練るほどによし
記者は真実を書け
私は記者として四十年余りを過ごしてきたが、その間に、世間の人からどんなに軽蔑されたかしれぬ。それはもちろん、こちらの不徳のせいもあるが、もう一つの理由は、記者という職業が、世間からあまり信用されていなかったためでもある。
なぜ信用されなかったかというと、記者が平気でうそを書いたからである。私にも経験のあることだが自分に関係のあることが新聞記事になったとき、事実の相違があまりに大きいのに、びっくりさせられる。急ぐための誤報もあろう、予備知識がないための判断のあやまりもあろう。それにもまして許すことのできぬのは、わざと事実をまげての記事だ。事実の真相を伝ええぬ記者は、記者ではない。ありもせぬことをあるように伝えて、ひとに迷惑をかける記者は、悪徳記者である。
日本を第二次世界大戦にまきこんだのは、軍閥のしわざだという。しかし、その軍閥をそうさせたのは新聞ではなかったか。満州事変この方、どのような新聞を私たちは読まされたか、いまこそ、それを思い返すべきだ。
私はこの社(主婦の友社}の記者諸君に、“うそを書くな”“真実を書け”と、いつも要求している。真実を書く記者は、真実を愛する人である。わが書くものにうそはない、まちがいもない、といえるのは、真実を愛する人でないとできぬ。記者の仕事を単なる筆先の仕事としてはならぬ。
おもしろい記事でも、早い記事でも、真実でないと価値はない。日本の新聞、雑誌が権威あるものになるためには、まず真実だけを報道することだ。うそはないという信用を、読者からかち得ねばならぬ。その信用が得られぬ間は、記者の地位は高まらぬ。地位が高まらねば、人材は集まらぬ。それはまたわが日本の不幸でもある。
体験を尊べ
口も重宝だが、筆はもっと重宝だ。見もせぬことを見たように書く。いやなことを、好きでたまらぬようにも書ける。記者はよほど気をつけないと、つい筆をすべらしてしまう。
同じ社会種の記事でも、話の聞き書きと、この目で見て書いたのでは、内容の価値がちがう。現場を見られぬときでも、人のうわさのまた聞きより、現場を見た人からじかに聞いたものに、真実性がある。真実を愛する記者なら、納得のゆくまで調べ上げて、正確を期して書くはずだ。そんな記事は、きっと読者を動かすことができる。 無学な老婆のたどたどしいかなだよりが、達意達筆の代筆の手紙よりも、読む人を感動させることが多い。
同じような経験を、私たちは読者の投書で知る。美しい文章ですらすらと書かれた投書には、胸を打つようなものは少ない。半ば職業的な投書家が多いからだ。文字も文章もまずくて、うっかりすると没書になりかねないものの中に、すばらしい投書を発見することがある。誇張もなければ、修飾もない文章だ。それでいて読むものの心を打つ。体験の魅力である。悲しみも喜びも、怒りも嘆きも、体験したものだけが真実を伝える。
記者は、なにもかも自分で体験することはできぬが、許すかぎりの努力で、わが目で見るようにし、わが手でふれるようにしなくてはならぬ。それでこそ、自分の書いたものに責任がもてる。
体験をもって書けといわれても、記者がすべてについて体験することはできぬ。このために記者は、ひとの体験にたよらねばならぬ。体験者の体験に、記事の真実性を求めねばならぬ。
記者が“こう考えた”というだけでは、読者は信頼してくれぬ。“こう実行した”という体験の裏づけがほしい。体験には成功ばかりはない。失敗もある。成功と失敗の両面から見て、体験は豊富な内容をもつ。
野菜の作り方にしても料理の作り方にしても、体験者の知恵を加えることによって、その記事は生きてくる。「主婦の友」の記事が多少でも読者に信用されたのは、体験によって書かれた記事が多かったせいであろう。この雑誌の内容はいつもじみだ。先端をゆかぬ雑誌だ。それでいて時勢にとり残されもせぬのは、書かれている内容の正確な点が認められているためであろう。
独創性を発揮せよ
記事の味は独創の味だ。扱われた記事の題目にも内容にも独創の跡がないと、読者は義理にもふり向いてはくれぬ。この記事は前にだれか扱ったことがありはせぬかと、記者は問題をきめる前に、まずそのことを考える。いよいよ書く段になっても、独自の表現に苦心する。書き上げた記事に表題をつけるのに一日も二日も悩むことさえある。独自のものに仕上げたいからだ。
記者の前にはいつでも、新しい題目だけがある。新しい野心と、新しい苦心と、新しい希望だけがある。ねずみを追いかけない猫は猫ではない。新しい執筆の意欲に、血をわかさぬ記者は記者ではない。この熱意を失っては、たとえ大記者であっても、記者の資格のない記者だ。
記者の独創欲を満足させるような新しい題目がそうやすやすと見つかるはずはない。独創は、天分によるものだ。人の意表に出るすばらしい題目をひょっくり考えつくのは、天分ゆたかな記者だけである。記者には天才が必要だといわれるのはこのためだ。
しかし、天才でなくても、役にたつ記者となる道がありはせぬか。独創性を発揮させるのに役だつ道がありはせぬか。私自身の経験では、二つの道があるようだ。まず思考の習慣をつくることだ。道を歩きながらも、いい題目はないかと、考えながら歩く習慣をもつことだ。むだでもいいから、常住坐臥、根気よく思考する習慣をつけることだ。
この習慣をつくるのに、私は小さな手帖を利用した。夜も昼も離さず持ちつづけた。頭に浮かんだ小さな思いつきを、その場ですぐ手帖に書きつけた。これはと思うようなことが、ぴかりと電光のようにひらめくことがある。時が過ぎると、いくら考えても、二度と思い浮かべることはできぬ。瞬間の思いつきだ。案外つまらぬ思いつきかもしれぬが、とにかくその場で手帖に書いておく。これはたいへん張り合いのある仕事だ。こうしてとり上げた独創的な企画が、私の四十年の記者生活の間に、どれほど多かったかしれぬ。
記者はまた、耳と目を利用して、アンテナを張りめぐらしておくことも必要だ。どんな場合にも、自分は記者だという意識を忘れてはならぬ。電車に乗っても、その意識で、人の話に注意せねばならぬ。道を歩いても、その意識で、人の動きに注意せねばならぬ。いわゆる「記者の六感」で、対せねばならぬ。都会の新聞からだけでなく、田舎新聞の小さな雑報から、大きい思いつきを得たこともある。「主婦の友」という雑誌の名も、田舎の新聞からの思いつきであった。
わかりよい記事を書け
わかりよく書く。これほどわかりきったことはない。わかりきってはいるが、実際には行なわれていない。新聞も雑誌も、この点の努力が足らぬようだ。
「主婦の友」の読者は、年齢的にも知能的にも、千差万別だ。都会人もあれば地方人もある。六、七十歳の老婦人もあれば、高校を出たばかりの娘さんもある。子もちの婦人もあれば、未婚の処女もある。大学出の主婦もあれば、義務教育がやっとの主婦もある。思想的にもまちまちであり、感情的にもまちまちである。
これらの婦人大衆に、わかってもらう記事を発表せねばならぬ。ある人には好意をもって読まれても、ある人には反感をもたれることもある。できることなら、すべての人に喜んでもらえる雑誌でありたい。すべての人に信頼される雑誌でありたい。金持ち階級にだけ役だつ記事は、そうでない人には“侮辱された”と感じさせる。知識人だけに通用する記事は、そうでない人の反感を買う。読者のすべてに愛されるように記事を書くことは、容易ではない。
アメリカの“レディース・ホーム・ ジャーナル”は、日本の「主婦の友」のような雑誌だ。この雑誌の編集方針は、中流家庭の一人の主婦を目標にしていたそうだ。同じ中流でも、この雑誌の目標は中流の下である。働いてようやく生活する程度の家庭だ。子供も二人か三人という家庭だ。こういう家庭の主婦に必要な家事、料理、育児、趣味、娯楽などを、記事の対象としたそうだ。
日本でも同じだが、中流の下の家庭ほど、生活の苦しいものはない。子供の二、三人という家庭ほど、知識を必要とする主婦はない。生活に余裕がないだけに、すべてに一生懸命だ。この階級の主婦に、手放せぬ雑誌がつくれたら、百万力だ。
「主婦の友」も、はじめから中流家庭の下の主婦を目標として編集した。そのためには、なによりもわかりよい記事を書くことが、先決の問題であった。なぜなら、その階級の主婦は、所帯の苦労に時間もないが、経済の余裕もない人たちだ。おちついて雑誌を読んでいられぬ人たちだ。むずかしい理屈に興味はないし、読み返さぬと意味のわからぬような記事は、ごめんをこうむりたい人たちだ。そういう人たちを思うと、わかりよい記事を書くことが、なによりも必要だったのである。
情熱をこめて書け
記者の書いたものを、読者はどんな態度で読むか。私はいつもそれが気がかりだ。記者生活四十年の間、私はいつもこんな気持ちで過ごした。せっかく書いても、だれが読んでくれるだろうと思うと、さびしくもあるが、冒険心も起きる。聞きたがらぬ聞き手に、聞かせてみようという勇猛心だ。
その決心で原稿紙に向かう気持ちは、悲壮きわまるものだ。戦場に立つ勇士のようなものかもしれぬ。真剣にならずにおれぬ。一行はおろか、一字をも、心をこめて書かねばならぬ。ありったけの力をふりしぼって、祈りをこめての執筆だ。
徳富蘇峰翁が原稿紙に向かっているところは、まるで武者ぶりついているようだ。生みの苦しみの産婦のようだ。あれほどの大記者が、原稿紙に向かうと、必死の力を筆先にこめて書くのだ。全心をこめての執筆だ。
ところが、一般の記者を見ると、まるでちがっている。修業中の記者でさえ、真剣さが見られぬ。想をねるつもりかもしれぬが、タバコをふかしながらの執筆が多い。記者がらくに書いた記事は、読者が苦心して読まねばならぬ。
記者にはいろいろの資格がいるが、どれほどよい資格を備えていても、情熱に欠けては記者とはいえぬ。わが職分に情熱をもつか、わが書くものに情熱をもてる間が、記者だ。
どの職業にも老朽はあるが、すべての老人が朽ちるのではない。七十になっても進歩をつづける記者があり、八十になっても情熱をたぎらせる記者もある。しまつにおえないのは、|若朽(わかくち)の記者だ。精気もなければ情熱もない、干からびたような記者もある。
たのまれればなんでも書くという記者がある。金さえもらえば、どんなことでも書くという手合いである。こんな人にかぎって、なにを書いても達者だ。実に手なれたものだ。惜しいことに信念がないから、書いたものに情熱がない。こんな人があるので、金さえつかませると、記者はなんでも書くものと思われる。まじめな記者がいちばん屈辱を感ずるのは、この種の人と同じに見られることだ。こういう記者になってはならぬ。お金しだいのなんでも屋になってはならぬ。
私はいつも「主婦の友」を、創刊号のつもりで編集し、情熱をこめて記事を書く。記者諸君にも、それを要求する。いつも背水の陣だ。そこからみずみずしい情熱がわく。情熱は若さだ。情熱は新しい生命だ。老いることを知らぬ若さを、肉体の上には求めえなくても、働きの上に求むべきだ。筆を持って記者として働くかぎり、もちつづけたいのは若さと情熱だ。
材料を豊富に集めよ
料理の名人は、材料を集めるのにお金を惜しまぬ。材料が思わしくなかったら、せっかくの腕がふるえぬからだ。記者もまた、筆をとる前に、ぞんぶんに材料を集める。すぐれた記者は、すぐれた材料を集めることに、その全力を尽す。
読者は正直だ。その記事は、あり余るほどの材料を、吟味して書いたものか、とぼしい材料をあめのように引き伸ばして書いたものか、すぐわかるらしい。長ったらしい記事ではあったが、読後になにも残らないことがある。ほんの短い記事だが、読者になにか教えてくれることもある。
初心の記者は、材料集めに一生懸命になるが、経験を積んでくると、書く腕に自信をもつようになり、材料集めに飛び歩くのをおっくうがる。こうして多くの記者は、一線から脱落してしまう。
私の社では、雑誌は「主婦の友」だけしか出さなかった。それなのに、編集関係の社員だけでも百人余りいる。たった一つの雑誌に、どうしてこんなに多くの人が必要かと、不審がられた。これだけの編集員がいたら、五種でも十種でも雑誌が出せるだろうにと、世人が思ったのも無理はなかった。
しかし私は、ただ一つの雑誌の編集に、できるだけ多くの材料を集めて、その中からえり抜きの材料だけで、雑誌を編集したいと思った。そのための費用を惜しいとは思わなかった。材料が多くなれば、選択の水準が高くなる。編集者が二の足を踏むような原稿も、それにかわるものがなければ、不満ながらも出さねばならぬ。編集者が自信のもてぬような記事を出すようになったら、その雑誌の信用は失われる。
「主婦の友」では、未発表になる原稿が、毎月おびただしくあった。それに払った労力と費用は莫大なものである。しかし、私はそれをむだだとは思わぬ。粒よりの記事だけが重んぜられるのだから、捨てられる原稿が多いのはやむをえぬことだ。その時と金とを惜しんでいては、信用のある雑誌はできぬ。
読者の立場に身をおけ
読者あっての記者である。読者を離れて記者の働きはない。記者のひとり相撲に終ってはならない。こんなわかりきったことさえわからぬ記者があるのはこまったものだ。
だれに読ませるか、その目標がはっきりせぬと、材料の選び方もきまらぬし、記事の書き方もきまらない。料理を作る人は、「きょうのお客はだれか」ということを、まず知ることだ。お年寄りか若い人か、男子か婦人か、好みは日本酒か洋酒か、くわしくわかるほど、お客を満足させる料理を作ることができる。
記者が書く記事も、読む相手はどんな人か、どんなことを知りたがっているか、なにを教えてもらいたがっているか、そんなことをよくわきまえていないと、見当ちがいのものになってしまう。
読者に忠実な記者となるには、いつも読者の立場に身をおくことだ。「主婦の友」は、結核療養の記事で、読者にたいへん信用を得たことがある。それは肺病に悩む読者の要求が、かつてその病気を経験した私に、わかりすぎるほどわかっていたから、その悩みにこたえる記事をたびたびとり上げたからだ。
私はまた、子供を病気で亡くしたことがあった。悲しいこの経験のために、病む子をもつ親の心を察することができた。また、愛児を亡くした悲痛な親心が、わがことのように強く感じられた。そのために、「主婦の友」の育児記事や小児病の記事には、かゆいところに手の届くほどの親切さを盛りこむことができた。収入の少ない家庭の生活に「主婦の友」の記事がたいへん参考になると喜ばれたのも、私たち夫婦が、貧しい所帯のやりくりに、血の出るような苦心を重ねた経験があったおかげだ。
貧しい中流家庭の生活者であったことが、記者としての私に、どれほど有利であったかしれぬ。記者はいつも読者の身近におらねばならぬ。記者の知識が、読者をおき去りにするほど、進歩しすぎてもこまる。生活程度においてはとくにそうだ。生活の低い間は、読者の身近にいた記者が、だんだんと生活が向上してゆくにつれて、読者から離れてゆく。生活がゆたかになればなるほど、読者とは縁のない記者になってしまう。記者と読者の間に大きな食いちがいができる。
記者はいつも、読者を見失わぬように、読者から見失われぬように努めなくてはならぬ。それができないと、その雑誌はやがて読者から見放されるだろう。
古いことわざに、「泣いたものでないと、ひとの涙はぬぐえぬ」ということがある。読者が雑誌を読むのは、それによって慰められたいからでもある。家庭のいざこざの悩みがある。愛する人に死別しての悲しみがある。生活苦に泣くものがある。こういう心の痛手をいやして、新しい希望に向かわせることは、家庭雑誌の使命の一つだ。この使命を果すためには、記者は悲しみの経験者であることが必要だ。悲しみを悲しんだばかりでなく、その悲しみのどん底から立ち上がった経験者であることが必要だ。そのような資格のある記者だけが、読者の涙をふいてやることのできる記者だ。
記者は進歩主義者であれ
すべての記者は進歩主義者であらねばならぬ。現状打破者であらねばならぬ。新しい理想にあこがれるものであらねばならぬ。この意味で、記者たるものは革新家であらねばならぬ。革新思想を普及宣伝するために、記者の職を選んだともいえる。
「主婦の友」も、むろんその目的のために創刊された。ただ革新とひと口にいっても、相手によって方法がちがう。婦人や家庭が対象であると、そんなに急進的であってはならぬ。政治の面では、封建制度を一挙に民主主義に改めることができる。少数の人々の頭を改めることによって、その可能性があるからだ。しかし、大衆の生活を急激に改めることはできない。ロシアが共産国になっても、大衆の生活を一足飛びにそこまで飛躍させることはできなかった。できないのが当然である。一足飛びにはできぬが、ふだんにじりじりと改めることはできる。「主婦の友」が目標としたのは、このような国民大衆の生活であった。
私は明治の中葉から末期に育って、先進国を学ぶことを第一に教えられた。こういう時代に育ったうえに、さらに大きい影響を与えられたのはキリスト教であった。少年のころにこの宗教を信じた私は、西洋事情のなにほどかを学ぶことができた。西洋の事情をいくらか知るとともに、日本の実情に悲観させられた。日本に生まれたことを不運と思うこともあった。世界無比の国体を喜びもしたが、これにこびりついている封建制度を悲しく思った。君子国とうぬぼれる日本の道徳が、キリスト教の道徳に照らして、悲観することばかりであった。なまじキリスト教を信じたばかりに、祖国を謳歌することのできぬ自分を、どれほど悲しく思ったかしれぬ。
しかし、私は思い返した。神の力でできぬことはない。キリストの信仰が根深くひろまれば、日本もきっと文明国になれる。すでに進歩してしまった国よりも、まだ進歩の途上にあって、あらゆるものに革新を加えねばならぬ日本こそ、私にとって、働きがいのある国だと思うようになった。
日本の家庭を革新して、たとえ一寸でも二寸でも幸福に向かって進められれば、私の生涯にもいくらかの意義がある。私はその念願で「主婦の友」を編集した。それでどれほどの成果が上がったかと問われると恥ずかしい。
とにかく、日本の家庭は、西洋の模倣であってはならぬ。西洋に学ぶものはたくさんあるが、模倣するだけでよいという安易な革新は許されない。みずからくふうして改めねばならぬ。失敗に失敗をくり返した日本の革新は、いまこそ自分自身に根ざしたものを、自分の手でなしとげねばならぬ。記者の責任はあまりに重い。
人柄がすべてを決定する
記者の資格はまず文章だ。文章がまずいと、書いた記事も読んでもらえぬ。記者にはまた天分が必要だ。熱意も、経験も、信用も重大だ。しかし、それらにも増して根本的にたいせつなのは、記者の人物であり、人柄である。世間を茶化してゆくか、まじめに見るか。住みよい社会にするために努力するか、自分だけつごうよく生きようとするか。精神的の幸福か、物質的の幸福か。謙虚か高慢か。華美か質実か。排他的か協力的か。信仰か無信仰か。数え上げるときりがないが、記者の人物いかんが、その働きにおよぼす影響は大きい。
記者の人物が、その書いたものの上にあらわれる。かくそうとしても、かくせるものではない。記者の人柄と同じように、その会社の性格も、出版物の上にあらわれる。恐ろしいほどあらわれる。文章がうまいとか、経験が豊富だとか、見識が広いとかいわれるが、けっきょくのところ、その人柄が、記者の最後の価値をきめる。
年とともに偉大さを加えた記者の一人に、内村鑑三先生がある。信仰の立場から一生をかけて、キリストの道を説いたが、文章伝道がその本領であった。五十余年の記者生活のうち、最後の三十年ほどは「聖書之研究」という小雑誌にこもった。二千か三千の小部数であったが、読者というよりもむしろ崇拝者で支持された。その死と同時に、雑誌は遺言で廃刊されたが、その感化と影響は、年とともに大きい波紋をつくりつつある。百年二百年後には、いまよりもっと大きな働きをするかもしれぬ。これは、単に文章がうまいためではない。文章にも独自の味があり、見識も非凡だが、根本の問題は、その人物の偉大さだ。
これだけの人物が、全生涯を記者として働いたのだ。一行二行の記事にも、内村先生でないと書けぬものを、精魂こめて書き残している。ひとには書けぬ内容ばかりだ。記者としての生涯は、強いられたのでも、名利のためでもない。記者となって働くことが、日本をよくするのに、もっとも効果があると信じてであった。
日本の記者を見まわして、一流の人物がおおぜいいるようになりたいものだ。記者は出世街道の踏み台ではない。オレは偉くなったのだから、もう記者ではないぞ、という考えは、記者の地位を侮辱するものだ。私たちはりっぱな人間となって記者の道を進み、第一流の人物となっても、記者であることを誇りとしたいものだ。
一人の内村鑑三先生が、記者らしい記者として、生涯を働いたということが、日本の将来におよぼす影響は大きい。 ペンは、剣よりも強い。これからの日本には、すぐれた人材が雲のように、記者の陣営に集まらねばならぬ。記者の世界は自由の世界だ。これからの記者は、せまい日本にちぢこまることはいらぬ。大手をふって、世界のすみずみにまで、その活動の天地を開くべきだ。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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