芒種(抄)
山深く輪飾のある泉かな
手毬唄むかし
極寒に兄を
いまさらと思ひてゐしが厄詣
初谺して松山は浅からず
猫と猫恋なきごとくすれ違ふ
板前の皆まで抜かぬ
柊挿す
紅梅をなほ濃くしたる雨後の靄
玄海の
遠き日の違約の記憶探梅行
萩寺より根分の知らせ電話にて
初蝶の
穴出でし蟻あたらしき艶走る
薄紙の音さわさわと雛納め
あつものに
耳の日や耳すこやかも
世の怖れひとつふやして蛇出づる
春彼岸
春暁やもし声出さば濡れてゐむ
逃げ水の中に真紅の一車消え
ふと
野をしばし彼の世のさまに遍路ゆく
ジーパンに詰め込む肢体青き踏む
花夕べ堅田蜆といふ貰ふ
春愁をひらりと
花疲れ生きの疲れもあるらしき
東京をふるさとにもち春惜しむ
小さくて飯蛸をとる壺といふ
充分に寝足りし山の機嫌かな
卒業の
花疲れとてみづかに言ひ聞かす
梅雨の夜の道の段差を熟知せり
それらしき色となりたる
夕町に磯の香のこる小鰺売
甘き匂ひ残して消えし雨蛙
裏返るさびしさ
思はざる深きまで刈る藻刈鎌
しばらくは蛍包みし
爪痛き記憶のありし
短夜や空閨などと今さらに
明易し顎のせて枕しめりゐる
じいと鳴く蝉それきりの朝ぐもり
出てすこし胸張るこころ炎天下
熱帯夜いつ目覚めても我がゐて
ごきぶりを打ち損じたる余力かな
真裸を叩いて強気はしりけり
風呂の湯を落す匂ひも夜涼にて
団欒にときをり応ふ
遠花火ときをり塔を映し出す
秋白地着て晩年を長くをり
秋冷や何かの声に身を正す
今年米たしかな
夜の秋とろ火にかけて小海老など
臆する子前に押し出す地蔵盆
切れ字とは露一粒の厚みとも
片下りなるシーソーの露まみれ
秋蝉の遠く水湧く声に似て
落鮎にふるべき塩を手に残す
どうしても割れぬ
寒き夜の河豚食べし血の疼きあり (萩)
枯景色くもり眼鏡に見るごとく
水の上を舞ふ綿虫の綿厚し
冬立ちてことさら松の
風邪声のふとなまめくに似たりけり
風呂吹に箸を刺しての思ひごと
襖張り下張り剥がし何もなし
蕎麦湯のみわが血も
貧乏ゆすりしてをり風邪の兆しをり
畦の犬に時に声かけ
凍鶴と見えはた老鶴とも思ふ
橋なかばにて逝く年と思ひけり 以上、「駘蕩」 平成七年
葛飾は霜に芦伏す初景色
賀状書く
赫々と日の射す方を
春暁の何か始まる匂ひせり
葱の香の後さびしさも流れくる
まつ先に病者が知れり雪の音
寒牡丹息が湿らす菰の中
忘られてゐる水餅に似たるかな
雪吊のゆるみの時と思ひけり
ほしいまま朝寝の時をもちし
長湯して夜の
猫やなぎ思つてもなき雨後の艶
乗り合せ受験子らしき眼の寒さ
浴室に朧の夜気を少し入れ
先をゆく犬見失ふ春の暮
人肌色の御像が見たき
朝寝してまざまざと
花あまた見し夜の瞼熱もてり
花過ぎてひたひたと老迫りくる
鳥の恋砂場の砂の上乾き
けぶらひて木の芽起しの雨といふ
まつ先に初蝶見しをなぜか秘め
節句前の桜餅とて賞美せり
店奧に
枝々に雨意ありありと芽吹時
起す人なき朝寝なりあはれとも
余寒かな
明日への信いくらかありて
春一番老の強気を
春愁に似て非なるもの老愁は
飯蛸の
木蓮の
ひそやかに手早く雛のしまはるる
逃げ水を追はむこころの今もあり
まだ開き惜しみのときの白牡丹
近づいて見て白藤でなかりけり
青葉潮和
身のうちに蛍棲む闇あらまほし
京瓦てふ美しきもの朝焼けす
奈落より戻りしごとき
玉虫の出てきし時代物箪笥
蛍袋うなだれ咲きの雨を呼ぶ
聲の出の
蛍籠越しに触れたる人の息
葛の花葉裏より穂をもたげたる
やや赤く
銀河鉄道疾走の
踏み入つて諏訪路は
大方の神は旅せり海の
海小春ときどき見えて兎波
申し訳ほど
露の夜のこよなき弟子を見送りし
遠火事に深き酔ひ寝の起さるる
凍蝶を見しそれよりの夕早し
忘れたき年なればとて年忘れ 以上、「懶春」 平成八年
初筆の金短冊の墨をはね
福藁を貰ひすぎたる嬉しさよ
賜りし八十六歳初明り (一月五日はわが誕生日)
今更の初鏡なれどまざまざと
松多き町に住み古り初霞
鏡餅生き残りめく家長の座
紀の国の蜜柑となりしてん手鞠
毛氈紅き桟敷賜る初芝居
遠凧や矢切の空に浮き沈み
屠蘇の座や
箸紙に名を書く役を今年また
あけぼのの色とも見えて花びら餅
今はもう敵なき
毘沙門で別れし連れや
息すこし遠ざけて見る寒牡丹
凍て瀧のゆるみの音のかくれなき
薬
やや肥えて藁うばひ合ふ寒雀
ひともがきして
すぐ去りし初蝶にして忘れ得ず
川幅のいくばくふとり二月
二月てふ何もなき月住みよかり
草芽吹く老いには老いの身の
水ふふむ重たさ貰ふ
母・妻を詠みしは昔わすれ雪
いつか失せたる麦踏のひとりかな
通されて雛の間までの間取りよき
うららかや長居の客のごとく生き
胸ふかく悪霊そだつさくらの夜
米櫃を春愁の手がならしけり
空腹の霞を少しづつ吸へり
逃げ水を追ふこと
恋猫のひそみて闇の艶めける
花時の疲れ尾を曳く旅のあと
摘み草や膝に感じて地の鼓動
遅ざくら生地
地に落ちて兜に似たり肥後椿
一瓣を引きて牡丹を崩れさす
朴咲けり
花すべて散りたる後の
筆持てば文字が寄せくる春騒夜
木の芽時歩けと杖を贈らるる
長く長く
人肌に桜じめりといふがあり
俳句てふ自作自演やさくら時
改札の切符とび出す春の暮
菖蒲時明治男を誇りもし
藤房の先の重りや雨しづく
水張りてより田の空のくもり癖
衣更へて老の構へのおのづから
白靴を
はるかなる祭囃子に腰浮けり
つかの間の若さありけり白地着て
ゆつくりと息づく雨後の蛍火は
金魚鉢にてわが顔の歪み知る
父母の声さすがに忘れ
降りし後まだ雨気のこす菖蒲の芽
青梅雨や流木に知るものゝ
後記抄
『芒種』とは二十四気の一つで六月六日のこと、「のぎ」のある穀物を播く時期ということで何となく好きなことばなので(句集題に)つけた。
平成十一年八月 八十八歳 夏 能村登四郎
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/05/17
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