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足袋あまた取り込みて来て木蓮の花散らしたるごとき夕闇

 

住み捨てし家の扉の大き鍵文鎮に使ふうつくしければ

 

御仏の御手を憎めり(いつ)としてわれを抱き給ふ形なかりき

 

メタンガスふくむ泥土(でいど)に生きむとし小さき貝ら呼吸穴(いきあな)をもつ

 

とぎたての鋏白布(はくふ)をすべるとき海見たくなりぬ夏潮の海

 

稜線に消えたる人とわれと引く砂丘に鎖なせる足跡

 

蟹の甲青きが光りゐる厨潮騒(しほさゐ)の如き胸の葉もれ陽

 

登りゆきて雲とまがへる白煙を常噴く阿蘇は静かなる山

 

冬にして一つの転機われにあり真北に向きて窓ある個室

 

陽に映えて雲のゆききの見ゆる窓北にありたり北を愛さむ

 

水瓶に水満ち塩は壺に満ちわが少女期の清き思ひ出

 

人通り少なきところ選びしにあらざるを月の坂わがひとり

 

青き海もたたなはる山もつひに見ず一夏(いちげ)を過ぎて紺の帯買ふ

 

見はるかす古城の秋の千曲川はためく旗の如く流るる

 

イエズスは粗布(そふ)をわづかに巻きしのみわが乳房神は何にて被はむ

 

半眼に哀れむ微笑弥陀仏を今日より永く永く憎まむ

 

陶の類あまたを捨てぬ直会(なほらひ)に来る血族はもうあらぬなり

 

一枚の藍の布置く初夏を根来(ねごろ)の卓に憩はしむべく

 

誰も来ぬ玄関の繪を夏に代へ風吹けばかたこと鳴りて壁打つ

 

一人居を人問ふほどに思はねど物煮ゆる音何と淋しき

 

子をなさねば未だ乳首のととのはぬ胸もてりけり苺を洗ふ

 

消えたつていいのに燻りつづける火 誰か息荒く吹いてくれぬか

 

三度目のじやが芋の芽をゑぐり居りこのしぶとさを少し愛して

 

鮑のわた酒の肴に()みゐたり夫の齢を過ぎてたのしむ

 

沈むまで時かけて待ち注ぐなり静かにひとり深夜の玉露

 

細き御手合せ阿修羅は祈り給ふ 仄哀しみの御眉(おんまゆ)にあり

 

さやうなら別るる時に笑まひ言ふ逢ふ日またあるやすらぎにゐて

 

まあだだよばかり聞きゐてもういいよ終に聞かざりし耳を疑ふ

 

上り坂下り坂長い一生(ひとよ)にはまさかとふ急坂其処ここに在る

 

男の子の喧嘩のやうな風が来てちぎれるばかり鳴れる風鈴

 

持ち()みし未練は春の鞦韆(ブランコ)に腰掛けさせて置き去りにせむ

 

腕しびれ春あかときに覚めし夢首抱かれゐて見し喉仏

 

土踏まず夏の砂より知らざりしをある夜の人の(くち)が盗みぬ

 

咲き(さか)る花緋つつじの緋のなかの独りをふいに泣きたくなりぬ

 

(おき)のごと埋火(うづみび)のごとき温もりに吹きよる風のあれば燃ゆるか

 

病む半顔(はんがん)朝は見らるることなしに道路(みち)のくぼみに灰捨てにゆく

 

妻をつれ子をつれ()等はむきむきの旅住み長し(はは)一人老ゆ

 

家遣るといへど欲しとふ一人なし家に付きたる姑一人ゐて

 

死にゆきし君が一生(ひとよ)の寂しさを(すすき)の風の白きに見をり

 

火口経て向ふ断崖に立つ一人女人と知りて高く手を振る

 

一望の棚田の風に吹かれ来てなほ青き瀬を渡りゆく蝶

 

一日が西にかたむく片時をしばし陽のさす窓の外の道

 

思ひ出は唐突に来て(かたは)らに粗品(そしな)のごとく哀しみをおく

 

菊の花干ししを氷にもどしをり夏風邪の口養はむとて

 

()しし初夏の青嵐そこばくの水銀ふくむ髪の騒立(さわだ)

 

闇の冷気(ぬか)につめたしハンカチに覆へばわれの死顔見ゆる

 

おばしまの明るさのなか金堂は森閑として廣き闇抱く

 

放ちやれば鱗粉白く残しゐて蝶は盗めり渦巻く指紋

 

いぎたなく紫陽花のはな雨にかしぐ老残のわが目のゆくところ

 

自作自演一人芝居のあけくれの科白(せりふ)なき日の雨を見てゐる

 

そこいらに置けば誰かが拾ふかも知れぬ哀しみは吹き飛ばさうよ

 

なるように成りし一生(ひとよ)かとぼけ顔の泥鰌のアップテレビは映す

 

皺くちやになりし心を小春日の影に破られぬやうに()し居り

 

網膜に()しき緑の輪光あり消灯の闇に探る不整脈

 

生きてあることが難しくなりてゆく冬用のもの何と重たき

 

かさこそと秋と冬とがささやき合ふ銀杏の金の吹き溜り道

 

二の酉も昨日か過ぎし出し放しの扇風機部屋の隅にまします

 

砂時計ひつくり返して睨みをり最後の一分何とも速い

 

勿体なき時間を量で計ること ああ砂時計神は作らざりしを

 

百円で明るくなりし勝手元プラスチックの真っ赤な漏斗

 

傘さして橋渡る人画面には見えぬ小雨に濡れゐる欄干

 

九九四一の電話番号(テレホン)イヤと友の言ふあらいいじゃないの此処よい此処よい

 

躓いて傷めた足を引きずって此処までは来た(うづくま)るのは(いや)

 

突然に電話もあらず老いが来て身内顔してどつかと居座る

 

骨よりも堅き歯を噛む虫のゐて九十道(くそぢ)(つひ)に親知らず抜く

 

食べることの(ほか)はせざりし一日を悪事のごとくかへり見て寝る

 

鳴き交す鴉に美醜の声ありて青葉の朝の賑ひとなる

 

ベランダの柵越しに流るる鯉幟りアパートの五階男子(おのこ)()れたり

 

手の鳴る方へ手をのばせども掴まへしものはなかりし鬼も私も

 

一抜けた二抜けた鬼も三抜けてまだ明るきに蝙蝠の飛ぶ

 

白き犬うづくまりゐる藤棚は藤豆となり揺ぐ木陰に

 

電車も人もあらぬホームの皓々とバスが踏切り越ゆる一瞬

 

色もなく香もなく姿あらざれば音もなく生を侵しくる(とき)

 

土用あけのざんざ降りよきおしめりと歳相応の視野に見てゐる

 

取り込みし陽の温もりもたたみ入れて夏の肌着の洗ひ納めなり

 

今秋が来たやうに吹く風ありて単衣(ひとへ)に羽織る毛のちやんちやんこ

 

そよろそよろ老女出でくる厨口(くりやぐち)自服酒点前(さけでまへ)これよりなさんず

 

秋の夜の酒は静かに飲むべしとしづかなり独り(はい)を置く音

 

釦一つ月の光に濡れて落つ拾はむか拾はずにゆつくり立去る

 

二十分の点の箇所にて秒針がかすかにたぢろぐを風邪の目に捕ふ

 

よく病みてよく読みし千九百九十九年静かに謝して送りやらばや

 

手がのびしところにありし本を取る俵万智氏の"かぜのてのひら"

 

ばつさりと造花のバラを捨てて来ぬ今年最後の不燃ごみの日

 

どすぐろき老人紫斑手の甲に足に生きつぐ日々を印せる

 

花吹雪散華(さんげ)六根清浄(ろっこんしょうじょう)の冥土への道 医者よりかへる

 

生垣の赤きつつじも咲き終り死産とききし日も遠のきぬ

 

形見とも思ひて飾る兜なり雨の小部屋の少し明るむ

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/06/04

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石久保 豊

イシクボ トヨ
いしくぼ とよ 歌人 1907・6・30 東京都文京区に生まれる。結社「潮音」に有縁の無所属歌人。すでに九十路をはるかに越えて病を養いながら、短い小説や随筆を老人たちの仲間誌に書き継いできた。創作短編「ぬくもり」など一部マスコミも嘆賞した若やいだ秀作であった。

掲載作は、2004(平成16)年5月「電子文藝館」の請いにより静岡の病床からの自撰八十八首、やがて白寿の人生を深々と顧みて哀情切々、胸に迫る「うったえ」の「歌」からは、名歌と称して憚りない作が何首も拾い出せる。随筆も消息も端倪すべからざる切れ味鋭い観察がいつも具体的で、野に隠れた女兼好の概あり。

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