生命の傳統
目下のわが思想界には二つの大きな潮流が流れてゐると見てよい。その第一はニーチェやベルグソンの哲学を祖述した、またそれから暗示を得てゐる、または是等の者を誤り伝へた個人主義で、
生命の特徴はその個性にある。個性の無いところには生命はない。「我」は我である、「我」は独存である、「我」は無比較である。個性の滅却は生命の破産であり、創造の空尽である。かるが故にあらゆる物を犠牲としてもこの個性を発育充実せしめるのが生命の本然に
然し、生命の樹は独立して発育するが、その根は大地に降りてゐて、どの樹も同じく、土の乳房から栄養を受けてゐる。個性の破滅が広い生命の損失であるからには、それは宇宙と係はる所がなければならない。
各自の個性が絶対独立であるならば、それは何物とも没交渉で、従つて無価値でなければならぬ。個性の価値が認められるほど、それは一般との深い交渉の存在を意味してゐるのである。樹が大地に根をはやしてゐるやうに、我等の個性は宇宙との交通を求めてゐる。かるが故に個性は独立ではあるが、孤立ではない、より広く個性が宇宙間に滲透するほど生命の価値を生ずるといふのが、一方の無限実現論者の主張である。
充実は排他に由つては遂げられない。孤立した個性がどこから栄養を得て充実されようか。また拡大は棄我の手段のみでは全くない。次第に自我を薄めて行く拡大は
この世の中に於て、個性と無限との対立ほど神秘なものはない。その対立を絶対と見るか方便と見るか、または憎みの分離と見るか愛の分離と見るか、個人主義と無限実現論との分れる点である。絶対個人主義は奇怪にも、拡大された人間神の影坊子を出して、その背景たる自然の蔭を極度に薄らめようとしてゐるに反し、無限実現論は白熱化された大自然の中に薄い光のランプのやうに人間を
絶対個人主義者が殊更に他を敵視して、知らず識らず自我の周囲に造る障壁は、最も恐るべき因習で、不自然な人為的個性である。我等は之を、生命がその進化の必要から「愛の分離」に由つて樹てた本然の個性と区別せねばならぬ。前者は仮相で、後者が真相である。前者は反撥的であるが、後者は親和的である。前者は因習となつて生命の進化をさまたげるが、後者は伝統として現はれ生命を鼓舞激励する役を務める。
こゝに伝統とは種の有する天然的特性で、人類に於ては各種属の民族性から下つては各個人の個性をも総括した言葉である。生命の自然的伝統は先づ我等をして個人的自覚を起さしめ、之を推し拡めては民族的自覚に到らしめ、更に之を推し拡めては人類的自覚に到らしめる。伝統は大自然が方便の為めに造つた差別で、生命の進化の障害であるが如くにして、また我等が広い生命の自由に到達する唯一の関門であり或は足場である。生命その物が
されば生命の無限の道から大観すると、個人も、民族も、人類も、やがては超越さるべきものである。否な、個性は民族性に、民族性は
「汝は人類を
生命の伝統から推せば、我等の最初の自覚が個性の実現にあることは言ふまでもない。されば個人主義の主張は最も自然で、且つ人類の踏むべき第一歩である。しかし其処へ因習がくる。我等の愛の自覚が先づ近親の者から眼醒め始めると、そこへ利己的分子が挾まつて、折角燃え出した純愛の火を消し止めるやうに、我等の生命の自覚も多くは個性の範囲に止まつて了ふ。我等の小自我がそこへ「蒙昧」の障壁を築く。で、その障壁が高く厚く築き上げられるほど、我等の個性の影は病的に拡大せられて、それから個人の為めの個人主義、或は絶対個人主義が起るのである。
正当の個人主義は生命の為めの個人主義でなければならない。個性の為めの生命であつてはならない。生命の自然的伝統は我等をして先づ個性に自覚せしめ、次に民族に自覚せしめ、更に人類に自覚せしめる。個性が充実され拡張されて民族性に、民族性が充実され拡張されて人性に——かうして幾多の伝統の関門を
個性も、民族性も、人性も遂には超越さるべきもの、苦み上げらるべきものとしたら、無限実現説は唯一の真理ではなからうかと言ふ人があらう。之は至つて
生命の進化と創造とには限りがない。我等は一挙にして無限を飛び越すことが
要するに、絶対個人主義は小自我の因習に囚はれたものであり、無限実現説は生命の伝統を無視したものである。我等をして人為的因習の障壁を破らしめよ、そして生命の伝統に準じて自然の発達を遂げしめよ。宇宙と個人との関係を正しき位置にもどして、包容的な世界観の上に我等の人生観を立てしめよ。換言すれば、広い生命の真要求の中に赤裸々な我等を置かしめよ。
生命の樹はその種子からのみ
かるが故に我等は生命の正しき伝統を
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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