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鵜原抄(抄)

目次

  鵜原抄

   1

岩棚の上から絶壁がそば立ち

絶壁と絶壁との間に入江はひろがる。

海は藍よりもさらに青く、

いくつかの男女の群れはあそぶ。

ある者は遊泳し、ある者は

岩棚に背をのべて陽を浴びる。

時に叫喚がおこることはあっても

ついに言葉となることはない。

どうしてかれらを識別することができよう!

ひとたびこの海を去って

もの倦い日常の中にまぎれゆくとき……。

海は藍よりもさらに青く

時は物言わぬ果実のように熟れている。

――ああ誰もこんな恍惚たる時をもつ権利がある。

   2

隧道をぬければ豁然と海はひらけ

汀は弧をえがいて岩礁につづく。

岩礁をこえ岬の台地に立ち

ふたたび隠顕する入江を臨む。

物言うな、

かさねてきた徒労のかずをかぞえるな、

肉眼が見わけうるよりもさらに

事物をして分明に在らしめるため。

海を入江にみちびく崖と崖の間に

鳶は静止し、静止して飛翔し

その影は群青の波に溺れる。

知らない、

同じ日、同じ時刻、同じ太陽が

かの猥雑な都会の上の空をわたる、と。

   3

ふりしきる星明りの下、

沖に鳴る潮の音と

松の梢に鳴る風の音とがまざりあう

岬にきて、私たちふたり紅茶を喫す。

川沿いにつづく家並の灯も

岬の蔭の養魚場の灯も、もう消えた。

私たちは人々と訣れてきて、

人々は私たちをとうに忘れている。

海に白くかがやく波がしら、

きり立つ崖となっておちこむまで、

海にはりだしている小さな岬。

その岬にきて、私たちふたり紅茶を喫す、

行きもやらず戻りもやらず、どよめきかわす

潮の音と風の音とを聴きながら。

   4

海と陸とのさかいを歩めば、

海は海で暮れなずみ、陸は陸で暮れなずむ。

海と陸とは岩礁の所属を争い、

そのあたり、遅い午後の陽差しは残る。

岩礁に湧きかえり、ふくれ、潰えさり、

またくりかえし湧きあがる水泡。

見かえれば暮れなずむ空の彼方に、

ただよう都会、いりくんだ秩序の網目。

わずかに決意をうながすものを感じ、

歩をはやめ、又埒もないことと知り、

岩礁のあたり

朱に噴きこぼれる余光を見る。

ああ、今日も水泡はひたすらに悔恨を噛む、

溺れるのか、溺れるのか――と。

  愛のかたち

鳥となり虫となり家畜となり

さぐりあう愛のかたち。

庭の木蔭に、厨房の片隅に、

又、岬の台地の石の上に。

愛がそのかたちをとることは

ないと知るから、たがいに

変貌し、変貌しつづけてあきない。

だから、つつましく日をすごし、

庭の木蔭に、厨房の片隅に、

又、岬の台地の石の上に、

夜ごと、埋葬する、

あまたの鳥あまたの虫あまたの家畜。

その歔欷しまた叫喚する声を聴きながら、

もとめあう愛のかたち。

  鳥の死骸

あれは街角の向うから少うしずつ近づいてくる。

私の食卓にも事務机の上にも夜の寝床の枕にも

そんな街角がいっぱいなので

おのずからいりくんだ迷路をなしている。

薄暮には とある街角に佇つと

ビルの日蔭の銀杏の梢の茂みの中から

けたたましく啼きながら夥しい鳥が飛び立つ、

飛び立ちながら一斉にけたたましく啼くのを見る。

そして 一瞬 まっしぐらに

鳥たちが銀杏の梢の茂みの中に落ちこむのを見る。

そのあと街角からあらゆる物音が途絶えるのを見る。

朝になるとどの街角にも鳥の死骸がごろごろしていて

街角の向うからあれが

少うしずつ少うしずつ私の方に近づいてくる。

  挽 歌

熱気か天井にふき騰る八月の午後、

死者はすぐその手の届くところにいる。

房々のまだ青い葡萄の棚が、

裏庭に、わずかな翳をつくっている。

縁先におかれた蘭の鉢。

壁の剥げ落ちた土蔵。その上の夏の空。

もう見ない、もうふたたび見ることはないのに、

それらが何故物言わぬままで在るのか?

何故 人にまだ咽ぶほどの声があるか?

うちひしがれた心にひろがる憤りが

何故凍りつくことがないか?

熱気が天井にふき騰る八月の午後。

死者はすぐその手の届くところにあって、なお

手の届かぬ遠いところに漂っている。

  城

城壁と城壁との間の道を昇り又降り

その一角から内部に逼いりこみ

投げだされるように逼い出て一日を終える

冬になれば路上には風の塊りがなだれ落ちる

そのなかで人はよく微笑をたもち

もはや温和にしか言葉を話さない

偶々傍らの花瓶に花が挿してなかったとしても

所詮言葉と言葉との間には無数の迷路がある

城壁は泥土の上に連なって聳え

眺瞰する陰湿な低地の隅々に

迷路にみちびかれた夥しい人の住家がある

夜 平原に灯が乱舞するころ

人はおのがじし城壁をつむ 陰湿な低地の隅に

すでに風の塊りを防ぐほどに城壁は強固であろうか?

  冬の終り

乾いた町 乾いた山野 乾いた島

埃っぽい空に向って息をすれば

一羽の鳶はゆるやかに飛翔し

ひからびた心の亀裂に 黄色い陽は差しこむ

あれは去年あるいは一昨年のことであったか

すべて陰湿なものたちの関係

庭の隅に捨てられた二、三の石の位置

親族のつながりや会杜の椅子の序列など

誰と共有するわけでもない陽の差しこむ

ひからびた心の亀裂に

夥しい車が疾走し 疾走して過ぎる

僕たちはあまりに多くを失くしたかのように

ずいぶんと遠くへ来てしまったかのように感じ

それでいてなお 何を欲するかを知らぬ。

  午 後

ビルの片側にだけ日があたって

人はみな柱のかげ机の向うに隠れている。

楡の並木はすでに芽ぶいているのだが

町に今人通りがとだえている。

人の眼が齧歯類に似て見えるときは

こっちもいよいよ臆病になって

穴から穴を其処ら中さがしまわり

暗がりをみつけてひっそりと息をついたりする。

ビルの片側にだけ日があたるときは

日向に出てかじかんだ心を温めるもいい、

知合いの誰かれと腕をくんで行くのもいい。

だが 午後ふと町に人通りがとだえて

ビルの出口から人がとびだしてくるまで

長い間じつに長い間待たねばならぬことがある。

  沙丘にて

陽が海に突きささり 傷口から血が溢れで

溢れでてとどまらぬのを 見た

血はたちまち泥の塊りにかわり 高まり又拡がり

みるみる海が乾いてゆくのを 見た

人に影あることは ふしぎに思えた

影が乾いた海をおおって揺れながら伸び

風も立たぬ沙丘のうねりのなかに

たしかに灌木のざわめきを 聴いた

海よ 失われたあの日の頑なでなかった心よ

岬の輝く突端に近く 波の穂を捲きかえし

捲きかえし騒いでいた 海よ

人はいくつかの乾いた海を いだく

偶々沙丘に疲れを休めることはあっても

もはやその底に潮の響きを聴くことは ないか?

  誕 生

   1

つくろいようもなく破れた空の裂目から

冬が押しよせ

磔になった裸の木が

枝々をばたつかせて慓える

眼をつぶると

空にいっぱいの夕焼がしたたり落ちる

空は漏斗の形をしていて

その吹きぬけの底に

砂まじりの風が

ぶつかってはひきちぎるのだ

おれは

漏斗の形をしたおれの心を背負って

ボロ屑をあさるように

そんな空のきれはしをさがしまわる

――ああ そんな季節だ

おまえが生れたのは!

   2

爽やかな十月の風のなかに

人造湖をかぎる突堤

天をかぎるビルの稜線

そして おれの生涯をかぎるおまえ。

   3

屋上から抬頭する雲

内庭に沈む一日の喧騒

しずかにひろがるおれの領土

おまえとその母親のための 夜。

   4

炎天の下

樹々の群立つ葉のように首を真直に立て

枝々のように僕たちは腕をくむ

わが子は曙のような笑みをうかべ

肢をばたつかせ身をよじらせ

前へ進もうとしては後ずさりし

芋虫のような逼い方を覚えたばかり……

夕ぐれ 熱気のこもる凪のなかの

樹々に暮れのこる梢のように

音もなく僕たちは時をおくり

喘ぐような叫びをあげたりもする

ああ わが子が曙のような笑みをうかべ

大地に立って歩きはじめるのも

もう間近だ。

  形象詩篇

   塔

確実に天心を目差す

柔軟であった日の心の軌跡。

ゆるやかな破風はいくたびか地に叛き

そして そのままにかたちをなした!

木々はおのおのの緑をつくし

林の向うには聚落がある。

今日人々は忙しげに往来し

もはや声をあげて笑うことをしない。

島国の晴天は傷つきやすく

ゆるやかな破風はふたたび又みたび

地に叛き 地に叛きつつ空に触れ合う。

ああ私たちが此処を発って 明日

いくばくの瓦礫をつむとしても

ついに稜角を成すことはないだろう……。

   埴 輪

その魚はじつに久しい間睡っていた

その眼はすでに見ひらかれたまま

土砂にみたされて赭土の底にふかく

みじろぎもしなかった 何物を見ることもなく

洗われて掌の上にあるとき

その魚の眼はなお見ひらかれていた

その泪に

かいまみた厨房の情景が疾走して過ぎた

その魚よりもさらに風化しやすい

掌の上にあるとき

その魚は知らなかった

何処から来て何処へ去るかを

ああ その魚はみじろぎもしなかった 掌の上に

そのひとつの物のかたちを。

  器 物

   1 李朝

遠ざかる日々、見え隠れする物の来歴。

路傍の、人蔘の花。

微笑みかけることもなく佇ちつくす

貧しい少女の羞じらい。

冬の未明。空の一点に朱をにじませ、

ついに終日、都会の煙霧の奥ふかく

遁走し去る太陽を知る。

昨日を手許にとどめることができないように、

それを愛撫するよしもない。

それは語りかけることはしないから、

眼をみひらいて見遣っているよりほかはない。

茫々ととどめやらぬ時に似た肌に

一点の朱をにじませ

羞じらいながら佇ちつくす物のかたち。

   2 志野

私たちが捕捉しようとした

沫雪の中の炎

水にまぎれゆく風のざわめき。

それは設計する精神ではない。

だが、しかし

私たちの魂は充分に強靱で、

真昼のように目覚めていた!

それは息づきそして汗ばむ

掌に似た肌をもつ。

それはこまやかに季節の影をおとし

大気の底に位置を定める。

私たちの秩序のように陰湿な

それと私たちとの関係。__だか

陰湿だからとて又何としよう?

   3 信楽

もう与えられたかたちに倣わない

もう与えられた色にまなばない

松の梢を吹く風のかたちと

風の色とが自から器をなした!

それはある秩序の終りのとき

港町の雑沓の中にも

荒れた山野にも 日常ふだんに

死が身辺にあったときから

蒼茫たる歳月をながらえてきた!

少女の肌のように無垢のまま

松の梢を吹く風のように爽かに

それは昨日と今日との間の暗がりに

漂よいながら

仄かな明るみをたたえて位置を占める。

   4 高麗

薄明の海をながれる藍よりも

さらに淡い器物の青に

ひたすらに一日の憂悶を鎖す。

わが祖父たちの奪ったもの、

わが兄弟たちの掠めたもの、

ついに奪いえず、掠めえなかったもの。

自らを恃んで傲らぬもの、

謙抑にして自らを卑しめぬもの、

故宮の城壁を劃る空よりも

さらにはるかなるもの。

その淡い器物の青に

夏を鎖し冬を鎖し時を鎖し

ひたすらに憂悶を鎖し、かえって

憂悶のふつふつと湧きくるを知る。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/07/15

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中村 稔

ナカムラ ミノル
なかむら みのる 詩人 評論家 1927(昭和2)年 埼玉県生れ。朝日賞。

掲載作は『鵜原抄』(1966年、思潮社)より抄録。

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