『キング』創刊前後
禍の効用
大正十二年(1923)の震災によって、直接間接こうむった損害を金に見積ったらどれくらいになるか、かなりの額に上ったのであるが、しかしあくまでも「禍の効用」を信じてやまない私は、むしろこの災難がもたらした利益の方を計算したい。その利益の一つは、私がそれまでに企図した最大の計画、すなわち大正十三年(1924)の一月を目指して準備を進めつつあった『キング』の発刊、これが震災に遭って延期を余儀なくされたことである。この延期のために、いやが上にも創刊の準備を完成することが出来たのであります。
疑いもなく『キング』は東洋の出版業者によって試みられた最大の雑誌事業であった。「奉仕」という言葉を個人の仕事に結びつけて多く語ることは、時代おくれな、どちらかといえば
約五カ年を私はこの超大雑誌の研究に費した。私は常に、自分を
「よし! 日本で世界一の雑誌を出して、全世界をびっくりさせてやろう!」
どんな雑誌が読者百万をとらえ得るか、どんな名前で、どんな体裁で、どんなねらいで――まずこれを討究しなければならないと、五年間、精魂打ち込んでそのことを調査し、研究し、熟慮し、協議し、その結果、百万売る雑誌は可能であるという確信を得ました。そしてついに『キング』が生まれたのであります。
編集主任に選んだのは、私の師範学校時代の級友で優れた頭脳の持主、そして人格の高い長谷川卓郎君であるが、同君は、群馬県下一流の教育者として評判が高く、本人得意の時代だけになかなか出て来ない。前々から手紙で誘ったり、面会で説いたりして、やっと来てもらったが、当分、私の家に寝泊りを願って、東京の事情や事業方面のことを、氏が社から帰ってから毎晩、夜中の一時、二時頃まで話し合って、それら必要なるすべてによく通じてもらい、そしていよいよとなって、この『キング』の編集に当ってもらった。当人は経験がないから駄目だと、しきりに尻込みするのであったが、私は「いや経験より真剣だ、至誠だ、人格だ」と力説した。かつて加藤謙一君も未経験で、『少年倶楽部』の主任となることを願ったところ、初めは極力辞退したのだが、ついに無理やりにやってもらって、しかもあの通りの大成功だ、宮下丑太郎君も未経験で『現代』の主任となって、大いに成績を上げている、などと実例を話してようやく納得してもらった。
なおその時、『現代』の編集にあって、すでに才幹を認められていた広瀬照太郎君を『キング』の方に頼み、そのほかに約二十名の社員が両君を援助するために加わって、まず大体の編集陣ができ、編集案が定まり、次に一々の細目について推理の及ぶ限り、考究の及ぶ限り、徹底的な検討吟味が行なわれていった。宣伝、販売等については、調査部の橋本求君が主になって、熱心に緻密明徹な頭で考究調査、準備計画が進行した。会議は講談社においても、音羽の私の宅においても、何十回となく行なわれ、夜を越えて鶏鳴に驚かされることも、否、朝の七時、八時まで続けられることもしばしばで、会議が終って帰り行く諸君を見送りながら、そのうしろ姿に涙ぐんで、私も妻も子供もただただ感謝するのみでありました。爾来、音羽における会議といえば、徹夜会議ということに大体きまっている。どうしても諸君が熱心であり、私も一点遺漏があっては大変と思うものだから、つい力がこもって、こんな工合になるのであります。
『キング』の編集方針
誰も主張し誰も納得したことは、この超大雑誌が万人向きでなければならぬということであった。老人にも子供にも男にも女にも面白い、とても面白い、そして学者も実業家も会社員も職業婦人も、読みたくてたまらない、年齢、性別、職業、地位を超越した雑誌でなければならぬ。その上、ためになる、とてもためになるものでなければならない。そしてまた安い、それも普通でなく、とてもとても安いものでなければならない。そこで問題は、果してそういう雑誌を作り得るや否やであった。一同知恵のあらん限りをしぼるうちに、たまたま得た神の啓示のごとき一事によって、この疑問を完全に解消することが出来た。
私はある民衆教育団体の主催する講演会に出席した。そこにはあらゆる職業、あらゆる地位の男女から成る聴衆があった。大学生もおれば小学生もいた。立派な風采の紳士もいるし、粗末な身なりの労働者もいた。富める者と貧しき者、学者と無学者が肩をすり合わせていた。講演する人たちもまた各種の社会層を代表していた。有名な実業家が立って話すと、サラリーマンやその他の大人はみな熱心に耳を傾けたが、子供や学生は退屈した。大学教授の講演はたちまちインテリ層の注目を惹いたが、老人や婦人たちの頭上は通り越した。さっきから幾人も壇ヘ登るが、まだ全聴衆を掌握する人はない。ところが、そのうちに代って立ったのは有名な僧侶である。彼が二言、三言話すうちに満場はしんと静まった。幼い子供たちまでもこの坊さんの片言隻句も逃がすまいとするように、一生懸命聴き入っている。それは説教で、たとえ話や逸話の中に仏教の教えをこめたものであった。その時、私は万人向きの雑誌の鍵の大事な一つを発見したのであります。
これによってだんだん私たちは自信がついた。このほかにまだまだ幾つも幾つもの研究があったが、とにかくこの啓示によって、ついに編集方針も確立した。そこで、ぶっつかったのは名前の問題であった。
私たちは次のような理想を抱いて名前の選択に向ったのであった。すなわちわかりやすく、読みやすく、書きやすく、簡潔で、響きが良くて、呼びやすく、親しみやすくて、高尚で、しかも近づき難い感じを持たぬ名前、誰にもいやがられぬ名前、一方面的でない名前…… 等々であった。こうして慎重に会議、会議を重ねた末に決定したのが『キング』という名前であります。
普通の読者は別に悪い名前でもないなあぐらいにしか考えないであろうが、私たちにとってはこれこそ最も理想に近い名前なのである。それは数百の候補の中から選り抜いたものであって、多くの候補は意味が狭いとか、品が落ちるとかいう理由ではねられたり、読みにくい、書きにくい、わかりにくい等で落選したりしたのである。
妙なことに、日本語から選んだ候補は、いずれもその意味が狭い。あるいは性別、年齢、職業、地位等が限られてくる。これは日本語そのものの性質によるものであろうか。日本語の用法はすべてはっきり定義づけられている。あまり意味がわかりやす過ぎるので意味が強く頭に残り、漠然とすべてを包含するような連想は持ち難いようである。例えば『婦人何々』、『少年何々』、『雄弁』、『講談倶楽部』、こうした名前ではふさわしくない。選びに選んで『キング』が出た。最初はぴんと魅力が来なかったが、『キング』『キング』と頭の中で繰り返すうちに、だんだんと良くなって来た。
良いけれども外国語ではどうだろう、なるべくわれらの国語にしたいものであると、いろいろ苦心したが、一方また考えて見れば、外国語なればこそ無造作に、万人に平等に響くのである。それにキングという言葉は、すっかり日本化された英語であって、知らない人はほとんどない、大概の辞書にも載っている。意味は貴族的であって平民的である。呼びやすく、響きは良く、上品である。英語国民にはむしろ、おかしく思われるかも知れないが、私たちは、音の方が意味よりも余計に気に入ったのであります。
『キング』第一号の内容が整うまでには非常な労力が払われた。『キング』の原稿は、すベて約二十名から成る審査員の厳しい検閲を受けた。審査員は私、妻、子供の恒、及び各雑誌の編集主任その他の数人で、男女老若学識の各程度等、それぞれ併せ含んでいた。
各審査員が天下のあらゆる人々を代表して、九十点以上をつけた原稿のみを採用した。審査員の一人でもが首をかしげて、それがため平均点が落ちた原稿は、理由を問うことなく遺憾ながら刎ねることにした。首をかしげた者の地位がどんなに低かろうと、他の者がどんなに推薦しようと、平均点が足らなければ、それは『キング』の原稿たる資格を失ったのであった。それゆえ採否は必ずしも、作の良否のみに依ったのでもなかった。
こうして約七、八カ月を選択の時に費して、ついに『キング』の原稿は揃った。この選択の最中、あの大震火災に見舞われたのである。そしてこれがため発刊が一年おくれたわけである。しかもこの遅れたことが、いかにこの編集、販売、宣伝等の研究立案を深からしめたか、細密ならしめたかわからない。
大部数発行で取次店と難交渉
さて次に決定すべきことは発行部数である。その頃一番売れていた雑誌は、二十五、六万と推定されていた。そこで『キング』はどのくらい売れるかという問題であるが、私は、
「ここまで準備の手をつくしたのだから、少なくとも七十五万は出ると確信している」と言った。
私の楽観説に賛成する者は少なかった。多くは二十五万といい、三十万という。三十五万が当時の最高記録であった。白状すれば私どもの見込みも、万遺漏のないほとんど科学的な計算を基にして、七十五万と見込みをつけたのではあったが、そう定めるまでの間は、一日のうちにも、私の胸のうちでは何回となく、もっと出るだろうと上ったり、いやいやそうは出ないかも知れぬと下ったり、百万にふえたり、三十万に減ったりしたのであります。
七十五万刷って、その半分しか売れなかったらどうする、経済上の損害は構わぬにしても、社内の志気に及ぼすところは重大なものがある。今まで大体において、はずれたことがなかった。それが今一つはずれてはいろいろ影響が大きい。それに講談社には約四十万もの残本を積み込むような場所はない。三十五万、四十万の汚れた売れ残り雑誌が、毎日毎日トラックに満載されて戻って来るさまを想像すると、ぞっとした。事実、私たちは残本をどう処理するかまで相談したのである。ある年輩の社員で、三十五万、四十万の残本の場合はこっそり汽船に積み込んで、夜のうちに海の中へ棄てて来るのがよいと、真面目くさって言うものさえあった。
また、取次店を説いて、『キング』五十万の配本を引き受けてもらうまでには、並大抵の努力ではなかった。取次店の代表者たちとこちらの者との間に、数回の会議が行なわれた。先方は二十万から出発して、少しずつ上げて行った。そして一段ごとに非常な渋り方を示した。先方ではいろいろな先例を持ち出し、殊に『講談倶楽部』創刊や、その他のものの創刊の場合を指摘して、なかなかこちらの要求に応じてくれない。こちらは百万から出発して、少しずつ渋りしぶり下げて行った。互いに論じ、説き、勧告し合った。ついに東京堂の大野氏が、ぐっと勢い込んで確信的語調で言い切った。
「野間さんのことですから、講談社さんのことですから、思い切って五十万やってみましょう、ただしそれ以上は一部でもおことわりします!」
この人たちが大冒険とは知りながらも、私どもの自信があまりに強く、私どもの熱度があまりに高いので、ついに同情して、非常な好意でこの五十万まで奮発し、『キング』のために最大の努力を惜しまぬと言ってくれたのであります。
希望通りの部数ではないがやむを得まい、その時出ている最大の雑誌の発行数に二倍する大部数でもあるからと諦めた。そして取次店の協力を得た上は、残るのは宣伝戦である。まず全国の書店へ端書をもって、近々超大雑誌『キング』を世に贈る旨を知らせ、その協力を懇願した。つづいて手紙、さらにビラ、さらにパンフレット、さらに手紙、さらに電報、という工合に、それからそれへと続々準備工作に努力した。このパンフレットには『キング』発刊の趣旨と内容案内を詳しく書いた。次に学校、公共団体、納税者、選挙権者、電話所有者等々、必ず読者になってもらえると思われる向きを調べては、種々の宣伝物を発送した。発売前々から全国の有力新聞に『キング』の誕生を報ずる一ページ大の広告を掲げ、全国書店ヘ向けては、新雑誌よろしく頼む旨の電報五千本以上を打った。
右が乾坤一擲の大事業敢行に際して採った宣伝方法の最初の主なるものである。結果は申し分なかった。これによって日本の隅々にまで、熱烈な『キング』待望の念が醸成されたのである。私どもは『キング』によって、人も家も村も町もみなよくなって、良風美俗起り、御国が明るく美しくなるようにと、熱狂的に努力したのである。現に、私も妻も子供も徹夜してまで立看板を書くほどの始末であった。猫や犬は別として、社内のものは婆やも女中も、誰から誰まで一人残らず、この雑誌に全力を注いだ。そしてこの誠で、この熱で、わが同胞国民に尽すのだ、天下に貢献するのだ、そして大偉業を打ち立てるのだ、と言っていたのであります。
『キング』の初号、大正十四年新年号は、大正十三年の十一月半ばに印刷を終えた。震災後ちょうど一カ年目である。ところが、十二月の半ばまでには五十万部では足らぬ、追加注文が続々殺到した。再版五万は焼石に水であった。続いて重版重版で、合計七十四万部が新年の市場へ送り出された。私は取次店の諸君にいった。
「最初お願いした通りにやって下さったら、増刷の手間もなく、売行きも、もっともっとよかったでしょうに」
その後三カ月くらい経って、四大取次店からの決算報告によって、「ほとんど返品なく、ほとんど全部きれいに売れた!」という事実がわかった。返品は二パーセントか、そこらであった。予約出版でもなかなかこんなよい成績は得られるものではない。まさに、わが国出版事業始まって以来のことであります。
すばらしい『キング』の評判
『キング』の出現はわが国雑誌界に一つのセンセイションを捲き起こさずにはおかなかった。日本の国にも超大雑誌の可能なることが実証されたのである。私たちのやり方を見て、ある者は賞讃し、ある者は心配した。悲観論者は、あのばか安い雑誌、あの莫大な広告費は、遠からず講談社を破産に導くものだといっていた。事実、私たちが今にも破産するという声は、しばらく絶えなかった。なぜなら、つづいて二号三号にも莫大な広告費をかけ、すべて思い切ったやり方をしたからである。いつの世でも伝統を破ったやり方、旧套を脱却した新案は、一時世間の非難をあびるものである。雑誌一般の例では、二号、三号は初号よりずっと部数が落ちるのであるが、この『キング』はその例を破って、落ちるどころか月々増す一方で、ついにその年の暮には新年号を百五十万部刷った。これは内容の改善進歩にもよるが、それと並行した宣伝戦の継続によって、それまで雑誌を手にしない人まで読んでくれるようになったおかげであります。
この『キング』の異常なる成功と共に、わが社の名前や、私どもの勤務ぶりや、やり方までも世間の賑やかな話題になった。「講談社は何というすごいことをやるんだ!」驚異はやがて賞讃となり、次いで二、三の模倣者まで現われた。否、『キング』の出る前に、すでに一つの強敵が出たのであった。発刊が一年延期されている間に偶然の一致だったろう、似たような計画で――体裁も内容も――かなりよい雑誌が現われた。初めてこれを知った時は、ちょっと私もびくっとしたのであったが、それは一見非常に似ているように見えるが、仔細に吟味すると、その相違するところもだいぶあるので、大いに意を安んずることが出来ました。
「一家一冊」というのが『キング』の宣伝語の一つである。家庭こそ『キング』のねらいの第一の的である。『キング』は家庭における主人はもちろん、子供でも、年寄りでも、青年でも年頃の娘でも、誰でも彼でも争い奪い合って読む雑誌である。『キング』は私どもの達し得る最高の編集技能をもって編集したものである。編集ということは想像以上にむずかしいものでパラパラと繰って見ただけでも何とも言えない魅力を感ずるように、そうした心地よい調和と隙のなさを具備していなければならないし、長短軽重とりどりの記事や小説が、硬軟大小前後多少の按配よろしく、渾然と混和されているものでなければならぬ。美味しいものでも同味同巧のものが多過ぎつらなり合つては、興がさめる。この辺の呼吸もまた大切で、甘いものがつづいてもなるまいし、辛いもの酸いものが重なってもならず、一つでもいやなものがあると、これがために、ある家庭には排斥されるかも知れない……それら配合の巧拙、編集の優劣は、一朝一夕に得らるるものでなく、人知れぬ苦心の存する所であります。
『キング』の物質的成功の喜びもさることながら、『キング』のおかげでこれこれの有り難い事実があったという各方面各種類の読者から寄せられる便りに接する喜びは、さらにさらに大きかった。それよりも何よりも、この『キング』発行によって、わが国一般に読書というものの大宣伝を行なったこと、爾来引きつづきわが国上下の読書熱を高め、雑誌書籍の普及に大なる効果があったと認められたことは、私ども一同の何ともいえない欣快事でありました。
読者からの書面の中には、良くない息子が、『キング』の中の話を読んだために迷夢から醒めて家ヘ戻ったとか、『キング』を読んでから、嫁と姑が不思議に仲睦じくなったとか、怠け者が急に働き者になったとか、そうしたことを感謝して来る手紙が日々非常に多かった。
どの雑誌もそうであるが、特に『キング』においては、われら同胞一人も争うものなく、一人も怠るものなく、相和し相励まし、そして誰も彼も愉快に、御国のためにというようになっていただきたい。『キング』では、できるだけ明るい記事、面白い記事、ためになる記事を掲げて、世の中に真と善と美との増進を企てたい。そして時弊に
そのうちに、また各方面の名士からも有り難い激励の言葉が、続々と寄せられるようになった。その書面の多くは、身にあまる褒辞で、一同はただ恐縮するのみであったが、その中には『キング』一冊が国民に及ぼす教化力は、何千の学校のそれにも匹敵するなどと、いって下さった人もありました。
私たち個人あてにも、とても沢山のお祝いの手紙や、端書が来た。早速お礼の返事を出すベく近所の印刷所を総動員して、大急ぎで文面を刷らせ、宛名は私や妻や子供その他の者が、手分けして書いたりした。寒気のきびしい晩、夜おそくまでかかっても、私たちは嬉しさで寒さも忙しさも忘れていた。
感謝と感激の日が続いた。講談社は、喜びに満ち溢れた。婆やまで踊り出さんばかりであった。社員がお互いに「お早う」といいかわす言葉につづいて、必ず各方面の『キング』の好評がつけ加えられ、毎日毎日、社内の隅々まで喜びの響きが充ち満ちていた。ある晩、少年たちが仕事を終えて、演説会を開いている様子なので、耳をそばだてていると、ちょうど彼らの一人が力一杯の大声で、「われわれの力、われわれの熱、まごころが、『キング』の驚異的大部数となったのだ。われわれはさらに一段の責任を感じて奮起しなければならぬ。いよいよもって熱だ、誠だ、魂だ、みんな大いにやらねばならないぞ」
と絶叫しているのである。当分はどこへ行っても『キング』の話で持ち切りであった。
私たちは創業以来、おかげで順調に伸び続けて来たが、『キング』をもって初めて決定的に世間に認められるにいたったのではなかったろうか。ここで多年の懸案――社名として二つ使って来た「大日本雄弁会」と「講談社」の合併を決行しようと思い立ち、この両社名を合併して、「大日本雄弁会講談社」―― いささか顎を疲らせるような、いやに長たらしい名前であるが、何としても長年用いて来ただけに別れ難く、情において棄て難いので、こうした社名にしたのであります。
『幼年倶楽部』を創刊す
『キング』が生まれてからちょうど一年後、大正十五年の新年から、私どもはまた『幼年倶楽部』を発行した。『キング』の成功に幾らか図に乗っていたせいもありましょうか、これも驚くべき大量生産の方針をとりました。しかし、『キング』の時のような花やかな成功を見るわけには行かなかった。
実はこの雑誌についてはかなり力をこめたもので、子供は御国の宝である、特に幼い、 柔かい頭の、どうにでもなりやすい時代の、可愛い、小さい子供たちを相手にする雑誌だけに、容易ならぬ責任があると恐懼戒慎して、一字もいやしくもしないようにとお互に注意し合った。なおページ数とか、印刷とか、付録とかいうことについても、どんなに奮発してもよろしい、どんなにでも安くと意気込んで着手したのであったが、雑誌協会にはまた雑誌協会の規定があり、その他いろいろの事情のために自由奔放なやり方を決行するわけにはゆかなかった。ただ私どもとしては、この雑誌によって良い幼少年が出来たら、御国を根本から立派にする第一の基礎事業に成るわけであると、大なる祈願をかけて決行したのであります。
なおこの雑誌から『少年倶楽部』『少女倶楽部』に進み、それから他の私どもの各雑誌に系統的に進んでもらうようにして、日の丸の旗の翻えるところ、その年齢のいかんによらず、その家庭のいかんを問わず、どんな家でも私どもの雑誌を一冊以上必ず備えていただけるように研究したいと考えております。あるいは『少年倶楽部』及び『少女倶楽部』と、『雄弁』及び『現代』との間に、もう一つ雑誌があってよろしいのではないか、中学程度のものか、青年前期のものを加えてもよろしいのではないか、あるいは小学校前の雑誌もあってよろしいのではないか(注―その後『講談社の絵本』を発行し、著者の目的の一部が達せられつつあり)、あるいはこんな実業雑誌を加えてはどうか、やや専門的になるがある種の教育雑誌とか、武道の雑誌とか、種々さまざまの提案もあるのですが、いまだ成熟した案に至らず、宿題として残っているものも少なくない。今後適当な時期になおだんだんに新雑誌を加えて行こうと、絶えず調査研究をつづけております。
さてこの『幼年倶楽部』の損失期間は、他の雑誌の時よりも、もっともっと永く続いた。理由は明白である。対象が小学校の一年から五年までの子供であるから、広告を新聞に出してもほとんど直接の効果はない。私どもはただ時の力がこの雑誌をだんだんに広めてくれるであろうと考え、なお私どもの大人の雑誌とかあるいは新聞などによって、まずもって父兄母姉にこの雑誌の存在を知ってもらい、その効果を認めてもらい、それから漸次読者に紹介してもらう順序を踏むより仕方がない、その期間を耐え忍んでいるほかなかったのであります。
殊に幼年時代においての雑誌の良否を選択するとか、書籍の善悪を吟味するとかいうようなことは、父兄母姉の大いに関心すべきことであり、また、その時代における見るもの、聞くもの、読むものが、終生にわたって驚くべき影響を持つことを思う時に、私どもはせいぜい損得を離れ、この雑誌の普及をもって、御国の宝、世の宝、最愛なる天下の幼年のために、少しでも尽したいと切望している次第であります。
しかしながら『幼年倶楽部』は、主任笛木君と、そのほか精励なる社員十数名の苦心惨憺たる編集と、絶えざる努力とにより、さらに満天下教育方面の人々の御指導によって、その後、見事に損失期間を克服し、月を追い年を追うて隆々として発展し、今日においては、日本の子供たちに林檎やチョコレートのごとく親しまれ、喜ばれて、おかげさまで同種類中の第一位のものになっております。
さて、これまで私どもがみずから建てておいたゴール「講談社の九雑誌」ヘ、これで完全に到達することが出来たのであります。この「九つ」という数は、私の耳に奇妙な魅力を持っていた。それは何かしら未完成というような、まだまだ後があるぞ、というような感じに響くからである。もし九雑誌にさらに加えるとしても、「十」にはしたくない、「十」は何となく行きどまり、満足、十分、といったような感じを与える。私どもは「これでいい」という感じを何よりも恐れている。まだまだ足らず、及ばず、という感じ、まだまだ若いぞ、という感じを、いつまでもいつまでも保持したいと思っています。
有難いことに、今日では一家庭で私どもの九雑誌全部をとっておられる所もある。あるいはそのうちの七つをとっておられる、あるいは五つをとっておられる、という工合で、非常なる信用と歓迎とを受け、どんな遠方の村ヘ行っても、私どもの雑誌のない所はなく、汽車の中でも、汽船の中でも、私どもの雑誌を見ないことはないというほどに普及しております。まことに感謝に堪えないわけであります。読者の数は年々に増加の一路を辿っているもののごとくに思われるので、いずれの日か、われらの宿望たる世界一という雑誌も、わが日本から必ず生まれ出ねばならぬものと信じております。
私どもの社がこの時分、出版界にいかなる地位を占むるに到っていたか、その大体の概念をつかんでいただくために、それに適当なる事実なり、数字なりを、ごく簡単に引証して見たいと思うのであるが、あまりに嗜みのないことのようにも思われるし、ありのままを申し述べたら、あるいは一般の読者の耳には誇張したもののごとく感ぜられるかも知れない。雑誌の部数のごときも、創業時代とはまるで比較にならないほどになっている。ここには、ただ参考までに、ほんの二、三の数字を挙げるにとどめておきますが、それにしても、かくのごとき実況にいたり得たことは、わが日本の読書界の目ざましい発展ぶりが、世界に類例のないほど驚異的なものであるに想到して、ただに私の喜びにとどまらず、一社の喜びにとどまらず、われ人ともに、わが国文化の普及発展を祝福せねばならぬことと思っています。
私どもにおいて十万以下の雑誌は九つの中に二つしかない。あるものは二十万、あるものは三十万、あるものは五十万、八十万、九十五万というがごとく、そして講談社と私の自邸と両方で毎日受取る郵便物の数のごときは、封書、葉書、小包、電報、懸賞問題の解答なども含めて、その最も多い時は一日二十五万余、したがって、私どもから毎日発送する郵便物のごときも、莫大な数に上り、電報なども中央郵便局で、これまでこんなに沢山なことはなかったというので、その時の写真を撮って記念にされたということも聞いております。
その受け取る郵便物の中には、外国からのものもだんだん多くなって来て、見ず知らずの人から頻々と讃辞などが舞い込んでくるありさまである。その中には米国の大統領が褒めて来てくれたとか、英国の総理大臣が激励の書面を寄せられたとか、『ニューヨーク・タイムズ』の主筆が何かいって来られたとか、こんな類の自己満足の話を始めると限りがないわけであるが、かくのごときは見る人の気持もいかがかと思われるので、差し控えることにいたします。
とにかく過去の十五年は、ずいぶん骨の折れた十五年で、山あり、谷あり、艱難辛苦のごとくではあるが、自分としてはただもう毎日が一心不乱で、目前の仕事に追われて、時の経つのが何と早かったことか、もうこんなにも年が経ってしまったのか、というような感じで、さまで苦労であったとも思いません。
(野間清治著『私の半生』増補版より 大日本雄弁会講談社 昭和十四年)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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