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理想の出版

  第一書房設立の趣意

 

 今日の出版界を見ますと、極めて少数の摯実(しじつ)な人を除きました外は、多く邪道に陥つて概ね俗流に(おもね)り過ぎてゐはしまいかと思はれるのであります。本来出版事業なるものは、単なる一片の営利事業ではなく、それは実に文化の基礎工事とも云ふべきもので、同時に文化を促進して世を導いて行くべき一種の予言的性質を帯びてゐるものでありますのに、現今の如く日に日に悪化していく出版界の傾向は誠に残念の事と存じます。()(かゝ)る悪時流が此上に跳梁跋扈(てうりやうばつこ)しますれば、心ある著作者は書斎に隠れ、真に良書を求めんとする読者は、つひに新刊書に見切りをつけるやうな大事が起こらないとも限らないのであります。

 此間に処して、私一個人の微力が果してよく此滔々たる時流を転向させ得るや否やは頗る疑問とする所ではありまするが、併し私は心ある筆者諸彦(しよげん)並びに読者各位の加護に依つて、真理の上に最後の勝利の下されん事を念じ且つ信じて居るものでございます。

 事業の手始めと致しましては、現今最も俗悪雑駁なものの横行する文藝方面に先づ手をつけたいと存じます。それで隠れたる名作家を慫慂(しようよう)して、其全努力になつた立派な創作なり研究なりを紹介するは勿論のこと、当然此国に移植さるべくして未だ移されなかつた泰西名著の翻訳(翻訳は訳者を選ばなければ駄目です)等を第一着手として、それから哲学宗教音楽美術等の各部門に渉つて我等が文化の花となり実となるものを世の識者に問ひたいと思つて居ります。幸ひに心強い御後援によつて、此事業が栄えて行きましたならば、これは私一個の喜びだけではなく、誠に我々文化の為に吾れ人ともに心から祝はねばならぬ事だと存じます。

 蕪言、言はんとする所を尽くしませんが、何卒私の意のある所を御推察下さいまして、何分の御庇蔭を仰ぎたく、(こゝ)に謹んで御願ひ申上げる次第でございます。

  大正12年6月12日 第一書房 長谷川巳之吉 敬白

 

  新人発掘の歓び

 

 出版の事業を以て単なる一片の営利事業と見ず、文化を促進し世を導く一種の予言的性質を帯びた天職であると考へ、出版者の責務は飽くまでも自己の志向と理念とに適合して唯一の特色を持つことであると確信する私は、良書の刊行を仕事の第一義として一路精進を続けてゐるのであるが、随つて私が著作者を選択する態度は、所謂御機嫌とり、気まぐれの影のないのは勿論、著作者その人に有名無名の区別すら全然問題の外である。要は良き書を世に出すことにあり、しかも過去を掘り尽して将来に伸びようとする私の念慮が、新人を紹介するに当つて一段の光栄と喜悦とにわななくのである。昨年私は草野貞之氏に依るアナトオル・フランスの『エピキュウルの園』を刊行して、此の意味に於ける大なる歓喜を味ひ、且つ宿願アナトオル・フランス著作集刊行の第一階を踏むことを得たが、今回更に下に述べる如き二人の新人と、二つの刊行プランを得たことは、何といふ歓びの極でありませう!

 

 ポオ著作集 第一巻近く刊行さる

 

 彼の後従としてボオドレエル、マラルメ等を育くみ、その自国で与へられなかった王座を、仏蘭西の象徴派詩人の中に与へられたエドガア・アラン・ポオ! 彼が近代文芸の基調をなす現実主義に抗してその建設に甚大な影響を投じた其の業跡! 私が年来の熱烈な願望は其の適訳者を得て彼の文苑を悉く我国に移さんとする志であつたのである。而も彼の輪郭はあまりにも大きく、彼の足跡はあまりにも偉大であつて、これを国土を異にし殊に国語上の根本的な差異を持つ我等のものとする事は、誠に不可能に近い至難事として、痛歎の(うち)に永く私を焦燥せしめて来たのである。

 或日私は一人の青年から、情熱あふるるばかりの訳稿を提示せられ、それを繙読するに及び、驚歎に近い感激に胸を焼くと共に、永年求めて得られなかつた至宝をゆくりなくも発見した嬉しさに雀躍せずにはゐられなかつたのである。その訳稿こそ、実にポオの著作中に於ける傑作の一つと目せられる「メエルストロムの旋渦」であり、その流麗な行文は悉く我等の国語から出て洗煉の妙に達し、円転自在な会話の運びと相俟つて一片翻訳臭味の漂ふあるなく、殊にポオの崇拝者としてその広汎な文献に徹したと云ふ若き訳者の溌剌たる情熱は、香り高い春の花のやうに行文の上を流れてゐるではないか。ポオ著作集刊行の多年の宿望は、突嗟に私の胸の中に具象化したのである。

 青年の名は佐々木直次郎。私は多望なる新人この訳者によつて、ポオ著作集を遠からず江湖に送り得るの期に際会したことを絶大な喜びとする。斯く情熱ある新人に依つて、好きな本を一冊づつ私の仕事の上に殖やして行くことは、何とも云ひやうのない歓びである。エドガア・ポオ著作集! その巻目は左記の通りである。いづれの巻が、いつの時に発刊されるかは予め不明であるが、毎年二冊宛刊行。先づ以て新秋九月の候第一巻、メエルストロムの旋渦他八篇を以て、此の光栄あるスタアトを切るつもりである。

        ──『伴侶』4、昭和五年七月──

(註)この稿に続いて、ノヴァーリスのフラグメンテ刊行の予告と訳者飯田安の紹介が「きさらぎ亭」の筆者によって書かれているので、『伴侶』の題名は「二人の新人」とつけられている。

 

  或る日の『自由日記』

 

 世の中の噂といふものは実に面白いものである。事情にうとい人達の間には、『第一書房は金が沢山あつて、それで道楽でああいふ贅沢な本を出してゐるのだ』と云つてゐかと思ふと、又一方の人達の噂に依れば、第一書房は今にもつぶれるやうな事をさも本当らしく云つてゐるものもある。それを伝へ聞く私は、ただ微笑するばかりである。これは見る人達の立場に於いて、いづれも間違つてゐないことかもしれない。

 実際考へてみれば、第一書房のやうな出版所が今日の出版界に現存してゐるといふ事は、不可解に思ふ方が本当で、沢山の金があつて道楽でやつてゐるとしか考へられないかもしれない。けれども私が常に金を持つてゐないという事を識つてゐる人達から考へれば、或ひは今にもつぶれるかもしれないと思ふのが当然であらう。然しさういふ連中には、金を持たないくせに斯ういふ仕事を続けてゐる私の強さが分からないのだと思つてゐる。過去の出版史を仔細に繰りひろげて見た所で、どんな好況時代にも第一書房のやうな自分の趣味で生きようとする所は全部つぶれて現存してゐないからである。

 殊に近年のやうに資本主義の競争が激しくなつて来てゐる時代に、第一書房のやうなものが現存してゐるといふ事は、常識では考へ得られないのみならず、それが現存してゐると云ふ事は一つの不思議であるかもしれない。一つ一つの出版について考へてみても、増版を重ねてゐる本は極めて少数で、増版のない本は大抵欠損と云ふ方が当を得てゐる。殊に此頃の市場は、増版にならぬ本といふよりも、千五百部以上売れない本に対しては計算上印税を払ふ余裕さへないのである。勿論、利益が出なくつても、損をしない程度にゆけば上等だと思ふが、然し増刷のない本は大抵三割以上返本がある。甚だしい場合は、半分以上も返本になるのがある。返本を見越して定価を高くつければ別だが、そんな事は出来ないから其所に損失がある。大量製産で定価の競争の激しくなつてゐる時代であるから、千五百部以内の本に三割も返本があるとすれば計算が立つものではない。増刷のない本に、印税を払つて出す時代ではないと同業者間に一般に云はれるのも其の為めである。全く良い本が市場に出ないのは悲しむべき事だと思ふ。

 右のやうな状態であるとすれば、道楽である以外に、或は金を儲ける以外に、本屋なんかはやれるものではないかもしれない。勿論やれないから多くの本屋は血眼になつて主義も主張もなく、それマルキシズムだ、それエロ文学だ、その次はナンセンスだといふやうに、需要さへあればどんな狂態をも演じて、悪風潮を作らうが作るまいが、そんな事を考へる余裕もなく金を取らうとする。そしてさういふ事がうまくあたらうものなら我も我もと五月蠅のやうに、一つの目標に蒐まるのである。

 考へてみると、今の日本の出版界のやうにくだらない所はないと思ふ。その出版界に身を投じて、一般から見れば極めて愚かの道ではあるかもしれないが、然し自分は大道を歩いていくのだといふ自信のもとに仕事を続けて行く事は悲しいものであり、また愉快な事でもある。時には馬鹿らしいといふ気持ちになつて、机の前に沢山積んである校了紙を見ながら、仕事をほつたらかして、他の事に頭をまぎらはしてゐる場合もある。如何にしても慰められない事がある。

 元来、金を持つてゐる事に殆ど興味を持たない自分、あれば皆な支払つて仕舞ふ自分、仕事と藝術とだけに愛を感じてそれ以外の何事にも興味をもたうとしない自分、その私が仕事を進めないでゐる場合があるとすれば、それは自分ながら鬱勃としてゐる時に違ひない。勿論なんでもなく本の出せる気持ちは別だが、出すべきものが出ずに机上に置いてあるといふ事は非常に苦しい気がする。然し本を出すといふ事が、角力の立ち上がる時の呼吸と少しも変わらない自分にとつては、立ち上がれない時は幾度も「待つた」をする気持ちでそれを凝視してゐるより外に仕方がないのである。といつて、著者の身になつて考へてみると、校了になつてゐるものを、そんなに長く延ばされてはかなはないに違ひないと思ふ。それを識りつつ猶かつ愚図々々してゐる自分の心持ちを眺めると、自分ながらつくづく厭やにならざるを得ないのである。

 考へてみると自分は段々我儘になつて来たのではないかと思ふ。第一、出すと決まつてゐる本を、立ち上る気になれない角力のやうに、さう何日(いつ)までも長く視つめてゐるといふ事は怪しからん事だと自分をせめてみる。

 併し、次から次から人が来る。

 落ちついて仕事が出来ない。

 いらいらしてくる。そんな時にはてきぱき機敏に働いてくれる名助手がほしいと思ふ。これからは断然人に会はずに、仕事のことだけに没頭しようと思ひながら、其やさき何かの他用に煩はされる。

 そんな事で日を送ってゐるうちに毎日の新聞は車の廻るやうに次から次へと新刊の広告を拡げて過ぎる。けれども書斎に遺したい欲望を持つ新刊は極めて尠ない。斯んな事で出版界は何うするのだ。もつといい本が出なければいけない。と思ふと、せめて自分だけでも大いに奮闘しなければならぬと自ら鼓舞せずには居られなくなつてくる。たとへ出版界の風潮が何うならうと、そんな事はどうでもなれ、『俺は自分のやりたい事だけをやればいいのだ』さう思ひながらも、時勢の不安といふものは矢張り苦労である。大なり小なり、一つの仕事を運用して行く責任といふものはつらいものである。仕事だけをするのなら、どんな事でも負けずにやれる勇気と自信とを持つてゐるが、金の心配になると其の反対にとても気苦労で身をけづる思ひをする。仕事を心配したり、金の事を心配したりする苦労ほどつらいものはないと思ふ。やつてみないものには分らぬ苦労かもしれない。不幸にして『近代劇全集』では十万円近く損失をして、漸く此の一月に予約を完了するが、然し他の出版は相当の成績をあげて巧く運用を続けてゐる。若し私に少しでも強いところがあるとすれば、他の凡ての人が過去に失敗して来てゐる此の道楽のやうな第一書房の運用を巧みに経営してゐる所にあるかもしれない。併しこれは仔細に考へてみると原因は極めて簡単な事だと思ふ。過去の出版者は自分の道楽を本当に道楽として生かし得なかつたところに、失敗の原因があると思ふ。道楽といふ意味を不徹底に不真面目に扱つてゐたからだと思ふ。本当に顧客の事を考へてやる道楽なら、その道楽は大いに発展すべきものだと信ずる。

 ──此の酒は自分が苦心してつくつたので美味いから飲んでみて下さい』

真実を籠めて売り出した酒なら、少数でも必ず其の酒でなければ飲めないといふ愛顧者が殖ゑるに違ひない。真実を籠めてつくつた料理、何処で食べるよりも美味いと極まれば、其処の繁昌するのは当然である。

 出版だつて同じ事だと思ふ。自分が読んでみて、これは本当に自分の勉強になるいい本だ、これは本当に藝術的に香りの高い作だ、といふものを選んで、自分の伴侶として、自分の書斎を作る意気で本を出してゐるとすれば、さういふ本当の生き方に共鳴が起り、信用が出来ずにはゐないと思ふ。飽迄も本当の生き方を選んで大道を行く仕事は、さうたやすく亡びるものではないのである。

──『伴侶』6、昭和五年十二月──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/09/19

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長谷川 巳之吉

ハセガワ ミノキチ
はせがわ みのきち 出版人 1893・12・28~1973・10・11 新潟県出雲崎町に生まれる。東京・太陽通信社の雑誌「黒潮」編集を経て1923(大正12)年出版社「第一書房」を創業。『上田敏詩集』、大田黒元雄『歌劇大観』、堀口大學訳『月下の一群』など見事な装幀の多くを世に送ったが、戦時出版統制下の1944(昭和19)年敢然廃業、一切の権利を講談社に譲る。

掲載作は、1984(昭和59)年『第一書房 長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)に拠る。

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