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霧ぬれの歌

   霧ぬれの歌

 

山女魚(やまめ) 岩魚(いはな)

()に満たし 温()の宿に売りにゆく

霧ぬれの歌よ

 

山峡(かひ)を出で

天霧らふ高原を越え

落葉松の樹林を抜け

照り昃るみち幾曲り

渡りゆく 霧ぬれの歌よ

 

蕗の葉に(つつ)むその()

桑畑の葉擦れひそかに嗟くとも

すべ無きことぞ

夕近み 温()の宿近み

霧ぬれの歌は往きゆく

 

――しかすがに魂は昇れよ

松蝉のしき鳴く彼方 山裾のうへ

いま ほのかなる虹はかかれり

               (昭和十四年)

 

   鎮魂歌

 

それらはまだ青みを深くのこした銀杏の葉

折重なり 死の静謐にひしめきあいつつ

つめたい長い甃のほとりに吹きたまっているのであった

 

親しい友たち 君らは沈黙の堆積となって

紺青の海のおもてを漂い流れほろびつつ

珊瑚礁のかげのない陰に今もなおたゆたっているのだろうか

 

  そんな筈はない いつまでも

  残るということは けれども……

 

夕ぐれ 僕は始めて空の海というものを見た

ひらたい灰色の雲の下に薄金色に透きとおって

荒れた野の果てにさえざえと泛んでいるのであった

 

  野分のあと 枝に残った葉の意味が

  今 君らの死を通して飲みこめてくる……

                (昭和二十五年)

 

   悲母讃談

 

    1

 

 この春、彼岸の中日の日哺の刻 母は忽然と世を去った。ながい慮りと ふかい切願のゆえに、なんとそれは あざやかに さりげなく 実行されたことだろう。入浴の後 夕餉の指示をすませ、母は例のまどろみのためかのように 寝所に入った。すべてを清くかえさせた臥所(ふしど)の上で 気遠い仄明かりの中で、七十年の来歴の はげしい起伏を しずかになぞる。今は 遠く近く別れ住む 息子や娘たち、その子どもたちの上を こまごまと顧みる。……<おかげさんでみな息災。にんにやかなことですわ。わたしのお役もみなおしまい。結構(けっこ)なことですわ。ああお(かあ)はん、わたしのお役もみんな済みましたなあ。もうお傍へまいれますなあ。> 若やいだ声で 母はするどく叫ぶ――<お母はんおおきに。お迎えにきてくれはったわ。> 茶の間の籐()椅子に 深くいた父は、歌うようなような叫びにおどろき 母を呼ぶが 応えがない。いそいで寝所に往ったとき、母は すでにうつつともなかった。 <お父さん、しんどい。> 父に抱かれながら、母は父の()を にぎりしめた。息づかいは たちまち消え、安楽な眠りが 母を解き放っていた。二十年 その骨肉をさいなみつづけた(いた)み その起居を縛った苦痛は、一瞬にして飛び去り 母は じつにのびのびと 四肢を伸ばしていた。みごとな宿願の成就、心臓麻痺。――あたかも その日は祖母の命日に当っていた。

 

    2

 

 通夜は夜のあけるまで

 息子や娘たちで にぎやかに

 笑いさざめいた

 中年を過ぎた子供たちが

 少年の日を さながらに

 夜っぴてふざけ合うのは

 何十年ぶりのことだろう

 

 子どもたちに取り巻かれ

 母はにこやかに目を瞑じ

 つきない会話を

 飽きもせずに たのしげに

 聴いていた

 一切の苦痛から解放されて

 

 母のながい生涯のうち

 こんなに幸福な時間が

 あったろうか

 一週間もつづいた あの

 金婚式の祝祭のよろこびよりも

 やすらかなこの至福

 

 そこで ぼくたちは

 母の一生一世の大演技のために

 懸命に仕上げをしようと

 俗な涙をすべて放逐しあった

 せめてものお礼ごころに……

 

    3

 

 日本の四季とりどりの雨風にひとり聴き入るのを

 母は愛した それをいぶかると

 これだってにぎやかではないかと

 母は頬を染めて抗弁した

 苦悩や悲歎をとりわけ嫌ったのは

 母の遠い血の知慧だったのだ

 刻々に母は死を決意していたので

 刻々に少女のごとく一切の(かげ)に抵抗しつづけた そしてとぼけた

 棺に入れるべく 母をはじめて抱いた子に

 (つつま)しく(おも)った金無垢のいのち

                 (昭和三十六年)

 

   一角獣

 

    1

 

 いつごろか ぼくたちのあいだに 珍獣愛好熱がおこり 傾倒のなだれとなったことがある。ぼくたちは 無心に笑ったり涙ぐんだりして 滑降しまた輾転して 瀑流に身をまかせたものだった。爽快な血まみれ。それぞれの珍獣を染めぬいた 三角旗が 落石のはざまや 倒木の裂け目に 元気よく 点々と ちらめいたものだった。あれは いつ終わったろう。仲間的な酩酊は 加速度のうちに ふいと分解して消える。なだれはけろりと治まるものだ。旗も雪げむりに溶け みんなめいめいの場の 登攀に移り そして 跡なく忘れられた。……

 珍獣に会いたければ 動物園へは行くな。むろん 博物館へは行くな。え 図書館だって?――そうそう そう言えばこのあいだ古本市で ぼくたちのあの珍獣傾倒についての 歴史的解説のくわしい古書を 見かけたよ。綿密な考証ではあったが あまり剥製的な正確さに 興ざめして 立ち読み途中で おいて来た。

 

    2

 

 東京のラッシュ時の駅の地下道を

 一角獣がひっそり歩いてゆく

 肩押しあう人波の中にいて

 その足どりは清涼に乱れない

 一角獣は特別天然記念保護獣に指定されているが

 いかにも滑稽なはなしだ

 誰が彼を正目に見たか

 変容した剥製すら誰がどこで見たか

 それで彼は世界のどこの人混みでも

 湖面をわたる足どりで淡々とゆく

 一角獣は地下道をややうつむいてゆく

 剣のように立つ白い角が重いからではない

 彼はすこし考え事をしているのだ

 人間こそ保護されねばならない

 この特別天然記念物は人口の増加に反比例して

 近来にわかに減少しつつある

 それで一角獣はなかなかいそがしい

 しかもその奔走の成果は

 だんだんとぼしくなりつつある

 彼はしかし悲観はしない

 そんな小器用なまねを彼は必要としない

 それで彼はしずかにいそいでいる

 

 彼は今日きみを訪ねるのだ

 きみがうなだれて孤り火の色を見つめている時

 一角獣はその手をきみの肩にのせかける

 

    3

 

 露まみれの朝日の大地に四つの足を束ねて

 こんこんと眠っている野良犬のすがた

 乾反(ひそ)り葉のちらばる明かるい夕暮の舗道を

 すたすたと曳かれてゆく牛の涎の線画の無窮旋律

 

 それらのためにぼくはまた時間を喪なう

 そして終日<眠り>の思惟を強いられる

 寒飢にかられて炎える眼と四肢の戦ぎ

 夜明けその必死の逃走の車灯が照らしあてたあの……

 

 あの夜越えの水牛たちの深くたたえた眼のあおさ

 夢ならば覚めよとねがった闇のくらさ遠さ

 いのちとはなんと永いものだろう

 

 眠りとはなんと不思議なものだろう

 昨日彼は屠殺場へ歩んでいったのかも知れぬ

 明日彼は犬捕りの手にかかるのかも知れぬ

                 (昭和三十七年)

 

   飛行について

 

    1

 

雲の壁をぬいていったん裏側に出さえすれば

そこは地上が暗湿な雨やまた吹雪のときでも

いつも晴朗恢達 つねに上機嫌な碧空であり

すみ透ってちりもとどめぬ遍照光世界である

 

眼下はるかに皚々の大氷原は波だちひろがり

その厚い遮蔽は下界の事理をすべて断絶する

つまり飛行とは 無心な浮遊にほかならない

しばらく<一切空>を観じとるに苦労はない

 

しかし地上をあるいて暮らす者の実感として

それは恍惚であると同時に あるはかなさだ

あっけらかんの天宙にただ泛んでいることは

 

そこで進航を確かめようとする心細げな目は

やがて雲の曠原にみつける 小さく走る影を

虹の円輪の芯となって進むやさしい己が影を

 

    2

 

 飛翔の実行を意志する者は

 墜落を覚悟する気構えがいる

 

 飛翔を支えるには

 倫理も技法も計略もあるが

 墜落を支えるには

 ただ美学だけしかないことを

 

 きみらに 果して

 その用意があるか

 

    3

 

 蝶々が太平洋をわたってこの国にやってくるのは どんな偶然があるのか知らない。それは渡り鳥の宿命とか 衆団の掟に対する感銘とはちがった 妙な感動をよび起こす。

 たとえ 偶然に偶然をかさねて 偏西風にまぎれこむ運命に遭ったとして、そこに蝶々の必死捨身の努力が なかったとはいえまい。

 蝶々は その永い時間をうまくみごとに 死んでみせたのだ。

 

 ――ああ かよわい彼女の その知恵と意志に

 わたしは 学びたい。

                (昭和四十四年)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/12/02

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西垣 脩

ニシガキ オサム
にしがき おさむ 詩人・俳人 1919・5・19~1978・8・1 大阪市船場に生まれる。中学生のとき伊東静雄の薫陶をうけて詩に志を深くした。東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業で出征後、病気入院中に所属部隊がサイパンで玉砕という心の傷を負った。生涯を詩と俳句に沈潜、俳句は臼田亜浪門下、のち「風」同人となる。詩人としてはH氏賞の選考委員もつとめ、詩集に『一角獣』『西垣脩詩集』『鹿』がある(現在いずれも絶版)。

掲載作は、初期から後期までの代表作を選抄した。

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