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惟任日向守(これたふ ひうがのかみ)

   第一

 

 (あは)れなりけり、天正十年三月十一日天目山(てんもくざん)の一戦、落花狼藉(らつからうぜき)天日(てんじつ)為めに暗く、山河(さんが)為めに憂ふ。流石(さすが)に日本無双の雄將甲斐(かひ)信濃(しなの)上野(かうづけ)駿河(するが)()ケ国の太守(たいしゆ)武田大膳太夫(だいぜんのたいふ)晴信入道信玄(はるのぶにふだうしんげん)が世業を継ぎたる嫡子(ちやくし)四郎勝頼(かつより)も、満つれば缺くる浮世かな。昨日は小幡上総介(をばたかづさのすけ)逆戈(うらぎ)られ、今日は小山田左兵衛佐(をやまださひやうゑのすけ)反心(そむ)かれ、楽みを共にせし大忠臣の長坂閑斎(ながさかかんさい)跡部大炊介(あとべおほゐのすけ)には(つひ)に苦を共にせられず、去れば鶴ケ瀬小松の(がう)にも居り難く、漸やく天目山の一隅(いちぐう)落籠(おちこも)りて、残るは主従僅かに四十余人。十重二十重(とへはたへ)に取囲む織田信長が大軍を引受けて、(こゝ)に最后の奮戦花々しく、(つひ)に三十七歳を一期(いちご)として(あした)の露と消え失せぬ。風に散り敷く山桜の(もと)に鎧を抜ぎたる勝頼、共に死せんことを願ふて更に落行(おちゆく)を聞入れざる最愛の妻は其左に、十文字の鎗を(ひつさ)げて群がる敵を三たびまで突崩したる容顔美麗の若武者──一子太郎信勝は其右に、父子夫妻互ひに相抱いて交刺(さしちが)へつゝ、(ひやゝ)かに数萬の敵軍を眼下に笑ひ、顧みて四十七人の殉死者を見、四ケ国の太守たる(わが)先途(せんど)見届(みとゞく)るものは只之(たゞこれ)のみかと、思はず最期の熱涙を浮べし瞬間は、即ち武田家没落の時なりき。

 (この)惨劇の紀念、切歯悲忿の残塊(ざんくわい)たる勝頼の首級は、うたてや、功名の花として西軍の本陣に送られぬ。 

 此方の大將織田右大臣信長は、其特性なる猜忌(さいぎ)嫉妬の念を驕傲(けうがう)羽団扇(はうちは)に煽がしめ、凱歌声裡(がいかせいり)戦捷(せんせふ)の祝杯を傾け(なが)ら、勝頼の首級を胡床(しやうぎ)(うづくま)りたるまゝ冷かに睨み、此乳臭き生首(なまくび)痴漢(たはけ)四郎の生首か、此信長に敵対したる天罰は覿面(てきめん)、今こそ思ひ知ツたるか。我汝あるが為めに枕を高くし得ざりしこと幾年(いくとせ)ぞ思へば(につく)き奴。と罵りつゝ、(かく)既に敵対の能力なき首級に向ひ、ガーツと痰を吐き掛け足先にて之を蹴飛ばし、ハノハツハ今()くなツては何事も()せまじ。気味よし気味よし、誰かある其痩首を徳川の陣所へ持ツて行け。フゝ散るわ散るわ桜が散るわ。

 又も凱歌は営所々々に響き(わた)りぬ。かく歓声満ち祝杯飛ぶ中に、独り悵然(ちやうぜん)として暗涙に鎧の袖を(うるほ)し、いくたびか嗟嘆の声を発するものあり。是れなん明智十兵衛源光秀(みなもとのみつひで)にぞある。アゝ、我君勇猛余りありて(なさけ)(にん)なり。武田勝頼、敵とは言へど(あつ)ぱれ健気(けなげ)の最期を遂げたる四ケ国の武将。元を正せば清和の末流、新羅(しんら)三郎義光公の後裔(こうえい)其上(そのかみ)武田義清甲州に(ほう)(さづけ)られてより以来、(およそ)十七世四百六十余年を保ちたる名家なれば、宜しく礼を以て其首級を遇し、其亡霊(そのなきたま)(ねんご)ろに(とぶら)ひ給ふべきに、()はなくて手も口も動かぬ首級に向ひ、アノ亡情無礼は何事ぞ。強きばかりが武士の情かは。(さる)にても之に從ふ諸將、如何に粗暴豪放のみを武士の本色と心得、心に仁義もなく表に辞礼もなく、目に一丁字(いつてうじ)をも見ざる田舎武士なればとて、主君と同じ様に、アノ哀れなる首級の為めに誰一人として(いさ)むるものなきは何事ぞ。後の人織田の家来は揃ひも揃ふて残忍の田舎武士とや笑はん、後の人に笑はるゝばかりならば兎に角、もし甲駿(かふすん)の人士我君にかゝる亡情の挙動(ふるまひ)ありしと聞かば、今迄武田家に(なづ)き武田家を仰ぎしものは、必ず織田家を恨まん。戦に勝つも人の心を失はば、戦に負たると同然なるものを。

 (さん)ぬる五日、我君濃州六渡(のうしうむつと)に於て、武田家の忠臣仁科五郎信盛が首級を得て、残酷(むご)待遇(あつ)かひ玉ひしのみか、之を岐阜の長柄(ながら)川原に獄門に掛け玉ひけり。之をさへ此光秀の手荒き処分と思ひしに、又々越えて二日、信忠卿は我君の(おほせ)を受け玉ひ、甲府に発向ましまして、一條藏人(いちでうくらんど)(やかた)御陣(ごじん)(すゑ)られ、武田逍遙軒(せうえうけん)(おなじく)隆宝、一條右衛門太夫(うえもんたいふ)、武田上総介(かづさのすけ)、朝比奈摂津守(せつつのかみ)、清野美作守(みまさかのかみ)諏訪越中守等(ゑつちゆうのかみら)、何れも武田方に於ては歴々たる人物を尋ね(いだ)して、或は首を()ね、或は生捕(いけどり)て之を虐待し玉へり。さなきだに戦国の今の世、人の心を収攬(しうらん)し、民に愛恤(あいじゆつ)(まつりごと)を敷かんこと肝要なるに、我君更に之を省み玉はざるこそ(うら)みなれ。去れど……去れど(それ)()ることなり。我君は女婿(むこ)浅井長政の首級を以て杯を作り玉ひし例さへあるものを、去るにても()猿冠者奴(さるかんじやめ)、今は播州(ばんしう)に在りと(いへど)も、萬事に嘴を容るゝに引替へて、常日頃よりかゝることを諌め(おか)ぬも不思議なり。──去れど……去れど夫も又()ることなり。功名の為めには如何なる不義をも亡情(ばうじやう)をも忍ぶが猿の性質(たち)なれば〈作者曰く、果然(かれ)は後日其母大政所(おほまんどころ)を敵地に質として送るの(にん)をなせり。光秀の目より見れば秀吉は大不孝者なり〉。アゝ我君にして今少しく人情に富ませ玉はゞ、アゝ我君にして今少しく礼節と愛撫とに心を寄せ玉はゞ、──アゝ、武田領は今織田領に帰したれども、武田領の人心は(つひ)に織田領に帰せざるべし。惜むべし惜むべし。

 田野(たの)の里の郊外、桔梗の紋を染め抜きたる幕営の(うち)に、且つ(かなし)み且つ惜みて黙然たる光秀、漸やく(たち)て幕を掲げ、天目山の黄昏(たそがれ)を眺めて憮然として合掌再拝、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

   第二

 天目山の一方を眺めて憮然として暗涙を浮ぶる光秀の背後(うしろ)に声あり。我君!

 此方(こなた)は振返り見て、左馬助(さまのすけ)か。

 明智左馬助光俊(あけちさまのすけみつとし)四辺(あたり)に気を配りて声をひそめ、仁者(じんしや)は敵をも愛し、君子は其罪を(にく)みて其人を悪まずとかや。君の御涙は()ることながら、君(かつ)て叡山の焼打を諌め玉ひしより以来(このかた)()なきだに猜忌(さいぎ)深き右府公(うふこう)一入(ひとしほ)君を憎ませ玉ふ折柄なるに、今の君の御挙動(おんふるまひ)を見聞き玉はば、(わざはひ)は意外の処より生ぜん。小人原(せうじんばら)口端(くちは)に掛る黄犬(くわうけん)を牽きて上蔡東門(じやうさいとうもん)(いで)し昨日を恨み玉はぬやう──大事は勿論小事にも御注意こそ。左馬助善く申した。以後光秀屹度(きつと)謹むであらう。左るにても今日の合戦、横川左近(さこん)を始め河尻肥前、森勝藏、津川玄蕃(げんば)、毛利河内等皆な夫々寄手攻手(よせてからめて)(おほせ)(かうむ)りしに、我一人後陣(ごじん)に取残されて何の仰せをも賜はらず、空しく他人の功名を傍観せねばならぬとは……アゝ浮世なり。我君、夫にも又(ゆゑ)こそあれ。当敵武田家は我明智家と同じく、清和の流を酌む源姓(みなもとせい)にして、右府公は平姓(たひらのせい)(をか)し居玉へば、()は好き口実なり、奇貨なりとて、例の狡童(こわつぱ)〈蘭丸〉何事をか言上(ごんじやう)し、疑ひ深き右府公にますます疑ひを……。(しつ)ツ、左馬(さま)! モウ善し、申すな申すな。夢の浮世の中宿のウ 夢の浮世の中宿のウ……ハツハツハ、左馬! 流石の武田も右府公の御威勢には嵐に散る桜ぢやのウ。

   * * *

 アゝ我心は水の如く、右府公に対しては一点の貳心(にしん)だになきものを、何とて斯く我を(うと)み玉ふ。我()し当初より無名衰残の賊子(ぞくし)に組みしても一時の浮栄を僥倖(げうかう)せんとするの野心あらば、当時畿内には三好の三党(ざんたう)あり、大和には松永弾正(だんじやう)あり、又畿北には浅井朝倉あり。少しく其意を迎ふるに力を用ふる時は、彼儕(かれら)を掌上に弄ぶに何の(かた)きことやはある。()してや我も元は濃州土岐伯耆守頼清公(ときはうきのかみよりきよこう)後胤(こういん)にして、源家累代(げんけるいだい)嫡流(ちやくりう)、家系(あえ)て右府公に劣るに非ず。我今年(こんねん)取ツて五十五歳、右府公に長ずること八歳、辛酸を()め経験を積み、世故(せこ)に渡り、人情を(わきま)ゆること右府公よりも多く且つ広し。去れば遠祖の余威を借りて志を一隅に伸ばさんとせば敢て成らざるに非ず、()るに之を(なさ)ずして五千貫の(ろく)を朝倉に還し、將軍義昭公を慫慂(すゝ)めて(きみ)麾下(きか)に来り臣礼を執るは是れ貳心なき證にあらずや。去るを公は事に就け物に触れ我を疎隔(うとん)じ玉ふは何事ぞ。我は何事をも忍ぶべきも、我に身命を献げゐる家臣の心中を思へば不憫(ふびん)なり。家臣の憤激血涙はわれ猶忍びて之を慰むべくも、此光秀が領地の人民に対し、威光を失ひ面目を失ふを奈何(いか)にせん。我假令(たとひ)源姓を冒せばとて、光秀には光秀だけの(まなこ)もあり良心(こゝろ)も有り。(いか)で勝頼如き小児(こども)と謀りて共に事を挙ぐるの愚をなさんや。去るを(きみ)は我を疑ひ我を疎み玉ふこそ口惜しけれ。

 之に就ても思ひ起す、先年我公(わがきみ)日本の追捕使(つゐほし)を定められたるとき、東海東山の二道を瀧川左近に、北陸(ほくろく)を柴田修理進(しゆりのしん)に、南海道を佐久間右衛門尉(うゑもんのじよう)に、山陽道を羽柴筑前守に、(しか)して山陰西海の二道を(この)光秀に命じ玉ひしが故に、我丹波平定の後但馬(たじま)征伐の事を願ひ出しに、終に許し玉はず。却て山陰西海の両道ともに猿冠者奴(さるかんじやめ)に仰せ附けられぬ。光秀が不面目、家臣に対し天下に対し申訳なし。去れど……去れど我は忍ばん何処までも忍ばん、榮辱毀誉(えいじよくきよ)二門なし大道心源に徹すれば是れ一元!

 アゝ此光秀も愚なりき愚なりき。(なり)は大きくとも心は小児(こども)の諸将と共に功を争ひ戦場を(かけ)めぐらんは大人気(おとなげ)無し。大人は大人らしく、小児(こども)に功名を譲りて世俗の凡悩界に齷齪(あくそく)たらざるこそ温從(おとな)しけれ。アゝ愚なりき愚なりき。

 思ひ(めぐら)せば我幼少にして父を失ひ、斎藤義龍(よしたつ)が為めに濃州を追はれ、諸国を徘徊し(しゆう)を求めて求むる(あた)はず、遂に天外浮浪の一孤客(いつこかく)となり終りぬ。()るに我公は義昭公の動座を慫慂(すゝ)めし縁因(ゆかり)により、我を登用して越前近江の(えき)に戦はしめ、畿内の役には一方面を委ねて驥足(きそく)を伸ばさしめ、賞として丹波近江五十萬石の大封(たいほう)を与へ玉ふ。(しか)のみならず公の異母弟の子七兵衛尉信澄(しちびやうゑのじようのぶずみ)を以て女婿(むこ)となし玉ふ。君恩海よりも深く山よりも高し、アゝしばしにても(きみ)(うらみ)しことの恐ろしさよ。

 無端(はしなく)(こゝ)に浮浪の昔を思ひ(いで)たる光秀、粛然として(かたち)を改め、夜半野営内の篝火(かゞりび)ほの暗き処に鎧の袖を絞るぞ殊勝なる。

   第三

 今は誰あらう、丹波近江五十萬石の領主惟任日向守源光秀(これたふひうがのかみみなもとのみつひで)も、十七年の昔は()に一個の寄辺(よるべ)なき浪人なりき。光秀曾て中国に彷徨(さまよ)ひ桂能登守に頼りて、毛利元就(もとなり)の臣たらんことを乞ふ。元就之を引きて数日間其人物を試し見るに容貌俊秀にして挙止閑雅、才智明敏にして勇あり弁あり。砲術は善く下げたる針に的中するの妙あり。又善く佛門の法味を嘗め、善く天下諸侯の賢愚を知り、経史(けいし)に通じ、兵法に達し、辞礼に(なら)ひ、有職(いうしよく)の道に暗からず、真に一代の英傑。元就(おほひ)に喜び(へい)を厚うして之を抱えんとせしに、意外の故障は(ひと)の出世を妬み才智を(そね)小人(せうじん)の口より起れり。(ひそ)かに相者(さうしや)と謀りて元就に告げしめて曰く、光秀の相貌狼の睡むるが如く、喜怒の(こつ)高く起りて其心神常に静かならず。所謂外寛(そとくわん)にして内急(うちきふ)なるもの、必ず後患(こうくわん)あらん。()して素姓さへ曖昧なる諸国流浪の旅人、用ゆべからずと。流石に明敏なる元就も、其小人の讒害たることを知らず、遂に其毒舌に迷はされて惜しや光秀を()るゝの度量なかりき。第一着の運定め既に芽出たからざりければ、光秀怏々(あうあう)として身の数奇を(かこ)ちつゝ藝州(げいしう)を出で、豊後(ぶんご)より薩摩に行き、四国へ渡りて紀伊に入り、伊勢に入り、越前に至り、朝倉義景(よしかげ)(めさ)れて暫く(こゝ)に足を(とゞ)めしも、義景は碌々たる小人、共に事を計るべき器量にあらず。去れば流石の光秀も十数年の流浪不遇に天下の明君なきを悲みしに、計らず信長に仕ふることゝなりぬ。斯の中年より信長に仕ふるのみか、数ある諸將の中にて独り出身地を(こと)にせる光秀、其格式は却て他の譜代恩顧の宿將に優るとも劣らざるまでに至りぬ。今光秀当年の浮浪を思ひ君恩の優渥(いうあく)を思ふ涙あるも(ことわ)りなり。良心(こゝろ)を責むるも理りなり。

   * * *

 朧月夜の影を踏み、飯島の夜嵐に瞬く篝火を辿りて此方(こなた)の野営内に()り来りたるは妻木範賢(つまぎのりかた)、我君! まだ御寝(ぎよしん)ましまさゞるか。今迄粛然(しゆくねん)として君恩の重きを思ひ憮然として身の不運を思ひつゞけたる此方(こなた)の光秀。主計頭(かずへのかみ)か、軍中にては別に変りたる事をも聞かざりしか。()(さふらふ)右府公も安房守(あはのかみ)(=真田昌幸)には(いた)く心を置せ玉ひ、吾妻城御征伐は兎角(とかう)御評定(ごひやうぢやう)にいまだ左右(さう)とも分らざる由。君には如何(いかゞ)思召(おぼしめ)すや。去ればなり武田家の一門家老の(うち)にも、安房守は極めて計略に富む勇將なれば、右府公も等閑(なほざり)()ち玉はんこと味方の損毛(そんまう)たるべし。殊に彼が居城上田吾妻の両城は、要害の地にして守るに安く攻むるに(かた)く、決死の勇士八千余人楯籠りて、防戦の備へ堅く兵糧(ひやうらう)亦た三年を保つべし。今我君勢に任せて之を攻め玉はんには效少なくして(いたづ)らに味方の士卒を(うしな)ふこと多かるべし。今甲信上駿の四国悉く我公の手に帰したる上は、真田一人(さなだいちにん)其儘に捨置くとも何程の事やあらん。武田一家(いつけ)平均したるを土産に早く安土に御帰城ありて徐々(おもむろ)に真田を招き味方に加へ玉はんこそ上策なれ。真田は(あつ)ぱれの名士なれば、君の麾下(きか)に附け玉はば、千萬の士卒を得たるに増して益あらん。今天下の大勢を制するの時なれば、一城一塁に係はりて月日を送り軍卒を費やすべき時にあらず。主計(かずへ)! (そち)()か思はずや。ハゝツ、君の御明眼今に始めぬことながら、此主計ほとほと感服致して候、去るにても訝かしきは、我君には(かゝ)る御智謀有り乍ら何とて右府公に言上ましまさずや。訝かるな主計! 訝かしからず。と言ひつゝ声曇らせ、去なきだに此光秀、平生(ひごろ)右府公の憎しみを受け、疑ひを蒙ぶるのみか、御坐右の讒奸(ざんかん)其隙(そのひま)をねらはるゝに、(かく)の如き退守の計略を、勝ちほこり玉ふ君に言上(ごんじやう)すればとて、(いか)御採用(おんとりもちゐ)のあるべきや。御採用なきのみならず、却つて光秀は卑怯者なり臆病者なり、()なくば真田(さなだ)と通じ真田を助くる野心ある者なりと疑ひ玉はん。萬一(よし)又疑ひ玉はずとも、外より疑はしむる人無きにも限らず。若し(こゝ)に筑前守(秀吉)あらば、必ず我と同じき意見を持つならん。筑前守は公の御覚えめでたければ、其言上は必ず採用(とりもち)ゐ玉ふならんに、惜きことなり。胸に一杯言ふべきことを持ち乍ら、言ふに言はれぬ此光秀が切なさ辛さ──主計(かずへ)! 泣な、な……泣いてくれるな。えーツ、な……な……泣き申さぬ此主計は、去りながら君の御心中を四王天但馬(しわうでんたじま)を始め、藤田並川村上の諸士に(つげ)なば、(さぞ)や泣かん、嘸や恨まん、千軍を(ほふ)り鉄壁を倒す可惜(あたら)力量を持ちながら、手を束ねて空しく他人の功名を見物し、(つゆ)君を恨む色なき家臣の心中、思へば思へば不憫にて候。

 諸所の陣営歌起り(さかづき)飛びて色めけるに引替へ、独り此陣営の寂しく湿り(がち)なるも哀れなり。

 城は名にし負ふ信州一の要害吾妻城、之を守るは八千決死の士、之を(ひき)ふるは山道(さんだう)第一の弓取真田安房守昌幸、去れば流石の右府も中將(信忠)も心を置き、兎角(とかう)評定(ひやうじやう)に一両日を飯嶋の野営に過しけるに、同月十七日播州出征中の羽柴筑前守より、堀尾茂助吉晴使者として本営に来れり。茂助先づ甲信平均の御慶賀を述べ、次で四男御曹司(おんざうし)秀勝(ぎみ)御具足始(おぐそくはじ)めの祝として備前国児嶋郡麦飯(こじまごほりむぎいひ)の城を攻落したる旨を披露し、次ぎに主人秀吉別に申上候趣意ありとて、茂助御人払ひを乞ひ、何事をか言上す。

 しばらくして手を(うち)て笑ひ語る信長の声は外に漏れたり、秀吉が計略予が(こゝろ)に叶へり、秀吉が所存の如く目下の時節僅かに真田一人(いちにん)が為めに力を費すべきにあらず、時を見て昌幸を招くは此信長が方寸にあり。()なり帰陣帰陣。

   * * *

 越えて翌日俄然軍中に命あり、曰く吾妻城攻撃を止め、明朝直ちに道を海道(かいだう)に取り、安土(あづち)(むかつ)て帰陣すべしと。

   第四

 織田右大臣信長、(わづ)か十数日の間に武田の強敵を滅ぼし、四方震懾(しんせふ)せずといふものなし。信長意気昂然天下(たなごころ)(うち)に在りと思ふも()べなりけり。今度(このたび)甲信の合戦に於て勲功の将士に懸賞を(あて)行ふべしとの沙汰あり。先づ中將信忠卿は抜群の働き、武將の(うつは)備はりたり近くに天下の支配を譲るべしとて、先考(せんかう)備後守殿より御譲りの太刀(たち)を授けられ、瀧川左近將監一益(さこんしやうげんかずます)上野(かうつけ)一国と信州佐久(さく)小縣(ちひさがた)の二郡を賜はり、関東の管領を命ぜられ、其上(そのうへ)海老鹿毛(えびかげ)の馬を下され、此馬に乗て入国すべしとの仰せを受け、河尻肥前守は甲斐一国を賜はり、森勝藏は信州更科(さらしな)高井水内(みづち)埴科(はにしな)の四郡を賜はり、毛利河内守は伊奈郡(いなごほり)を賜はり、(しか)して()の明智左馬助に狡童(こわつぱ)と呼ばれたる森蘭丸は河尻肥前守が旧領岩村の城主たるべしとの恩命をぞ(かうむ)りける。其他一將一卒より御小姓に至る迄、皆夫々の恩賞ありたり、去れど明智日向守には──何等の沙汰もなかりき。かゝる時(こゝ)に想ひ看る光秀が家臣の悲憤血涙!

   * * *

 頃は卯月(うづき)第一日(だいいちじつ)、甲信の山河猶ほ旧主を思ふて色惨憺、花風に泣き鳥雨に(むせ)ぶの時、往来には人馬の通ひを(とゞ)めさせ、(ちまた)には造石を除かせ、渡しには橋を継がせ、警護美々しく威風凛々として甲府に入る者は、是れ帰陣の途次武田の城跡を見んとする戦勝後の織田信長にぞある。

 甲府滞在の(ゆふべ)、光秀が(やかた)音訪(おとな)ふものあり。是れなん新たに本領安堵の御教書(みけうしよ)を賜はりたる降参の將、木曾左馬頭(さまのかみ)義昌が織田家の諸將を歴問するにぞありける、初対面の挨拶に(まづ)向後(かうご)の懇情を温むる左馬頭、つらつら光秀を視て其従容(そのしようよう)として(せま)らざる閑雅の躰度、儀あり節あり勇あり情けある高品の風采を慕ひ、撫然としていふやう、(きこ)しめせ日向守殿、亡国の残臣がかゝることを申すは烏滸(をこ)の限りなれど、故主勝頼卿のおん首級伝へて侍従殿(家康)の陣所へ至りしに、侍従殿は胡床(しやうぎ)を下りて(うやうや)しく礼拝し、御身は(まさ)しく武田の嫡統にして、亡父の遺業を嗣ぎ、四ケ国の大將として武名一代に高かりしに今斯く首となり玉ふ、天運とは言へ、おん(いた)はしや此御最後と、涙に(むせ)び玉ひし由。然るに右府公(信長)には、胡床に(うづくま)りたるまゝ之を蹴飛ばして罵り玉ひしやに聞き及ぶ。去れば我武田家の將士は勿論、甲信の民百姓之を伝へて、皆心を徳川家に属し身を寄するもの多しとの世間の取沙汰。実際(まこと)右府公には()る所(わざ)の候ひしや。

 ()は又左馬頭殿には()なることを申さるゝかな。我君に(いか)で然る亡情の挙動(ふるまひ)のあるべきや。(そもそ)も武士には武士の義理あり礼法あり。我公如何に兵陣の間なればとて、如何に敵味方の間柄なればとて、弓矢取る身の情義を忘れ玉はんや。思ひ起す永禄四年の頃、上杉謙信殿管領職(くわんりやうしよく)に補せられ玉ふや、上洛して將軍に(まみ)えんと思ひ玉へど、当時は御身(おんみ)故主(こしゆう)大膳太夫殿(だいぜんのたいふどの)(=信玄)と(ほこ)を交へ玉ふ折柄なれば、領国を侵されんことを恐れ、乃ち使を甲斐に遣はして、「(まさ)に上洛して將軍家に謁見せんとす。是れ公事にして私事にあらず。我が帰国まで領内へ出張のこと、思ひ(とゞま)られよ」と申されけるに、大膳太夫殿には(すぐ)に返書して、「謙信上洛の結構神妙なり。武家の棟梁(とうりやう)たらんものは誰も斯くこそ(あり)たけれ。帰国の節迄は手使ひ差控(さしひか)ゆべし」と答へさせ玉ひし由。此美談は拙生(それがし)よりも御辺(ごへん)こそ精しく知り玉はん。右府公曾て此美談を聞きて深く感嘆し玉ひ武人(ものゝふ)たるものは斯く情義を重んじ、礼儀を守りてこそ、真の武人なれと(のたま)ひし(ためし)さへあるものを。右府公争(いか)()る無礼を忍び玉はんや。世間の噂は誤聞ならん。さても世間の口は意外の人に意外の濡衣(ぬれぎぬ)を着せ、うるさきものにて候。

 光秀の弁解を聞き終りたる義昌、思ひ当ることやありけん、無端(はしなく)光秀の心中に感じて、何事ぞ暗涙一滴。

 既に辞して門外に出でたる義昌、家臣に向ひ嗟嘆して曰く、アゝ右府公には(あつ)ぱれの(よき)家来を持たれけるかな。

 義昌の後姿を見送りたる此方(こなた)の光秀、惆然(ちうぜん)として考一考(かういつかう)。アゝして武田家の將士は我公(わがきみ)を恨めり。アゝして甲信の民、心は我公に(なづ)かずし家康に懐きたり。惜むべし惜むべし。今更(くゆ)るも詮なきこと乍ら、我公が首実検の作法を(ゆるがせ)為玉(したま)ひしは、返す返すも織田家の為めには惜しきことなりき。首実検には法式あり。凱歌を揚ぐるにも法式あり。われ光秀曾て聞く、信玄笛吹峠(うすゐたうげ)(いくさ)に勝つや、翌日首実検の式厳重に行なはれ、勝鬨(かちどき)(あげ)らる。先づ信玄採配を取て胡床(しやうぎ)に腰をかけ玉へば、飫富(おぶ)兵部少輔(ひやうぶせういう)御太刀(みたち)の役にて(うしろ)(かた)(こう)じ、板垣駿河守は団扇(うちは)の役にて左の方に(はんべ)り、原美濃守は鳴弦(めいげん)の役にて白膠木(ぬるでのき)の弓に真鳥羽の矢を添て右の方に候じ、山本勘助は貝の役にて吹かずして手に捧げ右の方に侍り、小幡尾張守は太鼓の役にて仲間(ちゆうげん)に背負はせ大將の側に伺候(しこう)せり。旗は加藤駿河守、旗挿(はたざし)を側に引付て旗を左の手に打掛て(かしこ)まる。南天の手は金丸筑前守、太布(ふとぬの)手拭(てぬぐ)飫富(おぶ)源四郎なり。酌人二人(しやくにんにゝん)割紙(わりがみ)(もとゞり)にて髪を結びあげ、四度入(よどい)りの土器(かはらけ)にて四度づゝ十六度、肴は勝栗昆布にて勝悦(かちよろこ)ぶの義を祝せりとか、()に信玄は(あつ)ぱれ文武を兼ねたる明將なりき。戦場にては(あなが)ちかゝる式に(かゝ)るべからざる時もあらんなれど、去りとて全く此式を顧みざるは大將たるべき器にあらず、かゝる大將の下に養はれたる甲信の人士なれば、我公(わがきみ)所業(しわざ)を怒るも(ことわ)りなり。去るにてもアノ家康、萬事に抜目なき武將かな。武田の將士には兵法機略に()けたるもの多し、其將士の心を()之を撫納(なづけ)んとする家康、中々に恐ろしゝ。後来天下を握るものは必ず此人ならんか。アヽ。

   第五

 甲府の禅院に恵林寺といへる大地あり。在住の快川(くわいせん)和尚大徳の誉れ高く、故武田信玄深く之に帰依(きえ)したる縁因(ゆかり)ありて、武田の残党数十人此寺に隠れければ、和尚厚く之に庇護を加ふ。信長之を聞き、使をつかはして其浪人を悉く(いだ)すべしと命ず。使者礼なし。和尚命に応ぜず。使者君威を(くわん)()て益々之を(しひ)ゆ。和尚断然衣の袖を払つて言ふやう、一旦我寺に頼りたる浪人、織田家の敵なりと雖も武田家の忠臣なり。朝敵といふにもあらず、衆生の敵といふにもあらず。佛の眼より見玉ふときは罪も(とが)もなきものなり。衆生を助くるは僧侶の分限(ぶんげん)今みすみす虐殺に逢ふことを知りながら、之を追出さんこと思ひもよらず。縦令(たとひ)此寺破滅に及ぶとも(めい)に応ずること叶はず。と言ひ放ツて内に入る。使者帰りて之を信長に言上(ごんじやう)す。信長大に怒り、(につく)き寺僧の返答奇怪の至りなり。其儀ならば(うつ)て寄せよとの、下知(げぢ)に応じて捕手(とりて)寺に向ひしに、浪人は既に何処(いづく)へか落行きて隻影(せきえい)だになし。捕手手を(むなし)うして帰る。(うしろ)に快川和尚の声あり、アラ心狭き信長かな。

 信長寺僧等が浪人を落しやりたりと聞くや、クワツと激怒し、憎き坊主等が振舞かな。今四海に威を振ふ我を蔑如(べつじよ)する段不埒(ふらち)なり。寺も人も皆な焼き尽せよとの嚴命。命に応じて津田九郎次郎、長谷川與次郎、関小十郎、赤座七郎右衛門等、一同身を固めて(まさ)に恵林寺に向はんとす。

 しばらく しばらく しばらくお()ち召され。一同を制して優然として進み(いで)たるを、誰かと見れば惟任日向守(これたふひうがのかみ)光秀なりき。光秀信長公の御前に拝伏し、我公(わがきみ)拙生(それがし)が申上ぐる一條、一通(ひととほり)御聞き下され。恵林寺を焼払へとの御諚(ごじやう)()ることながら、ソモ此恵林寺と申するは年久しき伽藍(がらん)にして、殊更現住の快川和尚高徳高智(あまね)く諸国に聞え、先年帝よりも大通智勝国師の法号をさへ給はりたる名僧。去れば故入道信玄を初めとして、甲州の人民一人として之を仰がざるものはなし。()るを今一時の御怒に乗ぜられ、之を焼き尽し給はんこと、第一、公の御仁徳を損じ、甲州人士の心を失ひ玉ふの恐れあり。総て人には人の道あり信仰ありて禽獣と同じからず。是れ人に宗旨ありて禽獣に宗旨なき所以(ゆゑん)(すなは)ち神社佛閣は人の心を清めて、人世の闇を照らし、人に優しき心を起さしめて、安心立命の地を得せしめ、天道を繋ぎ人心を繋ぐに一日もなくてはならぬもの。()して一寺一社の内には、幾百の(うる)はしき(たま)あり、幾千の(まこと)ある(たま)あり。幾千の日を重ね月を積みて、一個の由緒正しき閲歴美(うるは)しきものとはなりたり。然るを一朝にして之を灰燼に(ゆだ)ね玉はんこと、天道を破り、宗旨を亡ぼし、人情習慣に(もと)り、歴史の美蹟を損ねて、兼て国家の典章に(そむ)くに似たり。尤も快川和尚御諚に(たが)ひ候はば、罰すべきに当れりと雖も、出家の道は武人(ものゝふ)の道と(おのづ)から廣狭寛厳の差別あり。人の命を助けんとて、御諚に背き候は僧の(わざ)にて候はずや。況して初め寺に使したるもの(ことば)誇り色驕りて礼なかりしと聞く。寺僧が仰せに背きしも(あなが)ち寺僧のみを咎むべきにあらず。我公(わがきみ)には曾て紀伊の雑賀(さいが)孫一郎が所為(しわざ)を御嘆美あらせられし(ためし)さへおはしまさずや。

〈作者註して曰く、信長紀伊の雑賀(さいが)孫一郎等を(とき)(くだ)らしめんとて使をやるに、使帰らず其殺されしや留らるゝやの間いまだ分明ならず。信長重ねて稲葉伊豫守(いよのかみ)に命ず。稻葉乃ち彼地(かのち)(ゆい)て孫一郎等を説き降す。此時信長孫一郎に問ふて曰く、初めの使は如何(いかん)。孫一郎が曰く臣之を殺す。曰く何が故に之を殺すや。曰くその人騎歩多く候ひければ、兼て案内をも通ぜず、馬に乗りながら俄かに城門を叩き、信長の使と称して言誇り色驕れり。(はかつ)て臣を擒殺(きんさつ)せんとするものなりと思ひ、之を討果して候。信長曰く然らば何が故に稻葉を殺さゞるや。孫一郎が曰く、稻葉は其躰(そのてい)はじめの使と大に異なり、先づ五六里前より案内を慇懃(いんぎん)に云ひ、信長の使として来る。(しん)(やぐら)(のぼり)て之を見るに馬鞍をかざらず、扮装(いでたち)質素にして、歩士只十人(ばかり)つれて、城門の外より馬にて(おり)たち、人を残し若党二人(ににん)草履取一人()し、威儀を正しくして、(しづ)かに歩み来る。臣大に之を感じ、自ら門に出迎ひ、内に招入(まねぎいれ)口喋(こうじやう)を聞くに、義理明かにして而かも恭敬なり。股引(もゝひき)のはづれを見るに布の下帯をしたり。是れ即ち身を倹にして財を武事に用ふる志なるべし。(しん)(その)良士の風あるに化せられて帰服すと。信長之を聞きて且つ笑ひ且つ嘆ず。〉

 少しく出家の心を(あはれ)み、御怒りを(なだ)めさせ玉へ、焼打とはお仕置手荒し。せめては寺僧皆々追放の御仕置にて御堪忍あるべし、我公には元亀二年九月十三日比叡山を焼払ひて三千の衆徒を(りく)し玉ひ、(さき)に本願寺の門徒数千を長嶋表(ながしまおもて)に殺させ、又近くは本願寺を開きて其門徒を厳刑に行はせ玉ひき。(わけ)て叡山の如きは、桓武天皇勅を伝教大師に下し給ひ、王城鎭固の為とて草創ありし霊山、然るを一時に兀山(はげやま)となし玉ひければ、世の佛法帰依(きえ)(やから)は、君をさして佛敵法敵と恨み候、元来御心荒々しくまします故かゝる情なき御仕置……。

 ハツタと曲彔を投げつけて、足音荒く突立ちたる信長、だ……だ……黙れ光秀! 許しておけば何処までも君悪を数へ挙げて(われ)を罵る不忠者、(おの)れ生臭坊主の肩を持ち、武田の浪人を助命させんとする段々、不届の至りなり。()して人には人の道あり禽獣と同じからずなどと申して、暗に主君を禽獣に譬ふるのみならず、天道を破り国家の典章に反くなどと悪口雑言の有るだけを極め、更に君を君とせざる(おの)れが賊心憎むに堪へたり。佛教余り世に(はびこ)り、政道に背く所為(しよゐ)あればこそ、此信長は懲すなれ。此信長は猶此後とても、国中の寺院を焼て田畠(でんばた)となし、坊主どもを百姓に成し、ますます国の益を謀らん心底、天下を知る信長が深き心を、汝れ如き愚人の分際にて何弁へての諌言なるぞ。ソコ立て! 下れ!。

 光秀は猶も進みより(かさね)(ことば)(いだ)さんとすを、短気の信長(こら)へかね、ツヽと進みて光秀が(もとゞり)を左の手に取て引伏せ、右手(めて)の拳を握り、(かしら)も砕けよと(つゞ)け打、其儘突倒し蹴散して内に入る。

 今迄手に汗を握り息を詰て気づかはしげに(ひか)へ居たる諸士も流石に光秀を気の毒とや思ひけん、側に寄りて様々に之を(なだ)むれば、光秀はやがて形を正して座に直り、方々お気づかひ召さるゝな。我公には余りお心易く(おぼ)すゆゑ、当座の御怒りにて斯く御打擲(ごちやうちやく)、殊更御酒(ごしゆ)をきこし(めし)おはしませば……。と悠然として風も知らず雨も知らず。

 遥か隔たりたる此方(こなた)の間に(ひか)へ居る光秀が家臣、四王天但馬(しわうでんたじま)、安田作兵衛(さくびやうゑ)の両人、之を見て歯を(くひ)しばり頭上の汗は煙の如し、見れば両人ともいつしか眼元には無念の涙!。

   第六

 信長の(おほせ)を蒙むりたる軍兵二百余人、恵林寺の周囲を取囲み風上に枯草を積みて火を放ちければ、無慈悲なる風は猛悪なる火の手を助け、見る間に山門の本堂金堂方丈鐘楼に火移り住持快川大通智勝国師を始めとし、諸寺の長老六人、単寮(たうれう)十二人、平僧(へいそう)児小僧(ちごそう)四十三人、悉く焼殺されしぞ()に哀れの極みなる。

 甲府城の楼に登りて之を見物する織田信長、寵童森蘭丸に酒を酌ませ乍ら、ハテ(もゆ)るわ燃るわ、小気味よく燃るわ、(この)好下物(よいさかな)あるに(こゝ)に長政が髑髏(など)なきこそ(うら)みなれ。

   * * *

 黒烟炎々天を(こが)し、堂塔落ち衆徒叫ぶの惨状を、此方(こなた)の物見より見る光秀の心中果して如何(いか)ならん。

 アヽわれ光秀何の不幸ぞ、生れて既に二度三度、かゝる惨状を忍んで坐視せねばならぬとは、我曾て我公(わがきみ)に対し、君寵余り厚からざる佐久間信盛と共に、叡山の焼討を諌めしことあるに、昨日又勝誇り玉へる時に際し、席を(ひか)へて恵林寺の焼討を争ひき。(その)諌争は両度とも茶室にあらず、燕居(えんきよ)の時に(あら)ず、宿將功臣綺羅星(きらほし)の如く列びし席なり。其諌言は人情習慣に(もと)ると云ひ、国家の典章に背くと云ひ、人倫天道を破ると云ひ、仕置手荒しといふ厳正なる強諌なり、たとひ胸裡に利害の雲なく、徳望一世に高くして能く人言を()るゝ君子と雖も、かゝる強諌に対しては(たひら)かならぬに、()して猜疑深き我公に対するに信用(もちゐ)薄き(われ)が諌言、恰も石の鉄に触るゝと同じく、一閃の火光(いか)で起らざることのあるべき。天下身を危くする者寧(むし)ろ之に優るものあらんや。我所業を()の猿冠者などの眼より見ば、日本一の馬鹿者と見えん。我愚なりと雖も此理、此危険を知らざるにあらず。之を知りつゝ而も此強諌を為すは、我に一片の人情あればなり。我に一点の熱涙あればなり。居ながら閲歴ある堂塔の炎上するを見るに忍びざればなり、坐して幾百千の衆徒が火炎に叫喚するを聞くに忍びざればなり。アヽ戦国の世に生れたる我、不幸にして仁義の一端を嘗めたるこそ憾みなれ。我()し羽柴柴田の諸將の如く、人情を(なみ)し歴史を(なみ)し、涙と血を身より離すことを得ば、我も亦た忍ぶに慣れたる右府公(うふこう)に從ひ、其意気を迎ふることを得るならんに。思へば我が人物の乱世に不似合にして羽柴等の如く世を滑るに巧みならぬこそ憾みなれ。アヽ我に此眼此心なくば今日茲に伽藍の炎上を見るも、かゝる切なさは無きものを。

 思へば今の世、人に権なく、天に父なく、数多(あまた)の六尺男児「我」を(なみ)し意識を(なみ)して、偽君子偽英雄の品玉(しなだま)となり、空しく釜中(ふちゆう)の魚となされ、竈下(さうか)の煙となさるゝこと痛嘆の至りなり。必寛是れ漢土(もろこし)道徳の迷雲四海を覆ひ、偏小狭隘なる忠孝論我が日の(もと)を暗くするに依る。我が眼光は不幸にも右府公よりも多く見遠く見たり。去れば柴田、丹羽、瀧川、佐久間等の儕輩(せいはい)の如くに、事の善悪邪正に係はらず、「我」を(なみ)し意識を無して主君に從ふを得ず。織田家の宿將なる者は皆な痛飲罵詈(ばり)して放言をするより外、身に一長技なき代りに、主君には無意識に從ひ、殆んど犬猫の如くに使はるゝを得るも、我は無意識に使はるゝ能はず。アヽ君には如何なる時にても抗すべからざるか、君もし臣を釜中に置かば魚となりて煮られざるべからざるか。君もし臣を炉中に投ぜば豆がらとなりて(けむり)とならざるべからざるか。臣は君に対して器具(うつは)となり、犬猫となり、用なくんば匣中(かふちゆう)に潜みて光芒を(あら)はさず、塵芥に(まみ)れて終らざるべからざるか、君といふを(かさ)に着て臣に凶暴非道を命ずれば、臣たる者は唯々(いゝ)として其命に從ふ、是れ果して真の忠臣といひ奉公といふものなるか。アヽ(かく)の如き漢土伝来の誤りたる道徳を破り、忠孝論を破るは、果して(いつ)の日ぞ、思へば此光秀が責任(せめ)も亦た重し。

   第七

 天正十年五月上旬東国より安土の信長公へ上客(じやうかく)(=家康)の入来(じゆらい)あるに附き、大宝院を以て旅舘と定められ、惟任日向守(これとうひゆうがのかみ)(=光秀)を以て是が饗応司(きやうおうし)に命ぜらる。勿論疎略の待遇あるべからずとの内意、信長の家臣多しといへど皆な武骨豪放一偏の士にして、其人品、文事古例に通じ、辞礼に(なら)ひ、風流韻事を解し、兼て都の手ぶりを知る光秀の如きもの一人(いちにん)もなし。是れ光秀が此度饗応司に命ぜられたる所以(ゆゑん)なり。

 頃日(このごろ)幾度(いくたび)か罪なきに主君の(はづかしめ)めを蒙る光秀、(こゝ)に始めて心を安んじ、此度の任命面目あるに似たり。心を尽して準備せざるべからずとて、大宝院に假の御殿を修理し、壁に風韻ある絵を画かせ、柱に雅致ある彫刻を施させ、居室寝室の装飾(かざり)、茶席の好み、さては庭石庭樹の配置、床の間の結構より、杯盤の調度、庖刀の準備(ようい)に至るまで、古実に(かんが)みて能く風雅の意を得、能く装飾の法に(かな)へり。其他四方の番所、路次の警固、用意到らざる所なし、信長役人をして此結構を見分せしむ。役人素より有職(いうしよく)の道に暗く、又風流韻事を解せざれば、光秀の用意を見るの眼なし。去れば其善美法に過ぎたる旨を言上(ごんじやう)す。信長大に之を怒り、光秀を召し(おほせ)けるは、汝今度(このたび)の饗応いかに心得しや。上もなき華美を尽し、世にも稀なる珍器を集め、七宝を(あくた)の如く(かざ)(ちりば)め、費用を惜しまずして、(いたづ))らに辺幅を飾り、法外の奔走思慮なき僻事(ひがごと)といふべし。家康は我が客なりと雖も、言はゞ早晩(わが)幕下(ばつか)に附して臣礼を執るべきもの、()禁裏仙洞(きんりせんとう)の勅使下向あらば、此上何を以て饗応すべきや。今度の結構我が心に(かな)はず。是角(これずみ)五郎左衛門を以て汝に代らしめて饗応司となさん。汝は坂本に帰りて罪を待つべし。

 君の御感(ぎよかん)に預らんとて、殆んど夜の目も眠らずして心力(しんりき)を尽したる光秀、意外なる譴責(けんせき)を蒙り、本意なきことに思ひ、君に言葉を返すは不敬なれども、伏して(ねがは)くば猶一応他の役人をして御見分をこそ願はしけれ。其上にて君の御心に(みた)ずば此光秀如何なるお処置(しおき)に逢ふも更に苦しからず……。黙れ! 光秀、(おの)れ身の過失(あやまち)をも省みず、役人の見分を恨み、(あまつ)さへ平生(ひごろ)より我を侮るが如き口気(こうき)(しゆう)を主と思はざるにや、以来の為ぞ、見せしめの為めぞ、誰かある此鉄扇を以て彼が(かうべ)を打て!。

 近士小姓(きんじこしやう)の面々顔見合せて立兼(たちかね)たるに、森蘭丸スツと立ち、光秀が(もとゞり)を握りて面を(あげ)させ、光秀殿御上意なるぞ。鉄扇振り上てしたゝかに打ちければ、烏帽子(やぶれ)て髪乱れ額(さけ)て血流る。

 やがて御前を退けられ門外に出でたる光秀、心に吟ずらく、行止(かうし)千萬端、誰知(たれかしる)非與是(ひとぜと)、アヽ大忍大忍! 韓信が股をくゞるも彼の一時、張良が(くつ)を拾ふも彼の一時。

   * * *

 明智治右衛門、四王天但馬、並河掃部(かもん)其他藤田、進士(しんし)、溝尾安田の諸士の面々今主人光秀が髪を乱し額を裂かれて帰りたるを見るや(いな)、一同何事をか評議して御前に至らんとす。時に後ろに声あり、各位(おのおの)しばらくしばらく。一同顧みれば是れ斎藤内蔵介利三(くらのすけとしざう)なりき、シテ内藏介殿には、何故に我々をお(とゞ)め召さるゝ。今日の右府公の御打擲貴殿(きでん)は無念とは(おぼ)さずや。ハヽヽ各位御量見の狭きこと仰せらるゝな。人に叩かれたと思へばこそ無念なれ。禽……獣……イヤサ狡童(こわつぱ)河童(かつぱ)……ソウソウ其の河童に叩かれたと思へば、腹も立たねば無念でも(ござ)らぬ、ハヽヽヽ。

   第八

 われ斎藤内蔵介利三、元是れ美濃の国主斎藤山城守秀龍(ひでたつ)が甥なるに、(さん)ぬる永禄七年、信長公の為に斎藤家は其跡を失ひければ、われ浪々(ろうろう)の身となつてさまよひしも、わが君日向守殿、同国旧知の「好みを(おぼ)しめされ、厚く扶助を加へ玉ひしこと、譬ふるも勿躰(もつたい)なけれど其間柄殆んど兄弟も(たゞ)ならず。かくて稲葉伊豫守入道一徹斎、わが君日向守殿に請はれ我を招きて家臣となし、名和和泉守長持と共に重用(ちようよう)し玉ひけるに、朋輩の士偏執(へんしふ)し、我々両人を讒言(ざんげん)しければ、伊豫守殿の御勘氣を蒙りて遂に追放を命ぜられたり。(こゝ)に於て我々両人詮方なく又も光秀公に乞ふて臣下となりしに、光秀公は(いた)く我々両人を愛し玉ひて、扶持(ふち)し玉ふこと伊豫守殿に倍せり。伊豫守殿之を聞きて光秀公を恨み玉ひ(ことわり)告げて、我々を召返さんと思ひ玉へりとか。

 (ほの)かに聞く去月上旬、右府公戦功の將士に恩賞を行はせ玉ふ時、稲葉伊豫守殿を(めさ)せ玉ひ、今度(このたび)甲信の合戦伊奈郡の(はたらき)に於て汝忠節もなく功名もなきは何故ぞと尋ねられ玉ひしに、伊豫守殿赤面して答へられけるは、(それがし)羽翼(うよく)の臣、斎藤内藏介名和和泉守の両人、些小の儀にて缺落致し、惟任日向守が(もと)(まかり)在り候、(それがし)今杖とも柱とも頼みし両勇士を失ひ、甚だ迷惑致し、日向守に乞ふて両人を帰参せしめんと計り候へども、日向守は如何なる訳にや、更に両人を出さず、今度(このたび)の合戦右体(みぎてい)の混乱に依て、家中の者至剛の志も(いで)ず候やらん、(いと)面目なき次第に候と申上しに、右府公是を聞し召され、光秀公を召させ玉ひ、汝光秀、元來、己が智勇に誇り、朋輩を蔑如(べつじよ)にするのみならず、今度(そち)が軍用を見るに、半役(はんえき)にして丹波勢五千余騎召連(めしつれ)、人馬の装束一際(ひときは)奇麗(きら)を尽せり。又汝伊豫守が郎等斎藤内藏介名和和泉守が武勇を知り、計略を以て呼よせ、高知を以て抱え置く由を聞けり。左様にては稲葉如き小身の者は、好き家来を扶持すること成がたく、諸氏の風俗を損ふ條重々不届の至りなり。内藏介和泉守の両人に切腹申つくべしと怒り玉ひしかば、光秀公兎角(とかう)の言葉もなく畏まつて(おは)せしに幸に猪子兵助(ゐのこひやうすけ)殿ありて様々に右府公を(なだ)めまゐらせ、終に我々両人に向ひ稲葉家に帰参すべしとの猪子殿の勧めあり、名和和泉守は已むを得ず稲葉家へ帰りたれども、此内藏介は縦令(たとひ)一命を取らるゝとも、今更千載一義の君たる光秀公を離れんこと思ひも寄らず。()して稲葉家に帰るが如きは如何なる人の声掛(こゑがかり)なりとも之に従ふべきにあらずとて、其儘動かざりしに頃日(このごろ)右府公は光秀公に向はせ玉ひ、汝光秀法に背き、礼に(たが)ひ、内藏介を元の如く召使ふ由、主君を軽蔑する條奇怪(きつくわい)なりとて(いた)く責め玉ひ、近士に命じて竹刀(しなへ)を以て光秀公を()たせ玉ひし由。アヽ我君は我あるが為めに、竹刀にて撲たれ玉へり。我あるが為めに忍び難き恥辱を忍び玉へり。而して今日は又殿中に於て鉄扇にて眉間を割られ玉ひしも、上客饗応の結構右府公の御意(ぎよい)に満たざる為とは言へ、畢竟は此内藏介が明智家を去らざることを、右府公根に持ち玉へばなり。

 去るにても我君が取るに足らぬ此内藏介を恵み玉ふことの深さよ。同国旧知の(よし)みを思し召されての御厚意、思へば空恐しきほど勿躰なし。アヽ今我に命を君の馬前に(おと)すの機会なきこそ遺憾(うらみ)なれ。われ明智家に在ツては君の身の上危し。去りとてわれ明智家を離るゝの念毛頭なし。去らんか去る(あた)はず。(とゞ)まらんか留る能はず。死! 死! 今自ら死するは(いと)易けれど。君恩の萬一をも酬いずして犬死する内藏介が不運、アヽ弓矢の神にも見捨てられたるか。

 意思(こゝ)に一決したる斎藤内藏介利三、双肌抜ぎて一刀を逆手に持ち、(まさ)に割腹せんとする後に声あり、()て! 内蔵介。

 我君か、(ねがは)くば内藏介が衷情(こゝろ)御酌(おんく)みあツて自殺を見のがし玉へ。俟て! 利三、一命を我に献げたる(そち)、誰に断りての割腹ぞ、勝手に割腹すること罷りならぬ。ハヽツ。

 やがて光秀は(げん)然として涙を流し、我に(そち)が自殺を見のがす心あらば、(いか)で竹刀の恥辱を忍ばんや。見よ光秀が眉間を、五十萬石の大將奴卒(ぬそつ)の如くに(はぢ)しめられ、今日も亦た斯く(かほ)を打たれたり。去れど之を以て百千の兵に優る一人(いちにん)の勇士を買ひ得たりと思へば廉価(やすき)ものなり。利三(としざう)肌を入れよ、切腹すること(まか)りならぬ。ハヽツ。

 見れば六尺の大男、何に感じ何に動かされてか眼に鉄腸より湧き(いだ)す熱涙を浮べ、主君を仰いで合掌平身。

   第九

 内藏介は漸く(なんだ)を払ひ(かしら)を上げ、我君に大忍の御美徳ましますは今に初めぬことながら、此内藏介今更一入(ひとしほ)敬服に堪へず候。我君には先月以来(このかた)、衆人稠坐(てうざ)の前にて(あたか)も子供の如くに打擲に逢ひ玉ふこと三度、(しか)のみならず(さき)に山陰西海二道の追捕使を召上られ玉ひ、甲信の合戦にては諸將悉く恩賞を受くるも、独り我君のみは其沙汰に漏れ玉ふ。(あまつさ)へ今日は又故もなく饗応司を()められ玉ふ。然るに我君には(つゆ)右府公を恨み玉ふ御気色(みけしき)だになく。御大腹(ごたいふく)の程、某等(それがしら)の如き凡眼を以て伺ひ知るべきにあらず。去れど君の御領地江州滋賀郡は元……と言ひかけて四辺(あたり)に気を配り、滋賀郡は元森蘭丸の父三左衛門が所領にして、兼て蘭丸が出生地なれば、蘭丸一夜旧領相続致したき旨を哀願せしに、右府公は是を(きこ)し召され滋賀郡は今は惟任光秀に與へあれば今更故もなく召上(めしあげ)んやうなし。今二三年相待つべし。(そち)が所望に任すべしと(のたま)ひしよし。之を御次(おつぎ)の間にて座睡(ゐねむり)しながら聞きゐたる連歌師紹巴法橋(せうはほつけう)(ひそ)かに(それがし)に知らせたり。蘭丸が力を極めて君を打ちしも根のあること、是にて思ひ当るなり。(そも)右府公は申すも恐れ多きことながら、猜忌(さいぎ)嫉妬の念深く、人の非を憎み玉ふこと甚だしく二六時中瞋恚(しんい)(ほむら)に身を(こが)し玉ひ、一戦一捷を経るごとに、功臣宿將の旧罪を(あば)きて之を(ゆる)し玉ふの御寛大は更に之れ無し。去れば年毎に罪に行はるゝもの数を知らず。(さき)に林佐

渡守佐久間右衛門太夫の封を()ぎ、又安藤伊賀守荒木摂津守を殺し玉へり。韓信は西に在り、彭越(ほうえつ)は東に在りて、()く漢王の残忍なるを驚嘆せるに、我君独り漢王の残忍に驚き玉はぬは何事ぞ。三年(みとせ)の後は御身上(おみのうへ)の一大事にこそ、明智家の滅亡は……。叱ツ……利三(としざう)(ひか)へをらう! 右府公は此の光秀を流浪の身より今五十萬石の領主に取上玉ひし大恩人なるぞ。ハヽツ。

   * * *

 天正十年五月十七日、羽柴筑前守より飛札(ひさつ)安土に到来して、備中(びつちゆう)の高松城川々の水を堰入(せきい)水攻(みづぜめ)に致したれば、落城(すで)旦夕(たんせき)にあり。然るに毛利右馬頭(うまのかみ)輝元、吉川(きつかは)小早川の両将を従へ大軍を以て後詰(ごづめ)の為め出張に及び候。此時を外さず御出馬あるに於ては、中国西国一撃して征服するを得べしと訴へければ、信長之を聞き輝元以下が出陣こそ願ふ所の幸ひなれ。我此時を失はず出馬して一時に雌雄を決すべしとて、(には)かに出陣の用意さまざまなり。先手(さきて)の面々各其用意をなし、当月中に自国を(たつ)て備中へ下向(げかう)すべしとの事にて、其人々へ触状(ふれじやう)を廻させける、其書に曰く、

 此度(こたび)備中国後詰の為めに近日彼国(かのくに)へ御出馬あるべき者也之に依て先手の銘々我より先に彼地に至り羽柴筑前守が指図に従ふべきもの也

 池田藤三郎殿、同 紀伊守殿、同 三右衛門殿、

 堀 久太郎殿、惟任日向守殿、細川刑部太夫殿、

 中川 瀬平殿、高山 右近殿、安部仁左衛門殿、

 塩川伯耆守殿、

                  信長判

  天正十年五月十九日

 此書を見るより明智家の家臣(こぞ)つて(いた)く激昂せり。激昂して(おほひ)に光秀に迫る。

   第十

 中国出馬先手(さきて)触状(ふれじやう)明智が(やかた)に到るや、光秀が家臣明智治右衛門、同十郎左衛門、藤田伝五郎、四王天但馬守、並川掃部介(かもんのすけ))、村上和泉守、奥田左衛門尉、三毛藤兵衛(さんまうとうびやうゑ)、今岸頼母(たのも)、溝尾庄兵衛、進士作左衛門等は勿論平生(ひごろ)温厚深沈なる明智左馬助、妻木主計頭(かずへのかみ)に至るまで大に怒り、一同打揃ふて光秀の御前に出で、ソモ御当家は今一方の大將にして五十萬石の領主、御当家の幕下(ばつか)に随ふもの京極栃木を始め、江州(がうしう)丹州両国に数多(あまた)之れあり。織田家の臣下中御当家の右に出づるもの僅かに一両輩あるのみ。然るに此触状を見るに御当家は無官小身の池田堀等が下に(かき)のせらるゝ條、明智家の不面目何物か之に過ぎん、且又秀吉が指図に従へとは何事ぞ、秀吉は我君の同輩にあらずや。右府公に仕へまゐらせし年月は秀吉我君より(さき)なりといへども家名経歴(すじやう)に至ツては我君遙かに秀吉の(かみ)にあり。(あまつさ)へ我君の御年、秀吉に長じ玉ふこと殆んど十歳、()るに我君は中川安部の輩と同じく取扱はれ玉ひ、秀吉が指図に任せられ玉はんこと、()に無念の至りなり。()して先般より再三再四の恥辱を思ひ合すれば、悉く是れ御当家の大々不面目。之をしも忍ぶべくんば(いづ)れをか忍ぶべからざらん。臣等死すとも黙する(あた)はず。我君には如何(いかに)御思慮遊ばさるゝや。諸士一同が熱涙を(ふる)つての言上(ごんじやう)

 此方(こなた)は悠然として空耳に聞き流し、ハヽヽヽ汝ら血迷ひしか見苦しゝ見苦しゝ、斯程(かほど)の小事に心を取乱しては嗜みある武士とは申されぬぞ。ナヽ何と……。我君には之をしも小事と申さるゝか。ハテ知れたこと。小事も小事も隣家(となり)の熟柿を烏がつくじりし程にもあらぬ小事、当家を無官小身の下に書きのせられたとて、何で(それ)が不面目になる。同輩の秀吉に従へよと言はれたとて、何で夫が恥辱になる。戦場にては(あなが)平生(ひごろ)の順序に(かゝは)らざる場合もある。汝等も左様な子供らしきこと申さずに今少しく大人(おとな)になれ大人に! 去るにてもアノ猿冠者()、中々抜目なき大將ならずや、毛利両川(りやうせん)大勢(たいぜい)を一手に引受(ひきうく)るも敢て(ひけ)を取る秀吉ならねど、赫々の功名を一人にて担はんは疑ひを公に(かう)ぶり身を危ふくする(もとゐ)なることを(おもんぱ)かり、故意(わざ)(きみ)の御出馬を仰ぎ、自らは功の実を取りて君に功の名を譲らんとする野心。(さて)(ぬか)りなき猿冠者ならずやハヽヽヽ。

 話端(はなし)余所(よそ)に転じて、燃え立つ諸士の激昂を(さま)し、胸に昨日の無念もなければ、今日の不面目もなし。光秀の度量深さ果して幾千仭。

   * * *

 光秀は諸氏の激昂を(なだ)め、触状に判を(おし)て先々へぞ送りける。其翌日青山與三(よざう)信長公の上使として光秀が舘に(きた)る。

 今度惟任日向守が領地丹波近江の二国は召上(めしあげ)らる其代りとして出雲石見(いづもいはみ)の二ケ国を賜はる間、是より追て自力を以て合戦を取結び十分雲石両国の平均を勤むべきものなり右有りがたく御請(おんうけ)申せ。

 と申捨(まうしすて)てぞ帰りける。

 茫然として上使の後姿を見送りたる光秀、やうやく我に返りてキツト安土城の一方を睨み、フム、サテは

 明智左馬助(さまのすけ)、斎藤内蔵介(くらのすけ)の両人歯を(くひ)しばりて左右より、我君!

此方(こなた)の光秀は聞かぬふりして声を揚げ、明日早朝急ぎ坂本亀へ向け発足し、中国先手(さきて)出陣の用意をなすべし。我は是より信長公へお暇乞の為め登城すべし。用意々々!。

 妻木主計頭(かずへのかみ)四王天但馬守の両人(こら)へ兼てや是も歯を咬しばりて左右より摺寄(すりよ)り、わ……わ……我君!

 叱ツ! うたかたの哀れはかなき世の中に蝸牛の角の争ひもはかなかりける心かな。

   第十一

 (おの)れ信長! 亡情残忍傲慢無礼! 此光秀を散々に弄び、散々に追ひ使ひ、(つい)て砕いて、手を斬り足を斬り、(つひ)に我首を斬り胴を斬り、我家(わがいへ)を滅却せずば()まざる所存よな。殷鑑(いんかん)近く佐久間信盛林佐渡守荒木村重等が身の上に在り。我豈(あに)おめおめと前車の覆へるに(なら)はんや。

 (おの)れ信長! 我に丹波近江の領地を奪ふて、之に(かゆ)るに未だ平均せざる出雲石見の二国を以てす。是れ掌中の鳩を奪ふて空に飛ぶ雀を(あた)ふるもの、之れをしも非道と言はずんば何をか非道と言はん。今より我家子(わがいへのこ)郎党は闇夜(あんや)に燈を失ひたるが如く、しばらくも身を安んずべき所なく、沖へも寄らず磯へも付ず、名もなき野原に饑渇(きかつ)(かばね)(さら)すに至らん。是れ我家(わがいへ)を滅却せしめん汝が所存、鏡に懸て見るよりも明かなり。

 我、わが家臣の忠勇に()り、元亀二年西近江を切随へ、天正三年丹波を討つ、其間(そのかん)殆んど三五年、或は数多(あまた)の忠良を失ひ或は数多の股肱(ここう)を亡ぼし、数々の辛酸を嘗め心力(しんりき)を尽して漸く此二ケ国を平定せり。然るを今一朝、故もなく之を()ぐ何等の残虐ぞ。我今迄忍ぶだけは忍びたりと雖も、最早(こゝ)に至りて忍ぶべからず。臣子の分限(ぶんげん)忠孝の道、我善く之を知る、()し此光秀に罪あらば九族を()せらるゝも、腰斬(こしきり)の処刑に逢ふも露恨まず。去れど我織田家に仕へて十七年、一意織田家の為めを思ひ、織田家の為めに尽す、其功敢て譜代(ふだい)恩顧の將士に劣らず。賞せらるべき功あるも罰せらるべき罪更に無し。罪なくして(しひ)さるゝは、如何に君臣の間と雖も、此光秀は黙従する(あた)はず。

「臣は君に全身を献ぐべし。一旦君臣の約をなせば君主の正邪は臣下の問ふ所にあらず、君()九錫(きうしやく)を加へて(せん)して帝とならば、臣は其間(そのかん)に是非曲直を論ぜず、其君に(つか)へて忠臣となれ、良臣となれ。(いん)縦令(たとひ)無道(ぶだう)なるも周に仕ふる(なか)れ。漢縦令無道なるも(しん)に仕ふる勿れ。君もし臣を火中に投ずるも臣は抗すべからず。君もし臣の(かしら)(たう)を加ふるも臣は抗すべからず」といふは、是れ今日の道徳。アヽ漢土伝来の道徳も亦た酷なるかな。ソモ人と生れたる以上は何人(なんぴと)にも平等に権あり格あり。人の権と人の格を度外に置きて忠孝の道を定む。是れ天下を腐敗せしめ人間を牛馬となすもの、天下(むし)(かく)の如き誤りたる道徳あらんや。

 我、君に敵して今の所謂(いはゆる)乱臣となり、賊子となるも、よもや永久の乱臣賊子とはならざるべし。後の世()一人(いちにん)の具眼多情の人なからんや、我は身を犠牲(いけにへ)となして、誤りたる道徳を破り、真の道徳を(ひら)くものなれば、信長の敵なるも道の忠臣なり。

 アヽ思ひ(めぐら)せば我も善く忍びに忍びたり。我は尾濃の間より身を興せし宿將にあらず。羽柴柴田丹羽佐々(さつさ)(ともがら)と共に君の宴席に陪する時も、我は独り仲間外れとなりて坐隅に沈吟せり、他は皆同郷の交りなれば口を開きて談笑を(ほしいまゝ)にするも、我一人は酔客(すいかく)中に混ずる一醒客(いつせいかく)、常に深沈寡言(しんちんかごん)を守りて他の痛飲罵詈(ばり)を忍びて聞けり。或る時信長公は此光秀が坐隅に沈吟するを御覧じ玉ひ、汝れ光秀、少しく都の手ぶりを知るを鼻にかけて、此めでたき宴席に列しながら(さかづき)をも(かは)さず、口をも開かず、何となく一坐を冷笑(あざわら)ふが如き有様、坐興をさます段不届なり。イデ其罰として、此信長(おのれ)を以て坐興に供へんと宣ひつゝ、晴がましき宴席に於て、(それがし)を坐の中央(まんなか)四匐(よつばひ)させ、信長公自ら馬乗りに乗り玉ひ、好禿顱(かうとくろ)、打たば定めし善き音やせんとて、謡ひながら鼓打(つゞみうち)に打ち玉へることありき。爾後(そのゝち)(それがし)を呼ぶに禿顱(とくろ)と云ひ、馬と云ひ、鼓と云ひ玉ひて、家臣と共に打興じ、(それがし)を酒席の玩弄(もてあそび)となし玉ふこと幾度(いくたび)ぞ、夫れより以後忍びに忍びし無念、恥辱、不面目、積りに積りて今ぞ一時に湧きいづる鬱憤!

(おの)れ信長、今や(この)惟任日向守(おのれ)と主従の縁切ツた、汝れ信長、尾張生れの田舎武士!

 去れど……去れど……天外浮浪の孤客を登用して今の身に取上玉ひし右府公。

   第十二

 思ひ起すわれ光秀、曾て浪々の身となりて国々を経廻り、越前の長崎といへる所に、(わづ)かの所縁(ゆかり)を縋りて暫らく茲に足を留めけるとき、或る夜客あり。われ何がな饗応(もてなし)たく思へども、朝夕の烟さへ(たち)かねたる当年の境遇なれば奈何(いかん)ともせんやうなし、密かにわが妻照子に計りしに、照子はいと易う(うけが)ひて(いで)行けり。程もなく酒肴を調へ来り、心よく客を饗応(もてな)し客も喜びわれも心を安んじぬ。客去りて後われ照子に向ひ、如何にして酒肴を調へ来りしや露計(つゆばか)りの方便なかりしをと問ひけるに、照子は答へて自らもすべき方便無りしゆゑ、髪を(きり)て之を売り、酒肴を調へ(はべ)るといひつゝ、(かしら)(かつ)ぎし帽子を取ればさし櫛の、さしもに黒く麗しかりし髪を根より切てぞ居たりける。此時此光秀が心の(うち)は如何なりしぞ、われ当時三十余歳、かゝる賢婦を持ちながら、数奇(すうき)不遇にしてかくまでに世に零落し、六尺の大男が天にも地にも()ツた一人の妻にまで、かゝる憂目を見することの腑甲斐なさよと、且つ悲み且つ励みて、(それ)より又々志を立て、わが出世の音信(おとづれ)(よもぎ)が蔭にて待ち玉へ、必ず二三年のうちには迎の人を参らすべしとて、(なんだ)ながらに妻と別れし昔の苦労は今の寝物語!

 アヽ是も(ひとへ)に信長公の厚恩、われ当年の乏しきを思はゞ、縦令(たとへ)信長公より如何なる恥辱を受くるとも恨み奉るべき訳にあらず。

 去れど右府公と此光秀とは到底此世に両立し難し。両立し難きのみならず右府公は我を殺さでは()まざる御所存。吾思ふに一人には一人の意識あるが如くに、亦た一人の権ありと。去れば己れを防衛(まも)る為めには、己れを害せんとするものには、敵対するも何の差支(さしつかへ)かあらん。()な敵対するこそ却つて天理なれ。

 (こゝ)に今の世の所謂(いはゆる)正当防衛の理を朧気(おぼろげ)に胸に(うか)べつゝある光秀いくたびか沈吟して又もやムラムラと起る一大企謀。

 われ敢て自ら善く知ると言はず。去れど我は善く忍びたり。今の今まで百事(にん)の一字にて身を守れり。部下数千の勇士が切歯扼腕(せつしやくわん)をも慰め(さと)せり。去れど信長が此世に在らん限りは我は二心なき郎党を捨て、貞操なる妻を棄て、幸福なる家族を棄て、圓頂黒衣一鉢(ゑんちやうこくいいつぱつ)を手にして浮世を外の人となるより、他に此身を全ふするの地なし。信長は虎狼(ころう)なり、群羊の肉を裂き、血を啜るに非ざれば飽くことを知らず。我光秀が取るべき途に今二ツあり。一ツは僧の道、一ツは謀反(むほん)の道なり、我は妻子一族郎党を棄てんか、()た一身を捨てんか、僧となるも一族一門を棄てざるべからず。僧とならざるも亦た一族一門を捨てざるを得ず。我も亦た一個の熱血ある男子なり空し手を(こう)して世を(のが)るゝ(あた)はず。我も亦た一個の乱世の英雄なり、碌々として同輩の指揮に従ひ喪家(さうか)(いぬ)となること能はず。

 (おの)れ信長! (おのれ)は佛敵なり、法敵なり、汝世に在らん限りは人の心を導き、人世の闇を照すべき教法は地を払ふて、六十余州到る処総て野蛮猛悪の風吹荒(ふきすさ)まん。汝は人情の敵なり、道徳の敵なり、善美の敵なり、保存の敵なり、汝世に在らん限りは二千年来保ち続けし(この)神聖無垢の日の(もと)も、可惜(あたら)虎狼の栖家(すみか)とならん、アヽ信長は我一人(われいちにん)の敵にあらずして()に天下の敵なり。我一人は縦令(たとひ)僧となり喪家の狗となることを忍ぶを得るも、天下萬世萬民の為めに忍ぶこと能はず。

 後の世の人、()し眼あらぱ(さいはひ)に此光秀が心情を()め。我は主人織田右府公を(しい)せんとするものにあらずして、天下の敵、佛法の敵、宗旨の敵、人情の敵、道徳の敵、善美の敵、保存の敵なる織田信長といへる、一個の尾張武士を殺さんとするものなるぞ。

   第十三

 此光秀愚なりと雖も、亦た少しく時勢に通ずるの眼あり。()に萬一を僥倖(げうかう)して弓馬棟梁の臣とならんが為めに、四海に号令せんが為めに、信長を殺さんとするものならんや。風雲に際会せば我亦た足利氏に嗣いで將軍とならんとする慾望はなきにしもあらず。()れども我は今此慾望を達せんが為めに、生死を盤上に争はんとする愚者にあらず。今の時は是れ織田家の威権、五畿七道に赫々たるの時、我假令(たとひ)信長信忠を殺し得るとするも、堂々たる宿將功臣豈に敢て悉く我に膝を屈するものならんや。(いは)んや海道には第一の弓取徳川家康のあるをや。我豈に此の無智無謀にして、加ふるに逆臣の汚名を蒙るべき(いくさ)を起さんや。我其無智無謀を知り、又逆臣の汚名を蒙るべきを知り乍ら、且つ事を挙げんとす。()に已むを得ざればなり、我豈に一時の姑息偸安(こそくとうあん)の策を取り、小封(せうほう)を守りて隣国と蝸牛角上の争ひをなすものならんや。皇天后土(さいはひ)に之を知り玉はゞ、(ねがは)くば光秀が衷情(ちゆうじやう)を汲み玉へ。

 無情なる世間、逆賊と言はゞ言へ、乱臣と言はゞ言へ、我は逆賊と言はるゝも、乱臣と呼ばるゝも、心に信ずる所あれば(つゆ)厭はず。アヽ之に就けても往昔(いにしへ)廣嗣(ひろつぐ)の心こそ哀れなれ。廣嗣は朝敵の醜名を流すも、(その)本心は敢て王師(わうし)に抗せんとする者にも非ず。又萬乗の位を覬覦(きゆ)せし者にも非ず。境遇は廣嗣を駆りて(はし)なくも下忠の臣と為し、逆賊の汚名を蒙らしむるに至れり。当時君側の姦玄肪(げんばう)なくば、廣嗣は(あつ)ぱれの良将忠臣なりしや疑ひなし。アヽ我は()に廣嗣が心を憐む。世の人()し其外形に表はれたる(あと)にのみ(なづ)みて其衷情を汲まざらんには、()に其人こそ冷淡乾枯の亡情漢とこそいふべけれ。

   * * *

 亀山城中本丸の木立小暗き(かた)幽味(さび)をかしく建てたる数寄屋(すきや)(うち)竹檠(ちくけい)の燈火を檠撥(かゝ)げて

  心しらぬ人は何ともいはゞいへ

    身をも惜しまじ名をも惜しまじ

 と打吟(うちぎん)ずる者は何人(なんぴと)ぞ。是れ問ふ迄もなく数日(ぜん)安土より帰国の途次、坂本を(よぎ)り、中国出勢祈祷の為めと称して愛宕山(あたごやま)に詣で、西の坊威徳院行祐坊(ぎやういうばう)(もと)にて歌人を集め、通夜(つうや)百韻の連歌を催し、情懐を「時は今(あめ)が下知る五月(さつき)かな」「尾上の朝路夕ぐれの空」の二句に漏らして帰城したる、惟任日向守(これたふひうがのかみ)源光秀にぞある。

   * * *

 亀山城下、積日(せきじつ)淫雨(いんう)漸く晴れて朝暾(てうとん)光鮮(あらた)なる処、甲冑(かつちう)輝き、刀剣鳴り、旗幟(きし)(ひるがへ)り、軍馬(いなゝ)く、是れ中国出征の先手(さきて)に加はり兼て雲石二州の新拝領地に赴かんとする江丹二州の勇卒一萬七百余人の来集したるにぞある。(あく)れば天正十年六月朔日(ついたち)、中国発向の勢揃へと号し、水色に桔梗(ききやう)の紋の大旗を(ひるが)へし、白紙(しらかみ)紙手撓(してじなひ)馬印(うまじるし)を押立てゝ城外能條畑(のでうはた)に打つて出でたる軍兵(ぐんぴやう)(こゝ)にて三手(みて)に分れたり。

 一手は明智左馬助(さまのすけ)を大將とし、四王天但馬守、村上和泉守、妻木主計守(かずへのかみ)三毛(みつげ)式部等之れに従ひ、総数三千七百騎。本道を経て大江の坂を過ぎ、桂の里に(かゝ)る。一手は明智十左衛門を大將とし、藤田伝五郎、並河掃部介(かもんのすけ)、伊勢與三郎、松田太郎左衛門等之に従ひ、総数四千余騎、唐檟越(からとごえ)を経て、松尾山田の村を進む。(しか)して総大將惟任日向守光秀は明智治右衛門、荒木山城守、諏訪飛騨守等の三千余騎を従へて、保津(ほうづ)宿(しゆく)より山中に懸り、内々作らせ置きし尾の道伝への道を(しの)ぎ、衣笠山の麓に進む、而して斎藤内藏介利三(くらのすけとしざう)は参謀として特に光秀の左右に在り。

 諸軍勢此形勢(このありさま)を見て(いぶ)かり、中国への出陣ならば播磨路へこそ(おもむ)くべきに、只今の上洛は不審多きことなりとて、物頭(ものがしら)(むかつ)て之を尋ねしかば、侍大將是を聞き、偽りて信長の仰せ(いだ)さるには、路次の程は迂回(まはり)なれども、当手(たうて)の武者(ぶり)京都にて御見物あるべき旨に付、一度京都へ押入るなりと答へければ諸軍()にさることもこそとて、何心もつかず夜もすがら、駒を早めて都近くへぞ上りける。

 夜いまだ(あけ)ざる内に忽ち軍中に令あり。曰く兵糧(ひやうらう)をつかひ武具(ぐそく)を固めよ。既にして再び高く響く軍令、敵は本能寺にあるぞ急ぎ攻撃(せめう)て! 一声(いつせい)凛として厳明。

 サテは謀反かと初めて知りたる総軍勢、少しは驚き騒ぐならんと思ひの外、一同歓呼して勇み立ち、励み立ち、総数一萬七百余人中一人としてお場所先駈落(かけおち)するものはなかりき。アヽ一人として背くものはなかりき。後の世に乱臣逆賊人非人と歌はるゝ此光秀に! 後の世に非義非道叛逆と呼ばるゝ此所業(しわざ)に!

   第十四

 頃は天正十年六月二日の昧爽(まいさう)、桔梗の九本旗を衣笠山の朝風に(ひるが)へし、勇卒三千余騎を(ひつさ)げたる光秀、大手に向ひし左馬助光俊と、遊軍として控へたる十郎左衛門光秋と、相応呼(あひおうこ)して忽然(こつぜん)鞭を東に揚げ、敵は本能寺に在りと叫びたる数刻の後は、即ち惟任日向守明智光秀が、世に鬼神と呼ばれし正二位右大臣織田信長を生害(しやうがい)せしめ、其鮮血に染みたる燼余の白綾衣(しらあや)を、冷然(ひやゝか)なる(ゑみ)(うち)に眺め乍ら、(やいば)を以て之を貫くの時なりき。

 漢土道徳の迷雲四海を覆ひ、狭隘なる忠孝論天下を暗くし、人に権なく臣に意識なき封建の世を歎じ、正当防衛の為めに、宗教の為めに、美術の為めに、人情の為めに、保存旨義(しぎ)の為めに織田信長と称する尾張生れの一個の田舎武士を殺したる時は、即ち光秀が最終の目的を達したる時なりき。

 目的既に達すれば希望なし、希望なければ既に人生なし、山崎の一戦、京都の地子銭(ぢしせん)、將軍職の叙任、筒井の裏切等は、光秀に取りては総て是れ死出の旅路の一大遊戯のみ。

   * * *

 塵尾(ほつす)を手にして迷雲を払ふも、猶ほ月黒く風悲し小栗栖(をぐるす)夕闇みの光景(ありさま)。鉄如意一喝(これ)を砕かば一個の枯髑髏(こどくろ)と観ずるも、猶ほ心傷み腸断つ日の岡峠梟首(けうしゆ)光景(ありさま)

 

  順逆無二門  じゆんぎやくにもんなし

  大道徹心源  だいだうしんげんにとほる

  五十五年夢   ごじうごねんのゆめ

  覚来帰一元   さめきたりいちげんにきす

 

 アヽ是れ実に光秀の辞世!            ──大尾(をはり)──

   「惟任日向守」補拾

 佛敵織田信長に、石山本願寺の開門を強ひられ玉ひたる顯如上人(けんによせうにん)御父子、紀州雑賀(さいが)の鷺の森に籠居(ろうきよ)し玉ひ、猶も布教に従事し玉ふを、信長の(めい)を受けたる是角(これずみ)五郎左衛門、天正十年六月三日手勢(てぜい)三千余騎を引具(ひきぐ)(きた)り、不意に鷺の森を囲み柴薪(さいしん)を築地の四方に積み、之に火を附け、一人(いちにん)も残さず焼殺さんとす。幾百の門徒等皆な一同に念佛を唱へ、顯如上人御父子も亦た御堂の佛前に並居(なみゐ)給ひ、最期の読経(どきやう)いと静かに、時刻の至るを待ち給ふおん有様。痛ましくも又た哀れなり。

 何事ぞ、寄手(よせて)の陣屋には大坂宿陣中の神戸(かんべ)侍従信孝より、急使三たび重なり、五郎左衛門顔色変へ、陣々をも其儘に打捨おき、一騎(かけ)にて大坂さして(のぼ)りける。されば総軍俄かに騒ぎ立ち崩れ出し、積掛たる柴薪をも其儘にして再び顧みる者もなく、散々になりて引取りける。此方(こなた)は上人を始め、門徒下輩(げはい)に至るまで、夢の覚めたる心地にて、寄手の敗亡何故ぞやと、且つ(いぶか)り且つ喜ぶ。アヽ是れ本能寺変の翌日の出来事なり。光秀は間接に顯如上人御父子を焼殺中より救ひまゐらせたり。

 中国に出征して大敵に牽制せられつゝある豊臣秀吉が、毛利と和睦して迅雷耳を(おゝ)ふの(いとま)なき勢ひを以て、一騎駈にて帰り来らんとは何人(なんぴと)と雖も(おも)ひ及ばざることなり。然るに光秀は能く此(おも)ひ及ばざることを(おもんぱか)かりて、信長を殺したる翌日の早朝、四王天但馬明石義太夫の両人に命じ、七十余人を率ゐさせ、姿を百姓飛脚の(たぐひ)に変ぜしめて、尼ケ崎西の宮の(かん)に要せしむ、何ぞ夫れ光秀の慧眼なるや。秀吉は果して一騎駈にて来れり。四王天に追窮せられて、馬を失ひ、道を失ひ、(つひ)味噌摺(みそすり)坊主となれり。()し兵の法式より講評するときは、秀吉は当然山崎合戦以前に於て、既に光秀の為めに生擒(いけど)られ梟首(けうしゆ)せられたるものなり。

 山崎合戦の勝敗は、天王山の占領如何(いかん)に在り。秀吉陣地を巡視して、急ぎ営に帰り、堀尾茂助(もすけ)に一千騎を授け、明日の勝敗は只天王山を取ると取らざるとに在り、敵味方の大事の争地なれば、汝急ぎて之れを取れ、早く早く、かまへて等閑(なほざり)にする(なか)れと命ずるときは、是れ六月十二日の夜半中宮甲子(ちゆうきゆうのきのえね)なり。此方(こなた)の光秀が特に山の手の大將松田太郎左衛門を選び、之に又特に丹波七手組(なゝてぐみ)の中より弓鉄砲の術に長ずる者一千人を授け、汝武勇に於て誤ることなき者、故に(こゝ)に一大事を命ずるなり、天王山を敵に取られなば、明日の合戦味方の負けなり、必ずぬかるな、死すとも天王山を敵に渡すな、急げ急げと下知(げぢ)せしは、是れも同じく十二日の夜半中宮甲子なり。秀吉方は幸ひにも後詰(ごづめ)の一千五百騎を得たるが為めに、多くの兵を損じて(殆んど五百人) 、辛うじて天王山を奪へり。去れど此方(こなた)の大将松田太郎左衛門は、部下三百余人を失ひ、終に自らも銃丸に当りて斃るゝまでは、一歩も退かざりき。()し之を兵の法式より講評するときは、光秀の戦術は敢て秀吉に劣らざるなり。

 光秀は初めより洞ケ峠(ほらがたうげ)の筒井勢一萬人を以て、味方には算入せざりしなり。算入せざるのみならず、却て斎藤大八郎、柴田源左衛門等に二千余人を分ちて、之に備へしめたり。光秀はいまだ筒井を信ずる程の愚將にはあらざりしなり。要するに光秀が山崎に破れたるは、秀吉の戦術に負けたるに非ずして、秀吉の僥倖(げうかう)に負けたるなり、敵は吊合戦(とむらひがつせん)といへる美名を有し、我は逆賊といへる醜名あるが故に負けたるなり。思ふに光秀は將軍といへる職に対し、二つには又既に本能寺に於て、最終の目的を遂げし後とて最早(もはや)此上に望みなき身なればきたなき合戦をなさんことの口惜しく、(いさぎよ)く花々しく討死(うちじに)すべしとの一心悟道にて、運を天に任せて戦ひたるなり。

 一萬八千の兵を以て、秀吉の二萬七千の兵(筒井勢を合すれば敵は殆んど四萬)と決戦し、三千五百人を殺し、四千人を手負(ておは)せ、古今未曾有の大激戦を史上に残したる光秀、假令(たとへ)(いくさ)に負けたるも(あつ)ぱれの武將なりけり。

 光秀に殺されたる信長の居城安土(あづち)には、信長の一家一門留守せしも、明智左馬助(さまのすけ)が為めに(やいば)に血ぬらずして抜かれたり。光秀を殺したる秀吉の死後は、家臣離叛して其一門一族醜状頗る多かりき。()れども光秀の一門一族は、山崎坂本の(えき)一人(いちにん)も残らず皆な殉死せり。アヽ一人(いちにん)も残らず皆な見事に殉死せり。左馬助が愛馬を湖水に()り、珍器を敵將に贈りたる何ぞ夫れ最期の美なるや、内藏介(くらのすけ)が捕はれて石田三成(みつなり)を罵り、又秀吉に「御身の如き名将は刑するに忍びず、切腹せよ」と言はれて、「我に切腹すべき刃物あらば、先づ汝を刺さん」と大喝す、何ぞ夫れ其最期の義烈なるや。四王天が加藤清正に縄目の恥を断りて、武士の面目を保ちしが如き、明石義太夫が恥を忍びて赤裸の儘、京に帰り、「弓取の数に(いる)さの身にしあれば何か惜しまん夏の夜の月」の一句を残して割腹(かつぷく)せしが如き、斎藤大八郎が筒井順慶の旗本へ切込(きりこみ)て討死せしが如き、明智十郎左衛門が(いつは)り死して、死骸累々の(かん)に横臥し、秀吉を刺さんとせしが如き、何ぞ夫れ其最期の美なる、忠なる烈なるや。殊に坂本城に於ける光秀が室家(しつか)の深慮貞烈なるは、安土城に於ける信長が室家の狼狽、及び大坂城に於ける秀吉が(せふ)(=淀君)の醜体等と同日に語るべきにあらず。細川忠興(たゞおき)の夫人となりたる光秀が(むすめ)は、或は匕首(あひくち)を懐にして猿郎(ゑんらう)の茶室に入り、或は火炎を()んで節義を(まつた)ふしたり。アヽ一門一族を(かく)の如くに養成したる光秀を、誰か()た無情の人といふや。

 (ぢやう)天の一方を望んで光秀を思へば、喪衣(もい)の雲覆ひ来りて暗涙一滴天辺(てんへん)より落つ。

 

惟任日向守 完

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/10/28

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石橋 忍月

イシバシ ニンゲツ
いしばし にんげつ 批評家・小説家 1865・9・1~1926・2・1 福岡県上妻郡に生まれる。一高時代にすでに批評家として非凡な力を見せ、帝大在学中には小説家としても安定した地位を成していた。文化勲章の批評家山本健吉の父。

掲載作は、1894(明治27)年11月末から翌年12月11日へかけ「北國新聞」に連載、忍月小説の傑作はもとより明治歴史小説の名作に伍して優なるものと称えられた。謀叛の光秀を評し、熱籠もって瞠目の力作。

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