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寝袋の子守歌

     一

 秋葉原で下車し、電気屋が(のき)をならべる駅頭へ歩み出ると、(ひたい)に冷たい物が当った。日暮までにはまだ間があるのに、各ビルの屋上や側壁に取付けられたネオンサインは、早くも原色の光を周囲に放射しはじめている。それがやけにちらついて見えると思ったら、雪が舞っているのだった。

 わたしはレインコートの(えり)を立て、左手で襟元を押えながら歩き続け、ほどなく昭和通りに出た。頭上に高速道路の高架を見ながら右に折れ、百メートル余り進んだところで、突然道の両側の家並みがとぎれた。神田川にかかる和泉橋(いずみばし)欄干(らんかん)が目の前にあった。

『ヤマザキ登山具店』は、橋のたもとに身を縮めるようにして建っていた。まわりの建物があらかた高層ビル化した中で、ヤマザキ登山具店だけは、十数年前と同じ二階建の木造家屋だ。しいて変ったところをさがすとすれば、外壁のモルタルが排気ガスを吸い込んで、黄土色から褐色に変色したことぐらいである。だがこれも、わたしがそう思っただけのことで、あるいは昔からこんな色だったのかも知れない。

 古色蒼然たる外観とは裏腹に、店内は存外モダンだった。入口付近には、色とりどりのリュックサックが飾られ、その隣には、同じようにカラフルな登山用ロープが天井から床に滝のように垂れ下っている。ほかに、登山靴、ピッケル、炊事用具などが、それぞれのコーナーに手際良(てぎわよ)くならべられていた。

 店主の山崎信雄は、胡麻塩(ごましお)頭を乗せた広い背中を入口に向けて、親子連れの客に何やら熱心に説明していた。わたしは彼が商売を終えるまで声をかけるのを待とうと思い、あらためて商品を飾ってある壁を見やった。目の前に、円筒形の袋に入ったスリーピングバッグが、山のように積んである。もっとも、寝袋を英語でスリーピングバッグと呼ぶのは、わたしを含めたごく一部の者で、日本ではドイツ語のシュラフザックのほうがよほど通りがいい。

 そして、ヤマザキ登山具店の主山崎信雄も、寝袋をスリーピングバッグと呼ぶ、数少ない山道具屋のひとりである。すくなくとも、わたしが前回彼に会った、四年ほど前まではそうだった。

「おう、来てくれたか。遠い所を、すまなかったな」

 ゴアテックス表地、完全防水、価格六万五千円というタッグをつけられた寝袋を見て、ある種の感慨にふけっていたわたしの耳元で、山崎の声がした。けっして小声でしゃべっているわけではないのだが、響きがなくて聞き取りにくい声だ。図体が大きいのにこそこそしゃべる、あいつは陰険だと、商売仲間に評される原因は、この声にあるとわたしは思っている。

 実際の山崎は、陰険どころか、そうとうのお人良しだ。さもなければ、現在彼が直面しているような局面に出会うはずがないのだ。

「ここじゃなんだから、ちょっと二階に上ってくれるか」

 (はち)字眉(じまゆ)の間に軽くしわをよせ、小さな眼をしょぼつかせながら山崎が言った。過去十数年間、四、五年おきに思い出したように顔をあわせて来たが、今回はじめて、わたしは彼の年齢を感じた。わたしが四十路(よそじ)にさしかかった今、彼は五十代のなかばに達している。

 店の奥にあるドアを押して、見覚えのある廊下に出た。昔、全身に米軍放出寝袋のにおいをしみこませたわたしが行き来した廊下だ。激変した店先と違って、ここはほとんど変っていない。廊下を満たしている空気のにおいが、やりきれないあの悪臭から、最新の化学繊維の香りになったぐらいだ。

 廊下が昔の作業場――今は在庫品置場になっている――につきあたる直前の右側に、二階に上る階段がある。わたしは山崎の後について、その階段を上った。

 階段を上りきったところにある八畳間が、山崎の居室になっている。その隣が、ひとり娘の照子の部屋だ。ともに和室なので、そのまま寝室としても使えるようになっている。

 ずいぶん(もう)かっているはずなのに、山崎の部屋は昔と同じように質素だった。飾りらしい飾りといえば、窓のそばの壁に張られた、取引銀行のネーム入りカレンダーだけである。窓からは、どんよりと(よど)んだ神田川の水面を見下せる。

 部屋の中央部の畳の色がわずかに白っぽいのは、以前そこに部分敷きの絨毯(じゅうたん)が敷かれていた名残(なご)りである。彼と同居していた照子の母が、やはり居間は洋風がいいわと言って、四畳半程度の大きさを持つ絨毯を畳の上に敷き、その上に小型の応接セットを置いた。前回わたしがここに来た時は、赤地に黒で幾何学的な模様を織り込んだ絨毯が敷いてあった。

 山崎は三年ほど前に彼女と別れたが、その間の詳しい事情については、わたしはほとんど知らない。わたしが知っているのは、女が家を出て行き、娘が彼のもとに残ったという点だけだ。

 あの時も山崎はわたしのところに電話して来た。そして、「ちょっとまいったけど、まあしかたがないやな。あいつは娘を連れて行こうとしたけど、照子がガンとして聞かなかったんだ。あたしはパパといっしょがいいってね」と、奇妙に明るい声で言った。

 その山崎が、今深刻な顔つきでわたしの前にあぐらをかいている。彼はいきなり畳の上に両手をつき、忙しいのにすまん、と言って頭を下げた。

「やめてくれよ、山崎さん。俺もぼつぼつあんたの顔を見たいと思いはじめたところだったんだ。後でひさしぶりにいっぱいやろうか」

 彼の気持をひきたてるように、わたしは軽薄な調子で、そう言った。昨夜の電話のふんいきから、彼がそんな気分でないことはわかっている。山崎は電話でこう言ったのだ。

「娘が――照子がいなくなった。頼む。助けてくれ」

 わたしと山崎の出会いは、今から十七年前の、一九六九年夏までさかのぼる。当時わたしは、二年余りのアメリカ大陸放浪から帰国したばかりだった。そして、こうしたドロップアウターの例にもれず、たちまち世間の冷い風にさらされた。秩序と規律を何よりも重んじる日本の社会では、放浪者すなわち浮浪者なのだ。外国でヒッピーまがいの生活を送って来た者に、手を差しのべてくれる企業などあるはずがなかった。

 しかし、たとえわが身ひとつとはいえ、日々の生活は厳然としてある。食って行くための何がしかが必要で、その算段をせねばならない。さりとて、今さら親をあてにすることも出来なかった。

 ――また肉体労働のアルバイトをして、当面の時間をやりすごすしかないな。

 そう思って、仕事をさがしはじめて二、三日後、朝昼兼用の食事を取るために入った定食屋で、奇妙な求人広告を見つけた。スポーツ専門紙H新聞の求人欄に、こんな三行広告が()っていたのだ。

《営業部員急募当方登山用品卸及小売英会話出来る方優遇固給四万上ワイ・ケー商事》

 以上のような内容で、この後に秋葉原という所在地名と、電話番号が記入してあった。わたしの目を引いたのは、四万円という当時の大学初任給をだいぶ上まわる固定給と、英会話出来る方優遇という部分だった。経験や学歴については一文字も書いてないから、おそらく不問ということだろう。とりあえず必要なのは、英会話の能力らしい。二年以上もアメリカ大陸をうろついていると、いやおうなしに多少の会話は出来るようになる。また、登山用品についても、極地を徘徊(はいかい)している当時、それに類する物をさんざん使ったから、いちおうの知識はある。

 ――こいつは、俺のためにあるような仕事だ。

 眼の前が明るくなった。急いで食事をすませ、食堂の前にある赤電話の前に立った。相手は無愛想な口ぶりで、英語は話せるのかと聞いて来た。やはり、英語力が第一条件だった。声が浮き立つのをかろうじてこらえ、上手(じょうず)ではありませんが、日常会話ていどなら困りませんと答えた。その言い方が良かったらしく、相手は口調をあらためて、すぐ来て下さいと言った。

 そうやって呼びつけられた場所が、現在は『ヤマザキ登山具店』の看板がかかっているしもた屋だった。それがワイ・ケー商事であることを示す目印は、入口脇の柱に張付けられた山崎の名刺だけだったので、見つけるのにだいぶ苦労させられた。

 ようやくその建物を発見した時は、すでに午後二時近くなっていた。あたりにはすさまじいドブの(にお)いが充満している。夏の太陽に照らされたドス黒い神田川の水面に、ひっきりなしに水泡がわき上って来るのが見えた。この頃は、もっとも公害がひどい時代だった。

 入口のガラス戸をわずかに開いて、外の陽光に馴染(なじ)んだ眼には薄暗く見える室内に声をかけた。

「ごめん下さい」

 すぐに、どうぞという声が応じた。かすれた、響きの良くない声だった。身体が通れるくらいに引戸を開き、室内に入った。内部は外よりもさらに暑かった。空気がよどんでいて、ドブの臭いもいっそうきつくなったように思われた。

 そこはおよそ十畳ほどの広さを持つ板の間で、部屋の中央に古ぼけた木机がふたつ、向い合わせに置いてあった。入口から見て右手には銭湯(せんとう)の脱衣場にあるような棚があって、濃緑色の軍隊用寝袋、エアー・マット、水筒などが乱雑につめこまれていた。ひと眼で米軍放出品とわかる品々である。

ふたつの机の合せ目に、カバーがはずれてファンがむき出しになった扇風機が置いてあり、きしみ音をたてながら首を振っていた。しかし、それはただ、熱をたっぷりと含んだ空気をかきまぜているだけで、(りょう)を取る()しになっていなかった。

 机の真上に、天井から円形の蛍光灯がぶらさがっている。それは夏の昼下がりだというのに点灯されて、青白い不健康な光で部屋の中を照らし出していた。

「早く戸をしめてくれませんか。車の音がうるさくてかなわん」

 右側の机に座ってタバコを吸っていた大柄の男が手を振りながらそう言った。そして、緩慢な動作でタバコを灰皿にねじりつけてから、もっさりと立ちあがった。

「スリーピングバッグですか?」

 わたしはあわてて首を振った。

「いえ、私は客じゃないです。新聞の求人広告を見て、先ほど電話した者ですが」

「ああ、あの電話の人か。いや、電話の声から想像したより若い人なんで、てっきり客かと思った。ここのところ、学生の客がやたら多いもんでね」

「最近こういう店は少ないでしょうからね」

 わたしは適当にあいづちを打った。一瞥(いちべつ)しただけで気が滅入(めい)りそうになる事務所だが、四万円の固定給を払ってくれるとならば、そんなことぐらいがまんせねばならない。

「それで、あんたは英語ができるんだって?」

「はあ」

「そうか――悪いが、ちょっとテストさせてもらうよ。ヘイ、ケニー!」

 男は急に声を張って、神田川に面した小さな窓の方に顔を向けた。すかさず、その声に応答があった。眼の前の男とは対照的に、太くて張りのあるバリトンだった。

「ハウ・ファック・ユウ・ドゥーイング、バディー?(やあ、景気はどうだい、相棒)」

 日本の学校では絶対に学べない、小汚(こぎたな)いスラングの英語でそう言いながら、わたしの前にひとりの黒人が忽然(こつぜん)と湧き出て来た。それはまさに、湧き出たという以外に表現のしようがない登場のしかただった。あとでわかったことだが、この黒人はずっと窓際の板壁に寄りかかって、わたしが表通りから入って来るのを見ていたのだった。しかし、わたしは、窓から差し込む夏の光に眩惑されて、その脇の暗がりにいた彼に気がつかなかったのだ。

 気が遠くなるような暑さなのに、彼は黒っぽいスーツに身をつつんでいた。だから、よけい目立たなかったのだ。わたしは一瞬とまどったが、すぐさまこれに、同じスラングでやり返すにかぎると思い定めた。

「ファックキング・ノー・グッド(いいわけがねえよ)。アイ・ファックド・アップ……(ドジをやっちまって)」

「ガッデム・ウァット・ファック・ユウ・デッド?(何やったんだよ)」

「こら、ちょっと待て」

 最初に声をかけて来た日本人が割って入って来た。

「ファック、ファックって、いいかげんにしろ。ちったあまともな英語でしゃべりあえ。脇で聞いていて気分が悪くなる」

 流暢(りゅうちょう)でないもののきちんと通じる英語だった。ただ、東南アジア人によく見られる、ピジン・イングリッシュ風のなまりがある話し方である。

「いや、ヤマザーキ、この人の英語力が本物かどうか(ためす)には、今みたいな軍隊式のしゃべり方が一番なのさ」

 糸のように細く()り込んだ鼻の下の(ひげ)に手をやりながら、黒人が言い返した。黒人にしては小柄な男だった。わたしよりも背が低そうだから、せいぜい一メートル七十ぐらいだろう。そして彼は、やせていた。身体だけでなく顔も鋭くそげている。充血した大きな眼と厚い唇だけが、やたらと目立つ顔だ。年齢は日本人の相棒より十歳近く下の三十前後と、わたしは見当をつけた。

「何が軍隊式だ、ちくしょう」

 日本人がそうつぶやいてからわたしの方に顔を向け、東南アジア風の英語に切換えて聞いて来た。

「君、英語はどこで覚えた?」

「実は、ついこないだまでアメリカにいました」

「アメリカどこだ?」

「西部一帯と、ファー・ノース(北の果て)です」

「北の果て?」

「アラスカの北西部をうろうろしてました」

「そんな所で、何してたんだ」

 今度はまともなしゃべり方で、黒人が割込んで来た。

「遊んでいました」

 わたしは正直に答えた。とりつくろって見たところで、どうしょうもない相手だとわかったからだった。何をして遊んでいた? どのくらいいた?  仕事をしたことは? ……日本人と黒人が、交互に英語でたたみかけて来るのに、わたしはてきぱきと答えて行った。

 やがて、もういい、と日本人が言った。

「明日から来てくれ。言い遅れたが、わたしは山崎信雄という者だ。そして、この男はケニー・サラウェイだ。ついこないだまでアメリカ海兵隊(マリンコープ)軍曹(サージ)だったが、今は除隊してわたしを手伝ってくれている」

 黒人が白い歯を見せて笑いながらわたしの手を握り、また、ハウ・ファック・ユウ・ドゥーイングと言った。

 翌日から、わたしは『ワイ・ケー商事』に通いはじめた。

「君の仕事は、仕入れと商品整理だ。とりあえず、ケニーに仕事を教わってくれ」

 出社したわたしの顔を見るなり、山崎が言った。わたしは、わかりました、とうなずいてから、自分の席をさがした。仕事が何であれ、机ぐらいは与えられると思ったのだ。アルバイトではなく、正社員としてやとわれたのだから、そう考えて当然だった。

 そんなわたしの気配(けはい)を、山崎が察した。

「あ、君の居場所はここじゃない。仕入れ係は出歩くことが多いから、机などいらないんだ。だいいち、ここはこんなに狭いしな。とりあえず、商品整理場のほうに小さなデスクがあるから、それを使っていてくれ」

 そう言うと、彼は先に立って、わたしをその商品整理場なる場所へつれて行った。靴を脱ぎ、事務室から奥へ通じる廊下を進む。ものの十メートルも進むと、かつては台所であったらしい流し台のある部屋に行きあたった。

 流しの脇に、ひと目でアメリカ製とわかる巨大な洗濯機が二台、ならべて置かれていた。その隣には、洗い終った物を乾かす、これも巨大なドライヤーが一台。床の上には、あきらかに洗濯前とわかる汚れた寝袋や衣類が、無造作(むぞうさ)に放り出してあった。

 ドブの臭いとは異質の、干物(ひもの)が腐ったような臭気が格段に強くなった。山崎が汚れ物の山をかきわけると、下から古びた布張りのテーブルが姿を現わした。

「当面、これで我慢してくれ」

「これは――アイロン台じゃないですか」

 山崎は、ちょっとばつが悪そうな顔をしたが、すぐに開きなおったような口調で、とりあえずこれで我慢してくれと繰返した。

 わたしも、それ以上机ごときにこだわってもしかたがない、と思いなおした。そして、もし何かやることがあるならやります、と言った。

 山崎はうなずいて、汚れ物の山に(あご)をしゃくった。

「じゃあ、さっそくはじめてもらおうか。これを洗って乾かしてくれ」

 わたしは驚いて聞き返した。

「わたしが、洗うんですか?」

「そうだ」と、山崎は当然のように答えて、事務室のほうに立ち去ろうとした。わたしはあわてて、その広い背中を呼び止めた。まるで話が違う。

「ちょっと待って下さい。仕事はたしか、仕入れ係と聞いたように思うんですが」

「ああ、そのとおりだ。うちの仕入れ係の仕事は、品物の買付(かいつ)けから汚れ落し、(いた)んだ個所の補修まで含むんだ。なにしろ見てのとおりの零細企業だ。ひとりあたりの守備範囲が広いのはしかたのないことだ」

「社員は何人いるんです?」

「三人だけだよ。社長の俺と顧問のケニー、そして君だ」

 えらい所ヘ来てしまったと後悔したが、あとのまつりである。しかたがない、とりあえず最初の給料をもらうまでは、がまんして勤めようと腹を決めた。

「あ、そうそう」

 いったん立ち去りかけた山崎が、立ち止って振り向いた。

「洗剤はケチらずにたっぷり使え。本来羽毛製品に強い洗剤を使ってはいけないのだが、ここじゃそんなことを言ってられないんだ。とにかく徹底的に洗って、汚れや臭気を取り去ってくれ」

 それだけ言うと、山崎は肩をゆすりながら薄暗い廊下を遠ざかって行った。

 わたしは、ワイシャツの腕をまくって汚れ物に立ち向った。全体の九割が寝袋で、残りは迷彩服やフランネル地の軍用ズボンなどの衣類だった。こういった物を、わたしはいちいち仕分けせずに、家庭用の風呂桶ほどの水槽を持つ洗濯機にどんどん放り込んだ。洗濯物をかかえあげるごとに、干物が腐ったような異臭が鼻腔(びこう)を直撃した。

 ――いったい、何の臭いだろう。こんなことを続けていたら、これが自分の体臭になってしまいはしないだろうか。それにしても、洗ったぐらいでこの臭いがなくなるだろうか。

 そんなことを思いつつ、作業を続けた。そのうちに、水槽がいっぱいになった。タイマーを最長に合わせ、始動スイッチを入れる。やがて、水槽に水が注入される音がし始めた。同じようにして、もう一台の洗濯機にも洗い物をつめこんで始動した。洗濯機が回り出すと、何もすることがなくなった。気がつくと、全身汗みどろになっていた。洗いあがるまでの間、扇風機に当って涼を取ることにして、狭い廊下を事務所まで戻った。

 扇風機の風はなまぬるくて、汗を引かす助けにはならなかった。だが、すくなくとも事務所では、あの強烈な臭いを()がずにすむだけましである。わたしが作業をしている間に、ケニーと名のった黒人は外出したらしく、事務所には山崎ひとりが残っていた。

「あの洗濯物はものすごい臭いがしますね。中の羽毛が腐っているんじゃないですかね。それとも、汗がしみこんでいるのかな」

 わたしはしかつめらしい表情で帳簿をにらみつけている山崎に声をかけた。山崎は帳簿に眼をあてたまま、そのうち慣れるさ、と小さな声で答えた。それから、急に何か忘れ物を思い出したように顔をあげて、正面からわたしを見つめた。

「そのために、ていねいに洗う必要があるんだよ。なにしろ、あれは商品だからな。洗い終ったら、衣類はドライヤーにかけて乾かしていいが、寝袋は外に出して一日日光にさらすんだ。それでも内部の羽毛に水気が残るから、最後にドライヤーで仕上げる、という段取りだ」

「外って、あんな物、どこに干すんです?」

「洗濯機の横に勝手口があるだろう。あそこから、裏の空地に出られる。すると、目の前に神田川の護岸堤防があるから、その上に寝袋をかけておけば、夕方までにはほとんど乾いてしまう。しかしそのままでは風に飛ばされてしまったりするから、コンクリートブロックの重しを乗せておくことを忘れないように」

 図体に似あわず、こまごまとした事柄までわたしに注意してから、山崎はまた帳簿に眼を落した。

 こうして、名目上は仕入れ担当の営業マンだが、実質は洗濯係という、奇妙なサラリーマン生活がはじまった。

     二

 アメリカでしばらく放浪生活を送ったせいか、わたしはこの頃すでに、人づきあいという点では年齢不相応にスレていた。常に自分と周辺にいる人々との距離をはかっているようなところがあって、相手なり自分なりがそこからもう一歩踏み込みそうになると、無意識のうちに身を引いて、相手との距離を保った。

 山崎もわたしと似たところがあって、毎日事務所で顔をつきあわせるようになっても、必要なこと以外は言葉をかけてこなかった。ケニーに至っては、事務所にいることのほうがめずらしく、日に一回顔を見せれば良いほうだった。そして二言三言山崎と言葉を(かわ)すと、またふらりと外へ出て行って、それっきり戻って来なかった。そんなケニーが、わずかに長居するのは、週に一度、ダークブルーの幌付(ほろつき)小型トラックが、米軍放出の寝袋や衣類を満載して来る時だけだった。トラックはアルファベットのYではじまる、アメリカ駐留軍ナンバーをつけていた。

 この車が来ると、"仕入れ係"のわたしは、猫の手も借りたいほど忙しくなる。例の悪臭と闘いながら、膨大な量の寝袋や衣類をひとりで洗い上げるのだ。

 こうして、毎週小型トラック一台分の放出物資が入荷するのだが、それらはあっという間にはけて行った。とりわけ寝袋の売れ足は早かった。国産の寝袋がなかったわけではない。米軍放出の寝袋しか無かったのは昭和三十年代前半までで、この頃はもう、カラフルな化繊綿入りの寝袋が出まわっていた。それなのに、ワイ・ケー商事の放出寝袋が飛ぶように売れるのは、なによりも安いからだった。新品の化繊綿入り寝袋の二分の一から三分の一、冬山登山用の羽毛入り寝袋とくらべれば、実に丸ひとつ少ない価格で買える。

 だから、客筋としては、わたしより年下の学生が圧倒的に多かった。中には、大型のキスリングザックを持って来て、ひとりで四個も五個も買って行く者もいた。しかし、どう見ても山岳部やワンゲル部員らしからぬ青白い若者が多いので、一度山崎に聞いてみたことがある。

「ああやってひとりで何個も買って行ってどうするんですか?  誰かに売って儲けるんですかね」

「そうじゃない。あれは、バリストで籠城(ろうじょう)している連中が、ふとんがわりに使うんだ」

「へえ、そんな使い道があったんですか」

 わたしは自分の無知を(わら)った。たった二年間留守にしただけなのに、まるで今浦島だ。この一年間、日本中で大学紛争の嵐が吹き荒れていた。ベトナム戦争の激化にともない、各大学での反戦運動が先鋭化した。日大や東大では学園の民主化をめぐって闘争が長期化し、なかば閉鎖状態が続いていた。

 こうした事態を打開しようと、国会では大学運営臨時措置法が抜き打ち採決された。これが火に油を注いだ形になり、八月以降ストに入った大学は、実に百九校に達していた。くわえて、アスパック (アジア太平洋協議会)や翌年に迫った安保条約の改定など、騒乱のタネにはこと欠かなかった。

 わたしが洗った米軍放出寝袋は、こうした学生たちに買われていたのである。

 こんな具合だから、山崎やケニーは、笑いが止まらぬほど儲かっていたはずである。しかしその(かせ)ぎの一端を(にな)っているわたしには、何の見返りもなかった。ただ求人広告の文面どおり、月額四万円という、このころとしてはいささか高い給料をもらっただけであった。一般の会社の上司が部下によくやるように、飲みに連れて行ってもらったことも、秋口までは一度もなかった。だが、山崎とケニーは、時折ふたりで飲んでいたらしい。翌日彼らが事務所で顔を合わせた時のやりとりから、そう察しをつけることが出来た。

 はじめて山崎が飲みに誘ってくれたのは、わたしがワイ・ケー商事で働きはじめてから、かれこれ一ヵ月以上たった九月中旬の夕刻だった。(こよみ)の上ではすでに秋だが、東京の下町のこの付近では、まだ残暑がきびしかった。

 だから山崎に、ビールでもいっぱいどうだと言われた時はうれしかった。そして、社長お(とも)しますなどと、使い慣れないおためごかしまで言って、尻尾(しっぽ)を振りながら彼の後について行ったのだ。この時は、ここ何日か顔を見せないケニーのことなど、きれいに忘れていた。

 山崎がわたしに、そのケニーのことを思い出させたのは、和泉橋を渡り、昭和通りを神田方向に向って歩いている時だった。

「先週からケニーがサイゴンに出かけているのでね」

 それはまるで、ケニーが留守だから、こうしてお前を連れて行くんだぞとでも言いたげな、恩着せがましい言い方だった。しかし、そんな山崎の言い方とは関係なく、わたしはケニーの行先に興味をいだいた。

「サイゴンですか? でも、彼はもう除隊になったんでしょう?  それとも状況がだいぶきびしくなったので、再応召したのかな。アメリカでは、今そういう志願兵を優遇しますから」

「そんな事じゃない。奴はウチの用事で行ったんだ」

 そう言いながら、山崎は右手に口をあけている路地に踏み込んで行った。それは、和泉橋のたもとから数えて二本目の路地だった。

「今頃ベトナムに商用で出かけたんですか? 」

 わたしの質問に山崎はしばらく無言のまま()を進めていたが、やがてぽつりと、「買付けだよ。日本国内では、タマ不足になって来たんだ」と言った。

「なんだ、仕入れですか。だったら、俺も行けばよかったな」

 嫌味を含んだわたしの軽口にはもう返事をせず、山崎は足を止めた。わたしたちの目の前に、ところどころ茶色いニスが()げかけた、小さなドアがあった。頭上に、『リーベ』とカタカナで横書きされた看板がかかっている。

 山崎はそのドアを押し、大きな肩をすぼめるようにして中に入って行った。わたしも彼の後に続いた。

「あら、いらっしゃい。今日は早いのね」

 店の奥から、女の声が飛んで来た。まるでウナギの寝床のような店だった。間口は一間(約一・八メートル)しかないのに、奥行はざっと七、八メートルはある。むろん、席はカウンターのみである。

 時間が早いせいか、客はわたしたちだけだった。山崎は、二十席ほどあるとまり木のほぼまん中付近に腰をおろし、眼顔でわたしに自分の隣にすわるよう指示した。わたしたちが席につくのを待っていたかのように、カウンターの奥から先ほどの声の主が姿を現わした。

 やや顎の張った大柄な女で、鼻の右脇に大きなホクロがあった。両眼の間で鼻梁が極端に低くなっているので、顔全体が平たく見える。しかし、間隔の広い大きな二重瞼(ふたえまぶた)の目のせいで、見ようによっては男好きのする顔と言えた。きつくパーマがかかった頭頂部の毛髪を、流行の淡い紫色に染めている。年齢は三十歳前後と、わたしは見当をつけた。

「とりあえずビールになさる?」

 ママの問いに、山崎がうなずいた。

「そうしてくれ。おい、君もそれでいいだろう?  あ、そうだ、君ははじめてだったな。こちらは当店のママの平田和江さん。ママ、こいつはひと月ほど前に入社した新入りだ。せいぜいかわいがってやってくれ。ウチに来る前は、アメリカをふらついていたんだそうだ」

「ほんとう? アメリカはどちらにいらしたの?」

 背後の冷蔵庫の扉を開き、ビールを取り出すために身をかがめながらママが聞いて来た。

「あちこちにいました。南はサンディエゴから、北はアラスカまで――」

「あら、サンディエゴにも? あの人、サンディエゴで生れたのよ。あたしはまだ行ったことがないけどね」

 すべての事情を()みこんでいる者に対して話しているような言い方だった。わたしはすこしばかり当惑して、山崎の顔を見やった。彼なら、ママが話題にしている〝あの人〟について、ある程度の知識があるだろうと思ったのだ。ところが山崎は、かすかに表情をこわばらせたまま何も言わなかった。

 しかたなくわたしは、彼女に直接聞いてみることにした。

「あの人……ですか?」

「あ、そうか。あなたは新入りさんだったんだわね。ごめんなさい。わたしは、おたくでお世話になっているケニーの女房なの。もっとも籍は入ってないから、いわゆる内縁関係っていうやつね」

 平田和江はそう言って、くったくなく笑った。笑うと、糸切歯(いときりば)にかぶせた金冠が光った。

「なんだ、ママはケニーさんの奥さんですか。それならそうと教えといてくれればいいのに。社長も人が悪いなぁ」

 わたしは冗談めかしてそう言いながら、また山崎の横顔を見やった。彼はようやく笑顔になり、そうか、まだ君には言ってなかったなとつぶやいたが、その笑いの陰には先刻のこわばった表情が残っていた。

 カウンターの中の平田和江は、山崎のそんな表情やわたしの斟酌(しんしゃく)にまるで気がつかない風に、サンディエゴの様子などを陽気に質問して来た。彼女とわたしが話している間、山崎は会話に加わろうとはせず、ひとりで黙々とグラスを傾けていた。やがて平田和江がそれに気づき、彼を話に引込みにかかった。

「出かける前あの人は、十日間ぐらいで帰れると言っていたけれど、ほんとうにその程度で帰れるの?」「ケニーがそう言ってるんだから、そうなんだろう」

 山崎は、気のない調子でそう言って、(から)になったグラスにビールをつぎ足した。これには和江もきぶんを害したらしく、(いど)みかかるような口調になった。

「そうなんだろうって、それはないんじゃない、山崎ちゃん。今度の旅は、サイゴンだけじゃなくて、ダナン方面にも足を向けるってケニーは言ってたわ。そうさせたのは社長のあなたよ。あの方面についてあなたほどくわしい人は日本にいないわ。ダナン付近は今、ずいぶんあぶないんでしょ?」

「俺がベトナムに詳しいなんて、昔のことだ。最近は何がどうなっているのか、まるでわからないよ。このごろの状況については、ケニーのほうがくわしい」

「そんなことを言ってるんじゃないわ」

 和江の口調がいっそうとがった。

「仕入れが思うにまかせないからと言って、あんな最前線の野戦病院にまで手を伸ばす必要があるの?  だいたい、あんた方のやっていることはハイエナと同じよ。でも、ハイエナだろうがコヨーテだろうが、ケニーはわたしの亭主だわ。心配して当然でしょう」

「しかし、ケニーは前線でドンパチやってるわけじゃないんだぜ」

「たいしてかわらないわよ。このごろは、政府軍の中にもVC がずいぶんもぐりこんでいるっていうじゃない。そんな奴に、ケニーがやられでもしたらどうしてくれるのよ」

 やりとりがしだいに険悪になって来た。ベトコンをVC などと、米軍用語で呼ぶなんて、さすがケニーの女房だと感心しながら、わたしはふたりの間に割って入った。

「これは驚いた。社長はベトナムに行ったことがあるんですか? 」

「行ったことがあるどころか、この人は向こうに住んでいたのよ」

 平田和江が意気込んで言った。

「あなたでなくても信じられないわよね。あのサープラス屋の親方が、実は敏腕の戦争カメラマンだったなんてね。これでも山崎ちゃんは、この次のピューリッツァー 賞は絶対彼だ、と言われた時期さえあるのよ」

「へっ?」

 わたしは心底驚いて、山崎の横顔をまじまじと見つめた。そんなわたしの驚きを楽しむように、平田和江はしばらく無言のまま、わたしと山崎を見くらべていた。そして、

「それにしてもあなた、自分の上司のことなのに、よくよく何も知らないのね。ひょっとすると、今自分が何をやっているか、どんな仕事をしているのかさえ気がついていないんじゃない?」

 と言った。

 わたしは苦笑して、それはもう、身にしみて良くわかっています、毎日強烈な臭いの中で寝袋その他を洗っていますからと答えた。平田和江は、じれったそうに首を振った。

「あたしの言ってるのは、そんなことじゃないの。あなたが洗っているそういったもろもろの物は、どういう素姓(すじょう)の物か知ってますかと聞いてるの」

「ママ、いいかげんにしろ。よけいなことは言わんでくれ」

 突然、山崎がそれまでとは違った声音(こわね)でそう言った。いつもの彼の声とは違って、妙に威圧感のある、よく響く声だった。しかし、平田和江はその声にもひるむ様子を見せなかった。

「あら、いずれわかることじゃないの。どんなにカンの悪い人だって、毎日やっていればそのうち気がつくわ」

 そう山崎に言い返してから、彼女はわたしに視線をあてたまま、いっきにまくしたてた。

「あなたが洗っているあの寝袋はね、ベトナムの前線で戦死した軍人を包んだ寝袋よ。彼らの血をたっぷりと吸っていて、普通なら焼却処分にされるはずの物なの。それをただ同然の値段で横流しさせ、洗って商品に仕立てるなんて、戦争の現場にいた者でなければとうてい思いつかないことだわ。山崎ちゃんとかウチの人のように、死人に対する感覚が麻痺した人だけが出来ることよ」

 わたしは愕然(がくぜん)としながらも、さもありなんと思った。事実今の仕事にありついて以来、自分が洗っている品物には、ずっとうさんくさい思いをいだきながら接して来たのだ。あの強烈な臭気だけではなく、時折内側に、大きなシミを持つ寝袋を見かけることもあった。

 それにしても、とわたしはふいに笑いたくなった。ベトナム反戦を叫んでバリケードにたてこもっている学生たちが、自分が使っている寝袋が、ベトナム戦争の死者から引剥がした物だと知ったらどんな顔をするだろうか。

「ここから先はケニーからの受売りだけどね、戦死者の身体は宝の山みたいなものだそうよ。将校クラスは駄目だけどね。彼らは荷物などろくに持っていないから。(あさ)りがいがあるのは、プライベートEI、つまり二等兵よね、それかプライベートE_、そしてコーポラルと呼ばれる伍長ぐらいまでだって。彼らが背負っているリュックには、寝袋――サイゴン付近の南部の低地では、寝袋のかわりにブランケットが入っているらしいけど――の他、エアー・マット、ポンチョ、ガスマスク、野戦食、弾丸二百発が入っているし、腰のベルトには手榴弾が四個、弾倉、水筒がぶらさがっているわ。そして手にはMテン…… いえ、M16だったかな、とにかくそういう自動ライフルを持っているわけでしょう。どれひとつとして、お金にならない物はないのよ」

 話している間いつのまにか平田和江も飲みはじめていた。彼女の話に耳を傾けながら、わたしはていねいに刈込まれた口髭を持つ、ケニーの顔を思い出した。ケニーは、あの髭の手入れをしながら、こんなぶっそうな話を和江に吹き込むのだろうか。

 わたしにとって()しがたいのは、その後の山崎の態度だった。一度だけ和江のおしゃべりをおさえにかかったが、彼女に反撃されると、それっきり黙ってしまった。まるでそんなわたしの気持を見抜いたかのように、和江はカウンターに顎を乗せて山崎の顔をすくいあげるようにのぞきこみ、歌うような調子でこう言った。

「山ちゃんは、あたしに()れてんだもんねぇ。照子だって、まだふたつになったばかりなのに、あまり家に居つかないケニーより、おやつやおもちゃをいっぱい買ってくれる山崎のおじちゃんのほうが好きだって。だからもし、ケニーがベトナムから帰ってこなかったら、あたしたち母娘(おやこ)は山ちゃんにめんどう見てもらうんだ」

 わたしはこの時はじめて、ケニーと彼女の間に照子という名の二歳になる女の子がいることを知った。そして実際に、ケニーはベトナムから帰って来なかった。出かけて行ったきり、行方不明になってしまったのである。

     三

「お前さんも良く知っているように、俺は照子に対して、ふつうの親父並みのことはやって来たつもりだ。もちろん血がつながっていないぶん、娘の気持に対して行きとどかなかったことは多々あるだろうけどな。しかし、今になってこんな形でいなくなられるとは思わなかった。去年の春に高校を出てからは、店の仕事も良く手伝ってくれていたんだ」

 山崎は、慣れた手付きで茶を入れ、わたしにすすめながらそう言った。わたしは、そんな彼の手元を、わびしい気持で見つめていた。 そうした山崎の動作は、彼の孤独を何よりも雄弁に語っていたからだ。

 わたしは山崎が、照子をどれほど可愛がっていたかを知っている。それは彼が言うようなふつうの親父並みなどというものではなく、ほとんど溺愛(できあい)と言ってよかった。

 あの頃、わたしは平田和江の言葉を、冗談ないし酒の上での()(ごと)だと思っていた。いくら山崎が彼女に好意を持っているからと言っても、和江にとっての彼は亭主の友人であり、商売仲間である。まさか本当に、山崎のもとに(ころ)がりこむとは思っていなかった。だから、和江と照子の母娘が、ワイ・ケー商事二階に引越して来た時には肝をつぶした。しかし驚いたのは部外者のわたしだけで、当人たちはしごく当然という様子だった。

 山崎と同居してからも、平田和江は夜の勤めをやめなかった。そして、これも当然のような顔をして、自分が仕事をしている間の照子の子守りを、山崎にまかせた。昼間の仕事で疲れ切っているはずなのに、山崎は(いや)な顔ひとつせずに照子を引受けた。

「俺、山崎さんが照ちゃんを当時買ったばかりの車の助手席に乗せて、深夜ドライブに出ているのに出くわしたことがあるよ。いっぱいやった帰りに和泉橋近くの横断歩道で信号待ちしていたら、目の前に山崎さんのスバル三六〇が停車したんだ。助手席には、照ちゃんが小さな口を開けて眠っていた。かれこれ夜中の十二時近かったので、俺は驚いて声をかけた。こんな時間、何してるんですかって。そしたらあなたが、娘とふたりで涼むために走り廻っていると答えたんで、二度びっくりしちゃった」

「俺はまだ、家にクーラーを付けられる身分じゃなかったんでね。娘とふたりでてっとり早く涼を取るには、あれしか方法がなかったんだよ。それにしても、妙なところを見られたもんだ」

 山崎はそう言って、なつかしそうに視線を宙に漂よわせた。しかし、山崎の気持は別にして、彼のこのせりふは正確でない。この深夜ドライブは涼を取るためなどではなく、仕事から帰ってこない母親を(した)って泣く照子を寝かしつけるための手段であった。わたしはそのことを知っていたが、涼みに出ていたという彼の説明をそのまま聞くことにした。

 夏だけではない。冬は商品の放出寝袋に照子を入れ、背もたれを倒した助手席に乗せて、むずかるのをやめて寝つくまで夜の街を走りまわっていた。

 そうやって文字通り宝物のようにして育てたから、照子は山崎によくなついた。照子は父のケニーの血を色濃く受継いでいて、ひと目で黒人系の混血児とわかる子供だった。短く縮れた髪、コーヒー色の肌、良く動く黒くて大きな目。ぶ厚い唇。まるで、すこし前に流行したダッコちゃん人形のようだった。照子を山崎が連れて歩くと、ぶしつけな視線が彼らに集中した。しかし彼は平然とそれを無視し、なおいっそうの愛情を照子に注いだ。

 そんな風にして育てられた照子だから、三年前に母が山崎と別れた時、血のつながりのない山崎の方に照子が残ったのは、ある意味で当然だったとも言える。

 その照子に出て行かれた山崎は、わたしの前でも憔悴(しょうすい)をかくそうとしなかった。山崎は剛直な性格で、自分の身辺の些事(さじ)について、軽々しく他人に相談を持ちかけるような男ではない。それが、かつては気心を許しあった部下であり、退職後もそれなりに行き来している仲だとはいえ、今やけっして身近とは言えない存在のわたしに電話をかけて来て、助けてくれとまで言った。それを受けて、わたしはのこのこ出かけて来た。

 だが実際のところ、わたしには彼を助けてやれる力もすべもないのである。しょせんは彼ら親子の問題なのだ。わたしに出来ることは、彼の話を聞いてやり、その孤独をいくばくかでも癒やしてやることだけだ。

「娘さん……照ちゃんはいつ家を出た?」

「一月二十八日だ。今日でちょうど二週間になる」

 わたしの質問に、山崎は即座にそう答えた。わたしはまた、彼を(あわ)れに思った。この二週間というもの、今日帰って来るか、明日はどうだと、毎日家の出入口を見つめ続けたにちがいない。それにしても、照子はなぜ、出て行ったのだろうか。白人との混血ならいざ知らず、日本は彼女のような黒人系混血児にとって、けっして居心地のいい社会ではない。山崎のような最高の庇護者のふところから出て、いったいどこへ行こうというのだ。そう考えるうちに、山崎に対する憐憫(れんびん)とは別の心配が頭をもたげて来た。

「山崎さん、あんたの気持を逆撫(さかな)でするような事を言うが、捜索願は出したのかい? 高校を出、店の仕事をしていたとはいえ、照ちゃんはまだ未成年だろう? それが家を出てから二週間も音沙汰なしというのは問題だぞ。(ちまた)には、そういう娘を食い物にする(やから)がゴマンといるからな。まして照ちゃんは――」

 毛色がすこし変っているからよけいあぶないと言いそうになって、わたしはあわててその言葉を呑み込んだ。

 しかし山崎は、わたしの問いにすぐには答えず、しばらく額に手をあてて思案をしていた。やがて、たださえ聞き取りにくい声をいっそうひそめて、ぼそりと言った。

「たぶんあいつは、和江の所にいると、俺は思う」

「和江? ――ああ、前の奥さんの所か。だったら心配ないじゃないの」

 わたしはすこし拍子抜(ひょうしぬ)けがした。娘が出て行った、助けてくれと言うから、てっきり行方がわからなくて動顛(どうてん)しているだろうと思った。だから、とるものもとりあえず駆けつけて来たのだ。

 ばかばかしい、心配して飛んで来て損をした。そんなわたしの気持を敏感に察したのだろう。山崎はあわてたようにすこし早口になった。

「お前はそう言うが、俺にとっては行方不明になったのとたいして変らないんだ。なにしろむこうは血を分けた親子だからな。このまま放っておくと、照子は俺のことなど見向きもしなくなるだろう」

 まさか、そんなことはないさと言いながら、わたしも心の底では山崎と同じ意見だった。母親が押しかけて来て、無理矢理照子を連れて行ったのなら話は別だ。まだ照子を取り戻せる可能性はある。何と言っても、彼女をこれまで養育したという実績があるのだから。

 しかし、娘本人が母のもとに走り、母親も親権を主張して照子をかかえこんだとなると、法的には言うにおよばず、情状の面からも山崎に勝ち目はなくなる。そして目下の彼の状況は、まさにそれなのだと、わたしは思った。

 返事のしようがなくなったわたしは、間の悪い気持を冷えた茶とともに飲み下した。そして思い切って、山崎に言ってやった。

「これはもう、照ちゃんの気持しだいだろうと思うよ。つらいだろうが、しばらく様子を見るしかないんじゃないか。何があったかは知らないが、彼女がまた、あんたが親父としてやってくれたことを思い出せば、戻ってこようという気になるかもしれない。今あんたが押しかけて行って、強引(ごういん)に連れ戻そうとしても無駄だと思うよ」

「それはよくわかっている」

 山崎は、いくぶん落着きを取戻した表情でそう言った。

「あの()が嫌がるのにさからってまで、そばに置いておきたいとは思っていない。ただ、今一度だけ聞いてみたいのだ。どうしてここから出て行きたくなったのか、と」

「あんた、その点についてほんとに心あたりがないの? 」

 わたしはいささかあきれてそう聞き返した。口に出して言わないだけで、彼は当然、娘に(そむ)かれた理由がわかっているものと思っていた。照子の性格についてはよく知らないが、あんなに可愛がってくれた山崎に、わけもなく後足(あとあし)で砂をかけて出て行くような娘とは思えない。

 しかし、山崎は首を横に振った。

「こうやってわざわざ来てもらっているんだ。俺の側になにか覚えがあるのなら、とっくに説明している。だけど、ほんとに何もないんだよ。考えられることはただひとつ、血のつながり。これだけだ」

「そんなものかねえ」

 その説明に同意していないしるしに、わたしは首をかしげてそう言った。もし山崎が言うようなことなら、何も無断で家出同然に出て行くことはないのではないか。ひとこと、母親の顔を見たくなったからしばらく向うに行くと言えば、それですむことだ。高校を出て店の手伝いをしているくらいの娘だもの、それぐらいの知恵はあるだろう。

「それでだ」と、山崎はわたしの思いには関係なく、急に強引な口調になった。

「恥さらしついでにしゃべってしまうが、三年前和江は、自分より十歳も年下の男とデキて、俺の元を去った。そんな母親だったからこそ、照子も俺といっしょにいることを望んだのだと思う。しかし、時間がたてばそこは親子だ。だからさっきも言ったように、無理に連れ戻そうという気はない。ただ、確かめたいのだ。といって、それを俺自身がやるわけにはいかない。男を作って逃げた女房と、それを追って行った娘のもとに出向いて頭を下げるのは、いくらなんでもみじめすぎる。向うには向うの家庭もあることだしな……」

 ここまで聞いて、わたしは山崎が自分を呼んだわけをはっきりと(さと)った。要するに彼は、自分のかわりにわたしに行ってほしいのだ。わたしなら、平田和江――かつてはそうだったが、あるいはもう、姓がかわっているかも知れない――と照子の母子ともに、よく知った間柄だ。たしかに、もしこの話に部外者が介入するとすれば、わたし以上の適任者はいないかも知れない。

「わかったよ、山崎さん。俺が、和江さんと照ちゃんに会おう。それでいいんだろ?」

 苦笑混じりにそう言うと、こわばっていた山崎の顔がにわかに崩れた。

 その次の日曜日、わたしはひさしぶりの家庭サービスを期待していた家族の不平を押し切って、和江と照子の母子に会いに出かけた。ふところの定期入の中には、彼女たちの住所を書いた紙片が入っている。それには山崎の字でこう(しる)されていた。

《神奈川県相模原(さがみはら)市上新戸××番地》

 地図で調べると、この地名は米軍座間キャンプに隣接して見つかった。わたしは小田急で厚木まで行き、そこで相模線に乗換えた。相模川ぞいに北上して、相武台下(そうぶだいした)で降りる。駅前の繁華街を抜け、およそ十五分ほども歩いたところが上新戸だった。

 ちょうど警官が自転車に乗って巡回しているのに出会ったので、所番地を告げてめざす家のあり場所を聞いた。

「ああ、これはハウスですな」

 その警官は、前方の家並みを指差しながら言った。

「ハウス?」

「ほら、アメリカの軍人さん相手に賃貸する目的で建てられた、あちら風の住宅ですよ」

 教えられた場所へ行ってみて、警官があちら風と言ったわけがわかった。かつてアメリカ西部から北部にかけてうろついていた頃、町はずれのあまり高級とはいえない住宅地で見かけた家に良く似たバラックが、道路の両側にぽつりぽつりと建っている。

 建てられてからだいぶ年数がたっているらしく、どの建物も外壁に塗られた白ペンキが剥げかけて来ている。玄関口や軒下に貼られているはずの所番地を示す金属片も、大半が脱落して無くなっていた。それで、一軒一軒表札をのぞいて回るという手間を()いられた。

 そうやって、わたしはようやく、平田和江、照子と記された小さな表札を玄関脇にかかげたハウスを見つけ出した。照子が来てからあらたに作りなおした表札らしく、それは家本体とはふつりあいなほど新しかった。

 そしてわたしは、この表札にもうひとりの名前を見出した。それにはカタカナと英文の両方で、ケニー・サラウェイと書かれていた。

 ――なるほど、平田和江は今、座間キャンプの米軍軍人といっしょに生活しているのか。彼が山崎が言うところの、十歳も年下の男なのか。

 そう思いつつ、この家の敷地に踏み込んで行きかけて、わたしはその場に棒立ちになった。ケニー・サラウェイ! 平田和江の内縁の夫で、十数年前ベトナムのダナン方面に出かけたまま消息を絶った、あのケニーと同姓同名ではないか。

 庭先のパーキングには、かつて見なれたアルファベットのYではじまる、米軍人ナンバーをつけた旧型のブルーバードが駐車している。ある種の恐怖に似た感覚が、意識の奥深いところから湧きあがって来た。それをどうにかおさえつけて車の脇を通り抜け、玄関口に立った。

 わずかにためらった後、ドアの脇にある呼鈴(よびりん)を押す。遠くでチャイムの音がし、女性の声の返事がそれに続いた。廊下を歩く足音が近づいて来て、やがてドアが開いた。

 わたしの眼の前に、あの平田和江が立っていた。昔淡い紫色に染めていた髪の毛は、白髪混じりの黒髪に変っている。しかし鼻の右脇のホクロや、よく動く二重の大きな眼などはわたしの記憶のままだった。

「何か……?」

 地味な背広にくたびれたレインコート姿のわたしを、訪問販売の物売りか勧誘員と思ったらしい。和江は早くも眼に拒絶の色を浮べている。

「平田さん」

 まさか昔のようにママと呼ぶわけにはいかないので、わたしは彼女の苗字(みようじ)を口にした。

「覚えてますか? わたし、以前ワイ・ケー商事にいた――」

 あ、と和江の大きな眼がさらに大きく見開かれた。そして、早口でちょっと待ってねと言う

と、英語に切換えて廊下の奥に向って叫んだ。

「あんた、早く出てらっしゃい。めずらしい人が来たわよ」

 ヤア、と野太い声の返事があって、パジャマの上にエンジのガウンをはおった、初老の黒人が姿を現わした。短く刈込んだ頭はほとんど銀髪と言ってよく、鼻の下にたくわえた糸のように細い髭も、褐色の肌の上にくっきりと目立っている。

 昔よりだいぶ太り、目の下に大きな袋が出来、頬が顔の両側にたれ下ってはいるが、間違いなくあのケニー・サラウェイだった。彼は一瞬目を細めるようにしてわたしを見つめた後、ゆったりとした笑いを浮べて右手をさしだした。

「アメイズィング!(これは驚いた) ハウ・ファック・ユウ・ドゥーイング・ボーイ?」

 わたしは中に招じ入れられ、すすめられるままに居間に上った。居間は二十五、六畳の広さを持つ板張りの洋間だった。玄関に近い方にはがっしりとした造りのソファが置かれ、奥の台所につながる一画に、ややアンティックな感じのダイニング・テーブルがある。木肌がむき出しの壁には、小さなパネルに張った写真がたくさん飾られている。わたしの記憶にある、アメリカ庶民家庭そのままのインテリアだった。

「わたしたちも驚いたけど、あんたも驚いたでしょう?」

 コーヒーをすすめながら、和江が言った。

「わたしが、別れたはずのこの人といっしょにいるんだから。山ちゃんもいい人だけど、わたしはけっきょく、この人が忘れられなかったのよねえ。娘の親父でもあるしさ」

 和江は山崎といっしょになった当時の自分をわたしに知られているだけに、いささか弁解口調でその後のいきさつを説明しはじめた。その脇にケニーが、いい匂いのするシガーをくゆらせながら座っている。

「あの頃この人は、アメリカに妻子がいたのね。それで一度はわたしをあきらめて、アメリカに帰ったの。そのやり口がにくいのよねえ。わたしにはベトナムに出張すると言っておきながら、その実アメリカのサンディエゴにいる妻子の元へ帰っていたの。こっちはベトナムへ行ったきり消息不明になったと信じこんでいるから、これはてっきり現地で死んじゃったと思うでしょう。そんなこと、当時はちっともめずらしくなかったもの。そうやってあたしをだましたケニーも悪いけど、口裏をあわせた山ちゃんはもっと悪いわよね。この人の手助けをするふりをして、あたしを乗っ取ったんだから。でもケニーのむこうの奥さんが亡くなって、彼があたしの元に戻って来たことで、すべては終りよ」

 信じられないような話だった。同時にわたしは、和江の話にかすかにひっかかるものを感じた。わたしは今でも、山崎といっしょに『リーベ』に行った夜のことを鮮明におぼえている。ケニーが"ベトナム"に出かけてまだ何日もたっていないのに、和江は早くも、もしケニーがいなくなったらというようなせりふを口にして、山崎にしなだれかかっていた。あの時点で彼女は、ケニーが自分から離れて行ったことを知っていたのではないのか。

 そこでわたしは、すこし意地の悪いことを言ってやった。

「山崎さんは、あなたが十歳年下の男とどうにかなって、家を出て行ったと言ってましたよ」

「あたしが?  十歳年下の男と?」

 和江は目を丸くして問い返して来たが、やがて苦笑を浮べながら言った。

「ケニーの息子が、航空母艦のミッドウエーに乗っていてね、たまたま休暇で上陸した時、わたしの引越しを手伝ってくれたの。あたしが山ちゃんの所から出て来る時のことよ。きっと、そのことを言ってるんだわ。それにしても、変ねえ。彼はもちろん、わたしがまた、ケニーと生活しはじめたのを知っているのに。だから娘を返してよこしたのよ」

「なんだって……?」

 わたしは驚いて和江の顔を見つめた。

「それ、ほんとですか?」

「あたりまえじゃない。こんなことであんたに(うそ)ついてもしかたがないわよ」

 たしかに、嘘をついている顔ではなかった。わたしはしばらく腕を組んで考えこんでしまった。和江の言葉どおりとすれば、山崎は和江たちと話合い、納得(なっとく)ずくで照子を返してよこした、ということになる。なのにどうして、わたしには家出をして母の元に走ったという言い方をしたのだろうか。

 わたしが考えをまとめる前に、和江が答を出してくれた。

「さっきからどうも変だと思ってたんだけど、ひょっとしてあなた、山崎に頼まれてここに来たんじゃないの? でなきゃ、あたしたちがここにいることを知ってるはずがないもんね。――でも、駄目よ。あの人がどう思おうと、照子はあたしたちの子供よ。あの()だってもう大人だから、自分がどうすべきか良くわかっているわよ。もうすっかり落着いて、今まで出来なかったことを一生懸命やっているわ。今日も友達と、お料理を習いに行ってるんだから。今度山崎に会ったらこう言ってやってよ。へんな事をされると娘が動揺してこっちは迷惑です。もしどうしても用があるのなら、御自分でおいでなさいってね。でも娘やあたしはとにかく、ケニーにはあわせる顔がないでしょうから、そう言っても来れはしないと思うけどね」

 それから彼女は早口の英語に切換えて、わたしとのやりとりをケニーに説明した。聞き終ってケニーは、シガーの煙を含み笑いとともに吐き出しながら、ぽつりとこう言った。

「あいつは昔から、人の(ふんどし)相撲(すもう)を取るのがうまかったんだよな」

     四

 次の日の夜、会社からの帰りにわたしはヤマザキ登山具店に立ち寄った。そして、前日わたしが和江たちと交した会話の内容を、細部にわたって山崎に報告した。その都度(つど)さっさと男を乗換えた自分のことは棚に上げて、すべて男が悪いという和江の言い草にはあきれたが、それにもまして、わたしは山崎に腹を立てていた。だから、和江とケニーが口にした彼に対する非難や罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)のたぐいも、意識的に(なま)のまま伝えてやった。

 彼は当然、その中に込められたわたしの怒りを感じ取って、わたしが話している間中、広い肩をすぼめてうつむき、古畳の目を指でなぞっていた。そして話が終ると、あぐらをかいたまま、わたしに向って深々と頭を下げた。それは、この件でわたしに助けを求めた時よりも、さらに深い頭の下げかただった。

「すまん、お前をだまそうという気は毛頭なかった。ただ、もし俺が、照子を和江とケニーの元へ帰したと言ったら、お前は金輪際(こんりんざい)行ってくれなかったろう? たしかにめめしい話だもんな。今の俺の立場は、黙って娘の幸せを願うことだというぐらい、わかりすぎるほどわかっているんだがね」

 山崎はそう言ってからしばらく、窓ガラス越しに見える神田川の流れを見つめていた。対岸にそびえるビルの屋上のネオンが、暗い水面で伸びたり縮んだりしている。やがて山崎は、小さな溜息(ためいき)をひとつついて、つぶやくように言った。

「そうか、ケニーの奴、俺が他人の褌で相撲を取るのがうまいと言ってたか……」

 そして、「言われてみりゃあ、そのとおりだよな。照子だって和江だって、みんな他人の褌みたいなもんだ」と言い足しながら立ち上った。そのまま身体の向きを変えて、今まで背にしていたふすまを開ける。そこは押入れになっていて、その大部分を彼の夜具が占領していた。残りのわずかなスペースに、数個の段ボール箱と、黒い革製のショルダーバッグがつめ込まれていた。バッグは相当使い込まれた物らしく、傷だらけである。

 山崎はまずショルダーバッグを畳の上に降し、続いて段ボール箱の中で、一番奥に入れられていた物をひきずり出した。押入れのふすまを閉じ、また元の位置に座りなおしてから、段ボール箱とショルダーバッグをわたしと自分の間に置いた。そして、バッグの中に手をつっこんで、一台のカメラをつかみ出した。一九五〇年代末から六〇年代にかけて、プロカメラマンの大半が使っていたニコンFだった。これはバッグ以上に使いこまれていて、特徴ある三角形のプリズム部は大きくひしゃげ、ボディのあちこちにも傷やへこみがある。山崎は巻上げレバーを操作し、シャッターボタンを押した。

 外観に似合わぬ軽快な音をたてて、シャッターが切れた。二度、三度と同じ動作を繰返してから、山崎はそれをバッグの中に戻した。

「昔の俺の商売道具だ。頑丈な奴だよ。このごろのカメラより、よほど丈夫だ」

 それから彼は、段ボール箱のふたを持上げ、中から四つ切サイズに引伸ばされた一枚の白黒写真を取り出した。

「ちょっとこれを見てくれ」

 それは異様な写真だった。広々とした田んぼが画面全体に広がっている。その田んぼの中に、小さなテントが一張(ひとはり)張られている。テントの前には、迷彩服姿の男たちが十数人、何かの順番を待っているような様子で列を作っている。男たちの大半は白人だが、何人か黒人の顔も見える。服装と短く刈り上げた頭の形から、これはアメリカ海兵隊の兵士たちだということがわかる。

 彼らからすこし離れた位置に、自動小銃を小脇にかかえこんだ兵士が立っている。列をつくっている男たちがどこか弛緩(しかん)したような表情であるのに対し、この男だけは全身に緊張感をみなぎらせている様子が、この画面からもはっきりと感じ取ることが出来る。

 遠景として写っている森の中から、黒い煙がひと筋、よく晴れた上空に向って立ち昇っている。しかし画面の中の誰も、その煙を気にしている気配はない。

 これだけでも何やら尋常ならざるふんいきなのに、この写真の異様さを決定づけているのは、列の最後尾にならぶ黒人兵だった。他の者より顔半分ぐらい小柄な彼は、手に何かぶらさげて立っている。

 一見したところ、ボロ布を下げているように見えるが、眼を近づけてよく見ると、それは人間の生首だった。

「あんたが()ったのか?」

 わたしのその質問には答えず、山崎は写真が入っていた段ボール箱から、一冊の雑誌を取り出した。それをわたしに手渡しながら、「十六ページだ」と、ぶっきらぼうな口調で言った。言われるままにそこを開くと、今手元にある写真が、二ページ見開きで印刷されていた。右ぺージの肩に大きな英文活字で、『マッドネス(狂気)』とタイトルが刷り込まれている。そして左ページ下方には、同じく英文で、写真の説明が簡潔に記されていた。

《こののどかな田園の中で、今日も血みどろの殺し合いが演じられている。遠くに見える黒煙はその戦雲だ。そして手前の田んぼの中に張られたテントの中では、戦場を巡回する娼婦相手に、つかの間の安息を得ようとする兵士たちが、むなしい汗を流している。しかし、列の最後尾の兵士が安息を得るまでには、長い時間がかかるだろう》

 このキャプションの後に、フォトグラフド・バイ・ノブオ・ヤマザキと、撮影者のクレジットが入っていた。

 わたしは雑誌の表紙をひっくり返して見た。厚化粧の女が、巨大なバストを突き出している写真の上に、赤文字で『センセイション』という、いかにも内容にふさわしい誌名が印刷されている。アメリカに無数にある大衆写真雑誌のひとつだろう。

「こいつが、ピューリッツァー賞にノミネートされた写真だ。いや、ノミネートされたというより、あのまま事が運んでいれば、まちがいなく取っていただろう。実現していれば、カストリ雑誌に()った無名のカメラマンの写真がピューリッツァー賞を取るという、前代未聞のケースになっていた」

 山崎は淡々とした調子でそう説明した。その口調には、(なつか)しさや無念さという、この手の話をする時に含まれる感情がみじんも感じられない。 わたしには、それがかえって異常に思えた。

「どうしてそれが、取れなかったのだ?」

 わたしのその問いに答えるかわりに、山崎は列の最後尾に人間の首をぶらさげて立っている黒人兵を指差した。

「こいつの顔を良く見ろ」

「ケニー!」

 次の瞬間、わたしはそう叫んでいた。

「いったい、彼がなんで――」

「この写真につけられたタイトルどおり、狂っていたのさ、彼も俺も。奴がぶらさげているのは、この日の戦闘で迫撃砲の直撃を受けて死んだ、ベトコンの首だ。それをぶらさげて女郎買いの順番を待つ奴がいても、誰も何とも思わなかった。そういう場所と時代にいたのさ、俺たちは」

 山崎の声に、先刻までとは違う暗い響きが加わった。

「あの頃俺は、戦場に群がった無数のカメラマンの中のひとりだった。名もない写真屋にとって、戦場はてっとり早くカネを稼げる場所であると同時に、一発スクープをものにすれば、たちまち有名になれる登竜門でもある。国内ではまるで売れず、ただ体力のみに自信があった俺は、その可能性に賭けてベトナムへ行ったのだ。アメリカの北ベトナムに対する爆撃、いわゆる北爆が開始された一九六五年二月のことだった……」

 多少でも名のあるカメラマンなら、新聞や雑誌、あるいは通信社と契約してから現地に乗込む。だが、まったく無名だった山崎は、在日米軍に頼みこんで入手したプレス・カードを唯一の護符にしてベトナムに渡った。

 はじめのうちはわけがわからぬままに、サイゴンでぶらぶらしていた。しかし、ここでは写真になるようなネタは何ひとつなかったので、空軍や海兵隊のベースがあるダナンに移動した。ここには山崎と同じように、前線に出てスクープをものしようという無名の一発屋がうようよいた。

 伝統的に報道関係者の面倒見がいい米軍も、さすがにこの連中すべての世話まではしかねたらしい。前線取材の便宜をはかるヘリコプターに乗れるのは、常に大マスコミの看板を背にした特派員だけだった。山崎のような無名のフリーランスは、民間人の車に便乗したりして前線近くまで行き、そこから徒歩で戦場にもぐりこんだ。それだけ危険も大きく、報道関係者の死者の大半は、こういう一匹狼たちだった。

「こうやって一九六五年の夏がすぎるまで、ダナン近郊の前線をうろついたが、カネになるような写真はまったく撮れなかった。戦闘現場に居あわせないんだから、当然と言えば当然の結果だよな。こうしているうちに、何人かの顔見知りも出来た。いずれも俺と同じく、チャンスから締め出されている連中だった。中でもとくに親しくなったのは、西ドイツから来たオットー・クラインという俺と同年配の奴だった。こいつも写真屋としては遅咲きで、三十過ぎてから戦場カメラマンになった。似た境遇で年も近いということから、俺たちはよくつるんで行動するようになったのだ。彼はドイツ人らしく金髪で、眼鏡をかけた理屈っぽい奴だったが、根はいい男だったよ。よく、()りないフィルムなどを融通(ゆうずう)しあったもんだ。そして、忘れもしないあの日が来た」

 一九六五年十二月末、山崎とオットーは、ダナン西方五十キロの山の中を歩いていた。この山を降りきった所に小さな村がある。そこに一台だけ、野菜運搬用のぼろトラックがあって、時々ダナンまで商売に出かけていた。

 以前山崎は、その車に便乗してダナンに帰ったことがある。今度もそれをあてにしていた。この時の取材行では、めずらしく収穫があった。ほとんど偶然に近い好運が働き、山崎とオットーはベトコンと米軍の戦闘現場に居あわせることが出来たのだ。

「これでどうやら年が越せる」

 ふたりはそれぞれの母国のマスコミに、自分のクレジットが入った写真が載ることを想像して有頂天になっていた。やがて、めざす村が見えて来た。ふたりは自然に早足になった。長時間の歩行で空腹になり、のども渇いていた。長身のオットーが先を進んだ。ほどなく道の両側の樹林が途切れ、ふたりは集落の手前の畑地にさしかかった。

 その時突然、前方の家の陰から、ばらばらと人影が飛び出して来た。全員銃を持っている。しかし着ている戦闘服から、彼らがアメリカ陸軍の兵士だということがわかったので、山崎たちは手を振りながら前進を続けた。

 オットーの足がさらに早くなり、山崎との距離が開いた。前方の兵士が何か叫んだ。山崎には、ダンジャー! ゴ—・バック!(危ない! 戻れ!)というふうに聞えたが、はたしてそれがオットーの耳に入ったかどうかはわからない。

 次の瞬間、地面が急に盛り上ったようになり、山崎の身体が宙に浮いた。だが、不思議に意識ははっきりしていた。地上にたたきつけられながら、山崎は眼を大きく見開いて、目の前に展開する凄惨な光景を見つめ続けた。

 オットーの足元からすさまじい爆風が吹き上り、彼の頭や手足が、高々と宙に舞った。

「人間の身体が、あんなに簡単にばらばらになるとは思わなかったよ。奴が踏んだ地雷が引金になり、畑のあちこちで誘爆が起った。ずいぶん長い時間のように思えたが、実際はほんの数秒間の出来事だったらしい。爆発がおさまると、前方の村から担架(たんか)をかついだ兵隊が駆けて来て、俺を村まで運んで行ってくれた。衛生兵が来て、目は見えるか、耳はどうだ、手足を動かしてみろなどいろいろ言った。俺はどこもやられていなかった。俺は彼らのヘリコプターで、ダナンまで送り帰された。ヘリに乗る直前、ひとりの兵士が、これはお前の物かと言って、一台のカメラをさし出した。オットーが愛用していたライカだった。連動距離計(レンジファインダー)の窓はすべて割れ、レンズにもひびが入っていた。畑のどこかで拾ったものの、使い物になりそうもないので、俺に渡す気になったらしい。(こわ)れていなければ、当然あの兵士がネコババしていたところだ。俺は黙ってうなずいて、そのカメラを受取った。そのライカに入っていたフィルムを現像したら、この写真が写っていたのさ」

 わたしはしばらく、山崎の言葉の意味をつかみかねていた。

「つまり――この写真は…… ピューリッツァー賞にノミネートされたこの写真は、山崎さん、あんたが撮った物じゃないと言うのか? 」

「そうだ。この写真を写したのは、死んだオットー・クラインだ。俺はこいつが、どこで写されたかすら知らないんだ」

 山崎はこの写真を、同じ時期に撮影した戦闘現場写真とともに、サイゴンにある日本のK通信支局に持込んだ。ところが意に反して、一枚も買ってもらえなかった。戦闘現場写真は類型的で迫力がないし、くだんの写真は何を写したのかよくわからない、というのが断わられた理由だった。

 うかつな話だが、この時点ではその通信社の支局員はもちろん、持込んだ山崎自身も、列の最後尾にいる兵士がぶらさげている物体が、人間の生首だと気づかなかったのだ。それに気づいたのは、たいして期待もせずに売り込んだアメリカのM通信サイゴン駐在員だった。M通信は、大衆紙相手にキワモノネタを流している小さな通信社だ。それだけに、この手の写真を見る目は鋭かった。

 そして『センセイション』がこの写真を買い、めずらしく戦場の不条理をテーマにしたキャプションをつけて、二ページ見開きで紹介したというわけだった。

「はっきり言って、この時点ではさほどうしろめたい気持はなかった。それどころか、入ってきた安いギャラを握りしめてサイゴンの安酒場に行き、亡きオットーのために乾杯したくらいだ。お前のおかげで、こうやっていっぱい飲んでるぞってな」

 ところがこの写真の反響が、予想外のところからやって来た。ピューリッツァー賞の有力候補にノミネートされたというのだ。山崎は驚き、かつ良心の呵責(かしゃく)にさいなまれた。そのいっぽうで、これで有名になれる、カメラマンとして大成する千載一遇のチャンスをつかんだという思いからも、逃れることが出来なかった。

「だから、『センセイション』が発売されてしばらくして、ケニーが俺の所に怒鳴りこんで来た時は、正直ほっとしたね。

 ――とうとうつかまえたぞ。おい、あのドイツ野郎はどこだ。

 俺はオットーなら死んだ、と言った。そしたら奴はしばらく腕を組んで考えていたが、やがて気味悪い薄笑いを浮ベてこう言うんだ。さてはお前、あいつの写真をかっぱらったなと。

 ――あんな写真を雑誌に出されて、俺を含めて、あの列に並んでいた者は、みんな、えらく迷惑してるんだ。だからあのドイツ野郎をみつけてとっちめてやろうと思ってたんだが、写真につけられた撮影者の名前がドイツ人らしからぬ妙なものだったんで、おかしいと思ってはいた。しかし、これで読めた。撮ったのがあいつで、それをお前が盗んで雑誌に売ったとなると話は別だ。俺たちがやらなくたって、お前は社会から制裁を受けることになるぞ。

 この瞬間に、俺は写真屋をやめようと決意したね。もう、ピューリッツァー賞も何もない。死者からの盗作という、もっとも不名誉なレッテルを貼られる前に、この世界から撤退するのが、その時取り得るただひとつの道だった。それ以来だよ。ケニーの奴と腐れ縁が出来たのは……。いずれにしても、今回はほんとうにすまなかった。以後この件では、もう迷惑はかけない。これにこりず、今までどおりつきあってくれ。今や俺にとって、心を許せる友だちはお前しかいないんだ」

 その騒ぎから一週間ほどたったある日、わたしは一通の手紙を受取った。差出人は、平田照子だった。

《おじさま、先日は父の事でお骨折りいただき、ほんとうに有難うございました。誤解なさるといけないので一言つけ加えますが、わたしがここで父と申し上げているのは、もちろん山崎信雄のことです。わたしには、ほかに父と呼べる人間はいません。

 父はわたしにとって、かけがえのない人間です。誰もがわたしに見向きもしなかった時、父だけは心血をそそいでわたしを育て、周囲の荒波からわたしを守ってくれました。くさい寝袋でしたけど、あの中にくるまれている間は、わたしは安心して眠ることが出来ました。

 父のたってのすすめがありましたので、わたしは母と、見知らぬ男が同居している家にしばらく居てみました。しかしやはり、ここはわたしの家ではありません。だから、今日かぎりでここを出て、神田川のほとりの家へ戻ります。

 わたしがこう決心出来ましたのも、父の気持をおじさまが伝えに来て下さったおかげです。厚く、厚くお礼申し上げます。

 それではまた、近いうちにお目にかかれることを楽しみに。

かしこ》

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/03/18

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西木 正明

ニシキ マサアキ
にしき まさあき 小説家 1940年 秋田県生まれ 1988年、「凍(しば)れる瞳」、「端島(はしま)の女」で第99回直木賞受賞。

掲載作は、1986(昭和61)年、「別冊小説現代」春季号初出。60年代後半の日本の世相が、浮き彫りにされている。講談社刊の短編集「ケープタウンから来た手紙」(1987年10月初版)所収。

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