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編集者とは何か

  はじめに

 

 労働力不足や偏在が叫ばれてから既に久しい。出版界といえども例外ではなく、とくに取次、小売店の流通面における労働力不足は出版界にいろいろの問題を投げかけている。とくに過剰返品のロスにまつわり流通形態の選択の問題が大きく提起されてきていることはその最大なるものである。労働力にこと欠かなかった版元においてすらも、編集希望者こそ今もあとをたたないが、営業部門の志願者はやはり少ない。編集優位の思想がここにも現われていると見ることができる。編集者とはそれほど魅力あるものなのかとの疑問は率直にいって私には残る。知的産業の担い手として、外見上エリート意識を充足させるにふさわしい内容を編集の仕事はもっていることはたしかだが、誰も彼もにそれが保証されているわけではない。どうもそこには過大評価があり、大きな幻想があるように思えてならない。学者や作家、藝術家との交流の場が、そして自分の好きな仕事、自分の理想の一部が出版の場で実現できそうだとの甘い考えや錯覚が先行するからであろう。誰も彼もに夢を抱かせる編集の仕事とは、そも何であろうか。

 昭和一二年以来、三五年間の編集者生活の経験を通じて、私には編集者の魅力は一面では分るが、他面ではその魅力の実態に若干の疑問ももたざるをえない。

「編集者とは何か」について書いてみようと思いたったのは、編集希望者の夢を打ちこわそうとの意図からではもちろんなく、ただ漠然と手の汚れない仕事として、エリート意識充足の場として受けとられていることに不安と疑問をもつからにほかならない。編集者の資質なり、資格の問題ももちろんあるが、何よりも編集希望者の最大の要素でなければならない編集の理念といった精神の問題が殆んどないがしろにされていると思えてならないからである。

 

  一 出版社の五つの機能

 編集者とは何かを考えるにあたっては、やはり「出版とは何か」、「出版業の本質について」の理解が先行しなくてはならないと思う。出版業とはまず著者と読者がなくては成り立たないし、どのような著者のどのような内容を選択するか、あるいはそれがほんまものにせものかの識別がまず必要となる。それを印刷・製本その他の協力を得て一冊の本にまとめ、それをもっともいい形で読者の手にわたすために、取次店・小売店の協力が必要になり、またできるだけ読者に情報として内容を知らせるために、宣伝・広告の領域が存在する。それらをすべて円滑に機能させるために営業活動があり、総務の仕事や経理の仕事があるということになる。従って出版社の機能は大別すれば、おおむね次のように分担される。

 一 企画・編集 (著者にかかわる仕事)

 二 出版・製作( 印刷・製本、その他本の完成に関係する校正・装偵・造本の仕事〉

 三 営業( 取次・小売店にかかわり、宣伝・広告の仕事も含まれる)

 四 総務 (文書の接受から始まりすべてに関係する)

 五 経理(著者の印税を含め、取引先との決済、社員の給料その他経理事務一般の仕事)

 編集者の仕事は以上の関係の中で、もっとも基本的に出版社の運命にかかわる部分を占めており、著者との関係において社の体質の形成に大きく作用することは前に述べた通りである。

 その意味で「編集者とは何か」を考えていく揚合、出版の基本的な理念がまず把握されておらねばならぬし、営業活動が順調におこなわれるためにも、企画そのものが重要な意味をもつということになる。

 もっともいい状態とは編集方針が経営方針と合致していることであり、それが営業方針にも反映していくことであろう。出版方針と一般にいっているのは、出版の経営方針を意味するし、その方針いかんは編集方針に反映して、どのような姿勢で企画し、編集し、一冊の本をつくるかということになり、それはまた営業方針にも関係して取引の関係や条件をも決定し、また取引の形態にまで及ぶということにもなる。

 そのような観点から「編集者とは何か」を考えてみる必要があると思う。一般に編集者が、広義の意味における大編集者とどうことなるかについていうならば、前者は企画を含めて編集の仕事を技術的にとらえる人であるのに対して、後者は編集技術を含めて「出版とは何か」の視点に立ってトータルに出版の仕事をとらえることのできる人である。前者が営業とか製作とか宣伝とか経理とかを含めた広義の営業とならんで出版の両輪と考えられているもう一つのものに限定してその枠内での仕事に終始しがちなのに対して、真にすぐれた大編集者とは企画・編集から始まって製作、営業、宣伝にいたる万般について、つまり出版の目的と使命に照らしての出版のありようについてトータルに考えることのできる人だから、むしろ経営者にもなりうる人である。一般に狭義の意味におけるすぐれた編集者とは、企画・編集におけるすぐれた資質の所有者を意味する。その資質はまず、すぐれた著者の発見から始まる。従ってすぐれた著者とは何かが問題になる。

 

  二 編集者の能力とは何か

 「彼はすぐれた編集者だ」とか「彼は編集者としては無能力だ」などの使われ方が出版界ではよくされる。この揚合、狭義の編集者を意味していることはいうまでもない。しかし有能、無能といってもそれをはかる客観的尺度などある筈はないし、ただなんとなくというところである。

 一人の編集者が立てた企画がたまたまあたって、その版元に大きな利益をもたらしたとすれば、その編集者は経営者によってすぐれた編集者と評価され重宝がられるであろう。とくにその経営者が出版の企業性のみを重視するような人であればなおさらである。しかしこの場合、企画段階で文化性よりも企業性を重視する経営方針が既に編集部内に浸透し、許容されているという事情があることに留意しなくてはならない。馬鹿あたりするような内容の出版体質が既に実績としてあるということであって、従来なかった体質の中から、ある日突如としてそのような企画が生まれ出るということは殆んどない。

 それとは全く逆の場合もある。ある編集者がこれは相当いけると考えて立てた企画が、期待に反してさっぱり売れないで会社に損失を与えたとすれば、その編集者は経営者によって無能力者と評価され、爾後軽んぜられることになるかもしれない。従ってこの場合、すぐれた編集者、無能な編集者といっても、それはおのおのの経営体質の中で評価されることであって、この両者を本質的に区別する客観的尺度は何もないといえるだろう。ただあるものはどの程度社の経営に寄与したか否かという点だけである。

 大きな部数などが殆んど期待できず、少部数の積み重ねによってのみ少しずつ成り立って来た学術・専門書出版社となると、事情は全くことなってくる。非常に地道な体質の中で、ある日突然経営に大きく寄与するようなベストセラーが生まれるなどということは殆んどありえない。もしも従来の出版体質とは全く異質な、ベストセラーにでもなりうるような内容が企画されたとしても、それは企画段階で消えて行くのが普通で、もし万一企画が通ってある程度売れたとしても、その編集者がとくに能力あるものと評価されることにはならない。一定の体質の中で企画されるものの中には、時に大きく殻を破り体質を変えていくものが生まれないとはいいきれないが、多くは体質をさらに少しずつ強化するに役立っていくというのがもっとも普通の場合である。たといその売行きが思わしくなくとも、学問の世界、藝術の世界で非常にすぐれた評価をかち得たとすれば、その企画者はやはりすぐれた編集者として社の内外から高く評価されることになるであろう。

 結局編集者の有能、無能の尺度はあるようでないし、ないようであるということにもなる。経営者によって与えられる編集者の評価は、商品価値と文化価値のいずれを重視するかによってきめられる場合が多いので、あまりあてにはならない。それゆえに編集者の能力が評価される前にまず何よりも出版経営者の能力が問われねばならないと思う。結局は、編集方針が経営方針と一致する場合が理想の姿であり、編集者としてはもっとも仕事がやりやすい場合だということになりそうだ。

 先に私は出版社の体質について述べた。編集者はその勤務する出版社の体質との関係で、多くの面で規制を受けることは当然である。どのようにすぐれた資質をもった編集者でも、所を得なければ、その力が開花せず埋れてしまうことになる。社の体質に合って経営に寄与しうる編集者は、その社にとってはすぐれた編集者と評価されても、それがどの社にも普遍性をもって通用することにはならない。編集者の質の比較はきわめて困難である。スポーツのように一堂に会してその力を競い合うことはできないからだ。

 以下私は編集者の役割・任務・資格・未来の課題等についてのべてみたいと思う。

 

  三 編集者の役割と限界

 一口に編集者といっても何十人、何百人と編集員を抱える大手版元もあれば、少人数のところもある。前者にあっては編集員は各領域に分れ、得意の分野を分担し、凡てを掌握する形で編集部長や編集担当の重役がおり、後者にあっては一人で何役もうけもち、何もかもやらねばならない。前者にあっては編集者は間口はせまいが奥行きのある編集者として育って行くことが可能になるが、後者ではそうはいかない。間口だけは広いが奥行きのない編集者にならざるをえない。もちろん各人の資質や努力によっても事情はことなる。大小の規模によって、編集者の内部での役割や任務は種々ことなるといえるが、いずれにしても編集者には共通して三つの側面からその機能が考えられると思う。

 1 著者と出版社(編集者もその成員である)の間にあって、著者の利益代表の役割をにない、同時に出版社の立場に立って著者の理解を深める機能を果すことになる。著者の利益代表といってもそれにはおのずから限界があり、基本的には版元の立場から逃れることはできない。編集者はそのことを銘記しなくてはならない。

 2 出版社内部にあって、営業部をはじめとして社の全部門に対して、出版物に責任をもち、そのすぐれた内容と出版の意味について理解を深める努力が必要である。それによって営業活動を側面から援助することが義務づけられる。

 3 著者と読者の間に立つ出版社を代表して、読者を通じて社会に対し、その内容について責任の一部を負担することが義務づけられる。

 編集者とは好むと好まざるとにかかわりなく、この三点について、著者と読者と社に対して編集者としての責任をもつことが、充分に認識されなくてはならない。

 編集者ができるだけ仕事しやすいように、また能力が開発できるようにすることは経営者の当然の義務である。同時に編集者は社の体質を深く認識し、編集者の限界を充分に自覚し、経営を脅かすような放縦な態度はきびしく自制しなければならぬ。出版の場合は、新聞等の場合とことなり、独立した編集権などはありえないし、すべて経営に属することは当然である。ある程度の自由な企画とその実現が保証されることは、社の発展にとっても必要ではあるが、それにもおのずからきびしい限界があることを知らねばならぬ。編集と経営の相互信頼があくまでも基調でなくてはならないと思う。

 

   四 編集者の資格について

 出版にとってもっとも重要な要素は持続性とでもいうべきものだと思う。一発の売行良好書が企画されたとしても、それが仇花で終るようではあまり意味がない。一時的に経営に寄与することはあっても、持続性がなければ問題は残る。企画力、創造力、情熱・意欲、責任感、誠実さ、あるいは識別能力等々、編集者に要求される要素はいくつもあげることはできるし、それは経営者や編集代表によって、そのなかでとくにどれが重視されるかということはある。しかし目から鼻に抜けるような要領のいい人間は短距離には向いていても、持続性を必要とする書籍出版、とくに専門書出版についてはあまり期待はできない。それはアイディアの勝負といえる雑誌、とくに週刊誌向きの編集者であるといえる。

 無能力では困るが普通でさえあれば、編集者の資格としては、私は何よりも誠実な人間であることが最大の武器と考える。特別の能力がなくても、一年よりも三年、三年よりも五年、 十年と経験をつんでいけば、技術的には一人前の編集者と評価しうるものには多くの人はなれるはずだ。その際十年一日のごとく、こつこつと仕事に打ちこんで変らぬ姿勢で仕事を進めていく人間が、編集者としては対外的にも評価されることになる。何よりも持続性が要求されるのは、著者との人間関係においてであり、その誠実さが高く評価されるのもその意味である。

 編集者の資格の中では、人によって重視する点に相違のあることは当然である。企画力、創造力、事務の処理能力等を含めて、いわゆる才能を重視するのはきわめて一般的であるし、社に対する貢献度からいっても、もっとも目立って評価しやすい点でもある。それらをすべて念頭においてもなおかつ私は編集者の資格の最右翼の一つに、人間の誠実さを据えたいと思う。

 (1)誠実さについて

 これは何も編集者だけに限ったことではなく、営業人にもいえることであり、すべての人間についてもいえることだ。とくに出版業だけに限って要請されることではないと思う。

 戦前は出版社の数も少なかったし、従って編集者も少なかった。何よりも著者と称する人も少なかったから、著者と編集者の人間的交流はきわめて親密であったし、極端にいえば、著者の生活の内部にまで立ち入ってつきあいがあった。公私の別もはっきりしないほどにとけ込むことができた。人間の誠実さだけが何よりも通用する世界がそこには存在したといってもいい。

 しかし戦後はそうもいかなくなった。出版社の数も非常に増加したし、編集者の数もそれにつれていちじるしく増えた。著者も大量に輩出された。著者も編集者も質、量ともに大きく変ってきた。あらゆる点で多様化したといってもいい。誠実さが通用する度合いは確かに減少した。ある意味では著者と編集者の関係は、よくいえば近代化したともいえるが、別の表現ではきわめてドライになったし、ビジネスライクになった。そのことを別に悪いというわけではないし、これだけ出版の世界が拡大すればいろいろの考え方の著者や編集者・出版人が出てくることも決して不思議ではない。何よりも価値観が変ったし、多様化もした。誠実であるよりはむしろ才人である方がもてはやされるようになったし、重宝がられることがしばしばであって、誠実さとは愚直にも通ずると受取られがちになった。前近代的ともいえる著者と編集者との人間関係は、両者にとってわずらわしくもなったし、取引の上ではむしろ邪魔にもなると考える人が多くなった。

 もちろん例外は戦前もあったし、戦後もある。しかし誠実だけでは通用しない状況が生まれてきたし、人間関係を大切に考えるような人は古い人間として、だんだん時代から遠ざけられそうな状況が生まれてきている。世知辛い世の中では誠実さこそが最大であるなどと評価する人間は、今どき経営者としても落第生だと軽蔑されるような雰囲気になった。高度成長をつづけ、人間疎外があたりまえになってきた〈平和で豊かな〉社会では、人間の尊さをはかる価値基準が、才能ある要領のいい人聞に向けられていくのはあるいはいたしかたないことかもしれないが、なんとも情ない気もする。しかしひとたび危機に直面してみると事情は変ってくる。価値基準が狂ってくるからである。危機になるとはじめて光を放ってくる人間がしばしばいることも事実だ。それが誠実な人間の一つの特色でもある。そのような事実を私はこれまでの生涯で幾度も経験したし、とくに未来社二十一年の短い歴史の中でも両三度経験した。

 編集者に求められるいくつかの資格の中で何よりも誠実さが最大だというのには、単に私自身の体質にもとづくからだけではない。前にも述べたごとく、短距離ではない、むしろ終りなきレースである書籍出版については、どう考えても常に同じテンポでゆっくり歩いていく耐久力や持続力が編集者の最大の武器と考えられるからである。決して息切れすることなく、ゆっくりと長い時間を持続して歩むことは、たいへんな能力であると私には考えられるからである。

 (2)理想追求の姿勢について

 いかに誠実な人間であっても、それだけではどうにもならない。理想を求めて進む人間であることは編集者・出版人の最大の必要要素であり、それに誠実さが加わるのでなければ力は半減してしまう。

 誠実な人間を駆って、たとい牛歩であっても前に進ませるものはいったい何か。それは出版にかける情熱であり、理想追求、理想実現の姿勢であると私は考える。理想と現実のズレを埋めることは決して容易ではないし、まさにアシルと亀の子のようなものであり、至難のことであるかもしれない。出版におけるその理想やそれにかける情熱はさまざまである。人によっては社会の変革や人間の変革にかける夢や情熱であるかもしれない。あるいは他の人にとっては文学や藝術における美の追求であるかもしれない。しかしいずれにしても現実に甘んぜず、現実を変革していこうとする情熱は、結局編集者・出版人にとってもっとも大きな要素であり、それに欠ける編集者は先ず出版にたずさわる資格をもつことはできないと私には思える。それゆえに私は、人間の誠実さと並んで、いやそれ以上に理想に生きる人間をきわめて高く評価する。編集者の資格としてたとい少々の才能や能力があったとしても、それが何ほどの意味をもつだろうかと私は思う。

 われわれの世界では、編集者も営業人も、極言すれば経営者まで含めて、技術偏重があまりにも横行している。理想を失った人間があまりにも多くなってきた。売れさえすればなんでもよい、経営が豊かにさえなればよい、そして給料が多く貰えて、豊かな生活 ができれば何を出版しようが一向にかまわないという人間が多くなり出した。一種のサラリーマン化が出版界にも生まれている。何のために出版するかといった使命感などはあまり問われなくなってきた。理想を失った出版経営者というのはいったい何だろうかと私には思えてならない。たとい商売人としては稚拙であっても、そしてそれが軽蔑されることであっても、少なくとも出版とは利潤追求だけではない筈だし、それが出版を他の企業といちじるしく区別するゆえんであると考えれば、やはり出版にとって理想追求の姿勢は最大の要素ではないか、と私はいいたい。

 (3)識別能力について

 よくあの人はほんものだ、いやにせものだといった云い方をする。一人の人間の人格にかかわることをそう単純にきめつけることには非常に大きな問題があることはたしかだ。そう簡単に判断がくだせるものではないし、第一判断の基準もきわめてあいまいであり、非科学的で、主観的に過ぎない。ほんものと判断した人が、案外ほんものではなかったり、あるいは逆の場合もある。それゆえ人間に対する価値判断は軽々になさるべきではないと思う。

 しかし今日のように著者といえる人間が数多く輩出し、すべての著者に万遍なく対処していくことがむつかしくなってくれば、そこには何らかの意味で選択が働かねばならないし、このことは逆に著者の側からの版元選択においても当然といいうることであろう。

 出版社としては、やはりいろいろの基準を設けて、すぐれた著者のすぐれた著書を選択して出版しようと懸命の努力を払うことは当然であり、いかなる出版社もそう心がけるであろう。それが情報過多時代の読者に対する出版社の責任でもあるということになる。従って編集者は何らかの識別能力をもつことを心がけねばならないと思う。自分で判断ができない時はなおさらのこと、既にほんものとして通用しているすぐれた著者の正確な評価が得られるよう、自分のまわりにたえず相談できる著者を、少なくとも複数準備することが重要であり、それができればたいへん幸いであると思う。ほんものにせものを識別する能力は、いろいろの機会を通じ、多くの経験を通じ、身を以って感得する以外にはないといえるが、それでもなお不充分であることはしばしばある。そのためには細心の注意を払い、できるだけ時間をかけて慎重になされねばならぬと思う。

 複数のすぐれた著者から高く評価されるような人は、殆んど間違いないことを経験は強く教えている。情実を廃し、客観的に正確に評価しうる著者をまず選択することこそが、編集者の不充分さを補完することにもなるので、編集者の第一の重大な関門であるということになる。

 自己顕示的に、あるいは売行きの良さ(教科書等に使うという口実で)を豪語したり、押付けたりするような著者は、まずほんものでないことは、過去の経験からいって殆んど間違いないといえる。ほんとうに実力ある著者は、決してそのような態度はとらないし、話し合っているなかで、その実力はおのずから反映してくるものである。たとえば学術・専門書の場合などは、著者の「はしがき」や「あとがき」、目次、引用文献などによっても、ある程度の識別が可能であるともいえる。

 すぐれた内容かどうか細部にわたっての理解がたといできなくとも、大まかな判断は、経験によってもできないことはない。編集者にはほんものにせものの大まかな識別能力だけはやはり必要であるように思う。

 (4)状況の判断力について

 識別能力とは別に著者との諸関係のなかで、出版社の現状を踏まえて流動的に、しかるべく対処していく判断の能力も編集者には必要である。いつの場合でも著者との関係で、すべてほんものばかりが出版できるとは限らないし、にせものでさえなければややほんものらしいということで、状況に応じて仕事を引受けなくてはならない場合もないとはいえない。時に応じて、経営の立場から著者との関係を調整していくことが要請される場合もある。たとえば出版条件の決定もその一つであり、出版の刊行時期や部数や定価についても配慮しなくてはならない事もあって、それらに流動的に対処しつつ、著者の信頼を裏切らないようにとりしきっていくことも必要である。これは決して手練手管などといった技術ではなくて、経営的感覚で判断する能力であり、それによって経営に消極的ながら寄与する判断であるということができる。

 (5)企画力、創造力、責任感、事務処理能力等々について

 もちろん編集者としては以上の能力はすべて必要でない筈はない。しかし考えてみれば、たとえば企画力、創造力……など、いわゆる能力に属する部分は、その編集者が真に仕事に情熱を感じ、理想に生きるタイプの人間であれば、おのずから、企画力、創造力もそれに応じて生まれてくるであろうし、責任感や、事務の処理能力などは、結局誠実な編集者であれば、ある程度発揮していける筈である。誠実な編集者が、無責任に事務処理を怠るなどということはとうてい考えられないからだ。

 従って私は、編集者の資格については、やはり前述のごとく、まず理想主義者であること、誠実であること、そして能力としては識別能力をもつことだけで充分こと足りると考えざるを得ない。以上の三点は、何度も繰返すが、編集者だけの特別の資格ではなく、人間としていついかなる場合でも誰もが身につけたい点であろうと私は考える。

 

   五 編集者はどうあるべきか

 

 編集者が本来具えているべき資格のいくつかについては既にのべた。これとは別に、編集者が日常的に企画編集をすすめていく過程で、こうあって欲しい、あるいはこのような姿勢が基本的に必要ではないか、と思われる若干についてふれてみたいと思う。ややないものねだりの感もあり、誰も彼もにそれが期待できるわけではないが、そして経営者の立場からすれば、むしろ迷惑だということもないとはいえないが、やはり一言のべておくことは無意味ではないと思う。長い編集者生活を経験してきた私の個人的考え方や、体質にもとづいていることでもあるから、編集者一般に対して望むべきことではないかもしれない。しかし私は編集者の基本姿勢をこう考えて仕事をすすめてきたし、今もすすめているし、おそらく今後も変ることはないであろう。その意味で、若干参考にもなりうると思うし、人によってはそこから何がしかの教訓を引き出すこともできるのではないかと思う。その中にはもちろん編集者一般にとって普遍的な問題もあれば、特殊なものもある。

 既に明らかなように、私自身は中・小版元の立場に立つ人間だから、どうしても中・小版元の編集者を念頭におくことになるのはいたし方ない。それゆえたとい編集者一般を意図したとしても、それはもともと無理ということになる。また中・小版元といっても、主として一般啓蒙書、文学書などの版元というよりも、むしろ学術・専門書の版元の立場で発言することになるのはこれまたいたし方ない。その点あらかじめことわっておきたい。

 (1)可能性の発見について

 先に私は編集者の識別能力について、すなわちほんものにせものの識別がいかに重要であるかについてのべた。その意味は主として既に顕在化している著者の能力について評価する場合のことであった。しかし未だ潜在している著者の可能性について判断することは、編集者にとっては別の機能である。この場合その可能性を含め、客観的評価について、かなり広い範囲で慎重細心なデータの蒐集が必要であると思う。編集者個人の力だけでとうていなしうることではないから、不断に強い関心をもちつづけながら独自の方法で開拓していくことが必要である。

 (2)賭の精神について

 (1)と関連して著者の可能性を考える場合、やはりある種の賭の精神が必要となってくる。できるだけ客観的に科学的にデータを集めながら、最終的にはある種の決断が必要となり、結果的には賭の精神が作用することになる。賭といえば、たいへん聞えが悪いが、いってみれば著者に対する先行投資の考えである。既に完成した著者を選択することは三つの意味においてかなり問題もあり、困難をともなう。

 その一は、完成した著者の場合は、他の出版社と競合関係に入らざるをえないし、その場合出版条件等によって有力版元のがかなり大きく作用するものと考えられるから、中・小版元の立場はきわめて不利である。

 その二は、完成した著者の場合は、過去の蓄積が評価されることが多く、第一義的な著書を期待することは中・小版元にとっては殆んど不可能で、実質的には過去の遺産を少しずつ排泄していく場合が多く、問題意識に富む野心的な著述は期待できない。もちろん例外もあり、たえず精進をつづけるすぐれた著者もいる。年齢の問題ではない。若くして大成し、そのまま虚像として名声だけが残り、著作活動が停滞してしまう人もあれば、生涯その思想の柔軟性によって著作活動をつづけていく人もあって一概にはきめられない。

 その三は、未完成ではあっても、可能性を秘めて著作活動をつづける著者がある。その全力投球によって問題提起が将来にわたって、大きく期待できる人である。知名度こそたしかに低いし、企業的にはなかなか成り立ちにくいが、その先行投資は、多少時間がかかっても必ずいつか回収されると期待される場合である。出版社の真のエネルギーは、先行投資にあると私は考える。大成した過去の遺産にだけ依存する場合、なるほど危険は少ないが、企業としての発展性に乏しいし、エネルギーも見出せない。一方で経営の安定を維持しながら、他方で先行投資をつづけないと、出版社の将来には、活力がなくなってくる。この問題は口でいうほど簡単ではなく、下手すると企業の存立をも脅かすことにもなりかねない重要な問題である。

 出版の魅力は、一つには可能性の発見にあると私が考えるのは、先行投資が回収にまわるときの喜びがあるからであり、他の企業には絶対に考えられない喜びであると思う。出版が他の企業とことなって魅力をもつのは、まさにそこにあるといいたい。

 (3)禁欲精神について

 一見賭の精神と矛盾するが、問題は、売れさえすれば何でもよいという誘惑を、どこでいかに禁欲していくかということである。著名な著者で企業的に充分成り立つという保証があれば、経営の安定のために、つい内容が二番せんじでも妥協しようと考えがちである。出版社の体質を考え、少しずつでもその強化をはかろうとしないならば、危機に臨んで体質が暴露されることになるであろう。そのチェックの機能は編集者と経営者の重要な課題でもある。

 (4)影響力ある著者の選択について

 著者にはおおむね二つの型がある。その一つは著書それ自身は、たいへんすぐれて高く評価されても、その影響力が僅かにその周辺にしか及ばない場合であり、他はその影響力が先輩、同輩、後進にまでひろく及ぶ場合である。研究対象や専攻領域によってそれはおのずから決定されていくことである。前者は個別的研究の成果を生み、主として学問ための学問という狭い範囲になりがちであるのに対して、後者は強い問題意識にささえられた領域の場合によく見られる。その著書がそれ自身重要な意味をもつばかりでなく、後進や同輩にも大きな刺激になるような著者の場合は、それによって多くの副産物が期待されることになる。だからといってすぐれた著書であるかぎり、たとい影響力が少ないからといって無視していい筈はない。そのかねあいはたしかにむつかしい。出版社の無限の発展をねがうならば、いずれを重視すべきかはおのずから判然とすることであると思う。数ある中からどのような著者を、どう発見し選択するかが重要であると私はいいたい。

 (5)白と原色の論理について

 著者の数も出版社も多くなり、読者の需要も多様化して出版物が巷に氾濫しているこの頃では、よほどの人気ある著者や、社会的に関心のもたれるテーマに出逢わないかぎり、そして巨大な宣伝力でももたないかぎり、大部分の出版物はほんの短かい期間だけで、流通市場から消え失せ、闇から闇に葬られがちである。売れっ子を追ったり、あたる企画の模倣にあけくれすることになるのはやむをえない。世は既に選択の時代に入っているといわれている。宣伝力ももたない中・小版元はどうしてもそれに対応して独自の方法を考えねば、競争場裡から消されてしまうことになる。宣伝力を含めて資本の力で大手に対抗することは不可能であることがあまりにもあきらかだとすれば、結局商品それ自身の質の力によって対抗していく以外には方法はない。かつて私は「未来」誌上でそのことに言及したが、その状況は今も全く変っていない。価値観の分裂と多様化によって選択のきびしさがいよいよ増大してきていると思う。よほどの心構えがないと、事態はいよいよ中・小版元にとって不利な時代に入りつつある。そこで私は、再び編集者の姿勢として、他社と競合せず、模倣を拒むユニークな企画によって、たといそれが少部数であっても、それなりに経営の成り立つ道を探しながら、独自の道を進むべきだと考える。既に多くの中・小版元はそれなりにその道を模索しつづけ苦闘しており、その道がきわめて困難であることを、身をもって知っている。「白と原色の論理」と私がいう意味は、模倣と競合を拒否する論理である。中・小版元は、数歩先んずる企画をもって出発しても、模倣の余地を残す限り、後発の大手版元によって直ちに追跡され、宣伝の威力によって、たちまち競争場裡で悲運を味わうことになるであろうし、まして他社の企画の類似品ではなおさら勝負にならない。独自の企画で他社より数歩先んずるか、あるいは他より遥かにおくれて進むか、いずれにしても大手版元との関係で存在をあきらかにしうる道を考えねばならないと思う。

 広告の場合によくある例だが、同じような形式の広告が、前後・左右にならんでいる時は、相互が同時に存在をあきらかにすることは困難だから、結局は前後・左右の広告の形式を見据えて、他社によって浮きぼりするような形式を見出すことは、お互いに効果あることだと思う。

 「白と原色の論理」の中で、私がいおうとしていることは、一言でいえば、自己の存在をあきらかにするための論理であって、これ以上るる述べる必要もないと思う。この論理は決して奇をてらうということでもなければ自己顕示ということでもない。ましてや時代や歴史にさからうということではさらさらない。他社のやらない、あるいはやれない(企業的に採算がとれないから)ことだけをみみっちく探してやるということでもなおさらない。やはり信念をもって先行投資する精神につながることだと思う。

 (6)運動体の意識、又は一プラス一は二プラスアルファということについて

 ここでいう運動体の意識とは、狭義の政治運動・社会運動の意識というよりは、思想を含め広義の文化運動の意識のことである。編集者は常に企画を通して読者に対し運動の意識をもつことになるのは当然であるが、ここでは直接企画とはかかわらないところで、問題を考えてみたい。それはいってみれば、専門領域のことなった複数の著者の結合体がもたらすであろうプラスアルファを、運動体の意識で捉えるということである。一つの企業体の中で、とくに編集活動の中で、運動体の意識を貫くことはたいへんむつかしい。運動体の意識とは、すなわち、理想追求の別の表現でもあるわけだ。編集者は数多くの著者とのつながりの中でもっとも多くの情報をもち、著者の可能性をもっとも多く知っている立場である。専門領域がことなるために、お互いが知り合わないすぐれた著者を結びつけることによって生まれてくるプラスアルファを、何らかの形に組織することは、編集者活動の一つの魅力ではないだろうか。

 編集者がすぐれた著者の発見につとめると同時に運動体の意識をもって、すぐれた著者同士の結合によって新しくアルファが生まれることを期待しつつ、それによって新しい文化の創造のために寄与せんとつとめることは、たいへん意味あることと思う。その版元に、それは直ちに利益をもたらすとは限らないから、あまりにそのことに首をつっこみすぎることは企業の立場からは好ましからざることになるので、口でいうほどそれは簡単なことではない。しかし少なくとも一つの理想像をもつことによって、たえず新しい価値を創造せんとの目標をもつことは、編集者の生き甲斐にもつながることではないか。経営者はそれに最大限協力を惜んではならないと思う。

 (7)編集者の未来像について

 出版界の長い歴史を見てくると、出版経営者の殆んど大部分が、従来営業畑から生まれてきていることに気がつく。経営の才能とは金融操作のうまさとか、営業面での取引のうまさとか、概して、技術的な意味で経営術のうまさと考えられ、そういう人が経営の任にあたってきた(もっとも出版界には今なお世襲的な傾向はあるが)。しかしもはや理想をもたない経営者は経営者としては適格とはいえないのではないか。公害に対して企業の姿勢と責任が問われる時代である。一言でいうならば出版の理想にもえ、確乎とした出版理念をもった編集者の中から、新しい出版経営者が待望される時代に入ってきているのではないだろうか。出版界の方向は、次第にそのような人間を求めだしているように思えてならない。取引や営業の技術は経験によって獲得することができる。しかし、理想追求の姿勢は、技術によってもとめることはできない。出版の世界とは、結局すぐれた読者を獲得するために、すぐれた商品を生み出すことによってしか勝負することができない世界である。すぐれた商品を開発し、商品それ自身の力によって生成発展せんと願う人間群によって出版界は支配されていくのではないか。理想に生き、企画を大切に考え、確乎とした出版の理念のもとに読者と密着した姿勢こそが、出版経営者の最大の要素となるのではないだろうか。

 (8)商品の追跡姿勢について

  編集者には当然自分が企画し製作した商品が、はたして読者の手に届いたかどうかを最後まで見届けるだけの姿勢が必要であり、営業部門の人に委ねっ放しであってはならない。当然、広告・宣伝から販売にまで気をくばるべきであるが、従来編集者にはそのような追跡姿勢が欠如していた。これは編集者として重大な欠陥である。

 

   結びにかえて

 「編集者とは何か」についてその資質・機能から、その役割と限界、そのあるべき姿と未来像まで含めて若干の感想をのべてみた。実は私自身にも未だ「編集者とは何か」が分っているわけではないし、その概念規定は決して単純ではない。人おのおのの考え方があり、編集者とはこうだとはきめられないものをもっている。ただ私は編集者とはこうあるべきだし、こうあって欲しいと自分にもいいきかせながら、このテーマに取組んでみたまでのことである。著者から原稿をもらい、割付けして、校正を見て一冊の本につくりあげる技術だけが編集者の仕事では決してないと私はいいたいのである。一冊の本を生み出すにいたるまでに、形にはならないそれ以前の問題がたくさんあって、むしろそこにこそ「編集者とは何か」の問題が秘められているのではないかと私には思えてならないのである。

 「編集者とは何か」をつきつめていくと、結局は出版社の体質の形成にかかわる問題にぶつかるし、同時にそれは「出版経営者とは何か」、同じメーカーといわれながらも、他の企業とそれはどうことなるのか、の解明にまでいかざるを得ないと思う。

 従って「出版経営者とは何か」を考える中で「編集者とは何か」の問題が補完されていくことになるのではないか。この問題については改めて考えていくことにしたい。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/02/04

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西谷 能雄

ニシタニ ヨシオ
にしたに よしお 出版者 1913・9・8~1995・4・29 新潟県佐渡に生まれる。大学を了えて弘文堂入社、編集部長を経て1951(昭和26)年社会科学書出版の未来社創業。書籍の注文制(買い切り)の実施など、戦後の出版界の近代化と出版論の論陣を張る。

掲載作は、「未来」1972(昭和47)年12月より翌2月号に初出、中小専門書出版の立場からという限界を強く突き抜いて、「編集者」論として極めて誠実かつ犀利な理解を示して輝いている。

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