知識階級
一
日本の知識階級について考えて見たいと思ったのは、かなり以前からのことですが、実際にはどこから手をつけてよいかわからない難問題です。
歴史的に考えても、飛鳥奈良時代の留学生、『懐風藻』、『万葉集』に名をのこした詩人たちは、知識階級の先祖と言えましょう。以来ながい時代の転変を通じて、知識階級は絶えず存在し、文化の流れは消長はあっても完全に断絶することなく続いてきたので、ここにわが国の文化のひとつの特質があると思われます。わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。
この特質には、島国という地理的条件、ことにアジア大陸からの距離が大きく作用しています。朝鮮半島、あるいは南支那とわが国を距てる海は、文化交流を古くから可能にするとともに、軍事的侵略を不可能にするに適当な広さと気象条件を持っていたので、このことはわが国の政治的独立の保持と文化の進展に大きな貢献をしています。
南支那海も朝鮮海峡も、ともにわが国からの侵略も、外国からの攻略も、永続的な成果を保ち得ぬものにする距離であったので、元寇や秀吉の朝鮮遠征も、例外をつくるにたりませんでした。
わが国と大陸との交通が、ほとんど「平和的」な性質に限られていたことは、一面においては、その影響が生活から抽象された「文化」の面にだけ限定されていたことを意味します。
外国が現実の政治的、軍事的、あるいは経済的圧力として意識されたことは、長い歴史を通じて、例外の短期間だけで、あとはただ珍奇な美術品、高徳の僧侶、学ぶべき政治倫理思想として意識されたので、この非現実的性格は、現代人の外国にたいする観念にもまだいくぶん残っています。
わが国がいつも文化の上では外国の影響をうけ、その変化のあとを追いながら、生活の面ではむかしから一貫した連続性を保っていたことは、生活と文化的観念とが、いつも一致しない遊離した関係にあることを示しています。
知識階級は、いつも文化の観念の保持者としての役割を意識的に果してきました。
こういう伝統的知識階級の存在の形態が、西欧文化との接触によって、大きな変化を蒙りながら、根本において共通の要素を持ちつづけている、というのが、現代の日本の知識階級の実態でしょう。今日の知識階級の存在理由になっているのは、近代の西洋から移入された知識ですが、この西洋との接触は、わが国の長い文化史を通じて異例の性格を持っていました。
このときわが国は外国を軍事・経済・政治上の圧力としてうけとり、これに対処する必要にせまられたので、その結果である明治維新が今日の日本の出発点になっています。
しかしこの場合にも、外国に占領され、完全に植民地化されるという事態はおこらなかったので、ヨーロッパ諸国は「夷狄」として感情的な排斥の印象になりましたが、国策が一転したのちは、打勝つべき競争相手としてより学ぶべき「先進国」として意識されることが多かったのです。こういう事情はたんに過去の事実でなく、現在の僕等の心理状態をつくりあげる有力な条件をなしています。
僕がこういうことに関心を持ち始めたのは、戦前に留学生としてフランスに行ったときからでした。あまり沢山接触の機会があったわけではありませんが、それでもフランス人や、他のヨーロッパからくる学生たちと話して見ると、自分の考えや感情の動きがいかにも特殊なのに驚きました。一口に言うと、日本人くらい世界中のあらゆる事象を理解しながら(少なくも理解したつもりでいながら)、世界から理解されていない国民はないのではないかという気がしました。
あまりひどい誤解をされると、一体人間が外国のことを理解する能力はこの程度のものなのか、それなら僕等が外国について持っているつもりの知識も、本質的にはこれと変らないものなのかという気がしてきます。
それをただただくりかえしている間に、結局僕等が明治以来してきた経験は他国に類のないもので、そのことが僕等と外国人との間の正常な理解を妨げているのではないかと考えました。僕等が生れたときから馴れ、あたりまえと思っている生活や意識がずいぶん特殊なものではないかと疑われてきました。
二
第一は僕等の貧乏です。貧乏と言い、金持と言い、何を標準にして言うかは問題ですが、すくなくとも日本の知識階級は、自分の勤労による所得だけで衣食し、そのほかに財産らしいものを持たないのが普通です。
これは彼の生活がもし失職すれば、その日から成り立たなくなる不安にたえずさらされていることを意味します。中流の勤労階級で、主人の失職や死亡が家族をどんな悲惨な境遇に陥入れるかは、いつも見聞するところです。退職金や弔慰金、生命保険などがあっても、それだけでは到底生計が立たず、未亡人は葬儀もそこそこに、保険の外交でもやらなくてはならないことが多いのです。
戦後一時「早く病気のできる身分になりたい」という冗談が友達の間で流行りましたが、当時の闇食糧に依存した生活では、一週間も風邪をひいていると家計の歯車が狂ってきます。
いまはそれほどでなくても、三月の病気を経済上の心配なしにできる人は少ないのではないでしょうか。まして半年一年となると、月給を貰っている人たちでもいろいろ困ることがでてきます。
つまり僕等は、広い意味でのその日暮らしをしていることになります。「恒産なければ恒心なし」と言いますが、この古い諺がほとんど行われなくなったのは、「恒産」などという言葉がいまでは無意味になったからでしょう。
では「恒心」のほうはどうか、と考えて見ると、いろいろなものが僕等に欠けるようになってしまったことがわかってきます。
外国の事情は簡単にわかりませんが、ヨーロッパの知識階級の生活の基礎は一般にもう少し安定しているようです。いわゆる中間層の勤労所得がわが国の二、三倍にのぼるのは、物価がそれだけ高いのですから、大して羨むべきではないかも知れませんが、イギリスやフランスでは勤人でも月給だけで生活しているような人々はむしろ例外で、大概は生活の基礎となる財産を持ち、給料その他の働いて得る収入は、生計の一部をまかなうにすぎないようです。
これは国全体が富裕で、中産階級の層が厚いためであり、また大学をでた知識階級がより少数の選ばれた階層であるためでもあると思われます。
しかしわが国のように、国が貧しく一般の生活程度が低いのに、大学と大学生の数だけは世界のどこの国とも飛びはなれた比率だというのも、特別のことで、そこにはそれだけの事情があると思われます。
知識階級にたいする社会の需要がそれだけ多く、同時に貧しい家の子弟が学歴を社会的地位の向上のための、唯一の確実な手段として重視することを示しているわけです。
イギリスやフランスのような国は、民主主義国といっても、社会の階級の観念がかなりはっきりしていて、農夫の子は農場を経営し、小売商人の子は大体父の店をつぎ、工員の子は父親と同じ工場につとめるのが原則であり、別の階級にぞくする人間になろうとする考えはそれほど一般的なものではなく、それだけに下層階級が階級としての生活の向上を図る運動は根強く行われています。
これに対して、わが国では階級的な差別観が、戦前においても、ヨーロッパにくらべれば著しく稀薄であり、それに対応して「立身出世」が社会の各層にわたって美徳とされ、青年の情熱になっていたので、知識階級がその生活の不安に堪えたのは、出世の希望によるとも言えます。彼等はよりよい社会的地位を望むあまり、生活の安定を願わなかったのです。
こんな風に、貧しい社会を背景に、不安な生活を送りながら、たえず出世を望んで焦立ち、そのためには家族はもちろん、自分自身の生活も犠牲にすることをあえてためらわないのがわが国の知識階級気質だと言ったら、画像を暗く塗りすぎたことになるのでしょうか。
これは彼の外面的な、社会的存在の仕方について言えることですが、こういう生活は、彼の内面を形づくる知識と性格とも相関関係を持ってきます。
しかしそれにふれる前に、何故僕等がこういう生き方をするようになったかを、考えて見る必要があります。
結局それは今日の日本をつくりあげた明治維新の性格を、それが知識階級の形成について果した役割から考察することになります。
近代の知識階級の発生はいわゆる洋学伝来の歴史にまで遡るかも知れませんが、ここではそれにはふれません。
西洋の知識の組織的な移入が国家的必要事とされるようになったのは、明治維新前後からであり、ひとつの社会的階層としての知識階級ができあがったのもこのころであったからです。
わが国の知識階級にはじめ人材を供給したのは、武士階級でした。というより明治維新は在来の武士階級を知識階級に変質させて行った過程と見てもよいでしょう。
江戸時代の教養が武士によって握られていた結果、洋学に最初に接触したのも武士階級の出身者でした。しかしオランダの書物を通じて移入された知識が、天文、医学、その他自然科学的な分野にとどまっている間は、それは少数の人々の占有物であり、彼等の大部分は長崎の通詞か医者など、一応武士の階級にぞくしながら、そのなかで特殊な職業に従事する家柄の出身でした。
この時期の西洋文明は、かつて隋唐の文明が奈良朝のころ輸入されたと同じような純粋の「文化」として輸入されたので、他の者のうかがえぬ真理を所有しているという洋学者たちの誇りは、ギヤマンや時計などの珍奇な舶載品を蒐集する洋癖家の大名が味わう満足に似た、純粋な非実用性を持っていました。
西欧の近代文明が、これまでの大陸文明と(また二世紀前のキリシタンとも)異なった性格を持つことが次第に明らかにされるようになったのは、やはり外国の艦船の渡来が目立つようになった十九世紀に入ってからで、海岸の防備が急務とされるにつれて、西洋諸国の、これまでわが国の経験になかった侵略的性格が明らかになるとともに、その文明の実用性も認められるようになりました。
ロシア船が松前藩に通商を求めにきたり、使節ラクスマンが根室にきて通商を求めたりしたのは、十八世紀の末であり、林子平が『海国兵談』を著わしたのもこれと同じ年ですが、ロシア船だけでなく、英国その他の外国の艦船がさかんにわが国の近海に出没し、各地に小被害をあたえるようになったのは、文化文政、すなわち十九世紀の初頭からです。
そのころから海防が幕府の大きな関心事になるとともに、洋学もそれと併行して著しい進歩をとげました。最初の蘭和辞典『ヅーフ・ハルマ』が完成されたのは天保のはじめ(一八三三年)であり、それから間もなく米船モリソン号を浦賀奉行が砲撃した事件、渡辺崋山、高野長英などの獄、高島秋帆による西洋式銃隊の操練など、それぞれ性格の異なった事件が相ついで起り、西洋諸国との交渉の密接化と、それにたいする国民の反応を示しています。
ヨーロッパ諸国で海洋を航海する蒸気船が実用に供せられるようになったのはこの時代からであり、一方日本列島を中心として行われた太平洋の捕鯨業も、わが国の鎖国状態を大きな障害と見るようになり、一八四四年(弘化元年)にはオランダ国王が国書をもって開国をすすめるにいたりました。
そして嘉永六年(一八五三年)の米艦渡来とともに、いわゆる幕末の慌しい変革期が始まるのですが、このころになると、外国の艦船の来航は、枚挙のいとまがないくらい頻繁になってくるので、ペリーの要求は、たんに武力を背景にしていただけでなく、このような時代の勢いに裏づけられていました。
以後、明治維新にいたるまでの十数年間は、この「父祖の法」ではまったく予期しなかった国際環境にどう処して行くかという苦慮のうちに過されました。
「
知識階級の発生も、この必要に応ずるためでした。
わが国の知識階級の発達について、簡単な図式をつくってみると、次のようになるでしょう。
まずそれは、わが国を幕末維新のころおかれていた「半開」の状態から、急激に「文明」にすすむという、国家的必要をみたすことを使命としていました。したがって彼等の身につけたのは、西洋の学問であり、その人的な素材は、主として旧武士階級(とくに下級の武士の間)から供給されました。彼等は「四民の平等」を標榜した社会で、従来武士の間でもきびしく守られていた上下の身分家族の差別から解放され、これまでにない出世の機会を保証されて、その使命にいそしむことができました。この洋学で装われた武士の子弟たちが、僕等の先祖であり、それがいろいろに変質しながら、根本の性格は変らずに現代まできています。
三
竹山道雄氏が、「いまの日本の大学は実質的にはまだ旧幕時代の蕃書調所だ」という意味のことを言っていました。これはわが国では現代でも西洋の書物を読むことが、「学問」や「研究」の主要な部分をなしていることを言ったものでしょうが、この現象はまた社会が知識階級にもとめるところが、むかしも今も変らぬことをも示しています。
今日の東京大学が、制度の上でも蕃書調所の後身であることは、この点からも興味ふかいことです。
蕃書調所というと、ひどく古風な感じがしますが、これはわが国で、洋学を修めた知識階級を、多量につくりだすことを目的として政府の開設した最初の学校といってもよいものなので、その開所の事情と組織の大要を、原平三氏の研究によって、述べてみます。
蕃書調所が設立されたのは、安政四年(一八五七年)のことですが、その最大の動機になったのは、数年前の米艦の渡来であり、この事件を機に、それまで事実上長崎奉行に任せられていた対外事務を江戸幕府の直接の所管としたことが、洋式の兵学を修めるためにヨ一口ッパの語学を習得する必要が痛感されたのと相俟って、外交文書の翻訳所、洋書の図書館、語学校の三つをかねた機関として調所を生む動機になりました。
しかしそのなかで洋学生徒の養成がもっとも重視され、調所自体がほとんど洋学校と同一視されたのが実状で、創設に与った古賀増は調所を設ける主旨は「畢竟海内万民之為メ有益之芸事御開」になることであるから、学校として人的にも物的にも優秀な機能を持たなければならないとし、そのために実験装置を整えることを是非必要としているほか、優れた教授や生徒を集めるために、身分による差別をある程度無視して、諸藩からも人材を募ることを提議しています。
封建の門閥制度が時勢の必要の前に、自然に崩壊して行く経過がここでもうかがえますが、面白いのは、たとえ軍事上の必要にもとづくにしても、年少の子弟に西洋の学問をさせることの危険が、このときに早くも感知され、指摘されていることです。
やはり調所の設立に
勝麟太郎も、幕府から調所創設の準備を命ぜられたとき、「調所創設の目的は夷狄制圧に在る事を明かに示し、邪宗門に陥らざることを第一に警戒する。その為に先ず漢学より入らしめる」という方針を掲げ、調所でなすべき翻訳に兵書戦書を第一にする、と言っています。
これは当時の人々の洋学に接する気持がどういうものであったかをはっきり示しています。
彼等の最後の目的は「夷狄の制圧」、少なくともこれら外人たちの圧迫に抗して、彼等の侮りをうけぬ独立の国家に日本を仕立てることであったので、「洋学」はあくまでその手段であり、彼等が将来に夢見た日本においてはそれ以上の地位を占めるべきではないとされました。川路の言うように我々の「御国」においては、たとえ西洋風の兵備を持ったのちも、「義を尊み、主を重じ」るべきであったので、西洋文明の移入は、僕等の政治体制や生活の倫理を、いささかも変えるべきでないとしたのです。
これが当時の幕府のなかでもっとも才能と見識のすぐれた代表的人物の考えであったとすれば、この時代の開国論は攘夷論と深くつながるところがあると言わねばなりません。
というより開国論自身が理知的な攘夷論であったので、「蕃書」を取調べるそもそもの動機が夷狄の制圧にあったのは、記憶すべきことです。
攘夷論も開国論も、実質はそれほど違ったものではなく、同じ時代の人心のいくらか色調を異にした現われと見るのも、おそらくそれほど乱暴なことではないのです。
眼色毛色の違った、言語も風俗習慣も理解できない人間が、武力を背景として勝手に入り込んでくれば、それにたいして反感を覚え、できれば彼等を打ち払いたいと思うのは自然の情です。
当時のわが国の攘夷論は、その自然の感情の率直な迸りであるだけでなく、国学の興隆による国体観念の普及と相俟って、多くの武士たちの思考を、各藩の狭い枠から引きだすに大きな役目をはたしたと思われます。民族あるいは国民としての自覚は、近代国家の成立に不可欠なものですが、それがわが国では「夷狄」を対象とすることで、はじめて明確化したのは、皮肉であり、当然なことでもあります。
安政四年正月から、蕃書調所は、大体昌平黌の制度を範とした学則によって、開校されましたが、入所した稽古人(学生)は幕臣の子弟の志願者約千人のなかから選抜したもので、総数は不明ですが、日々約百人ぐらい出席したということです。
授業の方法は初歩の者には、句読師という若い先生が個人教授でオランダ語の初歩を教え、ややすすむにつれて、学生同士の輪講、すなわち会読を行うという風で、当時の漢学の教授法をそのままうつしたものですが、一般に学生の程度は低くてほとんど初学者が多く、会読を行うにも専門の学科があるわけでなく、いわゆる普通学の書物を教材にしただけであったということです。
これは当時の洋学の水準から見てもあまり高級とは言われなかったようで、福澤諭吉が大阪の緒方塾で蘭学を修めたのち、江戸に出て、大阪から江戸に移るのは、蘭学を学ぶためでなく、教えるためだと傲語しているのが思い合わされます。
蕃書調所は、おそらく当時の日本で最大の洋学教育機関であったに違いなくとも、──少なくも生徒の質においては──最高というわけに行かなかったようです。
この調所が、開成所、洋書調所などと改称されたのち、維新後に開成学校となり、東京大学となったのは、言うまでもありません。
維新後には、外人教授の招聘がさかんに行われ、蕃書の取調べどころでなく、蕃人の教授をうけることになったので、わが国の大学教育は始め日本人の手で洋書を調べて読んでいた時代、次に外人を招いて直接に専門知識を吸収した時代、最後にそれと同程度の「学問」を日本人の手で教授できるようになった時代の三つに分けられると思いますが、幕府の末期にも、当局者は「調所」だけでは、とうてい時勢の要求に応える人材を養成できないことを知って、直接に優秀な子弟を外国におくって専門化した知識を得させることを計り、イギリス、ロシア、オランダに相ついで留学生を派遣しています。
これらの留学生は、大部分慶応四年に幕府が倒れる前後に帰朝しています。彼等の学識は彼等を派遣した幕府のためには役立ちませんでしたが、新政府のもとに開国の方針をとった日本に大きな期待をもって迎えられ、それぞれの役割を果したので、オランダから帰った西周、津田真道、イギリスから帰った中村正直、外山正一、菊池大麓などいずれも明治初期の文化史上逸することのできない名です。
西や津田などとともに明六社を組織した福澤諭吉、森有礼などもやはり英国から多くを学んでいます。
わが国の近代知識階級の歴史は彼等から始まります。
四
この幕末から明治の初期にかけて育った知識階級の典型は福澤諭吉であり、彼の生涯と心情とは、名著『福翁自伝』をはじめ多くの著作によって、いまでも生き生きと僕等に語りかけます。彼は多くの同時代人のうち、自己を語ることに成功した稀な例外です。
彼は文学や文学者は軽視していたようですが、この意味ではすぐれた文学者でした。
しかし彼のような筆を持たず、成功者の生涯を送らなかった同僚のなかにも優秀な人材は多かったので、この世代の人々は、わが国の知識階級の巨人伝説時代という感じをあたえます。
彼等はいずれも生涯の半ばで維新に際会し、福澤の言うように、「一身にして二世を経る」ような経験をしました。
維新は徳川幕府の瓦解であり、その限りでは多くは幕臣あるいは幕府によって衣食していた彼等には、身分と生計を失うことでした。
しかしこの旧秩序の転覆は、幕府の秩序のもとではどうしても異端視されがちであった洋学者や洋学書生には、失うより得るところが多い変革であったので、ことに維新政府が一般の予期に反して開国の方針に決してからは、彼等は在来の技能だけを必要視された賎民の地位から、特殊的な指導者の席をあたえられることになりました。彼等の知識にたいして、はじめてそれにふさわしい(と彼等の信じた)尊敬が払われるようになったことは、新政府にたいする多くの感情的なこだわりを忘れさせるに足るものでした。(幕府の直参としての誇りを持つ者が、諸国の藩士すなわち陪臣の組織する明治政府に仕えるのは、決断を要することでした。)
武士の支配した封建社会で、学者の地位は表面的な格式から僕等が想像するほど高くなかったので、ことに聖賢の道や治国の法を説く漢学者とちがって、洋学者はもとは洋癖を持った大名の趣味の相手としか見られなかったし、西洋との交通の緊密化と、国内の社会の行詰りが、次第に彼等に政治経済にかんする眼をひらかせた幕末になっても、彼等は「デイデイが大きな屋敷の御出入りになった」ように、幕府から──主として文書を翻訳する──技能を買われたにすぎませんでした。
こういう言葉を吐いた福澤諭吉は、すでに『西洋事情』の著者であり、英国をはじめとしてヨーロッパの政治や社会制度にかんしても、相当な知識を持っていました。
彼は大きな「屋敷」の住人である幕府の高官たちが、どんなに無知で臆病な人物であるかをよく知って居り、彼等の偏見だけでなく、伝来の身分門閥の制度が、知識と能力のある人間の登用を堅く拒んでいるのを深く憤っていました。
「私の為に門閥制度は親の敵」とは彼が『自伝』の冒頭に記した言葉です。こういう幕府は倒されねばならないし、また内外から逼迫する時勢を収拾する力を持たないというのが、彼の持論でした。
彼が倒幕の運動にすすんで加わらなかったのは、その主張をなす志士たちが幕府に輪をかけた攘夷家たちであると思っていたからで、それだけに維新後の新政府が一転して開国の方針を採用し、身分制度の廃止においても旧幕時代には考えられなかったほど徹底した政策をとると、諭吉は年来の理想の思いがけない実視に、ほとんど狂喜しています。
彼の著作は『西洋事情』から『学問のすゝめ』にいたるまで、革新の「筋書と為り、台帳と為り、全国民をして自由改進の新様の舞を舞はしめた」ので、彼は「悪に強い者は善にも強く」ほとんど野蛮な実行力で、彼の思想を実現してくれた新政府にたいして、讃辞を惜しみませんでした。
彼自身が政府に加わらなかったのは、学者や思想家が、政治家あるいは軍人にたいして抱く本能的な不信の念が、彼にあっては同時代人の誰より強かっただけでなく、維新の変革にさまざまな形で露呈された人間性の醜さが、彼に世の風潮にともなって官途につくことを嫌わせたのではないかと思われます。彼は新政府の価値をみとめ、それを支持するにやぶさかではなかったのですが、それに膝を屈して仕えるのは、誇りが許さなかったのです。
彼は維新当初の政府が、強藩の少数者の専制であったことも「時勢において止むを得ざるもの」であったとみとめて、次のように言います。
「維新の大業は首として旧強藩の力に依つて成りしものなり。此一挙につき其士人が心身を労したるは如何ばかりなる可きや??生命は人間無上の宝なり、諸藩の士人は此宝を投じて維新の大業を成したる者にして其業成れば随て政府の権力を握るも亦謂はれなきに非ず。」(『藩閥寡人政府論』)
しかし彼は別の個所で、彼等の実行力がその「無学」からでていると断じています。
「其有志者は大抵皆藩中有為の人物、祖先以来我国固有の武士道に養はれて其活溌穎敏、磊落不羈なるは殆んど天性にして大胆至極なれども、本来支那の文学道義に入ること甚だ深からず、儒学の極意より之を視れば概して無学と云はざるを得ず。此無学の一派が維新の大事業を成して、……一片の武士道以て報国の大義を重んじ、
この言葉が、どこまで彼の真実であったかは問題です。日本の武士階級が、朝鮮か支那の教養ある官吏たちに比べて、はるかに容易に西洋文明を消化し得たのは、彼等が、支那の文学にかんする素養が浅く、要するに「無学」であったからだという観察は、わが国の西洋文明の様相が、何故他の東洋諸国に一歩先んずることができたかという問題にたいするひとつの解答と思われます。
むろん他の、政治的、社会的原因はいろいろあるにしろ、西洋文明を輸入する主体としての知識階級について言えば、わが国の武士階級は、他の東洋諸国の知的な中核をなした人々より、少なくもそれを功利的側面から受入れるには、非常に適していたと言えます。
これは必ずしも福澤の言うように、彼等が「無学」であったからではなく、彼等の教養の質が(その武人としての身分と機能に制約されて)実践的、功利的な面を強調したためと思われます。江戸時代の支配道徳は、いつも文弱をきびしく戒めてきたので、一身の修養、あるいは一国の政治の理念としてだけ「学問」は重んじられたのです。
それを敢て「無学」と言い切った福澤の気持には、儒学を偏重しようとする一部の同時代人の傾向にたいする皮肉もありますが、さらに深いところでは、維新の功臣たちにたいする軽蔑の念が働いていたようです。
彼が言外に言いたかったことは、彼等が漢学に無学であると同様に、洋学にも無学であったということです。あるいはそのことは、言うまでもないこととして、この文章に前提されているのかも知れません。諭吉は彼等にただ大切な生命を危険にさらす、匹夫の勇だけを見たとも考えられます。少なくも日本という巨船を新しい大洋に進めるのに、蒸気の
そしてこれは福澤ひとりでなく、彼や森有礼を中心にして明六社に集まった当時の知識人たちが例外なく持った誇りでした。この誇りは責任感と表裏するもので、明六社はこの責任を日本にたいして果すために結成されたものですが、彼等が説得しようとした相手は一般人よりむしろ政府の当路者でした。
明六社の機関誌として発刊され、わずか二年たらずで廃刊した『明六雑誌』は、このわが国の知識階級の英雄時代の気風をよく伝えています。明六社の同人には、前記の二人のほか西周、津田真道をはじめ、加藤弘之、西村茂樹、箕作麟祥、などが居り、彼等の大部分は政府の役人でもありました。学者が官途につくべきか否かという点について、福澤と他の同人の間に議論が行われたことがありますが、学者自体が国家の全体にたいして持つ、指導者あるいは救済者としての意義は、誰にも疑われたことはなかったので、「方今我国の文明を進むるには……人に
彼等の自恃の念が強かったことは、こういう言葉の端からもうかがえます。実際においても、政府が彼等を雇うのでなく、彼等が政府をたすけてやるという気風でした。
『明六雑誌』の第二号で西周はかなり『学者職分論』を批評しながら、自分は「翻訳の小技を以て政府に給仕する者」であるが、久しい以前から福澤の高風を慕っている、いますぐに辞職するわけに行かないが、いつか福澤と同じ道を歩きたい、と言い、津田真道は、官吏でいながら、「力を尽して人民自由の説を主張して
こういう自由は、いかに明治初年でも、すべての官吏に許されていたわけではなく、彼等の洋学の知識が、上役にさえ憚られていたことを示すものです。
当時の洋学の水準はむろん高いとは言えず、西周の言うように、「世の大家先生と称する者も未だ其蘊奥を究めたりと謂ふべからず」という有様でしたが、これは旧幕時代にくらべて、洋学の範囲が、政治経済法律等のあらたな領域にひろまり、需要の度が急激にたかまったのに比して、これを修める者の人数も少なく、教育の機関も整備されていなかったためです。
福沢諭吉には、これという専門の知識はなかったと言ってもよいのですが、同じことは哲学の先駆者西周や社会学の津田真道などにも言えるので、西周みずから認めるように「
むろん、それだけの知識を得るだけにも、容易ならぬ努力を要したことはたしかです。福澤が大阪の緒方洪庵の塾にいたとき、夜眠るに枕を用いたことがなく、机にもたれて仮睡するだけであったという挿話は有名ですが、幕末にイギリスに五年の予定で留学した、いわゆる遣英留学生、外山正一、箕作大六(菊池大麓)ほか十数名は、ロンドンに着いてから一個所に合宿し、朝七時起床、八時朝食、九時から午後一時半迄「寸時も机を離れるを得ぬ」規律のもとに勉強し、一時半から五時までの間を昼食と外出の時間として、五時にかえると六時晩餐、七時から十時まで勉強、十時以後は各自の寝室で明日の課業の下調べをして十二時ごろ就寝、というほとんど軍隊式の統御のもとに勉強をしたということです。
しかし彼等は一年あまりで維新の変に遭い、帰国してしまったので、英語を学んだほか、いわゆる普通学を修めた程度で終ったようです。外山や菊池などが明治になってからいま一度留学しなおしたのは、そのためでしょう。
彼等の知識は、その修得が困難であったために稀少価値を持ったので、その内容は大したことはなかったわけですが、わが国の近代史上、知識階級がもっとも強い権威を振ったのは、彼等が「
福澤が「有志者」にたいしてつかった「無学」という形容詞は、こう考えると彼等自身にあてはまると言えます。この「無学」は──福澤が有志者について言ったと同様に──必ずしも当時の洋学者の欠点とばかり見られないので、ことに後世の専門知識に捕えられて、自分の判断力や感情さえ失った、知識階級にくらべると、彼等が「活溌鋭敏」で、自在に運動し、現実感覚と行動性を失わなかったのは、「無学」のためと思われます。
彼等は洋学においては──環境に制せられて──手薄な素養しか持てなかったのに反して、漢学を中心とする伝統的教養は、今日では想像できぬほど、深く広く身につけていました。もとより時代の水準から言えば公約数的な性格のものにすぎなかったにしろ、この素地が彼等の行動や思考の根本の規範になったことは動かせません。
ここでさきにひいた川路聖謨らの、西洋の事物に接触させるには、まず漢学を学ばせるという注意が生きてきます。
おそらく、ここでものを言うのは「儒学の極意」などでなく、それに陶冶されて育ったわが国の武士に独自な気風、福澤の言葉をかりれば「祖先伝来我国固有の武士道」なのです。さきにも述べたように、わが国の武士階級、ことに下級武士たちの気風は、西洋文朋の移入にさいして決定的な役割を演じたと思われますが、維新前後の洋学者たちの知識、あるいは「無知」が、漢学の素養の上に、西洋の普通学の釉をかけた程度のものであったのは、彼等の判断力を、生きた常識を失わぬ健康なものとする結果を生み、彼等自身にも、また当時の日本にも大きな幸いをもたらしました。
彼等はただ西洋から、無学な偏見を持たぬ人間、観察し同感し得た点だけを摂取しようとしたので、その間の心事について、福澤は「一片の武士道以て報国の大義を重んじ、苟も自国の利益とあれば何事に寄らず之に従ふこと水の低きに就くが如く、旧を棄るに吝ならず、新を入るゝに躊躇せず」と言っています。
彼等の思考においては、人間の幸福と「自国の利益」は離れがたく結びついているというより、まったく同一のものであったので、それが後に問題をはらむわけですが、ともかく彼等は功利主義を説き、私の利益を図ることが、結局は国家を益すると説いても、彼等自身は近代的な合理主義とは異質な武士気質の持主でした。この彼等自身の意識しなかった矛盾に、明治初年の英雄時代の知識階級のもっとも大きな特質があったと思われます。
なかでもっとも徹底した功利主義を説き、私利を計る必要を主張して「拝金宗」と呼ばれた福澤諭吉は、彼が洋学に志した動機を次のように説明しています。
「
とまで言い、当時の蘭学者は大抵医術の研究を目的としたのであるが、自分は医者の子でもなく、医学研究の志もなかったし、また洋学を修めれば誉れを郷党に得ることができるかというと、反対に「却つて公衆の怒に触るる」のが当時の実状であり、「既に誉れなく又利益なし何の為めに辛苦勤学したるやと尋ねらるれば唯今にても返答に困る次第」であるとくりかえしてから、自らこの理由を次のように述べます。
「一歩を進めて考ふれば説なきに非ず、即ち余は日本の士族の子弟にして士族一般先天遺伝の教育に浴し、一種の気風を具へたるは疑もなき事実にして其気風とは唯出来難き事を好んで之を勤むるの心是れなり当時横文を読むの業は極めて六かしきことにして容易に出来難き学問なりし故に之を勤めたることならん。或は洋学ならで他に何か困難なる事業もありて偶然思ひ附きたらば其方に身を委ねたるやも知るべからず」
これは少し言いすぎかも知れません。『福翁自伝』において、彼が洋学を始めたのは、西洋の兵書を読むという藩の必要に応えるためであり、同時に長崎遊学は、門閥制度で身動きできない藩内の生活から脱出する機会でもありました。
しかしこれを学ぶことが彼にとって、一身の利益に結びつかぬ無償の情熱であったのはたしかなようで、同じく『自伝』によると、これはたんに彼ひとりのことでなく、彼が学んだ大阪の緒方塾の書生に共通した気風でした。
「粗衣粗食一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なことは王侯貴人も眼下に見下すといふ気位」と、諭吉は当時の『書生気質』を述べていますが、こういう動機で学問をした者が唱えた功利主義がどういう性格のものかは明らかです。
むろん諭吉はこういう書生の気風にたいして或る意味では批判的です。
「今の学問は目的に非ずして生計を求むるの方便なり、生計に縁なき学問は封建士族の事なり」と彼は学生にたいして断言します。彼は「金力独尊の時勢」を進んで謳歌しようとさえします。
しかし彼が内心では、「封建士族」の学問の仕方を是認して、「生計を求める方便」としての学問を本当でないと思っていたことは『自伝』のなかの次の一節でも察せられます。
「今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考へてゐるやうでは修学出来なからうと思ふ……
功利主義もひとつの哲学の学説である以上、その主張者が無償の情熱を持っていても不思議はありません。むしろそうでなければならないのですが、これが社会を支配する原則となり、個人の出世欲を合理化する倫理になると、そのなかに住む「書生」たちは、もはや「王侯貴人」の傲りを持てなくなります。
こういう変化が起ったのは、明六社の人々のように、明治の外で生れて、明治の社会を、彼等の理念によってつくったと自負した人々のあとから、明治の社会の内部で成長した新しい世代の青年が大人になった時期、ちょうど明治二十年をあいだに挟む数年間においてです。
新しい文学がこの時期期起ったのは偶然でありません。
五
大隈重信は、明治維新の偉業は、「我中等以下の国民たる士族の手」によってなったといい、なかでもその運動の主動力になったのは、「書生」たちであったと断言しています。のちに志士と呼ばれた人々だけでなく、福澤諭吉なども、みずから「書生」を標榜していました。彼は明治の元年か二年に阿波の藩主に会ったとき、「始終その殿様の目を注ぎ旨く誘ふて様々のことを発言せしめ、能く能く之を見れば如何にも無礼横風なる少年にして曾て人に交るの法を知らず、書生同志の附合なれば一言馬鹿と評し去るの外なし」と言っています。
彼はここで「書生」という言葉をほとんど一個独立の人間というのと同じ意味で使っています。おそらく当時の各藩の有志者、福澤のような半ば処士の生活を送る学者たちの間には、一種の知的な共同社会が生れていて、彼等はその教養や思想の傾向を異にしていても、お互いに会えば話が通じたのです。福澤は勝とは知り合いであり西郷木戸と会えば少なくも相手が「馬鹿」でないことは理解し合ったでしょう。
福澤は「阿州の若殿」に会ったのち、「此輩をして全国の各地方に君臨せしむるは、人類にして豚、犬の命令を奉ずるに異ならず」と憤っていますが、彼にとって大切なのは、少なくも真人間である書生たちに「人類」を支配させることであり、明治の政府はやがてそれを実現したのです。
しかしこの「書生」という言葉の意味は、坪内逍遙の『当世書生気質』ではすでに変ってきています。
この明治十八年に発表された新時代の戯作は、次のような書出しで始まります。
「さまざまに移れば変る浮世かな、幕府さかえし
人力車は明治初年の発明であり、在来二人の労力を要した駕籠に代って、その軽便と速力によって大流行を来たしたものです。
しかしこれを書生と較べるのは、新しい世相の産物二つを並べる思いつきだけでなく、書生がひとつの社会層として存在するようになったこと、少数の指導者から、ある技術的必要のために養成される青年の群れに変って行ったことを意味します。
封建社会の秩序の外に形成され、風雲に乗じて、社会の主動権を握った革命家たちの後継者が、多量に組織的につくられるようになったのです。
福沢諭吉の戯文に『学者の三世相』というのがあります。
「憐れなる哉日本の学者、三世相を見れば始よし、中わるし、終は尚々わるしとあり」という書きだしで、知識階級の価値下落を論じたものです。
明治の初年の学者は丁度、旧幕時代の漂流人と同じように「物珍らしく持てはやされ」「洋学者とあれば政府に用ひられ諸藩県に雇はれ、
「恰も学者の
こう言って彼は学者たちの時世の必要に適応する才覚を持たぬ迂愚と、「第一世漂流人時代」に身についた贅沢の習慣を責め、この弊が改まらぬ限り、やがて「学者第三世お菰の時代」がきて、横文字読む乞食が出現するであろうと予言しています。
この戯画にはむろん、かなりの誇張があります。しかし知識階級の地位の変化にかんする福澤の観察は誤っていないので、そこに働いたのはたんに需給関係の逆転だけでなく、もっと根本的に社会の構成と、そこで求められる知識の質とが以前と違ったものになったためと思われます。
つまり知識階級が、特権的な指導者の地位から、支配者たちに使われる技術者に変って行ったので、彼等の知識の向上と逆に、その社会における位置は下ってしまったのです。
明治初年のわが国の高等教育の発達はめざましいものでした。旧幕時代との最大の違いは、外人教師を招いて直接に西欧の知識を吸収する道がひらけたことで、すでに明治五年に、明治天皇が大学南校に行幸になったとき英米仏独人の教師が二十人に達していました。
なかにはかなり怪しげな教授もいたようですが、普通学でない専門学科の授業もこのころから行われていたので、明治十年に東京開成学校が東京大学と改称されるころは、施設も整ってきました。
?外森林太郎が東大の医学部を卒業したのは、明治十四年であり、逍遙坪内雄蔵が文学部をでたのは同十六年でした。
この時代には医学士、文学士などはまだかなり世間から重んじられたのであり、逍遙が『書生気質』を発表したとき、文学士が小説を書いたことが世間を驚かしたという挿話はよく知られています。
しかし彼等の知識はもはやそれだけで彼等を社会にとってかけがえのない存在にするものではなく、彼等は有用であるけれども、代りはいくらでもいる技術者にすぎなかったのです。
この点で知識階級の「第一世」を漂流民にたとえ、「第二世」を人力車夫にたとえた、諭吉の比喩は正確です。漂民は、彼の身につけた稀有の体験だけで、世間から珍重され、生活にも困りませんが、人力車夫はたとえ客があっても額に汗して走らなければなりません。それも彼等の行きたいところではなく客の命ずる場所にです。
彼等は「無学」な社会の支配者たちの夢想もしなかったような精細で高度の知識を身につけながら、それを支配者たちの意に適うように用いることしか許されませんでした。それがかりに彼等の新知識と結びついた良心に反する場合にも、長者にしたがうことが、それによって出世の道を確保し、家族を(ことに両親を)安んずることが社会道徳として強制されました。
こういう矛盾は、「第一世」の知識階級の経験しなかったところでした。彼等は信ずるところを実行にうつすに何等こえがたい障害を、自己の内面にも、また外部にもみとめなかったので、彼等の主張を生活で実験するところに、その意味を見出していました。
福澤が日本語による演説を始めて試みたり、西周が『百一新論』で百教の一致という壮大なテーマヘの序説を書いたりしているのは、『妻妾論』を書いた森有礼が、その主張を実行するために、新郎新婦が約定書に署名する結婚式を福澤を証人としてあげたのとともに、彼等の思想の当否、知識の深浅は別として、或る爽やかさを感じさせますが、こういう幸福な言行一致を可能にする環境は、明治二十年に成人した世代からすでに失われていました。
社会の支配者に仕えるのを強いられた彼等に、自分の考え通りに振舞うことは、社会的な落伍を覚悟しない限り許されなかったし、このように出世の念を棄てること自体が、すでに家族の期待に反く点で、大きな不道徳であったのです。
『舞姫』に描かれた太田豊太郎のエリスとの恋愛、その後日譚として伝えられる?外の愛人の渡日、…外の家族が団結して示した彼女にたいする拒否の態度、彼女の帰国、その後間もなく郷党の先輩西周の媒酌によって行われた…外の男爵令嬢との結婚など、この世代の生きかたを象徴するものでした。
豊太郎は、いわゆる秀才の典型であり、「父の遺言を守り、母の教に従ひ……たゞ所動的、器械的の人物になりて自から悟らざりしが」いま二十五歳に達し、五年の留学の間ベルリンの「自由なる大学の風」に当ったので、「奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり」という心境になりました。
つまり彼は西洋文明を功利的器械的に輸入しようとしたわが国の必要に応ずるためにドイツに派遣され、それに適した人物になることで満足していたのが、伝統ある近代ヨーロッパの生きた自由の空気を呼吸しているうちに、彼のうちに眠っていた自我の思いがけない目覚めを経験します。これはたんに小説の設定ではなく、作者の自伝と見るべきことで、この口に言い表わしにくい覚醒が、?外の終生の文学的な仕事の基礎になったと思われます。
これは福澤の言う「独立」とは、或る次元を異にした精神の要求で、ときには彼の生活を犠牲にする情熱でもあり得る点で、宗教的といってもよいものです。
豊太郎はこの情熱の危険な性格にはじめは気付きません。
「官長はもと心のままに用ひるべき器械をこそ作らんとしたりけめ、独立の思想を懐きて、
人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき、危きは余が当時の地位なりけり。」
と彼は後になって述懐します。この反省は特徴的です。彼は自分の地位が何かの意味で「器械」にならなければ保てないのをよく知っています。しかしあえてそれを捨てて、人間として生きる可能性を自分にみとめ得ないのです。
彼に職を失わさせる直接の原因になったエリスとの恋愛は、ただこの内面の矛盾を彼にはっきり気付かせる機縁になっただけであったと言えます。
「鳴呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。さきにこれを操つりしは、我某省の官長にて、今日この糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。」
と彼はエリスと別れる決心をしたとき考えます。ここでエリスをつれて日本に帰る可能性がまったく考慮に上らないのは、豊太郎の性格のせいかも知れません。しかし少なくとも官吏として彼が出世しようと望むなら、エリスとの結婚は間題にならない、そういう雰囲気に日本の官界があったことは事実でしょう。
豊太郎の場合、特徴的なのは、彼がエリスとの恋を彼の「本領」を生かす道と知りながら、それを捨てて、自由も人間性もみとめぬ環境で「器械的人物」として生きる道を自ら選ぶ点です。そうしながら、その自分を認め得ない自分を意識しています。
このような環境とこのなかに生きる「我ならぬ我」にたいする不信の念が、?外の生涯を通じて、彼を文学に駆った原動力と思われますが、これと同様に、自己の「本領」と周囲の社会との矛盾は、…外ひとりのものではなく、彼と同時代の鋭敏な良心がみな感じたところです。
二葉亭四迷の『浮雲』は、『舞姫』と表面非常に違った題材をとりながら、結局同じテーマを扱ったものです。主人公である内海文三は下級の官吏ですが、上役たちにたいする「勤労外の勤労」をおこたったため馘首され、許婚のお勢も、世才にたけた同僚の本田昇にうばわれます。
文三とお勢とは、当時の新しい教養を代表する青年男女ですが、文三は新しく見えて実は古い型の男であり、お勢の新しさはただの付焼刃にすぎないとするのが、作者の彼等にたいする批判でした。
文三は、作者の設定によると、幕臣の子で、維新後父は静岡に隠退し、文三が十四の年に病死してしまいます。あとは「男勝りの気丈者」である母親が、「煮焚の業の片手間に、一枚三厘の
文三の性格は、作者自身のそれを一部分発展させたものですが、この境遇は直接には、二葉亭の外語時代の親友、大田黒重五郎のそれであったようです。
しかし、これは特別な場合ではなく、当時の士族の子弟の大部分が辿った道であることは、多くの実例で知られます。
彼等は禄をはなれて貧困の淵に沈んだ家を興し、苦労した母親に孝養をつくさねばならぬ義務を負って、学校を卒業し、社会に第一歩をふみだします。
しかし彼と社会とのあいだには、後の知識階級が例外なく味わった間隙がすでに存在します。まず彼が勤先で与えられる仕事は、「身の油に根気の心を浸し、眠い眼を睡ずして得た学力を、斯様な果敢ない馬鹿気た事に使ふのかと、思へば悲しく情けなく」なるようなものであり、学校で考えたような思想や条理は、実世間の行動の規準としてはまったく無価値になります。
「学校にゐる中は色々高尚な考へをしても、付焼刃だから、世間に出ると昇みたやうな人間になるといふことを考へて書いた」(『作家苦心談』)
と二葉亭は言いますが、この点、文三の悩みは、世間にでても昇のような人間になれなかったことにあります。
「新思想の中でも文三のやうなのは進んでゐるには相違ありませんが矢張多数であつて、而も現時の日本に立つて成功もし、勢もあるのは昇一派の人物だらうと考へたのです」
と彼は同じ文章で言います。
これによれば、昇こそ新しい社会の適者、すなわち『舞姫』の言う『器械的人物』の典型なのです。
彼はただ自分の出世と利益しか考えず、一切の思想、情誼などは真にうけません。(彼の後身である『其面影』の葉村は、この処世哲学を次のように要約します。
「
二葉亭自身は、思想としては文三の方が新しいと考えていたようですが、実は反対で、昇の新しさ、彼の新時代への適者としての性格は、作品の進行とともに明らかになったようです。昇が文三よりはるかに大人であり、自信にみちた生活の体験から、溌剌たる生気を得ていることは、第二篇の第十章で文三と議論するところに明らかに現われています。この文三から仕かけた口喧嘩ははっきり彼の負で、文三が「前後忘却の態」でいきりたつのにたいして、昇は終始冷静にうけこたえして、文三を条理で詰らせます。この対照は、お勢の心が、ここではまだ半ば以上文三にむいていることを思うと、ほとんど二人の性格の処世における優劣を象徴しているといってよいので、お勢が「高尚」だが「不活溌」で結局我儘な子供にすぎない文三からはなれて、卑俗だが活気があり、機会を把えるに俊敏な、本田に心を傾けて行くのは自然の理と思われます。
文三とお勢の恋は、二人のもっている「文明」の観念の一致、西洋に模範を見出した自由と真理に則った生き方ヘの共鳴からきています。
この観念的恋愛は、お勢の「西洋主義」へのかぶれが一時の現象にすぎない以上、たとえ文三の失職という事情がなくとも、早晩破れる筈です。
文三にとって一番困ることは、したがって学校でうけた教育が、彼に限って「付焼刃」に終らなかったことです。秀才であった彼は、そこで教えられた「西洋主義」を本気で自分の生活の原理にします。この点で彼は新しいどころでなく、彼より一世代前の明六社の人々を思わせます。彼の倫理観の基礎をなしているのは、封建時代の武士的・儒教的道徳であり、西洋思想はひとつのより合理的な道徳の理想として、これに(我国の実情を無視して)じかに結びついています。彼のお勢との恋愛の場面は、あくまで「条理」によって「習慣の奴隷」である自分等に制御を加えている点で、森有礼の結婚を思わせます。
文三の希いは、たんに恋愛においてだけでなく、自己の内面の論理を生活において実現して行くことです。彼は自分の信念を捨ててお勢の心を得ようとは夢にも思わないので、この意味ではまったく武士気質の持主です。男子として恥かしくない、内に顧みて卑しくない生活を送らずに彼には幸福は考えられません。そしてこれが自分一個の満足を生活に期待する一種のエゴイズムであり、他人の犠牲をそのために要求するものであることに、彼は気付きません。ここに彼の悲劇が胚胎するので、彼は気付かなくとも、現実の進行そのものがそのようなエゴイズムの結果である孤独に彼を追込むのです。
彼はお勢が彼の高尚な心情を理解するのを期待します。しかしお勢は女性の本能によって、文三の内的満足が、その生活の上でどれだけの犠牲を要求するかを察して、それに巻きこまれることを拒否します。エゴイズムがエゴイズムを見抜くわけです。この世界では無意識のエゴイストである文三より、意識的にエゴイストとして振舞う(人情の仮面を用いる)本田の方が
文三の悲劇は、資本主義社会で、封建道徳に固執する者のそれと言うこともできるでしょう。『浮雲』は未完のまま終りましたが、二葉亭の書きのこしたプランによると、文三はお勢を本田に奪われた上、老母の死、あるいはほかの災難にあい、発狂することになっていたようです。
『浮雲』も『舞姫』も、ともに新しい社会の求めている知識階級の型を描いたものと言えます。豊太郎と昇とはともに「器械的人物」である点で、新社会の要求に応えた人物と言えます。前者はそのような自分に不満であり、後者は自分に満足している点を除けば、二人とも出世のために自分の人間的感情を捨てる決心をしている点では同じことです。つまり支配者のために、専門的知識を持つ道具になり、しかもできるだけ手軽で有用な道具としての役割を果すことで、頭角を現わそうとする欲望が彼を支配しています。
これが明治二十年代の知識階級の型であり、或る意味でこれは現代の知識階級の原型をなしているとも言えます。
しかしこういう非人間的な条件が、当時の書生たちによって、比較的抵抗なく受入れられたのは、当時の知識階級のおかれていた状態が、まだ社会的に見ればかなり有利であり、この型にさえしたがえば容易に出世の道を辿ることができたためと思われます。
豊太郎のように、「我本領」に目醒めるには、特別な環境の力を要するのが、当時の通例であり、一般の学生は彼の人生にたいする感覚が変るほど西洋の学問にしたしむ機会は与えられず、その人生観は、二十年前の書生であった支配者たちとむしろ多くの共通点を持っていました。
むろん「漂流民」的な洋学の知識はもはや役に立たず、専門知識が要求されたことは事実ですが、西洋の学問の権威は当時まだ非常に大きかったので、これによって衣食の道を得、出世の機会をつかむには、それほど深く通ずる必要はなかったようです。
明治二十年代には、洋服を着ている人間は、それだけで和服の人民たちにくらべて、はっきりした特権階級を形造っていたので、まして、「原書」がすこしでも噛れることは、非常に有利な出世の条件でした。
「器械酌人間」はこういう時勢を背景として、みずから「器械」であることなど、意識しないで生活できたので、この意味では彼等の黄金時代と言えます。
したがって明治二十年代に、日本の社会に生きる苦痛を語った知識階級は、例外的な環境に育った優秀な一部の異分子なので、…外、二葉亭、透谷などは、これらすぐれた異端者にぞくします。
一般の知識階級には、彼等が感じたような矛盾をほとんど意識しなかった人々が多かったので、その一例として、さきにふれた二葉亭の友人、大田黒重五郎の回想記があげられます。
彼は旧姓を小牧といい、徳川の御家人の子として慶応二年に江戸で生れました。そして三歳のとき「着のみ着のまま」で江戸を追われて、富士の裾野の万野ケ原という高原に帰農することになりました。家は藁ぶきの一棟を真中の壁で仕切った二軒の長屋で六畳と四畳の二間しかなく、井戸がないので付近の川水を引くという状態で、火山灰の高原に陸稲、麦、豆などをつくるという生活でしたが、父が農業を嫌って東京にもどりがちであったので、神田の町人の娘であった母が農耕と家事の苦労を一身に背負ったということです。
重五郎はこの母の労苦をいつも見ながら、その慈愛にはぐくまれてのびのび育ち、明治初年の世相の移り変りを僻村から見聞します。
移住当時はまだ士族たちは扶持米をうけていて、村の中央にそのための米倉が建てられていたが、数年すると米の下げ渡しは打切られ、その代りに金禄公債が渡されることになり、村人たちは前途に不安を覚えるとともに、一時に大金が懐に入ったので、それを目あてに入りこんできた商人たちに欺されて、懐中時計を買ったり、長靴を買ったりして、折角の公債を失ってしまう者がたくさんいました。
また或る時、一本しかない山道を、綺麗な着物を着た男女が悉く泣いてくるのにであったことがあり、なかで特に若い男が泣いているのを不思議に思って人にきいて見ると、徴兵にとられた若者を送る一行であったということです。
このような俄か百姓の辛い生活のなかから母は子供たちの教育に専念し、彼等を学校に入れるために、開墾地をはなれて沼津にうつり、そこで中学を卒えた彼は、上京して大学予備門の試験をうけて失敗し、その向い側にあった外国語学校に入学します。露語科に這入ったのですが、ロシア語を稽古して、それが何になるかなどということは考えはしない、何より五円の給費が目当で、これで貧乏な親から金を貰う必要がなくなるのが有難かったと言っています。
こんな風にして入学した重五郎は、卒業間際に襲った外語廃校の波瀾も無事にきりぬけて、高等商業学校を卒業し、三井物産につとめ、実業家としての地位を築いて行きます。
彼の思想の根本はやはり儒教で形づくられたようで、卒業後、九州熊本の名家大田黒家に養子に行っても、養父とものの考えかたの食いちがいに苦しむということもなかったようで、社会的にも家庭的にも恵まれた一生を送ったようです。
『浮雲』の文三の少年期のモデルになったと思われる少年が実際にはこういう生涯を送ったのは面白いことですが、彼のように温厚の君子でなく、かなり叛骨もあり、放浪癖もある徳富蘆花の『思出の記』の主人公も、大学を卒業する早々、二、三の有利な就職の申込をことわり、評論雑誌を主宰して自立の道を歩むことで、回想を終えています。
明治二十年代から三十年代にかけて、封建時代の遺制と、近代資本主義がたくみに融合され、社会全体が日清戦争の勝利をひとつの跳躍台として登り坂の状態にあるとき、一般の青年層に浅薄だが健実な楽天主義が行われるのが当然であり、蘆花の大衆的人気はこういう時代の気風にふれあうところがあったためと思われます。
文三や豊太郎のような人物は当時も実在したに違いありませんが、社会の表面には出なかったので、彼等の提出した問題が知識階級一般にとって切実なものになったのは、日露戦争後でした。
『其面影』(明治三十九年発表)で、二葉亭は、文三と昇の対立をそのまま小野哲也と葉村のそれに移して描いていますが、このとき成熟した形で現われたのは、昇─葉村のタイプだけではなく、哲也も文三にくらべればはるかに大人で、それだけに作者の彼にたいする批判はきびしくなっています。
文三が現実に適合し得ないのは、ただ彼が自己のエゴイズムを自覚せず、少なくも主観的には高潔な心情の持主であるからですが、哲也はすでに葉村より卑しくない心情の持主とは自分にも言えません。彼は葉村と同様、金も欲しいし、実業界にも雄飛したい欲望も持っているので、ただ出来れば手を汚さずにやりたいと思っているところが、葉村より虫がよいだけです。
彼の小夜子との恋愛も、結局彼に愛する能力がないことが明らかになるだけですが、このように、彼に自分の欲望を自分で見究めて、それを実現する方向に力を集中する意思がかけているのは、内面に生きる拠りどころを持たないからです。
この点を、二葉亭ははっきりその制作ノオトに規定しています。文三が儒教倫理にしたがって動いていても必ずしも儒教を信奉しているのでないように、哲也も旧い道徳を惰性で守っていても、それはほとんど見栄に近いのです。新時代の教育は旧道徳の構成を破壊して、これにかえるに新しい知識を与えるだけで、科学と懐疑の時代に生きる原理は与えてくれません。二葉亭は同時代人のうち、この問題にもっとも鋭敏に苦しんだ人であるだけに、この知識階級の内面の空白を『其面影』ではじめて意識して描きだしています。哲也は現実の圧迫には堪え切れずに反撥しますが、彼の力は因襲を破るだけに使いつくされてしまい、束縛を逃れることがそのまま彼の生活を破壊してしまいます。
つまり彼の生活も葉村のそれと同様に、外面に依存しているので、明治の知識階級の生き方は、畢竟その外面性、あるいは内面の空白をどう処理するかにあります。葉村のようにそれを積極的に利用して、適応性を増大するのもひとつの方向ですが、それに満足できなければ、どうしてもなにか生きる拠りどころを見出して、自我と社会との調和をはからなければならないわけです。しかしそれは不可能だというのが、当時の時代精神がこれらの人々に与えた答えでした。
この内面生活の不可能の問題を、一番鋭く提出したのは、夏目漱石であり、『それから』以後彼の小説に登場する人物は、或る意味で哲也の後継者と言えます。
自然主義の作家が彼の周囲の事実をすべて「自然」の現われと見、想像力によってものを描くことを戒めたのも、この内面への不信と結びついています。
六
要するに明治人の精神の孕んでいた矛盾は、明治二十年代に先駆的表現を見出し、四十年代に一種の社会問題として表面化したと言えます。
この明治末年の知識階級の支配者にたいする反逆は、わが国の近代文化史の上でひとつの大きな事件で、その影響は現代まで及んでいますが、その特質をまだはっきり究めた人はいないようです。
この現象がはっきりした形をとったのは、日露戦争後のことですが、傾向としては戦前からすでに見られたので、日露戦争が日清戦争にくらべてはるかに重大な国家的危機でありながら、一部の知識階級の関心のほかにおかれたのは、その現われです。
正宗白鳥は、戦争にさいして、ただ「政治家の都合で戦場にかりだされて命を失ふ者を気の毒に思つた」きりであったと言っていますし、島村抱月は、戦後発表された徳富蘆花の『勝利の悲哀』を評して、
「日露戦後、戦勝の歓喜に眩惑して宗教的理想の境と益々相遠ざからんとするが如き人々は初めから戦勝の悲哀といふが如き精神的福音に耳を傾け得るものとも覚えぬ。」
といって「国家といふ伝来の生存形式を保持するを以て任務」とする支配者たちと「現代の精神文明」との背離を指摘し、一転して、
「然らば現代の精神文明と浮沈を共にし得る階級の人々に向つて之れを唱へるものとせんか。斯やうなる階級の人々は恐らく論者の考ふるが如く甚しく日露戦争の結果によつて其精神を支配されてはゐまいと思はれる。此の政治史上の大変事に対する我が精神界、思想界の感覚は、むしろ遅鈍に過ぐるほどではなかつたか。精神物質両界の交渉の疎濶なること我が現時の如きは蓋し多く例のない所であらう。」
といっています。
この最後の一節は重要です。こんな風の「疎濶」が精神界と物質界の間に生ずるようになったのは、「器械的人間」の地位に甘んずることのできない少数の人々が、支配者のつくりあげた社会秩序の外側に一種の特殊部落をつくって、そこに立籠ることで、自分等の人間的独立を確保しようとしたからです。
こういう動きのなかで、明星派を中心とするロマンチズムの文学運動、キリスト教を主力とする宗教復活の動きなど、かなり多くの人々を捕えたにしろ、明治初年にくらべれば、知識階級の構成と影響力は次第に衰えて行ったので、ことに政治経済を動かす人々は、彼等の非現実的な学説を、ちょうど昇が文三を馬鹿にするように、真にうけなくなりました。
一方「精神界」に生きる人々も、「物質界」を司る者のこうした態度に応えて、ことさら、その世界を無視し、自分等のなかにだけ立籠ることを純粋なやりかたと考えたので、このような知識階級の無力と表裏する、彼等の時事への無関心は、日本の天皇制国家としての体制が、整備されるにしたがって、著しくなってきました。それがすでに日露戦争当時、「蓋し多くの例のない」ほどはっきりしていたことを、抱月は証言してくれます。
明治四十年代の特色は、この傾向がひとつの社会現象として誰の目にもつくようになったことです。たんに一部の社会の局外に立つ「精神界」の住人たちだけでなく、「器械的人間」たることに甘んじて、勤労によってその日の口を糊している多くの青年たちが、彼等のエゴイズムをひとつの反社会的自覚に高めようとする機運が生れてきました。
啄木は、明治四十三年に書かれた『時代閉塞の現状』という論文のなかで、これら新時代の昇の精神には、「日本人特有の或倫理」が働いているといい、それについて次のように言います。
「
彼の早くから我々の間に竄入してゐる哲学的虚無主義の如きも亦此愛国民の一歩だけ進歩したものであることは云ふまでもない」
この前のコーテーシヨンのなかと、後のとでは少しニュアンスがちがいます。
前者が国家と自分とは全く無関係であることを宣言し、国家は国家として生きる自由を持つ代りに、自分にもそれと没交渉でいる自由をみとめてほしいというので、これは主として当時の「精神界」の住人たちの心情です。
これにたいして後者は、国家のエゴイズムをみとめるだけでなく、それを自分の(反国家的な)生き方の模範にしようとするので、啄木の言う通り、「実業界」に志す青年らしい積極性がそこに感じられます。前者が多少、文三くさいのに比して、彼等こそ真に昇の後継者と思われますが、この昇の自覚は、さまざまな考察を誘いだします。
第一に明治の初年以来、わが国が国家として歩いたのは、結局昇の道ではなかったか、無定見な国際的出世主義ではなかったかということです。わが国の独立が危うかった明治初年は別として、以後政治家たちは、国民の生活よりむしろ国際的地位の向上をさきに考える傾きが強かったので、これは当時のわが国のおかれた国際環境によると同時に、支配者たちには自然の感情であった武士的虚栄心にもとづくのではないかと疑われます。主人の出世のために家族が犠牲になるのは、彼等には当然の美徳なのです。当時行われた標語に「脱亜入欧」というのがあります。アジアの一国たる地位を脱して、ヨーロッパ諸国と肩を並べようというのです。
そしてヨーロッパ諸国の「尊敬」と「信用」を得るために、国内で必要以上の軟化政策をとったり、法律制度を整えたりした一方において、やはりこれを欧米にならって、アジアの諸国には不平等条約を強制していたので、こういう周囲を蹴下しても自分だけはよい子になろうという気持が、当時のわが国の国策の根底にあったことは否定できません。
こうしたわが国の「文明」の偽りに気付いたのは、一部の宗教家と文学者たちであり、「明治の文明全体が虚栄心の上に体裁よく建設されたものです」と『新帰朝者』に言わせている永井荷風、
「日本人ヲ観テ支那人ト云ハレルト厭ガルハ如何、支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ、只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ、心アル人ハ日本人ト呼バルルヨリ支那人と云ハルルヲ名誉トスベキナリ、
とロンドン滞在中の日記に誌した夏目漱石などがその例にあげられるでしょう。
こういう国家自身の在りかたが、昇たちを生みだしたと言えますが、明治四十年代の新しさは、彼等が国家の生きかたをそのまま自分たちの生活理論に自覚的に採用し、それによって、国家への絶縁を宣言したことです。
自己のエゴイズムと国家のエゴイズムを対比させ、前者に徹する態度をとりはじめたことです。
これは言うまでもなく筋の通った公けの場所で主張できる理屈ではありません。
しかし大切なのは、こういう気分が知識階級一般のものになり、それが公言できない性質のものであるだけに、人々の心の奥底に手のつけられない勢いでひろがって行ったことです。
「お手伝ひは御免」という傍観型の知識階級も、支配者が国民に臨むと同じエゴイズムで、国家に対する行動型も、ともに国家を自分のかかわりたくない悪、あるいは相手にするにたりない愚者の集団と見倣すようになったのです。
これは日露戦争後の日本の変質、戦勝による軍閥の台頭、「一等国」に列したという支配者たちの安心と思いあがり、幸徳事件を境とする「国体」意識の強調などと切り離して考えられないことでしょう。
国家権力、あるいはそれを端的に象徴する軍隊をつくりあげる人々を支配する思想と、知識階級のそれとのあいだに、あまり甚だしい落差ができてしまったため、両者のあいだにはまともな対抗意識さえ失われてしまった、というのが少なくも知識階級一般の意識でした。むろんこれは彼等の無力を蔽うための自己瞞着ともとることができます。天皇を中心とし、農村を背景とした国家の組織にくらべて、知識階級自身の力など微々たるものであったに違いありません。
しかし彼等が強いてこれらの「おくれた」人々と争わなかったのは、相手が強いからだけでなく、彼等の孤立を結果した「すすんだ頭」に、彼等が或る誇りを感じていたためと思われます。啄木はその点について、
「それは一見強権を敵としてゐるやうであるけれども、さうではない。寧ろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼等は実に一切の人間の活動を白眼を以て見る如く、強権の存在に対しても亦全く没交渉なのである。──それだけ絶望的なのである。」
と言っています。ここで面白いのは最後の一句です。
啄木はおそらく彼等が強権と戦うことを望んだでしょう。しかし彼は、周囲の知識階級が期待に反する行動をとったことも、決して彼等の卑怯からという風に説明しません。彼は彼等の行動にでないのは、それだけ彼等が「絶望的」であるからだと言っています。この「絶望」は、彼等が自分の「すすんだ頭」と、周囲との距離を意識しているところからくるので、それが優越感ととなり合っているからこそ、彼等はそこに何等の行動にでないで「一切の人間の活動を白眼を以て見る」状態に安住していられたのです。
つまり明治初年の知識階級は、周囲にたいして啓蒙の義務感を持ち、「賢智ノ寡ク愚不肖ノ衆クシテ其勢衆寡敵セサルナリ」と思っていてもなおかつ、「賢智ノ徒タラントスル者ハ先ンシテ之ヲ救フ」使命を放棄しませんでした。
彼と民衆あるいは支配者とのあいだには、知識の量の多寡の差はあっても本質的な断絶はなかったのです。
それに引換えて、明治二十年代以後の支配者から、「器械的人間」たることを求められた知識階級になると、彼と支配者との間には、思想上の明白な断絶が見られます。彼等は新しい知識を持つ便利な器械であることを支配者から求められながら、新しい知識が新たな人間的自覚を生むことを如何ともし得なかったからです。しかし周囲の環境は、このような人間的自覚を育てるにはなはだ痩せた地盤しか提供しなかったので、知識を持っても、それを他の人間的な思想ときりはなして、内面の論理を統一するより、外界に順応することに努める風潮が一般には圧倒的でした。
これはたんに封建的な環境で近代思想が育ちにくいというような外面的な理由によるのではなく、少数の先覚者を捕えた近代思想そのものが、新しい生の指導原理になるような積極的内容を持たず、ただ人々を否定と懐疑におしやるだけであったからです。
文三には、昇を自分のなかにとりこみ、それを越えるような道徳は持てないのです。
したがって彼にできるのは、昇を排除して、自分だけの世界に立籠ることです。明治の「精神界」が「物質界」と著しい遊離の傾向を示すようになったのは、新しい文学の理念による詩歌や小説が、ようやく一部の知識階級に迎えられるようになった明治二十年代の末からです。
しかしこの新しい文学理念が自然主義という形をとったとき、それを奉じた文学者が実際にやったことは、近代思想がそれを抱く者の精神を破壊した状況を、彼等が陥った懐疑と否定とがその生活をみだす有様を、ロマンチックな告白の対象にすることでした。
「蓋し、我々明治の青年が、全く其父兄の手によつて造り出された明治新社会の完成の為に有用な人物となるべく教育されて来た間に、別に青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知る如く、日清戦争の結果によって国民全体が其国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であつた。」(『時代閉塞の現状』)
と啄木は言いますが、この「自覚的主張」はそれが人間としての目的であった限り、支配者には容れられず、観念的であるために民衆の興味はひかず、いわば社会から遊離した文三たち同志の間の主張に止まったのです。
彼等は明六社以来の「賢智の寡」たる自信は持っていましたが、周囲の「愚不肖」に語りかける熱情はまったく失ってしまい、国家(支配者と民衆)に無関係の地点で、自分等だけの思想や感情を理解し合おうとしたので、自然主義以来の文学が文壇の文学者同士を相手に書かれたといわれるのは、こういう知識階級や気質の現われの一端なのです。
「すすんだ話」「おくれた話」という自負はここにも作用しています。「一切の人間の活動を白眼を以て見る」ような懐疑と否定の境地に達したことは、近代思想の毒を、それだけ多量に吸収したのを意味し、彼が他の人々より西洋の思想的状況に明るく、その最近の動向にも通じていることになります。
つまりこれは、彼等が啓蒙的熱情があってはじめて正当化される選ばれた者の意識を、それをまったくなくしたあとでも持ちつづけたので、それ以後のわが国の知識階級の所産に、かならずつきまとう精神の通風の悪さは、この矛盾にもとづくと言えます。
同時に彼等の観念的であるだけに徹底した世界性もここにもとづくので、すべての思想が直輸入であり、
紙数がつきるので大正以後のことについてはふれる余裕がなくなりましたが、明治初年から大正の初め、すなわち一九一〇年を中心とする数年間はわが国にとっても世界にとっても、現代の入口といってよい大切な時期と思われます。二十世紀の前半の主要な事件であった二つの大戦とそれに伴う革命は、世界の各国を動かしたと同様わが国を動かしてきたので、この激しい動揺の時代に僕等がどういう精神の姿勢で這入って行ったかという間題は、現代にもはっきりしたつながりを持つと思われます。
啓蒙的熱情を失った啓蒙家、国内でまったく無力な地位におかれた代償を、世界との観念的な交流に求め、そのことによって自分等の間だけに通用する学問と芸術をつくりだした知識階級の在りかたは、天皇制国家の特異な産物であり、それを背景にしてはじめて可能なものであったにしろ、現代の僕等の思想や感覚も、そこから強い影響をうけている、というよりそれをそのまま踏襲しているのです。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/08/31
背景色の色
フォントの変更
- 目に優しいモード
- 標準モード