北緯三十八度線
地獄の天窓
君は見なかったか
扉を蹴破り押入った軍靴の下で
無惨に潰れ息絶えた乳呑児を
君は聞かなかったか
手をあげた老人の胸をめがけて
撃ち貫いた銃声を
君はその手をどこに置く
揺れる無蓋貨車から闇の中へ転落した
幼な児の死の叫びに
君は浴びなかったか
輪姦される妻の眼前で
射殺された夫の血しぶきを
積み上げられた菰包みの遺骸
包みからにょっきりはみ出した
数十本の脚と拳
ここにあつまる絶叫
消えない歯型と
底の見えない深淵に
血の色と死の臭気が流れ込んでくる
見開かれたまま動かない瞳孔に
冷たく張りついている
暗い天涯の一角
君はいまどこにいる
轟々と空を渡る夜の嵐
割れたガラスのすき間をかすめて
紫藍色にただれた星が また流れ飛ぶ
密かな集結
ひっそりと 闇と影は用意された
二日分の米と塩と 持てるだけの衣類
期待と不安をつめ込んで
それぞれの肩に
大きな荷は担ぎあげられた
嵐を避けた路地裏から
物蔭に沿ってそそがれる沈黙の流れ
三人 五人 あるいは 一人
時をおいて
まばらな人影が暗い街かどを曲る
さらに濃い夜のなかへ溶け込んで行く
一九四六年五月十二日 午後八時
張りめぐらされた有棘鉄条の彼方
平壌駅貨物車輌引込線 暗闇の底に
小さく点滅する懐中電灯は何の合図か
黒々と横たわる十七輌連結貨物列車の傍らに
北鮮脱出を企図する移動集団
吹きすさぶ夜風の行くえを
どこで 誰がさし示すのか
一千三百の鴉が空を失って落下する
亀裂は地を走った
すでに 背後に道はないのだ
めざす方位へ
お前に猿ぐつわをかませたもの
お前に
お前を殺したもの
巨大なそ奴は何者か
暗い貨車の奥にどさりと投げ込まれて
お前たちはようやく息をふきかえす
車輌の黒い壁が
一つの時を隔絶する
重ねられた日日の
白い昼の月の下にくりひろげられた
惨劇の雫か
べっとりと 夜露をしたたらせて
列車は滑り出す
発車のベルもなく
青いシグナルの下をすり抜ける
警乗保安隊員の背に
銃身が斜めに鈍く光る
その背後で
お前たちの共謀の手は握られる
お前たちの腕は静かに伸びはじめる
お前はここへ寄り掛かれ
お前は足をのばすがいい
身を横たえる余地はなく
ここはまだ暗くて狭いが
唇に暖かい歌がある
お前たちは忘れない
さらに
人間の皮を着た
汚れた獣の腕を 牙を
瞳の底に焼きつく
残留者たちの別れの手 ゆれる手
頸に巻きつけたタオルの白
鉄の交叉 はがねのきらめき
お前の瞳の残像を横断して
今こそ
百万のレールが並び走る
ポイントがきられる
レールが流れる
レールが集まる
レールが
消える
押し寄せる夜の気流の軸に
お前たちは一つになる
ポケットに秘めた
すでに 昨日も
おとといも
赭土色の河底に骨は沈んだ
幾万の還らぬ家族たち
あるものは密かに
あるものは忍ぶように
涙もなく
息づまる悲哀が地を這っていた
亡き人の骨すら携行を許さず
白木の箱は無残に打ち割られた
保安隊員の泥靴の前に散乱する 日本人の骨
愛する妻や子供たちの骨
父の骨 母の骨
ああ こんなことがあっていいのか
許されていいのか
夢ではない
幻でもない
たしかに強烈な鉄拳が
左右の頬をめがけて
火のように襲うのだ
何もかも あなたには見えるなら
あなたはいま何を思う
封筒に入れた僅かな遺骨が
私の胸のポケットで乾いた音をたてる
チリチリとくずれる
住みなれた街はもはや遠く
貨車に揺られ
私たちは行く
あなたのためになしえたのは
ただこれだけであったのか
闇を透かして彼方に
時として小さく光るもの それは
残された者たちの骨片か
暗い虚空に舞い上がり 舞い降り
無量の想いを一瞬の光に託して
訣別を告げる
私の胸をするどくつきぬける それさえ
驀進する列車の後方に
たちまちかき消されてしまうのだ
鉄路の果て
ここまでたどりついて
それから先は
茫洋としてあてもなかった
鉄路の果て
駅舎すら見あたらない
あらけずりの岩がころげ落ち
血のような夕焼けが草の上に散っていた
機関車は最後の一炭を焚きつくして
休息の煙を白く立ちのぼらせる
境界のない境界が
厳然と移動をせき止めていた
その夜
オンドルの小部屋に
人いきれと臭気はむせ返った
恵まれた一夜の宿
着ぶくれのからだがのけぞり
薪のように折り重なった腕と脚
頬のこけた顔は積まれ くずれて
カボチャのようにころがった
吊るされた一灯のランプ
かすかな音を残して焔が燃えつきると
家の周りをとり囲む
重い冷たい静寂
夢は小窓のあたりをさまよい
厚い壁を
幾度も幾度も撫でさすった
烈日の希求
日が昇れば
凍えるような夜の寒気は一転して
野づら一帯 ふつふつと沸きかえり
うだる熱気が襲ってきた
カッと冴えた空に渦巻くのは
火焔の輪舞
私たちの頭上に 肩や背に
炎は容赦なく降りかかり
一日を執拗につきまとうのだ
白眼をつりあげて虚空をつかむ幼な児
くいしばった小さな歯に
光が弾ける
突然 少女がうずくまる
青い
汗は粉をふき
干からびた細いうなじがうなだれる
木陰一つない
索漠たる曠野
草が眩しく燃えあがる
焼けつく散乱線の真只中
しかも 不思議に
不思議に私たちは明るいのだ
南をさして
耐えてきたものたちの
耐えた力が行く
君も行く
ぼくも行く
あなたも
子どもたちの手をひいて
あなたとあなたたちも行く
とてつもなく長い私たちの縦列
あの
私たちを呼ぶものは何だろう
烈日の下に揺れる
人間真実の 人間の影たち
荒涼の天地に
爽やかな風が生まれるのはいつの日だろう
またしても
がっくり倒れた老婆を抱き起こせば
たちまち膝は腫れあがり
頬から赤いものが噴きこぼれてきた
子を埋める
霧のような雨であった
生あたたかい雫のしたたりを
誰も払おうとはしなかった
かすむ野の果ての低い空
いそぐ鳥たちの影は落ちて行った
ここは何処
その名さえ知らない
夏草茫々とひろがる曠野
私たちはここに 小さな墓を残す
折れた枝や木片を手に
わずかな土を掘りおこして
息絶えた乳呑児のあどけなさ
その掌に握られた夢の空しさ
母の背の温もりのただようまるい頬に
雨は冷たく降りそそぐ
無情の雨よ
暫らくは 心してここを避けよ
せめて優しい歌を流せ
ほそぼそとゆらめく香煙を囲んで
胸にせきあげるひとつの思いに
言葉もなく
すべては濡れて佇ちつくした
のっぺらぼうの顔
おんな 子ども 老人たち そして私たち
千三百余名の縦列が
しのつく雨のなかを歩きつづける
頭から泥水をかぶり
どの顔もくしゃくしゃになって
ななめにのめるからだが
かろうじて前へ進む
はてもなくひろがる沼のように
泥と水は押し寄せ
道は失われていく日を過ぎたろう
村落に立ち寄れば
棍棒が風を截り
夜空に向かって拳銃が火を噴いた
侮蔑の目と罵声が
私たちのまわりにからみつき
ふりはらえば
むらがる蝿のように
暴徒は数を増した
濡れた肌に
夜気は冷たくこびりつき
眠れば蝸牛がふところを探りにきた
マメだらけの足は
パンのようにふくれあがった
幻影の空に
空しく垂れ下るあの旗
祖国よ
飢餓の島よ
しずくは頬をつたい
しずくは泥を落とし
ほほけて声もない朝がくる
薄らあかりにふりかえれば
雨にうたれ
うなだれて歩いてくる
のっぺらぼうの顔 顔 顔 顔
目も 鼻も 口もない
すべては流されて
のっぺらぼうの群れが 陸続と南へ
ただ行くことが
私たちを支えていた
追われゆくもの
その時だ
拳銃を手に
禿鷹の群が行く手をかすめたのは
山間の道をふさいで
立ち並ぶ樹林
近づけば 突然樹木は揺れ動いた
影が音もなく走っていた
暗闇から暗闇の奥へ
野牛の群は一団となって追われはじめていた
草の露が飛び散る
石や岩とともに谷へ駆け下る
骨を刺す河の水
飛沫をあげて流れを渡れば
折れ曲がった脚に笞がとぶ
息切れする胸もとに
銃口がつきあたる
走る 歩く
歩く また走る
峠を越え
道もない山肌をつたい
はたして何処まで拉致しようというのか
血走った瞳に映るのは
遠い夜明けの空
奪われるものを奪われ
失うものすべてを失った野牛たち
黙々と肌を寄せ合い
たぎる苦汁を噛みしめる
夜をこめて
追われて行く野牛の群
息づき起伏する無数の
角は透きとおるように冴えているのだ
勝利のあとに
君たちの言葉は
私たちの
君たちの声は
少女らの柔らかい頬に焼け火箸を走らせ
つややかな黒髪を断ち切らせた
銃床にこずかれ
銃声に駆られ
ようやく辿りついた山頂
北朝鮮の南端
だが ここは警備隊本部
銃剣がきらめく 鉄鎖の庭
疲れた私たちの肩に
空気すら重くのしかかる
――若い婦人五人を残して行け
用務は炊事と洗濯
さもなければ
全員<
ソ連軍工場に送致 強制労働――
君たち
戦勝国の兵士たち
君たちの頬は陽に輝き
勝利の喜びに湧く若い血潮は
五体に溢れて噴きこぼれる
踊り狂い 酔いしれて
赭く油ぎった君たちの青春
本部前庭に燃えさかる
紅いカンナの花
ジャリジャリと砂を噛みながら
ここでもまた私たちは見たのだ
磨かれた銃口を前方に向けて
まぶしい夏の光のなかへ立ち去る君たち
その背中から
ぶざまなくろい腹わたが
どろどろに溶けて垂れ下がっているのを
対 決
足をふみいれると
明るい陽射しを浴びた目に
一瞬視野を失う
窓一つない建物
その奥の部屋が隊長室
灯りはそこから漏れていた
デスクを前にしたソ連軍大尉
面構え精悍な警備隊長
たった一つのランプをはさんで
大尉の前に
ひとり君は立っていた
槍のような銃剣の穂尖を背後に受け
泥まみれの上衣
よれよれのズボンをはいて
四十数名の兵士の眼光
君は動かず
ひととき 時は刻まれた
――ニエ マグー 否 否
一名たりとも残すことはできない
たとえ身ぐるみ剥がれようと
行きたいのだ 全員が
恐怖と不安におののく
婦女子の期待を背負い
一千名邦人の運命を肩にして
そのとき 君は何を語ったのか
大尉と 君と
たがいに故国は遠く
ふりかえれば
月日の流れは余りにも速かった
やがて
ランプの焔はゆらめき
大尉の影は壁に大きく揺れ動いた
遥かな北国の空へ
嵐が轟々と吹き渡っていた
脱 出
黒く 無気味に光る流れ
声をひそめた縦列が
草深い野をゆるやかにうねっていた
人も 犬も 家もない
まして 灯り一つ見えない
荒涼とした山野の闇がひろがっていた
ここに来て
悲哀はむしろ君たちにある
鉄路は赤く錆び
抜き取られたボルトの穴に
夏草が冷えた夜露を抱く
北緯三十八度線
国土の中の国境地帯
やがて 遠い山脈の上に
満月が昇った
安堵の吐息が後方に流れていった
ああ 生きるとは
行くことであるか
思想を分かつ世界の接点に
越え行く者たちの姿を皓皓と浮き出させて
いま 月光は億万の灯よりも明るいのだ
星空への快走
列車は闇をついてひた走る
不規則な振動と轟音に包まれて
すべてを振り払い 一切から遠ざかる
自由への快感が
汽笛とともに夜空を越え渡るのだ
扉を閉ざし
灯火ひとつない貨物車輌
堅い鉄板床がまた冷えてくる
肩と肩を寄せ合う老人たち
折り重なって無心に眠る幼な児
枕にも足りない一包みの持ち物と
機関車よりも重い疲労が
膝を抱いて坐りつづける私たちと一緒に
はげしく揺れうごく
不安と忍従の日月 あれは夢か
一路
いま 滑走するのはいかなる重量だろう
瓦礫のように積み込まれ
海へ向かって押しやられる
二十数輌の貨物列車
その暗い車輌のかたすみで
前方にきらめく星座を想い描いて
今夜も私は眠れないのだ
あけぼの
暗黒から黎明へ
せりあがる岬の突端に
いつか私たちは引き寄せられていた
もぎ取られた眼が
撃ち貫かれた鼓膜が
叩き折られた背骨が
一斉に修復され 戻ってきた
あざやかな朝であった
まぶしい海の照り返しの焦点に
くっきりと
日章旗が一つゆれていた
花咲く五月の釜山埠頭
港の喧噪は私たちから遠く
祖国への切なる慕情は
匂いに似て
どの頬にもただよった
私に
私たちに
この思いは生きてつづくだろう
幾たびも 幾たびも
弧を描いて鴎が飛ぶ
空と海と
ひとつに溶けるあのあたり
光も 風も
そこからとどいていた
青い炎が矢のように
海峡に向かって走っていた
波はざわめき
波はしぶきをあげ
巨きな船の胴っ腹から
忘れていた言葉がはね返ってきた
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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