最初へ

討入

   浪 居

 

 元禄十五年十月七日、山科(やましな)棲居(すまい)を四条梅林庵へ移していた大石内蔵之助(くらのすけ)はいよいよ東下する事となった。「日野家用人垣見五郎兵衛」と書いたる会符(えふ)を荷物に打たせ、潮田(うしおだ)又之丞(またのじょう)、近松勘六、菅谷(すがや)半之丞、早水(はやみ)藤左衛門、三村治郎左衛門(ほか)三人の小者を連れていた。

 鎌倉雪ノ下の旅館に留まる事三日、吉田忠左衛門に江戸の模様いかんと聞き、武運を鶴岡八幡(つるがおかはちまん)に祈りて、二十五日立って、二十六日、武州(ぶしゅう)橘樹郡(たちばなごおり)下平間村(しもひらまむら)なる富森助右衛門が寓居に入る。助右衛門が村人に字を教えていた所で、此処に同志の三五を招いて吉良(きら)の様子を窺っていた。愈々(いよいよ)身辺危き事無しと知って十一月三日、石町(こくちょう)三丁目小山弥兵衛が店へ移った。此処に住む者九人、大石主税(ちから)の垣見左内、小野寺十内の仙北十庵、近松勘六の森清助、潮田又之丞の原田斧右衛門、(ほか)大石瀬左衛門、早水、菅谷、三村の人々である。

 ここに本部を置いて同志は吉良邸の近くに(きょ)を定める。本所相生町(ほんじょあいおいちょう)二丁目、即ち吉良家の裏門近くには前原伊助が米屋を渡世として名を五郎兵衛、神崎与五郎がその店の一部を借りて穀物を並べ小豆屋(あずきや)善兵衛、倉橋伝助に岡野金右衛門の二人が番頭、小者(こもの)の役を勤めて、店先で小豆をより分けて居る。

 同じく本所徳右衛門町一丁目には杉野十兵次、勝田新左衛門、武林唯七、矢ノ倉に堀部弥兵衛、林町五丁目に堀部安兵衛、毛利小平太、木村岡右衛門、横川勘平、鈴田重八、小山田庄左衛門、中村清右衛門、南八丁堀湊町には片岡源五右衛門、貝賀弥左衛門、大高源吾、矢頭(やとう)右衛門七(えもしち)、田中貞四郎、芝源助町には磯貝十郎左衛門、茅野(かやの)和助、村松三太夫、深川黒江町には医師西村丹下(たんげ)と称して奥田孫太夫、同貞右衛門の父子。芝浜松町には赤埴源蔵(あかはにげんぞう)に矢田五郎右衛門、麹町五丁目には吉田忠左衛門が兵学者と称して田口一真と名を変え、原惣右衛門、不破数右衛門、寺阪吉右衛門がいる。

 同四丁目には中村勘助に間瀬久太夫父子、岡島八十右衛門、吉田沢右衛門、村松喜兵衛、小野寺幸右衛門が匿名しその下僕として世を忍んでいる。同じ町に同じ家業で千馬三郎兵衛、(はざま)喜兵衛父子に中田理平次、同五丁目に富森助右衛門。

 中にも前原伊助の所は一番吉良に近いから同志の内で目立たぬよう手伝いにくる人々もある。火事だと云うと屋根へ登って邸の内を窺う。買物にくると価を引いて歓心を求める。とうとう子守と関係をしてその口からいろいろ聞出した人さえあったという。その内に堀部安兵衛が吉良邸の前住(ぜんじゅう)松平登之助(のぼりのすけ)から絵図面を手に入れた。それでほぼ位置は判るが「抜穴がある」とか「竹垣の防備がある」とかいろいろ噂を聞くたびその実否を確かめんと苦心をした。

 

   探 査

 

 吉良上野(こうずけ)平常(ふだん)本所に居るが、出たとすれば桜田門外の上杉家上屋敷への(ほか)へは行かない。上屋敷へ行った時に本所へ乱入しても無駄であるし上屋敷へは到底五十人の人数で討入る事は出来ない、と云って途中で討取るには若し邪魔が入らば事である。上野が邸にいるのを突止めて討たなくてはならぬと上野の出入を注意する事になった。上野もその事は十分に承知しているから格式などの事は少しも意とせず供廻(ともまわり)を変え、乗物を変えて出るから、それを一々()けて行って、とんでもない所へ行ったり人ちがいで有ったりした事もある。

 内蔵之助はそれに対して昼夜四人ずつの人を置いて見張とした。風の日、雨の夜、雪の日、嵐の夜、二人ずつ交代で本所と芝の途上に眼を配る。その内に老中小笠原佐渡守の出入り茶道(さどう)、山田宗(へん)というのが吉良邸へ出入する事を知った。かねて上野の茶道に(たしな)める事を知っていた内蔵之助は屈竟の手蔓として、この道に心得深き大高源吾を商人に仕立てて宗(へん)の門人とした。ある日源吾が指南を受けて帰る時、

「こんどは六日に参ります」

というと宗(へん)

「さ、六日は吉良殿の朝会で、七日なら」

と云ったので、源吾喜んで此日は上野必ず在邸のよし、大石の所へ知らしてきた。

「六日の朝が会だと五日の夜はいるにちがいない。さらば五日夜に討入ろう」

 と定めて同志に伝える、討入の道具は吉良邸の近く、安兵衛の所へ全部運んである。槍、長刀(なぎなた)(まさかり)、弓、半弓、竹梯子、玄能(げんのう)、掛矢、(かすがい)、金槌、取鍵、松明(たいまつ)、小笛、龕灯(がんどう)(かね)である。これを張籠へ入れて門前まで運ぶのである。

 神崎与五郎、かくきまる上はいよいよ出入の監視が厳重であると、店先で見張っていると五日の朝、一挺(いっちょう)の乗物が出た。素破(すわ)とあとをつけると、上杉家の裏門へ入った。そしてとうとう出て来ない。内蔵之助にこの事を報じると源吾からも同時に六日の会は御流れになったと云ってきた。

 人々の気は張つめている。長引いて内蔵之助上京の事が判ると又面倒である。それに年の暮となっては世間が騒がしくなり町の取締も厳しくなる。十五日の節分、この日なら必ず在邸するだろうから、その日に討入ろうと専ら手運(てはこび)をしていた。ところが横川勘平の馴染の茶人から十四日に夜会があるという事が判ってきた。さらば十五日を待たず、その日に討入ろうという事になった。

 

   心 得

 

 兵学に()けたる吉田忠左衛門と内蔵之助は、あらかじめ本所の近くの地理をさぐって手筈をきめておいた。引揚げ場所は回向院(えこういん)、吉良の人々が追ってきたなら何処で防ぐ、上杉家の援兵が出たらどうする。距離がいくらあるから馬上で幾刻(いくとき)かかるから、幾刻に討入って幾刻までに討取る、引揚げる路は何処を通って、何処で上杉の家来に出会ったら、どうして防ぐか、細かい注意は出来上っていた。それに討入当日の「人々心得之覚書」というものがある。

 

 一、日が定まったなら前日中に三ヵ所へ集る事

 一、その日は定めある刻限に打立つ事

 一、敵の印を揚げたる時は引取るべき場所へ持参の事、首はとり次第上着を剥いで包む事

 一、途中で見分に逢わば、亡君の墓へ持参したいと云う事、もし許さなければ、その人の指図を受ける事

 一、上野(こうずけ)(そく)の印は討っても捨てておく事

 一、味方の手負(ておい)はよく介抱する事仕方なければ首打つ事

 一、上野介を討取らば小笛を吹く事

 一、(かね)の合図は総人数引揚げの時

 一、引取場は回向院の事、もし回向院が入れなかったなら両国橋の広場へ

 一、引取途中咎められたら、実を告げ回向院へ引取ると云う事

 一、吉良の追手がきたら踏止まる事首を奪われぬように

 一、討入中に検使参らば門を開かず、潜門(くぐりもん)より一人だけ出て討取ったら下知(げち)を受けるからと云って、決して門を開かぬ事

 一、退口(のきぐち)は裏門の事

 一、乍勿論之義(もちろんのぎながら)討留候覚悟総体必死の心底致決定候(けっていいたしそろ)、右之引取候時の義申合せ候は時に至り心得の為にて候、退(しりぞき)候時の覚悟胸中に(ふくみ)候て討入候ては恐臆可有之(きょうおくこれあるべく)候、然共(しかれども)退去候ても必死の面々に候えば討入候時の武夫(もののふ)の覚悟専要の義に候、不及申候(もうすにおよばずそうら)え共、銘々治定粉骨の(はたらき)有候事      以上

 

 というのである。

 十二月十一日は午後から雪になった。夜に入って止まず十二日も降りつづき、十三日の朝もさらさらと降っている。

「延期しやしないかな」

 という思いが皆の胸に往来した。源吾は急いで宗(へん)の邸へ行って、

「十四日に御別れの一椀を頂戴しとう御座ります。実は国許(くにもと)に急用が御座りまして」

と云うと、宗(へん)

「これはこれは生憎(あいにく)な事に当日は吉良殿の邸に忘年の茶会が御座る故」

 と云う。いよいよまちがいではない。十四日の夕方になった。矢頭右衛門七(やとうえもしち)は、源吾の命を受けて茶入を一つもち宗(へん)の所へ出向いた。

「御使で参りました。宗匠御内でしたらこれを御目にかけて下さい」というと、「只今生憎不在で」

「それは——で何所(どこ)へか」

「はい、吉良様の御茶会へ」

「この雪に」

「はい是非にと申す事で」という。もうまちがいはない。

 集る場所は矢ノ倉米沢町、堀部弥兵衛の家である。どんよりと暗い雪空、大川の風が寒く粉雪を吹きつける。遥かに霞んで両国橋が見える。弥兵衛の二階には勝栗、昆布、土器(かわらけ)を置き、次の間には討入の衣裳、道具が置いてある。次第々々に集ってくる同志、その内に松平美濃守の与力(よりき)細井広沢(こうたく)も来た。この人は安兵衛を弥兵衛の聟に取もった人で能筆で有名な人である。この人だの寺井玄渓という医師などにはこの壮挙の事を話しておいたのである。

 勝栗と吸物で酒を廻し、餅、焼飯を包み、料紙に和歌をかく者、俳句を記す者、中にも弥兵衛は得物を調べながら、

「石突が少し長い、切り縮めよう」

 と(なた)で打切ったりしている。その内に蕎麦(そば)がくる。頼母子講(たのもしこう)の集りでなどと、妻女は言いながら勝手元に忙がしい。

 一期(いちご)の晴れである。内蔵之助良雄は錦襴の裏をつめた鎖の着込に黒羽二重の小袖、黒羅紗の羽織袴は浮放(うきはなし)裁付(たっつけ)兜頭巾(かぶとずきん)、袖印には金の短冊、表に名を裏に「元禄十五年十二月十四日討死」と書く、小刀の柄には「万山不重君恩重(ばんざんおもからずくんおんおもし)一髪不軽我命軽(いっぱつかろからずわがいのちかろし)」と自分で刻んだ銘、その他の人々も同じような(よそおい)。帯には鎖を入れて切れぬようにし、襟には小笛をつけて合図に使う。

 火鉢に香をくべて髪と兜にたきしめる。富森助右衛門が、

   とび込んで手にもとまらぬ(あられ)かな

 を槍に結び付けたのはこの時である。

 出立の時刻は七つ刻——八時。——今の八時とは時代がちがう。まして雪の夜のもう大川端は人が通らない、夜の(あきない)をする家々も戸を閉して(かすか)に灯が洩れるのみである。真向に吹きつける風に面をさらしつつ、二杯の大張籠に諸道具を入れ、四人の者で(にな)いつつ両国橋へ向って行く。

 

   雪 明

 

 表門に廻るは二十三人、指揮は大石内蔵之助。裏門には二十四人、主税(ちから)を大将として吉田忠左衛門の介添え、各々三人一組として相助け、年長者を指図人とする。合印は襟と袖との白覆輪(しろふくりん)(きれ)、合言葉は山と云えば谷、谷と云えば山と答える。

 表へ向う二十三人の内大石、原、堀部(弥)、間瀬、村松は表門を固める。老人で安全な場所を選んだのである。ここへ斬込んでくる迄に玄関を固めた者、矢頭(やとう)、神崎、早水(はやみ)、大高、近松、(はざま)の六人。新門へは岡野、貝賀、横川の三人、室内へ斬込む者は片岡、武林、矢田、吉田、岡島、富森、勝田、奥田、小野寺。

 裏門へ廻る二十四人の内、主税(ちから)は吉田を介添とし(はざま)、小野寺、潮田(うしおた)と門を固める。吉良(きら)が家来共の眠っている長屋々々を防ぐ者は、木村、不破、前原、千馬、間瀬、茅野、間、中村、これらの人々は弓、半弓をもっている、出ようとすれば射すくめるつもりである。この手で家内へ斬込む人々は磯貝、倉橋、大石(瀬)、菅谷、三村、堀部、赤埴(あかはに)、村松、奥田、杉野、寺阪の銘々である。

 二行になって進んで行く。槍は一纏めにして籠の中に立て、刀は隠して火消の如く見せかけて人目を避ける。この中で、堀部父子、赤埴、奥田父子、小野寺、大高の七人は、麹町の堀内源太左衛門正春の門人である。所謂(いわゆる)元禄四天王と呼ばれた正春は当時江戸中での剣客で、その弟子のこの七人は弥兵衛を除く外、(ことごと)く大太刀を使っていた。二尺五寸以上の太刀で大勢を対手(あいて)の時にはいい獲物である。勿論重いから力も要るし業も上手でないと使えない。

 降りに降った雪も宵になって止んで、八つをすぎる頃には月さえ出た。丁度十四日という明るい月夜である。四五寸にもつもった雪明りに冴えて、昼の如く明るい、両国橋を渡って松阪町の東へ行った時、定めの如く、二つに分れる。町家の軒に籠を降して、掛矢、(まさかり)、槍を取ると共に、表と裏へ廻った。

 西は回向院、その丁度前に裏門がある。右角に辻番があって右通りが町家、前原伊助のいた所である。東は前が牧野長門守の邸。北側が土屋主税と本多孫太郎の邸、表門を入ると、左よりに土蔵、その左に玄関、南向きに式台があって四五間を距てて上野介の居間に行ける。居間は丁度邸の真中である。

「さらば手抜かりの無いよう」

 と挨拶をして二つに分れた。四十七人が雪を踏んで門下へ寄った。改めて帯を締直し、草鞋(わらじ)の紐を調べ、獲物を振ってみて指揮の命の下るのをまつ。

 

   表 門

 

 表門は堅固に檜材分厚の扉、掛矢で叩破ろうとすれば凄まじい音がする。その音に起出されて防がれては事面倒である。二挺の梯子が門の右側の塀へ立てかけられる。大高源吾、間十次郎の二人が登って行く、誰も黙して語らない。月は真上に冴亘(さえわた)っていて雪の上へ鮮かな影を落している。三日以来降つづいた雪の夜半の朔風(さくふう)に凍りついて屋根はともすると滑りそうになる。廂へ手をかけてひらりと飛降りる。つづいて吉田沢右衛門、岡島八十右衛門、横川、武林と次々に登っては降りて定められたる部署へつく。

「危いッ」

 と云ううちに神崎与五郎、足を滑らしてどっと屋根から落ちる。

「滑るから気をつけて」

 と下から低い声で注意する。次の人には下の人が肩をかし手を貸して助けおろす。矢頭右衛門七は年少の武士、屋根から降りんとするのを原惣右衛門、

「矢頭、抱いてやろう、飛つくがいい」

「いいえ、大丈夫で御座います」

「いいから飛つけ」

 と戯談(じょうだん)半分、右衛門七肩へ手をかけてひらりと胸へとびつくはずみに惣右衛門、溝へ足を踏込んで(くるぶし)(くじ)いた。

「これは失礼を」

 と詫びるのを、

「何、これしき」

 と答えてびっこ引きつつ玄関へ行く。

 内蔵之助人数を調べて二十二人、寺阪が見えなかった。(これは逃亡したのである)さらばと迫ろうとすると、屋根の上に覆面にて股立(ももだ)ち取り槍を(ひつさ)げたる武士、立つとみるまに飛降りる。

「佐藤で御座る。今宵の壮挙に義の為め及ばずながら御助力申したく」

「おお」

 と内蔵之助が云ったが、この三人は佐藤城左衛門、大石三平、堀部五十郎と、藩はちがうが縁つづきで、上野介の所在を調べるに、いろいろ骨を折った人。

「御厚志によって只今本懐をとげようと存じます。これまでの事と云い今宵といい言葉にては尽せぬ事、さりながらかくなる上は後々に人手を借りたと云わるるも如何(いかが)と存じますれば、我等が働きは何卒門外にて御覧下されとう存じます」

御尤(ごもっと)もの次第、残念ながら引取り申す。さらば首尾よく上野介を討取り召さるよう」

 と、名残を惜しんで再び外へ出る。

「口上書を玄関前へ立てて」

 と云う折に表門脇の番人三人、門部屋から、そろそろと出てきて逃去ろうとする。

「待て」

 と追う、潜門へ逃出した二人を追って捕える、一人が裏手へ逃げ出すのに、奥田孫太夫、追すがりざま二尺七寸の大太刀、抜討に斬ってすてる。原惣右衛門、(おの)が起草した口上書を竹に挟んで玄関前へぐさっと突立てる。その口上に曰く、

 

   浅野内匠家来口上書

 去年三月、内匠儀(たくみぎ)伝奏御馳走之儀に付き吉良上野介殿に含意趣罷在候処(いしゅをふくみまかりありそうろうところ)於御殿中(ごでんちゅうにおいて)当座難遁儀(のがれがたきぎ)御座候も、及刃傷(にんじょうにおよび)候、不弁時節場所柄働(じせつばしょがらをわきまえざるはたらき)不調法至極に付切腹被仰付(おおせつけられ)領地赤穂城被召上之儀(めしあげられのぎ)家来共迄畏入奉存(おそれいりぞんじたてまつり)請上使御下知(じょうしごげちをうけ)城地差上、家中早速離散(つかまつり)候、右喧嘩之節、御同席御押留之御方有之(これあり)上野介殿打留不申(うちどめもうさず)、内匠末期残念の心底家来共迄難忍仕合(しのびがたきしあわせに)奉存(ぞんじたてまつり)候。対高家之御歴々(こうけのごれきれきにたいし)家来共挟鬱憤(うっぷんをさしはさみ)候段、憚奉存候共(はばかりとぞんじたてまつりそうらえども)君父之讐(くんぷのあだ)不可共戴天之儀難黙止(ともにてんをいただくべからざるのぎもくししがたく)、今日上野介殿御宅へ推参(つかまつり)候、(ひとえ)継亡主之意趣志(ぼうしゅのいしゅをつぐこころざし)迄に御座候、私共死後(もし)御見分之御方御座候わば奉願御披見度(ごひけんねがいたくたてまつり)如此御座候(かくのごとくにござそうろう)   以上

   元禄十五年壬午(みずのえうま)十二月  日

             浅野内匠家来四十七人連名

 

「それ」

 と云う内蔵之助の指図に、(はざま)十次郎真先に玄関口へかかり、大音声(だいおんじょう)に、

「浅野内匠頭の家来、仇を報ぜんがため推参、尋常に勝負せられい」

 と叫ぶ。途端、大高源吾の弟小野寺幸右衛門、玄関の戸を二蹴り、三蹴り、蹴るとともにどんと当てたる身体の勢に、鴨居を外れて内へ倒れる板戸、薄暗の出会頭(であいがしら)

「狼籍者」

「何をっ」

 と踏込むなり一薙ぎ、敵の股へ手答えあると共に、鼠の如く姿を隠す。

「卑怯者」

 と叫びながら進入ろうとする正面の壁に幾張かの弓が立懸けてある。やり場の無くなった太刀でばらりと切払うと快よく切れて落ちる。内蔵之助表門を守りつつ大音に、

「三十人組東へ廻れ、五十人組西へ廻れ」

 と指図の声に敵を脅かす。

 矢田五郎右衛門助武、当年二十九、人々の殿(しんがり)をして玄関から廊下づたいに次の室へかからんとする時、背後に迫る足音。振向くと暗中の人影。矢声諸共(もろとも)斬りつける。身を振向ける隙も無く片手なぐりに横に薙ぐ、敵の刃に当って音立てる「(かん)」早くも刀を引いて真向から斬下しざま、どんと当てたる体当りに二間余りも飛んで倒れたまま起上る模様も無い。そのまま進入ると、誰がつけたか、室々に蝋燭の灯、ほのかに辺を照らして人影は明かに見える。長屋の戸に当る矢の音、人の足音、時々叫び声、その中にあちこちと起ってくる周章(あわただ)しい物音。戸障子の破られる音。静かであった邸内は次第々々に烈しい物音が起ってきた。

 

   裏 門

 

 裏門は表よりも粗末である。越えるよりは破るが早い。三村次郎左衛門、掛矢をとって、

「よいしょ」

 と掛声しながら扉と扉の間を打つ。凄まじい音を立てると見る間に、(かんぬき)が外れて地に落ちる音。つづく一打でどっと左右へ開きつつ傾く扉、門を守る人々を残してどっと一時に乱入する。物音と共に跳起(はねお)きた門番、棒を片手に出てくるのを、

「手向いすると斬捨てるぞ」

 と大喝、人数の多いのに驚いて、踵を返して逃げるのを不破数右衛門走り寄りざま、一人を斬倒す。

「火事だ火事だ」

 と口々に叫ぶ。途端、玄関左側の長屋の屋根へ登ってくる一人の男、見るより(はざま)新六、半弓引絞って切って放つ。驚いた男の降りようとするが脚下の危さに、まごまごするのを茅野(かやの)和助、中村勘助と引つづいて射出す矢に、元登った所を忘れてひらりと飛下りるのを、走寄りざま斬倒す。これが家老松原多仲(たちゅう)。同じく長屋の中から出てくる一人、それを見るなり、脇差抜いて構えているのを、

「浅野内匠頭の家来不破数右衛門、上野(こうずけ)素首(そっくび)を貰いに来た。邪魔すな」

 と叫びざま斬ってかかる。横から磯貝十郎左衛門、八尺ばかりなるを引しごいて、突かかるに(かな)わじと背を見せる途端、繰出す槍に脇腹を突かれて、よろめきながら七八間走ってどっと倒れてしまう。数右衛門その背を泥草鞋(どろわらじ)で踏みつつ走り行く。

 三村次郎左衛門、玄関正面の杉戸ただ一打に打砕いて掛矢を捨て刀を引抜いて走入る。その一歩先へ村松三太夫。

「一番槍」

 と叫んで、槍を頭上にしごきつつ暗闇な玄関の中で一突する。最初の物音に眼覚めて立出てきた吉良家の面々、あちこちに掻立てる行灯(あんどう)の光に、ようやく朦朧と見えるのを便りに、出てくると、三太夫、

「狼籍者、何者だ」

 と云うのを、

「この馬鹿」

 と走突(はせつ)く勢に(たちま)ち逃出す。追う廊下の左の室から障子を開けて半身を出す。さっと面を望んで突く槍に、身を(かわ)して引込む。後につづく大石瀬左衛門、障子越に、

「一本」

 と叫んでぐさっと突く。行止まりに杉戸、押しても引いても開かない。

「杉野、この戸を叩破(たたきわ)ってくれ」

 という声に杉野十平次掛矢を()げてきて一打に打破る。玄関から二手に別れた人々は家の内外となった。玄関左手には、清水段右衛門という取次役の宅。隣りに上杉の附人(つけびと)清水一学(いちがく)。本邸とこの長屋の間から庭を通って長廊下を右に台所口へ廻る人々。間毎々々の障子襖、廊下々々の扉を破って攻込む人々。

「手向いすると打殺すぞ。手出しをしないと助けおく。浅野内匠頭の家来、仇を討たんがための夜討じゃ。間違って斬られるな」

 と大音にあちこちと走りながら触れて廻る。そうした後で威嚇の矢の手につがえて切って放つ。勢い鋭く戸へ突立つに、開ける者さえない。家老の一人斎藤宮内(くない)、同じく左右田(そうだ)孫兵衛余り勢いの凄まじさに、己が長屋の壁を打破って往来へ出て軒下に潜んで隠れていた。

 隣り屋敷の土屋主税(ちから)の家の中が騒がしくなってきた。塀越しに高張提灯が見えると共に、梯子をかけたらしく人の顔が出る。槍の穂が雪に映じて光る中に、塀の上へ弓矢を提げて立つ人がある。小野寺十内それをみるより。「それなる方へ物申す。これは浅野内匠頭の浪人共、今宵仇を報ぜんために推参(つかまつ)って御座るが決して粗忽(そこつ)は仕らず。火の元大切に致し申すにより、何卒、御見すごし()されとう存じます」

 と声をかける。塀の上の武士何か内へ云うと共に、ただ高張のみかかげられて人影は見えずになった。

 

   附 人

 

 上杉家では、もし吉良を討たしては面目がないからと白金(しろがね)の下屋敷に六(そう)を設けて、素破(すわ)と云わば、という用意をして上野(こうずけ)を忍ばせておいた。附家老(つけがろう)として十三万石を領し上杉の家来であって時には家来以上の千阪兵部、これを聞いて憂慮した。

仮令(たとえ)実の父上にもせよ、上杉家の主となった以上、上杉の家を重しとせなくてはならぬ。もし赤穂の浪人共が下屋敷へ乱入したとすれば(わざわい)は上杉家に及ぶ。これは吉良殿を上杉家から戻さなくてはいけない」

 こういう意見で弾正大弼(だんじょうだいひつ)(いさ)めた。道理であるから、ここに鳥居利右衛門、清水一学、小林平八郎、木村丈八以下合せて七人の剣客を附人(つけびと)として松阪町の家へ居を定めたのである。兵部これらの人々を送る時、

「恐らく内匠の家来共は乱入するにちがいない。しかし決して彼者(かれ)らと争うな。もし迫らば避けて逃げるがいい」

 と云った。社禝(しゃしょく)を重んじた兵部は、上杉家に対する世評を恐れ、吉良を討たさずして浪人を斬ってから後の事を考えたのである。上野(こうずけ)を私情によって救ったが為に、家門のある限り消失しない不評と、浪人が襲えばきっと上野を上杉へ引取る。引取ってもし二度目の乱入が上杉家へ向けられたら、討たれても討たれなくってもこの上杉家の恥辱になる。家を思えば吉良を討たせて上杉の家を救いたいと考えたからであった。

 堀内正春門下の高弟、奥田孫右衛門、二尺七寸五分の大太刀を右に、障子越に一突してから蹴破って入る一間、中に一人の武士が坐って居るから、上段につけて、

上野(こうずけ)は何処じゃ、云え、云わぬと討つぞ」

 と云う声の下、枕に手がかかるよとみる、発止と目つぶしにくるのを右へ(かわ)しざま、

「うぬ」

 と一喝、斬つける途端、蒲団で受けて、すっくと突っ立つや二度目の太刀へ、どっと投つけ脱兎の如く(おどり)出てしまった。孫右衛門が廊下へ出ると(あたり)に影も無い。これが附人の一人木村丈八で、その足で桜田の上屋敷へこの討入を注進した。

 鳥居利右衛門、暫く様子を伺っていたが、手早く寝間着へ稽古着をつけ袴を裾短かに、刀をとって鞘を捨て、廊下へ出ると庭に当って剣戟の撃つ音、廊下の戸を開いて庭をみると、雪の中に倒れている二人、倒した男は、今開けた廊下の戸へ気がつくと共に走寄るのを、

「痩浪人、鳥居利右衛門じゃ、一度にかかれ」と声をかける。

「うん、いい敵じゃ、不破数右衛門、いざ」

 と寄るに、木村岡右衛門、前原伊助、槍と刀で左右から迫る。

「一人でよい。これしきの男に……さあでくの棒参れ」

 中段につける三尺二寸の大太刀、相青眼(あいせいがん)のままに互の刻み足、一二尺を進みつつ退きつつ、じりじりと右へ廻りつつ隙を窺う。木村、前原の二人互に好敵手なのに見惚れながら突立ちつつ敵の加勢の者に目を配る。

「糞っ」

 と、大喝数右衛門、猛然と踏込んで打込む、ひらりと後へ半間余り、刀を引こうとする数右衛門の籠手(こて)へくる鉾子尖(ぼうしさき)。辛くも鍔元で受けて立直る青眼。

「参れ、素浪人。どうじゃ」

 と声かけながらじりじりと刻み寄る。数右衛門退きながら、カチリと当てる鉾子尖、この大胆な隙付入る利右衛門、袈裟掛けに斬込んでくるのを受けもせずに、身を躱しざま片手打に真向へ。不破得意の捨身の戦法。躱したが胸から帯へかけて衣類が斬裂かれる。と共に三尺という刀の長さ、利右衛門の頬先から唇へかけて三寸余り斬つける。

「どうじゃ、どうじゃ」

 と声をかけつつ、続いて真向へ、カチリと刃が合う。畳掛けてから、かち、斬つけながらさっと飛退く。それを追って流星の如く打込む利右衛門、払って身を沈めながら脚を薙ぐ、飛さがる。もう二人とも呼吸が乱れてくる。口が利けない。

「助太刀いかが」

 と声をかける。二人の居た事に気がつく。不破、鳥居、こうなると味方のいるのと居ないのと大したちがいになってくる。

「無用」

 と云っておいて気力を集め、この一打にと気を静める。据物斬では家中で右に出る者の無い数右衛門、青眼が上段に変る、と、

「エヤッ」

 と、大喝、岩も両断と打込め、初めの如く身軽に退けないから受とめる。「(かん)」どんと体当り、対手もさる者、踏止まって、引外さんとする。大兵肥満六尺近い数右衛門、刀を押しつけ押しつけしておいてどっと蹴上げる対手の腹。ひるむ隙に、右手を柄より離すや、眉間を望んで一拳発止と、同時に金剛力を籠めたる左手(ゆんで)鳥居の鍔元を(しっ)かと押えて脚をからみつつ捻倒(ねじたお)さんとする。鼻血を流して満面朱に染りつつ、最後の一手、己を斬らして敵を斬れ、と刀を引くとみる、(たちま)ちに走る諸手突(もろてづき)、大力の不破、力の限りに引っ払う。鳥居の手元を離れて飛ぶ太刀、脇差へ手をかける、遅し。無言のままに真向から斬って落す鮮かな太刀筋は裾物斬で(きた)えた冴え。肩口から一尺二寸というもの斬られて血が空に飛ぶと共に、二三歩背後(うしろ)へよろめいたが、刀も抜きえずに倒れる。

「御見事」と()める二人。

「ああ、えらいぞえらいぞ」

 と云いつつ雪を掴んで口に、暫く突立っていたが、左手に刀を持更え、右手の指を強く延しつつ進んで行く。

 出ようとすると矢が戸へ当る。暫く様子を窺っている内に、

「逃げるものは斬るな」

 と云う声がする。つづいて、

「塀を越して逃げる者は容赦すな。射落せ射落せ」

 と叫ぶ者がある。附人(つけびと)の一人小林平八郎、梶派一刀流の達人で、附人中での使手(つかいて)である。寝間着の上からすっぽりと羽織を冠り、戸口を開けるや、吹入る朔風よりも素早く(おどり)出る。上野(こうずけ)の寝所へ行こうと七八間歩むと、

「待て」

という声と共に、冠つた羽織を引戻す者。ぷっつり切った鯉口、柄に手がかかると抜打の横薙、背後へさっと薙いだが、余り敵が近すぎていた。

「己れ」

 と云いざま、刀を捨ててむずと組付く。雪を踏んで、潮田(うしおだ)又之丞。

「曲者」

 と云いざま、八尺柄の鍵槍(かぎやり)、横から突いてくるのを、右に払って、左の(ひじ)で後に組ついている菅谷(すがや)半之丞へ一当て、当てんとする、間、双足(もろあし)をからんで、我身と共に、横倒しに、

「早く突け」

 と下から叫ぶ。起きんとする平八郎、突かかる槍と二三合、下から合わす。途端、

「御免」

と声かけて杉野十平次、脇腹から突刺して一えぐり、平八郎左手(ゆんで)で槍の柄を引掴みつつ斬捨てようとする手を下から支えた半之丞、跳起(はねお)きざま馬乗りとなって組敷く。

「うぬ、無念」

「どうだ」

 と、弱り行く平八郎の右手をしっかと膝の下に敷いて手を延して拾い上げる己の刀、一刺して立上る。

 

   乱 闘

 

 裏口を守る十内の前へ、刀片手に走りくる二人、六尺の手槍閃くとみると、一人を突倒す。

「十内、うまいぞ」

 と声をかける源吾右衛門、十内、槍を繰引くが早いか、逃げんとする敵の背後から田楽刺に、

「南無阿弥陀仏」

 と叫んだその男、よろめきながら二足三足行ってどっと倒れ伏す。

 裏から討入った一人の武林唯七。磯貝十郎左衛門が点じた蝋燭のあかりをたよりに、此処彼処(ここかしこ)と進む。

「この辺が左兵衛佐(さひょうえのすけ)の居間だろう」

 と背後(うしろ)につづく勝田新左衛門を振むく途端、襖の影から閃く薙刀(なぎなた)。肩を掠めて流れる。一足退った唯七、

「誰だ」

 と、声をかけてさっと槍を合せるや、眉間をつく、辛くも躱したから小鬢(こびん)を傷つけて流れる槍、「間」薙刀を()げつけて、暗闇の中へ逃入ってしまう。隙かさず突いたが手答えしたのみで討洩らす。あとで落ちた薙刀の柄から左兵衛佐と判ったので唯七残念がったがこの時は気がつかなかった。

 跡を追って進む前へ、

「素浪人共、須藤与一右衛門じゃ、よっく味わえ」

 と、青眼(せいがん)につけて突立って居る。人々のあとから、未だ一人も斬らぬ堀部安兵衛。

「待った、堀部安兵衛武庸(たけつね)

 と、名乗りをあげて人々を分けながら、

「いざ」

「やっ」

 と、構える。とみる、二尺八寸の大太刀、斬込む、流す、斬る、受ける。一足踏込む、一歩退く三度目の続け打ち、その太刀先の鋭さ。三度び真額(まっこう)で受けんとする。「間」さっと(ひるかえ)った武庸手練の太刀、横腹へきたから、躱す間が無い。見事に斬られて、たたと横に体を廻したが仰向(あおむけ)に倒れる。

「やっと一人」

 大須賀治郎左衛門。台所へくる戸口に突立って(ふせ)ぐを、突倒す。台所に入ると清水一学迎討(むかえう)つのを三人して斬倒す。二間余り距てて人声のするのは、表門の人々らしい。いよいよ上野(こうずけ)の居間に近いと踏込む目前に、戸をうしろに立はだかりつつ三尺余の長剣を真向に、

「入ってみろ。痩浪人、堀江勘左衛門控えたり、さあ参れ」

 使手(つかいて)らしいから、源吾と十次郎、(いまし)めつつ迫る。横合から、

「勘左衛門か、勘六じゃ、近松勘六——一人でいい、何、これしきの奴」

 じりじりと迫りつつ斬込む、受流して早くも右へ廻るのは大した敵でない。

「助太刀無用」

 と叫んで、一喝斬込む。敵の鉢巻へ当って一寸ばかり傷つける。と、欄干に脚がかかるや、庭へ飛降りて素早くも逃げ出すに、

「卑怯者、己れ」と勘六がつづいて追う。泉水の石橋、凍りついた上へ走りきて滑る。三尺たらずの橋、踏とまる場はない。横倒しにざんぶと落ちたが、池は浅い。

 

 家老小林平八郎を初めとして用人、鳥居利右衛門、同須藤与一右衛門、中小姓大須賀治郎左衛門、清水一学、左右田源八郎、新貝弥七郎、小塚源次郎、斎藤清左衛門、祐筆の鈴木六右衛門、坊主、足軽など合せて都合十九人が、長屋前の雪の中、台所、小玄関などに横たわる。

 重い手傷が十一人、軽い者が八人。

 大石瀬左衛門、もう邸の中に太刀音のしないのは、手向うものの無くなった様子、これからは上野(こうずけ)在処(ありか)をと一間に入ると逃出そうとする者一人。飛びかかって引組敷く。

「上野の居間へ案内せい、命は救けてとらす」

(うけたまわ)って御座ります」

 と顫えながら起上る。双刀を奪いすてて、後に従う。

「ここで御座ります」

「開けろ」

太刀を振冠って切って出る者あらば一討と構える。ごとごとやっていたが、

「錠が下りております。御覧下さいませ」

「よし、のけ」

 戸を蹴って中へ入る。八畳、絹行灯の灯(かす)かに夜具の緞子(どんす)、床の間の造作(つくり)

「此処にちがいないか」

「毛頭ちがい御座りませぬ」

 瀬左衛門、左手に敵の右手を持ちながら、刀のままの右手を蒲団の中に挿しこむと、ほの暖い。

「居間はここにちがいないが、居ない。暖味の残っているのは逃げて間のない証拠じゃ」

 と、後から入った主税(ちから)見顧(みかえ)りつつ云う。

「如何にも」

 と主税も手をさし入れる。

「さらば屋敷中を探し申そう。門を固める方々へこの由申入れて(なお)厳重にして下されと、伝えに行ってくれ」

 追々に集る人々、手に手に蝋燭を(たずさ)えて、天井は槍で突く、怪しとみる畳は剥いでみる。押入の襖を外し、戸棚の隅を探し障子の影、妻戸の背後、手を分けて求めたが判らない。

後架(はばかり)はいいか」

「いない。後架(はばかり)がかりは拙者じゃ」

「もう一度居間へ」

 引戻って、掛物の背後をさぐり畳をはぐ。

「床下へ入って探そう」

「よし、(それがし)が」、

 と、主税十五歳、五尺七寸の大男、刀を抜いて這入(はい)ったが、

「異状は御座らぬ」

 と、上ってきた。外を固むる人々に聞くと一人として洩らさないという。さらばもう一度と取って返す。同じ所を同じように、矢張り何者も居ない。

「駄目じゃ」

 と、不破数右衛門、どっかと坐して刀を抛出(なげだ)す。

 

   本 懐

 

「残念じゃ」そう云われると人々、黙念としたまま言葉を出すものも無い、槍を突いたまま、刀を提げたまま暫く沈黙していると台所に、コトリと音がした。上野の居間と台所とは近い、聞くと等しく耳を澄ます。

「台所じゃ」それと走出す。

「確かに此処じゃ」

「その戸は開いたか」

「ここか……錠が下りている……、中からじゃ、怪しいぞ集まれ集まれ」

 とどっと蹴破る物置小屋、中はまっ暗でどうなって居るか判らぬ。

「矢を射込んでみよう」

 と云った茅野和助、神崎与五郎。一ノ矢、二ノ矢、今三ノ矢を放たんとすると、騒がしく物音立てて躍出す男。

「それッ」

 三四本の刀の閃き、忽ち斬倒す。又一人。仰向けざまに頭を小屋の中へ入れたまま、一歩踏出しただけで突留められる。

「奥へ入ろう。ここにちがいない」

と口々に云ったが、用意して不覚をとるまいと、槍先に蝋燭をつけて室の中へ突出す。炭俵、桶の類、薪などが積んである。間十次郎、槍を構えつつ、桶を撥ねのけ、炭俵を突くずして二三歩入ると、薪が飛んでくる、躱して目をやると、大きい味噌桶の陰に潜む一人。

「出ろ」

 と云ったが、ばらばらと投つける。取直す槍、繰出すと桶を掠めてぐさっと股をつく。尻居へ倒れたらしいのを、走寄って襟上(えりがみ)とり、傷手(いたで)に立上る力の無いのを、ずるずると引摺り出してくる。

上野(こうずけ)在所(ありか)を云え、云わぬと斬るぞ」

という内、隙をみて逃げんとする。

「この馬鹿」

 と大喝した唯七、突とばすと、がっくり膝をついたまま起上らない。蝋燭をつきつけると、総髪の老人である。

「灯をもっと、……顔を上げい」

 と、髪をつかんで引上げる。

「綾小袖をきているぞ」

「貴様誰だ。名を名乗れ」

「吉良上野でないか」

 と云うが黙して答えない。顔を見たが、血で判らない。

「肩をみろ」

 と云う声に、片肩をぬがすと、痩せた肌に残る二分余りの刀傷、肩先から一寸余り下った所から斜に背後(うしろ)をかけて四寸ばかり。

上野(こうずけ)じゃ」

 と、思わず叫ぶ。吹笛(ふえ)へ手をかけた五六人。

「いいか鳴らすぞ」

「肌着と云い、(とし)頃といい、傷といい、まぎれない」

 と吉田忠左衛門が云う。嚠々と吹鳴す、かねての合図。門を固むる者、屋外を見張る者、疾風(はやて)の如く廊下を鳴らし、畳に音立てて音の鳴る方へ(はせ)集る。

「此処じゃ、台所じゃ」

 と大音に知らせる人々。内蔵之助、とくと見終って、

「まさしく上野介殿(こうずけのすけどの)に相違ない。上野殿、今日唯今、浅野内匠頭の家来、亡君の鬱憤を晴らし参らせんが為め、御首(みしるし)を申受けるで御座ろう」

 と云ったが、失神したらしく、うつむいて言葉も無い。内蔵之助、短刀を抜いて、髪をつかんで引あげる上野の耳の下、ぐっさと突刺す止め。

間氏(はざまうじ)貴殿(きでん)首を挙げられい」

「はっ、かしこまりました」

 槍を人に渡して、抜く刀。

「方々御免」

 と挨拶をして打落す。小袖をとって引裂き首をつつむ。次の室の柱に(いまし)めてある小者に、

「これは上野(こうずけ)か」

 と聞くと、

「左様で御座ります」

 と云って、(なみだ)を浮べた。内蔵之助、腰なる采配をとって上野の首を三度払う。

「本望を達したの」

 と、莞爾(にっこり)と微笑む内蔵之助。ただ深い呼吸(いき)を吐く者、涙を浮べている者、声を立てて泣いている者。

「引揚げの銅鑼(どら)を。首を揚げた以上、長居は無用じゃ」

 銅鑼を鳴らしつつ、台所へ出る。裏門へ集ると、

「手負の者は手当をして、討死した者は無いか」

 点検すると、四十六人。寺阪吉右衛門は逐電してしまった。

「天の加護じゃ」

 と喜ぶ。

「土屋殿へ挨拶せねばなるまい」

「いかにも、原氏(はらうじ)に片岡氏、小野氏、御足労ながら」

 

 土屋主税口上書。

 昨夜七つ前、隣家吉良上野介屋敷、(さわ)敷候(しくそうろう)間、火事にて候哉と存罷(まかりぞんじ)候て承候得ば喧嘩の体に相聞得候故、家来共召連境迄罷出(かため)て罷在候得ば、塀越に声をかけ、浅野内匠頭家来片岡源五右衛門、小野寺十内、原惣右衛門と申者にて候、主人の敵上野介殿を討取、達本望(ほんもうたっし)候由、名乗申候を塀越に承申候、夜明前、裏門へ人数五六十人程も罷出候ように相見申候。尤も火事装束の体に見え申候。暗く候間(しか)と相見留不申候。此外(このほか)何事も不存(ぞんぜず)候。

 早水藤左衛門、只一人、長屋々々の前を、

「上野殿を討取ったぞ、吾と思わん人々は出会え出会え。かく申すは浅野内匠頭家来、早水藤左衛門出会い召され」

 と、大音を揚げたが、物音一つしない。藤左衛門弓を取って裏門の右側、松原左仲の家へ矢を射込んで門を出る。

 

   引 揚

 

 飢と疲労と寒さに、すっかり弱り切った人々がある。間新六など足どりもたどたどしい。気は丈夫でも老人達の目に見えた疲労。傷ついた人々の痛々しさ。(かご)でもあらばと求めたが、未だ出ていない。磯貝、倉橋の二人を最後として二列になって引揚る。

「酒屋がある」

 と云った源吾、列を離れて走って行く、もう薄っすらと白み初めた東の空。早起きの商人は起出る。酒屋の十兵衛、奉公人の手もからずに自分で戸を押上げて、店を開けていると異様の姿に血塗(ちまみ)れ、槍をもって走寄る人間のあるのに、驚いて内へ入ろうとする。

「湯があれば一杯振舞ってくれぬか。怪しい者で無い。心配するな」

「はい。御覧のとおり唯今起きましたばかりで、まだ湯とて……」

「では酒でいい」

「酒は御座りますが、居酒は御法度(ごはっと)で御座りますから」

「何にどうせ御法度の破りついでだ。酒代くれるぞ」

 と投出す紙包。

「何か暖いものは」と、寄ってきた人々に、

「酒々」

 と、引出した(こも)かぶり。槍の石突で突破るや茶碗ですくいつつ煽りつける。入れ交り引っかけている内に、源吾、

「亭主、硯は無いか」

 と店の酒樽に腰かけながら、鼻紙へ(しる)す一句。

   山を裂く力も折れて松の雪

「春帆宗匠どうじゃ」と、富森助右衛門に示す。

「ふむ、拙者も一句つき合おうか」と源吾に示す。

   寒鳥の身はむしらるる行方哉

 回向院(えこういん)の門扉は堅く閉したままである。叩くと門番が出てきたので、

「休憩したい」と伝えると、色を変えて住職に告げる、栄誉いう当時の住職は触らぬにしかずと体よく断る。酒で元気のつく人はいいが、酒を飲むのも手の出ない位疲れている人は暫く(わだかま)って息を入れる。

「もう一息じゃ。泉岳寺(せんがくじ)までのそう。吉良の火の元の用心はされた方があるか」

 誰も答える者が無い。

「もし失火でもあっては一大事。御足労ながら誰方(どなた)か」

 声に応じて矢田五郎右衛門、赤埴源蔵、二人切りで引返して火鉢、炬燵(こたつ)に水をそそぐ。又、とって戻した二人に、

「邸の模様はいかが」

「何も(かわ)った事は御座りませぬ。寄手の出そうな模様も無し、室々(へやへや)にも人一人居りませぬ」

「さらば泉岳寺へ」

 と、一ツ目から大川に沿うて南へ下る。駕屋(かごや)のあったの見つけて、横川勘平、弥兵衛、惣右衛門と乗り永代橋を渡って霊岸島へ築地本願寺前から汐留へ出る。ここで吉田、富森の二人が大目付仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)の邸へ、次第を届出る。汐留から金杉橋、札の辻、伊皿子下から泉岳寺へ。

 すっかり明放れた十五日の朝。見物は両側に走出てくるし、次第に跡を()けてくる者が増す。汐留近くになってからは上杉家の討手にもしかすると、と覚悟をしていたが追ってくる気配も無い。上杉家では木村丈八がとっくに注進して居たが、千阪兵部が兵を出す事を止めたのである。いよいよ討手が来ないらしいと思うと、金杉あたりから次第に列が乱れ出して、二人三人五人七人と互に(いた)わりつつ、散々伍々となって泉岳寺へついた。

 十五日の朝八時すぎである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/02/25

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

ePubダウンロード

直木 三十五

ナオキ サンジュウゴ
なおき さんじゅうご 小説家 1891~1934 大阪府に生まれる。云うまでもない直木賞に名を冠している大衆文学の雄である。

掲載作は、31歳での初の創作、大正13年9月刊『仇討十種』より1編を抄した。

著者のその他の作品