ある死ある生
一
人間の死んでゆくところを見た話は自分は沢山聞いたが、その中でどういふものか友人A君のして呉れた話が、自分には一番鮮やかに記憶にのこつてゐる。それは次のやうな話だ。
(季節のうちで、自分は夏から秋に移る頃が一番好きだ。八月の末になると、日本にはよく颱風が来る。夜明け方から来たり、また夕暮時から初まつたりして、それの通つたあとは、全く天気が一新する。他の季節のうちで、この夏から秋に移る時位際立つて季節の歩みが感じられる時はない。
さういふ日の或る夕方だつた。朝から初まつた暴風雨が夕方に止んで、夕残りの雲が時々まだ雨を降らせ乍ら空を急いでゐたが、その僅かのはれ間を盗んで、一人の男が裏の水溜りに出て、立つて水面を眺めてゐた。おほかた雨で水かさが増して、近所の溝から魚でも流れ込んだのだらう。男は暫くして、
暫くすると、また男が出てきた。矢張り先刻の男で、手に長い電燈のコードのやうなものを持つてゐた。妙な事をすると思つて見てゐたが、すると男はそれを、一端は今出てきた家の戸口の中につないであるらしく、他の一端を持つて、輪にしたそれをほどき乍ら、水溜りの水際の方へと近寄つて行つた。
自分はそれ迄別に気を止めて見てゐたわけではなかつたが、その時から、鳥渡興味を持つた。あの男は一体何をするのだらう、さう思つて見てゐると、その男は水際にしやがんで、今のコードのやうなものの尖きに何かを
自分は益々興味を持つた。その男の何か自分のたくらみに熱心してゐるらしい様子が、充分傍からでも見てとれたからである。すると男は立上つた。そして右手に今結へた何か鉄板のやうなもののぶらさがつてゐるコードのさきをつかまへて、左手で家とつながつた部分を二三度バタバタと試すやうにゆすつてみて、それから家に尻を向けて、水に向つてコードに結へつけた鉄板のやうなものをザブリと投げ込んだ。
恐らく誰もこんな
これは変な事をする、と自分はその時妙に何か警戒するやうな気持になつた。兎に角只の事をするのではないといふ事は、その男の余り熱心になつてゐる姿からでも充分わかつた。
と、男はとんとんとんと走つて、家の戸口へ
――君は一体この男が何をしてゐたのだと思ふ。電気を引いたのだ。これはあとで解つた事だが、電気を水に引いて、浮いてゐた魚を殺さうとしたのださうな。考へたものぢやないか。この男は水は電気の良導体だといふ事をよく知つてゐたものと見える。それにこれもあとで聞いた話だが、その男は常から電気をいぢるのが好きで、電気器具の小さいのをよく買つてきてはいたづらするのが道楽だつたさうな。この魚を殺さうとした時に用ひたコードも、矢張りその前から買つて持つてゐたのださうだ。あのしまひに家へとんとんとんと馳け込んだ時は、水に導いたコードにスヰッチを切りに行つたんだ。
それは兎に角、自分はその男がスヰッチを切つておいて再び水際へ馳けて行つた時、その瞬間、瞬間的にだが妙な
自分は益々その男の行ひを見てゐた。男は水際に立つて、ぢつと水面を見つめてゐる。彼はもはや、自分が引いたコードの事も、そのコードのつながつてゐるうしろの家の事も、まるで念頭にないやうな様子であつた。と、男の全身が突然華やかに笑つた。いや、さう見えたのだ。確かに彼は全身で笑つた。それが自分の所からも実にはつきりさうわかつた位だ。その時は
自分はその時の印象が深くのこつてゐる。自分のその時までの、どちらかと云へば暗くなつてゐた気持も、その瞬間で美事に晴れた。自分はその時、まだ確かに彼のやつてゐた事が解つたわけではなかつたが、それでも妙に解つたやうな気がした。そして安心した。《あとで聞いた話から考へると、その時彼の計画が成功して、最初の魚が死んで白い腹を出して浮び上つたらしいのだ。》
しかし実は、自分はまだその男のやつてゐた事がよく解つてはゐなかつたのだ。自分は自分の気分が軽くなると、今度は急にその男のやつてゐる事が知りたくなつた。自分は家を出て、その男の所へ行つてやらうかと考へた位である。ところが自分がまだそれをしない間に次の事件が起つたのだ。
男は喜んだかと思ふと、サッと尻をまくつて水に入つた。ああ何故彼はそんな事をしたのだらう! いや、男がさうしたのは無理もない、自分でさへその時何の危険も感じなかつた位だもの! しかし男はとうとう感電してその場に倒れて了つたのだ。水に足をひたすと同時に、男は両手を稲妻のやうに震はせてそのままそこに倒れて了つたのだ。……)
友人Aの話はこれだけである。その男が感電して倒れると同時に、Aはそこへ飛んで行つて人々を呼び集めて、その男を抱き上げたさうだが、その時その男の先刻出入りした家の戸口へ行つてスヰッチを切つたのはAであつた。Aは
(さてこれでこの話は終つたので、私の小説も此処で止めておく方が花であるかも知れないが、これでは約束しておいた予定の枚数に大分足りないので、更に第二の話を附加する。)
二
Aの話は、話それ自身及びその話の中の事件に加つたA自身の態度などから、私には人間に関するいろいろな暗示が得られた。例へば、前の話の中で、常から電気に興味を持つてそれに熱中してゐた男が、颱風の後の雨やみを盗んで、日頃から考へてゐた彼の新しい実験をやつてみようと考へた事、それからその実験の着手に際して払つた熱心さ、それからその実験が成功した時の最初の喜び、しかもその喜びの為めに身を誤つて殺して了つた事、更に今喜んだ人間が次の瞬間に余りにも
さて次に友人Bの話を載せよう。Bは実は自分は余り好まない友だ。好まないけれども敢へて憎む理由はない。Bは話した。
(僕がその女を知つたのは実に変つた機会からなのだ。それといふのも僕が大胆だつたからだがね。大胆はこの世の享楽に欠くべからざるものだ。
或る夜或る街角の骨董屋の飾り窓の前に立つて、女がひとりその中にある黄焼きの壷を眺めてゐた。その辺は一帯に賑やかな通りで、どの店にも相当の人だかりがしてゐたが、その中でその骨董屋の飾り窓の前に立つてひとり壷を眺めてゐる女の姿は特別に僕の目を惹いた。だつて君、それが若い女なんだからね。若い女がたつた一人で淋しさうに骨董屋の黄焼きの壷を眺めてゐるんだからね。
それは兎に角、僕はこの女を眺めてゐるうちに、それがこの賑やかな夜の街の中に落された一点の静けさの表象のやうに思はれ出したんだ。僕はかういふ女には何処か必ず変つた面白いところがあるに違ひないとその瞬間考へた。見ると女は矢張り壷の前に立つて、ウヰンドウの硝子を通して、その硝子だけが彼女のほのかな邪魔物であるかのやうな姿で眺めてゐる。僕はつかつかと女の所へ近寄つて行つた。そして云つた。
「あなたのやうな、若い女の人がこんな賑やかな夜の街の中で、只ひとり淋しさうに壷を眺めてゐるなどといふ事は、私の心を惹いて堪りません。」
さう云つて僕はポケットから自分の名刺を出して、僕はかういふ所のかういふ者です、あなたは私の情人になつて呉れまいか、と頼んでみたのだ。僕は妙な性分で、それだけ云ふともう自分はかういふ女なら自分の女房になつて呉れてもいい、
女は僕が話し掛けた時、
僕はその女に更に続けて云つた。
「こんな事を突然云つてあなたには大変御迷惑ですけれど、兎に角僕の云ふ事を聞くだけ聞いて頂けませんか。」
さう云つて僕は歩き出した。歩るき出し乍ら目できつく、ついてこいと命令したんだ。女はついてきたよ。ついてくるにはきまつてるんだ、ここまでくると。
僕は女が僕のうしろについてくるのを意識し乍ら、とつとと歩いて
君はこんなにも早く身体の関係が出来て了ふといふのは可笑しいと思ふだらう。実際可笑しいよ。可笑しいけれどもあるんだからね。
さてその女と僕との交渉はどの位続いた? 三ケ月。たつた三ケ月だ。陰気な女でねえ。いや、陰気と云つても別段身を悲しむやうな事を口に出して云つたりする女ぢやないけれどね、しかし兎に角陰気なのだ。それは次の手紙を見て呉れれば分るが、で、女の身分か、身分は僕にも
さう云つてBは私にその女の、一年も後になつて突然寄越したといふ手紙を見せた。それは次のやうな文面である。
(妾は最近根岸の主人と別れました。――根岸といふのは女の厄介になつてゐた主人である。――昨晩
「明子さん、あなたは一体此世の中で何が一番
「妾でございますか。妾は只もう何もなしにかうして皆様と御一緒に置いて頂けるのが何よりの楽みでございます。」
さう
「さう、お淋しい方でございますね。
そして奥様は、今にも主人の来るのを待つかのやうに、目を挙げて
しかし、これは妾の夢でございます。夢は覚めれば消えて了ふものではございませんか。――妾は目が覚めてから、別段今の夢と関連して考へたわけでもございませんのでせうが、突然、妙に、まあ自分はなんといふ淫乱な女だらうと、ふと口に出して呟いて了ひました。これは妾が今夢の中で云つた自分の言葉と、実際の自分がして参りました事とを思ひ合はせてふと呟いた事かも知れませんけれど、実は、妾は初めてあなたにお目に掛つた日の事を自分に思ひ出して呟いたのに相違ございません。あの日の事は実は永い間の妾の苦痛となつてをりましたのでございます。突然街上で会つた見も知らぬ男の方に、すぐその日に身体をまかせて了ふなんて。こんな女が他にございませうか。あなたはあの時分、妾をなんと冷やかな陰気な女だとお腹立ちにおなりでしたでせう。けれども実は、妾はあの初めの日の妾の軽るはずみさが、いつまでも私を責め立てて妾に自由な心の熱を与へて呉れませんのでした。人は最初が大事でございます。最初の汚れは二十倍の清めを以つてしても洗ひ落せるものではございません。妾はあなたが妾をお遠のきになり出しました時にも、妾からお引とめするだけの元気がどうしても出ませんでございました。あなたはとうとう妾をお遠のきになつて了ひました。
Bの見せた女の手紙といふのはこれである。Bは私が読み終ると颯爽として云ひ放つた。
「つまり復縁状なんだね。自分を汚した以上自分を捨てるな、といふ意味なんだね。殊に根岸に別れたといふ所などはね。それからまた弁解もあるね、つまり自分は母の為めに犠牲になつたといふ。ね、さうぢやないか。」
「違ふ、違ふ。」
と私はBに皆まで云はせずにその時口を切つた。「君は悪いとり方ばかりをする。さうぢやないんだ。これにはその女の人の苦しみが出てゐる。この人は苦しんでゐるんだ。だがこんな立派な心の人がどうしてそんな誤ちをしたんだらう?」
さう私は口に出して云つたが、またすぐそれを打消すやうにして云つた。
「いや、この誤ちは非常に美しい誤ちだ。この人は自分の夢を実現しようとして君に身をまかせたのだ。何故かと云へばこの人は手紙にも書いてある通り、非常に不運な境遇にゐるので、まだ人の優しい愛を受けた事がなく、秘かにそれに憧れてゐたのだ。けれどもそれが得られないので、黄焼の壷を眺めたり、さういふ静かな楽しみを自分で作つてゐたのだ。彼女はきつと草木を眺めるのも好きだつたらう。また犬や猫やさういふ動物と遊ぶのも好きだつたらう。きつとさうだつたに違ひない。そこへ君が現れたのだ。あの人は君があの人を気に掛けてくれたのが嬉しかつたあまり、ついすぐに身体をも許して了つたのだらう。かういふ誤ちは誰にもある事だ。だが、可哀さうに今ではもう諦めてゐる。他人の愛といふものに諦めてゐる。そしてその代り自分の天国を作つてゐる。かういふ人に幸あれ、だ。」
さう私は叫んで、前の、やはり自分のかねてからの望みを実現しようとして、颱風のすぎたあとの水かさの増した水溜りで、誤つて感電して死んだ男の人の事を思ひ出し、あのやうにして死んだ人もあり、このやうにして生きてゐる人もあると思つたら、なんだか
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/07/06
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