最初へ

機械との恋に死す

1 暗号としての死 

 「一九五四年、六月八日、アランがベッドの中で死んでいるのを家政婦が発見しました。死因は青酸カリであり、事故はおそらく六月七日の夜におきたと思われます。検視の係官は、毒薬は彼自身が服用したと判断しましたが、不審な点がありました。彼の寝室からは、毒物が何も発見されなかったのです。ベッドのかたわらには、半分食べ残しのリンゴがありましたが、彼は夜、リンゴを食べる習慣だったのです。

 銀行にかなりの預金が残っていたので、アランが財政的に悩んでいたとは思えません。名声もつとに高まり、気力も絶頂でしたし、形態発生学に夢中になっていて、すばらしい研究成果がまとまる直前でした。あらゆる点から考えて、彼には死ぬ理由などなかったのです。……」(サラ・チューリング『アラン・チューリング伝』渡辺茂、丹羽富士男共訳、講談社)

 

 非凡な生涯の記録がかならずしも凡庸でないとはかぎらない。数学者アラン・チューリング(一九一二~一九五四)の母親がつづった回想録は、退屈な書物である。せいぜい見事な親馬鹿ぶりに感心するくらいが関の山だ。

 とはいえ、右に引用した箇所にくると、さすがに胸が痛む。チューリングは驚くべき業績を上げながら、四十一歳の独身者として、不幸な謎の死をとげた。

 ほんとうにチューリングには「死ぬ理由などなかった」のだろうか?

 常識的見解にしたがえば、これは誤りである。なぜなら死の二年前、チューリングは猥褻罪で起訴され、有罪の判決を受けていたからである。

 一九五一年の暮れ、チューリングはアーノルド・ミュレイという若者と知り合って性的関係をもった。チューリングの属するエリート階級とは縁もゆかりもない、労働者階級の若者である。翌一九五二年の初め、アーノルドの友人のハリーという男がチューリングの自宅に泥棒に入った。この窃盗事件の取り調べから芋づる式に、同性愛の事実が明るみにでてしまった。

 野蛮なのか進歩的なのか(たぶん両方なのだろうが)、当時英国では、同性愛は刑事罰の対象だった。これが合法化されたのは一九六七年のことである。そこで学士院会員の少壮数学者は、一年間の保護監察を命じられ、性的衝動を抑えるための女性ホルモン<エストロゲン>の長期服用を強制される羽目におちいった。

 地元の新聞は「大学講師の不祥事」を見出しつきで掲載した。要するに世間の目には、英国の星は少々泥にまみれていたのである。

 現代コンピュータの祖型を創ったチューリングの仕事は、まさに世界史を変える偉業だった。当時すでに、その並外れた才能は人々の尊敬と注目の的となっていた。名の輝きが大きいだけ、破廉恥罪の汚名にともなう衝撃もふかかったと言える。

 「ケンブリッジ出身のエリート学者の繊細な神経は、とても不名誉に耐えられなかった」――通俗の説明を好む向きには、そんな文句で十分だろう。

 ともかく、母親サラが、裁判にまつわる息子の胸中に気づかなかったはずはない。けれども、サラはあえてそれを無視した。死の謎を解くには、心の傷が深すぎたのかもしれない。できるだけ客観的なデータを集め、単なる事故死だったことを公式に認めてくれるよう、当局に要請した。要請は認められなかったが、母親の執念は屈しなかった。そして自らが信ずる息子のイメージを、回想録に刻み込んだのである。

 だから、そこには「世間からみて非のうちどころのない超一流の人物像」が残された。不幸な死は、きらめくばかりの才能、不朽の業績、ゆたかなユーモア、純真な心、卓越した長距離ランナー、などの言辞で美しく荘厳(しょうごん)されたわけである。

 実際、母親の願いはかなえられた。今では、猥褻犯としてのチューリングを記憶している人は少ないが、数学者としての名声は上がる一方である。偉大な先人の名を冠した「チューリング賞」は、コンピュータ研究者の間で、ノーベル賞に匹敵するほどの最高栄誉である。

 ちなみにこれを獲得した日本人は、まだ一人もいない。

 

2 ブレイキング・ザ・コード

 

 ヒュー・ホワイトモア作の戯曲「ブレイキング・ザ・コード(一九八六)」は、ロンドンで好評を博したという。だが、サラ・チューリングが生きていたら、触れてほしくない話題だったに違いない。原作はアンドリュー・ホッジズの『アラン・チューリング――エニグマ』(Andrew Hodges "Alan Turing ―― The Enigma", Burnett Books Ltd.)で、一九八三年にロンドンとニューヨークで刊行されている。この戯曲は一九八八年九月、劇団四季によって日本でも公演された。

 <エニグマ=謎>とは、ナチス・ドイツの軍用暗号装置のことである。チューリングは第二次世界大戦中に、情報秘密機関である外務省通信局に特別に雇われ、エニグマ解読のためのウルトラ計画にたずさわった。エニグマは難攻不落、絶対安全といわれた最高度の暗号システムだったという。ふつう暗号文は、原文の各文字を一定のロジックにしたがって次々に別の文字に置き換えることによって作られる。古典的な暗号システムでは、数表などが用いられる。エニグマでは、三つのローター(回転子)をふくむ電子機構によって自動的に文字置換がおこなわれるのだが、その方法がとんでもなく複雑巧妙をきわめていた。

 英国軍は、暗号装置を撃沈されたUボートから手に入れたものの、暗号文の解読は不可能とみえた。文字置換の組合せの数が多すぎるからである。けれどもチューリングは、「コロッサス」という真空管のコンピュータを開発して、みごとにエニグマを解読してみせた。コンピュータが超高速で文字置換を実行し、解読作業の効率を一挙に向上させたからである。コロッサスは暗号解読専用機ではあったが、史上初の実用コンピュータといわれている。

 こうしてナチス・ドイツの軍事行動は、すべて英国情報部の知るところとなった。これが戦争にあたえた影響ははかりしれない。つまりチューリングは、コンピュータの父だったばかりでなく、救国の英雄でもあったのである。チャーチルはその功績を絶賛したといわれている。

 スパイ小説マニアなら、これでたちまち「国家機密を知りすぎた男」という月並みなストーリーを思いつくだろう。つまり、どこの馬の骨ともわからぬ若い男色仲間にチューリングが機密を漏らすことを防ぐため、自殺・事故死にみせかけての抹殺というわけである。

 実際、「国家秘密情報機関—オックス・ブリッジ・ジェントルメン—ホモ・エリート」という組合せは、英国では隠然たる事実のようだ。一九八八年に封切られた男色映画「モーリス」のヒットや、ケンブリッジ出身の大物スパイ、キム・フィルビーのニュースによって、日本でもこのことは多少知られるところとなった。興味のある方は、山口昌男氏の「女王陛下より愛をこめて――ケンブリッジのスパイたち」(『本』一九八八年七月号)を読んでいただきたい。

 けれども戯曲「ブレイキング・ザ・コード」は、スパイにまつわるカラクリではなく、同性愛と道徳との関係に焦点を合わせている。ここで<コード>は、ナチス・ドイツの<暗号>に加えて、<法律>や<道徳>をもあらわしている。チューリングという人物は、様々な意味で「コード破り」だったわけだ。

 何故チューリングは、取り調べの警察官に自分の性生活の秘密を漏らしてしまったのだろうか? ――辣腕の刑事の前で同性愛仲間をかばおうとして、「つい口を滑らしてしまった」のだろうか? それとも事の重大さに気づかない「世間知らずだった」のだろうか?

 そのあたりは判然としない。けれども一つ言えるのは、単なる軽率さゆえに事態が露見したわけでは決して無かった、ということである。取調べにあたった人々は、このエリート数学者が、いっこうに悪びれたところがなく、自らの同性愛癖を公然と認める様子に驚いた。

 ホワイトモアの戯曲は、あえて「コード破り」をなさしめた、稀有の“透明な精神”のありようを描きだす。そして、何くわぬ顔で同性愛性向をおしかくすエリート達の偽善を、逆照射するわけである。

 キンゼイ報告によれば、同性愛禁止法が厳密に運用されるなら、米国男性の三七パーセントは刑務所に入ることになるという。キリスト教国における社会道徳の二重性も、なかなかたいへんなものである。ちなみに現在英国では、エイズ騒ぎに乗じて、再び同性愛を法的に抑圧する動きがあるそうだ。だがこれについては、すでに土屋恵一郎氏によって十分な批判がなされているので、ここでは述べない(土屋恵一郎「社会の乳母たち――同性愛をめぐるディヴィット・ホックニーとジェレミー・ベンサム」『へるめす』第十五号、一九八八年六月)。

 チューリングと同性愛というテーマは、たしかに社会ドラマとして第一級の重みをもっている。けれども、そのエロスをたんに「オックス・ブリッジ・ジェントルメンのホモ・セックス」という視座のみからとらえるならば、肝腎の点が抜け落ちてしまう。

 実はさらに根深い問題があるのだ。

 つまりチューリングのエロスは、「機械と生物の違いは何か」という問いかけに始まって、ついには「機械と生物の共生進化」といった、きわめて興味深い話題さえ喚起するにいたるからである。

 

3 計算機械から形態発生学へ

 

 まず、チューリングの業績を一瞥してみよう。

 その仕事は多岐にわたるが、有名なのは<チューリング・マシン>、<チューリング・テスト>、<形態発生モデル>の三つである。

 第一の<チューリング・マシン>は、すでに述べたように現代コンピュータの祖型にあたる。いかに複雑、大規模なコンピュータも、数学的にはチューリング・マシンの域を一歩も出ることはできない。チューリング・マシンとは、0か1の記号が書き込まれた長いテープと、記号を読んだり書いたりするヘッドだけからなる計算機械モデルである。

 チューリングはこの簡潔なモデルによって、ありとあらゆる記号操作を実現する

という、まさに驚くべき離れ技をやってのけた。ここではプログラムとデータとは区別されていないから、チューリング・マシンが現行のプログラム内蔵型コンピュータの原型だということはすぐわかる。けれども、それだけではない。チューリングは、古くからの哲学的難問に、一つの解を与えたのである。

 「真理とは何だろうか?」――これにたいする一つの解答は、「形式的言語によって証明できる命題」というものである。では、「証明する」とは何だろうか? 所与の規則にしたがう形式的=機械的な操作によって、命題の真偽を決定できるということである。そしてこれは、「チューリング・マシンにおいて、その命題に対応する動作プログラムが書ける」ということにほかならない。

 チューリングはこの考えに基づいて、大数学者ヒルベルトの「すべての数学的命題は、証明できるか否か判定できる」という主張を否定した。この論文は、それだけでチューリングの名を不朽にするほどの値打がある。(論文の原題は "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem", Proc. London Mathematical Society (2), 42, 1937)

 第二の<チューリング・テスト>は、人工知能研究の目標として広く知られている。このテストは、「ある人物が、テレタイプを介して人間とコンピュータにむかって同じ質問をし、応答によって両者の相違を判別できなければ、そのコンピュータは思考している

」というものである。つまり、機械が人間の言葉を理解すれば(または理解したように見えれば)、めでたくテストに合格というわけだ。

 もっとも、結果は判定する人物の主観にも依存するし、厳密な意味で<テスト>と呼ぶには余りにお祖末ではある。ただ、「機械の思考」というまったく漠然とした話題に、ひとつの具体的なイメージを与えたことは、たしかに評価できるだろう。(論文の原題は "Computing Machinery and Intelligence", Mind, LIX, 1950)

 第三の<形態発生モデル>は、生体構造の発生や成長の様子を、化学反応式で記述した先駆的業績である。等質な細胞組織は、どんなメカニズムで非対称な空間的構造をかたちづくるのだろうか? ――チューリングはこの疑問をとくために、「反応−拡散系の不安定性」というモデルを提案した。化学反応過程でのわずかなゆらぎによって不安定性が生じ、ついには「不均一な空間的構造=生物の形態」が発生するというのは、なかなかドラマティックな考えである。このモデルで、螺旋状の葉やヒドラの触角の形成が説明できるという。

 その後、イリヤ・プリゴジーヌらによって、同じ方向での研究が本格的に進められ、今や生物の自己組織化現象の秘密解明にたくさんの現代科学者がしのぎをけずっていることは、もはや述べるまでもない。(論文の原題は "The Chemical Basis of Morphogenesis", Philosophical Transactions, Royal Society of London, B-237,1952)

 以上述べたチューリングの三つの仕事は、表面上あまり関連がないようにみえる。けれどもよく眺めると、そこには終始一貫したものがある。通底しているのは、「人間と機械との同質性」という信条である。人間と機械とを分けるのは“質”ではなく、せいぜい“程度”の違いだという呪文が、チューリングの全生涯を通じて唱え続けられているのだ。

 まず<チューリング・マシン>とは、機械的な仕掛けで人間の思考(真理の探求)がシミュレートできるということだった。次に<チューリング・テスト>とは、機械と人間とがたがいにコミュニケートできるという主張である。そして、<形態発生モデル>の最終目標は、「脳の構造の数学理論」だった。

 生前は出版されなかった講義録のなかで、チューリングは次のように述べている。

 

 「『人のかわりに考える機械を作ることはできない。』この言葉は一般に問題なく認められていることである。しかし、これを問題にしたのがこの論文の目的である。(中略)人間の心の動きとほとんど同じ働きをする機械を作ることができるというのが私の主張である。その機械は時々誤りを犯し、時折新しいそして非常に面白いことを言い、全体としてその機械の出力は人間の出力と同じ程度の注目に値する。(中略)機械が何らかの方法で『経験によって学習する』ことができるなら、それはたいへんすばらしいことである。」(「知能機械、異教の理論」渡辺茂、丹羽富士男共訳、前掲『アラン・チューリング伝』所収)

 

 チューリングは、胎生発生のメカニズムがわかれば頭脳の構造を解明できる、と考えていた。さらには、幼児の大脳皮質を教育するように、「未組織の機械を教育すること」さえ夢みていたのである。

 

4 エレホン――機械の進化

 

 「人間と機械の同質性」という思想についてチューリングに少なからず影響を与えたのは、諷刺小説『エレホン(一八七二)』である。

 作者のサミュエル・バトラー(一八三五~一九〇二)の問題意識は、チューリングのそれと重なっていたと言える。バトラーは、チャールズ・ダーウィンの同時代人として、進化論の恐るべき文化的衝撃をもろに受けた。そして生涯、「機械と生命は同質か否か」「生きるとは単に複雑な機械過程なのか」「機械はいかなる意味で生きているといえるのか」などといった一連のアポリアで心を悩ませていたのだった。

 もし機械が生きた有機体と質的相違がないとすれば、<機械の進化>について真剣に考えなければならなくなる。いうまでもなく機械の発達は、生物進化の何億年のあゆみに比べて、はるかに短時間で達成された。とすれば未来において、機械の能力が人間を上回り、人間が機械の奴隷になるという事態も予測されるだろうというわけだ。

 チューリングが愛読した『エレホン(EREWHON)』は、すべての生活・風習・思想が、現実社会とさかさまになっている架空の国の見聞記である(題名の逆つづりをもじると「NOWHERE=何処にもないところ」となる)。この国では全ての機械は破壊されてしまい、どんな機械の使用もゆるされない。なぜなら、「いずれ機械が人間を凌ぎ、支配することは確実だから、すべての機械を殲滅するべきだ」と主張する反機械論者が勝利をしめたからである。その奇矯な意見はなかなか説得力にあふれているので、ひとまず耳をかたむけてみよう。

 

 「現在機械類がほとんど意識を持っていないことが事実であっても、機械が結局はその意識を発達させることを否定する保証にはならない。軟体動物が持っている意識はそう多くはない。(中略)機械の世界に、明らかに生殖組織に類するものが欠けていることによって暗示される先天的不可能性を除けば、現在存在する機械から意識がある(否意識以上の性能を有する)機械への進化には先天的な不可能性はない。(中略)機械類が、たとえ人間の耳を通してであってもその欲求を音で知らせることが、極めて不可能のように思えた時があったに違いないが、人間の耳をもはや要せず、機械それ自体の精妙な構造によって聴取作用が行なわれる日がくるであろう――また、機械の言葉が、動物の叫び声からわれわれ人間の言語のように複雑な言語に発達するであろう日が到来すると考えてもよくはないか?」(サミュエル・バトラー『エレホン――倒錯したユートピア』石原文雄訳、音羽書房)

 

 もちろん、バトラーが頭からこんなことを信じていたわけではない。作者自身は、「機械は生物と同類」というより、むしろ「機械は人間の能力発達のための方途」という意見にかたむいていたようだ。後日、バトラーは、「『機械が人間にとってかわり、より高等な生命体になる』などは馬鹿げた理論だ」と述べ、それを承知のうえで一つの観念遊戯をこころみた、と明かしている。(バジル・ウィリー『ダーウィンとバトラー』松本啓訳、みすず書房)

 いずれにせよ、こういう諷刺作家は、そうたやすく自分の真情を披瀝することはない。むしろバトラーの本領は、「言語表現の表と裏の二つの意味体系がもたらす緊張関係のうちに真実を織り込む」というものだったはずである。この意味では、チューリングが『エレホン』の良き読者であったとは到底思えない。生真面目な論理数学者にとって、言語とはあくまで唯一つ、表の意味のみを持つべきものだったからである。おそらくチューリングは、機械と人間との同質性に関する説得力ある議論を、『エレホン』から上機嫌で学んだのだ。いや、そればかりではない。チューリングはさらに一歩進めたのである

……この人物の掛け値無しの優秀さと、その裏返しとしての悲しい愚昧さが現れるのは、まさにこの“乗り越え”の一点に存するのだ。

 右の引用文にも書かれているように、<機械・生物同類説>のなかの唯一の弱点は、「機械が生殖組織を持たないこと」だった。機械は、生物のように自らと同種の存在を生み出すことはない。エレホン国の論者は、工作機械のように別種の機械を生産するものも、一種の生殖組織だと強弁しているが、この議論はやや苦しい。だがチューリングは、機械が自らのコピイをうみだす増殖作用を持つこともできると考えた。あらゆるロジックをシミュレートする万能チューリング・マシンの考案を支えたのは、この信念だったのである。フォン・ノイマンの<自己増殖オートマトン>が、チューリング・マシンの技術的延長上にあることを思いだしておこう。

 つまり、チューリングの頭を終生離れなかった問題は、「機械の生殖・発生」だった。裏返して言えば「人間を含む生物の生殖・発生における純機械的要素」だった。チューリングのエロスは、この基軸をぬきにしては、決して見えてこないのである。

 

5 ネオテニーとエロティシズム

 

 チューリングという人物を語ろうとするとき、まず目につくのはその「子供っぽさ」である。

 すぐれた長距離ランナーで肉体的にも若々しかったようだが、ただそれだけではない。チューリングの精神的な初々しさは、天才にありがちな「一種の稚気」の程度をはるかに超えている。この大数学者は少年として生き、少年として死んでしまった……そういう独特の印象をあたえる。

 実際、チューリングは子供達のあいだでたいそう人気があった。隣家に住む四歳の坊やに呼ばれると、自分の研究はそっちのけで、一緒にゲームをしたり、話をしたり、ときにはゲンコで打たれるままになったりした。お気に入りのラジオ放送番組は「子供の時間」だった。友人の小さな女の子が右腕を骨折すると、左手だけで開けられるように特別に工夫した菓子罐をもって見舞いにいった。いつも子供達と接するときの態度は、「可愛がる」というより「理解する」というものだったという。

 そんな精神が、大人のあいだでは「風変りな奇人」という固定評価をかたちづくったのは当然かもしれない。たいていの人には無愛想で、人前でもかまわず長い沈黙をまもった。おまけに沈黙のあとで突然、神経に触るような高笑いを始めたり、甲高い吃りで奇矯なことをしゃべりだしたりするのである。周囲が度肝をぬかれたのも無理はない。クリスマスには復活祭の歌をうたい、お祭りには陰欝な歌をうたってみせた。ある学会の会合には、帽子もコートもつけず、冬の雨のなかを自転車でやってきた。衣服に無頓着だったのはいうまでもない。

 こういう人物が、当時の英国の社会にうまく順応できなかったのはたしかである。だが、同時にその不思議な個性に好感を持つ人々もいたらしい。ジョフレイ・ジェファソン卿は、チューリングの母親サラに宛てた手紙のなかで、次のように語っている。

 

 「彼はまるで、まったく違った、やや非人間的な世界に住んでいるかのようでした。(中略)アランは、人間関係から隔離されていましたが、彼に会うと誰でも彼を助けずにはいられないような、また、保護せずにはいられないような気持にさせられたのでした。」(『アラン・チューリング伝』、前掲)

 

 要するにチューリングの独特の才知は、「大人に成長しなかったからこそ輝いた」というのが、周囲の一致した見解といえるだろう。

 これに関して、一つ想い起こされることがある。それは、生物進化における<ネオテニー(幼形成熟)>という概念である。

 ネオテニーとは、身体のいくつかの器官の発達が遅れることによって、幼児期の生体の特徴がうけつがれることをいう。幼形進化(先祖の幼生の特徴が子孫の成体にうけつがれること)のなかには、プロジェネシスとネオテニーとがある。<プロジェネシス(性的早熟)>とは、まだ幼いうちから生殖能力をもつことである。例えば一時的にエサが多量にある環境のもとで、昆虫が早い周期で子供をつくり、大量発生するのはプロジェネシスである。ふつうこの種の好環境は、そう長く続くものではない。だから短時間で個体数をふやした方が、淘汰上は有利なのである。一方、安定した環境のもとでは、その環境に適した形態と機能とを持つ「成長の遅い子供」をつくるほうがよい。これがネオテニーなのである。

 人間の創造性がネオテニー的な現象であることはよく知られている。

 チンパンジーの幼獣は、成獣よりはるかに人間に似ている。類人猿は成長するにつれて、相対的に額が後退し、顎がせりだしてくるのだ。人間の脳は、他の動物に比べてはるかに遅れて発達する。どんな動物も、幼獣のときは探求心や好奇心にあふれている。だが、それはほんの束の間で、たちまち決まりきった固定意識の泥沼に呑み込まれてしまう。ところが人間では、この知的拡大期間がとても長く続くのである。

 ネオテニーが人間の性生活にもたらしたもの、それが<エロティシズム>であることは疑いがない。

 プロジェネシスは、性生活を種族保存のための効率のよい生殖活動に専念させてしまう。けれどもネオテニーから生まれるものは、生殖活動とは直接関わりの無い<多様な性>である。それが同性愛、オナニズム、フェティシズム、などとよばれる一連の文化的存在なのだ。

 人間が道具=機械を扱うのは、もちろんネオテニー的現象である。そしていま、ある人物が<メカニズム>というものに異常な興味と透視能力とを持ち、生殖活動さえも<メカニズム>というレンズを通じて眺めていたとしたら、何がおきるだろうか? 男と女という対立項の間に中性的な<機械>という第三項が介入してくることによって、その性生活は不安定になるはずだ。ともすれば、通常の男女の生殖活動から逸脱しがちになるはずだ。

 そしてこの“逸脱”こそ、ホモ・エロティクス=ホモ・ファーベルたる人間の、「至極ノーマルな進化」がもたらす「至極ノーマルな帰結」かもしれないのである。

 同僚の数学者達はチューリングを、「来るべき科学・機械時代の人物」と評していたという。本人も「自分は、自分の生まれた時代の人間ではない」と自覚していたといわれる。誤解の無いように断わっておくが、こんなことを述べたからといって「チューリングは進化した未来人だ」などという暴論を吐くつもりはない。もともとネオテニーは系統発生についての概念だから、チューリングという個体の特質と直接の関係はないのである。

 ただ、チューリングをとりこにしたエロティシズムは、人間と機械との共生にまつわる未来世界のグロテスクな一面を象徴するような気がしてならないのだ。

 

6 超男性

 

 実は<機械仕掛けのエロス>は太古からのものである。

 クレタの迷宮の建造者であるダイダロスは、最初の自動人形をつくったという。そのウェヌス像は、夜な夜な神々や人間と交わったといわれる。また、この呪われた天才的工匠は、性的倒錯者の王妃パーシパエーのために「牡牛の姿をした性愛機械」を制作した。その忌まわしい情交から生まれたのが、牛頭の化物ミノタウルスというわけである。

 この他にも、エロティックな自動機械にまつわる逸話は数知れないが、ここでは深入りはやめよう。産業革命以来、<機械>はもっぱら人間の楽天的未来の原動力とされ、その幽暗なエロティシズムは、おおむね等閑に付されてきた。

 だが、いま未来に想いを馳せるとき、忘れられない作品がある。チューリングが生まれる十年前の一九〇二年、一人の奇怪な作家が、驚くべき予見にみちた象徴小説を発表していた。小説の題名は『超男性』、作家の名前はいわずと知れたアルフレッド・ジャリ(一八七三~一九〇七)である。

 奇行という点にかけては、さすがのチューリングもこのジャリという人物には到底かなわない。チューリングが奇人なら、ジャリは怪人である。古今東西の技術や知識に通暁し、朝から晩まで浴びるように酒を飲みながらも決して酔わず、スポーツは万能、夜はほとんど眠らないで過ごし、常にスキャンダラスな噂に取り囲まれていたのがジャリである。この女嫌いのナルシシストは、たんに物凄くエネルギッシュで精力無比だったばかりでない。その全てが、疲れを知らぬ<おそるべき機械>を彷彿とさせたのである。

 この怪人が、自動人形たる自らの姿を一つのイメージとして凝縮させた作品が、『超男性』にほかならない。「恋愛なんて取るに足らない行為ですよ。際限なく繰り返すことができるんですからね」という人を食った言葉で始まるこの小説の主題は、「機械と性愛」である。

 人間の理想は、機械のようにタフで正確になることだ。もし人間が<性交をする機械>とみなせるなら、人間は無限に性交を繰り返すことができなければならない。そこで超男性の(あか)しとして、主人公は衆目のなかで人間の限界に挑戦する。奮闘のあげく、ついに一日に八十二回の射精という新記録を樹立する。ブラボー! ……だがこれでは単に<スポーツ>を終えただけにすぎない。未だ<愛>の問題は解決されていない。機械は<愛>という人間の聖域に入れるのだろうか?

 今度は機械が人間に挑戦する番である。かくしていよいよ、「愛情を生産する機械」の登場となる。もしこれがうまく動けば、人間と機械の性愛の場は完全に融合し重なりあうことになるのだ。

 

 「かくて、あらゆるものを造り出す腕のある機械学者アーサー・ゴフは、現代の最も風変りな機械、肉体的な効果を生ぜしめることを目的とするのではなく、今日まで掴みどころのないものと見なされてきた力に作用を及ぼす機械、すなわち、愛情を吹きこむ機械を実現することを運命づけられてしまったのである。」(アルフレッド・ジャリ『超男性』澁澤龍彦訳、白水社)

 

 だが、この機械が超男性に接合されて作動を開始したとき、とてつもない珍現象がまき起こる。

 

 「……明瞭なことが起っていたのである。すなわち、愛情を吹きこむ機械に作用を及ぼしているのは、むしろ人間の方だったのである。

 数学的に予想されていたように、たしかに機械が愛情を生産していることに間違いはなかったにしても、機械の方が人間に恋をしている

のだった。

 アーサー・ゴフが二跳びでダイナモの方へ駈けて行き、おびえたように受話器をとって、機械が今や電気を送りこまれ、見たこともないような恐るべき速さで逆回転していることを知らせた。

 『こんなことがあり得ようとは……一度たりとも思ったことがなかったが……しかし考えてみれば、べつに不思議はないのだな!』と博士がつぶやいた、『金属と機械が全能になった現代では、人間は生きのびるために、機械よりも強くならなければならない、昔、人間が獣よりも強かったように……それは単なる環境への適応だ……この男は未来の最初の人間なのだろう。……』」(『超男性』、前掲)

 

 逆回転したのは、超男性の方が愛情生産機械より電気ポテンシャルが高かったためだという、もっともらしい理由づけまでされている。まさに荒唐無稽な奇想というほかはない。

 けれどもここには、機械と人間のエロスに向けた徹底的に醒めたまなざしがある。未来にぽっかりと真空の風穴があいた爽快感がある。ジャリは「自分は機械である」という虚構を演じ続けることによって、逆に機械の神話性をあばきだすことに成功した。「人間の理想としての機械」「人間を凌駕する機械」さらには「人間のうちなる機械」などといった何ともうっとうしい理念は、詩的イメージの飛翔によって、一挙に相対化されてしまった。つまり、ジャリのエロスは<機械>からは自由だったのである。

 チューリングが『超男性』を読んでいたかどうかはわからない。たとえ目に触れても、乾燥した文体による観念の疾走は、厳密好みの科学少年の心には訴えるところが無かったかもしれない。けれども、もしチューリングが、ジャリのように機械を突き放して眺めることができていたら、その生の軌跡は多分違ったものになっただろう。

 

7 バラ色の<肉体=機械>

 

 チューリングの頭脳は、フォン・ノイマンのような桁外れの強靭さを持っていたわけではない。またその知的世界は、ウィーナーよりはるかに単純で狭小なものだった。けれども、チューリング・マシンはゲーム理論のように硬直してはいない。また、サイバネティックスのように散漫でもない。

 成功の原因は、チューリング独特の数理的透視能力が、<人間>という複雑怪奇な対象に、「明快な機械のモデル」を介して終始肉薄し続けたことにある。この一貫した情熱が、応用数学者として超一流の成果をもたらした。だが<機械>はその代償として、<チューリングの肉体>を要求したのである。

 チューリングのエロスの本質は、<同性愛>というよりむしろ<機械>だった

 もちろん文化史をふりかえれば、<機械>と<同性愛>とをむすぶ糸が無いわけではない。それは、処女=冷感症崇拝、反自然崇拝、人工性賛美といった一連の系譜のうちに位置づけられる。この捷径をたどると、「(動く)マネキン人形愛好癖」、すなわち<人形愛(ピグマリオニズム)>にまでいきつく。その精神的ダイナミックスは、性的対象(女)を一個の「貴くつめたいオブジェ」とみなす点にあるわけだ。いうまでもなく、その深奥には強烈なナルシシズムがひそんでいる。だからこの自己愛の追究が、束の間の美の回想ともいうべき<少年愛>にまで収斂していくありさまを想像するのも、べつに難しくはない。

 だが、チューリングのエロスをすべてこの解釈で割り切るのは、あまりに安易に過ぎるだろう。

 <人形>は徹頭徹尾、人間に外観が似ている具体物である。その魅力は、「人間に擬せられた人工物でありながら、人間を超えた永遠の美をそなえている」ところから発している。つまり、<自然>の対立物としての<人工>という、旧い時代の幸福な図式が、なおも遵守されているわけだ。

 一方、チューリングにあっては、もはや<人工=機械>は<自然>の対立物ではない。チューリング・マシンは紙上の抽象物であり、発明者はこれが人間の思考活動の本質的モデルだと考えた。チューリング・テストや形態発生モデルに言及するまでもなく、チューリングにとって、<機械>はきわめて普遍的なものだった。つまり、「自然すなわち機械」でなければならなかった

のである。

 自らを機械とみなす、まさにそのプロセスによって、機械と肉体との境目がほころびる。そして、微細から巨大にいたる多種多様なレヴェルで、機構体と生命体との自由自在な混交がうまれ、発芽していく。

 ホワイトモアは、「ブレイキング・ザ・コード」のなかで、チューリングに次のように言わせている。

 

 「私は、考える機械が親切で、気転がきいて、美しく、友情にあふれ、ユーモアのセンスがあり、いいこと、悪いことの区別がつき、間違いをし、恋をし、生クリームをかけたイチゴが好きでもいいじゃないかと思います。」(吉田美枝訳)

 

 ふつう我々は、チューリングに「単なる機械好きの楽観主義者」というレッテルをはってしまいがちである。だがこれは早計である。むしろ機械の「クリーンで明るい有用性」だけに目を奪われているのは、飽くことなくその恩恵のみを追い求め、知的洞察を怠っている我々のほうだ。

 機械の裡にはエロティシズムがひそむ。だからそれは、エロティシズム固有の性質――死と暴力に向かう暗い反社会性――をも孕むのである。

 機械の持つ底なしの魔力について、チューリングはうすうす気づいていたに違いない。前述の講義録「知能機械、異教の理論」は、一見オプティミスティックな機械賛美でつらぬかれているようだが、実は次のような文句で結ばれているのである。

 

 「……そして一たび機械が考えることを始めると、おそらく我々の弱い能力を凌駕するのに、たいして時間はかからないだろう。機械の死については問題はないだろう。機械は互いに討論してお互いの能力を磨きあうことができるだろう。だから、さらに進めば、サムエル・バトラーのエレウォンの中に書いてあるような方法でしか、機械をコントロールできなくなるだろう。」(アラン・チューリング「知能機械、異教の理論」、前掲)

 

 ここにはまさに、やがて殺されることを覚悟しつつ、危険な恋人との情事にいそぐときのような、暗い予感があらわれている。チューリングは周囲に全く理解されることなく、「機械との情死」にむかって唯一人で歩いていったに違いない。メカニズムに受肉された生の衝動は、たぶん異様なまでに強かったのだろう。

 チューリングを「純真で子供っぽい天才数学者」というステレオ・タイプにとじこめて事足れりとするのは、浅慮のなせるわざである。我々は、<愛=機械(マキーナ・エロチカ)>の呪縛のうちに死んだこの人物の悲劇について、もっと真剣に考えてみる必要がある。未来の人間と機械とがかたちづくるエロティックな場の構造を、なおも探っていく必要がある。

 「チューリングの死」という暗号(エニグマ)の解読は、今後さらに力をつくして続けられなければならないのである。

 

(付記)本稿執筆にあたって、劇団四季より、「ブレイキング・ザ・コード」の資料を貸していただきました。ここに深く感謝いたします。なお、チューリングがコロッサスを使ってエニグマを解読したことには異論もありますが、ここでは通説にしたがいました。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/11/22

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

西垣 通

ニシガキ トオル
にしがき とおる 大学教授 1948年 東京に生まれる。 『デジタル・ナルシス』でサントリー学芸賞。

掲載作は1991(平成3)年度のサントリー学芸賞を受賞した『デジタル・ナルシス―情報科学パイオニアたちの欲望―』(平成3年7月 岩波書店刊)の第2章である。