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私の個人主義

 私は今日初めてこの学習院というものの中に這入(はい)りました。(もっと)も以前から学習院は多分この見当だろう位に考えていたには相違ありませんが、判然(はっきり)とは存じませんでした。中へ這入ったのは無論今日が初めてで御座います。

 先程岡田(おかだ)さんが紹介かたがたちょっと御話になった通りこの春何か講演をという御注文でありましたが、その当時は何か差支(さしつかえ)があって、――岡田さんの方が当人の私よりよく御記憶と見えて貴方がたに御納得(なっとく)の出来るようにただ今御説明がありましたが、とにかく一先(ひとま)ず御断りを致さなければならん事になりました。しかし唯御断りを致すのも余り失礼と存じまして、この次には参りますからという条件を付け加えて置きました。その時念のためこの次は何時頃になりますかと岡田さんに伺いましたら、此年(ことし)の十月だという御返事であったので、心のうちに春から十月までの日数を大体繰って見て、それだけの時間があればそのうちにどうにか出来るだろうと思ったものですから、(よろ)しゅう御座いますとはっきり御受合(うけあい)申したのであります。ところが幸か不幸か病気に(かか)りまして、九月一杯(とこ)についておりますうちに御約束の十月が参りました。十月にはもう()せってはおりませんでしたけれども、何しろひょろひょろするので講演はちょっと()ずかしかったのです。しかし御約束を忘れてはならないのですから、腹の中では、今に何かいって来られるだろうだろうと思って、内々(ないない)(こわ)がっていました。

そのうちひょろひょろも遂に(なお)ってしまったけれども、こちらからは、十月末まで何の御沙汰(さた)もなく打ち過ぎました。私は無論病気の事を御通知はして置きませんでしたが、二、三の新聞にちょっと出たという話ですから、あるいはその辺の事情を察せられて、誰かが私の代りに講演をやって下さったのだろうと推測して安心し出しました。所へまた、岡田さんがまた突然見えたのであります。岡田さんはわざわざ長靴を穿()いて見えたのであります。((もっと)も雨の降る日であったからでもありましょうが、)そういった身拵(みごしら)えで、早稲田(わせだ)の奥まで来て下すって、例の講演は十一月の末まで繰り延ばす事にしたから約束通り()ってもらいたいという御口上(ごこうじょう)なのです。私はもう責任を(のが)れたように考えていたものですから実は少々驚ろきました。しかしまだ一ヵ月も余裕があるから、その(あいだ)にどうかなるだろうと思って、宜しゅう御座いますとまた御返事を致しました。

 右の次第で、この春から十月に至るまで、十月末からまた十一月二十五日に至るまでの間に、何か(まとま)った御話をすべき時間はいくらでも拵えられるのですが、どうも少し気分が悪くって、そんな事を考えるのが面倒で堪らなくなりました。そこでまあ十一月二十五日が来るまでは構うまいという横着(おうちゃく)料簡(りょうけん)を起して、ずるずるべったりにその日その日を送っていたのです。いよいよと時日(じじつ)(せま)った二、三日前になって、何か考えなければならないという気が少ししたのですが、やはり考えるのが不愉快なので、とうとう絵を描いて暮らしてしまいました。絵を描くというと何かえらいものが描けるように聞えるかも知れませんが、実は他愛(たあい)もないものを描いて、それを壁に貼り付けて一人で二日も三日もぼんやり眺めているだけなのです。昨日でしたか或人(あるひと)が来て、この絵は大変面白い――いや面白いといったのではありません、面白い気分の時に描いた画らしく見えるといってくれたのでした。それから私は愉快だから描いたのではない、不愉快だから描いたのだといって私の心の状態をその男に説明して()りました。世の中には愉快で()っとしていられない結果を画にしたり、書にしたり、また文にしたりする人がある通り、不愉快だから、どうかして好い心持になりたいと思って、筆を執って画なり文章なりを作る人もあります。そうして不思議にもこの二つの心的状態が結果に現われた所を見ると()く一致している場合が起るのです。しかしこれはほんのついでに申し(あげ)る事で、話の筋に関係した問題でもありませんから深くは立ち入りません。――何しろ私はその変な画を眺めるだけで、講演の内容をちっとも組み立てずに暮らしてしまったのです。

 その(うち)いよいよ二十五日が来たので、(いや)でも(おう)でも此所(ここ)へ顔を出さなければ済まない事になりました。それで今朝少し考を纏めて見ましたが、準備がどうも不足のようです。とても御満足の行くような御話は出来かねますから、そのつもりで御辛抱(しんぼう)を願います。

 この会は何時(いつ)頃から始まって今日まで続いているのか存じませんが、その都度(つど)貴方がたが他所(よそ)の人を連れて来て、講演をさせるのは、一般の慣例として(ごう)も不都合でないと私も認めているのですが、また一方から見ると、それほどあなた方の希望するような面白い講演は、いくら何所(どこ)からどんな人を引張(ひっぱ)って来ても容易に聞かれるものではなかろうとも思うのです。貴方がたにはただ他所の人が珍らしく見えるのではありますまいか。

 私が落語家(はなしか)から聞いた話の中にこんな諷刺的のがあります。――(むか)しある御大名が二人目黒辺(めぐろへん)鷹狩(たかがり)に行って、所々方々(しょしょほうぼう)を馳け廻った末、大変空腹になったが、生憎(あいにく)弁当(べんとう)の用意もなし、家来とも離ればなれになって口腹(こうふく)を充たす(かて)を受ける事が出来ず、仕方なしに二人は其所(そこ)にある汚ない百姓家(ひゃくしょうや)へ馳け込んで、何でも好いから食わせろといったそうです。するとその農家の爺さんと婆さんが気の毒がって、有合(ありあわ)せの秋刀魚(さんま)(あぶ)って二人の大名に麦飯(むぎめし)(すす)めたといいます。二人はその秋刀魚を(さかな)に非常に(うま)く飯を済まして、其所を立出(たちいで)たが、翌日になっても昨日の秋刀魚の(かおり)がぷんぷん鼻を()くといった始末(しまつ)で、どうしてもその味を忘れる事が出来ないのです。それで二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚の御馳走をする事になりました。その(むね)(うけたま)わって驚ろいたのは家来です。しかし主命(しゅめい)ですから反抗するわけには行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛抜で一本一本抜かして、それを味淋(みりん)か何かに漬けたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また馬鹿丁寧(ばかていねい)な料理(ほう)で秋刀魚の味を失った妙な(さかな)(はし)で突っついて見た所で、ちっとも旨くないのです。そこで二人が顔を見合せて、どうも秋刀魚は目黒に限るねといったような変な言葉を発したというのが話の(おち)になっているのですが、私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待っても御聞きになろうというのは、丁度大牢(たいろう)の美味に()いた結果、目黒の秋刀魚がちょっと味わって見たくなったのではないかと思われるのです。

 この席におられる大森(おおもり)教授は私と同年かまたは前後して大学を出られた方ですが、その大森さんが、かつて私にどうも近頃の生徒は自分の講義をよく聴かないで困る、どうも真面目(まじめ)が足りないで不都合(ふつごう)だというような事をいわれた事があります。その評はこの学校の生徒についてではなく、何処かの私立学校の生徒についてだったろうと記憶していますが、何しろ私はその時大森さんに対して失礼な事をいいました。

 此所(ここ)で繰り返していうのも御恥ずかしい訳ですが、私はその時、君などの講義を有難がって聴く生徒が何処の国にいるものかと申したのです。(もっと)も私の主意(しゅい)はその時の大森君には通じていなかったかも知れませんから、この機会を利用して、誤解を防いで置きますが、私どもの書生時代、あなたがたと同年輩、もしくはもう少し大きくなった時代、には、今の貴方がたよりよほど横着で、先生の講義などは殆んど聴いた事がないといっても好い位のものでした。勿論(もちろん)これは私や私の周囲のものを本位(ほんい)として述べるのでありますから、圏外(けんがい)にいたものには通用しないかも知れませんけれども、どうも今の私から振り返って見ると、そんな気が何処かでするように思われるのです。現にこの私は上部(うわべ)だけは温順らしく見えながら、決して講義などに耳を傾ける性質ではありませんでした。始終怠けてのらくらしていました。その記憶をもって、真面目な今の生徒を見ると、どうしても大森君のように、彼らを攻撃する勇気が出て来ないのです。そういった意味からして、つい大森さんに対して済まない乱暴を申したのであります。今日は大森君に(あや)まるためにわざわざ出掛けた次第ではありませんけれども、ついでだからみんなのいる前で、謝罪して置くのです。

 話がつい飛んだ所へ()れてしまいましたから、再び元へ引き返して筋の立つようにいいますと、つまりこうなるのです。

 貴方がたは立派な学校に入って、立派な先生から始終指導を受けていらっしゃる、またその方々(かたがた)の専門的もしくは一般的の講義を毎日聞いていらっしゃる。それだのに私見たようなものを、殊更(ことさら)他所(よそ)から連れて来て、講義を聴こうとなされるのは、丁度先刻(さっき)御話した御大名が目黒の秋刀魚を賞翫(しょうがん)したようなもので、つまりは珍らしいから、一口食って見ようという料簡(りょうけん)じゃないかと推察されるのです。実際をいうと、私のようなものよりも、貴方がたが毎日顔を見ていらっしゃる常雇(じょうやと)いの先生の御話の方がよほど有益でもあり、かつまた面白かろうとも思われるのです。たとい私にした所で、もしこの学校の教授にでもなっていたならば、単に新らしい刺戟のないというだけでも、この位の人数が集って私の講演を御聴きになる熱心なり好奇心なりは起るまいと考えるのですがどんなものでしょう。

 私が何故そんな仮定をするかというと、この私は現に(むか)しこの学習院の教師になろうとした事があるのです。(もっと)も自分で運動した訳でもないのですが、この学校にいた知人が私を推薦してくれたのです。その時分の私は卒業する間際(まぎわ)まで何をして衣食の道を(こう)じていいか知らなかったほどの迂闊者(うかつもの)でしたが、さていよいよ世間へ出て見ると、懐手(ふところで)をして待っていたって、下宿料が入って来る訳でもないので、教育者になれるかなれないかの問題はとにかく、何処かへ(もぐ)り込む必要があったので、ついこの知人のいう通りこの学校へ向けて運動を開始した次第であります。その時分私の敵が一人ありました。しかし私の知人は私に向ってしきりに大丈夫らしい事をいうので、私の方でも、もう任命されたような気分になって、先生はどんな着物を着なければならないのかなどと()いて見たものです。するとその男はモーニングでなくては教場へ出られないといいますから、私はまだ事の(きま)らない先に、モーニングを(あつ)らえてしまったのです。そのくせ学習院とは何処にある学校か()く知らなかったのだから、(すこぶ)る変なものです。さていよいよモーニングが出来上って見ると、豈計(あにはか)らんや折角(せっかく)頼みにしていた学習院の方は落第と事が(きま)ったのです。そうしてもう一人の男が英語教師の空位を充たす事になりました。その人は何という名でしたか今は忘れてしまいました。別段(くや)しくも何ともなかったからでしょう。何でも米国帰りの人とか聞いていました。――それで、もしその時にその米国帰りの人が採用されずに、この私がまぐれ当りに学習院の教師になって、しかも今日まで永続していたなら、こうした鄭重(ていちょう)な御招きを受けて、高い所から貴方がたに御話をする機会も遂に来なかったかも知れますまい。それをこの春から十一月までも待って聴いて下さろうというのは、(とり)も直さず、私が学習院の教師に落第して、貴方がたから目黒の秋刀魚のように珍らしがられている証拠ではありませんか。

 私はこれから学習院を落第してから以後の私について少々申上げようと思います。これは今まで御話をして来た順序だからという意味よりも、今日の講演に必要な部分だからと思って聴いて頂きたいのです。

 私は学習院は落第したが、モーニングだけは着ていました。それより外に着るべき洋服は持っていなかったのだから仕方がありません。そのモーニングを着て何処へ行ったと思いますか? その時分は今と違って就職の(みち)は大変楽でした。どちらを向いても相当の口は開いていたように思われるのです。つまりは人が払底(ふってい)なためだったのでしょう。私のようなものでも高等学校と、高等師範(しはん)から殆んど同時に口が掛りました。私は高等学校へ周旋(しゅうせん)してくれた先輩に半分承諾を与えながら、高等師範の方へも()加減(かげん)な挨拶をしてしまったので、事が変な具合にもつれてしまいました。もともと私が若いから手ぬかりやら、不行届(ふゆきとどき)がちで、とうとう自分に(たた)って来たと思えば仕方がありませんが、弱らせられた事は事実です。私は私の先輩なる高等学校の古参(こさん)の教授の所へ呼びつけられて、こっちへ来るような事をいいながら、(ほか)にも相談をされては、仲に立った私が困るといって譴責(けんせき)されました。私は年の若い上に、馬鹿の癇癪持(かんしゃくもち)ですから、(いっ)そ双方とも(ことわ)ってしまったら好いだろうと考えて、その手続きを()り始めたのです。すると或日当時の高等学校長、今では(たし)か京都の理科大学長をしている久原(くはら)さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、早速出掛けて見ると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎(かのうじごろう)さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談は(きま)ったこっちに遠慮は()らないから高等師範の方へ行ったら()かろうという忠告です。私は行掛(いきがか)り上(いや)だとはいえませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介(やっかい)な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えると勿体(もったい)ない話ですが、私は高等師範などをそれほど有難く思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡(しゅんじゅん)した位でした。嘉納さんは上手(じょうず)な人ですから、(いや)そう正直に断わられると、私は(ますます)貴方に来て頂きたくなったといって、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持(かけもち)しようなどという欲張根性(よくばりこんじょう)は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数を掛けた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。

 しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんも貴方はあまり正直過ぎて困るといった位ですから、あるいはもっと横着(おうちゃく)()めていても()かったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向(ふむき)な所だとしか思われませんでした。奥底(おくそこ)のない打ち明けた御話をすると、当時の私はまあ肴屋(さかなや)が菓子屋へ手伝いに行ったようなものでした。

 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任(ふにん)しました。それは伊予(いよ)松山(まつやま)にある中学校です。貴方がたは松山の中学と聞いて御笑いになるが、大方(おおかた)私の書いた『坊ちゃん』でも御覧になったのでしょう。『坊ちゃん』の中に赤シャツという渾名(あだな)()っている人があるが、あれは一体誰の事だと私はその時分よく()かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士といったら私一人なのですから、もし『坊ちゃん』の中の人物を一々(いちいち)実在のものと認めるならば、赤シャツは即ちこういう私の事にならなければならんので、――甚だ有難い仕合せと申上げたいような訳になります。

 松山にもたった一ヵ年しかおりませんでした。立つ時に知事が()めてくれましたが、もう先方と内約が出来ていたので、とうとう断って其所(そこ)を立ちました。そうして今度は熊本の高等学校に腰を据えました。こういう順序で中学から高等学校、高等学校から大学と順々に私は教えて来た経験を()っていますが、ただ小学校と女学校だけはまだ足を入れた(ためし)が御座いません。

 熊本には大分長くおりました。突然文部省から英国へ留学をしてはどうかという内談のあったのは、熊本へ行ってから何年目になりましょうか。私はその時留学を断わろうかと思いました。それは私のようなものが、何の目的も()たずに、外国へ行ったからといって、別に国家のために役に立つ訳もなかろうと考えたからです。しかるに文部省の内意を取次いでくれた教頭が、それは先方の見込みなのだから、君の方で自分を評価する必要はない、ともかくも行った方が好かろうというので、私も絶対に反抗する理由もないから、命令通り英国へ行きました。しかし果たせるかな何もする事がないのです。

 それを説明するためには、それまでの私というものを一応御話ししなければならん事になります。その御話が即ち今日の講演の一部を構成する訳なのですからそのつもりで御聞きを願います。

 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。その頃はヂクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちているといって叱られたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーヅウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは(いく)通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物(さくぶつ)を年代順に並べて見ろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像が出来るでしょう、果してこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく()いて第一文学とはどういうものだか、これでは到底(とうてい)解るはずがありません。それなら自力(じりき)でそれを(きわ)め得るかというと、まあ盲目の垣覗(かきのぞ)きといったようなもので、図書館に入って、何処(どこ)をどううろついても手掛(てがかり)がないのです。これは自力(じりき)の足りないばかりでなくその道に関した書物も(とぼ)しかったのだろうと思います。とにかく三年勉強して、遂に文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶(はんもん)は第一此所(ここ)に根ざしていたと申し上げても差支ないでしよう。

 私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にされてしまったのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、どうかこうか御茶を(にご)して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚(くうきょ)でした。空虚なら(いっ)そ思い切りが好かったかも知れませんが、何だか不愉快な()え切らない漠然たるものが、至る所に(ひそ)んでいるようで(たま)まらないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味も()ち得ないのです。教育者であるという素因(そいん)の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事が既に面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰(ちゅうごし)(すき)があったら、自分の本領(ほんりょう)へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、ないようで、何処を向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。

 私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度(ちょうど)霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち(すく)んでしまったのです。そうして何処からか一筋の日光が射して来ないか知らんという希望よりも、こっちから探照燈(たんしょうとう)を用いてたった一条(ひとすじ)で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどっちの方角(ほうがく)を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも(ふくろ)の中に詰められて出る事の出来ない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の(きり)さえあれば何処か一ヵ所突き破って見せるのだがと、焦燥(あせ)り抜いたのですが、生憎(あいにく)その錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰鬱(いんうつ)な日を送ったのであります。

 私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に(たた)んで遂に外国まで渡ったのであります。しかし一旦(いったん)外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるには(きま)っています。それで私は出来るだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然として自分は(ふくろ)の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見付(みつか)りそうになかったのです。私は下宿の一間(ひとま)の中で考えました。詰らないと思いました。いくら書物を読んでも腹の(たし)にはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う(みち)はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない(うきぐさ)のように、其所(そこ)いらをでたらめに(ただ)よっていたから、駄目であったという事に(ようや)く気が付いたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評(ひんぴょう)を聴いて、それを()が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似(ひとまね)を指すのです。一口にこういってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと不審がられるかも知れませんが、事実は決してそうではないのです。近頃流行(はや)るベルグソンでもオイケンでもみんな向うの人がとやかくいうので日本人もその尻馬(しりうま)に乗って騒ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だといえば(なん)でも()でも盲従(もうじゅう)して威張(いば)ったものです。だからむやみに片仮名(かたかな)を並べて人に吹聴(ふいちょう)して得意がった男が比々皆是(ひびみなぜ)なりといいたい位ごろごろしていました。(ひと)の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。(たと)えばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物(さくぶつ)を評したのを読んだとすると、その評の当否(とうひ)はまるで考えずに、自分の()に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を()れ散らかすのです。つまり鵜呑(うのみ)といってもよし、また機械的の知識といってもよし、到底わが所有とも血とも肉ともいわれない、余所余所(よそよそ)しいものを我物顔(わがものがお)喋舌(しゃべ)って歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを()めるのです。

 けれどもいくら人に賞められたって、元々(もともと)人の借着(かりぎ)をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀(くじゃく)の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華(ふか)を去って摯実(しじつ)につかなければ、自分の腹の中は何時まで経ったって安心は出来ないという事に気がつき出したのです。

 たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調(くちょう)が大変好いとかいっても、それはその西洋人の見る所で、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、到底受売(うけうり)をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、決して英国人の奴婢(ぬひ)でない以上はこれ位の見識は国民の一員として(そな)えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を()げてはならないのです。

 しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいう所と私の(かんがえ)と矛盾してはどうも普通の場合気が引ける事になる。そこでこうした矛盾が果して何処から出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、(さかのぼ)って国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっと乙の国民の賞讃を得るに(きま)っている、そうした必然性が含まれていると誤認してかかる。其所(そこ)が間違っているといわなければならない。たといこの矛盾を融和(ゆうわ)する事が不可能にしても、それを説明する事は出来るはずだ。そうして単にその説明だけでも日本の文壇には一道(いちどう)光明(こうみょう)を投げ与える事が出来る。――こう私はその時始めて悟ったのでした。甚だ遅蒔(おそまき)の話で慙愧(ざんき)(いたり)でありますけれども、事実だから(いつわ)らない所を申し上げるのです。

 私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字を(ようや)く考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索(しさく)(ふけ)り出したのであります。今は時勢(じせい)が違いますから、この辺の事は多少頭のある人には()く解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私の()り方は実際やむをえなかったのです。

 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨(きがい)が出ました。今まで茫然(ぼうぜん)と自失していた私に、此所(ここ)に立って、この道からこう行かなければならないと指図(さしず)をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

 自白すれば私はその四字から新たに出立(しゅったつ)したのであります。そうして今のようにただ人の尻馬(しりうま)にばかり乗って(から)騒ぎをしているようでは甚だ心元(こころもと)ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就(じょうじゅ)するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。

 その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰鬱(いんうつ)倫敦(ロンドン)を眺めたのです。比喩(ひゆ)で申すと、私は多年の間懊悩(おうのう)した結果漸く自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。

 かく私が啓発(けいはつ)された時は、もう留学してから、一年以上経過していたのです。それでとても外国では私の事業を仕上(しあげ)る訳に行かない、とにかく出来るだけ材料を(まと)めて、本国へ立ち帰った後、立派に始末を付けようという気になりました。即ち外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。

 ところが帰るや否や私は衣食のために奔走(ほんそう)する義務が早速起りました。私は高等学校へも出ました。大学へも出ました。後では金が足りないので、私立学校も一軒稼ぎました。その上私は神経衰弱に(かか)りました。最後に下らない創作などを雑誌に載せなければならない仕儀(しぎ)に陥りました。色々の事情で、私は私の(くわだ)てた事業を半途(はんと)で中止してしまいました。私の著わした『文学論』はその記念というよりもむしろ失敗の亡骸(なきがら)です。しかも畸形児(きけいじ)の亡骸です。あるいは立派に建設されないうちに地震で倒された末成(みせい)市街の廃墟(はいきょ)のようなものです。

 しかしながら自己本位というその時得た私の考は依然としてつづいています。(いや)年を経るに従って段々強くなります。著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、その時確かに握った自己が(しゅ)で、他は(ひん)であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。私はその引続きとして、今日なお生きていられるような心持がします。実はこうした高い壇の上に立って、諸君を相手に講演をするのもやはりその力の御蔭かも知れません。

 以上はただ私の経験だけをざっと御話ししたのでありますけれども、その御話しを致した意味は全く貴方がたの御参考になりはしまいかという老婆心(ろうばしん)からなのであります。貴方がたはこれからみんな学校を去って、世の中へ御出掛になる。それにはまだ大分時間のかかる方も御座いましょうし、または追付(おっつ)実社界(じっしゃかい)に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(はんもん)(たとい種類は違っても)を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のように何処(どこ)か突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か(つか)みたくっても薬缶頭(やかんあたま)を掴むようにつるつるして焦()れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また(ひと)の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとは決して申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴(つるはし)で掘り当てる所まで進んで行かなくっては()けないでしょう。行けないというのは、もし掘り()てる事が出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰(ちゅうごし)になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味では決してないのです。私のような詰らないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道が如何に下らないにせよ、それは貴方がたの批評と観察で、私には寸毫(すんごう)の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心を()っているからといって、同じ径路が貴方がたの模範になるとは決して思ってはいないのですから、誤解しては不可(いけま)せん。

 それはとにかく、私の経験したような煩悶(はんもん)が貴方がたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定(かんてい)しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年、二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああ此処(ここ)におれの進むべき道があった! (ようや)く掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を(もた)げて来るのではありませんか。既にその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か(もや)のために懊悩(おうのう)していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああ此所(ここ)だという掘当てる所まで行ったら()かろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もし何処かにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――(もっと)も進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに()つかる所まで行くより外に仕方がないのです。私は忠告がましい事を貴方がたに()いる気はまるでありませんが、それが将来貴方がたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中の()え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠(なまこ)のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないと(おっ)しゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越していると仰しゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛(どんつう)ではありましたが、年々歳々(ねんねんさいさい)感ずる(いたみ)には相違なかったのであります。だからもし私のような病気に(かか)った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛に御進みにならん事を希望して已まないのです。もし其所(そこ)まで行ければ、此処(ここ)におれの尻を落ちつける場所があったのだという事実を御発見になって、生涯の安心と自信を握る事が出来るようになると思うから申し上げるのです。

 今まで申し上げた事はこの講演の第一篇に相当するものですが、私はこれからその第二篇に移ろうかと考えます。学習院という学校は社会的地位の好い人が這入(はい)る学校のように世間から見傚(みな)されております。そうしてそれが恐らく事実なのでしょう。もし私の推察通り大した貧民は此所(ここ)へ来ないで、むしろ上流社会の子弟(してい)ばかりが集まっているとすれば、向後(こうご)貴方がたに附随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。換言すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるという事なのです。(ぜん)申した、仕事をして何かに掘り()てるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、何故それが幸福と安心とをもたらすかというと、貴方方の()って生れた個性がそこに()つかって始めて腰がすわるからでしょう。そうして其所(そこ)に尻を落付けて漸々(だんだん)前の方へ進んで行くとその個性が(ますます)発展して行くからでしょう。ああ此所(ここ)におれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めていい得るのでしょう。

 これと同じような意味で、今申し上げた権力というものを吟味して見ると、権力とは先刻(さっき)御話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧し付ける道具なのです。道具だと断然いい切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。

 権力に次ぐものは金力です。これも貴方がたは貧民よりも余計に所有しておられるに相違ない。この金力を同じくそうした意味から眺めると、これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝(しごくちょうほう)なものになるのです。

 して見ると権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し(かぶ)せるとか、または他人をその方面に(おび)き寄せるとかいう点において、大変便宜な道具だといわなければなりません。こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。先刻申した個性はおもに学問とか文芸とか趣味とかについて自己の落ち付くべき所まで行って始めて発展するように御話し致したのですが、実をいうとその応用は(はなは)だ広いもので、単に学芸だけにはとどまらないのです。私の知っているある兄弟で、弟の方は家に引込んで書物などを読む事が好きなのに引き()えて、兄はまた釣道楽に憂身(うきみ)をやつしているのがあります。するとこの兄が自分の弟の引込思案(ひっこみじあん)でただ家にばかり引篭(ひきこも)っているのを非常に()まわしいもののように考えるのです。必竟(ひっきょう)は釣をしないからああいう風に厭世(えんせい)的になるのだと合点(がてん)して、むやみに弟を釣に引張り出そうとするのです。弟はまたそれが不愉快で堪らないのだけれども、兄が高圧的に釣竿を(かつ)がしたり、魚籠(びく)()げさせたりして、釣堀へ随行を命ずるものだから、まあ目を(つぶ)って食っ付いて行って、気味の悪い(ふな)などを釣っていやいや帰ってくるのです。それがために兄の計画通り弟の性質が直ったかというと、決してそうではない、(ますます)この釣というものに対して反抗心を起してくるようになります。つまり釣と兄の性質とはぴたりと合ってその(あいだ)に何の隙間(すきま)もないのでしょうが、それはいわゆる兄の個性で、弟とはまるで交渉がないのです。これは(もと)より金力の例ではありません、権力の他を威圧する説明になるのです。兄の個性が弟を圧迫して無理に魚を釣らせるのですから。(もっと)もある場合には、――例えば授業を受ける時とか、兵隊になった時とか、また寄宿舎(きしゅくしゃ)でも軍隊生活を主位に置くとか――(すべ)てそういった場合には多少この高圧的手段は免かれますまい。しかし私は(おも)に貴方がたが一本立(いっぽんだち)になって世間へ出た時の事をいっているのだからそのつもりで聴いて下さらなくては困ります。

 そこで(ぜん)申した通り自分が好いと思った事、好きな事、自分と(しょう)の合う事、(さいわい)にそこに()つかって自分の個性を発展させて行くうちに、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間に引き()り込んで()ろうという気になる。その時権力があると前いった兄弟のような変な関係が出来上るし、また金力があると、それを()()いて、(ひと)を自分のようなものに仕立上げようとする。即ち金を誘惑の道具として、その誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起るのです。

 それで私は常からこう考えています。第一に貴方がたは自分の個性が発展出来るような場所に尻を落ち付けべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進(まいしん)しなければ一生の不幸であると。しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向を尊重するのが()の当然になって来るでしょう。それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。自分は天性右を向いているから、彼奴(あいつ)が左を向いているのは()しからんというのは不都合じゃないかと思うのです。(もっと)も複雑な分子の寄って出来上った善悪とか邪正(じゃせい)とかいう問題になると、少々込み入った解剖(かいぼう)の力を借りなければ何とも申されませんが、そうした問題の関係して来ない場合もしくは関係しても面倒でない場合には、自分が(ひと)から自由を享有(きょうゆう)している限り、他にも同程度の自由を与えて、同等に取り扱わなければならん事と信ずるより外に仕方がないのです。

 近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても(かま)わないという符徴(ふちょう)に使うようですが、その中には甚だ(あや)しいのが沢山あります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至つては(ごう)も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念を()つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を(ひと)にも与えなければ済まん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、(おの)れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私は何故ここに妨害という字を使うかというと、貴方がたは(まさ)しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。貴方がたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人が沢山あるからです。

 元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上から貴方方を見下(みおろ)して、一時間なり二時間なり私のいう事を静粛(せいしゅく)に聴いて(いた)だく権利を保留する以上、私の方でも貴方方を静粛にさせるだけの説を述べなければ済まないはずだと思います。よし平凡な講演をするにしても、私の態度なり様子なりが、貴方がたをして礼を正さしむるだけの立派さを()っていなければならんはずのものであります。ただ私は御客である、貴方がたは主人である、だから大人(おとな)しくしなくてはならない、とこういおうとすればいわれない事もないでしょうが、それは上面(うわつら)の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もないいわば因襲(いんしゅう)といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を挙げて見ますと、貴方がたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。しかし叱りっ(ぱな)しの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折って教えてくれるに極っています。叱る権利をもつ先生は即ち教える義務をも()っているはずなのですから。先生は規律をただすため、秩序を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代りその権利と引き離す事の出来ない義務も尽さなければ、教師の職を勤め(おお)せる訳に行きますまい。

 金力についても同じ事であります。私の考によると、責任を解しない金力家は、世の中にあってはならないものなのです。その訳を一口に御話しするとこうなります。金銭というものは至極重宝(しごくちょうほう)なもので、何へでも自由自在に融通(ゆうづう)()く。たとえば今私が此所(ここ)で、相場(そうば)をして十万円儲けたとすると、その十万円で家屋を立てる事も出来るし、書籍を買う事も出来るし、または花柳社界(かりゅうしゃかい)(にぎ)わす事も出来るし、つまりどんな形にでも変って行く事が出来ます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用出来るのだから恐ろしいではありませんか。即ちそれを()()いて、人間の徳義心を買い占める、即ちその人の魂を堕落させる道具とするのです。相場で儲けた金が徳義的倫理的に大きな威力を以て働らき得るとすれば、どうしても不都合な応用といわなければならないかと思われます。思われるのですけれども、実際その通りに金が活動する以上は致し方がない。ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすより外に、人心(じんしん)の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任が付いて廻らなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響があると呑み込むだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任を以てわが富を所置(しょち)しなければ、世の中に済まないというのです。いな自分自身にも済むまいというのです。

 今までの論旨(ろんし)をかい(つま)んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を(おもん)じなければならないという事になるのです。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります。

 これを(ほか)の言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍いい換えると、この三者を自由に()け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、(ひと)を妨害する、権力を用いようとすると、濫用(らんよう)に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を(てい)するに至るのです。そうしてこの三つのものは、貴方がたが将来において最も接近しやすいものであるから、貴方がたはどうしても人格のある立派な人間になって置かなくては不可(いけな)いだろうと思います。

 話が少し横へそれますが、御存じの通り英吉利(イギリス)という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英吉利ほど秩序の調(ととの)った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに(ひと)の自由を尊敬するように、小供(こども)の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。England expects every man to do his duty といった有名なネルソンの言葉は決して当座限りの意味のものではないのです。彼らの自由と表裏して発達して来た深い根柢をもった思想に(ちがい)ないのです。

 彼らは不平があると()示威(じい)運動を()ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです。近来女権拡張論者といったようなものがむやみに狼藉(ろうぜき)をするように新聞などに見えていますが、あれはまあ例外です。例外にしては数が多過ぎるといわれればそれまでですが、どうも例外と見るより外に仕方がないようです。嫁に行かれないとか、職業が見付からないとか、または(むか)しから養成された、女を尊敬するという気風に付け込むのか、何しろあれは英国人の平生(へいぜい)の態度ではないようです。名画を破る、監獄で絶食して獄丁(ごくてい)を困らせる、議会のベンチへ身体を(しば)り付けて置いて、わざわざ騒々(そうぞう)しく叫び立てる。これは意外の現象ですが、ことによると女は何をしても男の方で遠慮するから構わないという意味で遣っているのかも分りません。しかしまあどういう理由にしても変則らしい気がします。一般の英国気質(かたぎ)というものは、今御話しした通り義務の観念を離れない程度において自由を愛しているようです。

 それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれど、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。というものは、そうした我儘(わがまま)な自由は決して社会に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥され踏み(つぶ)されるに極っているからです。私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得(なっとく)せられん事を願って()まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して(はばか)らないつもりです。

 この個人主義という意味に誤解があっては不可(いけま)せん。ことに貴方がたのような御若い人に対して誤解を吹き込んでは私が済みませんから、その辺はよく御注意を願って置きます。時間が(せま)っているからなるべく単簡(たんかん)に説明致しますが、個人の自由は先刻(さっき)御話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまた貴方がたの幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支(さしつかえ)ない位の自由は、自分でも把持(はじ)し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それが(とり)も直さず私のいう個人主義なのです。金力権力の点においてもその通りで、俺の好かない奴だから(たた)んでしまえとか、気に喰わない者だから()っ付けてしまえとか、悪い事もないのに、ただそれらを濫用(らんよう)したらどうでしょう。人間の個性はそれで全く破壊されると同時に、人間の不幸も其所(そこ)から起らなければなりません。たとえば私が何も不都合を働らかないのに、単に政府に気に入らないからといって、警視総監が巡査に私の家を取り巻かせたらどんなものでしょう。警視総監にそれだけの権力はあるかも知れないが、徳義はそういう権力の使用を彼に許さないのであります。または三井(みつい)とか岩崎(いわさき)とかいう豪商が、私を嫌うというだけの意味で、私の家の召使(めしつかい)を買収して事ごとに私に反抗させたなら、これまたどんなものでしょう。もし彼らの金力の背後に人格というものが多少でもあるならば、彼らは決してそんな無法を働らく気にはなれないのであります。

 こうした弊害(へいがい)はみな道義上の個人主義を理解し得ないから起るので、自分だけを、権力なり金力なりで 一般に推し広めようとする我儘(わがまま)に外ならんのであります。だから個人主義、私のここに述べる個人主義というものは、決して俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです。

 もつと解りやすくいえば、党派心がなくって理非(りひ)がある主義なのです。朋党(ほうとう)を結び団隊(だんたい)を作って、権力や金力のために盲動(もうどう)しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも(ひそ)んでいるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです。私がかつて朝日新聞の文芸欄を担任していた頃、だれであったか、三宅雪嶺(みやけせつれい)さんの悪口を書いた事がありました。勿論(もちろん)人身(じんしん)攻撃ではないので、ただ批評に過ぎないのです。しかもそれがたった二、三行あったのです。出たのは何時(いつ)頃でしたか、私は担任者であったけれども病気をしたからあるいはその病気中かも知れず、または病気中でなくって、私が出して好いと認定したのかも知れません。とにかくその批評が朝日の文芸欄に載ったのです。すると『日本及び日本人』の連中(れんじゅう)が怒りました。私の所へ直接には懸け合わなかったけれども、当時私の下働きをしていた男に取消を申し込んで来ました。それが本人からではないのです。雪嶺さんの子分――子分というと何だか博奕打(ばくちうち)のようで可笑(おかし)いが、――まあ同人といったようなものでしょう、どうしても取り消せというのです。それが事実の問題なら(もっとも)もですけれども、批評なんだから仕方がないじゃありませんか。私の方ではこっちの自由だというより外に(みち)はないのです。しかもそうした取消を申し込んだ『日本及び日本人』の一部では毎号私の悪口を書いている人があるのだからなおの事人を驚ろかせるのです。私は直接談判はしませんでしたけれども、その話を間接に聞いた時、変な心持がしました。というのは、私の方は個人主義で()っているのに反して、向うは党派主義で活動しているらしく思われたからです。当時私は私の作物(さくぶつ)をわるく評したものさえ、自分の担任している文芸欄へ載せた位ですから、彼らのいわゆる同人なるものが、一度に雪嶺さんに対する評語が気に入らないといって怒ったのを、驚ろきもしたし、また変にも感じました。失礼ながら時代(おく)れだとも思いました。封建時代の人間の団隊のようにも考えました。しかしそう考えた私は遂に一種の淋しさを脱却する訳に行かなかったのです。私は意見の相違は如何に親しい間柄でも、どうする事も出来ないと思っていましたから、私の家に出入りをする若い人たちに助言はしても、その人々の意見の発表に抑圧を加えるような事は、(ほか)に重大な理由のない限り、決して遣った事がないのです。私は(ひと)の存在をそれほどに認めている、即ち(ひと)にそれだけの自由を与えているのです。だから向うの気が進まないのに、いくら私が汚辱(おじょく)を感ずるような事があっても、決して助力は頼めないのです。其所(そこ)が個人主義の淋しさです。個人主義は人を目標として向背(こうはい)を決する前に、まず理非を(あき)らめて、去就(きょしゅう)を定めるのだから、(ある)場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木(まきざっぽう)でも束になっていれば心丈夫(こころじょうぶ)ですから。

 それからもう一つ誤解を防ぐために一言して置きたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを()ち壊すように取られますが、そんな理窟(りくつ)の立たない漫然としたものではないのです。一体何々主義という事は私のあまり好まない所で、人間がそう一つ主義に片付けられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここにはやむをえず、主義という文字の下に色々の事を申し上げます。(ある)人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないようにいいふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙(じゅうりん)しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気(ばかげ)たはずは決してありようがないのです。事実私どもは国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。

 個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有(きょうゆう)するその自由というものは国家の安危(あんき)に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論といった方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が(あやう)くなれば個人の自由が(せば)められ、国家が泰平(たいへい)の時には個人の自由が膨張(ぼうちょう)して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、(かん)違いをしてただむやみに個性の発展ばかり目懸(めが)けている人はないはずです。私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾(ずきん)が必要だといって、用もないのに窮屈(きゅうくつ)がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。また例になりますが、(むか)し私が高等学校にいた時分、ある会を創設したものがありました。その名も主意(しゅい)も詳しい事は忘れてしまいましたが、何しろそれは国家主義を標榜(ひょうぼう)した八釜(やかま)しい会でした。勿論悪い会でも何でもありません。当時の校長の木下広次(きのしたひろじ)さんなどは大分肩を入れていた様子でした。その会員はみんな胸にめだるを下げていました。私はめだるだけは御免(こうむ)りましたが、それでも会員にはされたのです。無論発起人(ほっきにん)でないから、随分異存(いぞん)もあったのですが、まあ入っても差支なかろうという主意から入会しました。ところがその発会式(はっかいしき)が広い講堂で行なわれた時に、何かの(はずみ)でしたろう、一人の会員が壇上に立って演説めいた事を遣りました。ところが会員ではあったけれども私の意見には大分反対の所もあったので、私はその前随分その会の主意を攻撃していたように記憶しています。しかるにいよいよ発会式となって、今申した男の演説を聴いて見ると、全く私の説の反駁(はんばく)に過ぎないのです。故意(こい)だか偶然だか解りませんけれども勢い私はそれに対して答弁の必要が出て来ました。私は仕方なしに、その人のあとから演壇に上りました。当時の私の態度なり行儀(ぎょうぎ)なりは甚だ見苦しいものだと思いますが、それでも簡潔にいう事だけはいって退()けました。ではその時何といったかと御尋ねになるかも知れませんが、それは(すこぶ)る簡単なのです。私はこういいました。――国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家といってあたかも国家に取り付かれたような真似は到底我々に出来る話でない。常住座臥(じょうじゅうざが)国家の事以外を考えてならないという人はあるかも知れないが、そう間断(かんだん)なく(ひと)(こと)を考えている人は事実あり得ない。豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、決して国家のために売って歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の(りょう)を得るためである。しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。これと同じ事で、今日の(ひる)に私は飯を三杯たべた、晩にはそれを四杯に()やしたというのも必ずしも国家のために増減したのではない。正直にいえば胃の具合で()めたのである。しかしこれらも間接のまた間接にいえば天下に影響しないとは限らない、(いな)観方(みかた)によっては世界の大勢に幾分か関係していないとも限らない。しかしながら肝心(かんじん)の当人はそんな事を考えて、国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。国家主義を奨励(しょうれい)するのはいくらしても差支ないが、事実出来ない事をあたかも国家のためにする如くに装うのは偽りである。――私の答弁はざっとこんなものでありました。

 一体国家というものが(あやう)くなれば誰だって国家の安否(あんぴ)を考えないものは一人もない。国が強く戦争の(うれい)が少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなって(しか)るべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入(はい)ってくるのは()の当然と申すより外に仕方がないのです。今の日本はそれほど安泰(あんたい)でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。従って何時(いつ)どんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見てわれわれは国家の事を考えていなければならんのです。けれどもその日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目(うきめ)にあうとかいう国柄(くにがら)でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです。火事の起らない先に火事装束(しょうぞく)をつけて窮屈な思いをしながら、町内中駈け歩くのと一般であります。必竟(ひっきょう)ずるにこういう事は実際程度問題で、いよいよ戦争が起った時とか、危急存亡(ききゅうそんぼう)の場合とかになれば、考えられる頭の人、――考えなくてはいられない人格の修養の積んだ人は、自然そちらへ向いて行く訳で、個人の自由を束縛し個人の活動を切り詰めても、国家のために尽すようになるのは天然自然(てんねんしぜん)といっていい位なものです。だからこの二つの主義はいつでも矛盾して、何時でも撲殺(ぼくさつ)し合うなどというような厄介(やっかい)なものでは万々(ばんばん)ないと私は信じているのです。この点についても、もっと詳しく申し上げたいのですけれども時間がないからこの位にして切り上げて置きます。ただもう一つ御注意までに申し上げて置きたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令(じれい)はいくら八釜(やかま)しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺(さぎ)をやる、誤魔化(ごまか)しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。その(へん)は時間がないから今日はそれより以上申上げる訳に参りません。

 私は折角(せっかく)の御招待だから今日まかり出て、出来るだけ個人の生涯を送らるべき貴方がたに個人主義の必要を説きました。これは貴方がたが世の中へ出られた後、幾分か御参考になるだろうと思うからであります。果して私のいう事が、あなた方に通じたかどうか、私には分りませんが、もし私の意味に不明の所があるとすれば、それは私の言い方が足りないか、または悪いかだろうと思います。で私のいう所に、もし曖昧(あいまい)の点があるなら、()い加減に()めないで、私の(うち)まで御出(おいで)下さい。出来るだけは何時でも説明するつもりでありますから。またそうした手数を尽さないでも、私の本意が充分御会得(えとく)になったなら、私の満足はこれに越した事はありません。余り時間が長くなりますからこれで御免を(こうむ)ります。

 

――大正四、三、二二『輔仁会雑誌』――

 

 

新宿区立漱石山房記念館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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夏目 漱石

ナツメ ソウセキ
なつめ そうせき 小説家 1867・1・5~1916・12・9 江戸(東京都)牛込馬場下横町に生まれる。現代に最も多く大きく感化を与えて文豪と呼ぶに値する一人である。

掲載作は、1914(大正3)年11月25日、学習院輔仁会における有名な講演記録。

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