愛から愛へ
お父さあーん
その声は静寂に体当たり
「お父さあーん」
ゆり子さんの夫恋い絶唱
声はうす暗い老人病棟を
日本晴れの朝にする
口を開けること
食べることを忘れたゆり子さん
スプーンは持っても
食べることがわからない
階段から落ちて
頭を打ってからというものは
「お父さあーんと呼んでみて」
耳元で看護婦さん
「お父さあーん」
素直なゆり子さんはゆっくり叫ぶ
鯨のような口だ
一本の歯もない あっけらかん
「あさぁ」 「はなぁ」は小鳥の口
その時 素早くたっぷりのお粥
87年の記憶の殆どを切り捨て
夫を呼ぶことだけは忘れない
骨張った小さな顔と体から
愛という老鳥が飛び立つ
天高く 「お父さあーん」
ゆり子さんは奮い立つ
顎のけぞらせ
下腹に力入れ叫ぶ姿は
百億年の宙宇の距離さえ
ひとっ飛び
「お父さあーん」
蒼い波動が天空を押し立て
驀進してくるので
よろつきながら
忘れていたものを
私は深く思い出す
あ・鳩が
―長崎報告―
平和像の上空に 秋は来ていた
献花の山に降りてきた秋が
風を起こすと
あの日のにおいがした
においを嗅ぐたびに
傷は赤い口を開けた
8月9日午前11時2分は
毎年新しくやってきて
人を老いさせる
あ・鳩が
鋭く天を突き上げた人さし指に
“和代”と気合を入れて
名付け 待っていた赤子には
両眼がなかった
眼窩は蒼い影をつくっていた
透きとおる白い肌の子だった
深い沈黙の色であった
蝋をひいたような艶やかな肌は
一層 沈黙を引き立てた
彼女はこの世で暫くの間
やさしく 泣いた
やがて 糸を引くように
細く泣き止んだ
泣くことしかなかった
人はその淋しい声を
聴くことしかできなかった
泣くことと
聴くことの間には
毛すじ一本も隙間はなかった
泣くことと 聴くことは
組んず
からまり 抱き ひとつであった
激しい祈りそのものであった
息さえかかるひとつというのは
毎年新しく人を生き返らせる
寡黙する平和像の指先で
鳩は彫像のように動かない
深い蒼穹は
明るい瞳のように見開いている
*「組んず
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/08/07
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