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誰だ? 花園を荒らす者は!

 文藝は、言ふまでもなく広い意味に於ける人間の生活を対象とし、題材とするところに成り立つてゐる。人間生活がないところに文藝はあり得ない。あらゆるイズムに属する文藝が――自然主義の文藝も、象徴主義の文藝も、神秘主義の文藝も、その表現とか様式とか、観点とかその他にはいろいろの差別なり、特徴なりがあるとしても、結局、人生――即ち広い意味の人間生活に、何等かの意味に於いて関心を持つところから生れて来てゐることには、変りはない。或る人に依つては、自己のための藝術が主張される。が、「自己のため」といふことも、窮極するところは、あらゆる人間のためといふことになる。人間は、無人島の中に、たつた一人で生活してゐるものではない。多くの人間の集団の中に、社会的環境の中に、一つの細胞として生活してゐることが事実であつて見れば、たつた一人の個人といふものを、絶対的に抽象して考へることは不可能だ。いくら個人と言つてもいろいろな個人と個人との相関的関係の(もと)に置かれた個人であつて、厳正な意味に於ける本当に単独な個人といふものは、事実に於いて成り立ちもしないし、考へることも出来ない。どんな個人主義者だつて、それは多くの個人と個人との間に挟まつた個人主義者であつて、絶対の個人主義者であることは許されない。結局、如何なる個人も、個人主義者も、その存在は、他のあらゆる個人との相関的関係の下に於いてのみ成り立つてゐるのである。単独に、一つの細胞だけが、その存在を保つことが出来ない如く、単独に個人だけでは、その生活の意義をなすことが出来ないのだ。従つて如何なる個人も、また個人主義者でも、一つの細胞として、己れの生存を托してゐるところの大きな生活体に対して、即ち、他の如何なる個人に対しても、それぞれ責任を分ち合つてゐるものである。だから、若し、自己のための藝術を主張する人があつても、厳密な意味に於いては、自己のためといふことは成り立たないのであつて、「自己のため」といふことは、同時に「他のため」であることなのだ。われわれが、個人的に、たゞ存在することすら許されてゐないのに、(いは)んや、藝術の如き「営み」をなす場合、どうしてそれを「自己のため」だけに留めて置くことが出来るだらう。若し、それが例へ「自己のため」になされたものであつても、その結果は、あらゆる他の自己の上に影響し、作用せずにはゐない。空気がなければ音もなく、一つの音波が、全空気の容積の上に波打ち作用する如く、或る一つの藝術上の仕事でも、それは直ちに他の自己の上に波打たずにはゐないだらう。

 われわれは、いろいろ考へ方の差別はあるとしても、斯うして社会的集団の中の個人として生きてゐる以上――一つの大きな生活体の中の一細胞として生活してゐる以上、他の個人に対し、またお互ひの生活に対して、責任を持合つてゐることは事実だ。その「責任」を科学的に解剖して見れば、相互扶助的な要素もあるだらうし、また、自然淘汰的な要素もあるだらう。人間共存の現象は、相互扶助だけでも決定出来ないし、さうかと言つて、自然淘汰だけでも解釈出来ない。その二つの作用が或る時代に依り、或る環境に依つて、こもごも相交錯し、綯ひ交つて行はれてゐると見るのが本当だと思ふ。或る場合には、相扶けてゐる。だが、或る場合には相闘つてゐる。扶けてゐることだけが事実でもないし、闘つてゐることだけが事実でもない。地球に暗と光りとがある如く、人間生活にも、闘争と扶助とが、或ひは同時に、或ひは交互に行はれてゐるのだ。感情的に言つても、われわれは、或る場合には憎み、或る場合には愛してゐる。また、憎みながら愛してゐることもあれば、愛しながら憎んでゐることもある。

 私は、さういふ人間同志の関係を、お互ひに責任を持ち合つてゐるのだと言ひたいのである。相互扶助的な関係にせよ、自然淘汰的な関係にせよ、それらがごつちやに入り交つた関係にせよ、また、愛する関係にせよ、憎む関係にせよ、愛憎二つが入り乱れ、綯ひ交つてゐる関係にせよ、われわれの生活が、いろいろな意味と、いろいろやな形とに於いて、相交流し、相交錯してゐる事実を指して、責任を持ち合つてゐるのだと言ひたいのである。

 文藝は、人間が単独であるところには生れない。われわれが、地球の上に、たつた一人の人間として残された場合を仮定して、想像して見よ。恐らく、歌も歌はないだらう。自分以外の誰かゞあり、そして、その自分以外の誰かに対して、有意識的にせよ、無意識的にせよ、関心を持つところに、文藝やその他の藝術は生れるのだ。われわれが文藝やその他の藝術的な仕事を営むのは、有意識的にか或ひは無意識的にかの差別はあつても、また、その濃度の違ひはあつても、帰するところは、自己以外の他の存在を認め、それに対して関心と責任とを持つところに根ざしてゐると思ふ。人間に言葉があるのは、自己以外の他の存在があればこそである。言葉がなければ、藝術はない。絵画や彫刻の如き藝術は、結局、形に依る言葉である。

 

   

 

 だが、或る人間が、己れ以外の人間に対して関心を持つてゐるといふ事実には、万人が万人変りがなくても、その関心の持ち方には、万人万様の差があることは言ふまでもない。その性格のために、立場のために、環境のために、人生観のために、世界観のために、そして、その他いろいろな原因と理由とのために、関心の持ち方、責任の分ち方に、いろいろの差別が生じて来るのは、当然のことである。僅かに自分一人のことしか考へられない人間もあれば、自分の親兄弟、或ひは親戚友人のことくらゐしか考への及ばない人もあり、また、自己の属してゐる民族くらゐのことにしか考への及ばない人もある。さうかと思へば、全人類の悩みと苦しみとを悩み苦しみ、全人類の喜びと悲しみとを、自分の身一つに実感する人もある。

 古来、自分以外の他の生活に対して、責任を感ずることが深く広い人ほど――全人類の悩みと苦しみとを、身一つに引き受けて、悩んだり苦しんだりした人ほど、われわれの前に偉大な人間として残されてゐる。釈迦だつてさうだ。キリストだつてさうだ。トルストイやドストイエフスキイだつてさうだ。意味は違つても、マルクスだつてやっぱりさうだと思ふ。思想の基礎や、目ざしてゐる方向の違ひはあつても、そして、余りに唯心的にのみ傾いてゐた考へ方を、唯物的に置き変へた違ひはあつても、結局、その根本に人類解放の情熱を持たなければ、マルキシストの聖書たる「資本論」は書けなかつたに違ひないのだ。社会組織の改造に対しては、冷厳な科学的方法を説くとしても、その内に潜んでゐるものは、結局、人間解放の情熱でなければならぬ。

 われわれが、自分以外の他の生活に対する関心の持ち方、責任の感じ方にはお釈迦さま流もあれば、キリスト教流もあり、トルストイ流もあれば、ドストイエフスキイ流もあり、勿論、マルクス流のあることも言ふまでもない。これは時代にも依り、社会状態にも依り、またその国民の感受性の如何に依つても、いろいろに別れると思ふ。われわれ日本人の国民性は、独創に乏しいと言はれてゐる。模倣性に富んでゐると言はれてゐる。それだけに感受性が鋭敏で、他のために影響され易い国民だと言はれてゐる。或ひはさうかも知れない。また、さうでないかも知れない。こゝで私は、日本の国民性に対して断定を下す勇気を持たないが、たゞ確かに次ぎのやうなことだけは、はつきり断言することが出来る。

 即ち、今までのところ日本人は、自から或る時代の思想を支配する偉大なる人格者は持たないが、偉大な人格者のために、すぐれた沢山の使徒は持つてゐる。お釈迦さまに依つて蒔かれた仏教の種は、それのよき使徒に依つて、どれだけ日本人の上に芽生へたことかしれない。キリスト教だつて、儒教だつて、トルストイの人道主義だつて、マルキシズムだつて、やつぱりその通りだ。われわれは、われわれの国民の中に、一人の釈迦を持たない。一人のキリストも、一人のトルストイも、一人の孔子も、一人のマルクスも持たない。だが、それ等のよき祖述者、よき使徒は、如何に沢山々々持つてゐることだらう。或る時代には、仏教が日本を風靡した。或る時代には孔孟の教へが、或る時代にはキリスト教が、或る時代にはトルストイイズムが、そして現代の今は、マルクシズムが――

 

   

 

 われわれは、どんなに個人主義的な思想を持つ人々であつても、結局その個人主義的な思想に於いて、自己以外の他の個人に対して関心を持ち、責任を分つてゐるものであることは、先にも言つた。個人主義者ですらさうである。(いは)んや、個人主義以外の他のイズムに依る人、他の傾向に在る人が、どうして自己以外の他の個人に対して、また、それ等の個人の集団たる社会に対して、無関心無責任でゐられるだらうか。必ずしもマルクス主義に依ると依らないとに拘らず、それぞれが、それぞれの立場に於いて、それぞれの人生観なり、世界観なりに於いて、人類共存の事実に対して、或る責任感を分ち合つてゐるのだ。

 だが、マルクス主義を信奉する使徒たちは、マルクス主義を奉じない人々の、人間及び社会に対する関心の持ち方や、責任を分つ実感を排撃し、否定しようとする。マルクス主義に依る社会組織の変革だけを唯一絶対のものとして、その他の主義思想に依つての人間性の改造、社会組織の改造方法は、これを認めるだけの雅量すら持たないのである。

 そして、彼等は――マルクス主義の使徒たちは、それを文藝上の営みの上にまで持つて来ようとしてゐるのである。私は、マルクスの学説が、社会科学として研究される限りに於いては、そしてそれの当然の帰結として、マルクスの学説が実際行動に移される限りに於いては、何も言ふべきことを持たない。自由に研究されるべきであり、また、自由に実際行動の上に移されていゝと思つてゐる。

 だが、文藝をマルクス主義宣伝のために利用し、階級闘争の手段として役立てようとする主張には、そして、マルクス主義としての明確な目的意識を持たない文藝を、十把一束的(ひとからげ)に、ブルジョア文藝として排撃し、マルクス主義の目的の下に隷属しない作家を、直ちにブルジョア作家として否定し去らうとするやうな、粗笨と横暴とに対しては、文藝の正道的立場の上から、飽くまでこれに反対せずにはゐられないものだ。

 文藝の対象は、人間であり、人生であり、社会である。しかも、それを抽象的に取扱ふところには文藝などあり得る筈はなく、それを具象的に取扱ふところに、初めて作品があり、藝術があるのだ。マルクスの学説は、飽くまで社会科学であり、哲学であつて、その学説を実際行動の上に移すことは、勿論可能であつても、それを藝術に結び附けることには、いろいろの無理と不自然とがある。その無理や不自然に対して、何等の合法的な解決も下さずして、無理や不自然のまゝに、マルクスの学説と藝術とを結び附けようとするところに――単に結び附けるだけに止まらず、マルキシズムに依つて、文藝を規定しようとするところに、プロレタリア文学の主張者たちの横暴があるのだ。

 たとへば、実際の例を或る作家なり作品なりに取つて見る。佐藤紅緑氏や菊池寛氏は、ブルジョア作家として、また、その作品はマルクス主義を奉じない故を以て、ブルジョア作品として、プロレタリア文学の主張者たちからは、非難され、排撃を受けてゐる。

 だが、私などの如く、極めて自由にして公平な立場に立つて、ものゝ真実を見ようとする者に取つては、佐藤紅緑氏や菊池寛氏を直ちにブルジョア作家として片附け、その作品をブルジョア作品として片附けてしまふことが出来ないのだ。なるほど佐藤紅緑氏や菊地寛氏は、マルキシズムを信奉していない作家であるとしても、彼等の思想の中に、彼等の生活の中に、現在の社会組織の不合理に対する正統な認識と、更らに積極的な反抗と、人類解放の要求とが、どうして含まれてゐないと言へるだらう。たとへ実際には、毎日、自動車を乗り廻す生活をしても、さういふ生活を如何に受け入れ、如何に見てゐるかゞ重大な点であらう。単に洋食を食つて、自動車に乗り廻す生活の外面だけを見て、ブルジョアと決定するなら、ソビエット・ロシヤの大使でも、そのロシヤの国賓として大使待遇を受けてゐると言はれる片山潜でも、これ悉く大ブルジョアではないだらうか。私は、いつか「新潮」の合評会の時に、確かに私の目を以て見たのであるが、先のロシヤ大使、ドブガレウスキイ氏は、立派な洋服を着、絹の靴下を穿き、上等のワイシヤツ、華やかなネクタイを着け、贅沢なケースから、香りの高いシガレツトを取り出して吸ふてゐた。勿論、自動車を待たしてあつたことは言ふまでもない。

 若し、生活の外形が、それをブルジョアとプロレタリアとに規定するなら、ソビェット・ロシヤの大使ドブガレウスキイ氏は、確かに大ブルジョアでなければならない。佐藤紅緑氏や菊池寛氏以上の大ブルジョアでなければならない。つまり、マルキシズムを奉ずることに依つて、自らブルジョア生活を営んでゐるところのブルジョア階級なのである。

 それだのに、佐藤紅緑氏や菊池寛氏は、ブルジョアと非難され、大ブルジョアの生活を営んでゐるドブガレウスキイ氏は、なぜ非難されなくてもいゝのだらうか。たゞ、それがマルキシズムに依つてゐると、ゐないとのためであらうか? 

 片岡鉄兵氏や今東光氏が、左傾したと伝へられてゐる。だが、左傾した彼等の生活が、どう違つて来たであらうか? 彼等の作品が、どう違つて来たであらうか? たゞ、マルクス主義の話をするだけなら、今は、ブルジョアでも誰でも、マルクス主義の話もするし、それに関する読書くらゐはしてゐるのだ。()し、左傾したと言はれてゐる片岡氏や、氏の生活や作品が、ブルジョアと攻撃されてゐる、紅緑氏や氏の生活や作品よりも、もつとブルジョア的であるとすれば、をかしなものではないだらうか? しかしながら、このことは、左傾した片岡氏や氏に責任があるわけではない。それをいろいろ問題にしたり、謳歌する人々の立場がたゞ滑稽なだけである、余りに安価に過ぎるだけである。

 自から左傾したと名乗ると名乗らないとに拘らず、ブルジョア作家と非難される佐藤紅緑氏や菊池寛氏の生活や作品の中には、勿論ブルジョア的要素もあるには違ひないが――左傾したと称される今東光氏や片岡鉄兵氏の生活や作品にもそれがある通り、そして、他の凡ての左傾してゐる人々、及び左傾してゐる文学者の中にも、或る度合に於いてそれが混つてゐる如く――また、左傾的要素も含んでゐるのだ。それだのに一方は非難され、攻撃され、一方は謳歌されるのは、私には矛盾もまた甚だしいものに思はれるのだ。

 人間は、いろいろな面と、いろいろな要素を持つてゐる。人間の思想や生活は単なる主義を以て統一することの出来ない複雑なものゝ綜合であり、集積である。そして、文藝家の職能は、イズムに依つて截然(せつぜん)と赤と白とに別れてしまふことではなく、簡単に赤に別れることも出来なければ、また簡単に白にも別れることの出来ない人間生活の本然の姿を指摘し、描出することでなければならないと思つてゐる。赤であることは簡単だ。白であることも簡単だ。が、深く見、深く考へて、真を追求することの烈しい欲求を持つてゐる者は――言ひ換へれば良心の旺盛な者は、簡単に赤であり白てあり得ないのだ。そして、この良心の最もすぐれた者ほど、藝術家として最も卓越した人でなくてはならない。

 

   

 

 人間が生きて動いてゐる実体は、主義や思想ではなく、個性である。人間の行動を、生活を支配してゐるものは、主義や思想の力であるよりも、個性の力である。そして、人間や生活を対象とするところに、初めて存立の意義を持つ文藝の世界に於いて、主義や思想よりも、個性が重んじられなければならないのは、元より余りにも当然のことでなければならない。藝術に主義や思想が加味され、混り合つて来ることはいゝ。社会主義を奉ずる作家の作品に、自づから社会主義の色調が加はって来るのは当然のことであり、それはそれで毫も差支へないばかりでなく、大いに結構である。それが作品としてよきものである以上、われわれはオスカア・ワイルドの唯美主義の作品も愛読するの一方には、また、バアナード・シヨオや、アナトオル・フランスや、マキシム・ゴールキイの作品をも愛読するのだ。悪の華の詩人ボードレルの詩にも惹き附けられゝば、ヴェルレーヌの詩も愛誦するし、象徴派のマラルメの詩にも、また、興味を感ずるものである。人生が広く、複雑である如く、人生に立脚してゐる藝術の世界も広く、また複雑である。そして、そのいづれにも、それがよきものである限りは、魅力と牽引とを感ぜずにはゐられないものだ。

 花は何んのために()くかを知らないだらう。小鳥は何んのために歌ふかを知らないであらう。恐らく、咲き満ちた花の美しさには、プロレタリア的イデオロギイもなければ、ブルジョア的イデオロギイもありはしない。小鳥の歌も同じことだ。

 しかしながら我れ我れは、無心に咲く花の美しさに対しても、やつぱり美しいと感ぜずにはゐられないし、無心に歌ふ小鳥の音楽に対しても、やつぱり楽しみを感ぜずにはゐられないものだ。季節々々が廻つて来れば、美しく咲く花を見て、これは階級闘争の目的意識がないからと言つて――階級闘争的精神に燃えてゐないからと言つて、また、こんな花の美しさや、小鳥の歌は、たゞブルジョアの目や耳を楽しませるだけで、プロレタリア階級には用はなく、だからブルジョアの娯楽物だとして、片つ端から花や小鳥を撲滅して廻らうとする者があつたら、それは馬鹿か狂人でなくて何んだらう。

 花は花の性質に依つて、赤い花も咲けば、白い花も咲く。()し赤い花の美しさだけを認めて、白い花の美しさを感ずる者を、封建的だと嗤ふ人があるなら、そんな人間こそ却つて馬鹿か狂人とし嗤はれなければならないだらう。

 藝術は「美」に立脚する。いろいろ複雑な意味を含んだ「美」に立脚する。人間の感情と文化の上に開く花である。赤い花もあれば、黒い花もあり、紫の花もあれば、白い花もあるだらう。よく咲いた花は、皆なそれぞれに美しい。

 誰だ? この花園に入つて来て、虫喰ひの汚ならしい赤い花ばかりを残して、その他の美しい花を、汚ない泥靴で、荒らして歩かうとするのは!

 勿論、花は無心に開き、小鳥は無心に歌ふのであるが、藝術は、人生に対し、社会に対して、積極的な関心を持つ人間の営みであることは言ふまでもない。社会人生に対して関心のないところに藝術はあり得ないのであるが、人生社会に対する関心が、必らずしもマルキシズムに依つて干渉される必要はないのだ。マルキシズムに依つて、人生社会に関心を持つことを元より妨げないが、その他のいろいろなイズムと、(めん)と、個性とを以て、人生社会に関心を持ち、責任を分ち合ふことも、また甚だしく必要である。マルクス主義はなくとも文藝藝術の世界はあり得るのだ。

 イズムの文学より、個性の文学へ――

(一九二八年五月十二日――中村武羅夫)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/09/22

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中村 武羅夫

ナカムラ ムラオ
なかむら むらお 編集者・作家 1886~1949 北海道に生まれる。1908(明治41)年新潮社に入社、「新潮」編集に携わって旺盛斬新な企画により知られたが、大正末から大衆文壇の人気の書き手に転じ、昭和10年代には日本文学報国会の常任理事、事務局長として活動した。

掲載作は、1928(昭和3)年「新潮」6月号に初出、当時文壇に我が物顔のマルキシズム文藝戦線に叩きつけた記念碑的評論。

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