着、ひいては生への妄執などを描くようになってくる。本来の神事能においても、いくつかの伝承から神仏の教え、神仏による功徳を説くというものが一般である。典拠から題材をとる本説取というこの様な方法によって、観客は新しい能を見ながら同時に、本説になっている物語も余情として味わい、典拠となっている物語への共通の認識をもって一回性の舞台芸術としての眼前の能と、その奥に象徴されているテーマを理解する。

 多くの能のこういう創り方に対して、創作能『高山右近』は特定の典拠となる作品を本説とするものではなく、むしろ高山右近という実在の人物を題材として、フィクションではない歴史や伝記資料等を参考に、加賀乙彦が小説を描くように創り上げた、いわば書き下ろしの作品である。『高山右近』は小説家である乙彦が、ある実在のモデルを題材にフィクションの世界を構成してゆくように、作家が見た高山右近を、典拠によることなく作品世界へ表現していったところに、ひとつの新しさが見られる能である。

 そして、そういう方法による作品世界での趣向とそこで採り上げた素材としての高山右近こそが、能としての新しさを示す。能に限らず芸術作品においては素材の新しさこそが、作者の創造性として、まず注目されるところであり、作品の本質を表象する。創作能『高山右近』も、この意味で充分に新鮮な芸術作品なのである。

 このような創作能の、それでは加賀乙彦ならではの趣向とは何か。それは何より、日本に残されて右近と生き別れとなった娘が、右近の死を告げられて嘆き悲しむところに、シテである右近が霊となって舞い降り、シテ右近がワキ娘を慰めるということで、この趣向をより効果的にするため、狂言方を能の中に組み入れる劇中劇という方法をとっていることである。この趣向によってこそ、まさしくキリスト教をテーマとする「天国能」物という、加賀乙彦の新しい創造領域のジャンルが、可能となってくるのである。

 能と狂言は、世阿弥のころから、それぞれが別のものながら、同じ舞台で上演される形をとっていて、多く能と能との間に狂言が上演される進行になる。能が、地謡や囃子を伴なって狂言の役者をも必要として演じられるのに対して、狂言は囃子の方だけを伴なって、狂言の役者のみで演じられてきていて、このことを狂言の独立性と捉えるか、狂言が能に内包される関係と捉えるかは、視点の相違に拠るものであろう。が、能と狂言が別個に演じられながらも、二つが分立しきれない存在であることは明らかなことである。

 能・狂言の、これらの上演形式の歴史からみても、今回、創作能という『高山右近』において、狂言方を能の劇中劇として組み入れるという形式は、これまでの能においてありえなかった、創作者加賀乙彦の新しい趣向といえる。そして乙彦が試みたこの形式は、現代の我々に、狂言が能と独立した演劇としてありながら、実は、能に内含されることで、その性質が一層生きてくる本質をもつこと、能も又、狂言によって能形式だけでは表現しつくせない効果を生み出せることを示す。この点で創作能『高山右近』は、能・狂言の存在意図までを問いかける大きな意味をもつと言える。

 創作能『高山右近』は五段構成。第一段、娘(次第)の「花の盛りに背を向けて 花の盛りに背を向けて 茨の道を歩まん。」という導入から、娘盛りの今を人生の花と過ごせない娘を語ると見せつつ、今まさに散らんとする満開の桜と、それによる桜色の景をも彷彿とさせながら、かつて栄華を誇った高槻の廃虚まで暗示する。そして、人の世の美しさと哀しさ、形あるものの華やかさとむなしさが、よく表されて名ノリへと展開されてゆく。橋掛りから登場する娘は、透明な桜色地に、これも又透明に輝く銀の桜の花びらを舞い散らした被りもので包まれ、あたかも桜の精のようなイメージを彷彿とさせて、視覚的な印象世界を構成する。同時にこの部分は伝統的囃子の横笛に加えて洋楽のチューブラベルが、これまでの和楽器にはない、形のない精神を透明感をもって感じさせ、音とメロディーにおいて、精神を天へ誘導し飛翔してゆかせる。聴覚による天への感覚化である。

 第二段に、ツレの娘とトモの侍女を見つけ、さわぐアイの、所の者との問答から、世を逃れるように隠れ住む近世初期キリシタンの悲しみと、そういう社会の中で天守堂跡の荒廃による栄華のはかなさが描かれてゆき、第三段で、右近の化身である前シテ、山賊の老人が登場して緑の地としての高槻と、ゆかりの人としての生前の右近のことを語る。今は亡き右近がつくりあげた高槻の天守堂の美しさ、庭園の美しさを語ってゆく。この段は、そして、配流によって隠棲させられた右近の悲哀を、ハープとフルートの、澄み渡る豊かな音とメロディーの中で、シテが語った後、右近が主の御許へ旅立ったことを地謡が謡って閉じるのだが、そこではフルートとも聞きまごう伝統的な横笛の音と共に、流れるようなハープのメロディーが、馥郁と右近の昇天を感覚化してゆく。同時にルソンにおいてはかなくなった右近を語る地謡に合わせて、さめざめと泣きくずれる娘のしぐさは、この後の劇中劇の後に続く第四段の娘の嘆きへ、狂言を越えて結び付いてゆくことになるのである。

 いよいよ中入りに入り、加賀乙彦がこの創作能に込めたひとつめの趣向であるアイ狂言の劇中劇が始まる。侍女と里人との問答によるこの狂言では、昔語りによって、権勢を得てこの世ならぬ豪華な異界も自由にした高山右近と、右近の時代のキリシタン最盛期の様子、それが信長から秀吉へと権力者の交代と共に、隆盛が荒廃していく歴史の変遷が語られる。それは、小説『高山右近』において金沢から京へと上る道のり、琵琶湖の(ほとり)で、右近が幻の中の安土城を思い描きながらかつての復活祭を幻視し、この世ならぬ楽土「永遠の都」エルサレムを想うという、小説の春と重層化しながら、絶頂かと見えた「永遠の都」を象徴する。一転、信長の滅亡で、一瞬に転変した歴史の深い無常へつながり、歴史の変貌で塵のごとく消えた現世を打ち出して劇中劇はその幕を閉じる。

 ここで、歴史の無常を、能ばかりではなく狂言によっても、劇中劇においてしっかりと説くことで、次の段において乙彦が創作能にこめた最大の趣向へ方向性を導くことが、可能になってくる。その趣向とは、父の死を知ったことによる娘の嘆きや人の世の無常、それゆえにこそ右近の霊が天上から舞い降りて地上の娘を救済しなければならない必然性と、その必然による(たま)しずめである。劇中劇における地上の人間界の歴史の無常が、次に来るデウスの恩寵による、シテからの娘ワキへの「天国能」ならではの「鎮魂」を必然化し、天国世界を表象する最終段においてその「鎮魂」をより鮮明に打ち出し、観客が天国能という、新しい趣向へスムーズに入ってゆける効果を発揮することへ導いてゆく。

 第四段、この段は、劇中劇のアイ狂言で語られた右近の死を知って悲しむ娘の謡いから始まる。創作能『高山右近』の中、娘の滔滔たる謡は一節ばかりの数箇所の小節を除いて、このくだりだけである。同時に父の死を嘆き、救われきれない苦しみを謡うのも、創作能の中でこの謡ただ一章のみである。

 右近には、娘二人を含む四人の子がいたとされる。マニラへ同行したのは、横山山城守長知の嫡男康玄に嫁した、資料にも残るルチアといわれた娘で、小説の中ではこのルチアが右近の国外追放の際、自分の意志で夫との離別を決め、父母と共にマニラへ渡る。ルチアは自分の意志で生き方を選択し、自分の価値観に添って生きる事ができた立場の娘であった。

 他の三人の子ども達のうち一人の男子は死し、他の二人には資料は残っていない。おそらく寺などに幽閉されたことも想定しうる。創作能の中で登場する娘は、例えば棄教などの強制下、生命の危険をも脅かされる弾圧の中で、無理矢理に父母との離別に至ったというような状況として想定したものであろう。生殺与奪の力をもつ権力への服従を強いられたゆえの、自己の意志によらない選択という意味で魂は閉塞される。こういう娘が父を偲びつつ、桜に埋もれる高槻の里、荒廃した城跡の中で父の死を告げられる趣向に、栄華と荒廃、動と静、生と死が暗示されてゆくのである。

 このような社会状況の下、父の死を確認するその娘は、一瞬に現世の喪失に直面する。それは、苦しみ悲しみなどの言葉では表現し尽くせない、瞬時にしての「魂」の空洞を生む。湧き起こる悲しみの声は、血の涙と共に絶叫となり、慟哭となってゆく。ここに「魂」救済の必然性が生まれてくる。肉体の死だけは地上の人間界の力ではいかんともしがたい現実である。ましてキリスト教弾圧の中、寺を逃れ信仰の父右近を探し求めてきた娘には、父の死は生きる希望をまっ向から遮断するものである。唯一救われる方法は、他の何でもない、父親その人との「魂の触れ合い」それだけで、それ以外に父を失った「魂救済」の道はないのである。その上でようやく閉塞され圧殺された人間としての「魂」が、救済され、社会的存在としてどのように生きてゆけるかの光が射し込んでくる。ところが、創作能『高山右近』の娘の謡

 

 父上の 天に召されし訪れを 翁の天使語りしか 悲しみ暗く覆いたる 涙の谷の蔭にいて ()けゆく月を仰ぎ見れば 椋の大樹の下枝(しずえ)には クルスの印見ゆるなり。

 

の始まりからは、一瞬において谷底へ突き落とされた究極の悲しみが、心に突き刺さって来ないのである。続く、

 

 デウスよ 深き淵より 御身に叫ぶ請い願わくは 声を聴き入れたまえ。 デウスよ主よ永遠(とわ)の安息を 父上に与えたまえ 絶えざる光で 彼を照らしたまえ。

 

に至っても、父の死を告げられた瞬間の現世への空白感、じわじわと湧き起こる悲痛、孤独、喪失したものを希求する情念、そのようなものが魂の根幹まで揺さ振り、突き上げるものとして伝わってこない。

 加賀乙彦の小説作品に登場させられる女性達は、多く人格が不明瞭である。男性の登場者が確立した人格を与えられ、自分の人生を生ききっているのに対して、女性登場者達にはそのようなものが明確に与えられていない。例えば乙彦の作品の中で女性を主人公とした連作とも考えられるものに『湿原』(85年)・『スケーター・ワルツ』(87年)・『ヴィーナスのえくぼ』(89年)・『海霧』(90年)等があり、これらの中に設定される女性主人公は、各々が冤罪事件、拒食症問題、男性による家庭内暴力、環境・北方領土問題等という、社会問題を構想とした中にありながら、どの作品でも女性主人公の生きることの切実さや苦悩が、恋人との新しい人生で私的にいとも簡単に救われてしまっていて、最終的に社会的な存在である人間としてどう生きてゆくかという大きなもの足りなさが残る。特に91年の『生きている心臓』の主人公の妻も、脳死・心臓移植という、まさに現代の問題に直面して、夫の心臓移植という、今後の社会の生と死、医学と倫理という、人間の尊厳そのものに鋭く深く関わる選択の真っ只中にありながら、最終的に夫の死後、復活した夫が幻の中で現われ、霊との交感を果たすにもかかわらず、現実の地上での男性の再婚という形で次の人生が選ばれる結論である。

 女性にとって「魂の触れ合える」男性は生涯たった一人かもしれず、複雑化した社会で再び魂のふれ合える男性との遭遇は非常に困難であり、かつ、たとえそういう男性とめぐり逢えたところで、唯一の男性を失なった後、その悲しみから救われるのは、天に召された男性その人自身との「魂の交感」である。地上における他の男性との日常で別の部分の空洞を埋めることはできても、むしろそのことが、地上から天に召された男性への喪失感に深い空虚を覚えさせることもある。魂の底からつきあげる恋情はとめどなく天へ向かう。

 まして人間は社会的存在である。社会の中でどのように自分としてあり続けるかは本質的課題である。乙彦の作品には女性が人格を与えられ、真に救済される道が見出しにくく、これまでの歴史において最も一般とされる男性への従順や、結婚制度という社会のしくみに組み込まれて生きる女性達の典型が、女性への救済として設定されて終わる。このような女性理解では、女性も女性性を尊重されながら、かつ人間として社会的にどの様に生きてゆくかが描ききれない。

 能とは、恋情・生・現世への執着などにより、成仏できない修羅の魂を鎮魂することに、上演の本意があり、魂が悟りへ遠ければ遠いほど、鎮魂の必然性が深まってくるのである。創作能『高山右近』にはシテが娘の前に現れてまで済度しなければならない娘の悲しみ、絶望、あきらめ、それでも肉体をもって地上の現世で生きなければならない苦痛、さらには、キリスト教弾圧下の社会で、生命の危険を犯してまでも真髄から右近を希求する社会的苦悩が感じ難く、能の最も本質である「鎮魂」への意図が生まれにくい印象がぬぐいきれない。創作能『高山右近』において娘の謡をこの一章のみに仕立てた趣向に、より切実な娘の修羅の魂、すなわち、単に父と娘という個人的存在の関係を超えて、キリスト教弾圧下の社会において、生命への圧殺を賭してもなお幽閉される寺を逃亡し、キリスト者として生きる右近を探し求める社会的人間としての娘の苦悩、何としてもこれを救済するためのシテの登場を促さねばならぬ、その緊迫感を見たかった思いが残る。

 こういう中、第四段の小鼓・大鼓・大太鼓・横笛の後に続くフルート・チューブラベルなどの、それまでにない高貴なメロディーの中、「神の息吹に導かれ……風に乗りたる鎮魂は葉擦れの楽を奏し……」の詩にのって、後シテである右近の霊が、紺の装束の武将姿で登場する。

 ここで神の息吹に導かれて舞い降りる魂魄は、第三段までの前シテであった山賤から、後シテとしての右近の霊へ、見事な人格の変化を遂げ、現実から非現実へと確実に飛翔している。この「人格の変化」と「現実から非現実への飛翔」という二点での能の本意を踏まえた上、次の非現実の魂と、宗教による救済という意味において、確実に創作能『高山右近』は“能”の本質に迫ってゆくことが可能となる。

 伝統の夢幻能においては、恋の情念や、生への執着等のために成仏できない死者の霊が、後シテにおいて登場し、僧の救済によって鎮魂され成仏してゆくというのが、一般の方法であるのに対して、『高山右近』は、復活した右近の霊が、ツレである娘を慰めるために神の恩寵を説くという方法で、ここに、今回の天国能としての創作能の最大の趣向がある。同時に死者の霊が現世への執念のために現れる修羅物に対して、死から復活した永遠の霊が、地上の人々をなぐさめるために現れることに、キリスト教をテーマとする天国能という、作者の最大の趣向もある。キリスト教をテーマとして夢幻能を構成するには、こういう方法こそふさわしいのである。

 後シテの右近が娘を慰める謡

 

 わが子の祈り天にとどきたれば 高槻の里に舞来たりぬ。

 立ち嘆く吾子よ。人目にこそは哀れなる 末期と見えしわが生に 知りたまえやデウスの恩寵 充ち充てるを。

 

には、信仰を貫いたことにより、多くの合戦で無数の人命を奪った罪の苦しみと、地上の原罪とを許されて神の「光ある道」の栄光へ入る喜びがあり、肉体の滅亡後、時空の永遠を得たシテ右近の謡

 

 ルソンの空に昇りては 広大無辺の天海と 無量永劫の時を知り 人の世の空の空なるを見たり。

 

には、無限なる空間と、永遠なる時間という天国を象徴しながら、同時に人の世のはかなさをも語り、見事に神の国としての天国を創造した世界が形成されている。同時にこれらの謡にのせて、創作能『高山右近』で初めて現れる優雅でなよやかな女性コーラスが、ハーブ・チューブラベル等の洋楽による清澄な音と統合し、明・動・盛のイメージで、あたかも魂を天に飛翔させるごとく(いざな)いながら、対照的に伝統的大鼓・小鼓・横笛の囃子が、暗・静・沈の重層的な深みをなして、シテの舞いと共に視覚・聴覚を通して「天国への飛翔」を感覚化させる。

 天国能という物を創る場合、伝統の夢幻能での亡霊となって現れる修羅の苦しみは、現世の人間である娘の悲しみで、父を通して死を体験した娘の絶望、それでも肉体をもってこの世で生きなければならないむなしさ、等が先にのべたように印象として希薄なことは否めない。しかし、キリスト教においては肉体の死が訪れても、むしろ、それは霊の永遠であり、永遠なる神の国への昇華とされて、ある意味で肉体の死は祝福をうけるものとなる。さらに霊となった死者の魂は、地上の人間界を照らすという考え方で、仏教的死生観を根本思想とする伝統能に対して、「死」に対する娘の絶望が薄いことは不可避としても、逆に、霊となった死者の魂が地上の人間界を照らすというキリスト教思想により、シテである右近が死してなお、なぜ霊となってまで地上に現われなければならないか、そこにおける地上の人々への済度ということが、天国能という中では必然性をもって展開されてゆくのである。キリスト教をテーマとする能を、仏教思想の中で生成してきた芸能の方法で表現してゆく困難さも、そして創造性もここにある。

 いよいよ第五段。伝統能衣装の武人の装束を基本とした、白一色デザインの新たな衣装をまとって、右近の霊が後シテとして再び登場する。これが作者が言う天国能という趣向の核心である。伝統能では後シテが僧の回向により済度されれば浄土へ向かう。その浄土世界そのものが最終段に独立して後シテの再登場で描かれることはほとんどなく、この段の存在そのものにこそ、天国能という新しい分野の能を目指す作者の創作意欲が、最大に発揮されている。時間的飛翔、空間的飛翔を暗示し、キリスト者の霊を復活させ、はるか未来を予言しつつ、再びめぐり来る神の国の栄光へ希望が生きている。この段の存在こそ、これまで述べてきた創作能の新しさに加えてもうひとつ、舞台での最終段の天国世界の構築という斬新さが加わる所である。

 創作能『高山右近』は、夢幻能という能の伝統形式で、新しい天国能というジャンルを創造している。そこにおける最大の趣向は、アイ狂言の劇中劇による能と狂言の融合、父の死で絶望に突き落とされた娘の魂への、シテの霊による宗教救済、地上の肉体の滅亡によって得たシテ自身の魂の平安、何より、永遠の平安を得たシテが再び地上に舞い降り、地上の人々を済度する天国の構想によって、時空を超えた天上の永遠へ感覚化し導いてゆくことにある。

 この天上界の永遠こそ、小説『高山右近』では描ききれなかった世界であり、能、それも夢幻能という、人間から霊への人格の変化・地上の現実から天上の非現実への飛翔、天上界からの霊による現世救済という宗教を、本質にもつ能形式においてのみ可能となりうる表現である。そしてその必然を支える力は、小説『高山右近』とその構想であり、小説『高山右近』の出現によって天国能の本性は一際輝きを増して生彩を放つ。同時に創作能『高山右近』の存在があってこそ、小説『高山右近』で描く地上の人間界の有限と無常、その中にうごめく不条理の闇は、一層深く暗く投写され、幻影化されてくるのである。

 創作能『高山右近』は、小説で表現し尽くせない右近の肉体滅亡後の、時空を超越した永遠と、地上救済に本意があり、小説『高山右近』は、創作能には持ち込むことはできない現世の不条理とそういう中で生きる人間ということに本質がある。有形なる人間と無形なる魂、有限と無限・無常と永遠、闇と光、それらが小説と創作能と二つの『高山右近』によって、明確に表現され意味付けされてきた。

 二つの『高山右近』は、各々創作能と小説という、独自の表現媒体による個有の表現機能に拠りつつ、各自独立した作品で表現世界を形成しながら、そこに表象される意味において対称し、重ね合って、全体としてひとつの『高山右近』を形創る。ひとつの『高山右近』を創るかと見えながら、実は小説も創作能も超えた三つ目の『高山右近』として、究極地上も天上も大局化した宇宙的世界観までも次に創造してゆくことになるのである。

 

第三章 日本文化の独自性から

      人間世界の普遍性へ

 

 創作能と小説と、二つの『高山右近』において加賀乙彦が試みた究極のもの、それはこれまで閉鎖的であるとされてきた日本文化の独自性の、どのような質において、真にインターナショナルな普遍性が存在し、未来社会へ生かし得るか、という問いかけと啓示であろう。

 それらは、日本文学や芸能の伝統である“語り”を現代小説に、しかも、外国人宣教師という他国の客観性をもって摂取する手法、能という、ある意味で最も閉鎖的に伝統を保守してきた演劇の表現方法に、アイ狂言の劇中劇化という新形態を導入する試み、日本の伝統宗教ではないキリスト教をテーマとする「魂救済」の、新しい“天国能”というジャンルの創造、又、現代小説に積極的に古典史的雅語を取り入れての現代日本語の文体の創造、創作能なればこそ試みえた雅語・歌詞から現代語・翻訳語まで駆使した新しい謡の詞章の創造、等様々なところに見出せる。

 これらひとつひとつをふまえた上でさらに巨視的に見るならば、小説においてはそのいたる所に基調として流れる、背景となる中古から中世に至って円熟してきた日本文化と宗教の統合から、僅か長い歴史の中ではひとこまとも言える短い一時期、移入された西洋文化と宗教との接触・融合と、それによって導き出される、洋の東西を超越した将来的国際社会への問いかけこそが、乙彦の志した究極の試みであろう。

 創作能については、まさしく創作能『高山右近』の創造それ自体が、型の継承を専らとする日本の芸能それ自体への警鐘であり、伝統からの脱却、新しい舞台芸術の創造である。これによって乙彦は、能とはどのような創造性を加味しながらも、どこまでを伝統の型として継承すれば能たり得て、「鎮魂」という本意において、どれ程の新しい創造が可能であるのか、という本質的テーマを提示した。創作能『高山右近』では、これまで述べてきた様々の新しい試みを具象化しつつ、現実から非現実への飛翔、そこにおける人格の変化によって、確実に能としての本性を備え宗教による魂救済を達成して、固定化された伝統能にはなかった全く新しい能表現を可能とした。

 その点において、能という日本文化の独自性を生かしつつ新しい創造を加え、能様式という表現の枠を超えて、国際的に普遍性をもつ舞台様式の表現も創造したといえる。この点で創作能『高山右近』はすでに、能という領域を超越した新しい舞台芸術でさえあると言えるものである。

 小説『高山右近』に見られるもっとも根底的、独自な日本文化の理念としては、作品を貫くものとなっている、歌道や茶道などの思想、中世に至って成立した“道”と言われる理念がある。それはそして、禅思想とも深く結びつき、室町時代から桃山時代にかけて成熟した能・謡・仕舞などの芸能から、茶・花などの文化、さらには和歌、連歌などの文芸にまで、強く影響して、各々の固有化した表現方法に共通して生きている理念・思想なのである。禅を背景として生成してきたそれらの理念・思想が、日本人独自の美意識と一体化し、加賀乙彦の手により小説『高山右近』の中で、外界との接触を断って成熟した固有な日本文化に、一瞬さわやかな新風が吹き込むように入ってきた西洋文化を融合させ、将来への普遍性に新しい試みをしようとした最も象徴的な、そして非常に美的な方法がある。

 「悲しみのサンタ・マリア」という一枚の西洋画である。右近が金沢滞在中に、自宅で開いた初釜の際の床飾りに掛けられた絵である。名の通り、十字架より降ろされたキリストにかがみこみ、嘆き悲しむマリアを題材とする宗教画である。乙彦はこの絵を茶室の床にはめこむことを試みる。

 茶室は方丈の庵、一切の無駄を除いた四畳半の空間に、平安末期以来生成してきた隠遁の思想と、精神修養を旨とする禅宗の思想から生まれたひとつの宇宙観を想定するもので、床は森羅万象宇宙の無限と、その中に生きとし生けるもの、すべての生命の象徴なのである。そこに掛けられる一幅の軸、軸に描かれる一筆の墨絵、床上の一輪の花、すべてが特別の意味をもつ。一幅の墨絵に描かれた花々は、実は花々を描くのではなくて、描かれた花々以外の余白によって万有の無限を象徴し、床上の一輪の花は、白色の一輪によって万有の色、万華の花々の無限な生命体をあらわす。西洋の無が何もない空虚をあらわすことと全く反対の意味が、日本文化の表現方法には生きている。西洋の、絵も壁も室内もすべて装飾によって埋め尽くすことで全有を表現すること、それと全く逆の発想で、日本の美意識では、余白にこそ万有につながる無の世界を象徴させてゆくのである。

 室町から桃山にかけて茶の道で理想の境とされ、歌の道に歌聖と崇められた12世紀の歌人、藤原定家の

 

  見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)秋の夕暮れ

 

という『新古今和歌集』の有名な秀歌がある。寂し気な入り江の浦辺、(かや)を編んで造られた苫葺(とまぶ)きの粗末な海人(あま)の小屋、あたり一面いかにも縹渺とした何もない風景である。季節は秋、刻は夕暮、陽が沈みかかる陰鬱さの光景、しかし、一首の中にいる主人公が()ているのは眼前の陰鬱の風景ではない。それは「はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか春秋の花・紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる陰どもなまめかしき」と綴られた『源氏物語』の、春の桜・秋の紅葉の華やかで上品な美しさを、夏景色の中に幻想として漂わせる光景や、「降る雪は消えでもしばしとまらなむ花も紅葉も枝になきころ」と『後撰和歌集』に詠まれた冬の雪景色に幻視する王朝の伝統の中で典型とされていた、春秋の花紅葉の鮮やかな彩と美である。眼前に見えない風景をイメージの中で()るのである。定家の歌はこれらを踏まえて、「花も紅葉も」とイメージを喚起した後に「なかりけり」と否定することで一層喪失感を深め、失われた景はイメージの中においてのみ印象化され、鮮明に美しく憧憬されながら「無」の世界を象徴してゆく。

 定家よりも四百年を経て、中世という時代が深化した後、茶の道において紹鴎が、最も理想の境地とし、利休も無一文の境界、わびの世界として「是茶の心なり」としたこの歌の方法のように、実は表現されないものに万有があり、無が宇宙の万有に繋がるという発想と方向性が、中世に至り、禅思想を根底にして開花した日本文化の和歌・連歌・謡曲から、茶道・花道までの美意識と理念である。そして、これらの美意識や理念を生み出してきた土壌のひとつが、例えば道元禅師が『正法眼蔵』で説く、心身を脱落して万情無情の方法に自己が一体化してゆくというような、精神修養の道において悟りを求める禅思想なのである。

 「悲しみのサンタマリア」とは、人々のために犠牲となって肉体を滅した神の子キリストの死を悲しむマリアの絵で、キリスト教の最も本質である愛と犠牲を説く絵であろう。これを右近の初釜の際の茶室の床飾りに掛け、方丈の庵の中に存在させることで、乙彦は、日本の宗教思想に支えられた最も日本的で美的な宇宙空間に西洋の宗教芸術画を配置し、洋の東西、個々の宗教を超越した美・知・霊の統合する宇宙観を志向したのである。

 同時に又、これらの文化が花開いた中世という時代、時雨にまぎれる庵に降る「落葉」の音や風景は、最も悲哀を誘うものであった。特に世阿弥のころ、室町時代連歌に至って「落葉」は無常の象徴となっていて、謡曲においても「飛花落葉」こそ最も仏教的無常感を象徴し、同時に最も美的な幽玄を象徴する。乙彦は「悲しみのサンタマリア」が掛けられる(いおり)の庭に、この「落葉散乱して路も枝葉も覆う茫漠たる風情」をも融合させた。その茶人の風流にことよせて和歌・連歌・謡曲に通ずる無常感も余情として、広く行き渡っていた仏教的無常感による日本的美意識を、他国から移入された一枚の絵と美しく調和させて、宗教の融合を試みたのである。

 このような仏教的無常感は、中世の深まりと共に、さらに精神的な高み、洗練された美しさを表象してゆく。その日本的伝統の理念も小説の背景に深く広く生かされてゆく。乙彦は北陸から京へ向かう右近の一行がさすらう白一色で構成される雪世界を、「万物の無情」として描きながら、さらにそこに「冷たい透明な風」を配した。冬の雪景色を冷たくいとわしいと感じつつ、しかしその美しさを初めて見出したのは、実は現代でも広く知られている『枕草子』に見られる「冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにあらず。」と記した清少納言である。その後、中世に至り、雪の美しさは禅の思想への悟りを象徴して、美と宗教を統合するものとなる。十二世紀鎌倉時代の始め、『正法眼蔵』を著した中世の禅師、道元も小歌集『傘松道詠』に

 

  冬草も見えぬ雪野のしらさぎはおのがすがたに身をかくしけり

 

という歌を残している。白一色の雪野の中で苦しくもだえ、はかなく哀れな我身をも隠しつくす一羽の白鷺、そこに象徴されるものは悟った心や意識、それさえ捨て去って悟りそのものの中に自己を投入し、悟りをも悟り尽くす境地である。『正法眼蔵』で道元が説く、一切の煩悩を埋めつくした白一色の「大地雪漫漫」の世界と、さらにその白さえも意識するところなく、我れと我が心を純白無垢になして融け合う宗教的精神世界が、はかなくも哀れに、しかし、凛として輝くごとく美しく描かれた「雪野のしらさぎ」に象徴されている。禅思想に支えられる宗教思想の精神と、美なるものとの表象とが、ひとつに融合されてそこには在る。

 このように雪一面で表象される白一色の美しさは、道元より二百年を経て15世紀、世阿弥に至って究極の芸術理念となってゆく。

 世阿弥も又、茶人や連歌師と同じく、先の鎌倉初期の藤原定家の歌に理想の幽玄論を見出し、そこから独自の理念を構成してゆくのだが、その中でも世阿弥が最も理想とした中の一首に、

 

  駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮

 

という、やはり『新古今和歌集』に入集する定家の歌がある。旅人が馬をとめて降りかかる袖の雪を払うべき一点のもの陰さえない、あたり一面全て雪に覆われた風景、そういう風景を「花も紅葉もなかりけり」と同じ様に「袖うちはらふ陰もなし」と否定の方法で表現する。旅の中でたゆたう思いも、無常の漂泊もその否定で一層深まり、否定の後に見渡す限りどこまでも続く白と透明の空間は、「雪の夕暮」の中に美しく構成されてゆく。世阿弥はこの歌にあらわれる「造作の一」もない縹渺とした雪一面の世界を、能の達人の最も美的な妙風の境としながら、それに至る自他の超越を可能とする精神の修養と、それによって初めて「無感の感」として現われる芸位をも、厳しく説くのである。

 さらに世阿弥は、この定家の歌で表象される白一色の雪の空間から、独自の美的理念を発展させ、それを、美と宗教の統合した日本のもっとも象徴的な芸術理念として展開してゆく。それは、禅思想で説くところの、有と無との対立の相方をも超越した悟りに支えられた芸として表象された美しさである。例えば、形容することもできないほどの境地の美が姿となってあらわれる清浄な白光の色合いや、閑花風そのものとする光景である。この美しさに辿り着くことができる心こそ、『九位』に至って初めて開花した「無心の感、無位の位風」の精神境地であり、そこには彼独自の「無」論も見出される。『九位』に残る世阿弥の名言、「銀わん裏に雪を積む」の秀句は、禅思想の無も有も超越した美と宗教が統合する、日本文化の伝統となってゆく際だった芸術理念を示すものである。

 このように、中世に至っての雪の世界は、「無一物」という究極の美と宗教と統合した象徴となる。北陸から京へ向かう右近の一行がさすらう雪世界の構成には、清少納言によって発見され、歌人藤原定家や、禅師道元から、世阿弥によって生成されてきた仏教の、特に禅思想に支えられた最も日本的な美的理念が生きている。と同時にそういう「万物の無常」を雪一面で構成したがために、国外追放という立場で道行く右近にも、道元や定家の歌の「雪野の鷺」や、雪の夕暮を行く旅人の悲哀・無常から心を澄まし洗練してゆく修道者の心のあり様が、もっとも日本的な伝統として、内包され生き続けているのである。

 伝統の中で培われてきた美と宗教の統合する日本的なるものを内包しつつ、乙彦は現代小説『高山右近』において、新しい表現による新しい美と宗教を打ち出してきたと言えよう。

 加賀乙彦が、小説『高山右近』において今までの小説とは異なって探究したもの。それは室町・桃山のころ、日本の平安文化が中世の宗教と統合したものが、どのように現代文学に生かせるかという可能性への探究でもあった。

 それは最終的には思想・美意識の根本である宗教の探究につながってくる。乙彦は当時の日本の仏教的思想と、西洋思想の源流であるキリスト教との、将来の宗教的提言にも通じる交流・複合をすら探っている。

 小説『高山右近』の中では西洋人宣教師が日本文化として評価するものとして、彼らの言語に翻訳した『平家物語』『伊曽保物語』などの文学がとりあげられ、右近が西洋人宣教師の翻訳した『Fei-qe no Monogatari 平家物語』で、ラテン語やポルトガル語の習得にいそしんだことにも触れられている。

 この『平家物語』は実は、当時の西洋人宣教師達が故国へ紹介した最も共感する日本文学で、現在も当時の宣教師がラテン語やポルトガル語に訳した『平家物語』は、西洋人の見た日本を知るに貴重な文献とされるほどである。それは『平家物語』を貫く仏教上の教理が、彼らの説くキリスト教の教理と類似するところが多いからであった。そしてこの場合の仏教とは、他の何の宗派でもない浄土教なのである。『平家物語』の説く仏教は実は、他のどのような宗派の教理でもなく、浄土教の教理に他ならない。平安の末期、衆生救済のために広がった浄土教は、古く紀元前五世紀の中国において、楽園としての浄土思想が発生したところから宗教的理想境として「極楽」を求める信仰となり、日本では現世の称名念佛により、死後に極楽浄土への往生が得られると説く。人々は阿弥陀信仰による念仏で、死後の極楽浄土へ導かれるのである。

 ここにおける阿弥陀やキリストという他者への祈りによる自己救済、つまり、自己の内なる信仰と他者からの救済という考え方や、一種の現世否定で現世の彼方に極楽や天国が存在するという理想境への憧憬は、ほとんど同一の方向性をもつ。これについては、キリスト教が中国の景教に影響を与え、浄土教となって日本に入ってきたという説もある程で、それらの生成過程による類似性は可能性が高いと考えられていて、西洋人宣教師達が、日本の多くの文学や仏典の中から特に、『平家物語』を最も共感するものとして翻訳し、本国へ移出させたことも、この点から当然とも言える。二十世紀の現代において、宗教は多くの宗派を超越して世界宗教への理想を求められ、現実にその方向が模索されつつある。世界的視点では小さな島国の日本の、長い歴史の中の数十年に、乙彦はさらに、浄土宗に造詣の深い武将と、高山右近との歴史資料には残らない宗教問答を創造し、それらの共通性、異質性を論じさせて、日本の中で成長してきた宗教と西洋のそれが、いかに接点を持ち、融合し得るかの試みを行ない、未来への模索を試みている。

 加賀乙彦が小説『高山右近』で求めたものは、日本においてひとつの頂点に達した宗教と、西洋の宗教との統合への模索から、国際社会における人類という大きな枠組みでの、思想の融合とその可能性、そして、その中で人間が、どう救われ生きてゆくことができうるかの追求である。

 究極として乙彦にとってそれは、人間の「魂救済」の問題になってゆく。乙彦は右近の死に際して小説で

 

 右近は……五色の不思議な光のなかを天女のように泳ぎながら天に昇っていくのをマニラの人々が目撃した

 

と記す。キリスト者として殉教してゆく右近が、まるで浄土宗の説く極楽へ導かれるように、西国浄土の五色の光の糸に誘われて、神秘で美しい日本古来の天女のように昇天してゆくあり方は、ひとつの教理を超越し、永遠の無限へ飛翔する、まさしくその理想のようにも考えられるのである。

 天に昇った小説『高山右近』の主人公、高山右近は、時空を超えて創作能『高山右近』において霊となり、地上救済に舞い降りてくる。魂への鎮魂こそ能の、しかも夢幻能の最も本質の創意である。加賀乙彦は、仏教的無常感を根本として死者の霊を鎮魂する夢幻能という日本伝統の能芸能で、肉体の滅亡後、再生復活によってこそ得られた霊の平安よる地上救済という“天国能”の、新しいジャンルを創造することで、さらに、未来社会における人類に普遍性をもつ宗教への啓示をしたと言える。その啓示が小説『高山右近』にただ一文見出せる

 

 この大地や海は、実は地球という大きな丸い球の上、……地球も夜空の星も全部デウスによって創られた……もちろん人をも、……

 

という巨視的な宇宙観と、そこに生きる人間への「魂の救済」であろう。無数の宝石に飾られた「天球」としての宇宙の中で、人間などとるにたらない一個の生命体でありながら、しかし、宇宙の摂理の中では、天球と同じく無限な存在としての価値をもって生きている。いかんともしがたい不条理の中で……。

 そのように生きる人間ひとりひとりの個としての尊厳と、不条理な中で圧殺されてゆく「魂」の救済、二つの『高山右近』が創る三つ目の『高山右近』が地上を超えた無限のかなたに姿を現わしてくるのである。

 

第四章 加賀乙彦、新しい文体の創造

      古典的雅語・現代語から翻訳語までの融合

 

 小説と創作能と、二つの『高山右近』における加賀乙彦の、さらなる注目すべき創造のひとつは、その文体にある。

 小説においては、情景描写や心理描写において乙彦が今まで使用したことのない、平安朝物語で使われてきた古典的な雅語や、王朝の和歌等を現代日本語にとり入れて、乙彦文学において、創作能以前とは一線を劃する美的情緒豊かな新しい乙彦文体を創造している。一方、創作能においては、古典的雅語・歌詞(うたことば)から現代語、さらに翻訳語まで駆使して、伝統的な謡曲の詞章には見られなかった全く新しい文体を創造している。

 小説『高山右近』の文体の新味は、特に60代を過ぎた右近が、国外追放のために金沢を追われ、北陸から琵琶湖を通って京に向かう描写に良くあらわれる。

 暮冬から早春へ季節の移りゆく頃の北陸路の旅、情景はひとこまひとこま、一瞬一瞬移りかわる。そういう二つの季節の交錯が、種々の感覚に訴えながら、従来の乙彦小説には使われなかった古典的雅語・伝統的和語を駆使して描写される。

 「気候の変わり目」の中で「晴れ」たと思うと「雨」、「霞がかかった穏やかな湖」と思うと「北風」に「湖面が波立ち」、晴れた暖かさと冷たい雨が行きつもどりつする季節、冬と春が折り重なって共存する。そういう中で美しい桃色と馥郁とした香りを漂わせる春の「梅」は咲きそろい、そこにまぎれる小さな「桜色」の「蕾」たちもふくらんで、人の心に「春を待つ気持ち」が沸き立ち、えもいえぬ「華やいだ気分」を沸き立たせる。冬から春への彩の空間と香りの空間は、確実に交錯しながら相互に折り合い、聴覚・臭覚・触覚など複数の感覚に共に訴える響きをもって、時間を進めてゆく。

 冬は暮れて、早春へ、「春」は徐々に力強さを増して、「冬」へ戻ることを拒みながら変化を進め、「寺のわきを流れる」「小川の雪解け水」は「朗らかな音」を響かせ、「膨れあがるような感じ」の「湖面」は豊かな表現を伴って聴覚的に情景化される。一輪二輪の「桜」の、やさしく暖かい色で「ほころぶ」動きに視覚的な春が浮かんでくる。そこに配置される「月」はまさしく晴れもせず曇りもしない朦朧とした春の夜のおぼろ月。

 春、「坂本宿」で「ようやくほころびかけていた桜」が「山科の里で七分咲き」を誇り、春の「華やかさ」があふれる。京に入れば、「澪標(みをつくし)さながら」立つ「五重の塔」、向こうの「華やかに春をことほぐ(いらか)の波」、時代を刻む「森、花、堂塔」に流動する歴史のうねりを見、人の世の無常を嘆きわびつつ情景の中に余情が漂う。

 北陸路から京への旅情を綴る文体は、古典的雅語や伝統語を折り折りに散りばめながら、まるで絵巻物を繰り広げるように感覚と風景をイメージ化し、右近の心情を木目細やかに織り込んでゆく。

 こうした古典的絵画的な展開が、乙彦の選び取った言葉で綴られる中、

 

   色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける

 

という一首で一連の描写は終焉を迎える。この歌は「桜の花のもとにて年の老いぬることを嘆きてよめる」の詞書のもとに『古今和歌集』・春歌上巻に入集した紀友則の一首である。三句目「さくら」に「桜」を隠した物名歌で、それが一首の趣向になりながら、美しい色もゆかしい香も昔と同じように咲いている桜の華やぎと、その中で年を経て、再び訪れた我が身の老いの嘆きとを詠む。集ではこの歌の前に「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」という、朱雀大路に並ぶ風になびく緑色の柳糸と、満開に咲き誇る雲のような桜色の花々の、最盛期の春の歌が配列されて、その華やかさゆえに老いの嘆きも一層あわれ深い。

 乙彦はこれまでも作品に歌を入れることはあった。が、ほとんどが万葉調アララギ派の歌で、本文とは別にその度独立した一首として入れている。今回のような『古今和歌集』という王朝和歌の引用も、また一首を本文中にくみ入れる引用法も、創作能以後の初めての手法である。しかも本文の末尾に配されたこの歌は、一連の描写を読み続けてきた後、古典引用の一首とは気も付かずに乙彦の文体に見事に融け込んでさえいるのであり、これをもって、一連の文体にひとつの完結性を与える効果をもつ。

 それを可能にしているのは前文に鍵括弧で示したごとく、王朝の物語や和歌で培われた叙情を誘発する雅語・歌詞を使い、これを現代語の中に融合させながら、時間と風景とを展開させてゆく文体である。そこでは雅語や歌詞が伝統の中で培ってきた余情を喚起しつつ、喚起された余情が一語一詞とぎれず連続してイメージを紡ぎだしてゆく。その一本の糸のような連想を貫いて連続させるものこそ「色も香も同じ昔に咲く(桜)らめど年経る人ぞあらたまりける」の歌詞とそれらの歌詞で綴られた一首で、これ一首によって一連の文章はもう一度イメージの中で振り返られ、再びこの一首に集約してゆくことになる。こうして連続する絵巻物は完結するのである。

 この様に雅語・歌詞という優雅な古典語を現代語に融合させて、伝統的風景と叙情をイメージ化しながら、その奥底には、人生の「たそがれ」を迎える哀愁、故国と旧友との永訣の惜、我が身の懐旧と述懐を深く漂わせてもいる。こういう文体の形成は乙彦文学の中で初の達成であろう。創作能『高山右近』以前の文体とは、明らかに一線を劃するものである。そしてこのことから、創作能の詞章の創造によって、小説にも新しい文体が形成されてくることが鮮明になる。

 創作能では雅語・歌詞から現代語、そして翻訳語まで駆使してさらに凝縮した、過不足のない緊密な、全く新しい謡の詞章の創造を達成している。

 右近の幻想の中、キリスト教最盛期の華やかさを謡う復活祭の謡は

 

 地謡

  春 朝まだき祝祭の 十字導く行列は 天守堂より進み出ず。十二の武士は大鎧 色派手やかに装いて 天使の如き少年と ともに聖画を捧げ持つ。宙を彩るランテルナ 城舟魚(しろふねさかな)かたどりて

   老若男女(ろうにゃくなんにょ)のかざすなり。

 シテ

  大群衆の喜びは 高槻の里とよもして 世の終わりまでアレルヤと ゼス・キリストを讚えたり。

 

と伝統の謡の詞章には見出せなかった現代語、翻訳語まで駆使した見事な七五調文体に成功している。

 特に天守堂についての創作能の詞章は、

 

 木の香かぐわし天守堂 十字のしるしに天に摩し 聖霊の鳩飛び交えり。南蛮渡来の楽の音はバテレン(やかた)の屋根越えて 泉と森に谺せり。椋の大樹の下に建つ三つのきざはし備えたる 大十字架は輝けり。雛菊薔薇白百合と 花々池に映ずれば 天国かくやと思わるる 天国かくやと思わるる

 

のように、これまでの伝統的詞章の方法を踏まえながら、フロイスの『日本史』などを典拠として、新しい現代日本語の詞章として成功しているのみならず、乙彦文学の中でも小説とは全く異なる、完結にして優婉、しかも音楽的な、象徴的七五調の能の詞章を斬新に際立たせている。

 謡曲の詞章の美は、巧みに綴り合せられた一語一語が、その内包する伝統の中の和歌的叙情や、それを含む王朝の物語的情緒を余情とする所に、最もよく発揮される。そこで使われている詞とは、平安末期から中世初期にかけ、長い和歌伝統の中で本意(和歌の中である主題がどのように詠まれるべきか、又、そこにおいて特定の詞として持つ意味と内容)が確立した歌語や、王朝の物語の中で特定の背景を暗示する雅語である。だからこそ究極まで縮められた表現においてさえ、謡曲の詞章は、その奥に和歌的情緒や物語世界を重層化させながら、無限な深まりを余情とすることが可能となるのである。極言すれば謡曲の詞章とは、ひとつひとつの詞が表現する「詞自体の美しさ」「詞が喚起する和歌的叙情や物語的世界のイメージの美しさ」、さらには「詞同士の響き合いによるそれらのイメージの融合の美しさ」の統合により、言語表現の美の極致に達したとさえ言うことができるものなのである。

 乙彦創作能の先の詞章は、典拠フロイス『日本史』の、「木造の教会」ということばから「木の香かぐわし天守堂」の表現を創出することで、実際の景物の説明描写ではなく、香りまで髣髴とする新木の美しい天守堂を鮮やかにイメージ化する。それは「天守堂 十字のしるしに天に摩し」と続いてゆくことで天に向かう信仰、地からの飛翔、神のおわします天への憧憬を暗示した後、「聖霊の鳩飛び交えり」と続いてますます聖なるものの存在を象徴化してゆき、さらに「南蛮渡来の楽の音」をもって描写を完結することで、視覚・臭覚・聴覚に訴えるイメージの中で、聖なる天上の世界の象徴を可能としてゆくのである。

 そして、典拠の『日本史』における「三つの階段」や「大きい十字架」、「周囲に…種々の草花、雛菊、薔薇、百合などを植えた。」というフロイスの説明の叙述も、「バテレン(やかた)の屋根越えて 泉と森に谺せり。椋の大樹の下に建つ」と五七調の象徴的表現に精成された後、「三つのきざはし備えたる大十字架は輝けり」と続くことで、当時の日本には見られなかった、森と泉に美しくそびえ建つ西洋風の城の様子が、眼前に髣髴として浮かび上がってくる。一連の終局「雛菊薔薇白百合」に至って、香りと色と形との織りなす花々の美しさによる非現実の世界へのイメージは一層鮮明に喚起され、「天国かくや」「天国かくや」と思われる作者の描く天上の世界がことばを越えたイメージの世界で明確に象徴されてくる。

 加賀乙彦のこの様な作詞は、古典的雅語から現代語、そして翻訳語まで駆使しながら、過不足なく緊密に連結し合い、日本語のもっとも美しい響きである見事な七五調に則りながら、謡曲の詞章の本質であるイメージによることばの響き合いの効果を充分に発揮して、現代日本語の新しい美しさを創造し得ている。それは典拠となったフロイスの説明的な文章と比べると、全く異質である。同時にこのような文体の完成で、今までの乙彦の小説には見出せなかった斬新な新しい文体をも、加賀乙彦は初の創作能において形成しているのである。

 伝統の型を打ち破って構成した最終の独立した一段、この詞章こそ天国能という新しいジャンルを目ざす乙彦の創意が、最大に発揮されているところである。とりわけ、後シテが登場する

 

 地謡

  世は去りて世は来たり ゆく河の

 地謡

  流れは絶えず 風は巡りて 風は巡りて

の謡で時間的飛翔、空間的飛翔が暗示された後の、最終に

 

 地謡

  春の夜に 月むら雲を透す如く 遠き 世をしかと見き。大海の東の果ての敷島を 天下とみなし覇を競いし 三代の夢 栄華の世もうたかたと消えて キリシタンまた栄え出て 天守堂にはセミナリヨ 池に映りし十字架と 百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の彩りぬ。百花繚乱の彩りぬ。

 

と未来を予言し、復活した右近の霊が、天上の希望へ導く表現の中、「百花繚乱の彩りぬ 百花繚乱の彩りぬ」と結ぶところに、第三段「雛菊薔薇白百合と 花々池に映ずれば 天国かくやと思わるる 天国かくやと思わるる」から、第四段「広大無辺の天海と 無量永劫の時を知り」へと、雅語・現代語、そして色と香で多感覚に構成され描かれた天国のイメージが、再び連続して喚起されて、一曲が全て最終段に集約されることになる。そうして天国能としての一曲は完結する。

 こういう新しい一曲を成功させているものこそ伝統的雅語・歌詞から現代日本語・翻訳語まで駆使した乙彦独自の新しい文体である。この自由な手法によって、舞台芸術としての能の詞章も現代語と遊離せず、見事な調和・融合を示す渾然たる文体として成功している。

 さらに舞台芸術において、乙彦のこの文体の成功を支えるのは、最終段、静・暗の伝統的囃子の音に融合して、天に導いてゆくような感覚に訴えてくるハープ・チューブラベルの動的に明るい、そして光を感覚化させる洋楽の音とメロディーなのである。

 加賀乙彦は、創作能と小説と二つの『高山右近』において多くの新しさを創造した。舞台芸術の詞章と、文学における最も本質となりえるもの──文体──、乙彦はその文体という芸術と文学の創造において彼自身、創作能以前とは一線を劃する創造に成功しているばかりではない。能という固定化した伝統芸能においても、また、これとは性格を異にする現代小説においても、これまでの謡曲詞章と小説の文章表現に見出せなかった新しい表現様式と表現の領域を創り始めたのである。

 

 終章 今、なぜ、高山右近なのか

 

 ここで最後に、今、なぜ、高山右近なのか、最初の命題に立ちもどらなければならない。

 高山右近は16世紀以降、日本の幕府権力からは追放された人物であった。反対にキリスト教を厚く信仰するマニラにおいては、信仰を貫く神にも近い存在として信奉された。そのため右近については日本に現存する歴史資料に断片的に見られるだけで、日本の歴史からは消滅せられ、むしろフロイスやラウレス等、日本側でない人物が、内からの日本ではなく、外からの日本を記す資料に細かく述べられている。もちろん日本に入って来た宣教師達の資料に、キリスト教信者としての右近が登場するのは当然であるのだが、歴史の資料が常に体制側・権力者側の判断によって客観性を欠くように、切支丹弾圧、鎖国という政策下で、右近は日本では長く、その存在を多くに知られることはなかった。右近が再び、日本の歴史にあらわれるのは、近代の夜明けを待たなければならなかった。

 むしろ高山右近という人物は、日本というひとつの国の中においてではなく、国境を越えた日本以外の国々で広く知られ、評価された人物だったのである。これについては、宣教師達の残した資料にも必ずしも客観性があるとは言えず、むしろ宣教師たちが、キリスト教という思想的にひとつの共同体を共にする右近について、自己同一的な視点で捉え、ために、彼らの主観による判断の記述が多く見られる危険性は免れない。いずれにしても現代日本の文化が多くそうであるように、応仁の乱を境として、それまでの日本本来の文化・思想・宗教は封建制度の中で消滅せられ、幕藩体制の制度に組み込まれたものの多くが今に残ると言えるが、幕藩体制の創生期に、思想による追放を受けた人物が現代に残ることは難しく、ようやく近代の、しかも戦後になって、右近についての現存する資料から、その人物・人生が日本において、いささか社会に知られてきたところである。

 過去の歴史においてこういう扱われ方をしてきた右近は、日本という、ひとつの国の中の伝統的芸能である能を、国境を越えて国際化したものを創造する素材として作品の意図を最も象徴し、表現出来る人物なのである。

 創作能『高山右近』が1999年10月にフランス、パリで上演されたが、これも、その意味で非常に意義深いものである。日本の能芸術という伝統が、高山右近という一人の人物を通して、東・西洋の文化の融合につながる国際的普遍性を問う重要な意味を課せられ、その役割が作家加賀乙彦の創意によって果たされたと言える。

 16・17世紀のイタリア・オーストリアの宗教オペラに、日本の高山右近を主人公とするオペラが賞賛され、西洋人達の信仰に影響を与えた歴史があるが、加賀乙彦の能上演は西洋にとっては宗教オペラとも言うべきものの逆輸入であって、この点でも今後の東・西洋の文化融合に大きな意味をもたらした。

 しかし、次代の国際社会に向かう歴史の転換期にある現代において、決して忘れてならないことがある。

 それは、右近が凱旋したマニラにおいて描かれる、スペインに侵略されたフィリピン人達への激しい階級化・差別化による弾圧、圧制である。右近に焦点を当てれば、マニラは幕府の絶対権力強化のために追放された身の安住の地、歓待の地であった。しかし、そこにおいて、次には右近は彼自身、隠遁者のごとくありたいと願いながら、圧制をする側の権威の立場に置かれるのである。人間社会にどこまでもつきまとう不条理な構造がそこには確かにある。そして乙彦は今だに続くキリスト教布教の名のもとの、この様な絶対権威をふりかざしての侵略を垣間見せて、次代の人類へのあるべき姿は何かという疑問を投げ掛けている。

 創作能と小説と二つの『高山右近』によって、作家加賀乙彦は高山右近という人間を通して、新しい人間社会においても、不条理の中で、それでも純粋に自己の理念に従って生きるということの意味を打ち出している。

 ここでさらに、次代へ生きる我々が、加賀乙彦の作品に決して見落としてはならない事、それは高山右近に象徴された、魂の純粋に生きながらも、同じく不条理の中で歴史にあらわれることなく苦悩し、死んでいった無数の“高山右近”への、いとおしみと愛惜である。彼らへの深いいとおしみと愛惜が、ひたひたと我々の魂の深奥に迫り来て、切なくも叫び続けるもの──人間としての尊厳と誇り──それをこそ乙彦は、無数の美しいことばにこめて将来の人類社会へ啓示しているのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/07/08

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秦 澄美枝

ハタ スミエ
はた すみえ 日本文学研究者 1952年に生まれる。

掲載作は「ペン電子文藝館」のための書下ろし。

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