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海の彼方 漂泊─日本的心性の始原(抄)

 

    不可知の彼方

 

 スサノオ神話の根底には、根源なるものの国土への視野があった。万物に生命を与えて考えれば、それは万物の生命の〈根〉の世界への神話的想像でもあった。この世界は、それなりに具体的にどこに存在するという点についてあいまいである。例のイザナミの赴いた死の国が、地下をもって印象づける点からいうと、スサノオの「根の国」も地下に想定ができるけれども、しかし鳴鏑の矢を放った荒野などを、統一的にイメージすることはむつかしい。やはり、位置すらを捨象した抽象の国土とみておく方がよいであろう。

 これに対して、古代人たちは当然可視の世界の中にも異界を考えた。天照大神を支配者とする天上界はその一つであり、月の神が夜の支配する国をさらに統治したというのも、それであろう。これらは具体的に、太陽や月がいかにも支配者のごとく君臨する姿をとるゆえに、想像も容易なものであった。

 ところがもう一つ、同じ彼方の世界でも海上の果はいかにも謎にみちていた。一体何がそこにあるのか、穏やかに平和に思える日々があるかと思うと、突如として猛威を振るい人々のいのちを奪う。水平線は、見えているのにつねに無限の彼方をもつ。天空のように目に見える君臨者はいない。何物か、霊異なる者の存在だけが感じられながら、一向に捉えどころがないのである。この不可知感は、いまだに海中の怪獣がとり沙汰される現代にまで及んでいるといってよさそうである。

 また、水平の彼方と同時に、垂直な海底の世界も古代人にとって測り難かった。一体に彼らはそれらのものを「おき」なることばで呼んでいる。海上の遠くは「(おき)」であり、海底の深きは「(おき)」であった。そして同時に「おき」ということばは、未来の意味にも用いられる。「万葉集」の歌によると「まさか」という現在に対するものが「おく」である。すなわち、時間的にも空間的にも彼方の世界が「おき」であり、未来を見通す呪目をもった老女を「置目(おきめ)」というように(「古事記」、顕宗天皇の段)、「おき」なる世界は常凡の人間には関知しえない世界だったのである。

 このように不可知の海に対して、それを手に入れる方法は神話的な想像力しかない。不可知なるがゆえに一層熱心に、古代人は海の彼方、海彼(かいひ)の世界を想像した。今日、「海幸(うみさち)山幸」の名をもって親しまれている神話は、その想像の一つであり、また「浦島太郎」の呼び名によって童話化されている物語も、同じ種類のものである。

「海幸山幸」の話は、「古事記」によるとこうである。あるところに火照(ほでり)(みこと)火遠理(ほおり)の命という二人の兄弟がいた。ホデリは海幸彦として魚を獲り、弟のホオリは山幸彦としてけものどもを狩りとっていた。ところがある日二人は道具をかえて獲物をとろうということになった。しかしホオリは一匹の魚もとれず、おまけに釣針まで失ってしまう。返せ返せとせまる兄に困り切って海岸に坐っていると一人の老人が来て海神の宮に赴く手段を教えてくれる。

 教えられたとおりにゆくと宮殿があり、一人の美女と出あう。海神の饗応をうけ娘と結婚をして三年の歳月がすぎた。そんなある日当初の目的を思い出して海神にいうと、魚どもを呼び集めてくれ、その中の一匹から無事、失った針をとりもどすことができた。帰国するホオリに海神は一策を授け、よって兄を従えよといい、地上世界に送り返してくれる。海神の策によってホオリは王となった。

 その後、海神の娘が後を追ってくる。身ごもった子をうむためである。しかしその出産を、ホオリが垣間みたために娘は(もと)つ国に帰らざるを得ないで、戻っていった。うまれた子は妹娘が養育し、この叔母(おば)と結婚した後に血統を伝えた。

 詳しくはまた後にふれるとして、海幸山幸の話はおおよそ右のごとくである。

 この海神の娘と結婚する話を中心とするのが浦島太郎の話であろう。古代の「丹後風土記」(逸文)では浦島子という名で同じ説話が語られるが、それには玉手箱(玉匣(たまくしげ))をあけることによって一挙に老いてしまったと語る点が、海幸山幸に加えられている。

 海彼の国が現実の地上より百分の一の時間しかもっていない(かの国の三年がこちらの三百年に当る)といえばなおのこと、これらの話の中心をなすものは、古代人の想像した彼方の楽土であろう。不老不死という願望を托しうるのは非現実の異界においてであり、それは畏怖の念と裏表の関係にあったと思える。絶大なる力の所有者なるがゆえに、人間の願望もかなえ、また大きな絶望をも人間に与えたのである。

 

 

  海辺の彷徨

 

 さて、こうした海彼の楽土は、結局のところ拒否されるにはしても、一義的には憧憬の国土だったはずである。事実、右に述べたように、その地は豊かな夢の具現空間であった。

 ところが、古代人は海彼の国に一途な憧憬のみをもって向かったのではなかった。「古事記」は失った針を返しようがなく、悲嘆にくれたホオリの様子を、次のように描いている。

 

 (ここ)にその弟、泣き(うれ)ひて海辺(うみへた)に居ましし時に、塩椎(しほつち)の神来て問ひて()ひしく……

 

と。そこで塩椎がなぜ泣くかと問い、事をホオリが答えると神は「(あれ)汝命(いましみこと)の為に善き(はかりごと)()さむ」といって「旡間(まなし)勝間(かつま)の小船」を作り、それに乗ってホオリは海神の宮に到るのである。塩椎とは「(しほ)()」つまり潮路を支配する霊力をもつものの(いい)で、その導きによってホオリは海宮に赴くことができたことになる。「旡間勝間」とは目を細かく編んだ竹籠(かご)のことだが、心理的には眠りに入ることをさすとする考えが行なわれている。異次元への交通を可能にする手段を眠りに求める考えである。

 そこで考えてみると、ホオリは海宮で夢のような生活を送ったとしても、それはけっして、自発的に熱望した結果獲得したものではなかった。「泣き患ひて」海辺に茫然といる時に潮路の神の援助を得て到達したのだった。もし楽土への願望を語ることだけが主眼だったら、このような釣針の一件は不要だったはずである。いや、話が最初からそうなっているから仕方ないのだ、といわれるかもしれない。しかし、この辺りの神話はいろいろと合成されたもので、針を失う→海神の許に到ってそれを得て帰る→併せて呪力を授けられ、兄を従えて王となる、という筋だけでよいものを、この第二段に海宮の楽土たるさまをつけ加えてでき上がっている。何もこの一連の筋に楽土観をさし挾む必要は、不可欠だったわけではない。また、合成される時に、憧憬的な楽土行きが、泣き患えるという状態と結合できている理由も、考えてみる必要がある。

 どうもこの「泣き患ひ」と楽土行きとは、偶然という以上に深き結びつきを持っているようである。「古事記」のみならず、「日本書紀」のこれについて語る段は、一つの例外もなく、ホオリの悲しみを述べている。

 

 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(うれ)へ苦びますこと甚深(ふか)し。時に塩土(しほつつ)老翁(をぢ)に逢ふ。(十段、本文)

 彦火火出見尊、求むる所を知らず。但、(うれ)(さまよ)ふことのみ()す。(すなは)ち行きつつ海辺(うみへた)に至りて彷徨(たたず)嗟嘆(なげ)きます。時に(ひとり)長老(おきな)有りて、忽然(たちまち)にして至る。自ら塩土の老翁と称る。(同、第一の一書)

 (おとのみこ)、海浜に往きて、(うなだ)(めぐ)りて(うれ)(さまよ)ふ。……須臾(しばらく)ありて、塩土の老翁有りて(まうき)て、……(同、第三の一書)

 弟、愁へ吟ひて海浜に()す。時に塩(つつ)の老翁に遇ふ。老翁問ひて曰はく、…… (同、第四の一書)

 

 彦火火出見の尊はホオリのこと、塩土(筒)の老翁は先の塩椎の神のことである。話の概要は「古事記」とひとしく、口を揃えて「憂へ苦び」「憂へ吟ふことのみ有す。乃ち行きつつ海辺に至りて、彷徨み嗟嘆きます」「低れ(めぐ)りて愁へ吟ふ」「愁へ吟ひて」という。

 いうまでもなく、その理由は針を失ったという失意にあるのだが、実はこの設定は浦島伝説でもひとしいのである。「万葉集」では高橋虫麻呂の作と思われる「水江(みづのえ)の浦島の子を()める一首」(巻九、一七四〇)にそれが歌われているが、

 

 水江の 浦島の子が 鰹釣(かつをつ)り (たひ)釣りかねて 七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて()ぎゆくに

 

という。七日もの長い間帰ることなく釣をして、鰹も鯛も釣れなかった。そのままついつい海の境界を越えて異界に入り込んでしまったのである。(右に「かねて」とよんだ原文は「ほこり」とする説もあり、すると逆になるが、「かねて」が正しい。)

 また、「丹後風土記」によっても、

 

 島子ひとり小船に乗りて、海中に(うか)び出で、釣すること三日三夜を経て、一の魚だに得ず、すなはち五色の亀を得たり。

 

という。たった一匹の魚すら釣れなかった、その時測らずも五色の亀を手に入れたというのであって、状況がひとしい。だから後世のお伽話のように助けた亀に連れられて竜宮城にいったというのは、動物の恩返しに重点をおいて変形されたものにすぎない。右にあげた書紀の第三の一書にも(かり)を助けた話がでて来るが、それを理由として海宮にいくのではない。

 そうして見ると、海彼の国に赴くことにおいて、ある失意といったものが重要な契機になっていることが明らかだろう。どうやら、この異常体験者は、落魄者であることが条件だったらしい。憂愁に沈み、辛苦にある者がそれであり、しかも海辺に彷徨し低(=原稿では、人ベン)する者であった。

 

 

  脱落者と教導者

 ホオリが海辺に彷徨しなければならなかった経過を、もう一度たどってみよう。

 彼はそもそも山幸彦であった。にもかかわらず幸をかえて海の幸を得ようとした。いみじく幸というように、獲物は神の恩寵によってもたらされるもので、たとえば万葉の歌人、柿本人麻呂は山のもみじを山の神が天皇にたてまつるもの、川の魚を川の神の捧げるものと歌っている。天皇だから奉仕物になるわけで、山川の幸は神の手に委ねられたものとして人々に下された。ホデリとホオリは、神が下すことを約束した秩序にそむいて、獲物をとろうとしたことになる。書紀では兄弟それぞれに「(おの)づから幸()します」といっている。この「おのづから」という摂理にそむいたのだった。

 しかも一書(第三)によると兄は風雨の強いたびに獲物がとれない目にあっていたから、弟と幸をかえようといったと記す。もちろん弟はつねに幸をえていた。この件りは、後々悪逆の兄として懲らしめられるのだから、その伏線としての役目をもってはいるが、弟ホオリの立場を、今の順序でいえば摂理に進んでそむいたのではなく、そむかせられた、ということになる。自然なる状況にそむいてしまう運命を与えられたのがホオリだった。

 このことは後に述べる倭建(やまとたける)の命の場合と同じである。そしてすでに述べたスサノオを想い起こさないことは、無理だろう。ただでさえ「おのづから」から、はみ出してしまった者だのに、それを強いられた運命者であったとさえ、一部の人々は語り伝えたのである。

 そうした観じ方は、後々の人により強かったと思う。自然さへの背反者は、王権からの追放者とも見なされたからである。すなわち、結末の語り、兄を従えてホオリが王となったという部分を先にめぐらして考えれば、話のそもそもの出発には、兄弟の王権をめぐる争いがある。右にあげた兄の悪意があればなおのことだが、そうでなくとも、他のいかなる物で代えることを許さず、元の針そのものを返せという難題にも、大国主にかよう様子が見える。大国主も末弟として、兄たちからの迫害を切り抜けて王となるのであり、その資格を賦与したのが、根の大神から与えられた呪物を手中にすることであった。まったくそれとひとしく、ホオリも海の大神から与えられた呪物によって、王となった。

 根の大神の与えた(話では奪った)呪物は弓矢・太刀と琴であり、死霊を防ぎまた招くものとして根の国の神宝にふさわしいが、同様、海彼の国の呪物は潮の干満を自在にあやつる塩盈珠(しおみつたま)塩乾珠(しおふるたま)で、これまたふさわしい。ついでにいえば、後にふれる(あめ)日矛(ひぼこ)一族の神宝は玉と領巾(ひれ)と鏡で、海を渡って来たとされる一族らしく、領巾は浪や風を自在にする領巾、鏡も沖の鏡と岸の鏡とである。つまりこれら呪宝はそれぞれの世界の支配権の象徴であり、それを与えられ身に帯びて従来の国土に戻り、わが身を拒否した支配者を倒すという構想は、漂泊者の問題と密接に結びついている。この拒否を、悪者(あくしゃ)によるとするのが、ホオリの、右にあげた一書を最大とする物語や大国主の八十神(やそかみ)の迫害なのであろう。

 大国主の場合には「八十神怒りて、大穴牟遅(おほあなむぢ)の神を殺さむと共に謀りて」火傷をさせたり、木の俣に入れて打ち殺したりするだけで、その結果泣き患う人物が、むしろ大国主の母親になっているから、根の国へゆく姿に流離を感ぜしめないが、神話の構造としては同質だと考えざるを得ない。

 こうして、ホオリは「自然さ」からも王権争いからも脱落していく。そこに流離・漂泊の姿を観じたのが古代人であり、海岸の彷徨はこれを如実に語るものである。本来なら、この逸脱者は、最後まで彷徨しつづけなければならなかったはずである。ところが無事本国に戻って王となるためには、呪物の国へ導いてさし戻す教導者の力が必要であった。

 それが塩椎の神である。書紀によれば長老で、潮路を知った老翁が、彼の漂泊を救った。ところが、こうした教導者の登場するのも漂泊物語のタイプの一つである。すなわち神武天皇は九州の日向から東航して大和に入り、その王となるが、この時「(うみ)()」を知る者として槁根津日子(さおねつひこ)(さお)を操る男)が登場して、天皇を大和に導く。書紀では椎根津彦(しいねつひこ)と記し、本名を「(うづ)彦」(りっぱな男)といったという。もう一人、倭建彦が東国を巡行した時も、これに奉仕する人物として御火焼(みひたき)(おきな)(神前に火を燭して奉仕する老人)なるものが出現する。この老人も道案内をつとめたようで、役目は同じい。しかも翁を(あずま)の国の(みやつこ)(東国の首長)に任じたというのと呼応するように、珍彦の方は大和の国の造になったという。

 潮路を知る長老、棹をあやつる神、そして火を燭す老人という、超越者の力によって漂泊者たちが導かれてゆくという構想が、これらの三つに一貫している。

 

 

  海神の娘の漂泊

 

 ところで、ホオリ神話にはもう一つの流離が語られている。先のスサノオ神話に戻っていえば、スサノオは〈死〉の世界の人間だのに〈生〉の世界にうまれ、その異界なるがゆえに、本来の定着すべき母郷を恋うて漂泊していったことだった。つまり、異界とは本質的に排除されるべき国土でありながら、そこにうまれ住むことから出発していたのであって、ここに一つの特色があった。完全な話の筋を作るなら、〈死〉の本郷をなぜか離れ、〈生〉の異郷になぜか入りこんできた、その部分が語られた後に、不調和ゆえの泣哭の物語が始められるべきであった。それを欠いている。

 今のホオリ神話はこの欠けた部分、本郷から剥離して異郷にさすらってゆく段を語ったものである。そして本郷へ帰ってゆく(くだ)りはスサノオ神話が力をこめて語った部分であるにもかかわらず、ホオリ神話では呪力の賦与によって、漂泊どころか勇躍として帰っていったかに見える。大国主もまた同じである。

 この本郷への帰還、それはむしろ逆の立場から語られている。すなわち、豊玉毘売(とよたまびめ)においてである。ホオリは海宮において海神の娘たる豊玉毘売と結婚し、三年たって帰ってきたが、姫は後を追ってやって来て、子をうんだ後に海彼へと帰ってゆく。すでにふれたとおりだが、この姫の帰還において語られるものが、スサノオ神話の中心をなすものに相当するようである。

 海神の娘が、折角後を追ってきながら帰らざるをえない筋立ては、それほどに強固な他界意識が両者の間になければできない。

 ホオリが海彼を訪れる時には、妙に簡単に話が進んでゆく。「古事記」では小船に乗せた後に塩椎が「(あれ)その船を押し流さば、差暫(ややしま)()でませ。(うま)御路(みち)あらむ」といい、海面つづきの彼方に海宮がある如く語り、書紀で「(かたま)の中に()れて、海に沈む」と海底にある如く語って困惑させるが、それでもいずれも何の苦もなく異界との境を突破している。

 しかし浦島伝説において三年が三百年に相当する(丹後風土記)といった世界が、そう簡単に同次元に共存するはずはない。周知のように、玉匣(玉手箱)を開くとそこから立ちのぼる煙によって現世の年齢に戻るのであり、ここに玉匣から立ちのぼったものを、

 

 白雲の 箱よりいでて 常世へに たなびきぬれば…… (万葉集)

 

 未瞻(たちまち)の間に(かぐは)しき(らん)のごとき(かたち)、風と雲とに(したが)ひて蒼天(あめ)(ひるがへ)り飛びき。(風土記)

 

というのは、十分にそのことを示している。白雲の如きもの、蘭のように芳香を放つものは、ともよぶべきもので、雲や霧が人間の息と同様にみられた古代にあって、それは呼吸する気息と同じものであり、いきをすることが生きることであれば、これは生命活動の象徴であった。異質な気息によって異質な年齢を得ていたのであり、それを手放すことによって現実の地上界に戻ることとなった。

 記紀はこの玉匣のことにふれない。ふれないけれども三年たったところで「大きなる一歎(なげき)したまひき」(記)といい、嘆息をすることは書紀も同じである。この「なげき」––長い呼吸をするというのが玉匣の気をめぐる話に相当するわけで、もうすでに記紀では本郷をしのんで嘆息をしたと、もっぱら心理的に語っているのは、文学にすぎる。だから「古事記」では、いつもはそんな嘆きをしなかったのに、今夜にかぎって大きな嘆息をするのはなぜか、と話題にするほどであった。地上界と海界とは、截然と区別される異界だったのである。

 そしてこの両界の隔絶は、豊玉毘売の物語の中に、より多く見られる。そもそも彼女が後を追ってきたのはホオリを慕ってというわけではない。出産の時になって「天つ神の御子」は「海原」にうむべきではないからやってきたといい、いよいよ出産の時になると「(あだ)し国」(異郷)の人間というものは子をうむ時には「(もと)つ国」の形になってうむのだから、私も「本の身」になってうもうという。「本の身」とはワニのことであったが、姫はその姿をホオリに見られたことをはじて海の世界に帰ってゆく。そのところは「海坂(うなさか)()へて返り入りましき」とある。

「古事記」のこのあたりは、このように繁雑なほどに両界の違いにこだわっており、ホオリが訪れた時には、せいぜい眠りに入るという暗示があったていどなので、不調和なほどである。異界観は、より多く海神の娘の側にあったと思える。つまり本郷を逸脱した身が赴く世界より、求め赴いた身を拒否する世界の方に、より多く異界を観じたということになる。そこからさし戻される過程により深い悲しみがあったろう。その過程がスサノオと共通するものだった。

 

 

  仮象の破綻

 異界ゆえに拒否される悲しみ、異界にうまれてしまったスサノオにも共通する悲しみは、ホオリがわとは反対の海神がわを主体として、ホオリ神話を重層的に作り上げている。だから、あくまでも地上界行きが彼らにとっての異界行きであり、そこには当然、別の漂泊が感じられたはずである。

 それは、次のような点に見ることができる。姫は一人の御子(ウガヤフキアエズの(みこと))をうむが、自分が帰った後、「その御子を治養(ひだ)しまつる」ために妹の玉依毘売(たまよりびめ)をつかわしたという。何でもないことのようだが、書紀の第三の一書には、この御子の養育に関して、まことに細かく養育する女、湯をのませる女、乾飯(かれいい)を噛んで与える女、湯を使わせる女を定め、御子のための養育費を貢上する人々(壬生部(みぶべ))、乳をのませる女らをきめたといい、重要な事柄となっている。

 もちろんこれは、後々に宮廷の職員制度が定まったものを反映した表現だが、そう書かれるほどに御子の養育が重要な語りの一節となったのはなぜか。実は「ひだす」という語は「霊足(ひだ)す」意で、嬰児に霊を充足させることであったと思われる。スサノオ神話においても、あのクシナダヒメは「出雲の国の()の川上に遷し()ゑて、長養(ひだ)」(書紀八段、第二の一書)されており、源流の幽処に霊足された聖女であった。そしてこの聖女は流離者スサノオと結ばれて斎山主(ゆやまぬし)たる男性をうんだという(同、第一の一書)。聖山をいつく聖職者である。

 しかも、この海神の娘の来臨とは、海べに海の神を迎えて祭る祭祀を母胎としてでき上がった神話だったとも想像される。書紀の本文と第一の一書とでは、姫は「風濤(かざなみ)(はや)からむ日を以て、海辺に出で到らむ」(本文)といっており、疾風怒濤の荒れ狂う日に海の女神が来臨すると信ぜられたらしい。このことと、御子を「彦ナギサ武鵜草葺不合(うがやふきあへず)(みこと)」と名づけたこと、また「草を以て(みこ)(つつ)みて、海辺に棄てて、海途(うみのみち)を閉ぢてただ(=径の字の、ヘンが人偏)に去ぬ」(本文)ということとを綜合すると、狂瀾の日に来臨した海の女神は、神の子を渚に棄てて去るという信仰があったのではないかと思われる。「陵墓要覧」という後世の書物に、ウガヤフキアエズの墓が洞窟の中にあると伝えるのも、そのことを語ってはいまいか。

 その御子は当然のこととして、厳粛に「ひだ」され、奉仕されなければならない。それを示すのが、御子養育の語りであろう。そうするとこの御子は異界からの来訪者の物語を当然ともなっていたわけで、その来訪者を主としていえば、それは流離者の物語であった。

 異界からの来訪者は、たとえば大国主の神と協力して国作りをしたという少彦名(すくなひこな)の神のように、積極的な活動をこの世界で果して帰る、明るい神もいる。用がおわれば、いとも軽々と(あわ)の茎をバネに、本郷に帰ってゆく神である。しかし、異界者の子を身ごもり、その出産のきまりとして異界にやって来た女が、ふとしたことをきっかけに拒否されて帰らなければならないとすると、その運命は暗く重い。いや、ふとしたきっかけなどというのは説話上のことであって、本当は子を遺棄して去る必然的な運命を背負わされて想像された女神なのだから、暗い重さは宿命的である。彼女は、子をうんだ後も海路を通ってこようと思っていたのに、それができなくなったと嘆いているのだから、拒否の意味は大きかったのである。

 この、ふとしたきっかけといったものは、女神が本国の姿になって子をうむから見てくれるなとホオリにいったのに、ホオリがその禁忌を犯して見てしまったことをさす。記紀は、これを辱かしめられたからもう来られないと心理上のことと処理してしまっているが、もちろん最初からそうではない。異界者同士が共存する空間は、いずれかが仮りの姿をもっていなければならなかったのだから、海彼の国ではホオリが、地上界では姫が、それをよそおっていたはずである。そこにつきつけられた問題が、出産における本姿という、もう一つの宿命で、伝承者はこの背反する二者を衝撃せしめることによって、異界者間の愛という仮象を、つき崩してゆく。姫は出産をおえて仮姿をとり戻した後に愛を期待したのだろうが、それは脆くも破れてしまった。「見ない」ということが、このいかにも脆い異界者間の絆を保証するものだったのに。

 浦島の玉匣にしても、ともに禁忌の破棄によって破局が訪れたと語るのは、そのことを示している。つまり何とも脆い絆をもって仮象がつながれていたこと、それを禁忌という形で語ったこと、そして結局は仮象は仮象にすぎないことを意味するのである。

 仮象を信じて海路をたどって来た女が、その異界から拒否されて戻らざるを得ないという場合、この行程はやはり漂泊の悲しみにみちていたと思われる。

 

 

   隔 絶

 

 豊玉毘売の住む世界、これが地上界といかに隔絶的な異界であったかは、この出産の語りに濃厚に語られている。

 書紀の第一の一書によると、見るなといわれたホオリ(ホホデミの尊)が産屋を覗くところを、

 

 なほ、(くし)を以て火を燃して(みそなは)す。

 

という。すぐに連想されるのは、前章にもふれたイザナミの話であろう。死したイザナミの後を追って死の国に到ったイザナキは、妻に生の世界に帰ることをすすめる。それでは死の大神と話をするから私を見てくれるなといってイザナミが引っ込むと、イザナキは「()つ妻櫛の男柱一つを取りかきて、一つ火(とも)して入り見たま」う。そこには「蛆集(うじたか)嘶咽(ころろ)きて」いるイザナミの死体があった(古事記)。「(うみ)沸き虫流(うじたか)る」というのが書紀(第五段、第六の一書)である。

 つまり、姫の本体の世界は〈死〉の世界に匹敵するほどに異界だった。姫は八尋(やひろ)大鰐(わに)に化身して、うねうねと這い廻っていた。思わずホオリは「見驚き(かしこ)みて、遁げ退きたまひき」。見畏むという表現は十分に超越的な、畏怖すべき対象に向けて発せられるものである。後に述べる倭建命という漂泊者に対しても、天皇は「建く荒き情を(かしこ)みて」、これを追放しようとする。ヨミの国における正体を見たイザナキも「見畏みて逃げ還る」。

 たった今まで通常に対話していたイザナミが、突如としてヨモツ神の宮殿の中に腐乱死体として横たわっているという論理は、現代人に解しがたいところであろう。それに比べれば美しい海神の姫が大鰐に化身するというのはまだ理解しやすいかもしれない。しかしそれにしても五十歩百歩といえようか。ホオリという地上界の人間が異界で結んだ契りとは、それほどに無と隣り合っていたものだった。海上界の者にとっても、地上界との間に結べる関係は、それほどに稀薄な危ういものであった。この事の中に両界間の間柄があったことを、この化身は示している。

 神女が「海坂(うなさか)()へて返り入りましき」というのは、この間の隔絶を宣言したことばである。イザナキ神話にあっては、驚いて逃げ帰ったイザナキが千人をもって引く巨石を「黄泉(よも)つひら坂」に立てふさいだという。もうここからはイザナミも追って来られない。この坂において二人は「ことど」を渡す。「ことど」とは絶妻の誓、二人の関係を絶つ呪言である。また、先にもふれたように、根の大神スサノオも「黄泉つひら坂」において去りゆく娘と聟とに対して呪言を発する。

 坂とは境でもあって、これらすべての坂が「塞へ」られていないことによって、両界は交通が可能だった。もちろん、具体的にこれらの坂がどこにどういうふうにあったかを問題にすることはできない。「出雲風土記」には、さる洞窟をさして「黄泉の坂、黄泉の穴」と呼んだといっているが(出雲の(こおり)宇賀(うが)(さと))、もちろん死の恐怖を湛えた場所をそういっただけで、広大な死界を、そんなふうに局限していうことはできない。海坂に到ってはなおのこと空漠としていて、それがどこだというふうにいえるものではない。遠い海上彼方にたしかに存在はするが、どこという場所を意識したものではなかった。

 しからば一層、心理的に確実に存在するのが坂(境)で、もうここを閉じたのだといってしまえば、求めるべき国土には永久に到りえないのである。海坂をとじた今も、もう海彼には到りえない。そんな時、逸脱していった本郷に帰りえたからといって、ホオリに漂泊の思いはもうなかったろうか。また逆に、求め赴いた地上界からさし戻されて、海坂をとざしてしまった豊玉毘売は、海の本郷に帰ったからとて、漂泊の情は消えたであろうか。なまじ両界にわたってしまったものの悲しみを、古代人もよく共感しえたであろう。

 それを示すものが、記紀とも珍しく登場する歌の贈答であった。もう交渉がかなわないのに贈答ができないではないかという、一見の合理はさかしらというべきだろう。女は男をたたえ、男は女を忘れがたいと歌う。

 その点は浦島伝説でも同じで、風土記のそれは男の歌、神女の歌また男の歌と並べ、さらに後の人の心を合わせた歌二首と、合計五首もの歌を載せている。

 これらの歌によって語り終らざるをえなかった心情は、「本つ国の形」をほとんど死者の形と同列におくような隔絶感と一連のものであり、隔絶感とは漂泊者の心情の傷みであったと思われる。

 

 

  血の中の母郷思慕

 

 さらにこの神話における漂泊感は、これだけにとどまらなかったようである。海岸に遺棄されたウガヤフキアエズの後は、どうなったか。

 この皇子が母の妹たる玉依毘売(たまよりびめ)を妻としたことはすでにふれた。古代王権の論理の中には「(をば)の力」ともいうべきものがあって、姨(叔母)を妻とすることによって王者となる、という考えがあった。多少の説明をすれば、そもそも古代王権は男性の行政権と女性の祭祀(さいし)権との合体によって成立したから、夫婦のそれぞれがこの両権をもって王者たる場合や兄妹がそうである場合があった。この後者の場合、兄たる王が死んで、その子が王権を()ぐ時には、なお存命して保持している妹(先王の)の祭祀権が必要になった。つまり姨の祭祀権を合体させることで、子の王権は完全になるのであり、ここに「姨の力」が要請されるのである。その点からいえば、ウガヤの王権が確実に成立したことを語る結婚であった。海神の娘のうんだ子は、地上界の完全な王となった。

 そしてウガヤは多くの男子を得た。諸伝にほぼ共通するのは四子、イツセの命、イナヒの命、ミケヌの命、若ミケヌの命だという。このうち若ミケヌは後の神武天皇、天皇の初代である。長兄のイツセも神武とともに大和遠征を目ざし、武運つたなく賊の矢によって命をおとす。

 そこで残りの二子だが、「古事記」には面白いことが書いてある。

 

 御毛沼(みけぬ)の命は、波の穂を()みて常世(とこよ)の国に渡り()し、稲氷(いなひ)の命は、(はは)の国と()海原(うなはら)に入り坐しき。

 

と。書紀には伝えない所伝だが、これによると四子は東の方に移動していったものと海彼界へ帰っていったものとに分かれ、それですべてとなる。東方への遠征はまた後にふれるとして、中でも目をひくのは二子が海彼の常世の国と海原の(はは)の国とに赴いたことである。

 一応、常世の国を海彼の国と同一と考えると、二人の御子は豊玉毘売の国を母郷として、そこへ帰っていった。祖母は海坂を塞えて現し身を地上世界にとどめることはできなかったけれども、なお血の中に海の世界は生きつづけていたのであって、異界から地上界という他界へもたらされたものは、血統の中にただよいつつ、継承されていた。血の中に生きた漂泊性といってよいか。三代を経過してもなお母郷を志向することにおいて、他界からの何物かは、地上に定着することを欲しなかったさまが、激しくわれわれの心に迫る。

 このような語りを前にして、たやすく連想される説話は、逸文の「山城(やましろ)風土記」に見える賀茂の社の縁起である。そこに説くところによると、まず、賀茂の建角身(たけづのみ)の命は日向の()の峯に降臨した神だという。ホオリは日向の()の峯に降りたニニギの尊の子である。そして建角身はやがて神武とともに大和の葛城(かづらき)の峯に遷り、またそこから山城の岡田の賀茂に到って山城川を下り、さらに久我の北の山麓に(しず)まりました、という。

 ここに語られるものは後に多く述べなければならない流離者と同じタイプの語りであるが、さてこの流離、漂泊の神の子を玉依日子(たまよりひこ)玉依日売(たまよりひめ)といったという。これまたホオリ神話の神女と名を一致させる。そしてこの玉依ヒメがある日小川で遊んでいると一本の朱塗りの矢が流れて来た。ヒメがこの矢をもって帰って床の傍においておくと、いつか身は妊娠し、一人の男子を出産したという。正体不明の神が化身してヒメに近づき、聖婚が行なわれたのである。

 そこで祖父の建角身が壮麗な館を建て、多くの酒を醸造して神々をよび集めて七日七夜の酒宴を催した。そして孫の男の子に言うには、

 

 汝が父と思はむ人にこの酒を飲ましめよ。

 

と。すると男の子は、

 

 すなはち酒杯を(ささ)げて(あめ)に向かひて祭を為し、(やね)(いらか)を分け穿(うが)ちて天に昇りましき。

 

という。この子の名は賀茂の(わき)雷の命、父は実は()の雷の命である。風土記はそう伝えている。

 雷神の化身と玉依ヒメとの間にうまれた子は、屋根の瓦を破って「父」の許に帰っていったのである。いかにも雷神らしく瓦を破って天に昇っていったが、さてそのさまは「波の穂を跳みて」帰っていったミケヌの命そっくりである。そして帰っていったのは父のいる母郷、「妣の国」へであった。

 漂泊者の娘を霊魂の依り()く姫としている点も類似するなら、玉依ヒメの子が母郷へ戻っていくという点も共通する。そして何よりも漂泊者自身がホオリと同じ日向をもって語られる点にも深いつながりがある。母郷の方向は違うにしろ、ここにこめられた心意は、ほとんど同一のものではないかと思われる。母郷へ帰った子の父も、矢となって川を下ってきた外来神なのである。

 漂泊者の母郷思慕が血の中にひきつがれるのだという精神は、このように普遍性をもって語られるほどに、古代日本人の中に根強かったようである。ホオリや浦島の漂泊、海神の娘の漂泊に加えて、なおそれに尽きない漂泊性を、異界訪問者のその後に彼らは見ていたのである。

 

 

   楽土としての海彼

 

 私は右に、常世の国を妣の国と一応同じとするといったが、もちろん、本来的に同じものではない。常世とは永遠の生命の国であって、そのゆえに不老不死の国であり、時間の制約の外にあることをもって、生まれいでて年齢を重ねる以前の、生命の根幹の国「根の国」にもなる。また現世の年齢をおえたものの国として祖霊の国であり「妣の国」でもある。そのような観念上の習合が、常世の国、妣の国、そして根の国を一致させて、またその具体的な方位を、海上かなたに想定させたにすぎない。

 したがって、これらの関連のうち、常世の国はもっぱら不老不死の理想境として想像されており、先に述べた如き死の世界に共通するような印象は、この中にはない。現世の三百年がその三年にあたるという百分の一の時間の進行も、それとてもなお不足なほどに時間の外にある。一切をあげて理想をこの中に具現しようとする如くである。

 右のホオリ神話にも豊玉毘売という美女と結婚するくだりがあるが、浦島伝説の中にも壮麗な宮殿における豪華な生活が描かれる。衣食住に恵まれ美女と結婚するというのが、多くの説話を通して見られる、庶民の男どもの物悲しい憧れであって、これもそれをいうものである。

 総じて、このような理想境に達しえたのだから、本国に戻る筋立てをどう構想するかが問題となるが、ホオリ神話では失った針を求めて返すという最初の約束を果すことをそれとし、浦島伝説では故郷回顧、父母への思慕をあげる。これら約束とか故郷・父母への情とかというものは、きわめて現世的なものであり、それを捨てることによって常世の生活がなり立つことを、裏がわから説明するくだりともなっている。

 実は、このところに常世の国のもっとも大きな問題があった。そこが一切をあげての楽土であるなら、世俗にかかわるもろもろ、人間たることの一切を捨てなければならない。そういう約束の上に成り立つ国が常世である。にもかかわらず、これらを価値と考えるのは、人間の立場においてである。人間を廃業して常世の価値はない。たとえば死者は常世と同じ条件になるのだから、それを欲すれば死ぬのがよいだろう。しかし、そのようなことは考えない。生きながら人間としてある上で常世を欲するのである。

 例のタジマモリ(田道間守、但馬の主の意か)の話は、この辺の事情を強力に語っていまいか。彼は垂仁(すいにん)天皇から命ぜられて常世の国に渡り、「非時(ときじく)(かぐ)(このみ)」をもち帰ったという。書紀によると十年後、苦難の末に帰ってくると、もう天皇は死んでいた。命令を果たしたと報告できない以上、生きていても仕方ないといって、タジマモリは自害した、という話である。

 非時の香の菓とは具体的には(たちばな)のことだといわれるが、これを時を定めない香ぐわしい果実という時の「非時」とは、四季に常緑であるとか冬枯れの中に実を輝かしているとかという具体をこえて、その中に宿っている生命力そのものを意味することばだろう。これを常世の国に求めたというからには、ほとんど不老不死の薬と同じといってよい。

 しかし非時の果実は、常世にあってこそ非時なのであって、現世にもって来てしまうと不老不死の薬といったような、空想以外の何物でもなくなってしまう。タジマモリの説話が不死物獲得の成功を語ったと同時に、もう現世における無効性が約束されてしまっていた。天皇の死および彼自身の自害は、それを具体的に言いなおしたにすぎない、必然的なストーリーであった。それはまったく、玉匣と同じであり、これをもって現世に戻ることは、開けることを、無効になることを必然的に語ってしまうのである。海神の娘の出産を見たと語るのとも、ひとしい。

 海彼の国がこのような常世に擬せられるようになると、もうそこは一方的な憧憬の地となってしまって、そこから戻ることなどはありえなくなる。ホオリのように、帰ってからも通常でいることなど、話として成り立たない。浦島のごとく忽ちに老人となり、直ちに死ななければならなくなる。タジマモリのように自害し、天皇も彼自身も「非時」の享受者として生存することは許されなくなる。

 また、その国の人間が地上界にやって来るとか、その子を地上の人間として遺し去るとかといった交通も、考えがたい。地上の反秩序者が到って、その呪力を付与されて無事に戻ってくるといった漂泊談も、異界に拒否されてさすらい戻るという物語も、ましてや異界者間に人間がうまれ、後に血を伝えるという神話も考えがたい。ホオリ型の漂泊は、常世観の増大とともに消滅していくしかない。

 そうなると、もう一方的に彼土(ひど)への憧憬に身をなげうち、ただ一途(いちず)に身を波浪にゆだねるという方法だけが残される。後世の補陀落渡海(ふだらくとかい)に身を滅ぼしていった僧たちの漂泊心が、それである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/09/12

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中西 進

ナカニシ ススム
なかにし すすむ 国文学者 1929年 東京に生まれる。日本学士院賞。

掲載作は、1978(昭和53)年1月毎日新聞社刊『漂泊―日本的心性の始原』の一章を抄出したものである。

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