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君民共治之説

 政体の名称数種あり、(いは)く立憲、曰く専制、曰く立君、曰く共和なり。其事実に就て之を校するときは立憲にして専制なるあり、共和にして立君なるあり、共和未だ必ずしも民政ならずして立君も亦た未だ必ずしも民政ならずんばあらず。今や海内(かいだい)の士皆政治の学に熱心し政体の是非得失を講ぜざる者なし、(しか)るに東洋の風習常に耳を(たの)みて(かつ)て脳を(えき)せず、形態を摸擬して嘗て精神を問はず、(こゝ)に於て耳食の徒往々名に眩して実を究めず、共和の字面に恍惚意を()して必ず昔年(せきねん)佛国の()せし所を為して以て本邦の政体を改正する有らんと欲する者亦其人無しと為さず。其迷謬(めいびゆう)(もと)より不学寡聞の致す所にして未だ深く咎むるに足らずと(いへど)も、今にして其惑(そのわく)を弁ぜずんば(たゞ)(しゆう)(びよう)淆乱(かうらん)(おほひ)我儕(われら)自由の暢路(ちようろ)妨碍(ばうぐわい)するのみならず、亦た恐らくは蠧毒(とどく)侵蝕(あん)に国家元気の幾分を戕賊(しようぞく)する有らん。(しかれ)ば則ち此惑を弁ずること亦た方今の()さに務むべきの急たり、故に一日の紙上を費し(いさゝ)か之を弁説せんとす。

 共和政治の字面(じづら)たるや羅甸(ラテン)語の「レスピュブリカー」を訳せるなり。「レス」は物なり「ピュブリカ」は、公衆なり、故に「レスピュブリカー」は即ち公衆の物なり公有物の義なり。此公有の義を推して之を政体の上に及ぼし共和共治の名と為せるなり。其本義(かく)の如し、故に(いやしく)も政権を以て全国人民の公有物と為し一に有司に(わたくし)せざるときは皆「レスピュブリカー」なり、皆な共和政治なり、君主の有無は(その)問はざる所なり。然れば則ち今に於て共和政治を立てんと欲せば其名に就て之を求めん()(はたま)た其事を取らん乎、其名に就て之を求むるときは古昔(いにしへ)ウェニース国の如きも亦た称して共和と()へり。然れども其実は決して人民をして其政治に干預せしめたる者に非ずして衆貴族(しゆうきぞく)相合議(あひがうぎ)して之れを行ふに過ぎず、是れ()に真の共和政治ならんや、独り此れのみならず、即ち見今(いまみる)佛国の共和政治の如きも之を英国立君政体に比するときは共和の実果して(いづ)れに在りと為さん()。是れに由りて之れを観れば、共和政治(もと)より未だ其名に眩惑す可らざるなり、(もと)より未だ外面の形態に拘泥す可らざるなり。

 (こゝろみ)に英国の政治を看よ、其名称其形態(ひとへ)に厳然たる立君政治に非ず()、然れども其実に就て之を考ふるとき(がう)も独裁専制の(あと)あること無く、其宰相は則ち国王の指命する所なりと(いへ)ども、然れども要するに議院輿望(よばう)の属する所の(ほか)に取ること(あた)はず、究境挙国人民の公選する所にして、北米聯邦人民の大統領を選すると異なること無し。其法律は則ち挙国人民の代員の討論議定する所にして、固より二三有司の得て出入(しゆつにう)する所に非ざるなり。是は則ち宰相を選する者は人民なり、之を執行せしむれば、則ち行政立法の権並(ひとへ)に皆人民の共有物なり、其君主の如きは特に人民をして立法行政二権の間に居て之れが和解調停を為さしむるに過ぎざるのみ、官として夫れ然り、是を以て共有ならざるは無く、省庁として共有ならざるは無し、是にして「レスピュブリカー」に非ずと()はゞ世界何物か之を「レスピュブリカー」と曰はんや、「レスピュブリカー」なる者の形態に(こだわ)(べか)らずして共和政治の名称に惑ふ可らざこと以て観る可きなり。

 (けだ)見今(いまみる)共和政治の名称に惑ふ者其党分ちて二と()す。曰く共和政治を忌悪する者なり、曰く共和政治を景慕する者なり。之を慕ふ者の説に曰く、共和を以て政治を為すときは()た君と民とを別つ可らずと、其意(けだ)し必ず米国(もし)くは佛国の政体の如くにして後已まんと欲す。之を忌む者の説に曰く、若し共和を以て政治を為すときは()さに我君を(いづ)れの地に置かんとする()と、其意蓋し我邦の必ず米国(もし)くは佛国の如く絶て君を置くこと無きに至ることを(おそ)るゝなり。是れ皆皮相の(けん)のみ、形態に拘るの論のみ、設令(たとへば)前説の人をして眩惑して(めぐ)らず終に其為す所を為さしめば其禍(もと)より測る可らず、後説の人をして其志を得せしめば則ち圧制束縛の政益々力を逞くして其害も亦必ず、言ふに()ゆ可からざるに至らん。嗚呼(あゝ)毫釐(がうりん)の差にして千里の(びゆう)を致す寒心せざる()けん()仲尼(ちゆうじ)曰く必ずや名を正さん()と、名の正しからざる一日数千萬の善男子をして長く五里霧中に彷徨して(いづ)る処を知らざらしむるに至らん、是れ乃ち吾儕(われら)の「レスピュブリヵー」の(じつ)を主として其名を問はず、共和政治を改めて君民共治と称する所以(ゆえん)なり。君民共治の方今(いままさ)に行はるゝ者は()きの所謂(いはゆる)英国是れなり、嗚呼人民たる者能く政権を共有すること一に英国の如くなることを得ば此れも亦以て(うらみ)無きに(あら)()。誠に(かく)の如くなる日は前説の人(うらみ)を留むる所無くして、後説の人も亦(うれひ)(いだ)く所無きを得ん。

 

(東洋自由新聞、第三號、明冶一四・三・二四)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/08/08

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中江 兆民

ナカエ チョウミン
なかえ ちょうみん 思想家 1848・11・11~1901・12・13 高知県高知城下山田町に生まれる。東洋のルソーと呼ばれまた闘士と呼ばれた政治家志向の、しかも和漢洋に視野と見識の及んだ堅実な経営思想をもち時代に重きを成した。

掲載作は、1881(明治14)年3月24日「東洋自由新聞」に掲載され、憲法や政体の在るべきを示唆し、感化は新憲法にも及んでいる。

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