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蒼氓 (そうぼう)

   第一部 蒼氓

 一九三○年三月八日。

 神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に(かす)み、街も朝から夕暮れどきのように暗い。

 三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみ(ヽヽヽヽ)である。この道を朝早くから幾台となく自動車が駈け上って行く。それは殆んど絶え間もなく後から後からと続く行列である。この道が丘につき当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘のうえの(これ)が「国立海外移民収容所」である。

 濡れて光る自動車が次から次へと上って来ては停る。停るとぎしぎしに詰っていた車の中から親子一同ぞろりと細雨の中に降り立つ。途惑(とまど)いして、襟をかき合せて、あたりを見廻す。女房は顔をかしげて亭主の表情を見る。子供はしゅんと鼻水をすゝり上げる。やがて母は二人の子を促し、手を引き、父は大きな行李(こうり)や風呂敷包みを(かつ)ぎあげて、天幕(テント)張りの受付にのっそりと近づいて、へッとおじぎをする。制服制帽の巡査のような所員は名簿を繰りながら訊ねる。

「誰だね?」

「大泉、進之助でごぜえまし」

「何処だ?」

「ヘッ?」

「どこだ。何県だ?」

「秋田でごぜえまし」

 所員は名簿に到着の印をつけて、待合室で待っているようにと命ずる。父は又ヘッとお辞儀をして行李を担ぎなおす。

 待合室というのは倉庫であった。それがもう人と荷物とで一杯である。金網張りの窓は小さく、中は人の顔もはっきりしない程に暗く、寒く、湿っぽい。

「此処さ待ってれ」と父は言って、行李を担いで人の中を分けて入って行くと、荷物を置く隙き間を探した。大きな棚が三段になって幾列にも並んでいる。女達はみなこの棚の上に坐っている。男達は荷物に腰かけて煙草(たばこ)()っている。妙にしんとして碌々(ろくろく)話声もしない。子供達が泣きもしない。憂鬱(ゆううつ)に黙りこくって、用もないのに信玄袋を開けて見たり、手のひらを眺めて見たりしているのだ。

 行李を置いて出て来ると大泉さんはほっとして戸口に立った。ぬかるみの坂道を自動車はまだ続いている。はてしもない移民の行列だ。ブラジルヘ、ブラジルヘ!

 遠く、港が灰色にかすんで見えている。その向うには海がぼやけている。そしてその海の向うには、外国がある。ついぞ考えて見たこともない外国という事が今は大きな不安になって胸を打つ。すると又しても故郷の山河を思い出す。故郷には傾いた家と、麦の生え揃った上を雪が降り埋めている幾段幾畝(いくたんいくせ)の畑と、そして永い苦闘の思い出とがある。しかし、家も売った畑も売った。家財残らず人手に渡して了った。父と祖父と曾祖父と、三つで死んだ、子供と、四基の墓に思いっきりの供物(くもつ)を捧げてお別れをして来たではないか。

「本倉さん、まンだきゃ?」女房が後から問いかけた。ふりかえろうとした時に、恰度(ちょうど)受付へやって来た一団の家族を見つけて、おう、いンま来た! と言った。彼は(ようや)く楽々とした微笑を浮べ、煙草を喫う事も忘れていたのに気がついて(たもと)に手を入れながら、頑丈な大きな肩に細く光る雨を受けて受付の方へ歩いて行った。女房もやっと()り場のない気持を(やわ)らげられて、十三と五つとの子供達にまで「ほりゃ本倉のおンつぁんが御座った!」と言った。

 本倉さんとは杉の叢立(むらだ)ちを隔てゝ隣同士であった。彼は大阪の親戚へ寄ったので一足後れて来たのであった。彼は六人の家族を連れて、てんでに荷物をかついで、倉庫の入口に立つと(おどろ)いて言った。

「おンや居だも居だも! これや一隻の船さみんな乗れッかな? 心細くねくてえかべどもしゃ」

「ンだ、」と大泉さんも同感した。それから人々の間を掻き分けて何とか落ちつく場所を見つけると、知らない人達の肩のあいだに挟まって行李(こうり)や包みの上に腰をかけた。人いきれがむっと臭くて、雨に濡れた着物の()れた匂いが鼻をついた。眼の前の棚の二段目には婆さんが坐っていて、鼻水をすゝっては煙管(きせる)をかちかちと叩いていた。憂鬱そうに唇を(ゆが)めて煙草を喫った。そしてぼんやりと傍に(たゝず)んでいる若者に向って、勝治仁丹持ってだか、と言った。門馬さんの婆さんは風邪をひいているのだ。勝治は隣りの若者に向って、

「孫さ、仁丹ねえか、有ったらけれ」と言った。孫市はまた隣りへ向って、

「姉しゃん仁丹有ったな。出してけれ」と言った。紡績女工であった頬の赤いお夏は、バスケットの(ふた)をあけた。

 洋服を着た洒落(しゃれ)た娘がマンドリンを抱いて立っている。父親の勝田さんは革のスーツケースに、腰かけて、襟に毛皮のついたインバネスを着ている。半ば白い髭があって、でっぷりと肥えていて、物知りめいて隣りの中津井さんという熊本の男に話しかけている。

「そりゃあんた日本とは比べものにならん。気候はね、いつでも合服(あいふく)一枚で済むようなえゝ気候だし、土地と言えばもうその肥えて肥えて、桑がね、桑の苗がね、植えてまる一年で以て、こう ! 二寸からの直径になる。わしは一つ養蚕をうんとやるつもりですがね、珈琲(コーヒー)はもう生産過剰で行き詰りましたな。将来は果樹及び養蚕、殊に養蚕はえゝですよ。現在では絹物は全部輸入ですからな、えゝ」

 元気で喋舌(しゃべ)っているのは此の人ばかりで、相手の中津井さんも俯向(うつむ)き勝ちだし、彼の多弁が(かえ)ってそのあたりの人人を一種沈鬱な不安な気持にさせるのであった。本倉さんは喫い尽した煙草を下駄で踏み消しながら(ささや)く様にいった。

「大丈夫だべな」

「うん」と大泉さんは答えた。それは体格検査の事であった。本倉さんはトラホームであった。そしてブラジル入国の移民の第一条件は(一、トラホーム患者ニ(アラ)サルコト)である。患者はサントスの港から一歩も上陸させないでそのまゝ送り返される。これは移民にとって最大の恐怖であった。しかし本倉さんは郷里の予備検査で合格したからこそ来たのである。

「何としても合格せんばならんねな」大泉さんは決心を固めるようにつぶやいて大きな体を行李の上でぎしぎしと置き直した。すると彼の後に居た麦原さんは、土の()み込んだように黒い(しわ)の寄った顔をふり向けて立ち上った。

「お常、こつちゃ来え」

 十五六になる赤い襟の生々しいお常はお下げにした赤い髪を背に垂らして、父の後から人混みを分けて外に出た。外にはまだ銀色の細い雨が(けむり)のように降りつゞいていた。父は鳥打帽を傾けて軒づたいに倉庫の裏に廻って行った。こゝならば誰にも見つかることはない。たゞ軒滴(けんてき)が光りながら並んで落ちて来るだけだ。お常は父が何をするのかを知っていた。だから父の前に立ち止ると眼を閉じ、じっと顔を上に向けて待った。少し蒼白(あおじろ)い弱々しい顔にしぶきの様に小さな雨の粒が冷たく落ちた。父は袂からロート目薬の小瓶を出して、(あかぎれ)の切れた大きな手で不器用な点眼をしてやった。(何としても合格せんばなんね!)

 ぬかるみの坂道を自動車はまだ続いていた。三ノ宮駅に汽車が着くたび毎に、親子手を引きあい、荷物をかつぎ、ぞろぞろ下りて来るのだ。殆んど大部分の者が始めての自動車と言うものにためらいながら乗るのだ。その車の行列を横切って、灰色に暗い雨空にりんりんとけたゝましい鈴の()を響かせて、号外売りが叫びながら走っていた。ロンドン軍縮会議が恰度(ちょうど)真最中である。朝の新聞では軽巡洋艦の艦型制限で議論沸騰(ふっとう)し再び委員付託となった事、アメリカは依然として大巡十八隻案を固持していると言う事、(しか)もこの問題をよそにしてイギリスはシンガポール要塞の工事中止声明を裏切って工事費の増額予算を議決した事を知らしている。一方では現職文部大臣小橋一太が越鉄疑獄に連坐して、辞表を出した匆々(そうそう)に起訴拘留された事を報じている。物情騒然として暗澹(あんたん)たる中に、胸を刺すような鋭い号外の音が絶えず移民の自動車の行列を突っ切って走っているのだ。

 午前十時、黄色いビルディングの中から騒がしい銅鑼(どら)が鳴り響いて来る。すると所員が受付の天幕の中から名簿を持って出て来る。倉庫の入口に立って身動きもならぬほど詰っているお百姓達に向って叫ぶ。

「只今から体格検査がありますから、名を呼ばれた人は家族全部を連れてあちらの建物に行って下さい。順番にです。荷物はそこに置いたまゝで(よろ)しい。いゝですか、もう一ぺん言いますよ。名を呼ばれた人は……」

 倉庫の中は急にざわざわとして荷物をまとめて立ち上る用意を始める。所員は北海道から順番に青森、秋田、岩手と呼び上げて行った。呼ばれて倉庫を出た者は女房を促し子供の手を引きながら、細い雨が斜に降る中を黄色い建物までぞろぞろと歩いて行く。入口を入ると暗い長い廊下が真直ぐに伸びていて、その廊下に列を造って待たされる。先頭から順次に名を呼ばれて医務室に入って行く。そこで上半身を裸にさせられて、背と胸とを銀色の小槌(こづち)で叩かれて、次に(まぶた)の皮を裏返しにめくられて、その二つに合格すると室と寝床との番号札を渡される。それを持って次の室へ行く。そこで当収容所に於ける生活の注意を与えられ、首からぶら下げる様に(ひも)のついたセルロイドのサックに入れた食堂「パス」を貰う。このパスがなくては飯が食えないのだ。

 廊下に並んだ人達の間では、雨に濡れた着物から発する悪臭と濡れた女の髪から発する悪臭とがむっと温かくて、暗い片隅に(うずく)まった大泉さんは、(何としても合格せんばなんね!)と本倉さんに言うともなしに言った。すると麦原さんは今一度お常を促して洗面所に行った。そして人の居ない隙をみて又眼薬をしてやった。

「佐藤勝治……妻夏」と係員が大きな声で呼び上げた。お夏は、弟や知らぬ人達の前で妻と呼ばれるのは始めてであった。彼女は伏眼になって勝治の後から医務室に入って帯を解いた。その姉の頬が林檎(りんご)の様に赤いのを弟は美しいと思った。

「佐藤勝治の母門馬くら。弟門馬義三。……妻の弟佐藤孫市」

 孫市は名を呼んでいる所員の前を通る時叱られはせぬかとびくびくしていた。姉のお夏と勝治とは本当の夫婦ではないのだ。友人の門馬勝治を婿にして形式だけ佐藤の籍に入れたのだ。そうして(満五十歳以下ノ夫婦及ビ其ノ家族ニシテ満十二歳以上ノ者)を以て家族を構成しなければ渡航費補助移民の条件に合わないからだ。門馬さんは婆さんと二人の息子、孫市は姉弟。この二組が一緒になって一家族という形式を臨時に作ったのだ。然し是は孫さんの智慧(ちえ)ではない。移民取扱海外興業会社の地方業務代理人山田さんが教えてくれた()だ。――叱られるどころではなかった。係りのお役人にとっては平凡過ぎる事である。むしろ奨励してもいゝ位だ。そうすれば海外発展の成績は上り国内の人口問題も多少は助かる。海外興業会社にして見れば移民が一人でも多ければそれだけ社業殷盛(いんせい)だし、地方代理人山田さんにしても自分の扱った移民については歩合(ぶあい)が貰える訳だ。孫市よりもうまいのは物知りの勝田さんだった。彼は移民会社に託して五千円をブラジルに送ってある。そして現に懐中に三千円を持っている。これだけ財産が有っては渡航費補助は貰えない。自費で行くとすれば家族八人二百円ずつで千六百円かゝる。そこで考え出したのが自分の十六になる娘を親戚の青年の嫁に仕立てる事だ。相手の青年は検査前の青二才だからこの男を戸主にして(しま)えば、戸主は無一文だから当然移民になれる。すると勝田さんは妻の父である。勝田一族は妻の母、妻の兄弟という名目で、かくて立派に船賃千六百円をまる(もう)けした。拓務省をペテンにかけた訳だ。

 麦原さんはお常のことが気になった。しかし眼薬の効き目で(当収容所に於て療養すべし)と言うだけでひと()ずパスした。そして本倉さんは「隣りの室で待って居れ」と言って後廻しにされた。

 後廻しにされた中に熊本から来た黒川一家があった。夫婦の間に十一を頭に九人の子がある。而もそれだけでは移民家族にならないので親戚の十三になる女の子を入籍して連れて来た。都合十二人だ。最後の子供は生後三カ月である。規則には六月未満の嬰児(えいじ)は許されないのだ。医者はこの子を見た時にはッとした。思わず、これは! と言った。

「君、ちょっと、見給え!」と彼は隣りに居る医者に言った。

「恐ろしい栄養不良だよ」

 この子は蚕の様にぶよぶよで蒼白く透きとおるような肌の下から静脈の網目がすっかり見えていた。(しな)びて皺の寄った小さな顔、眠るでもなく()めるでもなく唯ぐったりとしている表情。眼を開く力もなく声を立てゝ泣くことさえも出来ないのだ。

「乳を飲むかい?」と医者は(ども)り乍ら()いた。母親は両手にこの子を抱いたまゝぼんやりと窓の外の雨を眺めていて返事もしない。医者は父親をふりかえった。大きな体格をした父は右の手の甲で鼻水をこすってそれを左手で揉み消している。その三人を囲んでうようよと九人の子供だ。その中の三人の女の子は頭に虱が霜の降った程にたかっていて、中の一人は頭一杯の腫物で(うみ)が流れて髪が固まって悪臭を放つ中を虱が歩いている。二人の医者は呆れてこの白痴のような夫婦をつくづくと眺めた。是は人間であるか獣であるか。そして毛むじゃらな熊の様に(たくま)しい本能の姿をまざまざと見たように慄然(りつぜん)として顔を見合わした。(郷里の予備検査の医者は何をしていたんだろう?)そして兎も(ともかく)も後廻しときめた。

 体格検査の済んだ者は順々に自分達にあてがわれた室を探して階段を上って行った。四階の第九号室、室は中央に四尺の通路を空けて、あとは両側にびっしりと十二のベッドが床のように連なっている。通路には二つの長椅子と一つの長い机。大泉さんは此のベッドの上に胡坐(あぐら)をかいて、大きな肩を元気よく(そび)やかして女房と子供達とを見返った。合格した! それは愚痴を言いたくなっては押え押えして来た従順な女房にとってもほっとする事だった。(移民になるのは、やんだねは(ヽヽ)!) 彼女は幾度か夫に向ってそう歎息しようとした。しかし今は漸く夫の元気な日に焼けた顔に向って微笑を返すことが出来た。

 麦原さんの一家と門馬さんの一家とが同じ室に入っていた。他にベッドが一つだけ()いていた。大泉さんは最初に誰かに話しかけたくなった。彼は善良な明るい顔をして言った。

「お互えに、合格してえかったしなあ!」

「あ、ふんとにえかったしなあ!」と麦原さんが乗りだして来て言った。「おれや、娘がトラホー眼(ヽヽヽヽヽ)で、ほりゃ心配したし。ンだどもしゃ、此処で療治せばえンだして」

「えかったしな。あんた秋田県でねしか?」

「青森だし。秋田さ近え方だども」

「俺秋田県だし!」今まで鼻唄をうたって行李を片づけていた孫市が言った。

「湯沢だし」

「ほ! 俺あ田沢だし」と大泉さんが一層元気づいて言った。それからはもう打ちとけた話が糸をほぐす様にすらすらと出て来た。それは知識階級の初対面と違って虚栄も探索も警戒も軽蔑(けいべつ)も、一切ぬきにした急激な親しみであった。そのうえ皆が同じ目的をもって集まって来たのだ。言わば誰もかれもが日本の生活に絶望して、甦生(そせい)の地を求めて流れて行こうとする、共同の悲哀を胸に抱いているのだ。それが一層早く皆を親しくさせるのだった。そしてこれ等の友達と親しくなって行くに連れて、この幾日、家財整理やら後の始末やら、又は自分が精根を掘り埋めて来た田畑との別れやら旅立ちのごたごた迄、まるで自分が死んで行くかのように重苦しかった心、逡巡(しゅんじゅん)し、暗澹とし悄然(しょうぜん)とした心が、今になって始めて明るく揉みほぐされて行く様に思われて嬉しかった。

 ただ一人、門馬さんの婆さんだけはいつ迄たっても憂欝だった。ベッドの上に皆に背を向けて坐って、ベッドの縁の鉄枠(てつわく)に例の煙管(きせる)をかちかちと叩きつけては口をへの字に(ゆが)めていた。誰も話しかける事も出来ないほど意地悪い様子だった。婆さんは風邪(かぜ)を引いて憂欝である。それよりももっと(しゃく)(さわ)るのは勝治が佐藤の籍に入った事だ。

「だからな、ブラジルさ着いたら直ぐに籍は戻すんだ。ンでねば誰も行かれねべ!」

 と勝治がいくら言っても駄目なのだ。大体ブラジル三界まで行かねばならないと言うのが、勝治も義三も甲斐性(かいしょう)が無いからだと思っていた。(もっと)もこの兄弟は少し頭の足りない方ではあったが。

 窓の下を号外の鈴の音が走り過ぎた。雨は一層細かく霧のようになって横に流れている。港は遠く灰色にぼやけている。

「本倉さんの室、どこだしべ?」と女房が言った。大泉さんは、うむ、探して見ッかな、と言って立ち上った。廊下で銅鑼(どら)が鳴った。

「何だ?」と頭の足りない義三が言った。

「あれは飯だ」と孫市が言った。「姉しゃん飯食いに行くべ。あの食券持ってな」

「あゝ腹へった。行こ行こ」と麦原さんが女房達を促した。この女房はだらしのない女で、襟が開いて乳房が見えるのも平気だし、寝そべって膝の出るのも何とも思わない女だ。

 食堂は一階にある。四階の三十の室からぞろぞろと廊下にあふれ出た移民達は各々の室で友達は出来たし、検査には合格したし皆めっきり明るい顔つきをしていた。口笛を吹く者もあり、階段の欄干(らんかん)(すべ)る子供もある。食堂の入口に来ると制服の所員が立っていて、一々食堂パスを持っているかどうかを(しら)べている。そこを通って中に入ると、飯と菜との蒸れた臭いがむっと鼻をつく。八人に一つの長い卓を両側から囲んで坐る。同室の者は誰言うとなく一緒に坐るのだった。だが食事は何とはなしに囚人の食事を思わせる。一つの皿に油揚げと菜っ葉の煮つけたのがベタリと叩きつけた様に入れてある。大皿に八人前の沢庵漬(たくあんづけ)がある。八人に一つの飯櫃(めしびつ)と茶瓶とそれっきりだ。しかし村で散々貧乏をして来たお百姓には食える。麦原さんも大泉さんも元気に何杯も食べた。

「うまくねなあ」自転車職工であった門馬義三が言った。すると向側から孫市が、「文句は言われねえべ。天皇陛下の御飯でねかよ!」とたしなめる様に言った。

「ンだンだ」と大泉さんも大きく(うなず)いた。

 だが金持ちの勝田さんには食えなかった。殊に絹の着物を着たその女房には食えなかった。彼女は夫の耳に口を寄せ眉をしかめて「十五日まで此の御飯じゃ困りますねえ。お金を出しても他の料理は貰えないんでしょうか」と言った。勝田さんは、

「船の御飯はもっとまずいよ。麦飯だからな」と覚悟をきめたように答えた。

 食事を終って又四階まで上って行く時に、孫市は物に(おび)えたように無口でいる姉に言った。

「飯食って直ぐ四階まンで上るのも楽でねえなあ姉しゃん」

 お夏は愛する弟の元気な顔を見てそっと微笑(ほほえ)むだけであった。彼女は堀川さんの事を思っていた。紡績の女工監督の堀川さん、彼女に結婚の申込みをした男のことを。(若<も>しもあの申込みがもう一カ月早かったならば!)彼の申込みは弟が移民になるのを決心した後のことであった。彼女は当惑して、

「少し待ってたんえ。弟さ()いて見ねば……」と言って返事を延ばした。けれども、自分が結婚すれば弟の家族構成は崩れる。お夏はその事を遂々(とうとう)弟に言わないでしまった。この元気な弟、このたった一人の肉親をがっかりさせたくなかったから。そして有耶無耶(うやむや)のうちにこゝまで来て(しま)った。郷里を出るまでは左程(さほど)に苦しくも思わなかったのに、別れて来てみると、殊に外国へも行くとなってみると、今更慕わしく思い出される。彼女は弟に遅れて階段の欄干(らんかん)()でながら考え考え上って行った。

 体格検査で後廻しになった黒川一家は合格ときまった。どう考えても不合格に違いないのだが所持金がたった二十円では九州まで帰す訳にも行かない。これで親子十二人が地球の果まで行こうと言うのだ。移民になって了えばブラジルの農園までは、旅費も食費も要らないからいゝ様なものの、不合格にしたら始末に困る。トラホームでないのを幸いに医者は合格の印を()して了った。(ブラジルへ棄てにやる様なもんだが)と考えて彼は苦笑した。

 けれども本倉さんは不合格にされた。彼のトラホームは案外に悪かった。(しか)も戸主である。是が子供のことならば、その為に一家全部が不合格になる事を思って合格にすることも出来るのだが――。医者は気の毒そうな表情をして(あなたは不合格である)(むね)をやさしく言った。()くやさしく言った。すると本倉さんは眼脂(めやに)のある赤い眼をあげて医者の顔をまじまじと見た。そして問い返した。何度も何度も問い返した。それから頭を下げて頼んで見た。けれども無駄であった。

「ブラジルから送り返されてもいゝかね? え? それでは余計に辛い思いをするばかりだよ。早く療治して又来るんだね」

 本倉さんは悄然として医務室を出ると大泉さんの室を探して四階まで上って来た。大泉さんは飯の後の煙草を喫っていた。彼は本倉さんが入って行くと、おう! と喜んで言った。

「いンま訪ねて行くべと思ってたとこだ。お前の室どこだ?」

 本倉さんは(かす)かにほゝえんだ。そして此の友達と別れねばならぬ事に胸が苦しくなった。大泉さんの女房は子供を押しやってその辺りを片づけながら言った。

「さ、こゝさ上ってたんべ。(わらし)あ散らかしてばり居で……」

「俺あ不合格だ」と彼は眼をふせて言った。

「なンに?」大泉さんは息を呑むように叫んだ。彼は本倉さんの唇が(ふる)えているのを見た。涙が眼に一杯になって来るのを見た。室の中はしんとして了った。麦原さん、その女房、お常、お夏、門馬兄弟、孫市、誰もが動かなくなって了った。大泉さんは大きな眼をして友達を凝視(ぎようし)している(うち)に胸が段々熱くなって来た。彼はむくむくと立ち上るなり煙管を(ほう)り出してベッドの鉄枠を(また)いだ。

「こゝさ待ってれ、おンれや懸けあってやっから」

「待ってけれ待ってけれ!」本倉さんは彼の大きな胸に(すが)るようにして押し返した。

「待ってけれ、お前行ったとて何ともなんね。おれや何ぼ頭下げで頼んで見たか知んね。ンだどもしゃ(ヽヽ)、ブラジルから戻されだら何とすッかってな」それから呆然(ぼうぜん)としている友達の女房をかえり見て自分を(あざけ)るように言った。「おかみさん、おれや行かれねくなりましたからなしゃ(ヽヽ)、どうぞ、御機嫌えくなあ……」

 大泉さんは幅の広い肩を(ふる)わせて「いつまでンでもお前と二人で働くべと思ったになあ」と言って泣いた。今朝収容所に着いた時に連れが多いから心細くなくてよいと言ったのは此の男だった。それがいま孤独にされて(しま)ったのだ。

「今からお前、何とする」と彼は言った。

「何ともなんねべや」本倉さんは少し棄鉢(すてばち)に言った。「兎に角一遍帰って見て……」

 帰って見たら何があるだろう。生涯帰らないつもりで一切の(きずな)を断ち切って、家も売り田も地主に返したではないか。帰っても何も有る筈がない。郷里の予備検査の医者は大丈夫だと言ったではないか。あいつが嘘をつきゃがった!  だが今それを言って何になろう。帰って見ても何も有りはしない。と言って帰るより他に仕様がないではないか。

 大泉さんは日に焼けた頬に光る涙の筋を拭こうともせずに、女房が信玄袋から出して呉れた四合瓶を持って長椅子に坐った。別れの盃だ。これは郷里の思い出の酒「爛漫(らんまん)」である。本倉さんは暗い心のまゝでアルミニウムのコップ酒を受けた。恐らくはもう生涯会うこともあるまい。(にが)い冷酒の味であった。

 やがて大泉さん夫婦に収容所の玄関まで見送られた本倉さんは、妻と五人の子供達を連れて、行李を(にな)い風呂敷包みを提げてぬかるみの坂道を黒い一群の影のように見すぼらしくなって下りて行った。煙のような雨が横に吹き流れていた。彼等の後からフランス人の若い娘が赤いスカアトを見せて、男と腕を組んで、相合傘で歩いて行った。

 午後三時、合格して愈々(いよいよ)移民となった九百五十三人は、五階にある講堂に呼び集められて、当収容所に於ける一週間の生活の注意を与えられた。それは実に噛んで含める様なこまごまとした注意であった。女は必らず洋服を作ること、買物は組みになって買えば安いこと、便所は水洗式と言って洗い流す様になっていること、布や綿を流すとパイプが詰ること、絹物はブラジルで高い税を取られるから持って行かない方がいゝこと、等々。

 この注意が終って解散すると、早い黄昏がやって来た。収容所の前に並んだ「渡航用品廉売所」を始め見下す街々には灯が()いて、港には船のあかりも点々と見え、はるかに気笛のぼうと鳴る音も聞かれた。(さば)の煮た切身が一切れずつついた夕食が終って第一日目の夜が来ると、どの室もどの室も始めてゆったりとした気持になって来た。それはもう十日余りもの緊張と不安とからやっと解放された疲労と安心との喜びであった。大泉さんは生の(するめ)を取り出して四合瓶の(せん)をあけて麦原さんや孫市やにすゝめた。

「大分いける方だしな」と麦原さんはアルミニウムのコップ酒を受けながら言った。

「ほう、俺あこれせえ有ればな。……不合格になった友達な、あれとよく一緒に飲んだし」

「毎晩だしか?」郷里の友達に葉書を書きながら孫市が言うと、大泉さんの女房は子供に寝巻を着せながら答えた。

「毎晩だし。風邪(かぜ)ひいて御飯だばくわね時でもこればりあ何ぼでもねは(ヽヽ)

 この女房はいつも夫の大きな背中の後にかくれている様に、つゝましくしおらしくて、四十幾年の彼女の年齢に柔らかく温められて来た様に気持よく年とっていた。

 廊下では子供達が走ったり(まり)を投げたりしていた。四階の九号室と向いあった十三号室では会津若松から来た三浦さんが、同室の人達に酒をふるまって米山甚句(よねやまじんく)やら、さんさ時雨(しぐれ)やらを(うた)っていた。三階の勝田さんの室では戸主名義になっている青年が花嫁名義の従妹のマンドリンを弾いて、花嫁の兄貴はハモニカを吹いて、金婚マーチの合奏をやった。その間に勝田さんは大島の着物に胡坐(あぐら)をかいて九州人の中津井さんを相手にブラジル講義をやっていた。彼は信州の海外協会支部長をした事のある地主であった。

「どうもこうよく考えて見ると言うと日本の農業はその、何と言うか、行き詰っとる! どうも私なんかが人に土地を借してやらしとるのが、毎年毎年それが感じられる。(しか)も年毎にどうもそれが切実にな、見えて来るんですな。これじゃあ仕様が無いから一つ今の中に何とか新生面を切り開かにゃならんと思ってなあ、そこでまあ今度ブラジルに土地を買いましてな、アリアンサ植民地と言う所ですがなあ、行って見る様な訳ですがね」

 中津井さんは一向に話に乗って来ないでいつ迄も沈んだ顔つきでいる。勝田さんは話に油が乗らない。そこで別の人に話しかけた。

「時にあんたあ、御一人きりですかい」

 五十がらみの無精髭(ぶしょうひげ)を生やした堀内さんは風邪気味の鼻声で、えゝと言った。

「すると、補助単独移民の方ですな」

「へいや、わしあ再渡航ですらあ」

「おう、そうでしたか」

 と勝田さんは掘出しものをした様に元気づいて言った。

何時(いつ)お帰りになりました?」

「昨年の十一月ですらあ、ヴェノス・アイレス丸でなあ。その、息子をなあ、やっぱり日本の小学校へ入れてやりてえ思えましてなあ。連れて戻って親戚い預けて行きますんじゃ」

「向うにも良い小学校はあるそうですが?」

「いや、余り感心せんとお見んせえ」

「珈琲園の請負農夫(コロノ)賃銀が下って問題になりましたね、あれはどんなもんです?」

「なあに」相手は撫然(ぶぜん)とした調子で言った。「働き居る者あ食えんことあ有りませんわえ。日本と違うてなあ……日本じゃ働えても食えん言うとりますけんのう」

「そうするとやっぱり日本よりあ良い訳ですなあ」と勝田さんは膝をゆすって(よろこ)んだ。

「そうですなあ、まあ、暢気(のんき)なだけ、えゝでへうかなあ」堀内さんは考え考え言った。

 労働が暢気なのだ、と勝田さんは思った。暢気に働いていれば食って行ける。土地は肥沃だし気候は良いし物価は安い! これこそ地上の楽園である様に思った。然し堀内さんはそう言う意味で言ったのではなかった。珈琲園の労働は日本の農業に劣らず苦しい。変化にも乏しい。移民達は誰一人本当のブラジルを知ってはいない。空想だ。話に聞いたブラジルの良い所に日本の良い所だけを付け加えての空想だ。事実のブラジルは大変なところだ。僻遠(へきえん)の農村はこの世から隔離された別世界だ。隣りの部落迄は近くて三里遠ければ十里、そこにはラジオは愚か新聞雑誌は愚か、郵便の配達さえもない。百姓達は土間に自分で寝台を作って住む。働くと食うと寝るより他にする事もない所だ。猛獣も居れば毒蛇もいれば(わに)もいるが医者の居る部落は殆んどない。そしてマラリヤの絶えざる脅威がある。その他名も知らず素性(すじょう)も知れぬ毒虫共が家の軒に住み土台の間に住んでいる。そんな事は移民は誰も知りはしない。けれどもブラジルへ行った移民達は一向に帰って来ようとはしない。これら無数の迫害よりももっと恐ろしいものが日本にあるからだ。日本の農村の津々浦々までも行き亘った文明の脅威に比べれば猛獣毒虫の迫害はまだ何でもないのだ。日本の農村のどこに農村らしい駘蕩(たいとう)としたものがあろう。生活の絶えざる脅威と圧迫、絶えざる反抗と焦慮、不安と怒りと絶望とが有るばかりだ。ブラジルには数百千町歩の大地主の簡素な邸を取り巻いて二十軒三十軒の淳朴(じゅんぼく)農奴(のうど)にも似た農民の家がある。部落の百人百五十人は全部顔見知りで、他との交通が少ないから十日以上も知らない顔を見ない事もある。法律の有りや無しや、政府の有りや無しやにも無関心に、都では政権争奪の革命が五年ごと十年ごとに起るのに、知る人もなく語る者もない。野飼いの牛は夕方になると沼地から鳴きながら戻って来るし鶏は裏のバナナの下で眠る。関心事は珈琲(コーヒー)(みの)りと子供の成長とだけである。桃花源の物語りにも似た悠々たる生活は、昨日と今日との間に何の区別もなく、昨年と一昨年との間に何の変化も無い。堀内さんはこれを指してブラジルの方がいゝと言ったのであった。彼は珈琲園に四年間働いた。世界のことは愚か日本の事さえも年に一度か二度か風の便りに聞くばかりで、言わば何一つ知らずに、日の出から日没まで汗だくになって働いた。今から思えばそれが楽しかったのだ。彼が十一月に日本に帰ってからは、岡山県の山の中の弟の家にいたのに、どれだけ多くの事を知らねばならなかったか。東京市会議員大疑獄に次いで藤田謙一の合同毛織事件と天岡直嘉の売勲事件。山梨半造が釜山(ふざん)取引所事件で起訴され小川平吉が私鉄疑獄で引っぱられた。その次に樺太(からふと)山林事件があり明政会事件もある。最近には現職文部大臣が収賄(しゅうわい)事件で辞任して今朝は起訴されている。こうした政界財界の腐敗の一方には一月の金輸出解禁とそれに伴う消費節約のどさくさ、引き続いての各地生産業者の困憊(こんぱい)。すると財閥の売国的ドル買事件と国民の憤激。一月二十一日には議会は解散された。二月二十日には総選挙。その繁雑さの後には選挙違反、それから工場のストライキと共産党事件の裁判と、次は軍縮会議だ。次々と起ってくる是等のめまぐるしい事件を日毎に知らされるだけでも彼は身も心もさむざむとする様に思い、母国の終焉(しゅうえん)を見るように悲しかった。むしろ何も見ず何も知らないに限ると思った。彼は今は日本に何の未練もなく、むしろ逃げる様な気持で出発の日を待っているのであった。

 翌朝、味噌汁と沢庵漬(たくあんづけ)との朝飯が済むとすぐに腸チブス予防注射があった。この注射という事が移民達には実に珍しい経験である。痛いとか赤くなったとか()むと痛まないとか、それが午前中一杯の話題になった。

 正午近く、一人の収容所員が和服にソフト帽の二人の男を案内して三階の勝田さんの室の扉を開けた。

「九州の中津井さんて人、居ますか?」

 中津井さんは二の腕をまくり上げて注射のあとを揉んでいたが呼ばれると妙におどおどして廊下に出た。彼が一足踏み出したとき見知らぬ男は一歩近づくと見ると、彼の右手に素早く捕縄(ほじょう)をからみつけた。刑事であった。

 中津井さんは黙っていた。反抗しても無駄なことを知っていた。唯さっと顔色を失ったばかりであった。詐欺(さぎ)拐帯(かいたい)。――三階の室という室からは人々がどっと廊下に流れ出した。騒ぎは忽ち四階まで波及して三階に向って階段を一杯になって駈け下りて来た。その人波を分けて二人の刑事は中津井さんの頭に帽子をあみだに乗せて階段を下りて行った。

 室の中では残された女房が泣き崩れて、三人の子供は訳も分らずに母に取りすがってわっと泣いた。勝田さんの娘はこの女房が怖ろしくて廊下に逃げ出して(ふる)えていた。堀内さんは撫然(ぶぜん)として溜息をついた。何と言うあわただしい日本だろう! そして泣いている子供の一人を膝に抱き取ろうとしたが、子供はふりもぎって母の腕に飛びついて泣いた。

 一時間の後、この女房は子供達に着更えをさせ、男手を失って重くなった荷物をまとめて収容所の玄関を出て行った。窓という窓からは見えなくなるまで皆が見送っていた。昨日の雨は()れていたがまだぬかるみの坂道を、まるで身投げをしに行く親子のように悄然(しょうぜん)と下りて行く哀れな後姿であった。

「あの女房は亭主のやった事を知っていたんじゃないかな」後姿が見えなくなると、直ぐに勝田さんが言った。それからどの室でも口々の批判が始まった。門馬勝治は、なんぼか悪い事をしたべな、と言った。麦原さんの女房は、「やンだねはア。悪い事すんもンでねえなア。こわやこわや」と言ってごろりと横になった。

「日本を逃げる気でいたべな」と麦原さんが言うと大泉さんは大きく首肯(うなず)いてから、

「ンだなしゃ。ンだどもしゃ、ブラジルさ行ったら真面目に働くつもりであったかも知んねなぁ」と考え考え言った。

「見逃してやッこども出来ねもんだか知んねなあ」と孫市は眼をうるませて言った。然しこの若者は元気で、活溌で永く悲しむ事の出来ない男だった。三分も()つと鼻唄をうたった。(日暮れになると涙が出るのよう……)そして彼の快活さが門馬さんの婆さんには気に食わないのだ。婆さんは風邪で熱が少しあった。そしていつまでも勝治が佐藤の籍に入った事をぶつぶつ言った。そうしなければ移民になれない事は分っている。分っているから余計腹が立つのだ。

 午後になると又昨日の様に五階の講堂に集められて、渡航用品の話、買物の注意、現金を移民会社で預かるというような話があった。係員は懇切で雄弁であった。

「船へ乗ったらもう皆さんの小遣いより他には一銭も()りません。煙草代と子供さんのミルク代だけ持っていれば宜しい。サントスに上陸してからの汽車賃、荷物運賃、サンパウロ収容所の経費、みな州政府が補助してくれます」と言うような話の間々には、子供が泣いたり母親がドアをあけて出て行ったりした。

 お夏は講堂に居なかった。彼女は講堂へ行くような風をして弟を()いて又室へ戻って来た。門馬さんの婆さんが独り窓に坐って淋しそうに遠い海を眺めていた。お夏は懐から手紙を取り出して封を切った。堀川さんからであった。綿々たる(うら)みを()めた手紙。自分に一言の返事もせずに行ってしまうのは余りひどい仕打ではないか。応ずるにしても拒むにしても返事くらいして呉れてもいゝではないか。又帰るつもりなのか。若し帰って呉れるならば何年でも待とう。

 読み終った手紙をふところに入れて窓に(ひじ)をついて見る。この高い四階の窓からは三ノ宮あたりを一眸(いちぼう)に集めてその向うには港の出入りの船も霞んで見える。一年経ったら帰って来よう、きっときっと帰って来よう。それは弟も堅く約束してくれた事である。移民は指定された珈琲園に満一年は居なければならない規定だから、それが済んだらきっと姉さんを送って一度帰って来ると弟は言ってくれた。堀川さんには済まないが今日までは返事が出来なかったのだ。郷里を出るまでは板ばさみであった。堀川さんには移民になるとは言えないし、弟には堀川さんへ嫁入りしたいとは言えなかった。あの人は怨んでいる。きっと怨んでいるだろう、と思った。けれども彼女は泣かなかった。彼女はどんなに悲しい事があっても泣かないのだ。弟に最後の承諾を与えた日、井戸端の暮れなずむ雪の中で、紡績から帰って来た姉を弟は熱くなって口説(くど)いたものであった。

「俺あ今日まで姉しゃんさ(ただ)一遍も迷惑かけた事ねえべ、な! 一生のお願えだよ。その代り姉しゃんは一年きりで帰るんだ。な!」

 お夏は何とも言わなかった。寒さに頬が(あか)くて眼がうるんでいた。旧正月前だったから髪を桃輪に結っていた。その髪に綿屑が白くて又その上に雪が降った。

「門馬さん、何て言ってだ?」

「賛成だ。たゞ門馬さんの母さんがな、勝治さんを俺ぁ家の籍さ入れること反対だと。晩景に俺あ行って話つけで来ッからな。その前に姉しゃんの決心聞がえでけれ」

 隣りの家で塩鮭(しおざけ)を焼く匂いが井戸っぷち迄も流れて来て、西の丘の林が真黒く暮れ落ちた。畠は雪で真白い。お夏は頬の赤い二十三の娘だった。去年の秋に父を失った二人きりの姉弟である。弟は春になれば検査がある。それはもう合格に(きま)っている。すると二年は兵隊だ。だから四月までにはブラジルへ出発しなければならない。お夏は冷えた指を四本までも紅い口に(くわ)えて温めた。

「ふんとに門馬さんさ嫁ぐだば、おンれや、やあだなあ」と姉は言った。

「大丈夫だって何遍言わせるんだべなあ! 名義だけだ。ブラジルさ着いたら直ンぐ籍返すんだよ」と弟は頬を赤くして言った。

 そうしなければ行かれない事はよく知っていても、何度でも念を押して見たかったのだ。彼女は堀川さんの事を思っていた。上品で、思いやりがあって女工達みんなに慕われている堀川さんのことを。井戸から湯気がもやもやと闇の中に立ち上って、足の下で足駄が雪に()みつく音がした。弟の頭は白髪に見えるほど粉雪がふっていた。風のない夜だからこの雪は朝まで続くかも知れない。

「ンだば、お前、えゝ様にしてけれ」

 彼女はやっとそれだけ言った。それが最後の決心であった。姉思いのやさしい弟の犠牲になって、恋しい人を一年の間忘れていようと思ったのだ。その時でもお夏は泣かなかった。いま移民収容所の窓に(もた)れて、弟の眼を盗んで男からの怨みの手紙を読んでいても、やはり涙一つこぼさないお夏であった。返事を出したらあの人は待って呉れるだろうか。待ってくれるとも思うし不安にも思う。そして港を遠く眺めながら日数をかぞえて見た。あと五日、五日たったら日本を離れるのだ。

 その時、煙管を横に(くわ)えた門馬さんの婆さんが、向うのベッドの上からそっぽを向いたまゝで言った。

「勝治がお前達の籍さ入らねだって、お前が俺あ家の籍さへったらえかったべや」

 お夏は不意を突かれてどぎまぎして、この婆さんが怖ろしくておずおずと答えた。

「何だか、おンれや良ぐ知んねどもねは……」

 講堂からどかどかと雪崩(なだ)れを打って降りて来る人々の足音が聞えて来た。

 夕食の後で三時間ばかりの外出が許された。けれども予防注射の発熱で、外出した者は少なかった。収容所の前の一区画は全部が移民のための「渡航用品廉売店」である。それは小さな安物百貨店であり十銭ストアである。移民達は先ず労働服を買った。それから鍋釜(なべかま)、石鹸、洗濯盥(せんたくだらい)、ゴム靴、御飯杓子(ごはんじゃくし)から、亀ノ子タワシに至るまで買い求めて来る。女の簡単服を註文すると翌日出来上る。そしてあと五日の中にはすっかり支度が出来上って南国の旅に上る。恰度(ちょうど)、秋の中頃の晴れた日に南へ渡る(つばめ)の群が高い電線に勢揃いするのと同じように、この収容所とその附近とは移民達が旅立ちの勢揃いをする電線であるのだ。

 孫市は労働服を買いお夏は緑色の簡単服を註文し、弟にかくして手紙を投函(とうかん)した。大泉さんは一升瓶を買った。勝田一家はまずい収容所の夕食をやめてレストランでカツレツ等を食って新聞を買って帰った。彼等は久しぶりに浮世の風に当ったように元気づいていた。

 勝田さんの息子は帰ってくると早速マンドリンを弾きはじめた。風邪気で毛布をかぶっていた堀内さんが不意に言った。

「あんた等あ踊りあ踊らんのですか」

 ダンスの出来る者は誰もなかった。

「ブラジルじゃあよう踊りますぞ。土曜日の晩やこうもう、黒んぼも半黒も一緒くたンなってダンサあしますがなあ。何が面白えか思えますがなあわし等あ」と彼が言った。

「日本人も踊りますか?」と楽手が()いた。

「へえや。日本人は踊りません。なして踊らんのじゃ言うて黒んぼ等が言いますがな」

 勝田は爪楊枝(つまようじ)を使いながら新聞を開いて、ふむ! と唸りながら、一千九百円、一万二千五百円、と胸算用をした。それから又堀内さんを相手に講釈を始めた。この日の朝生糸(きいと)の糸価保証法の条件が正式に発表されたのである。

「どうですね是あ。え? 政治家と言うものはこう言う事しかやらん。ねえ、これあ政友会の言うのが本当ですよ。民政内閣はあんまり良くない。一寸マンドリンをやめえ」

 ……政友会は是を以て現内閣の緊縮政策の行き詰りであるとし殊に八日の糸価委員会で決定した具体的条件に至っては企業家特に金融業者の鼻息をうかゞい是が利益擁護に重点を置き生糸貿易業者殊に養蚕家の利害は全然無視したもので現内閣の消費節約緊縮政策は中小商工業者勤労農民細民階級を犠牲にした金融資本家の利益擁護の手段以外の何ものでもない事を暴露(ばくろ)し金解禁の時期を失していた事を事実に於て物語るものであると見ている……と読み終えて、「ねえ」と一膝乗り出した。「日本で養蚕をやっている農家は二百万あるんですよ。この二百万の営々辛苦を犠牲にしてねえ! それで農民救済が出来ますか。ねえ、緊縮政策も結構だが緊縮のおかげを(こうむ)るのは誰です? 百姓が一人でも助かるか、ね、農民が一日でも楽が出来るか。ね、義務教育費国庫負担額を何ぼとやら増やすそうですが、それが一村当り何ぼになる。私や計算しては見んが三十円にもなりますかい。え? 何のために此処に千人からの移民が居るかっていうと農村が食えないからだ。その食えないってのが抑々(そもそも)政治家が農民百姓を馬鹿にしとる。移民にゃ二百や三百の船賃を出して呉れるのあ、こりゃ当り前だろうと私あ思う!」

 声が段々高くなって、新聞を叩いて一度弁じたところで堀内さんは、やはり背に毛布を引っかけたまゝ、例のおっとりした調子で、「わしゃなあ」と岡山弁で言い出した。

「移民言うものは、これあ、まあ、落葉あみた様なもんじゃと思うとりますわい。つまり村で生きて居れるだけ生きてなあ、葉の青え(うち)は……。どうにも生きられん様になった者あ枯れて落ちる。落ちたところでまあ、此処へ(つど)うて来るんじゃと、なあ。つまり収容所言うものあ落葉の吹き溜りですらあ。それがブラジルに行たらまた何とか落葉から芽が出てなあ」

「ふむ」と勝田さんは言った。そして(俺はその落葉の中ではない)と思った。

 四階の九号室では大泉さんが冷酒で顔を赤くしていた。

「蒸気通せば、何とぬくいもんだな」

「炭とどっちゃ得だべな」と女房が言った。

「飲んだ酒あ腹ン中で(かん)されるべしゃ(ヽヽ)」と麦原さんが言うと二人でどっと笑った。

「少しあつ過ぎンな」と孫市が言った。「炭だは灰ぶっかければえゝどもしゃ」

「ンだな」と麦原さんが答えた。「とめる事も火コ掘ることもなんね。便利だようで不便だなしゃ(ヽヽ)

 そしてまた皆が笑った。バルブでスチームを調節出来ることを誰も知らなかった。

 麦原さんの女房は子供と一緒に寝そべって、

「やンな気持だねは。注射で熱出たべかな」と言った。門馬さんの(ごう)つく婆さんは風邪の上に注射の熱で叩きつけたい程の不平をこらえて早くからふて寝をしていた。廊下を隔てた向うの室から会津若松の三浦さんが酒を飲んで歌う自慢の唄が手に取る様に聞えて来た。

「何と向うは陽気だな」孫市はそう言って小声でついて唄いながら買って来た労働服を着て見ようとして帯を解いた。大泉さんが「こっちゃも一つやッかな!」と、アルミニウムのコップ酒を左手に危うく持ったまゝ女房をかえりみて笑うと、大きな肩をゆらゆらとゆすりながらうたった。

 ハア秋田名物八盛雷魚(はちもりはたはた)男鹿(おが)では男鹿(ぶり)

 すると勝治も孫市と一緒になって唄った。

 能代(のしろ)春慶、檜山(ひやま)納豆、大館曲(おおだてま)げわっぱ!

 女房達まで混って皆でどっと笑った。大泉さんの女房は、大変御機嫌だこどねは! と言って夫の崩れる様な笑い顔を眺めた。孫市は労働服を着終って、

「どうだ姉しゃん、似つかねか?」と言った。

「兵隊のようだな」と義三が言った。

「青年訓練所だべしゃ」とその兄が言った。

「ンだな……どうです大泉さん」と孫市が言った。麦原さんが横から問いかけた。

「佐藤さん検査終えだしか?」

「まンだ。俺あ今年。……危ねくとられるとごでした。きっと合格だものなしゃ。おっかなくて逃げて来たようで気イ(とが)めでなしゃ」

「逃げで来たべや」と不意に義三が言った。それは変に憎憎しげな調子であった。

「馬鹿あ!」孫市は言下に強く言った。「兵隊がおつかねえ様な俺だと思うか」

「口でだば何とでも言えッからな」

「馬鹿め! あんまり出鱈目(でたらめ)言うな。やられるぞ」

 けれど義三は屈しなかった。普段から馬鹿扱いにされている腹いせでもするように妙に真剣になって突っかゝって行った。

「俺あ覚えてるぞ。お前なんて言った? 四月までにブラジルさ行がねば引っぱられっから早く行くんだと言わねかったか?」

「言った。それが何とした?」と孫市が言った。

 向いの室では三浦さんが何かを叩きながら良い声で八木節(やぎぶし)をうたい出した。

 ……四角四面のやぐらの上でエ

   音頭とるとは(おおそ)れながらア……

「言ったが何だ。兵隊さ行けば二年待たねばなんねべ。ンだから早く行くんでねかよ」

「ンだから兵隊さ行きてくねえべ。あんまり忠義でねえぞ!」

「何だ!」と孫市は胡坐(あぐら)をかいていた片膝をぐいと立てて身構えをした。「本気だな? 本気だな? 畜生! てめえは何だ? 第二乙でねか。第二乙が忠義か馬鹿! 姉しゃんさ聞いで見れ……な姉しゃん俺あ一遍でも兵隊さなりたくねって、言った事あッか?」

 お夏は恥かしさに頬を赤くして悲しげに弟を見上げると、やめれお前、と言った。

「姉しゃんさ聞かねでも分ってだ」と義三は悠々(ゆうゆう)として言った。

「何が分ってだ」と孫市はまた向き直った。

「お前はあんまり忠義でねえ事がよ」

「ようし。もう一遍言って見れ!」

「あんまり忠義でねえよう」

 孫市は立上ってベッドの縁に足をかけた。一飛びに通路を跳び越して義三に(おど)りかゝろうとした。その時、(ごう)つく婆さんがむくむくと起き上って、枕の下に置いてある煙管をとるといきなり義三の首筋のあたりを二つ三つ続けざまに(なぐ)りつけた。義三は飛び上って壁の隅へ逃げると首筋を押えて、痛えなあ、と唸った。

「こンの甲斐性無し!」と婆さんはひとこと言うと、肩をゆすってぶつぶつとつぶやきはじめた。これはひどく皮肉なやり方であった。煙管は当然孫市を擲るべきものであった。流石(さすが)に孫市を始め室中全部が呆然(ぼうぜん)として身じろぎもしなくなった。殊にお夏は顔も上げられぬような思いがして、まだ義三と(にら)みあったまゝ呆れて突っ立っている弟の労働服のズボンを引っぱった。しんとして座の白けたところに三浦さんの八木節が陽気に聞えて来た。

 ……あまた女郎のあるその中でエ

   お職女郎の白糸こそは……

 歌が終り、拍手や、笑い声が起り、又次の歌が始まった頃になって(ようや)く麦原さんが、さあ、そろそろ寝ッかな、と独りごとを言ったのをきっかけに、大泉さんも酒瓶を片づけ麦原さんの娘も帯を解いた。婆さんがいつまでも淋しげに肩をゆすって坐っているのにかまわず、義三も勝治も莫大小(メリヤス)のシャツとズボンとになって毛布をかぶった。孫市は労働服を脱いで用便に立った時に調子の良い口笛を吹いて行った。然しそれは誰の耳にもわざとらしく聞えていたわしかった。彼は窓際のベッドに戻るとよいしょ! とかけ声をかけて横になった。お夏がその隣りで、一つ空いたベッドの向うに麦原一家が居た。孫市は床の中で煙草を()つた。中々眠れそうになかった。やがて廊下に足音がして、室内の電燈が消された。十時であった。室は()硝子(ガラス)を透す廊下の明りでほのぼのとしていた。孫市は自分が本当に忠義でないかどうかを考えていた。自分では断じてそうは思わない。しかし室中の者が疑っているかも知れないと思った。義三と喧嘩をした時に誰も俺に加勢して呉れなかった。それが疑われている証拠だと思った。すると頬に(かっ)と血の上るのが感じられて、段々自信がなくなって来た。自分が本当に卑怯者であるように、心細くなった。彼は頭を廻して低く、姉しゃんと呼んで見た。姉は答えなかった。姉に()いて見ればはっきりするだろうと思ったのだ。姉に助けて貰いたかったのだ。

 お夏は眠ってはいなかった。自分の考えに(ふけ)っていたのであった。室の中には大泉さんの高い(いびき)ばかりが聞えていた。堀川さんはもう寝たろうか、手紙は何日かゝれば着くだろうか。彼女は手紙の文句をもう一度考えていた。それは大変に短い手紙であった。長い手紙などは到底書けもしないし、又彼女の表情の少ない性格からはくだくだしい愛の言葉や儀礼的な文章が出て来る訳もなくて、自然手紙は半紙に鉛筆で半(ページ)にもならなかった。それでも夕方講堂の人の居ない所で、見る人もないのに恥かしさに顔を赤くして考え考え書いたものであった。

(お手紙を読みました。私は一年たったら帰ります。弟が可愛そうでしから行かねばなりません。をこらないで居てくださえ。おたっしゃで居てくださえ。私もたっしゃで居ります。きっと帰りますからをこらないで待って居てくださえ。さようなら。紡績の皆さまによろしく言ってくださえ。さようなら)

 一年の間に()しも堀川さんが紡績の誰かをお嫁に貰って(しま)ったらどうしょう。それは不安でなくもなかった。けれど圧制に()れ諦めることに馴らされている雪国の女であるお夏は、やがて吐息をつきながら従順な安静な心になって行くのであった。

(此処まンで、離れて了ったもの、やきもきして見たとて、何ともなんねべや!)

 そしてとんと弟に背を向けると、唇まで毛布を引っかぶって安らかな眠りについた。

 三月十日、収容所生活の第三日目、恐ろしく寒い日であった。午前中はブラジル語講習が開かれた。これは困難な事であった。アルファベットから教えるだけの時日はない。それに書く事よりも先ず話すことが必要であると言うので、講師は片仮名ばかりの講習をやってのけた。移民達は唐人の寝言にひとしい事をノートに書き口の中でつぶやいた。

 ボン・ジャ、お早う。ボア・ノイテ、今晩は。コモバイ、御機嫌如何(いかゞ)です。シン・シニョール、はい、あなた。

 これではどうも頼りなくて仕様がない。けれども講習が終って廊下に出ると勝田さんの息子のモダンボーイは妹の亭主の肩を叩いて、コモバイとやってのけた。相手は狼狽(ろうばい)して、朝の内からコモバイは早過ぎるぜと言った。是はボア・ノイテと勘違いしたのだった。歌のうまい三浦さんは同室の男をつかまえて文句を言い出した。

「えゝか、一がウンだぜ。それなら二はニウンで三は三ウンだろう。二がドイスたあ何でえ。三がトレスだってやがら。はッはッは」

 午後はブラジル衛生講話があってまた講堂に集められた。これは結局マラリヤ予防に塩酸キニーネを飲めと言うだけの事であった。種々な病気はあるが注意さえすればかゝりはしないと言うのだ。それは分りきった話だった。

 講話が終えて室へ戻って来たところで、四階の九号室の扉を開いてスーツケースを持った見知らぬ男が入って来た。まだ若い臆病らしくおどおどした様子の会社員らしい男であった。彼はベッドに坐って弟の羽織を畳んでいたお夏に向って言った。

「此のベッド空いているんですね」

「ンだし」とお夏は狼狽(あわ)てて答えた。

 彼は移民監督助手になって渡航する植民雑誌社の小水君であった。

 彼が身のまわりを片づけている様子を門馬兄弟や大泉さん達が疑問を以て眺めていた。これは移民らしくない男であったから。そうした堅苦しい空気を敏感に感じた小水君は先ず手近に居た孫市に向ってにこやかな表情を見せて声をかけた。

「君達あいつから、八日から来てるんですか?」

「ンだし、今日で三日目だし」

「あゝそうですか。はあ。……あと五日ですなあ。もう、支度は済みましたか」

「ンでねンし。まンだ、これからだし。あんたは、おひとりだしか?」

「えゝ、僕独りです。はッはッは」と()った歯を見せて小水君は意味なく笑ってから、

「監督の方のね、仕事をね、手伝う事になってるもんですからねえ」と言った。

「あゝ監督さんだしか?」孫市は敬意と(おどろ)きをはっきり見せて言った。「道理で、何だか移民の様でねえがと思っていたし」

 小水は返事の代りに意味もなく笑った。

 大泉さんがどうぞ(よろ)しくと挨拶すると、その女房も一緒に頭を下げた。麦原さんも挨拶した。彼の女房は監督と聞くと投げ出していた足を引込めてお常と顔を見合せた。行儀の悪いことまでも監督は叱るものだと思ったのかも知れない。門馬さんの婆さんは独り監督を黙殺して了った。小水君は皆の歓迎に気が大きくなって、いや、いやと挨拶に答えながら金口の外国煙草を出して火をつけた。お夏は隣りのベッドに坐られたので急に居辛くなって、もぞもぞと弟の方へいざり寄って窓に(もた)れた。

 夕食の後でまた買物が始った。五人七人と群をなして外に出ると一様に前の廉売店に押しかけて行くのだ。

 お夏は弟と二人だけで外に出ると労働服の弟の肩に肩を触れて歩きながら言った。

「お前今日元気ねえな、何とかしたか?」

「うんう、何んともしね」と弟は言った。

「ンだばえゝどもしゃ」と姉は疑わしく尻上りに言った。そして昨日註文した彼女の洋服を受取りに行った。それから靴下と靴とを買った。弟は何も買わないでむっつりと煙草ばかり喫っていた。

 店を出ると暮れかゝった空からちらちらと雪が降って来た。おンや雪だ! と姉が言った。それから、

「道理で寒かったな、今朝から」と言った。

「なあ姉しゃん」弟は変に改まって言った。「姉しゃんの考え聞がえてけれ。な、おれや本当に、あんまり忠義でねえか知んねえなあ」

 姉は急には答えなかった。弟がまだあのことに悩まされているのを不思議なように思った。

(おれや女だからよく分らねかも知んねども)そして弟を気の毒に思った。それで弟は、姉も(また)自分と同じ考えに迷うているのだと思った。すると忠義に対する悲壮な犠牲の感情に胸が熱くなった。

「俺は忠義でねって言われる(くれ)えだら、ブラジルさ行がねつもりだ!」と弟はきっぱりと言った。少くとも姉にだけは自分の本当の立場を信じて貰いたかった。

 お夏は永いこと黙ったまゝで歩いた。雪がだんだん数をまして来て、うつ向いた胸のあたりをかすめて散って行った。収容所の玄関に近づいた時になって彼女はやっと口を切って、おだやかに愛情を()めて言った。

「義ン三さんの言うことだもの、あんまり気にすんな」

 それを聞くと弟は淋しくなった、むしろ裏切られたような孤独を感じた。姉には断乎として他人の疑いを晴らせと言って貰いたかった。そうすれば自分は泣いてブラジル行きを抛棄して見せようと思っていた。彼は宙ぶらりんな気持のまゝで四階までの長い階段を上った。階段の両側からは歌をうたう声、子供の騒ぐ声、ハモニカの合奏などが(にぎ)やかに聞えていた。今夜は早く眠りたいと、彼は思った。

 その夜、お夏は夢を見た。それは恥しい夢であった。そして襟元に汗をかいていた。眼がさめたとき彼女は、小水助監督の眼鏡をはずした青白い顔が、すぐ眼のまえにぼんやりと浮いているのを見た。それさえも夢の続きのようであった。部屋の中は廊下の灯でほの明るく、スティムがむんむんと熱かった。大泉さんの(いびき)が枕に近く聞えるばかりで、窓硝子に触れる粉雪がさらさらと深夜に白く降り積っていた。

 お夏はほとんど抵抗する(すべ)を知らないような娘であった。彼女は助けを呼ぶこともせず、僅か二尺しか離れない(とこ)に寝ている弟を呼び起そうともしなかった。静かに顔をそむけて眼を閉じたまゝ意志を失った(なご)やかさで横わっているばかりであった。

 寝牀はこの部屋の両側に五つずつ敷き(つら)ねてあったのだから、罪はこのような部屋の設備に有ったかも知れない。孫市もまた不注意であった。彼はこの牀の位置を変えて、姉を窓際に眠らせてやるべきであった。彼女は殆んど小水助監督を無視しているようにさえも見えた。彼が黙って自分の牀に帰ってしまうと、お夏は彼に背を向け、毛布を唇まで引き上げてそのまゝ眠ろうとするのであった。

 彼女に取って是は最初の経験ではなかった。彼女は、男と言うものは皆この小水のように、女の不意を襲うものだと思っていた。堀川さんもそうであった。父が病気で死ぬ数日前、紡績の退()けた後の監督室で、父の看病の為に明日の休暇を貰いに行った時に、やはり同じような事をされたのであった。その時にもお夏は抵抗し得ない娘であった。痩せぎすで、細い程丈が高くて、きりゝとした蒼白(あおじろ)い顔の堀川さんが(かえ)ってそれ以来好きになった。彼女は決して淫蕩(いんとう)な女ではなかったが、貞操という事はまるで知らないものであった。女というものは男からいつでもそういう扱いを受けるものだと思っていた。彼女は窓にさらさらと粉雪の音を聞きながら、郷里の雪の深さを思いつゝ眠ろうとした。そのとき毛布の下からは小水の手が延びて来て彼女の手を握った。「御免よ……」と耳元でさゝやく声がした。

 彼女はたゞ眼を閉じてじっとしていた。

 三月十一日。昨夜の雪は一寸ばかり積ってその上に明るい春めいた陽がきらきらと輝いた。収容所の窓から見る三ノ宮附近の風景は急に明るくなった。だがこの雪の下で感冒が流行していた。三ノ宮小学校はそのために一週間の休校をした。その感冒が収容所に流れて来た。そしてこの朝、三十一号室の満一年になる男の子が感冒から肺炎になった。

 朝の食事が終ると直ぐに全部の移民に種痘(しゅとう)が行われた。これらの種痘や予防注射はみな航海の途中寄港地に対する用意であった。ホンコン、シンガポールあたりは危険極る港として指定せられてあった。一九二八年頃に移民船ハワイ丸がホンコン寄港後移民の中にコレラ患者続出し、死亡者が出る度に移民の家族構成は続々として崩れ始め、シンガポールでは入港を禁止され、遂に日本に戻って来た大事件もあった。

 種痘の後で講堂でブラジル宗教講話があった。神戸のカトリック教会の福々しい顔をしたにこやかな坊さんが黒い衣を着て演壇に上って、やゝ気味の悪いほどの愛嬌(あいきょう)をたゝえてブラジルの有難い神様の御話をした。

 大泉さんは宗教の話にはあまり興味がなくて、窓の外をきらきらと光りながら落ちる雪融(ゆきど)けの軒滴を眺めながら隣りの麦原さんに、

「何とえゝ天気だな」と言った。「雪のあとだからなしゃ」

「今年あ俺あの村でも雪あ沢山あったし」

 と彼も長閑(のどか)に答えた。

「あゝ、きっと麦あえゝべなあ」

 大泉さんは植えたまゝで見棄てて来た自分の畠を思うた。

「ンだなし。……ンだどもしゃ(ヽヽ)、豊年も昔だばえかったどもしゃ(ヽヽ)、近頃の豊年は何にもなんねもんなあ。安ぐなって、……同じことだ!」

 彼の女房は夫をかえりみて、坊さんの方を(あご)でしゃくって言った。

「何とはあ、有難え神様だこどねは、ほんとだか嘘だか分んねなあ」

 坊さんはかゝる愚劣な疑問には頓着せずに話をすゝめて行った。そして午後一時から希望者だけを案内してカトリック教会の見学をさせる事を約束した。そして彼は昼食が終ると直ぐに六十五の室を一つ一つ訪問して、これから見学に案内するから希望者は前の広庭に集まるようにと勧誘して歩いた。

 孫市は窓に(もた)れて明る過ぎる雪融けの風景を眺めていた、郷里の方では四月にならなければ見られない風景である。雪の消えると共に伸びて来る大きな名物の(ふき)と、梅、桜、桃、梨、林檎(りんご)等の百花一時に開く撩乱(りょうらん)の春と——。

「佐藤さん、行がねしか」と麦原さんが声をかけてくれたが、彼は、おれや、行きたくねンし、と言って断った、するとお夏も行かなかった。門馬兄弟が大騒ぎして労働服を着込んで出て行った後には彼等の孤独な(ごう)つく(ヽヽ)さんと麦原さんの女房とが残った。皆が居なくなると孫市は姉を促して講堂の脇の露台に出て行った。欄干の蔭に雪が残っている。隣りのトア・ホテルのヒマラヤ杉の美しい林立の中に立派な自動車が車体を光らせながら出入りするのが見えて、杉の枝から雪がさらさらと崩れていた。孫市は()け残った屋上の雪の中を靴でわざと歩きまわりながら言った。

「俺あな姉しゃん」けれども早速には肝腎(かんじん)の事が言い出せなかった。姉はひっつめに結った髪になま温い海風を受けながら眼の下に見える家々の屋根から(すべ)り落ちる雪を、その激しい反射に眼を細めて眺めていた。

「やっぱりな姉しゃん、俺あこのまゝブラジルさ行く気ンなれねな。分るべ? 何としてもな、俺あ何ぼ辛え思いしても、えゝからな、不忠だとばりあ言われ度くねんだ。姉しゃんだって、不忠の弟持ちたくねえべ?」

 姉はやはり無関心な様子で輝く雪の崩れ辷るのを眺めていた。答えはなかった。

「俺あな、監督さんさ相談してな、移民をやめさせて貰うべと思う」と弟は低く言った。

 監督さん……それは昨夜お夏の不意を襲うた男だ。姉は監督さんの柔らかな手のひらを思い出した。移民をやめるならば又堀川さんに会えるだろうと思った。弟が合格して兵隊に行ったら、自分は堀川さんのお嫁さんになれるかも知れない。美しい衣裳をつけて、髪に角(つの)かくしをつけて――彼女は小水さんとの関係によって、堀川さんに対して良心に責められるところは少しもなかった。それは彼女に取っては不貞でもなく破倫でもない。それは男達の行為であって彼女の一切知らない事であった。彼女はたゞ何もしなかったと云うだけなのだ。

「姉しゃんには心配ばかりかげでな、悪いかったけんどな、御免してけれ、な」と弟は続けて言った。

「ンだどもしゃ、門馬さん達何とするべ?」姉はやはり弟の方は見ずに言った。

「何とするか俺あ知んね。兎に角行かれねくなる事あたしかだ」

 と弟は憤然として言った。

 教会見学の連中は坊さんに案内されて、雪融けの坂道に列を作って、新調の労働服や穿()きにくい靴の女達やぞろぞろと元町に近いカトリックのお寺まで歩いて行った。だがお寺は唯がらんとして人気(ひとけ)も無く、(はりつけ)になった裸の男を見て、裸の嬰児(えいじ)を抱いた女の像を見て、天井が高いのに感心したばかりであった。そして各々(めいめい)に胸に鉛色のメダルをぶらさげて帰って来た。坊さんの言うには是はカトリック信者のメダルであって、是さえつけていればブラジル人は親しくもして呉れるし信用もしてくれると言う重宝なものだ。それを一個二十銭の「実費で御頒(おわか)ち」して貰って来たのである。

 門馬兄弟が帰って来ると孫市は早速二人を屋上へ引っぱって行った。そして自分は移民をやめて検査を受ける事にきめたからと云った。疑いを晴らし得たことの喜びと復讐(ふくしゅう)をする事の喜びとに誇らかにきっぱりと云った。そして門馬一家も移民をやめなければならぬと聞かされた時に、急に勝治は狼狽(あわ)てだした。

「今んなって、そりゃ孫さん、あんまりでねかよ、帰れる訳のもんでねえべ」と彼は情無さそうに言った。「俺達あ、買物も沢山して、帰る汽車賃だって無えもんな」

 孫市の方はそんな泣き言には答えもせずに、監督さんを呼んで来るから待ってろと言って駈け下りて行った。二人きりになると勝治は不意に弟を突き飛ばした。

「見れ! お前要らねこと喋舌(しゃべ)るから」

「要らね事でねえよ。検査逃げる者あ不忠でねかよ」と弟はまだ言い張った。兄はぴしゃりと横面をなぐりつけた。

「逃げた訳でねってば馬鹿! 孫さん来たら(あや)まれ。えゝか」

 弟はしょんぼりとして兄を見上げた。兄の胸ではカトリックのメダルが光っていた。

 孫市はあちこちと監督さんを探した末に、玄関の外で勝田一家と陽を浴びて立ち話をしている所を見つけた。彼等は植民事業関係で以前からの知りあいであった。小水が勝田一家と別れて玄関を入ろうとする所へ孫市が飛びだして行った。

「監督さん、一寸(ちょっと)聞いで貰えてえ事あんです。屋上さ来て呉れませんか」

 小水はぎょっとして、真蒼(まっさお)になって了った。昨夜の不倫な行為が知られたのだと思った。孫市の眼色は真剣で興奮しているし、場所は屋上だと言う。

「ぼ、ぼくあ……」と彼は(ども)り出した。「ち、ちょっと忙がしいんですがねえ」

「一寸聞いで貰えませんか、門馬さん達も屋上で待っていますから」

 三人だ。袋叩きか、謝罪か、と小水は思った。額に汗がにじみ出て来た。そして自分が卑しく見すぼらしく汚ならしく三人の前に立つ姿を考えた。

「ち、ちょっと用があるんですがねえ。あ、あとじゃ、いけませんか」

「はあ、一寸大事な事でなし……」

 小水は三人の前に立って恥を(さら)すよりは逃れられぬものならばひそかに孫市だけに()びて内々に済ませたかった。

「困ったなあ、何の、その、それあ、何の」としきりに吃ってから「何の事です?」

 と恐る恐る小さく()いた。

「実あ、一寸訳あってなし、移民をやめべしと思ってなし」と孫市は言った。

「へえい?」と小水は長ったらしく言った。ほっとして、馬鹿馬鹿しくなって、大きく安心すると(もうあんな事はよそう)と思った。心臓の動悸(どうき)がずきずきと耳に聞えた。それから並んで階段を上りながら彼はこの田舎者(いなかもの)の青年の善良さを軽蔑(けいべつ)した。

 ほの暗い階段に足を疲らせて五階まで上って屋上に出ると、こゝは西日がぱっと一面に輝いていて、陽をあびて門馬兄弟がまだ争っているのが見えた。四人で輪を作ると先ず孫市が一昨夜の口論から今度の決心を定めるまでの経過を説明した。聞き(づら)い東北弁の説明を聞きながら小水は、この青年が徴兵検査の問題を馬鹿馬鹿しいほど忠実に苦しんでいるのを珍らしいものの様にまた可哀相にも思った。

 説明が終ると、勝治が弱々しく言った。

「帰れたって俺達あ、汽車賃もねえしな」

「黙ってれ! 汽車賃位え何だ、借りたらえかべしゃ(ヽヽ)」と孫市は言い放った。

「そりゃ君い、考え過ぎですよ」と小水は優越的ににやにや笑いながら言った。彼は今孫市に勝ちたかった。勝って服従させ手なずけたかった。と言うのが彼は孫市が恐ろしかったのである。彼の姉に対する弱味があるからばかりでなく、彼の真正直さと率直さと溌刺(はつらつ)さとが恐ろしかったのである。彼の様な理由で移民をやめるという事は小水のこの道の常識から言えば成立しない。で、彼は孫市を説得して彼の信望を得たかった。彼は飼主が猛っている馬をなだめる様におそるおそるなだめにかゝった。

「そう君考え過ぎなくてもいゝですよ。ねえ、今年検査で移民に来ている者は君ばかりじゃないですよ。ねえ、誰が本気で検査を逃げたなんて思うもんですか」そして()っ歯を見せてはははゝゝと笑った。

「本当に逃げたと思ってるんです」と孫市は興奮して言った。

「あやまれ!」と勝治が言った。弟は黙って一寸頭を下げた。

「そうでしょう君、君みたいな事を言ったら来年検査の者だって疑えば疑える訳でしょう。そんな事を言ったら検査前の男は誰も移民に行かれなくなるよ。ね! そうでしょう。ははゝゝ」

「疑われる位えだから、俺あ行かね方が何ぼえゝか知んね」と孫市はまだ憤々として言った。

「そりゃそうだけどね、誰が疑うもんかね。そんな事で移民を止すのは損だよ君い」

「損は承知の上だし俺あ!」と青年は頑張った。

「損はいゝとしてさ」と小水は狼狽(あわ)てて言った。「ね、そりゃ君の意地だよ。男の意地だよ。ね、ははゝゝゝ。けどね、その意地で以て早く成功してね、早く耕主(パトロン)になるんだよ。ねえ、そうじゃないですか。折角(せっかく)の海外発展の雄図(ゆうと)をだよ。え? 検査の為に失うのは君、国家としても損失だよ君。そうでしょう」

 小水の巧妙な説得にも孫市は何度となく頑張って押し問答を続けて行ったが、いつの間にか今日までの二日間考え通して来た自分の大問題が、小水の話を聞いている中にそれ程の大問題でもなかった様に思われだした。すると相手の言葉に反対する気勢も失って、終いには唯、はあ、はあ、と言って聞いていた。そして最後には(いさぎ)よく、はあ、分ったし! ときっぱりと言った。

「ね、分ったでしょう? だからね、そんな心配は止してね、お互いにこれから一生懸命にやりましょうよ。――ねえ門馬君」

 と小水が言った。

 孫市が義三に向ってきめつける様に言った。

「義ン三さん、お前まだ疑ぐってるか? 疑ぐるだら疑ぐるとはっきり言え」

「いや、もういゝですよ」

 と小水が言った。

「あやまれ、馬鹿!」

 と兄が弟の頭を後から前へがくんと突いた。弟はふりかえりざま兄の胸を突いて、押すなよう、と言った。

「あやまれったら謝まれ」と兄はまた弟の頭を突いた。義三は急に涙声になって、

「みんなして俺一人を痛めねくたてえかべしゃみんなして!」と訴える様にわめいた。彼は今は逆に自分が不忠の罪を負わされたような変に悲しいものを感じていた。

 建物の中で夕飯を知らす銅鑼(どら)が鳴っていた。孫市は頭を下げて監督に礼を言った。

「何とも、御迷惑かげで――」

「なあに、いゝですよ。ははゝゝゝ、これからは仲良くね、元気にやりましょう。ね、さ、飯を食いに行きましょうよ。一緒に」と小水は言った。そしてすっかり気を良くして先に立って階段を下りた。四階まで来ると孫市は九号室へ飛び込んで行って姉を連れて来た。そして監督さんがよく話して呉れたからまた行くようになった事を知らせてから、「監督さんさ御礼言ってけれ」と言った。

 小水はそれを聞くと何とも言えない妙な気持になって、なあにいゝですよ、と言って無理に朗らかに笑った。お夏は真赤になってたゞ黙って頭を下げた。

 食堂のテーブルに並んで坐ると孫市は、

「お、姉しゃん、監督さんさ御飯ついであげてけれ」と言った。小水は孫市に(いじ)められている様に思った。そして姉も亦弟に苛められている様に思った。

 食事の後で又長い階段を上りながら小水は孫市に(つか)まっていた。彼は孫市を(けむ)たく思ったが孫市は純真な気持で信頼していた。そしてブラジルへ行ったら直ぐに勝治の籍を姉から切り離す事が出来るかどうかを(たず)ねた。然し小水もそれは確かに出来るかどうかを知らなかった。明日になれば移民会社から移民監督が来るから()いて見てあげると答えた。

 夜が来ると麦原さんの女房は桃色の出来あい洋服を買って来て、赤い襦袢(じゅばん)の上に着て見てげらげらと笑った。

「何とまあ派手だこと! 若返ったみてえだねは。帯がねえから裸で居る様な気持だ。どうだね大泉さん。似合ったべ」

 娘のお常もお夏も、そして大泉さんの女房も洋服になった。門馬さんの婆さんは息子が註文して作った黒地の襟に白のレースをつけた服が淋しくて、膝の前にひろげて見たまゝたゞ漠然と眺めていた。母さんも着てみれ、と勝治が言っても、眼をあげて夜の港の船の灯を遠く眺めて歎息するばかりであった。

 此の室がみな眠って了うまで小水は帰って来なかった、彼は三階の勝田さんの室に逃避していた。彼は今更乍ら孫市を避けたくなっていた。一度は手なずけて親しもうと試みたが、今は再び彼から離れたくなっていた。彼のいじけた狐鼠狐鼠(こそこそ)とした性格は孫市の善良さに圧倒され、面と向って対する事が出来なかった。彼は(おそ)くまで勝田さんやその息子達と遊んでいた。この室では歌留多(かるた)が始まっていた。彼等は歌留多まで持ってブラジルへ行こうというのだ。堀内さんが外出して中々帰らなかったので話相手の無い勝田さんが読み手になった。捕縛された中津井一家のベッドがすっかり空いているのでそこで南北に対峙(たいじ)して勝負をやった。ところがこの前の注射が左手で今朝の種痘が右手である。連中は右手が動かされないので左手でばたばたと叩きまわった。近所の室から加入申込みをする若い衆などもあって、消燈まで賑やかな歌留多会であった。

 小水が九号室へ寝に帰って見るとお夏はやはり元のベッドに眠っていた。

 翌朝、移民取扱いの海外興業会社から派遣された村松移民輸送監督が東京からやって来た。彼は収容所員に案内されて三階の勝田さんの室の中津井一家のあとのベッドにスーツケースを抛り出した。気の強い軍人上りの九州人で、軍隊に居た時酒に酔って銃を振りあげて上官を(なぐ)った為に軍法会議に廻された事のある男であった。勝田さんは一目でこの人は移民ではない事を知ったので慇懃(いんぎん)に訊ねた。

「失礼ですが、監督さんではありませんか?」

「え!」と彼は大きな声で言った。「今度あ一つ、皆さんの御世話をさせて貰いますよ」

 彼は移民に対してこう砕けて出ることによって信望が得られるものと考えていた。それは結局彼が移民を軽蔑している事を証明するものではあったが確かに有効な()でもあった。勝田さん夫婦はベッドの上に手をついて、どうぞ宜しく、と名を告げて挨拶した。

 朝の(うち)は又ブラジル語の講習があった。有難うがオブリガードで左様ならがアテローグだと言う。教えられれば教えられるほど混雑して分らなくなる。

 午後はパスポートの調査と現金を托送する者の為の事務があった。村松監督と小水助監督とは所員を助けて事務に当った。勝田さんは五百円を懐中に残して二千五百円を托送する手続きをした。そして托送しようにも金のない移民達は自室で遊んでいた。帰る旅費がない為に不合格が合格になった九州の黒川さんは医務室に居た。そこには毎日午後のトラホーム治療の患者が五六十人も(かた)まっていて、この人だかりの奥からは()える様に泣き(わめ)く子供の声が聞えて、患者達は背伸びをして固唾(かたず)を呑んでいた。それは黒川さんの娘であった。医者がこの子の頭の(うみ)が流れている腫物を切開し、(しらみ)の巣喰っている髪を臭さをこらえて短く切ってやろうとしたところが、それが痛いと言って喚くのみか医療器具函を引っくりかえし果は医者の手を引っ掻いたりするのだ。医者は父親に押えつけて居ろと言うが、父親は馬鹿な大きな獣の様にたゞ漠然(ばくぜん)(たゝず)んでいて、時折思い出したように小娘の頬を引っぱたく。すると娘はまた喚くという工合であった。医者は歎息して手を控え、眼鏡の下からつくづくと眺めて、まるで気違いじゃないか! と吐き棄てるように言った。そしてこの子の母親は、死線を彷徨(ほうこう)している例の栄養不良の嬰児を抱いて、朝から晩まで唯うつらうつらと居眠りをしている。

 三階の二十一号室の肺炎の子供は良くなかった。熱は四十度を上下し、小さな胸は一面に芥子(からし)に痛められて赤くなっていた。医者が時折出かけて行き、看護婦は時間が来ると芥子を()りかえに行った。子供は熱の高さに頬が美しく紅潮して、母親は顔に乱れかゝる髪のうるささも忘れて絶えず病児の寝息を数えていた。だが頑是(がんぜ)ない同室の子供達は枕元で(まり)をつき歌をうたっていた。

 病気はそればかりでなく、流行感冒は次第に患者を増して行った。歌のうまい三浦さんが(のど)を痛めて昨夜から唄わず、再渡航の堀内さんは風邪から耳下腺炎(じかせんえん)になりかけていた。門馬さんの婆さんは遂に朝から寝たっきり起きなくて、夕方には医者に来て貰った。医者はざっと診察して単純な感冒だから心配しなくてもいゝと言ったが、自分の病気をそう簡単に扱われたのさえも婆さんは(しゃく)にさわるらしかった。そのくせ時折むくりと起き上ってかちかちと煙管を叩くうす気味悪いしぐさだけはやめないのだった。

 変らぬ元気を見せているのは大泉さんであった。彼はカーキ色の労働服を着込むとその堂々たる体格と言い日に焼けた丸い健康な顔と言い、白髪の少し見える丸刈りの頭と言い、率直な話ぶりまでも、まるで将軍のように立派であった。この夜も欠かさずに四合瓶を膝の前に置いてベッドの上にどっかりと胡坐(あぐら)を組むと、赤い顔をやゝ緊張させて言った。

「ブラジルさ行くからには俺あ、死んだ気ンなって働らぐつもりだ。……なあ麦原さん」

「ンだなし」と彼は(しわ)の寄った黒い顔をあげて答えた。

「どうせ日本に居だとて、何ともなんねで、飢え死ぬもんなら。……なしゃ!」

「ンだンだ」と相手は応じた。「誰もな、楽に食べられる者だら、移民にあなんね。なあ」

 彼等はこうした諦めを持っていた。諦めと混った希望をもっていた。彼等のみならず殆んど全部の移民が希望をもっていた。それは貧乏と苦闘とに疲れた後の少しく捨鉢な色を帯びた、それだけに向う見ずな希望であった。最初この収容所に集まって来た時には、追わるる者、敗残者、堀内さんの言うように風の吹き溜りにかさかさと散り集まって来た落葉の様な淋しさや不安に沈黙していたけれども、かくも多勢の同志を得、日を()うて親しくなり心強くなって行くにつれて、落葉の身を忘れて、今では移民募集ポスタ一の宣伝文にあるように、海外雄飛の先駆者、無限の沃土(よくど)の開拓者のように自分達を幻想する事が出来るようになったのである。彼等がこゝへ来た時には、まだ日本を去るための充分な、心の準備が出来ていなかった。不安と逡巡と孤独と郷愁とに悩まされていた。しかし今は心の準備もすっかり出来上ったように見えた。この分ならばあと三日に迫った解纜(かいらん)の日にも涙一つ流さずに、外国遊覧に行く財産家のように泰然としてデッキに立つ事が出来るかも知れない。

 紡績の女工監督の堀川さんから又手紙が来た。前には都合よく誰にも知られずに受取ったが、今度は室の入口で孫市が所員の手から受取って了った。

「姉しゃん手紙だ。堀川って誰だ?」弟は皆の居る前で大きな声でそう言ってしまった。

「紡績の人だ」と姉は率直に答えたが、封は切らずにそのまゝ襟の間にかくした。それを見ると弟は、是は姉の秘密なのだと思った。そして姉がそうした秘密を持っていることを、(ほの)かにも美しいもののように思った。弟は何故か嬉しく微笑(ほゝえ)ましい気がした。そして迂濶(うかつ)にもこうした姉をブラジルまで引っぱって行く事の惨酷(ざんこく)さについては考え及ばなかった。

 手紙はまだ返事を見ないうちに書いたもので、前の怨みごとを繰りかえしてあったが、最後に紡績の近況を記して、或は来月あたりには工場が閉鎖するかも知れない、そんな事でもあれば自分も移民になって了いたいと言うような事が書いてあった。 

 それはその工場のみならず、時は(あたか)も小さな紡績全般の苦闘の時代であった。一九二七年昭和二年の金融恐慌で大阪の近江(おうみ)銀行が破綻(はたん)し、その為に起った中小紡績の激しい金融難に苦しめられ、それが現在に至って傷痍(しょうい)(いま)()えざるに印度の関税引上げがあり、その余波を受けて中小工場の操業短縮率増加を決行する事になった。それは大紡績の自衛策であり、防禦(ぼうぎょ)の武器を持たない小工場は潰滅(かいめつ)(ひん)していた。堀川さんは失業しようとしている。そして多勢の仲間の女工達も。お夏は今夜も亦大泉さんの荒い(いびき)に眠りを妨げられながら、どこまでもちぐはぐになって行く運命を思った。堀川さんと一緒に移民になる事が出来るならば、門馬さん達とは縁を結ばなくとも弟と三人で立派な移民家族になれるのだ。たとえ堀川さんもあとから移民になるにしても、又ブラジルで会えるものやら会えぬものやら。

 隣に小水は居なかった。彼は監督が来たことを口実にして勝田さんの室へ引越して行った。彼は荷物を持って行く時に孫市に弁解がましく言った。

「僕あね、監督さんとね、色々な打合わせやね、仕事が沢山あるんでね、ははゝゝ」

「ンだば又遊びに行きます」と孫市は追っかける様に言った。小水は狼狽(あわ)てふり向くと、反ツ歯を見せて笑いながら、どうぞ、どうぞ、と言って扉を閉めて行ってしまった。

 仕事もあるには有った。彼は引越しを終ると村松に誘われて外出した。

「僕あどうも収容所は苦手だよ。息が詰る様だ」村松は外に出るとすぐに言った。

「晩飯なんか君、食えなかったぞ。何だか汚いような気がしてなあ。それにあの勝田って親仁(おやじ)なあ、君は知ってるんだろう? 嫌な奴だなあ」

「ど、どうしてですか?」と小水は自分が嫌われた様におどおどして言った。

「理窟ばかり言やがってなあ。珈琲園の賃銀が下ってどうだこうだって文句言やがって、うるさい奴だよ。虫が好かん」

 二人はレストランに入った。村松が食事をする間小水は茶を飲みながら話した。

(とて)も僕あ心配してるんですがね、この前のね、ヴェノス丸のね、あの事件を若し誰かに訊かれたら何と返事したら宜いでしょうねえ」

「知るもんか誰も」監督はにべもなく言った。「知っていても構う事あない」

「だってねえ、訊かれたら困りますよ僕あ」

「なあに、何とか誤魔化しておくさ。あれは風説であったと言うんだよ」彼はそう言って顔に血色を見せて笑った。

 その事件と言うのは二ヵ月前に出発したヴエノス・アイレス丸がケイプ・タウンに寄港した時の事であった。恰度(ちょうど)帰航中のマニラ丸がブラジルから入港して、乗っていた帰国途中の移民がヴエノス丸に遊びに行ったのである。そしてサン・パウロ州では労働賃銀が低下した為に邦人移民は食って行けなくなった。吾々もそれ故に帰国するのだと言う話をした。移民達はそれを聞くと、元来漠然とした希望をあてにして渡航する者ばかりの事とてたちまち希望を失って了い、時一時と不安が募り、翌朝船がリオ・デ・ジャネイロに向って大西洋横断の航路に上った頃には船中大評定(だいひょうじょう)が開かれ、遂に全移民一千名が大挙して船を日本に戻せと船長に要求したと言う事件であった。然し村松監督が今移民を誤魔化そうというのは定見の無い考えでもなかった。彼は会社に在って調査課につとめ、ブラジルの何たるかも知り移民の何たるかも知っていた。彼は移民を誤魔化す事を不徳義とは思わず、(かえ)ってそれを好意ある手段と考えていた。同じ貧乏をするならばブラジルで貧乏する方が移民の為だ、何となればブラジルの農民には国民としての義務が無いにも等しい。法律も税制も徴兵も、要するに整備した国家組織が個人に与える重圧が無いから、同じ貧乏でも暢気(のんき)な貧乏をする事が出来ると信じていた。だから彼は小水の心配などには一片の関心も与えずに、腹が満ちるとさっさと戻って来て、ベッドの上に移民名簿をひろげた。これから船内生活の準備である。先ず輸送監督日誌をつける事を小水に一任し、次に移民の中から役員を選抜するのである。船内新聞係、風紀衛生係、運動係、連絡係、食事世話係、青年会長、婦人会長、等々。是等に色分けした腕章を与えて船内生活の整備をやろうというのである。

 三月十三日、収容所生活の第六日目。出発は明後日に迫って、昨日までの遊んで食って寝るばかりの空気も少しく緊張して来たように思われた。午前中は第二回目の腸チブス予防注射が、今度は背中に行われた。この注射を受けなくて済んだ者、栄養不良の嬰児、肺炎の子供、耳下腺炎になった再渡航の堀内さん、腎臓炎の妊娠女一人、他に感冒で発熱している者等、総計三十六人もあった。

 午後は大方買物に費やされた。準備も今明日に迫っているので買物もあわたゞしく、殊に明日は荷物検査と荷造りとに時間を取られる予定になっているので一切の買物は今日一杯に済ませなければならなかった。どの室でも買物の数々を紙切れに書いては前の廉売店に出かけて行き、戻る匆々(そうそう)に又思い出しては買い込みにかけつけるという風であった。

 変って来たのは廊下の風景である。男達は皆カーキ色の労働服であり女達も半分は簡単服になった。靴下のずり落ちた女房、ダブダブの上着の青年、詰襟が窮屈で首を伸ばして歩く中老人、父と同じ労働服を玩具(おもちゃ)のように着ている子供、移民としての外観はこれでどうにか出来上って来た。

 こうした労働服の三人連れが昼食の後で三階に村松監督を訪問した。各々新兵の様に正装し、彼の前に形の悪い不動の姿勢をとって立った。控えようとするがどうしてもかくし切れない大阪(なま)りのアクセントで三人を代表した一人が口を切った。

「監督さんに一つ、そのう、お願いが有りますんで、何です、そのブラジルになあ、わての村の者が行とりますんで、それで一つ同じ所へ行けるように計ろうて頂けたら思うて参じましてん。井田五郎言いましてなあ、去年の春行きよりましてん」

 監督と助監督とは昨夜の続きの役員選抜をやっている所であった。監督は、はゝあと長ったらしい返事をしながら向き直った。

「君達あ何処ですか」

「大阪でござんすんで、三人とも」

「大阪ならば、えゝと、誰だったかなああすこの業務代理人……岡島、でしたかねえ」

「へえ、岡島さんに御たのみしましてん」

「岡島君に今のことを相談して見ましたか?」

「へえ、岡島さんは井田五郎をよう御存じでして」

「岡島さんは何て言いました? 今の、井田さんの所へ行けるって言いましたか」

「それがなああんたはん、そう行かんかも知れん言やはりましてん」

「そうですよ。中々君達の思う様には行かないんでね。それも一人や二人の事なら希望通りにも出来るんですが、多勢でしょう。皆がそう言い出したらきりがないしね」

「へゝ、御尤(ごもっと)もさまで」と言ってこの男は恭々(うやうや)しく頭を下げた。

 マンドリンを抱えて見物していた勝田さんの息子はこの時急に勢いよく流行小唄(宵闇<よいやみ>迫れば悩みは果てなし)を弾きはじめた。その為に一寸話の途切れた後で監督が続けた。

「早い話がね、井田君とかの居る耕地の耕主がね、その耕地に移民をもっと入れる気ならば良いが、若しももう移民は入れないと言ったらどうします。雇わないというのにどうしても雇えという訳には行かんでしょう」

「御尤もさまで」と新兵は又頭を下げた。すると傍から小水がすぐ口を出した。

「どこへ行っても同じですよ。ねえ、誰だって皆知らない耕地へ行くんですからね。向うに知りあいのない者の方が多いんですもの。ねえ、村松さん、ははゝゝゝ。大丈夫ですよ。ね、心配いりませんよ」

「ですが、そこんとこを何とか、あんじよう行きまへんやろか」今一人の新兵が愛嬌(あいきょう)を作って首をかしげて言った。すると監督ははッはッと顔を赤くして笑った。相手もてれて微笑しながら、揉み手までして「何とかあんじよう……」と繰り返した。すると監督はこの男に甘く見られたように感じた。情にからんで俺を籠絡(ろうらく)するつもりだなと思った。彼の尊大な自負心がむっと頭を(もた)げた。彼は急に厳格な口調になって正面からこの男を見つめながら言った。

「配耕は絶対に公平なんです。誰も自分の好きなところへは行けません」そしてぶるンと顔を左右に振った。

「あんた方ばかりじゃないです。誰でもだ。その事について僕あ君達に一切責任ある返事は出来ません」

 三人の新兵は一斉に頭を下げた。そして身を固くして伏目になった。それから改めて失礼を詫びて鞠躬如(きっきゅうじょ)として立ち去った。村松は笑って小水をかえりみて言った。

「これからぼつぼつ来るぞ」

「えゝ、船の中でも来ますよ。ねえ、殊にサントスへ近くなるとね。ははゝゝ」

 小水の意味のない笑いの止まらぬ中に不意に横から勝田さんが口を出した。

「知合の居る所に配耕するというと何か弊害があると言う訳ですかな?」

「いや、そんなものあ無いです」と監督はきっぱりと言った。虫の好かない男がまた文句を言い出したので村松は既に心に戦闘準備をしていた。

「ふむ。……それでは移民の望む所へどうしてやれんのです? お互いに力になれてそれはもう大変宜い。なるべくそう言う風にすべきだと、こう私等は思いますがな」

 村松はスーツケースの奥から小さな手帳を探し出すと、頁を開いて黙って勝田さんに見せた。それは「移民輸送監督心得」と言う小冊子で、その中の一箇条には(一、輸送監督ハ移民ノ希望スル耕地ニ配耕スヘキ事ヲ約束スルヘカラス)と明記してあった。勝田さんは、ははあ! と一応感歎し、一寸押し頂く様にして押返してから言った。

「そうすると是あ、海外興業会社が不親切なんですわい。……さっきの御話では行きたくても向うの耕主が雇うかどうか分らんと仰言(おっしゃ)るが、会社のサン・パウロ支店の方では耕主から移民の註文を受けているんだから、分らなくはない、分っる事ですなあ。そうでしょう。それを公平という名目で面倒臭がっとる。いや、今監督さんに文句を言うんじゃないんですよ。唯ね、道理というものがね、理窟がそうなる訳ですわい」

 言うに従って又声が甲高くなって、くどくどと念入りになって来るのを、言うまゝに言わせて村松は聞きもせずに又移民名簿から役員を探し始めた。唯一度、事務としては手数もかゝり、弊害も生じてやり難い事だと言っただけであった。しまいには頭中に繃帯(ほうたい)している堀内さんさえもたしなめる様に口をはさんで、やれそうに思えてやり難い事でへうなあ、と言った。それは独語に近いつぶやきではあったが、本当のブラジルを体験した唯一人の再渡航者としての威厳があった。流石(さすが)の勝田さんも是にはちょっと黙った。

「どっちにしても勝田さんは配耕される移民ではないからいゝですなあ」と監督が皮肉に言った。

 すると相手は突然に又言い出した。

「そうとられては困る。私はたゞ誰の事というのではなくて、その本当の理窟のあるところを言っているんで……」

「あゝ! 分って居ます。よく分ってますよ」監督は手を振って言った。「僕に文句がある人は、僕の監督なんか受けんがいゝです。会社に文句のある人は、会社の世話なんか断って了いなさい。え? そうでしょう。そうしたらどうです?」

 それは結局移民をやめろという事であった。勝田さんは少なからず狼狽(ろうばい)して、そう御怒りになっては困るが……と言った。彼の息子は窓の方を向いて、マンドリンを()きもならずやめるもおかしくて、身を固くして、音階をあわせるように唯ピンピンと爪で弾いていた。

 門馬兄弟は昼時分から所持金が足りなくなったと言って青くなっていた。この室の四家族は組みになって買物をすれば安く買えると言うので後で清算するようにしていた。所が今日清算して見ると門馬一家は所持金よりも沢山の買物をしている。十円余の不足だ。

「何とする気だ?」と孫市に言われて、勝治はしょんぼりとし、義三は俺は知らんという風であり、母親は恥と怒りとに額に青筋を浮べてじりじりする心を押えて坐っている。

「貯金だばあるけんどなしゃ(ヽヽ)」と勝治がつぶやいた。孫市が、

「ンだば引き出して来べし」と言うと、

「判コ無えもん、何んともなんね」と答えた。

 その判コはと言うと郷里の叔父さんに預けて来たと言う。是には大泉さんも麦原さんも(あき)れて(しま)った。判コもない通帳を持ってブラジルへ行くのだ。現在高は三十円だという。

「ばアかだなあ!」と孫市は言って了った。「電報ぶて電報を。な、手紙では間に合わね」

「何といってぶつ?」と勝治が言う。

「叔父さんは通帳に三十円ある事は知ってだか?」

「あゝ知ってだ。――なあ母さん」

「えゝか、通帳を送るから三十円電報為替(がわせ)で直ぐに送ってけれって打て。分ったか? 叔父さんが信用して呉れねばそれでおしめえだ。そして今直ぐ通帳を書留で出せ」

 孫市が麦原さんと相談して電文を作ってやった。勝治がそれを読みながら首をひねっていると後から義三が口を出した。

「早く行かねば今度の汽車ン間に合わね」

 これは大笑いであった。彼は今でも電報が汽車で運ばれると思っていた。兄の方が皆に恥かしくなって、

「馬鹿ア。電報は汽車で行くんでねえぞ」と言うと、弟の方は笑われたのに、カッとして、

「汽車で行かねくて何で行く! 飛行機か?」と言って了つた。

 勝治が又思い直したように、母さんの外套を買ったのを返そうかと言い出した。それは冬物でブラジルではどうも要りそうにも無いのに、二十五円出してこしらえたものであった。

「返すってもあれは註文でねえか?」と孫市に言われると、

「あゝ註文だ」と情けなさそうに答えた。

「註文したものが返せっか? 店さ持って行って見れ、うんと文句言われっから」

 きめつけられると気の弱い勝治はもう何とも言わずに、ぽっそりとして電報を打ちに行った。

 夕食の後、窓が暗くなって来ると港の灯が見え始めた。南風が海から吹き上げて来て、空気の澄んだ良い夜であった。大泉さんは四合瓶を出し麦原さんの女房は寝そべってお常に足を()ませ、そしてお夏は明日の荷物検査の為に行李の中を整理していた。

「向うの室は静かだな」と大泉さんが麦原さんに言った。すると彼の女房が横から、

「向うの唄コ唄う人はなしゃ、風邪(かぜ)引いて(のど)コさ手拭い巻いでいだし」と言った。

「ほう。何と風邪流行(はや)ンな。見舞に行くかな」と夫が言った。麦原さんが、

「ンだな、唄い手がなくて酒あうまくねえ」と言うと両方が夫婦づれで明るく笑った。

「さあ出来た出来た」と孫市は姉の片づけた行李に細引をかけて言った。「いつ何ン時でも出かけられッぞ」

「早えな。俺あの方は明日だ」と麦原さんが言った。「二人きりだばえゝな。子供なくて。子供ある者あうるせくてなしゃ」

「まさかなあ」と孫市が笑った。「姉弟で子供出来ッかよ。なあ姉しゃん」

 姉は赤くなってうつ向いた。弟は面白がってからかった。

「それとも出来ッかな? え、姉しゃん、出来ッか出来ねえか、どっちだ?」

「佐藤さん達あお父さんやお母さんは無しか?」大泉さんが(するめ)(むし)りながら言った。

「ああ。俺達あ二人っきりだし。親も兄弟もなくて、天下の二人ぼっちだし」

「ふむ。仲良くてなあ……。なあ麦原さん、(うらや)ましいもんだ」

「ンだねは!」と麦原さんの女房が答えた。「ほんと羨ましもんだ。俺あにも孫さんみてえな弟あったらえかべなあ!」

「佐藤さん、お前達気い付けれ。おかみさん気があるらしいぞ」と大泉さんが言うと、室中がどっと笑った。孫市は身振り面白く、

「何と俺あ嬉しくてなあ! ンだどもしゃ(ヽヽ)、麦原さんやきもちするべなあ」

 これで又どっと笑った。笑いに混って麦原さんが、二人とも殺して呉れッから、と言った。

「そればかりゃ勘弁してけれ、姉しゃんが泣くからな」と孫市が言うと、大泉さんはふとその真情に打たれて真実の表情に返って言った。

「ンだンだ。そりゃほんとだ!」

「ンだどもしゃ」と孫市も釣られて改まって言った。「俺あ今度ばりあ姉しゃんさ何ぼか泣かした。な、姉しゃん。俺あな、姉を犠牲にしてブラジルさ行くんす。ンだしべ! 姉しゃんはもうお嫁入する年でなしゃ、俺の為わざわざついで行く訳だものなし、俺あ姉しゃんさ誓ってなし、一年たったらきっと姉しゃんを連れて戻って、ええ婿さん探してやっからってなしゃ(ヽヽ)!」

 お夏は手持無沙汰になって、自分の事を話題にされるのに赤くなって、そっと窓に()って夜の街を見下した。街の底からは号外の鈴の音が遠く近く絶え絶えに聞えていた。大泉さんは(するめ)の足をねちねちと()みながらしきりに独りで首肯(うなず)いていた。

「一年で帰れッかな?」麦原さんが言った。孫市は縛りあげた行李に腰をかけて煙草を(くわ)えながら答えた。

「一年は農園さ居らねばなんねどもなし、一年たったらあとは勝手だべし?」

「ンだどもしゃ、帰りの船賃が二人で五百円だべ。佐藤さんが又行くのに二百円で、七百円一年で働かねばなんねべ。無理でねか?」

 孫市はどきっとするほど(おどろ)いた。迂濶(うかつ)にも彼は、そこまで計算してはいなかったのだ。

「その上にな、始めの年あ色んな買物もあっぺ。仕事にも馴れてねべ? 信用もねえべ? な、食って行けるばりでもえゝ方でねかべか?」彼は諄々(じゅんじゅん)として親切な口調で、背を()でてやるようにやさしく言った。

「それもなし、今うんと金有れば又別だどもしゃ(ヽヽ)。若しンでねばなあ、一年でも無理二年でも無理でねかべか? 順調にいって三年……だべなあ大泉さん」

「ンだかも知んなあ」

「俺あ借金してもなし」と孫市は決然と言った。「借金しても実行しるつもりだ! 二年も三年も俺あ待たれねして。ほりゃあんまり姉しゃん可哀そうだ」

「ンだなあ」と麦原さんは低く答えた。「貸して貰えるだけの信用出来ればえゝどもなあ。殊に佐藤さんも帰るとなると、まあ証人でも立てでなしゃ、……出来ればえゝども」

 麦原さんにはそれ以上は言えなかった。青年の希望を粉粉に砕くことの気の毒さに耐えなかった。そして自然みなが沈黙勝ちになってしまった。

「一つ俺あ監督さんにも訊いて見るべな」と孫市は最後につぶやいた。麦原さんに言う様に、そして心では姉を慰めるために。姉は始終硝子越しに窓の外を眺めていた。絶え絶えな号外の鈴を聞いていた。そして砕けてゆく夢の破片に、胸を痛められていた。三年帰れないものならば、自分は堀川さんに嘘の手紙を出した。堀川さんは自分を待たないで他のお嫁さんを貰って了うだろう。弟のために、たった一人の弟の為に自分の一生を犠牲にすることを残念だとは思わないけれども、本当のことを言えば――堀川さんと三人で移民になりたかった。

 姉の物静かな様子から、弟は姉の苦しみを察することが出来た。それだけに姉に何も云うことが出来なかった。彼は今初めて姉に来た男からの手紙の意味の重大さに気がついた。弟は後悔した。彼は姉の顔を見るのも辛くなって姉に背を向けて眠った。窓から高い空に細い月が見えていた。風がしきりに硝子を鳴らした。大泉さんは平和な(いびき)をかいていた。門馬さんの婆さんは熱が出たと見えて(うな)っていた。

 夜半に、収容所員が入って来て大きな声で呼んだ。「門馬くらさん居ますか?」

 電報為替であった。

 三月十四日。収容所生活の最後の日、朝から荷物検査が倉庫の横の庭で始められた。全部の荷物をさらけ出して係員の検査を受けるのだ。そして税金のかゝる反物や絹物や醤油樽などは一々注意を受ける。勝田さん達は絹物を沢山持っていた。彼は女房をかえりみて(ささや)いた。

「なあに、上陸の時にあみんなして腹に巻くんだ」

 然し移民になる程の者はさして金目な持物もなくて、荷造りの注意の方が大部分である。荷造りしたものは名札をつけて倉庫に預けて了う。これでブラジルに着くまでは預けっぱなしだ。一度だけ、船が赤道附近にさしかかった時に夏物を出すために返してくれるのだという。このどさくさが夕方までかゝった。

 その間に医務室では主任の医師が船医に宛てての報告を書いていた。

 一、トラホーム患者百八十二名(中殆ンド全快セル者七十二名)。

 一、肺炎患者一名。

 一、栄養不良一名。

 一、腎臓炎一名。

 一、耳下腺炎(じかせんえん)二名。

 一、インフルエンザ三十一名。

 一、妊娠中の婦人十六名。――等々。

 村松監督は自分の会社の神戸支店へ行って船室の具合を聞き、それから監督用荷物の積込みの様子を聞いていた。船中運動会、学芸会、角力(すもう)大会、新聞発行などの用品やら賞品やらがうんとあった。

 助監督は荷物整理の手伝いを終ったところで孫市に(つか)まっていた。一年経ったら姉を送って帰る事が出来るかどうかというのである。

「駄目でしような、そりゃあ」

 と彼は言った。もう孫市とは話をしたくなかったし、一緒に航海するだけでも憂欝なのだ。なるべく話を短くして了うように彼はあっさりとこう言った。

「二三年は大抵ちっとも残らないでしょう」

 孫市は胴巻に二百円は持っていたが、それだけでは何とも仕様がない。今更ながらブラジルの夢が淡くぼやけて行く様な淋しさに、行李を縛る腕に力も入らなかった。

 そして姉はやはり咋夜のまゝ静かな様子をして居る。それが一層弟には苦しかった。

 夕食の後、最後の買物を終り最後の外出から帰って来ると、これは日本に於ける最後の夜である。この夜を充分に楽しませる為に、消燈は特に十一時まで延ばされた。

 早くから三浦さんの唄声が聞えて来た。彼は昨日一日で風邪を治して了ったのだ。彼の歌が始まるとそのあたり五六室が陽気に明るくなる様であった。その歌を聞くと元気づいた大泉さんは、さあ、今夜は愈々(いよいよ)お別れだ、と言って四合瓶を三本までも膝の前に並べた。(するめ)もうんと用意してあった。麦原さん、勝治、孫市も冷酒の相手をさせられた。

「こっちも一つ唄うべ。な、佐藤さん」

 大泉さんからこう言われても孫市は唄う心になれなかった。姉が窓際に坐っている。静かに月と港とを眺めている。背に結んだモスリンの帯に蝶がパッと赤くて、白足袋の裏の真新しさにも明日の船出が思われる。

 麦原さんの娘は小さい弟と二人で静かに糸取りをして遊んでいる。大泉さんの息子はにこやかな母の肩を揉んでいる。

「うちの人はなし」と麦原さんの女房が言った。「酔えば追分け唄うって、きかねえんし」

「ほ! これあ何としても聞かねばなんね。さ、早く酔って聞がえてたもれ」そして、大泉さんは相手のアルミニウムのコップになみなみと酒をついだ。

 遠い室からハモニカの合奏が聞えて来た。勝田さんの室では監督や助監督まで加わり近処の若い衆も集めて歌留多(かるた)が始まり、マンドリンも鳴っていた。どこかの室ではやッはッと懸け声をかけてしきりに(けん)を打っていた。都々逸(どゞいつ)をうたって廊下を歩く男、窓に腰かけて口笛を吹く青年、蕩然(とうぜん)とした歓楽の夜であるように見えた。

 けれども既に出船の迫った落ちつかないものがどこかの隅にひそんでいた。唄っている連中でも酔っている青年でも、室から一歩廊下に出ると、ふと妙にしんとしたものを心に感じ、思わずも歌をやめて我身をふりかえって見る、すると(吹き溜りに落ちた枯葉)の寂寞(せきばく)が、意外に冷やかに胸にしみるのである。すると、その時に限って他人の唄声がむしろ耐え難くしらじらしいものに思われるのであった。

 けれども歓楽は尽きなかった。落莫としたものを感じれば感ずるほど却って酒を求め、哀愁が深ければ深いほど(なお)お互いに酔ってみたかった。これは弱い心であった。孤独の淋しさに耐え得ずに、友達と酒にこと寄せて手を握りたい、いわば少しく自棄(やけ)じみた酒であった。それ故に歓楽は()もすれば乱調子な興奮状態に向って進んで行った。三浦さんはどうしても、八木節を踊るんだと言ってふらふらと踊り出すと忽ち廊下の窓硝子を叩き壊して了った。どこかの室では若者が廊下に飛び出して角力をとると、行司になる器用な酔漢もあって見物が近処の室からどやどやと出て来たりした。

 中にはこうした乱脈の哀愁も何も感じない男も居た。黒川さん等はそれであった。栄養不良の子が死にかけているのもよそに、皆と一緒に騒ぐのが嬉しくて碌々(ろくろく)残っていない財布をはたいて酒をのんだ。孫市は廊下のはずれに姉と二人で立っていた。窓の下からハモニカが聞えて来て、トア・ホテルの尖塔に明るい灯がついているのが見えた。弟は姉の方に顔を近寄せて、ひどく酔った酒臭い息をしながらもつれる舌で言った。

「一年たっても帰れねかったら何としたらえゝべ? ……姉しゃんは早く帰らねばなんねもんなあ」

 弟の方が丈が高くて、姉は他のことでも考えている様にうっとりと外の闇を眺めていた。

「御免してけれな」と弟は声をふるわせて言った。「姉しゃんは、俺にだまされたも同じだ」

 近処の室から(こゝは御国の何百里)の合唱が起った。通りかゝった酔っ払いが二人の前にぬっと突っ立って不意に(命短かし恋せよ乙女)と歌い出した。どの室もどの廊下も酔いと歌とで混沌(こんとん)として来た。

 その酒臭い廊下を白い診察着の医者が看護婦を連れて、三階の二十一号室へ入って行った。肺炎の子が良くないのだ。

 孫市は姉に()び姉を口説(くど)いて、結局は泣き上戸のように(よだれ)を流しながら「おれやもう、これ以上わがまゝする気ンなれね。姉しゃんのえゝ様にしてけれ、姉しゃんのいう通りにすッから俺に命令してけれ」などと言っていた。

 姉の方はやはり何の表情も見せずに「お前のえゝ様にせばえゝ」と言った。それは郷里の村で、雪の夕方の井戸端で弟に最後の決心を迫られた時と同じ様子のお夏であった。頬の赤い、二十三の紡績女工であった。

「御免してけれ! その代りおれや、死に身んなって働くから、きっと、一日も早く帰るからな」

 巡査のような制服の所員が階段を上って来て、消燈ですよう、と言いながら、まだ唄っている酒宴の室々のスイッチを切って歩いた。

 暗くされた室の中では誰もかれもが一様に、さあ、いよいよ明日だ! と思った。最後の夜が終ったのだ。

 散々に姉を口説いた孫市は酔ったまゝで他愛もなく眠って了つた。室中が眠って了った。お夏は独り、ほっと吐息をついて眼を開いた。それから寝台の上に腹ばいになって、廊下からの電灯のほの明るさを頼りに、今一度堀川さんに手紙を書き始めた。

 三月十五日、最後の日。うす曇りして北風の吹きすさぶ朝であった。

 眼をさますとすぐ、まだ床の中に横になったまゝで麦原さんの女房が言った。

「あゝ! いつまンでも此処さ居られたらえかべなあ」

 これは余りにも率直な、真実な感想であった。だから聞いた者はみな一様にどっと笑った。しかしその言葉はそのまゝみんなの心でもあった。

 食事の間すらも最早あわたゞしかった。食後は手廻りの荷物だけをまとめて、いつでも出かけられる用意をとゝのえた。

 午前九時、廊下で銅鑼(どら)が鳴った。最後に聞く銅鑼である。それを合図に全部の移民が講堂に集まった。

 講堂では先ず一同に船のベッドの番号札が渡された。そして船中生活の大要と注意とが話された。次に村松監督と小水助監督が紹介され、さらに船の事務長が紹介されて挨拶した。最後に白い美しい(ひげ)を胸まで垂れた収容所長が登壇して、移民達の海外発展の「壮図」について一場の祝辞と訓辞を述べ、一同の起立を求め、皺の寄った両手を頭の上にふりかざして叫んだ。

「海外渡航発展移住者諸君、万歳!」

 するとそれに釣られて九百余の移民が万歳を唱える。二度、三度くりかえして叫ぶ。それは実に勇ましい万歳であった。そしてこの勇ましい万歳のどよめきに送られて二十一号室の肺炎の子供は死んだ。南への道を誤って西方浄土へ行って了った。父と母とは両方から死んだ子の手をしっかりと握って、この分りかねる(星廻り)の下に呆然と坐ったまゝ、勇ましい万歳の移民達が講堂からどかどかと降りて来る足音を聞いていた。それは最早や移民の群とは余りにもかけ離れた心であった。

 出発。青年達は靴の紐を結び直し、女達は(びん)のほつれを直し、棚の荷物を下し、それを肩に(かつ)ぎ上げる。そして身のまわりを見廻す。

「えゝと、忘れものは、無いか?」

「無かったら出かけましょう。一緒に」

 思い思いの一団になってぞろぞろと室々から廊下に流れ出る。それらの流れは階段で落合って、一杯になって、玄関にあふれ出る。すると裏の倉庫から彼等が預けた大荷物を満載したトラックがごうごうとエンヂンを鳴らして走り出し、坂道を下りて行く。彼等はこのトラックに何度も追い越されながら荷物の重みに腰をかゞめた群になって歩いて行く。

 門馬兄弟も大泉さん達も、カーキ色の労働服の胸に鉛色のカトリックのメダルを光らせて、女房達や娘達は穿()き馴れない靴をはき悩みながら、この室は一団になって収容所を出た。外には北風が吹きすさんでいて、買物に歩き馴れた赤土の坂道の両側からは、顔馴染(かおなじ)みになった廉売店の主人が笑顔をして店先きまで見送りに出て来るのであった。

 最後まで残っていた村松監督と小水助監督とは、雇った自動車が来るまで収容所の前に立って待っていた。村松は五階建てのビルディングを下から上まで見上げながら言った。

「こんな大きな収容所を建てなけりゃならんと言うのは、やっぱり百姓が困っているからだろうなあ」

「そうですよ。それやそうですよ」と小水が迎合して同じように建物を見上げた。

 見上げる高い室々では雇女達がもう掃除を始めたのが見られた。悲しい家族と一個の死体とのある二十一号室を残して、もう二時間もたてば収容所はすっかり、清潔になり、室々の扉には(じょう)が下され窓は閉じられる。収容所の前の廉売店はまるっきり客が無くなってしまい、半ばは大戸を下した。閑散になった。ガランとしてしまった。

 こうして九百余人の百姓達の始末はついた。然しもう十日もたてばこの全部の窓は新らしい移民一千名によって再び一斉に開かれるのだ。

 自動車が来ると二人の監督はスーツケースを持って乗り込んだ。トラックの列はまだ続いていた。彼等の車も同じ列に入って坂道をかけ降りて行った。この車の列を横切って今日も(また)号外の鈴の音がりんりんと鳴っていた。

「何の号外だろう。ロンドン会議かねえ」と村松が言った。

「そうでしょうね。今朝の新聞見ましたか? アメリカが補助艦問題で譲歩していますよ」

「ふむ。何にしてもうるさい世の中だな。僕あ嫌だ。軍縮なんかには興味がないよ」

「昨日鶴見祐輔が引っぱられましたね、大阪で。知っています?」

「ほう。何で?」

「明政会事件ですよ。それから佐竹三吾も引っぱられましたよ。ね、一昨日かしら」

「ああ、みんな引っぱられりゃ宜いさ。かまうもんか」と村松は自棄糞(やけくそ)の様に言った。「その中僕も何か悪い事をしてやるから」そしてはッはッと笑った。「そうだよ君、ねえ、少々悪い事をしても金を(もう)けた奴の方が結局悧巧(りこう)だよ、今の世では」

 小水も一緒になって笑った。笑った彼の顔の前を、緑色の洋服を着たお夏の横顔がすっと後へ流れて行った。

「神戸なんて詰らない所だなあ」と村松が言った。「収容所も詰らなかった」

「そうですねえ」と小水はうわの空で答えた。あの女の横顔は北風に吹かれて赤くなっていた、と思った。車は三ノ宮駅のガードを潜った。ゴッと頭の上を汽車が響きを立てて過ぎた。

 お夏は同室の一群に混って歩いていた。風呂敷包を持った手がかじかんで、帽子が無いので風に乱される(おく)れ毛がしきりに頬に流れた。堀川さんに宛てた手紙をポケットに入れていた。途中で出そうと思っていた。けれども人の目が多かった。同室の人達が前後にいた。そして弟がちっとも離れてくれない。(三年たったら帰ります。それまでどうか待ってたもれ)けれどもその後にこう書いた(三年たっても帰らなければほかの人をお嫁に貰って下さえ。私はあきらめます)お夏にはそれがせい一杯の言葉であった。トラックがまた追い抜けて行った。孫市が笑いながら姉に言った。

「見れ姉しゃん、あの自動車。俺達の行李あったぞ。な!」

 お夏は段々伏目になって行った。そして心の底から滔々(とうとう)として湧き上る里の村の懐しさに眼もくらむような気持であった。心無い麦原さんの女房がいつの間にか横に並んで来て声をかけた。

「下駄の方が何ぼか歩くにえゝなしゃ、かゝとが擦れて、歩かれたもんでねえ」

 又、赤いポストの傍を通り過ぎてしまった。お夏は段々に、手紙を出す気が無くなって行った。諦めが、溜息と共にこの女の心を満たして行った。

 第三突堤は風である。飄々(ひょうひょう)と吹く浅春の風である。

 この冷たい海風の中に黄色いマストを立てて、マストからマストへ万国旗のはためく上に、大阪商船の「大」の字の旗と黄と緑のブラジル共和国旗と、もう一つ青い色の出帆旗とが真横に吹かれている。

 白い帯線を巻いた黒い船腹をがっしりと水の上に浮べたこの大汽船の船首には、日字と英字とでこう書いてある。

〔ら・ぷらた丸〕"La Plata Maru"

ウィンチのアームが風を切って、突堤からデッキへ移民達の大荷物を釣り上げる。その下を潜って移民達はタラップのあたりに集まり、簡単なパスポートの査定をして貰う。突堤の上は身動きもならない程の人数で、果物、サイダー、テープ等を売る男達がその群の間を縫うて走り廻っている。査定を終った移民は、もう船を下りてはならないと言われて次々とタラップを上ってデッキに立つ。もう日本の土を踏む事が出来なくなったのだ。次の碇泊地(ていはくち)はホンコンである。

 船に入った移民達は手荷物を担いでデッキを(しばら)く迷った後に、やっと降り口を見つけて与えられた室への階段を下りる。すると広大な室の中にカーボン・ランプが五つ六つ点いていて、室の周囲に添うて鳥籠のような鉄格子がびっしりと二段に幾列にもしつらえてある。是がベッドである。室は四つに分れていて、一室百八十人乃至二百二十人分である。

 室とは言うがメン・デッキの下の船艙(せんそう)で、上下左右は鉄板張りで、両舷の丸窓が五つずつ。室の中央はもう一段下にある船艙(せんそう)艙口(ハッチ)で、このハッチの蓋の上が移民達の食堂でもあり娯楽室でもあり喫煙室ともなる。

 この室の中に入って来るなり大泉さんは、

「ほう、こりゃ、まるで倉庫だ」と言った。

 けれども始めて見る巨船の内部の奇怪さに圧倒されて、幻惑されて、これから先の四十五日間をこゝで寝起きするのだという明確な認識が出て来ない。ふとそれを言い出す者があっても、収容所の食事と同じように、天皇陛下のお金で旅行することの有難さに気がついて直ぐに沈黙してしまう。

 ところで、今度は自分の番号のベッドを探しだすのが大変だ。何しろ二百の中から探すのだ。だが幸にも大泉さん達同室の連中はひと所に塊まっていた。

 ベッドが見つかると手廻りの物をその辺に片づけて、ほっとしてとなり近所をかえり見る。それから階段や廊下を行き来して船の住心地を考えてみる。

 勝田さん達の一家は中央部の特別三等の小室で、再航海の堀内さんと同居であった。

 これは企業移民の別扱いである。そして小水助監督も同じような隣室に納まった。これらの室は船の動揺も少ないし、ベッドも鉄格子ではなく木の枠がある。そして村松監督は船尾に向いた見晴らしの良い一等室で、洋服箪笥(だんす)もあれば鏡付きの洗面台もある真白い室で、ベルを押せば室付きのボーイが御用を伺いにかけつける。彼は会社関係や友人やの見送り人七八人のために紅茶を取り寄せてお別れの言葉を浴びたり握手したりしていた。

 栄養不良の嬰児は船に乗ると同時に船尾の病室に収容された。船医は一目見るなり呆れるよりも腹を立ててしまった。そしてぷんぷんして室を出ると、一等船客のアメリカ婦人に何かお愛想を喋舌(しゃべ)っている事務長に向ってその事を報告して言った。

「僕はあの子供の命だけは保証出来ませんからな。こんなべらぼうな話あない!」

「困るなあ」と事務長は苦笑した。子供に困るよりも怒っている船医に困ったようであった。

 第一の銅鑼が鳴った。午後三時半である。

 銅鑼を聞くと室に居た移民達はどやどやとデッキに上って来た。一本の赤いテープが誰かの手から突堤に向ってするすると伸びる。それを合図に我も我もと、無数のテープが紫に黄に縦横に乱れ飛んだ。海風はひょうひょうと船に突き当り、テープの網目をさっと(あお)り上げる。

 突堤には見送りの小学生が三、四百人も整列していた。彼等は港にちかい学校の生徒たちで、移民船が出る度毎に交替で見送りに来るのであった。

 子供達は大きな船が出て行くのを見るのが嬉しさに、移民の投げるテープを先を争って拾った。大抵の移民には親戚知己の見送りというものは殆んどないのだ。

 お夏は混雑にまぎれて弟から離れると、突堤とは反対側のデッキに独りで歩いて行った。こゝには廊下に迷った移民が時折来るほかは、白服のボーイが忙しそうにするすると、(すべ)るように過ぎて行くばかりである。ランチが(けむり)の輪を吐いて走っている。(かもめ)がひらひらと紙屑の様に水の上を飛んでいる。ランチの通ったあとには白い一筋の道が水の上に残っている。この船の横腹には大きな穴があいていて水が滝の様にどうどうと落ちている。

 お夏はポケットから堀川さんへの手紙を取りだした。遂遂(とうとう)出さなかった手紙、そして今ではもう出しても何にもならないと思う手紙である。一年たったらきっと帰ると、嘘の約束をしたまゝで行って了おう。どうせ三年も待って貰える筈もないのだから……。向うのデッキのどよめきが手に取るように聞えて来る。袖に金筋の飾りをつけた海軍士官のような人が通り過ぎた。お夏は手紙を封筒のまゝ、破りもせずに欄干から投げた。手紙は北風にあおられて青くひらりと舞って油の浮いた水に落ちた。堀川栄治様、佐藤なつより、左様なら。帽子がないので(びん)(おく)れ毛が風になぶられてはらはらと頬を流れた。

 ごおんごおんと第二の銅鑼が鳴りはじめた。それは廊下を廻りながらこっちへも近づいて来た。彼女は銅鑼に追われながら皆の方へ戻って行った。

 そこのデッキはもう通る事もできないほど人で一杯になっていた。白服のボーイが群をかき分けながら叫んで行く、

「見送りの方は下りて下さあい、早く下りて下さあい!」

 万歳の合唱が起る。怒濤(どとう)のような万歳である。何を叫んでいるとも分らないような叫びである。舷側と突堤との間のテープの網は刻々に細かい網目になって行った。

 門馬さんの婆さんは息子達に守られて立っていた。勝治が一本のテープを母に持たせたけれども母は一向に浮き立たなかった。勝田さんの息子達はなるべくテープを遠くへ投げようと言うので、やッやッと叫んでは競争で投げていた。

 楽隊が鳴り始めた。すると突堤にびっしりと並んだ小学生達が、今まで巻いていた小旗を一斉に開いた。日章旗であった。それを打ち振り打ち振り楽隊に合わせて歌い出した。

  行けや同胞海越えて

  南の国やブラジルの……

  未開の富を(ひら)くべき

  これぞ雄々しき開拓者……

 飄々(ひょうひょう)と鳴る海風の中を、歌声は美しい大きなどよめきとなって鉄の船腹を上って来る。すると移民たちは一斉に万歳を叫びだす。たゞ無茶苦茶に叫びだす。その耳を(ろう)する叫びの中に(まじ)ってお夏は弟の呼び声を聞いた。

「姉しゃん。此処さ、こゝさ来え」

 そして弟は姉を人波を押し分けてずっと前へ押しだしてくれた。弟は興奮して、姉の耳元で大きな声で言った。

「姉しゃんこれ投げれ」

 そう言って真赤なテープを渡してくれる。然し姉はためらって投げようとしない。弟がまた、投げれ、投げれ、と催促する。

「どこさ投げる?」とお夏は小声で言った。

「どこさも糞もねえ、あっちの方さ投げればえゝんだ。どでもえゝ、日本さ投げれ日本さ!」

 弟ははッはッと笑った。お夏は投げた。投げたけれどもテープの網目の間に落ちからまって、その先を誰が拾ってくれたかも見えはしない。

 ボーイ達が四五人でタラップを外して了った。そしてガチャンと舷門を閉じた。

「まんだある、これも投げれ」弟は紫色のテープを呉れる。お夏はそれも投げた。左様なら、堀川さん!

 第三銅鑼が鳴った。午後四時。

 突堤につながれていた太いロープが解かれた。船は自由になった。スクルーが廻り始めた。船尾に白い泡が一杯に浮きはじめた。小学生達は今は力一杯に歌っている。デッキは発狂した様な万歳である。テープの網は今では一枚の板の様に堅く編まれてしまって、自分のテープの行方も分らない。理窟屋の勝田さんも両手をあげて幾度か万歳を叫んだ。その息子たちはもう声が()れていた。頭一ぱいにまだ繃帯をした堀内さんがよく動かない(あご)を動かして勝田さんに言った。

「もうこれで日本へ帰らあでもえゝ思やあわしはのびのびしますわい。本当ぞな。どうも日本は、ずど息が詰るようなとお見んせえ!」

 隣りに居る孫市はちらりとこの繃帯の男を見た。日本を嫌っている男、()しからぬ男と思う。と、不意に、検査を逃げて行く自分を思う。いや俺は決して逃げて行くのではないと思う、けれどもどうしても不忠なように思われて苦しくなって来る。

 気がつくと、突堤と船とのあいだが開いて来たような気がした。そこにどろりと油の浮いた水面がひろがり始めた。(何だ! もう動いてるのか!) と誰かが叫ぶ。すると万歳が今では狂躁(きようそう)の調子を帯びて来る。テープが風に吹かれながら延びはじめる。延び切ったものから次々と切れて行く。網目が引裂かれて行く。北風に弧を画いて、あまりにも頼り無く切れてしまう。最後のテープが切れた時、船はもう二十間ばかりも離れていた。間が遠くなると万歳は声を限りに叫ばれる。

 喉自慢の三浦さんが声を()らして叫んでいた。喜びでもなく、祝福でもなく、たゞ感動を絶叫する万歳であった。そして頬には幾筋も涙が流れていた。

 船は岸を離れると方角をかえはじめた。すると移民たちはそれにつれてデッキを船尾の方に廻りながら叫び続けた。岸の日章旗は紅白の波のようにうねり、歌はまだ大きな響きになって水を渡って来た。そのうちに移民達の心のなかで、万歳は次第に悲痛の調子を帯びて疳高(かんだか)くなって来た。

 すると一層涙が流れはじめた。見送りのランチが二隻走って来た。船尾の空で(かもめ)が舞いはじめた。足許(あしもと)のデッキにエンヂンの響きがだだッだだッと響きはじめた。

 自分の叫ぶ万歳の悲痛な調子にふと気がついて大泉さんが叫びをやめた。すると隣りの麦原さんも沈黙して、そっと眼頭を拭った。そして次々に万歳の声がさびれはじめた。手の中には誰もがテープの切れ端を握っている。

 万歳を叫びやめた孫市はほっと大きな吐息をついた。心からの大きな吐息であった。もうこれでつかまることはない。兵隊に行かなくても済むのだ。彼はほっと安心して身のまわりを見廻した。姉が居なかった。伸び上ってその辺を探したが姉はやはり居なかった。

 彼は人混みを分けて歩き出した。男達の半分はまだ万歳を叫んでいた。彼は先ず大泉さんを見つけた。

「姉しゃん見ねかったしか?」

「知んねなし」と彼は言った。

 彼はまた人混みを分けて行った。そして今度は小水君が村松監督と話して居るのを見た。

「監督さん、姉しゃん見ねかったですか?」

「さあ、僕は今まで上の、一等に居たんでね、見ませんでしたよ」と小水は言った。

 孫市は気がかりになって来た。そして、姉しゃん、と呼んで見た。遠くなった突堤からは風の様な歌声がこっちの万歳の絶え間絶え間に聞えてきた。不意に船全体をびりびりと震わせて汽笛が鳴りわたった。鳴り止むと遠くからぼうと木魂(こだま)が返ってきた。

「義ン三さん姉しゃん見ねかったか?」

 門馬義三は胸のカトリックのメダルを光らせて孫市をふり向いた。

「知んね。さっきお前の傍さ居たべ」

 彼は駈け足になった。人混みを抜けて廊下の突きあたりまで行くと一足とびに階段をかけ降りた。

「姉しゃん!」

 室の中にはカーボン・ランプが赤々とついていて人気はなかった。がらんとした室の四方に鳥籠のような鉄格子のベッドが冷やかに重なっているばかりであった。

「姉しゃん!」

 彼は自分等に宛てられたベッドに駈け寄って見た。お夏はそこのベッドの蔭に、半ば床に倒れ、上半身を行李の上に倒して、おいおいと声をあげて泣いていた。

「姉しゃん!」弟ははらわたを吐き出すように叫んで姉の肩をぐっと(つか)んだ。無性に腹立たしくて悲しかった。涙がどっと(あふ)れて来た。

 床の鉄板を(ふる)わせてエンヂンの音がだだッだだッと響いて来た。丸窓の外の舷側に砕ける波の音がざッざッと高く聞えてきた。速力が加わったのだ。

── 第一部 了 ──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/02/13

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石川 達三

イシカワ タツゾウ
いしかわ たつぞう 小説家 1905・7・2~1985・1・31 秋田県平鹿郡に生まれる。第7代日本ペンクラブ会長。菊池寛賞 日本藝術院会員。

掲載作「蒼氓」第1部は、1935(昭和10)年4月同人雑誌「星座」に初出、同年第1回芥川賞を受賞。同年10月、改造社刊の短編集『蒼氓』に収まる。

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