俺のベイビー -春風荘異聞―
走る山田太郎、すでに遅刻だ。出張った腹が重い、息が切れる。
問屋街にある下着メーカーの小型ビル。山田太郎が駆け込んで行く。スピーカーを通して、社歌がガンガン流れている。
すべらかで さわやか
動きやすくて 一、二、三
はきかえるたびに
訪れる満足
世界を股にかける
幸福の下着
丸金 丸金 丸金綿業!
色もあざやか 一、二、三
とりかえるたびに
身をつつむ 官能
世界を股にかける
幸福の下着
丸金丸金 丸金綿業!
オーオーオー
数十人の社員が、社歌に合わせて体操をしている。
男女社員は、ズボン、スカートを脱ぎ、Yシャツとブラウスだけの姿である。
山田太郎が入ってきて、二列縦隊の最後方に並び、ズボンを脱ぎ始める。
すぐ前で体を動かしていた善子が、ふり返ってニヤリと笑う。善子の尻のあたりが妙にまぶしい。
小添課長が社員たちを点検しながら説教を垂れている。
小 湊「そうそう、そうそう、一二三四! 空気と肌が触れ合う部分、それが下着感覚だ。二十四時間、下半身を意識して生活する。それが業界のプロってことだねえ、たーだ体を動かしてちゃいかんよ、充分に下半身を意識してーッ……(太郎の前で立ち止まり)君、君!」
太 郎「はっ?」
小 湊「すぐ社長室へ行きなさい」
太 郎「はっ?」
小 湊「は、じゃないよ。すぐ行くんだ!」
太 郎「はいッ」
白 石「ズボンは持ったままでいい、急いで!」
太 郎「はいッ」
太郎が走ってきてノックする。
ドアが開き、秘書(男)が顔を出す。
入れとアゴで合図する。
ズボンを小脇に抱えた三人の社員が、丸山社長の前に整列している。
いずれも腹が突き出ている。
入ってきた太郎が列に加わる。
丸 山「何たる醜態だ! 君らそれでもファッション業界で働く人間か。アメリカの会社じゃデブは即刻クビになるそうだ。そんな姿で社内をうろつかれたら、丸金綿業のイメージダウンもはなはだしい。自分の職業を考えたら、ダイエットでもなんでもする気にならんのかね……(太郎の腹に目がゆく)君は何だ! 前からこんなだったのか?」
太 郎「いえ、つい最近……」
丸 山「最近どうした」
太 郎「原因不明なんですが――」
丸 山「太るのには原因があるんだよ」
太 郎「何でしょう?」
丸 山「何でしょう? 喰い過ぎ、飲み過ぎ、欲求不満、心のたるみ――」
太 郎「しかし私は――」
丸 山「逆うのか」
と、差し棒で、太郎の腹をたたく。
太 郎「とんでもない(口元をおさえて)ウウウウッ……」
秘 書「君ッ!」
太郎、腰をかがめて飛び出してゆく。
駆け込んで来た太郎、洗面所の前でゲーゲーやる。
何も出ない。鏡を見ながら、首をかしげる。
人口減少問題特別対策委員会が開かれている。関係閣僚、官僚、学者など十数人。
内閣調査室室長が、黒板に張られた人口減少率のグラフを説明している。
室 長「ごらんの通り、このままわが国の人口減少が続きますと、四百年後には、日本人が三百五十万人しかいなくなってしまうという推計か出ております」
一同、驚きのあまり、ガヤガヤとなる。
労働大臣「それでなくとも人手不足なんだ。これじゃわが国は外国人に乗っ取られてしまう」
室 長「直接的な原因は、出産率の低下によるものであることは明白であります」
厚生大臣「やはり、これまで押し進めてきた妊娠中絶禁止法を成立させるしか手はありませんな」
自治大臣「しかし、女性議員やマスコミ、ウーマンリブなどの強烈な反対をどうします?」
幹事長「そいつらは放っとけばいい。岩手県にはそんなことを言う女は一人もおらんよ」
自治大臣「しかし幹事長、多少の議論は形だけでもしておかんと――」
幹事長「かっこつける必要はない。一挙に票決にもちこむんだ。数の力で押しきる、これが民主主義というもんだろが」
一同、幹事長の強気に押し黙ってしまう。
レジで働く太郎の妻・陽子。
腕時計を見て、手を止める。隣りのオバさん店員に声をかける。
陽 子「すいません、一寸お願いします」
店 員「ああ、いいよ、大変だねえ……」
陽子、職場を離れる。
店 員「(客に)あのひと、登校拒否の息子さんがいてねえ――」
女 客「アラアラ……」
陽子がやってきて、公衆電話をかける。
河岸にある古ぼけたアパート.一、二階合わせて八世帯の規模。周囲は地上げにあって、家々が歯抜け状態で残っている。
風景に電話のベルの音がかぶる。
杉作が宮沢リエの写真集を見ているが、ベルの音で、おそるおそる電話をとる。
杉 作「……」
陽 子「もしもし、杉作?……あ、お母さんよ、お昼だけどね、カレーライス作っておいたから、お鍋温めて食べてね。それから五時になったら、ちゃんと塾に行くのよ、学校に行かない分、勉強しないとね」
杉 作「大丈夫だよ。塾の方が勉強分かりやすいし楽しいもん……うん、分かった」
太郎が入ってくる。ケバイ看護婦が口紅を塗っている。
太 郎「先生いないの?」
看護婦がゴルフ・スイングの真似をする。
太 郎「また?」
看護婦「下手の横好き――山田さん、太ったわね」
太 郎「だろう? それに毎日気分悪くてさァ」
看護婦「だったらドック行かなきゃ。ここの先生の診察はアテにならないわよ。当たらないのはタマだけじゃないんだから」
太 郎「チェッ、何のためにこの部屋あるんだろ――」
と、出てゆく。
同課の善子、佐藤、渡辺などに会う。
善 子「山田さん、新しいトンカツ屋できたの、一緒にいく?」
太 郎「ダメダメ、食欲なくて」
善子、すりよって、
善 子「(小声で)ねえ、最近お誘いないじゃん?」
太 郎「うん……いや、そのうちね」
善 子「この前のこと、奥さんにバレたんでしょ?」
善子、ニヤリと笑い、同僚を追いかけてゆく。
ベンチに腰かけて、夏みかんを食べている太郎。
誰かが横にドスンとすわる。中年の妊婦である。妊婦、袋から夏みかんを出して、皮をむき始める。
太郎、変な気持ちになる。妊婦と目が合う。妊婦ニヤリと笑い、太郎おびえる。
野菜、食品など、売れ残り商品がダンボール箱に入れられて並んでいる。
朝出のパートの主婦たちが、目ぼしいものを物色している。
店 長「職員専用のサービスだよ、どれもこれも半額で持ってっていいからね」
店 長「(千円札を一枚返して)美人にはおまけしちゃおう!」
陽 子「いつもすいません――」
女店員「それセクハラってんじゃないの!」
店 長「ン……?」
ショーウィンドウに、かなり大胆なデザインの下着が飾られている。
自転車で通りかかった陽子、ふと足を止め、ショーウィンドウを覗き込む。
黒いスケスケのネグリジェに目がゆく。陽子、しばし考えている。
共同玄関の前に、《マンション建設反対》と書かれた看板が立っている。将軍と呼ばれる老人が、ハチ巻姿で木刀を振っている。自転車に乗った陽子が帰ってくる。
将 軍「やあやあ、山田夫人、お帰りなさい!」
陽 子「只今……お精が出ますね」
将 軍「備えあれば憂いなし! いざという時のために油断があってはいかん。マンだのションだの抜かしおってけしからん! トウーッ! ソラーッ!」
階段を登ってきた陽子、隣室の北島夫妻と出会う。
初老の夫妻は、〈アパート取り壊し・絶対反対〉と書いた垂れ幕の両端を持っている。
房 子「山田さん、今日も大家が弾圧(2文字傍点)に来たんですよ。これ書きましたからね」
陽 子「すいませんねえ、いつもお任せしっ放しで……」
北 島「いやいや、停年で暇がありますから」
房 子「断固戦います!」
陽 子「よろしくお願いします……」
陽子、自分の部屋を通り越して、奥へ進む。途中、バタンと戸が開き、保坂が顔を出す。
陽 子「保坂さん……!」
保 坂「奥さん、これ読んどいて下さいっ!」
一冊のパンフレットを差し出す。
タイトルに〈林民夫のハッピー・ブッダー――信仰と献金〉とある。
保 坂「興味がありましたら、いつでも御説明に伺います」
陽 子「ありがとう……又」
と、イナして奥へ進む。角部屋のドアをノックする。返事がないのでソッとドアを開ける。
ドアが開いて、陽子の顔がのぞく。
八畳一間の部屋で、七、八人のアラブ人労働者たちが祈りの真際中である。陽子、スーパーの袋から山田家用の食料を少しだけ取り出すと、残りをそっくり入口に置いてドアを閉める。
陽子、反対側の角にある自分の部屋のドアを開ける。
玄関、DKを通り、洋服ダンスとセミダブルのべッドで一杯の夫婦部屋に入る。
ベッドの上に座り、紙袋から黒いネグリジェを取り出す。胸に当て、洋服ダンスの鏡に映す。
25 電車の中とホーム(夜)
満員電車、吊り革にぶらさがっている太郎。突然、吐き気を催す。
電車が止ったところで、飛び出す。
ホームの反対側でゲーゲーやるがなにも出ない。
太 郎「なんだよ、こりゃ……」
ベルが鳴る。あわてて電車に戻る。
チャイムが嗚る。陽子が立って、ドアを開ける。
陽 子「お帰りなさい……アラ」
立っているのは、若きアラブ人。
情熱的な眼差しだ。
陽 子「どうしたの、サダム?」
サダム「……ヤサイ……」
陽 子「ヤサイ……?」
サダム「……アリガト……」
陽 子「ああ、さっきのアレ? いいのよ、安いんだから、皆さん、国の家族のために苦労してるんだもの……」
サダム、陽子を見つめる。
陽 子「お礼が言いたかったのね」
サダム「……」
陽 子「分かったわ、皆さんによろしくね」
陽子、ドアを閉める。サダム、しばらく外に立っているが、やがて角部屋の方へ歩き出す。
太郎が帰ってくる。目の前を歩いてゆく人影に気づく。
太 郎「杉作?……杉作」
杉作、ふり向く。父を認めても無反応である。太郎、杉作に走り寄る。
太 郎「塾には真面目に通ってるようだな」
杉 作「……」
太 郎「昼間の学校じゃなぜ駄目なんだ?」
杉 作「……お父さん」
太 郎「ん?」
杉 作「お父さんって、何も感じさせない人間だね……」
太 郎「どういう意味だ?」
杉作、答えずに歩く。
湯舟の中の太郎。
先ほどの杉作の言葉を思い出している。
暗い部屋の戸が開き、風呂から上がった太郎が現われる。
太郎、ハッとなる。べッドに、黒いネグリジェの陽子が、妖艶な化粧をして横たわっている。
太 郎「ど、どうしたんだ」
陽 子「あなた……もう三ケ月も御無沙汰よ、たまには……」
太 郎「そりゃ、もちろん……」
と、ベッドに腰かける。
陽 子「どうしたのよう――」
と、太郎を押し倒す。口唇を近づけながら、片手でスタンドの電気を消す。
ザコ寝しているアラブ人たち。
眠りにつけないサダムの瞳が、月光を受けてきらめく。
ほとんど闇の中で、夫婦の声がする。
太 郎「……駄目だ、うまくいかん」
陽 子「なんで?………どうしたの。このお腹?」
太 郎「それが問題なんだ」
電気スタンドの灯がつく。
陽 子「一寸、見せてよ」
と掛け布団をめくる。
陽 子「ただごとじゃないわね」
太 郎「今日何度も気分が悪くなった」
陽 子「ガスでもたまってるんじゃないの? お医者さんへ行ったら」
太 郎「明日ドックを予約したんだ……」
二人で、太郎の腹を見つめる。
ベンチに座っている検診者たちの中に太郎の姿がある。
看護婦「三十八番の方、B診察室へお入り下さい」
太郎が立ち上がる。
入ってくる太郎。データーを揃えて医師が持っている。
医 師「えーと、山田太郎さんね、胸のレントゲンもOK、消化器、血液関係、視聴覚とコレも、コレもアレもと……全部OK、異常なしです」
太 郎「は?」
医 師「健康状態は良好ということです」
太 郎「しかし、このお腹が――」
医 師「世の中には太った人、普通の人、やせた人の三種類の人がいます。あなたはたまたま太った人なんです」
太 郎「でも、時々気持悪くなるんです」
医 師「気持悪くなる人とならない人が二種類います。すべて気のもちようです。では次、三十九番の人!」
看護婦「三十九番の方、B診察室へどうぞ!」
太郎、首をかしげる。
下着新製品のデザイン会議を開いている。小湊課長、善子、佐藤、渡辺など七、八人。ボードに、試作品のパンティ類が張り出されている。
小 湊「次は誰だ」
佐 藤「私です。えー、男性用下着の新型デザインで、世界でも多分初めての形かもしれません」
太郎が入ってくる。善子が振り向いて、ウインクする。
渡 辺「山田さん!」
小 湊「おう、どうした、ドックの結果は?」
太 郎「は、異常なしでした。気持のもちようだと言われまして」
小 湊「だろう? だからボカァ言ったんだ。そういうバイオリズムってのがあるんだよ」
太 郎「気分が良くなったような気もします」
小 湊「よかった、よかった、次いこう!」
佐 藤「ポイントはですね、男性下着の小用を足す部分ですが、従来だと出口が重っており、例の部分が出しにくいという不利がありました。そこで思い切って、この試作品のように、丸い出口を作り、フタの部分をマジック・テープで止めてはどうかと思ったわけです」
小 湊「ウン、これは凄い、イケる!」
太 郎「これがホントの丸金パンツですね、ハハハハ……」
善子も甲高く笑う。
小 湊「山田君!」
太 郎「すみません」
渡 辺「山田さん、電話――妹さんからです」
太郎、電話のスイッチを切り換え、部屋の隅に行く。
太 郎「もしもし、……陰子か……どうした、何かあったのか?」
暗い表情の陰子が、受話器を握りしめている。
陰 子「すみません……」
太 郎「謝らなくてもいいよ、何でも言ってごらん、兄さん、驚かないから、さあ」
陰 子「怒らない?………あたし……婚約しちゃったの」
太 郎「ええ?……おめでたいじゃないか!」
つい大声が出たので、社員たちがジロリと振り返る。
太 郎「(声をひそめて)で、どこの誰と?」
陰子の婚約者石山新太郎は、レスラーのような大男。野蛮で不潔だが、人は好さそうである。物凄い勢いで焼肉を喰っている。太郎、見ているだけで気分が変になっている。
太 郎「石山新太郎さんは、失礼ですが、御職業の方は?」
石 山「あい、ゴルフの会員券売買会社におるとです」
太 郎「しかし、あれは、今あまりよくないんでしょ?」
石 山「心配なかとですよ、もうがっぽり稼ぎましたけん、大金を隠してしもうたけん」
太 郎「ははあ……陰子、お前ほんとにこの方が好きなんだな?」
陰 子「……ええ」
太 郎「そりゃよかった。じゃ幸せなんだね」
陰 子「(陰気に)幸せです」
太 郎「これからは太宰治なんかばっかり読まないで、新太郎さんと外でデートしたらいい、な?」
石 山「わたしの特技を見せますけんね」
石山、ビール瓶を口に当て、グイグイと一気飲みを始める。見つめていた太郎、気分が悪くなり卒倒する。
陰 子「兄さん!………兄さん」
石 山「なしてこげんこつになったとね」
陰 子「どうしましょ、新太郎さん」
石 山「よか、わたしのかかりつけの医者がおるとですよ、連れていきましょ」
石山、倒れている太郎をかつぎあげる。
ベンツが止る。
降り立つ石山と陰子。太郎を引きずり出す。陰子、看板を見る。
陰 子「新太郎さん、これ獣医じゃないの」
石 山「構わんとですよ。わたしもよう見てもらっとりますけん。そこらの医者より、ずーっと名医ですたい」
周囲を犬、猫、狸などの檻でかこまれた診察室。目を真赤にした水野博士が、猫たちにウオッカを差し出している。
かなり酔っている様子――。
博 士「これ、飲まんか、上等のウオッカだぞ……モスクワじゃ行列したって買えないそうだ……ソラ、ソラ、ストレートで飲むんじゃ……」
チャイムが鳴る。
博 士「ウルサイッ!………もう閉店じゃ、プライベート、タイムじゃ!」
再びチャイム。
博 士「何者だ!」
石山の声「先生、石山新太郎ですたい」
博 士「何? オー、新太郎か……一寸、待っとれよ」
よろよろとドアに近づき、鍵を開ける。太郎をかついだ石山と陰子が入ってくる。
石 山「夜分、すみまっしぇん……」
博 土「どうした、野蛮人!」
石 山「野蛮人(3文字傍点)はあんまりですたい。いえ、この|女(ひと)の兄さんが、急に具合ば悪くなったばってん、先生に診てほしか思いまして――」
博 士「人間のオスはあんまり診たくないが、お前の頼みじゃ仕方あるまい、そこへ寝せろ」
石山、指示に従い、太郎を犬猫用の寝台にのせる。博士、準備を整え、よろよろと太郎に近づく。
太郎の喉ぼとけをさすってから、口唇をこじあけて歯並びを見る。
博 士「ふん……キバも生え揃っとるし、こちらには問題はない」
太郎の目が開く。
石 山「オーッ。気がついたばい!」
陰 子「兄さん、お医者さんに来てるのよ」
太 郎「ウッウウウ――」
博 士「うるさい、黙っとれ!………ふーん、この腹が一寸クセモノじゃのう」
腹に聴診器をあてる。
博 士「ふん、ふん……なーるほど……」
石 山「どーかしとっとね、先生?」
博士、聴診器を外し、白衣を脱ぐ。洗面所で手を洗い、ついでに顔を洗う。三人の方へ振り返る。
博 士「こりゃ異常事態じゃのう」
石 山「なんね?」
博 士「この男は妊娠しとるよ」
石 山「ええーッ!」
太 郎「そんなバカな――」
博 士「わしは正気じゃ! 腹の中から心音が聞こえた」
太 郎「いいかげんにして下さいよ、バカバカしい!」
太郎、寝台から降りる。
博 士「信じたくはないが、事実は事実じゃ、この男の腹の中には、赤ン坊がいる!」
太 郎「おい、陰子、帰ろう、この爺いはオカシイよ」
博 士「なんじゃと! 人がせっかく教えてやっとるのに、その態度は何じゃ!」
太郎、ドアを荒々しく開けて出てゆく。
陰 子「兄さん!………」
陰子と石山、太郎を追いかける。
三人がベンツに乗り込もうとする。
博士が外に出てくる。
博 士「バカモン! 二度と来るな!」
太 郎「ヤブ医者! 猫に噛まれっちまえ!」
博 土「ハラボテ男! 恥知らず奴!」
車のドアがバタンと閉まる。
太郎が、ベロベロに酔っている。
その横に石山と陰子。もう一人眼鏡をかけた謎の男が座っている。
男は、実は写真週刊誌〈ウエンズデイ〉の記者である。
太 郎「つまり、君があのインチキ医者のところへ行こうと言ったわけだ――」
石 山「すいまっしえん……」
太 郎「ま、それはいい、水に流そう。しかしだな、ぼくの大事な妹、この陰子を大事にしなかったら承知せんぞ!」
石 山「そりゃもう」
太 郎「陰子はね、生れつき物事を悲観的に解釈する性なんだ。目玉焼きを焦しただけで自殺を考えるぐらいせんさいな女なんだ」
石 山「分かっとっとです」
太 郎「本当に分かっとるかね!――アイタタタッタ……」
石 山「ドゲンしなさったと?」
太 郎「腹ん中で何かが蹴ったようだ」
石山と陰子、顔を見合せる。
陰 子「兄さん、お腹に赤ちやんがいるんじやないでしょうね」
途端に、謎の男が笑い出す。
石 山「あの医者、わたしにはインチキに思えんとですよ」
太 郎「(不安になる)しかし、そんな……」
記 者「どこかの医者がそう言ったんですか?」
石 山「あい」
記 者「そりゃ面白い、いや大変なもんだ、あんたスターになれますよ」
太 郎「何だ、君は! 不愉快な野郎だ、オレは帰るぞ!」
太郎、立ち上がる。
太 郎「バカにするな!」
千鳥足で太郎が帰ってくる。記者が尾行している。山田家のドアの前で、バラの花を一本握ったサダムが立っている。人の気配に、あわてて立ち去る。バラを落としていく。
太郎、ドアの前でその花を拾う。
陽子が玄関のドアを開ける。
太 郎「今晩は、奥さん……バラをどうぞ」
陽 子「何なの、そんなに酔っ払っちゃって」
太郎、DKの椅子にドカンと腰を下ろす。
太 郎「奥さん、親愛なる陽子さん、私はあなたに、一本のささやかなバラを捧げるとともに、重大な発表をしなければなりません!」
陽 子「はいはいどうぞ、不退転の決意でも何でも結構よ」
太 郎「実はですね、ボカァ、ボクは妊娠しているんです」
陽 子「ハハハハハ……」
太 郎「笑ったね、君は笑った、ボクがこんなに真面目に話してるのに、鼻で笑うんですね」
陽 子「だってそんなことあり得ないでしょ」
太 郎「あり得ないことばかり、今まで一杯起こったじゃないか、ベルリンの壁が崩壊したり、海部さんが首相になったり、台風が団体でやってきたり……」
陽 子「じゃ、あなたが妊娠したって誰が決めつけたの?」
太 郎「それは君、人間専門じゃないけど、れっきとした医者だよ」
陽 子「何よ、それ?」
太 郎「とにかく、ボクは今混乱してるんだ、一寸、一寸ここへ耳をあててくれ」
陽子、言われたままに、太郎の腹に耳をあてる。
太 郎「聞こえるか?」
陽 子「別に……」
太 郎「腹の中で何かが動いてるんだ、医者は心音が聞こえると言った」
陽 子「まさか……」
太 郎「状況証拠は山ほどある。夏みかんが喰いたくなったり、しょっ中吐き気がしたり、そして日に日に大きくなるんだ、この腹が――」
陽 子「あなた、しばらく仕事休んだらどう、きっと疲れているのよ」
太 郎「違う、違うんだよ!」
陽 子「……」
太 郎「君は何も分かってないじゃないか、ボクの不安、ボクの恐怖……」
陽 子「……」
太 郎「十年も一緒に暮らしてきたのに、まるでアカの他人だ……ボクの悩みなんかちっとも分かろうとしないじゃないか……」
陽 子「でも、そんなこと突然言われて信じる人がいると思う……いいわ、わたしの同級生に仲のよい産婦人科の女医さんがいるの。明日、早速電話してみる。その女医さんが妊娠を証明したら、わたしあなたの言うこと信じる、どう、それで?」
太 郎「本当にそうだったら、オレはどうしたらいいんだよーッ!」
と、泣き崩れる。
途方に暮れる陽子――。
サングラスをかけた太郎が、周囲を警戒しながら、産院の中へ入る。
〈ウエンズデイ〉の記者が、カメラマンを伴い尾行している。電柱の陰から次の電柱へと、銭形平次の足さばきで飛ぶ。
さして広くない部屋に、破裂しそうな腹をかかえた妊婦がぎっしりつまっている。全員の視線が、太郎に注がれる。
女医が歌う。
『蝶々夫人』の声が院内に響き渡っている。
看護婦「(紙コップを差し出して)山田さんですね。トイレでお小水を取って下さい、レディスしかありませんけどどうぞ」
太郎、紙コップをもって女子トイレに入る。すれ違った妊婦がけげんな顔で見送る。
太郎が新聞を見る。一面を見てドキッとなる。〈妊娠中絶禁止法案、強行採決、明日より施行〉とある。笑っている幹事長のアップ写真など――。
看護婦「山田さん、山田太郎さん」
太郎、おずおずと診察室へ向かう。
女医川田乙女が、太郎に指示する。
歌の合間にしゃべると言った感じで、ミュージカル・スター気取り。
女 医「さあさ、こちらへどうぞ、ズボンを脱いで下さいな、ララララ、ラララーッ、陽子さん、羨しいな、こんな素敵な旦那さん見つけて、ラララララーッ、わたくしなんか、まだ独身、ホホホホ……そう、そう、お尻をその台の上に乗せてね、ラララー、恥ずかしいことなんかありませんよ。新しい命の誕生を確かめるんですからね……ララララー、あなたお産初めて? あっ、そうか、男性ですものね、お産しちゃ困るのよね、ホホホホ、ラララーッ、さ、全身の力を抜いて、お腹をグーッと膨らませてみましょうか、ラララララララーッ(と、太郎の股間に頭を突っ込んでゆく)ララララ、ラララー、ララララーラララー、ラララララッ――」
突然歌が止る。
ゆっくりと女医が立ち止る。顔が引きつっている。
太 郎「……?」
女医の顔が笑顔に変ってゆく。
太 郎「……?」
女 医「山田さん、おめでとう、女の赤ちゃんです……」
太 郎「……!」
女 医「ホホホホホッ」
太 郎「ハハハハハハッ」
女医、そのまま卒倒する。
太郎、悲鳴をあげる。ズボンをわし掴みにすると、何かを喚きながら玄関へ突進する。
太郎が飛び出してくる。真正面に構えていた週刊誌のカメラマンがシャッターを切る。走り去る太郎、追いかける記者とカメラマン。
走る太郎、追いかける記者たち。
前と同じ状況、様子を見ていた自転車屋の店員。
店 員「泥棒か!」
自転車に飛び乗る。周囲の人間たちもつられて参加する。
「待てーッ!」「泥棒ーッ!」等、
走る太郎、追う週刊誌の二人、そのすぐ後に群衆――。
走って来た太郎、息切れして止る。
群衆も立ち止り、ズボンをはく太郎をウオッチングする。
太郎、ベンチに座り、ゆっくりと煙草に火をつける。
太郎が入ってくる。虚ろな表情。
小 湊「おい、どうしたんだ、今頃?」
太郎、黙って椅子に座る。
社員たちが様子を見守る。
小 湊「何とか言えよ」
空を見つめたままの太郎、次第に表情に動きが出てくる。
太 郎「ヒヒヒヒヒヒ……!」
社員たち、顔を見合わせる。
太郎がぼんやり歩いてくる。ふと立ち止る。陽子が立っている。
太 郎「……」
陽 子「お帰りなさい……」
太 郎「ああ……」
陽 子「川田さんから聞いたわ……本当だったのね……」
太 郎「ああ……」
陽 子[わたし覚悟はできてるわ……相手は誰?」
太 郎「誰って?」
陽 子「相手が居ないで妊娠するわけないでしょ」
陽子、くるりと背を向けて歩き出す。太郎、追いかける。
太 郎「おい、待てよ、おまえ自分で何言ってるのか分かってんのか」
陽 子「あなたこそ、自分が何をしたのか分かってるの」
太 郎「オレは何もしてないよ」
陽 子「白ばくれないでよ、そんな子供だましにはのせられないわ」
太 郎「俺が変なことするわけないだろ」
陽 子「じゃ、会社のあの若い娘はどうなのよ!」
太 郎「半年前のことじゃないか!」
陽 子「半年前にあったのね!」
太 郎「違うよ、遅くなっただけじゃないか」
陽 子「明け方だったわよ、帰ってきたの! 次の日も女の子から電話があったわ! 何かあったのぐらい勘で分かるわ!」
太 郎「おい、陽子」
陽 子「嘘つき!」
太 郎「嘘じゃないってば!」
陽 子「放っといて!」
陽子走り出す。
太 郎「陽子!」
太郎、追いかけて、陽子の腕をつかむ。
太 郎「何で俺を信じてくれないんだ! おまえと俺は夫婦だろ」
陽 子「(太郎の腹を指差して)こんな証拠があって何を信じろと言うの!」
太郎、いきなり陽子の頬に平手打ちを与える。
陽子、一瞬戸感ったように太郎を見るが、そのままわっと泣き崩れてしゃがみ込む。太郎、かがみ込んで静かに陽子の肩を抱く。
太 郎「……な、陽子……うまく言えないけど……多分俺は、世界で一番おまえを愛してるんだ……だから、おまえだけが頼りなんだ。おまえに肋けてもらいたいんだよ」
陽子、ゆっくり顔を上げ、太郎を見る。
見つめ合う二人――。
週刊ウエンズディが高々と積まれてゆく。表紙タイトルに、〈驚異の男性妊娠!〉
トレパン姿の太郎が出社してくる。
小 湊「おい、山田、困ったことになったぞ」
太 郎「何がですか――」
小 湊「何がですか、じゃないよ、とにかく直ぐ社長室へ行ってくれ」
太 郎「え?」
小 湊「その服装なんとかならないの!」
太 郎「合う背広がないんですよ」
小 湊「国技館かなんかの近くにあるだろ、さ、さ、早く行って!」
社長の丸山が、ウエンズディの中味を見ている。川田産院の前で、ズボンを抱えた太郎の写真が載っている。
ノックあり、
丸 山「入れ!」
太郎が入ってくる。
丸 山「何てことをしてくれたんだ! これは何なんだ!」
太郎、写真を見せられて仰天する。
丸 山「こんな記事を書かれたら、わが社のイメージは台無しじゃないか!」
秘書が顔を出す。
秘 書「社長、週刊誌が二社ほど来ております。社長に面会を求めてますが」
丸 山「そりゃ不味い、慰謝料の件がどうして分かったんだ」
秘 書「あの女の話じゃありませんよ。そこの山田君の件です」
丸 山「ああ、そうか――」
電話が鳴る。秘書が取る。
秘 書「はい、え、新聞社? 一寸待ってくれ」
切る。
秘 書「どうしましょう、大騒ぎになってますが」
丸 山「弱ったな、とにかく山田君を逃がすんだ。対策をたてるまで会社には顔を出さんでくれ、分かったね」
秘 書「さ、こっちから」
と、山田を別のドアから押し出す。
電話が鳴る。ドアにはノック。
レジで働く陽子。
ガラス窓の向こう側から、四、五人のマスコミ関係者が近づいてくる。「あの女か?」「あれだろ」などという声。男たち、陽子のそばまで来る。
男 A「山田陽子さんですね」
陽 子「ええ……?」
男 B「御主人のことでお伺いしたいんですが」
陽 子「今、仕事中ですから――」
男 A「一寸だけでいいんです」
陽 子「お客様の邪魔になります!」
男 B「旦那さんの妊娠はいつ分かりました?」
陽 子「失礼します!」
陽子、レジを離れ、裏口の方へ逃げ出してゆく。
男 A「奥さん、一寸待ってよ!」
男 B「奥さん、山田さん!」
マスコミ関係者の群が、玄関前で木刀を構えている将軍と対峙している。
将 軍「お主たちが束になってかかろうとも、わしは絶対にここを動かん。命をかけて、このアパート・メントを守り抜く覚悟じゃ、分かったか、悪徳不動産屋共!」
記者A「あの爺イ何を言ってるんだ?」
記者ウェンズディ「頭やられてんだよ」
春風荘と報道陣が見える場所。
太郎が電話で話している。
太 郎「これじゃ一歩も近づけないよ、周りはマスコミだらけだし」
陽 子「知ってるわよ、わたしだって外へ出られないわ、これからどうしたらいいの」
太 郎「とにかく相談したいんだ。陰子の婚約者を迎えにやるから、何とか脱け出してくれよ、な……」
土手の上に石山新太郎のベンツが駐車している。河原で焚火を囲みながら、太郎、陽子、陰子、石山が相談している。
陽 子「とにかく赤ちゃんを胎ろすしかないわ、そうしなきゃ元の状態に戻れないんだから」
太 郎「しかし、妊娠中絶は法律で禁止になっちまったんだぜ」
陽 子「わたし川田さんに頼んでみるわ、OKしてくれたら、あなたやるでしょ?」
太 郎「そりゃもちろん……」
ソファに座って向き合っている陽子と女医――。
女 医「駄目、ダメダメ、いくらあなたとお友達でも、それだけは駄目よ。この年まで清らかに生きてきたんですもの、法律を破るなんてこととてもできないわ」
陽 子「そう……どうしましょう、わたし……」
女 医「思いきって厚生省にでも直接掛け合ってみちゃどうかしら、これは特別のケースなんですもの」
陽 子「厚生省……」
太郎、陰子、石山がドアの中から押し出される。幽鬼のような形相の水野博士が登場する。
博 土「出て行け! よくもそんなことをわしに頼めたもんだ! おまえらを監獄にたたき込んでやる! 恥知らず! ウジ虫!」
しょぼくれて飲んでいる太郎、石山、陰子――。
太 郎「陰子、元気出せよ、おまえが妊娠したわけじゃないんだから」
陰 子「兄さんが可哀そうで、あたし………」
と泣き出す。
小湊がやってくる。
小 湊「やあやあ、やっと見つけた」
太 郎「課長、どうしたんです」
小 湊「いやァずい分捜したんだよ、やっと会社の処分が出てね、君に伝えなくちゃと思って――」
太 郎「処分?」
小 湊「それがねえ、結構厳しいもんなんだ、ボクも辛いんだよ、無期限休職ってことでね」
太 郎「なんてボクが処分受けるんです!」
小 湊「不倫に対する懲罰という解釈でね――」
太 郎「不倫じゃありませんよ!」
小 湊「分かってる分かってる」
太 郎「保証はどうなるんです」
小 湊「要するに無給なんだな、これが」
太 郎「そんな――!」
小 湊「辛いよボクだって、ずい分君の肩をかついだんだが、会社ってとこはねえ………」
陰子、一際声高に泣き出す。
小 湊「ボクにできることがあったら何でも言ってくれ、あ、ここの飲み代ぐらいは持たせてもらうよ」
太 郎「いいですよ!」
小 湊「ま、遠慮するなよ……じゃ」
と三千円置いて去る。
大きなバッグを持って、人目を忍ぶように入ってゆく太郎。
労組幹部たちがゴルフ談議に花を咲かせている。
委員長「社長の接待だからよ、笑うに笑えなくて困ったよ。社長のスイングこれだよ。こうクラブを上げるだろう、上がった途端、ホラ、クルクルっと八の字かくんだよ、ハハハ」
取り巻きの幹部もつき合って笑う。
ギィーッとドアが開き、太郎が現れる。
委員長「おう、山田君、どうしたんだい」
太 郎「あの――」
委員長「いやいや、事情は分かってる」
太 郎「組合で助けてもらえるんでしょうか」
委員長「うーん、幹部会でも討議したんだがね――、どうも闘いにくいテーマなんだよな」
太 郎「でも給料ストップはひどいと思いませんか」
委員長「そりゃひどいとは思うよ、でも春闘控えてるだろ。その問題とゴッチャになると戦術が混乱しちまうんだナァ」
太 郎「……」
委員長「それに君は、普段から組合活動に無関心だったろ、それが一寸不利なんだよ」
話してる間も、スイングに夢中である。
太 郎「……分かりまし……それはそれとして、ボク子供を堕ろしたいんです」
委員長「あ、そう……」
太 郎「組合から社会党に働きかけて、法的に何とかしてもらえないでしょうか」
委員長「どうかな、それは……なにせ政治的テーマじゃないからね、党は動かんだろ、土井委員長の時だったら何とかなったかもしれんけどな」
太 郎「駄目ですか?」
委員長「まあね、一応言ってみてもいいけど」
太 郎「お願いします」
委員長「それよりさ、来週の月曜日あいてる? 組合のコンペに欠員が出たんだ、行ける?」
太郎「……」
店員たちが、店長を囲んで立ち話をしている。陽子が入ってくるのを見ると、さっと散る。
店 長「あ、山田さん、一寸話があるんだ、こっちへどうぞ」
店長と陽子、ソファに座って向かい合う。
店 長「山田さん、困ったことになっちまったよ、いやあ世の中には無知無学な連中が多くて――というのはね、あなたの旦那さんの件、あれが特殊なバイ菌のせいだって……」
陽 子「バイ菌!」
店 員「それでね、ボクは信じないんだけど、噂ってのは恐ろしいんだな、何人かのパートは、伝染が怖いから辞めさせてくれと言ってきてるんですよ」
陽 子「そんな……」
店 長「人手不足なのにエライ話になってね、それに、ウチとしても食品なんか扱ってるでしょ、客が噂をまともに受けとったりすると収益に響くし、ボクとしても本店の方へどう説明してよいか分からないもんで――」
陽 子「……分かりました、辞めてくれとおっしゃるんですね」
店 長「察していただけるとありがたい。ボクは断腸の思いなんですがね」
陽 子「いいんです、どなたにも迷惑をかけたくないですから……お世話になりました」
店 長「そうですかァ、悪いですねえ、全く大衆の教養の無さにはあきれかえりますよ」
と、陽子を送り出す。
廊下を通りかかった掃除人を呼び止める。
店 長「ちょ、ちょっと、こっちへ来て」
掃除人が入ってくる。
店 長「このあたりね、何か強い殺菌液で消毒して! ていねいにね!」
四、五人の報道陣、陽子が帰ってくるとフラッシュなど焚く。
記者A「ねえ、奥さん、旦那さんの居場所教えて下さいよ」
記者B「何か言ってくれませんか」
陽子、無視して階段をのぼる。
隣りの北島房江の声――。
声 「山田さん」
ふり返る陽子。
房江と保坂が顔を出す。
房 江「一寸いいかしら……」
陽 子「どうぞどうぞ」
二人を招き入れる陽子。
房 江「奥さん、いろいろ大変でしょ」
陽 子「皆様に御迷惑おかけしています」
房 江「いえいえ、わたしたちは構わないんですけど、山田さんがお気の毒でねえ」
陽 子「何でこんなことになってしまったのか……」
房 江「それでね、この保坂さん、宗教やってらっしゃるの御存知でしょ」
陽 子「ええ、まあ……」
房 江「つまりね、ここの先生、えーと、何て言ったっけ?」
保 坂「林民夫先生です」
房 江「そうそう、その先生はね、何でもずばりと当てて下さるようなんですよ」
陽 子「というと……」
保 坂「たとえばですね、誰かに不幸が訪れるとしますね、しかしそれには原因があるんです、林民夫先生に、ハッピー・ブッダの霊が降りると、その原囚がすぐ分かるんです。で、その原因を取り除くと、不幸が去り、元の倖せが戻ってくるわけなんです」
陽 子「本当ですか……?」
保 坂「私は何人もその例を目の前で見てきたんです。いや、私自身も先生によって救われたんです。私は昨年、体の調子が悪いうえに、精神的に滅入った時期があったんです。ところが、先生が私を一目見た途端、腹の部分を指差されました。医者で調べると、胃に腫瘍ができていました。早速手術をし、今ではこんなにピンピンしています」
陽 子「占いみたいなものなんですか?」
保 坂「そんな非科学的なものじゃありません。林民夫先生は、ハーバート大学を出られた歴としたインテリなんです」
房 江「実はね、恥を申し上げるようなんてすが、ウチの主人ね、最近もの忘れがひどくて、大事な入れ歯を失くしたんですよ、高いもんですから、あちこち真青になって捜したんですが、見つからない。その先生に見ていただいたら、ピタリ、そこの小学校の洗面所から出てきたんです」
陽 子「不思議なお話ですねえ……」
房 江「でしょ、いかがです、奥さん、困った時の神頼みって言葉もあるでしょ、ダメ元で試してみられたら……」
保 坂「ダメ元なんてありっこないですよ!」
陽 子「……」
狭いロビーで、サングラス、トレパン姿の太郎がバッグを抱えて電話している。
太 郎「八匹のブタ? え? 英語……ハッピィ?………ブッダ……ウン、何それ?………ウン……ホー……でも……分かったよ……杉作大丈夫?………ウン、そう、じゃ」
太郎、カプセルの中へ入る。
カバンから数冊の雑誌を取り出す。凡ての雑誌の表紙に、太郎の記事のタイトルが出ている。
陽子と保坂が改札口から出てきて、周囲を見まわす。太郎が、犯罪者のような警戒ぶりで近づく。
太 郎「おい、ここ、こっち!」
陽 子「あなた……」
神殿とは言っても、只の二階建てのビル。大げさな看板には、〈HAPPY BUDDHA・主宰=林民夫〉とある。
保仮に案内された陽子と太郎が入ってゆく。
只の板張りの広間。両側に、黒いドレスの女たちが座っている。正面には、金のつい立てが一枚。入口に、礼拝者用の折りたたみ椅子が五席ほど並んでいる。
三人が入ってきて、席に着く。
保 仮「(小声で)先生には、すでに悩みごとはお話してありますから、安心して下さい」
女の一人が立ち上がり、大きなドラをたたく。女たち、一斉に奇妙な祈りの形をとる。
白いタキシードに蝶タイの林民夫が現れる。
他の女が、ツボのようなものを持って、太郎たちに近づく。
女 「御献金を――」
太郎と陽子、保坂の顔を見る。
保 仮「一人、一万円が相場です」
陽子が、仕方なしに二万円を入れる。又、ドラが鳴る。
林 「隆霊の儀式! つまり、ソウル・カミングダウン!」
小川が、両手にカスタネットを持って踊り出す。
林 「カムカムカム! カムカムソウル、カムカムカム!……(続ける)」
太郎と陽子、顔を見合せる。
林 「カム、カム、カム!……イヨーッ!……分かりました、謎は解けました。そなたの腹に宿る命は、遠くエルサレムの果てより、ロシア南部のシルクロードを経て、朝鮮半島から下りしものなり! 原因! 信仰の不足! 治療法! ハッピィ・ブッダの神殿に、百回以上通うこと!」
太郎、立ち上がる。
太 郎「帰ろう、バカバカしい――」
保 坂「山田さん!」
太郎と陽子、急ぎ足で去る。
その背に向かって、林がもの凄い形相で呪いをかける。
林 「カムバック! カムバック! 汝らの背には、呪いの背後霊が襲いかかる! カムバック、カムバック、ナウッ!」
太宰の全集数冊を抱えた陰子が来る。墓碑の前で立ち止り、じっと碑名を見つめる。
大家が、借家人を集めて移転を説得している。やくざが三人、木刀を持った将軍を押え込んでいる。
将軍、ぜいぜい息を切らしている。
大 家「ここんとこをよく分かっていただきたいんです。何も皆さんを何処かへ行けと言ってるんじゃないんですよ。隣り町に私が建てた新しいマンションにお移り下さいと言ってるんです。新しいきれいな場所にですよ」
この時、陽子が帰ってくる。
大 家「あ、山田さん、丁度いい、一緒に話聞いて下さい」
陽 子「ちょっと疲れてますので」
大 家「いい話なんですよ、(と集団へ向き直って)で、当分はですね、家賃もこのまま、引っ越し費用もこちらということで、もうこりゃ大サービスのつもりなんです。私としてはとにかく、もめごとを起こしたくないというのが第一でございましてね、何卒皆さんの――」
陽子、大家の言葉を聞きながら、階段を上がってゆく。
杉作に日本語を習っているサダム。
杉 作「ね、これが『あ』という字だよ、『い』がこれ、あいうえお、だ」
サダム「あ……い……あい、あい」
杉 作「そう、そう」
陽子、疲れた顔で入ってくる。
杉 作「あ、お母さん、サダムに日本語教えてるんだ」
陽 子「そう……よかったわね、サダム、いい先生がいて」
サダム「(にっこり笑って)あい……」
陽 子「え?」
杉 作「あいうえおだよ」
陽 子「ああ、そうか」
ドアにノック。
陽 子「……?」
再びノック。
陽 子「どなた?」
声 「川岸署のものですが――」
サダム、蒼白になる――。
サダム「ボク……ビザない!」
陽子、子供部屋を指差す。サダム隠れる。陽子、ドアを開ける。
陽 子「なんでしょう……?」
警 官「失礼します。山田太郎さんは御主人ですね」
陽 子「はあ……主人が何か……?」
警 官「いや、御主人の妹さんの名は、陰子さんですよね」
陽 子「そうですが?」
警 官「自殺を計られましてね」
陽 子「えっ!」
茫然とする陽子――。
屋台の親爺を相手に、くだを巻いている太郎。
太 郎「オレのお腹の子はな、エルサレムからやってきたんだそうだ、てやんでえ! じゃ、これは神様の子かね、オレはマリヤ様ってわけだ、ハハハ、じゃ堕ろすわけにゃいかねえなーッ、ウイッ」
小湊課長が飛び込んできた。
小 湊「いたいたやっぱりいた」
太 郎「課長、あんたの顔なんか見たくないよ」
小 湊「そんなこと言ってる場合じゃないよ、君の妹さんが自殺計ったんだ」
太 郎「……!」
小 湊「奥さんから電話があってね、君を捜してくれって」
太郎、立ち上がって小湊のネクタイを掴む。
太 郎「本当か!」
小 湊「ホ、ホ、本当だよ……」
太 郎「……!」
タクシーが止まり、太郎が飛び出してくる。
集中治療室の前の、ベンチ、陽子が独り、憔悴しきった表情で座っている。太郎が走ってくる。陽子、よろよろ立ち上がって――。
陽 子「(力なく)あなた……」
太 郎「陰子はどうした……」
陽 子「睡眠薬使ったらしいわ、今夜がヤマだけど、何とかなりそう……」
太 郎「なんでまた……」
陽 子「遺書があったんですって、刑事さんの話だと、石山新太郎さんから婚約を破棄されたのが原因らしいって……」
太 郎「……!」
透明のビニールカーテンの中で、酸素マスクをした陰子が寝ている。
太郎が入ってくる。
太郎、じっと陰子の表情をうかがう。
太 郎「陰子……かあいそうに」
涙が頬をつたう。悲しみが、次第に怒りに変わってゆく。
太 郎「クソッ!」
部屋を飛び出してゆく。
急停車するタクシー、走り出る太郎――。
エレベーターから飛び出す太郎。
急ぎ足で、部屋の表札を調べる。
石山の部屋を見つける。乱暴にドアをたたく。
ドア開く。石山の顔が現れる。
太 郎「この野郎!」
と、石山に襲いかかる。
石 山「何すっとですか、山田さん!」
太 郎「何すっともかにすっともあるか、てねえのお陰で妹はとんでもない目にあってるんだ!」
石 山「待ってくんしゃい、山田さん!」
太郎構わず石山を殴りつけ、突き飛ばす。
石 山「止めんしゃい、痛ッ! 痛え! 助けてくれーッ!」
太 郎「この野郎! サギ師! ぶっ殺してやる!」
テーブルを引っくり返し、戸棚を倒し、阿修羅の形相で暴れまくる。
パトカーが走る。
後部座席に、傷だらけの太郎が、手錠をかけられて座っている。
報道陣が群がっている。パトカーが着く。太郎が上着をかぶせられて引きずり出される。
フラッシュの嵐。
「刑事さん、顔出させて下さいよ!」
「押すな、この野郎!」
「山田、こっちむけ!」
「腹は大丈夫か! 赤ン坊だよ!」
「何とか言えよ、山田!」
「何で暴れたんだ!」
などなど――。
チャブ台を囲んで、近所の長老たちが新聞を読んでいる。社会面トップに《妊娠男、暴れる!》などの見出し。陽子の母が、電話に出ている。
母 「村じゃ大騒ぎになってるだよ。とんでもねえ恥さらしでねえかってなあ。なあ、陽子、太郎さんには気の毒だけんど、この際、戸籍から外さしてもらった方がええんでねえかねえ……いやいや、これは、わだしだけの意見でねえんだよ……」
陽子が電話を受けている。
陽 子「そんなこと急に言ったって、お母さん、わたし、太郎さんとじっくり話す機会もないのよ、いろんなことが一度に起こっちゃって、もう、わけがわからないの……はい……はい……じゃ、又連絡します」
陽子、深い溜息をつく。
外で杉作の声がする。陽子、窓から下を見下す。ヘルメットを首にかけたアラブ人労働者が出勤するところだ。その中の一人、サダムと杉作がじゃれ合っている。
野党の女性議員が、新聞をふりかざしながら、質問に立っている。
議 員「こんな風に一市民を悲劇に追い込んでよいものでしょうか! 産まない自由を禁じられたために、この男性は絶望的になり、家庭も破壊されているのであります。まさに、政府がごり押しした悪法、妊娠中絶禁止法の犠牲者であります。大体ですねえ、産む産まないは女の決めることなんです。厚生大臣、あなたには子宮感覚なんてないでしょう。実感のない人間がなんでこんな法律を作るんです」
議 長「厚生大臣、吉田君」
――などなど――。
太郎と陽子が向かい合っている。
陽 子「アパートも追い出しかけられているのよ、どうする……」
太 郎「どうするったって、この有様じゃ」
陽 子「……あなたって、何も決められないのね……杉作が登校拒否になったって心配もしないし」
太 郎「心配してるよ」
陽 子「心配したって何も手を打たないでしょ……お腹が大きくなったって、そうやってもてあましてるだけ……妹のことだけ夢中で、何かが起きたからと言って、解決するわけじゃないし、ただカンシャク起こして暴れることしかできないなんて」
太 郎「おまえ、嫌味を言いに来たのか?」
陽 子「指示を仰ぎに来たのよ」
太 郎「そんなこと言ったって――」
陽 子「じゃ、あなたとわたしの関係って何なの、あなたなぜわたしと結婚したの」
太 郎「そんなこと話してる場合じゃないだろ」
陽 子「どうしてよ……あなたって何もかもあいまいだわ、ただ生きてるわけ?」
太 郎「わけの分からんこと言うなよ、オレは疲れてんだ」
陽 子「……」
太 郎「とにかく、ここを出たら何とかするよ」
陽 子「……何とかね……」
トサカ頭のパンク男が、三人のやくざに乱暴されている。殴る蹴る、家具は壊すの大立ち回り。
やくざA「この野郎、つべこべ言わずに出て行くんだ」
とさか「クソッ! 何しやがんだ!」
やくざB「逆ってりゃ痛い目に会うだけだ、ホレッ!」
とさか「オレの大事なコンポ壊しやがったな」
やくざC「それがどうした、クラッ!」
北島夫妻や他の間借人たちが、大きなトラックに家財道具を積んでいる。陽子が帰ってくる。
陽 子「北島さん、どうしたんです」
房 江「あ、山田さん。実は皆で急に引っ越すことになったのよ。大家さんの計らいで、善良な市民だけが、新しいマンションに同じ家賃で移れるようになったの。変な連中は、この際追い出しちまうんだって、その方があたしたちもいいじゃない、あなたも早く荷造りした方がいいわよ」
陽 子「……」
陽子、階段を上がろうとする。一階の端の部屋から、トサカが転がり出る。いつの間にか、大家が陽子の背後に立つ。
大 家「山田さん」
陽子、振り返る。
大 家「あんた、いつも留守で困っちまうな。ここ二、三日中に部屋を出てもらいたいんだよ」
陽 子「新しいマンションに移るんですか」
大 家「いや、あんたは駄目だ。御主人の問題があるんでね、トラブル・メーカーはお断りだよ、分かってるね」
陽 子「……!」
大 家「二、三日中だよ」
大家、やくざを連れて立ち去る。
陽子、階段を上ってゆく。ハッと立ち止る。角部屋から、アラブ人たちがぞろぞろと出てくる。警官が一緒だ。
陽 子「どうしたんですか……」
警 官「不法滞在者だよ」
陽子の前を通り過ぎる時、アラブ人たちが次々と握手を求める。
陽子の目に涙が溢れる。
サダムが一瞬立ち止り、陽子を見つめる。
陽 子「元気でね……」
サダム、微笑んでうなづく。
警 官「何してんだ、その男!」
サダム、階段を下り始める。
見送る陽子――。
ものすごい勢いで飯を喰っている太郎。すぐカラになる。
太 郎「すいませーん」
警官来る。
太 郎「おかわりはもらえるんでしょうか」
警 官「そんなものあるか!」
立ち去る。
がっかりする太郎――。
子供部屋で、ぐっすり寝ている杉作。陽子が、酒をぐいぐいあおっている。かなり飲んだ様子だ。
ドアにノックの音。
よろよろと歩いてドアを開ける。
サダムが立っている。
陽 子「……!」
サダム「……」
陽子、サダムの胸に飛び込む。
陽 子「サダム……サダム……どうして……」
陽子、泣きじゃくる。サダム、熱く熱く、陽子を抱擁する。来たるべき性的シーンを暗示させて――。
太郎が、ストレッチなどしながら出てくる。
〈マンション反対〉の看板が倒れ、いくつかの部屋は窓があけっ放しである。やってきた太郎、けげんな顔で周囲を見る。
階段を上がってきた太郎、わが家の戸をたたく。反応がない。
自分の鍵で開ける。
入ってきた太郎、子供部屋が片づいているのに気づく。寝室へ行く。べッドの上に置手紙――。
封を切る。妻の筆跡である。
妻の声「ごめんなさい、太郎さん。あなたと永久に別れる決心をしました。理由はくどくどと言いたくありませんし、あなたを非難するつもりもありません。わたしたちは、初めから一緒になる必然性などなかったと考えて下さい。一寸した間違いだっただけです。杉作はわたしが責任を持って育てます。あなたは、あなた自身の子供を育てて下さい。離婚届の署名は、手紙で事務的にやりましょう。どうぞ、お体を大切に。安産を祈っています――陽子」
あてどなく、ほっつき歩く太郎。
同様。
疲れ果てて歩いてきた太郎、橋の欄干にもたれかかる。川の面を見つめる。楽しかった日々のことが思い出されてくる。
遊園地でデートする太郎と陽子。
結婚式の二人、教会の階段を下りてきたりして――。
杉作の誕生を喜ぶ二人、又は七五三のシーンなど――。
現実に戻る太郎、煙草を取り出すが、一本も残っていない。財布の小銭を数えるが、八十円しかない。再び水面を見つめる。
水面の下から、死神が招いているような錯覚にとらわれる。
太郎、次第に引き込まれてゆく。
知らず知らず、片足が欄干をまたいでいる。
墜落寸前のところで、一本の手が太郎の袴を掴む。
「待った!」の声。
太郎振り返ると、ギターケースを待った男が立っている。男は、黒いカウボーイハットをかぶり、作業衣みたいな服を着ている。
男 「早まっちゃいけねえよ、山田さん」
太 郎「……どうしてぼくの名前を?」
男 「あんたの記事が出てから、ずっと興味もってフォローしてたんだ」
太 郎「でも、なぜ――」
男 「ここにいるかって? 偶然町であんたを見かけてね、半日後を尾けてたんだよ」
太 郎「尾行してたんですか?」
男 「まあな]
太 郎「なぜ?」
男 「こんなことになりそうな予感があったんでね」
太 郎「……!」
男 「どうだい、どっかでパーッとやらんかい?」
太 郎「しかし……」
男 「あー、金なら任しときな、俺の名はフランキー」
太 郎「フランキー?」
男 「フランキー・小橋、ロック歌手やってんだ、聞いたことねえだろ?」
太 郎「あいにく……」
男 「売れてないから仕方ねえよ、行こか?」
太 郎「はいっ」
うらぶれた場末のスナック。ママと若い女が二人。
客はいない。
フランキー・小橋と太郎が入ってくる。
マ マ「いらっしゃい!」
女 「フランキー、久しぶり」
二人の女が小橋にぶら下がる。
小 橋「今日は大事な話があるからよ、おまえらあっちへ行ってろ」
女 「つめたいの、めっ!」
二人、奥のボックス席へ座る。ママがおしぼりとメニューを待ってくる。
小 橋「これ、友達の山田さんだ」
マ マ「初めまして――あら、どっかでお目にかかったことがあるみたい」
小 橋「そんなわけはねえよ、おい、何にする」
太 郎「え? ああ……(メニューを見て)焼きウドン」
小 橋「腹減ってたのか? 飲むことは飲むんだろ?」
太 郎「ええ、もちろん――」
小 橋「じゃ、まずビールだ」
マ マ「かしこまりました」
太 郎「あの……」
小 橋「ん?」
太 郎「本当にロック歌手なんてすか?」
小 橋「そうだよ、シンガーソングライターって奴だな」
太 郎「ああ、自分で作詞作曲やる?」
小 橋「そうそう、だからどこにも所属してねえんだ、時々、場来のクラブなんかで歌うんだが、今は一寸調子崩してんだ」
マ マ「お待ちどうさま」
ビールが来る。二人で注ぎ合う。
小 橋「仕事がねえ時は、ビルの工事か、ああいう仕事してんだ」
太 郎「ははあー、そうですか……」
小 橋「じゃ乾杯しよか」
太 郎「はいっ」
小 橋「妊娠おめでと!」
太 郎「えっ?」
小 橋「いいから飲めよ」
二人飲む。
小 橋「グーッと効くねえ」
太 郎「ええ……」
小 橋「俺はあんたのことをずーっと考えてたんだ、もし俺だったらどうするかってね」
太 郎「はあ?」
小 橋「俺だったら、堂々と産むね」
太 郎「……!」
小 橋「だって考えてみろ、これは世界史上初めてのできごとなんだぜ。誰にだって訪れるチャンスじゃねえよ。神様が、人間に新しい実験を施してるのかも知れねえ、そうだろ?」
太 郎「まあ、それは……」
小 橋「まあじゃねえよ、何を恐れてるんだ。お前の名前は、永遠に歴史に刻まれる、大変な栄光だぞ!」
太 郎「はァー……」
小 橋「失うものは何だ、家庭、会社の仕事、――ちっぽけなもんばかりだ、クソみたいなもんだ」
太 郎「ふーん……」
小 橋「それによ、自分が産んだ子供を育てることができるんだ、こりゃすばらしい体験じゃねえのか、今までは、子供と言やぁ、皆女が産んだのばかりだ、つまらねえだろ」
太 郎「あなた、すごい発想しますね」
小 橋「別にすごかねえよ。俺は自然なだけだ。世の中の感覚が狂ってるんだ」
太 郎「なるほど……」
マ マ「はい、焼きうどん上がりました」
太 郎「いただきます」
太郎、無我夢中でうどんをかき込む。小橋が、その様子をニヤニヤしながら見ている。
玄関のそばに、黒塗りの車が停っている。
酔った太郎と小橋が階段を上がってゆく。
太 郎「たいしたおもてなしできませんが、まだ酒ぐらいは残ってるでしょ、何だったら泊ってもいいですよ、だーれもいないんだから」
小 橋「そりゃありがてえな、ドヤに戻らんで済むもんな」
ドアの前に二人の紳士が立っている。内閣調査室室長とその部下の役人である。
室 長「山田太郎さんですね」
太 郎「どなたですか?」
室 長「内閣調査室の者です」
太 郎「はァー?」
室 長「実は良い知らせを持ってきました。明日、特別な政令が発令されます。あなたに限り、中絶措置が認められました」
太 郎「それで?」
室 長「この政令の実行を確実にするため、あなたは指定病院で、明日中絶手術を行います」
太 郎「行います? ボクは頼んだ覚えないですよ」
室 長「それはごもっともですが、国が決めたことですから、従っていただきます。今晩、病院へお連れします」
太 郎「止めて下さいよ!」
室 長「……!」
太 郎「何が国の決めたことだ。人が堕ろしたいと言やあ法律がどうのと抜かし、都合が悪けりゃ今度は堕ろせだと?一体、何の権利があってボクに指図するんだ!」
小 橋「その通り!」
室 長「山田さん、お気持は分かりますが、もっと現実的になりましょうよ」
太 郎「ボクは産む! 誰が何と言ったって子供を産む! 産んでやろうじゃないか!」
小 橋「やったぜ、ベイビーッ!」
室 長「山田さん、落ち着いて考えましょう」
太 郎「うるさい、帰ってくれ! 帰れ!」
太郎、階段から突き落とさんばかりに、二人の男を押しまくる。
室 長「危ない、何するんだ!」
太郎と小橋、戻ってくる。
太 郎「あー、すっきりした」
小 橋「見直したぜ、タロちゃんよう」
太 郎「何だか、今までの自分とは違ったみたいな感じです」
小 橋「それでこそ男ってもんだ。で、本当に産む気になったんだな」
太 郎「ええ、もちろん……しかしさ、さっきの男の話だと、今度はぼくに産ませないってことでしょ」
小 橋「勝手な野郎どもだ」
太 郎「すると、ぼくはどうやって産むんだ、病院には行けないし……何笑ってるの」
小 橋「俺とお前は出会う運命だったんだ」
太 郎「どういう意味?」
小 橋「これを見てくれ」
小橋が、ギターケースを開ける。
中には、サン然と輝く医療器具が詰っている。
太 郎「どうしたのこれ!」
小 橋「ロック歌手ってのは、俺の仮りの姿だ。俺の本職は産婦人科の医者なんだ……」
太 郎「まさか……じゃ、ニセ医者?」
小 橋「人聞きの悪いこと言うな。確かに今は免許がない。しかし昔は、れっきとした総合病院の腕利きの医師だった」
太 郎「じゃ、どうして?」
小 橋「聞いてくれるかい……」
二人、床の上に座る。
小 橋「世の中が間違っていると考え始めたのが、この事件だった。俺はある日、妊娠した女子高校生の相談を受けた。親にも先生にも、誰にも知られず中絶したいということだった。俺はその娘を自分の部屋に連れてきて、無事に手術をやり遂げた。ところがだ、どこでどうばれたのか、俺は違法行為で訴えられた。なんとハレンチ罪までくっついてだ。病院にはクビ、医師免許は取り消し……俺は人の幸せのためにやったんだぞ……」
太 郎「(感勤して)フランキー、あんたって深味があるねえー……!」
小 橋「いやぁ、そうでもないよ……ところで安心しな、お前の赤ん坊は、俺が責任もってとりあげてやる」
太 郎「ホントに!」
小 橋「一寸上着めくってみろ」
小橋、聴診器を取り出し、太郎の腹に当てる。
小 橋「……ふーん……ふーん……こりゃ大変だ」
太 郎「なにが?」
小 橋「俺の勘だとよ、臨月は三日後ぐらいに来るぞ!」
太 郎「えっ!」
小 橋「心配するな、俺がそれまでつき添ってやる。昼間は仕事しねえといけねえが」
太 郎「うまく産めるかな」
小 橋「俺を信用しろ、地球上で初めての命の誕生だ、俺も気合い入れて頑張る!」
太 郎「フランキー……」
小 橋「……(見つめる)」
太 郎「ありがとう!」
二人は、両手を取って握手する。
113 春風荘・外(朝)
朝日が差して、ボロ・アパートが今までになく美しく映える。
仕事に出掛ける小橋を送り出す太郎。
太 郎「気をつけてね、フランキー」
小 橋「ああ……それからよ、そんなきついパンツはいてちゃ腹の子によくねえ、これでマタニティでも買っとけよ」
と、ポケットからしわくちゃの一万円札を出す。
太 郎「マタニティ?」
小 橋「ほら、妊婦が着るブワーッとした服あるだろう」
太 郎「ああ、あれね……夕食何がいい?」
小 橋「そうだな、スパゲッティかなんかでいいよ、俺イタリアンが好きなんだ」
太 郎「任しといて」
小 橋「作れんのかい?」
太 郎「やったことないけど、全力尽してみるわ」
小 橋「……? お前、今朝あたりから言葉つき変じゃねえか」
太 郎「そうかしら」
小 橋「一言言っとくけどな、俺はホモじゃねえんだよ」
太 郎「ぼくだって違いますよ」
小 橋「そんならいいけど……じゃな」
太 郎「行ってらっしゃーい」
階段を降りてゆく小橋、ふり返って……男っぽい仕草の挨拶を送る。
太 郎「(小声で)……すてきな男!」
DKに戻ってくる。
太 郎「(朝食後のテーブルを見て)さてと、きれいにしなくっちゃ……」
と、エプロンをかける。
太郎が、用品コーナーでマタニティを選んでいる。
抱えているカゴにはスパゲッティなど。
太 郎「これとこっちでは、どっちが似合う?」
女店員「……さあ?」
太 郎「やっぱこっちにしようか、フランキーは地味好きだから」
女店員「地味ならばそっちですが」
太 郎「あ、そう、分かんなくなっちゃった、困ったな、どうしょ?」
女店員「……?」
マタニティ・ドレスに着がえた太郎が、鼻歌を歌いながら、三面鏡に向って様々なポーズを取っている。
太郎、ふと玄関の方へ目をやる。
けげんな面持ちの小橋が立っている。
小 橋「お前何やってんだ?」
太 郎「あら、お帰りなさい、スパゲッティできてるわよ」
小 橋「あのな、その〈わよ〉ってのをやめてくれねえか」
太 郎「あ、あごめん、ごめん、何だかつい出ちゃうのよね……それはそうと、今日一日家事をやったら、結構楽しいものなのね、家事から解放されたいなんていう主婦の気が知れない、色々工夫したり面白いもんなのに……きっと愛がないから嫌になるんじゃないの」
と言ってるうちに、スパゲッティが食卓に揃う。
太 郎「さ、どうぞ」
小橋、喰らいつく。
太 郎「どう?」
小 橋「ん、こりゃいけるぜ!」
太 郎「ホント? うれしい! じゃ、ぼくも」
とフォークを持つ。
小 橋「あのなー」
太 郎「え?」
小 橋「その小指立てるの、何とかならねえのか」
太 郎「アラ、ホント、いやだ……そんな気ないのにこうなっちゃう……!」
小 橋「妊娠すると、男でも女性化しちまうのかなァ」
太 郎「そうかも知れない、気持ちが柔らかくなるのよね、言葉とか動きを崩しちゃった方が楽なのよ」
小 橋「ふーん……」
太 郎「あ痛ッ、イタタタッ……!」
小 橋「どうした?」
太 郎「蹴ってるわ、赤ちゃん、凄い勢い……」
小 橋「どれどれ」
太郎の腹にさわる。
小 橋「ふん、ふん……こりゃお前、大分近づいてきてるな……」
ガラスケースの中にずらり並んでいる猟銃群。
怪人の面をかぶった男が、ハンマーでガラスをたたき割る。中の銃を一丁わし掴みにして消える。非常ベルが鳴り響く。
怪人面の男が飛び出してくる。停めてあったオートバイに股がり、爆音と共に消え去る。
春風荘にいたやくざ達が、ワイ談をしながら麻雀を楽しんでいる。
突然、荒々しくドアが開く。トサカ頭のパンク男が、猟銃を構え、やくざ達に向けて乱射する。やくざ達、悲鳴を上げながら引っくりかえる。
猟銃を持ったトサカが、注意深く階段を下がり、アラブ人たちが住んでいだ部屋に忍び込む。
パトカーに導かれた救急車、音もなく近づいてくる。
寝室のべッドで唸っている太郎。
シーツをかぶって、太郎の下腹部を診察していた小橋が、顔を出す。
小 橋「今日明日生まれてもおかしくない、手術の準備をしておこう」
手を洗うため、台所に向かう。
太 郎「ねえ、どう思う?」
小 橋「なにが?」
太 郎「男かしら、女かしら?」
小 橋「そりゃ分からねえ、猿年だってことは間違いねえ」
太 郎「女の子がいいなあ」
小 橋「女子大に入って万引きするかもしれねえぜ」
太 郎「イジワル!………あ、あ、痛いー」
ドアにノック。小橋、開ける。二人の警官と白衣の男が立っている。
小 橋「何だよ、あんたら」
警 官「山田太郎さん、いるね?」
小 橋「それがどうした」
警 官「病院へ収容する。中絶手術を受けさせる、命令だ」
小 橋「子供は産むんだ、帰ってくれ!」
警 官「逆らうと公務執行妨害になる」
小 橋「バカヤロー! 勝手なことぬかすんじゃねえよ!」
と、警官を押し戻そうとする。
警 官「この野郎!」
もう一人の警官も参加し、もみ合いになる。この時、一発の銃声。
警官の一人が、腹を撃たれてうずくまる。
廊下の端に、猟銃を構えたトサカが立っている。警官たち、あわてて逃げ出す。トサカが近づいてくる。
小 橋「なんだお前は?」
トサカ「奴ら俺を捕えに来たんじゃなかったのか――」
太郎が四つん這いになって出てくる。
太 郎「どうしたの、フランキー! 何の音?」
トサカ「あれ、山田さんじゃないの」
太 郎「一階の宮沢さん! どうしたのよ」
腹部を撃たれた警官が担架で救急車に運ばれる。
救急車、サイレンを鳴らして出発。
残った警官が、無線連絡をする。
警 官「こちら101、こちら101、緊急連絡、大林区河岸町、春風荘アパートに、猟銃を持った男が出現、警官一名が狙撃され
重傷です。現場は、春陽荘アパート、山田太郎玄関前、犯人は山田家に入った模様、至急応援願います!」
ガツガツとスパゲッティを喰う宮沢。唖然と見ている太郎と小橋。
宮沢、平らげて一息つく。
太 郎「で、宮沢さん、これからどうするの?」
宮 沢「どうするって、オレはどっちでもいいよ、やくざも殺っちまってるし、どうせ逮捕されるんだ。あんたたちが出て行けってんならそうするし……」
太 郎「どうする、フランキー」
小 橋「……ウン……居てもらおうじゃねえの」
宮沢「……?」
小 橋「俺たちも、今捕るわけにはいかねえんだ。一日もたせれば、子供が生まれる。そうなりゃこっちの勝だ。手助けしてくれるか」
宮 沢「いいよ、どっちみち破れかぶれだ、やってやろうじゃねえか!」
と立ち上る。窓の方を見て、
宮 沢「おい、見ろよ!」
小橋、窓に駆け寄る。
五台のパトカー、三台の機動隊用大型バスが、ハイスピードの感じで近づいて来る。
大型バスからバラバラと機動隊員が下り、フォーメーションを作ってゆく。パトカーから降り立った保安部長が、拡声器を手にする。
部 長「犯人に告ぐ。武器を捨て、すぐに投降せよ。なお、山田太郎及び同居の男は、犯人の説得に努力せよ、さもないと共犯関係と見なす!」
ドアが開き、椅子やテーブルが突き出される。小橋と宮沢が、階段前に、バリケードを作り姶めた。
刑事A「どうします」
部 長「しばらく様子を見よう、(拡声器で)無駄な抵抗は止めよ! 武器を捨て、ただちに投降するように!」
銃を構えた宮沢とバリケードを補強する小橋――。
宮 沢「あの野郎、もう一寸気の利いたこと言えねえのか、バカの一つ覚えみてえによ」
部屋の中で、太郎のうめき声――。
小橋、中へ入る。
小 橋「どうした」
太 郎「痛たっ……周期的に来るのね、この痛み……ウッ」
小 橋「だんだん間隔が短くなるんだ、もうしばらくの辛抱だぞ、どれどれ」
と、太郎の腹をさすってやる。
太 郎「フランキー……」
小 橋「なんだよ」
太 郎「……あなたと結婚したくなっちゃった」
太郎と小橋、しばし見つめ合う。
小 橋「……変なこと言うなよ」
太 郎「そうかしら」
バリケードに寄りかかり、煙草を吸っている宮沢。
小橋が来る。
宮 沢「お祭り騒ぎだよ……」
小橋、外をうかがう。警察車の背後に、TV局の中継車、新聞社の車が並び、報道陣と群衆がびっしりうごめいている。
人気アナの徳山が、カメラに向かって嬉しそうに喋っている。
徳 山「一九七×年の浅間山荘事件以来の銃撃戦が、今まさに火ぶたを切ろうとしております。事実は小説より奇なりと申しますが、今、私たちの眼前に展開する光景は、まさにその格言を証明するものであります。JBBでは、スポンサーの御好意によりまして、レギュラー番組をカットさせていただき、この対決が決着するまで実況でお送りいたしたいと思います」
うなっている太郎。
そばで、火炎びんを作っている小橋。
刑事A「待っていても効果ありませんね、やりますか」
部長、うなづく。刑事A、機動隊長に近づき、耳打ちする。隊長合図する。
動き出す機動隊――。
134 同・二階廊下
宮 沢「おい、何かやりそうだぞ!」
と中へ声をかけ、銃を構える。
機動隊員三人が近づき、催涙弾を発射する。そのタイミングで、十数人の隊員が春風荘に向かって突進する 。
催涙弾が爆発し、煙が巻き上がる。
咳込む宮沢。戸を閉めてから、火炎びんを投げる小橋。
宮 沢「クソッ!」
立ち上がる。階段を上り始める機動隊に向けて一発、足に当たり転がる。あわてて退却する隊員たち。
宮 沢「ザマー見ろッ!」
徳 山「遂に発射されました第一発、近づいた隊員のどこかに命中した模様であります。催涙ガスが、春風荘を覆うと、悪鬼の形相よろしく立ち上がった犯人が、最初の凶弾を放ったのであります!」
太郎が、侵入したガスで咳込んでいる。小橋が濡れたタオルを持ってくる。
小 橋「何てことしやがんだ、妊婦がいるってのに、さ、これ口に当てると楽になるよ」
部長がパトカーの無線電話を使っている。
部 長「人権問題の方は、本当によろしいんですね、長官……分かりました……覚悟はできております……はいっ、失礼します」
隊 長「狙撃隊は準備できております、しかし、まともにやっては、隊員の生命に危険があります」
刑事A「部長、春風荘の大家が来ております」
部 長「ん?」
大家が近づいてくる。
大 家「実は御相談がありましてね」
部 長「……?」
陣痛が来ている太郎。
洗面器などを用意している小橋。
小 橋「頑張れよ! もうすぐだぞ」
太 郎「フランキー、名前何にしよう?」
小 橋「そんなこたァ、暇になってから考えようぜ」
太 郎「あなたがつけてね」
小 橋「いいよ」
突然、部屋が揺れる。太郎、悲鳴を上げる。続いてもう一度――。
小 橋「何だ、こりゃ!」
宮 沢「ど、どうしたんだ! 地震か、だめだよ、オレ、弱いんだ、コレ! おーい、止めてくれ!」
四つん這いになっている小橋。部屋は揺れ続け、物が落ちる。
ドアが開き、宮沢が顔を出す。
宮 沢「だめだオレ、地震は恐いよ、悪いけど止めたよオレ、かんべんしてくれよなッ」
宮 沢「おーい、降参だ! 今降りるぞ! 撃つな、撃つなよッ!」
銃を放って、へっぴり腰で階段を駆け降りてゆく。
小 橋「何だ、あの野郎ッ!」
窓に駆け寄る。
大型ユンボが、アパートを端からたたき壊しているのが見える。
大家の指図で、操縦している運転手。
大 家「ソーレ、勢い良くやれ! こっちもだ!」
小 橋「ひでえことしやがる、クソッ垂れ奴」
ドン、ドンという音、再び催涙弾が撃ち込まれ、煙が部屋に入る。
飛び出す小橋――。
出て来た小橋、銃を拾い、眼下の狙撃隊に向けて撃ちまくる。
小橋の弾が、幾人かに命中して倒れる。
ユンボが暴れ、どんどんと壊されてゆく建物。
揺れるたびに、フランキーの名を叫ぶ太郎。
隊員が一人駆け上がってくる。小橋がもみ合いの末、突き落とす。
その瞬間、銃弾が小橋に集中する。
小橋、派手にもがいて倒れる。
血ダルマになった小橋が転がり込む。
太 郎「フランキーッ!」
二人は、顔を見つめ合いながらにじり寄る。手と手がつながり合った時、小橋がコト切れる。
太 郎「フランキーッ!」
さらににじりより、小橋に狂おしく接吻する。怒りが太郎の全身をつつむ。銃を掴み、仁王立ちになって外へ出てゆく。
出てきた大郎、大軍に向かって乱射する。
狙撃隊の一発が、太郎の胸に命中する。倒れる太郎――。
大型ユンボの最後の一撃が、春風荘全体を殴り倒す。
舞い上がる灰塵の中に沈んでゆく春風荘――。
徳 山「遂に春風荘が崩れました。まるで巨象が倒れるように、ゆっくりと立ちのぼる砂塵の中にうずもれてゆきます。最後まで子供を産もうとたてこもった世界最初の妊娠男も、その奇跡を達成することなく、廃屋の残骸の中で眠りにつきました。嵐の後のこの静けさ、空渡るカラスの鳴き声以外、周囲は完全な沈黙に包まれております」
立ち上る灰塵の彼方から――。
突然、空気を震動させるような、高らかな赤児の泣き声!
顔を見合わせる警官たち、報道陣、群衆――ざわめきが波のように伝わる。
徳 山「何でしょう、今の泣き声、まさか、まさか、まさか――」
誰かに助けを求めるがごとく、徳山が周囲をゆっくりと見回す。
そのうちに、ハッと視線が一点で止まる。群衆の一角に、数人の腹の突き出た男たちがいたのである。
徳 山「あの……あの……皆さんは、つまり、お相撲さんたちで……しょ?」
男たち、笑って首を横にふる。それから、ゆっくりと両手を差し出し、春風荘の方へ歩き始める。
群衆の中から、沢山の腹の出た男たちが、同じような行動に出る。
徳 山「あの……あれ……あれ……何と申し上げたらよいか……」
赤児の泣き声が、再び周囲に響き渡る。
出勤する男たちの中に、かなりの数で腹の大きくなった者がいる。
渋谷にも、新宿にも、そして多分全国的に――。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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