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文壇と批評

  「文壇」崩壊論

 一

 

 文壇というものは無くなつた――それが今年(昭和三十一年=1956)の「文壇」回顧として私に最も痛切に感じられた印象である。伊藤整のいわゆる逃亡奴隷と仮面紳士によつて構成された文壇なる特殊部落は、完全にジャーナリズムの中に崩壊したといえよう。伊藤氏の「小説の方法」は、いまから僅か八年以前に書かれた名著であるが、つぎのような一節は、もはや現代の「文壇」には該当しなくなつているであろう。

 

「私小説の変態性は、たしかに、一面では日本の文藝享受の仕方の特異性によつて生れたとは言わぬまでも強められた。それほど文藝批評は日本ではきびしいのである。作品よりも文壇というギルドの中での生活態度が批評され、作家は絶えずギルドの中での生き方に注意すると共に、その生き方の告白と弁護を作品の内容とせざるを得ないのである。そしてこのたがいに知り合つているギルド生活の実体が文学作品の実体となつているために、作品は常に、身辺雑記であり、身の上話であり、人物の説明抜きが必要な礼儀なつている。(略)そしてこういう風に文壇生活そのものが倫理的思想的修練であり文壇は道場であるため、作品は告白文以上の肉づけを不要とする結果、肉づけの作家谷崎潤一郎は東京に住む事ができなかつた。永井荷風は文壇人と交際するに耐えなかつた。生活の論理の思考者志賀直哉は文壇の精神的背骨とならねばならなかつた。(ことごと)く必然である。」

 

 なるほど、今日もまだ「人物の説明抜き」で「ギルド内の生活」を身辺雑記風に書いている作家もいないではない。しかし、それはきわめて少数であるばかりでなく、ほとんど現代の文学として問題とされなくなつている。今日の文学は一般的にそういつた傾向を揚棄して新たな変貌を示している。それは批評家たちの私小説否定論が、この国の作家たち、ことに若い世代の新作家に徹底した結果ではない。一言でいえば、それを作品内容にしようにも、その「ギルド生活」なるものが生活の実体として無くなつたからにほかならない。今日の若い作家たちにも、私小説の書き手たちは必ずしも少くない。いわゆる第三の新人の作品には私小説がかなり多い。しかし、彼らの私小説はかつてのような「文壇」的生活を描いたものではなくなつている。「個人の不確立に始まる文壇ギルドの特殊性」が彼らの生活の中には無いからである。

 今日、私たちは文壇という言葉を便宜上なお使用しているが、それはすでに在来の「文壇」を意味してはいない。いま私たちが漠然と文壇なる言葉であらわしているのはジャーナリズムのうちの文学関係方面であるにすぎない。いわば文壇に代つてジャーナリズムが、私たちの「生活の実体」となつてきたのである。かつてはジャーナリズムに対して、「文壇」の権威が支配権を有したことがあつた。大衆作家である村松梢風の作品が、自分たちと同じ創作欄に発表されるならば、われわれは執筆を拒否すると「中央公論」にたいして芥川龍之介たちが抗議した昔にさかのぼるまでもなく、また川端康成が「文壇の垣」を論じて石坂洋次郎の作品は文壇小説の勘をはずれていると述べた二十年前はさておき、最近まではジャーナリズムとは別個に文壇なるものが微弱ながら存在していたのは確かだ。たとえば、戦後、一連の戦記文学がジャーナリズムに流行したり、「流れる星は生きている」とか、「今宵妻となりぬ」などというような小説がベスト・セラーとして喧伝されたり映画化もされたが、これらの作品は「文壇」に認められず、その作家たちも「文壇」人には編成されなかつた。文藝雑誌もしたがつてこの作家たちに執筆を依頼しなかつた。

 しかし、現在では、その作品が文学として高く評価されなくても、題材の関係で週刊雑誌のトピックとなつたり、映画化されたりすると、すぐに文藝雑誌が執筆を依頼し、作者は「小説家」としてジャーナリズムに待遇され、「文壇作家」の一員として、いわゆる玄人(くろうと)と社会的には同じ圏内の住人となる。もはやそれにたいして抗議する玄人作家はいない。なぜならば抗議すべき地盤としての文壇なるものがなくなつたからだ。

「群像」(昭和三十一年)十一月号の「純文学・文壇の必要について」で河上徹太郎は「文壇」の必要を説いて、「あまり素人になり過ぎてゐる」現在の「文壇」に警告を発しているが、それはつまりは、「文壇」がなくなつた事実を語つているにほかなるまい。

 このような玄人による「文壇」なる特殊社会が喪失した理由はさまざまに挙げられるであろう。誰しもいうようにジャーナリズムの商業主義が強い支配力を作家たちにもつようになつたことがその第一には違いないが、私がここで特にあげたいのは、いわゆる文壇小説が今日の藝術としての魅力を失つたことである。魅力を失つたとは、伊藤整のいうように、それが文壇事情を知らない一般読者に興味をもたれなくなつたということではない。一般読者からみれば玄人である文藝批評家にとつても、また同じ職業の作家たちにとつても、さらに文学者たろうとしているいわゆる文学青年にとつても、深い感動を与えなくなつたということである。大衆文学的な娯楽性がないのは勿論であるが、純文学らしい藝術的な感銘を私たちが最近のどの文壇小説から受けたであろうか。

 むろん、毎月発表されるおびただしい小説の中には幾つかの佳篇もあれば問題作もある。しかし、「佳篇」といい、「問題作」というのも、きわめて低い基準での相対的価値であつて、真に私たちの胸に強く激しい感動や衝撃を与えたかと問うならば否と答えざるを得ないであろう。純文学と大衆文学の隔離が次第に問題とならなくなり、直木賞作家も芥川賞作家も、あまり区別がつかなくなつたのは、たんに中間小説の隆昌というような現象によるのではなく、純文学が、かつてのような生命の根源にふれる感動も、感嘆してやまないほどの技巧上の巧緻さも、実験の冒険性も失つてしまつたからである。大衆文学のもつ娯楽性に代りうるだけの藝術性が認められないのでは、純文学としての存在の意味がまつたくないというほかはない。これでは、たとえ未熟稚拙でも、「太陽の季節」の方がまだマシとなるのは当然であろう。

 それに、以前は「文壇事情」に興味をもつところの特定の読者をのみ対象として、いわば文壇の機関雑誌であれば目的を果しえた文藝雑誌が、今日では多くの読者を必要とするために、ほかのマス・コミュニケーションと同じように、ジャーナリスティックな編集をしなければならなくなつたので、小説作品を商品的に考察せざるを得なくなつた。文壇事情への興味でささえられているような身辺雑記小説は、ここでも、いわば最後の牙城においても歓迎されなくなつたことが、文壇の存在理由を奪つたとみてよいであろう。

 

 

 

 文壇を封建的社会と見なし、情実的な徒弟制度の支配する特殊部落として排撃した日高六郎の文壇論を、私や荒正人が反駁したのはつい三年ほど以前である。ここでは、まず「文壇」というものにたいする概念の大きい相違があつたのだ。私や荒氏が「文壇」という名辞で擁護したのは、いわば文壇的ジャーナリズムの世界であり、日高氏が攻撃したのは古い概念による文壇であつて、当時すでにそれはもう殆ど実在していなかつたとさえいえよう。その時期がちようどジャーナリズムにおける川崎長太郎ブームに当つていたのは興味ふかい事実である。人物の説明抜き私小説家川崎長太郎が、ジャーナリズムで、ささやかな流行作家となつたのは、私小説がかつてのような精神を賭けた告白の迫力を失い、家庭団欒小説に堕した中で、独身者の自由な行動を、独身者らしく自由に表現したからであつた。最近この川崎長太郎が書いた「私小説作家の立場(「新潮」十月号)によれば尾崎一雄は、「家庭大事と言う建前から、思つていることをずばりずばりと書くことが出来ぬ」といつたそうであるが、妻子に遠慮して思つたことが書けないで書かれた私小説がどうして私たちに深い感動を与える力をもちえようか。現在の小説の魅力のなさは、作家がこういう精神で書いているところにあり、これでは私小説の意義は完全にないわけだ。私小説の衰弱と文壇の崩壊は決して無関係ではない。私小説を支えてきたものは、「文壇」であつた。

 文壇という特殊社会は、伊藤整も指摘しているように最初から「一般社会とつながつたならば壊滅する筈のものだつた」のである。

 

 彼等、社会にとつてのもつとも危険な分子が、外と交際を持たない小さな集団を作つて、好き勝手なことを、彼等のみに通じる合言葉と隠語で、わけのわからないものを書いて発表していることは、社会そのものにとつて安全であつた。彼等はその破倫な、無謀な生活を記録して発表したが、それは社会全体に届かなかつた。

 

 と伊藤氏は書いているが、最近では文学とマス・コミユニケーションとの関係が緊密になり、文学者の存在が社会化され、その書くものが「社会全体に届く」ものとならねばならなくなつたことが、私小説を文学界の片隅へ押しやることになつた。つまり文壇生活を題材にしたような小説では一般的な興味を誘わないから商品性を失い、作家の方でも書く気になれなくなつた。作家は外部に題材を求めなければならず、したがつてこれまでの文学者のように文壇生活を生活の全部としていたのでは作家としての職業を続行できなくなつた。すくなくとも「文壇」への関心が生活の中で占める比率は減少してきた。当然、「文壇的交友」は少くなり、文壇的共感も薄弱になつて来ざるを得なかつたのである。文壇というものが生活の基盤としての意義を失い、ジャーナリズムがそれに取つて代つてきた。

 更に、文壇を崩壊せしめた社会的事情は、文学が社会人に触れてゆく機関として、活字による方法以外のものが増加してきたことが挙げられるであろう。ラジオもテレビも映画も、一種の文学表現の場となつた。すくなくとも文学者がその思想を発表しうる機関となつたといいうる。文学者はかつてない多くの人々を対象にして、ものを考えなければならなくなつた。かつては「彼らのみに通じる合言葉と隠語」で、「わけのわからぬもの」を書いてさえいればよかつた文学者にとつて、それは大きい変化であつた。したがつて、ギルド内部での倫理感で生きてはいられなくなつた。

 日高六郎は、文壇を論じて、文学者には、「私生活になみはずれた行動があること」を挙げ「家庭をやぶり妻女を放擲(ほうてき)することがゆるされている」と述べたが、大正時代なら知らず、戦後そのような「特権」は文学者にゆるされていない。文学者もまた一般人とひとしく大衆によつて裁かれる。いや或いはその虚名ゆえに、また彼らの書くものが公的機関に発表されるために、ある場合は一般人以上にきびしい批判の対象にさらされなければならない。政治家の公然たる悪徳にくらべて文学者が、いかに手きびしく批判されることか。しかも政治家の悪徳は、つねに国民の犠牲の上にきずかれる。しかし、文学者のそれは、あくまで個人の私生活上の出来事であり、国民の誰に迷惑をかけることでもないのに、批判は政治家の場合よりもきびしい。林房雄が前夫人の自殺によつて、いかに社会的な非難を浴びたかは、まだ私たちの記憶になまなましいところである。

 また、これまでの作家は、いわば文壇という道場で倫理的鍛錬を受けたものの集りであつた。社会的に一人の作家となる以前に無名作家としての生活があつた。「苦節十年」などという言葉がいわれたように、彼らは「文壇的雰囲気」の中で先輩友人たちから一般世間の道徳とは違つた倫理をふきこまれた。貧乏と病気と女の苦労を体験しなければ一人前の作家にはなれないというような人間修業が真剣に主張され、通念とさえなつていた。

 ところが、最近ことにこの一年、そんな苦労など全然もたぬどころか、むしらそのような苦労を軽蔑した若い人たちの作品が商品価値をもつて登場し、現代の読者に歓迎されて古い文壇的倫理によつて育てられた人々が、いかに嫌厭(けんえん)したところでお構いなしに罷り通つている。文壇的倫理は完全に敗北したのである。十年も二十年も小説を書いて苦労してきたなどという履歴は、この現象の前にその無能をあらわし、これまで先輩について学んできた文学概念など作家となるには、なんらの役に立たないという事実を、今になつて、彼らは身をもつて痛感しなければならなかつた。

 私自身は、古い文壇的雰囲気の中で、若年の日を過ごしてきたが、「貧乏と病気と女の苦労」をしなければ一人前の文学者となれぬ、つまり人生がわからないというような観念には絶対に承服できなかつた。そんな苦労はごめんだと思つていた。もつとも思いながら、結果はしてしまつたが、いまでも、そのような人生認識の様式は信じていない。また同人雑誌を何年も苦労してやつてきたなどということが、誇るにたる履歴だとは考えていない。戦前ありがたがられた苦節十年などという観念は、人間をスポイルするだけであつた。しかも、それは、すぐれた藝術を創造するための「苦節」ではなく、「文壇」へ出るための処世上の苦労でしかなかつたのである。

 このような人生認戯の倫理が一般社会に通用する筈はなく、こういう倫理を現在なお信奉している人たちが、今日のジャーナリズムから忘却されてゆくのは当然であり、文壇的倫理の敗北が、文壇の崩壊を促進せしめたといえよう。

 

 三

 

 こうして徐々として崩壊の過程をたどつてきた文壇の完全崩壊を、今年とくに私に強く痛感せしめたのは、いうまでもなく石原慎太郎を先頭とする一連の若い作家の社会的登場のあり方であつた。

 芥川賞受賞以来の石原氏のジャーナリズムにおける扱われ方は、これまでの新作家にみないもので、ここに至つて「文壇的」評価などは完全に黙殺された観があつた。それは、ちようど映画批評家がどんなに大根よばわりしようとも、映画会社が売り出そうと思う新スターは、なんとしてでも売り出す宣伝戦をおもわせるものであつた。意識的に一人のスターを売り出す、あるいは売りものにしようとするジャーナリズムの商業主義の完全な勝利であつた。

 しかも敗戦直後には、さきに述べたように、ジャーナリズムの宣伝には乗らなかつた「文壇」が今度は乗つたのである。勿論、それには石原氏の文学的才能という問題もあつたが、すでにそれは「文壇」がジャーナリズムの商業主義にほとんど無抵抗であつた事実を示している。

 これまで、「文壇」はジャーナリズムによつて生活しながらも、その商業主義には、しばしば抵抗を試みてきた。それは次第に微弱なものとなりついに完全に無抵抗となつた。このことは今日の文学者が明治大正期の作家にくらべ強靱なバック・ボーンをもつていないからだとか、文学者が堕落したためだなどとよくいわれるが、私には問題はそのような点にはないと思われる。明治大正期の文学ジャーナリズムの機構などは現在からみればお話にならぬほど小規模であり、文学者の数もまた知れたものであつた。したがつて作家の生活の幅も極めて狭くてすんだ。これは恐らく文学者の場合のみの問題ではなく、日本の現代人すべてが明治大正期の日本人とは比較にならぬほど多様な意識をもつて生活しているのであり、文学者もその例外ではありえないというだけに過ぎない。明治大正期の人物が、現代の人間にくらべて、どれだけ偉かつたかということはよく問題になるが、「昔の人は偉かつた」というとき、彼らを偉くした条件が現代の社会で私たちが生きている条件とは全く異なる事実が忘れられているのだ。今日の社会的条件のなかで生きている現代人に「昔の人の偉さ」を求める気風が今もなお跡を絶たない。現代の作家を、昔の作家にくらべて堕落したようにいう言説を私は信用しない。

 したがつて、今日ジャーナリズムに「文壇」が無抵抗となり、無抵抗になつたことで「文壇」が崩壊したのは、現代作家の脆弱(ぜいじゃく)性によるのではなく、社会的必然なのだ。

 さらに今日では藝術家とジャーナリストの区別ということが厳格に規定できない。すくなくともジャーナリズムで存在しえている藝術家はジャーナリスティックな才能をもつていることは疑えない。そして、それが藝術の変革を必然化せしめる。昨年末から今年にかけて登場してきた若い作家たちをみると、彼らが実にジャーナリスティックな感覚をもつていることが認められる。彼らは、それを身につけているのだ。それは現代の素質として血肉化しているのである。彼らの文学はその気質の産物である。

 彼らは、それを「貧乏と病気と女の苦労」の体験から学んだのではない。先輩文学者から教えられたのでもない。彼らは今日の普通の青年として生活の中から身につけたにすぎぬ。そして彼らの生活には、「文学の師」などというものは存在もしていなければ意識されてもいない。彼らはかつての私たちのように文学青年でさえない。

 北原武夫は、「群像」(十一月号)で、「文学青年の変遷」を述べているが、そこに語られて、いる青年は文学青年ではない。明治大正の文学はもちろん、おそらく現在の小説さえ、ろくに読んでいないのであり、読んでいない事実が彼ら自身にとつて、なんの関心ともなつていないのだ。彼らにとつても「文壇」は無いのである。

 このように「文壇」の崩壊は、文壇がジャーナリズムの中へ溶解したことによつて完遂(かんすい)されたが、それは商業主義の勝利であるとともに、またギルド的束縛からの解放でもあつた。自己の作品を社会へ発表するために、また作品を書くために先輩の門を叩いて恩恵を受ける必要もない。「文壇」の崩壊を示す端的な事実は、ジャーナリズムに強い発言権をもつ作家のいなくなつたことによつても知れる。佐藤春夫がいかに反対しようとも、芥川賞は「太陽の季節」に授賞された。反対にいかなる流行作家が推薦しようが、駄目なものは駄目なのだという空気の明朗さが認められる。

 しかし、そのための弊害もまた()くない。文学が、文学としてのみ評価されなくなり、その商業的評価が一切のものとなり、作家的位置が一般的に収入によつて評価されるのはまだよいとしても、その評価が文学者自体を支配するにいたる傾向さえ看取されないであろうか。それは大衆作家の間に、かつてのような純文学作家へのコムプレックスが消失した事実に端的にあらわれかけている。私はそれを、いちがいに排斥するものではない。しかし、それが文学にたいする蔑視的概念と化する危険性は充分にあるであろう。文学を蔑視した文学というものが生れるかもしれない。北原氏のいう変遷した文学青年が、「文学者」になつたらそうなるであろう。文壇が消滅し、その文壇的倫理観が若い世代から失われるのは結構だが、それと同時に文学にたいする愛情が失われてはならない。「文壇」に(あら)ざる「ジャーナリズムの文学関係方面」が発展してゆく根底には、やはり文学への愛情がなければ、社会はその存在をも許さなくなるであろう。 (昭和三十一年十二月「中央公論」)

 

  批評家の空転

 

 戦後きわめて早い一時期、すなわち昭和二十一年の秋から冬にかけて、文学者の「実感」というものについて、ささやかな論争が行なわれたことがあつた。当時、私はその論争に参加する余地もなかつたし、またこの問題にたいする関心を表明する機会も持たなかつたが、以後十五年来この問題は、いつも私の心の片隅にひつかかつていて離れることがなかつたのである。

「文学者はあくまで自己の実感を固執しなければならぬ。然しまた自己の実感に居坐ることは危険だ」と、小田切秀雄がいつたのにたいして、佐々木基一が、「一見至極理の通つた言葉である」といいつつも、「果してそうであろうか」と疑問を呈したのである。そして、次ぎのように述べている。

「恐らく、原稿用紙を前にして、最初の一筆を下す時間、僕らはこの至極理の通つた言葉が、実は僕らにとつて容易ならぬ困難を課すものであることを経験するであろう。この言葉を念頭に浮かべながら、然もなお最初の一行でも書き下せる人間が果して存在するかどうか僕は疑問に思う。」(「実感文学論」)

 そののち、この「実感」の問題は非常に否定的な批判のなかに置かれた。人間はみなすべて異なる星まわりや稟質(ひんしつ)をもつているのだから、個人の実感が、そのものとして普遍性をもつものではないともいわれた。また、しかし実感をはなれて文学はないのだから、インテリゲンチャとしての実感を普遍的原理にまで高めなければならぬともいわれ、さらに、その後は実感を否定した「メタフィジック批評」の提唱となつていつた。

 私は「メタフィジック批評」なるものは、こと小説の批評に関する限り厳密な意味では樹立しないと考えていたし、げんにその提唱者たちの批評も決して真の意味での「メタフィジック批評」ではなかつた。そして私自身は、「実感を固執しなければならぬが、実感に居坐ることは危険だ」という言葉を、たびたび念頭に浮かべながら、「なお最初の一行を書き」、ものを書いてきた。それは、「実感に居坐る危険」を感じながら、「実感を固執して」きたことである。これからしばらく私が現代文学の諸問題や諸現象について書くにも、私には「実感への固執」という手しかない。私は自分が実感に居坐ることを警戒しながら、実感を固執してゆこうと思う。それが題名の理由である。

 

 今日(こんにち)こと新しく純文学と大衆文学の問題がむし返されている。大衆文学が好況になり純文学では生活できないような時期になると、かならず持ち上つてくる問題で、一向新鮮味がないのであるが、今度の場合は、平野謙が、「純文学は歴史的な概念で、現在一般に考えられているような確乎不動のものではない」と発言したことが波紋を投じたのである。氏はその理由を、「純文学と大衆文学」(「群像」昭三六・十二月号)の座談会で、詳細に述べて自己の概念規定を表明している。

 純文学のその歴史的変質は、平野氏の言葉によるとしても、現実には「純」文学といえば、私小説乃至は私小説的作品ということにどうしてもなる。実際に多く文学賞を受けたり、批評家に問題にされる小説のほとんどが私小説または私小説的作品である。そして、批評家の賞讃する大衆文学もまた何らかの意味において、私小説か心境小説的作品が多い。しかし、実際に大衆文学の大半を占めるのはそういう作品ではないのである。批評家は山本周五郎や海音寺潮五郎を、大衆文学の代表選手として取り上げているが、現実に読者をはるかに多くもつ山手樹一郎や川口松太郎には言及したことはない。これでは、現実の「大衆文学と純文学の関係」を正しく把握したことにはならないであろう。山手・川口の作品が、文学的な価値としては、海音寺・山本にもしも劣るとしても、「大衆文学」という言葉が実際に、より適切に該当するのは、読者が多いこれらの作品の側にある。

 これは、次ぎのような事情による。批評家の読む「大衆文学」とは、「オール読物」や「小説新潮」、また二、三の週刊雑誌に掲載されている作品である。ところが、こういう場所に発表する作品を、大衆作家自身は大衆文学とは思つていないのだ。彼らは、こういう場所を自分の仕事の場としては最上の場と考えている。かなり自由に書きたいものが書ける場として、自分としては最も水準の高い作品を発表している。そして彼らの考える「大衆文学」は、いわゆる倶楽部雑誌などに発表されるが、批評家は、そういう雑誌を読まない。

 一方、「純」文学の作家は、そういう発表舞台を、かならずしも自分の最高の場とは考えていない。彼らは真に自分の書きたい作品を発表するのは綜合雑誌や文藝雑誌だと考えていて、前記のような雑誌では、二義的作品しか発表しない。そこで、それらの作品を読みくらべて批評家は、いわゆる純文学作家より大衆作家の方が、「文学的」な仕事をしているのではないかと驚いたりするのだが、これは大衆文学のきわめて僅かな尖端をしか見ていないからである。いわば彼らが大衆文学として扱つている小説は「大衆文学」ではないのだ。少くとも大衆作家自身はそのように考えて書いていない作品なのである。

 

 現在、大衆文学が問題となつているのは、大衆文学にも文学的作品が多くなつてきたというほかに、推理小説ブームという現象を無視することができなくなつたという事実にもかかつている。批評家は推理小説ブームについて、さまざまな解釈をしてみせる。しかし、実際に、「なぜこんなに推理小説が流行するか、その理由を挙げよ」といわれたならば、ただちに一言でその理由を誰が説明できるであろうか。少くとも私などには解答ができない。そのくせ私自身も推理小説の愛読者である。

 ただ言えることは、いわゆる「純」文学がつまらないことが、そのひとつの理由になつているのは確かである。村松剛は、本誌前月号(「文学界」昭三六・十二月号)の文学時評で、「以前ならまちがいなく_純″文学に行つた筈の優秀な人たちが、あいついで推理小説の筆をとる」といつているが、ちようど、以前ならマラソンや槍投げに行つた筈の運動選手が、すべて野球に走つてゆくのと同じである。なぜ走るのが早い青年がマラソン選手にならず、野球選手になるか。理由は簡単だ。マラソンの選手になつてもー銭にもならぬが、野球選手は莫大な金になるからだ。

 以前なら「純」文学へ行つた筈の人たちが、推理小説におもむくのも同じ事情によるといつては非礼だろうか。もちろん収入だけの問題ではないであろう。しかし、純文学作家になつても収入は知れているという事情が介在している事実は否定できまい。そもそも純文学作家ですらが、その殆どが純文学による収入だけで生活しているのではないのが事実なのだから。

 しかし、私は「純」文学はそれでよいのだと思つているものである。新劇俳優が、新劇だけで生活できず映画やテレビに出演しなければ生活できないのを嘆く言葉を屡々見るが、私は新劇とはそういうものだと思つている。あんな僅かな人間のみを対象として退屈な演劇をやつているだけで生活できる筈はないのであつて、「純」文学もまたそうである。身辺難記の私小説ばかり書いていて生活ができたとすれば、むしろその方が不思議なくらいである。

 それよりも「大衆文学と純文学の関係」について述べる際に、誰でもが意識しながら、誰でもが故意に回避している問題がある。すなわち、大衆作家と純文学作家の心理的相剋である。もちろん、それは今日では戦前ほどに対立的なものではないが、然し全く消滅したとはいえない。今日でも純文学作家の優越感と大衆作家のコムプレックスは払拭されてはいない。両者が同じ雑誌に仲よく名前を並べて、誰もがそれを奇異に感じなくなり、双方ともに「中間小説化」してきたかのように見える今日でも、やはりその心理は微妙に食い違つているようだ、純文学は藝術であるが、大衆文学は娯楽にすぎないという概念が両者ともにあり、それが作家的意識の断層となつている。おそらく、これは永遠に消えることはなかろう。純文学作家が自身もまた通俗小説によつて生計を支えてはいても、である。

 以上で、私がいいたかつたことは、批評家が大衆文学乃至(ないし)は通俗小説を間違って考え、間違つて考えているからこそ、それほど問題にしているのだというような事情があることを読者に理解して貰えたと思う。文学の本質的問題として、今さらに大衆文学を問題にする必要はないし、問題にしたところで、純文学はどうにもならぬといいたいのである。純文学の衰弱が大衆文学の繁栄を来たしたとしても、純文学が大衆文学から何ものかを摂取することによつて回復することなど在りえぬことであり、または不可能なことなのだ。

 村松剛は、三島由紀夫の「獣の戯れ」を批評して、「通俗小説の替えうた」であり、「みごとに功を奏した『純』文学の逆襲である」といい、「通俗小説が『純』文学の脱ぎ棄てたものを身につけて肥つているのだとしたら、『純』文学もまた、それを奪いかえしてはならないという理由はないではないか」と述べているが、それは違うだろう。「獣の戯れ」は、氏のいうように、「物語は通俗小説とそつくりの形態を示し」てなどはいまい。この小説は、「美徳のよろめき」の延長線上にある作品であり、作者が意識的に通俗小説の要素を文学的に消化してみせたというものではなかろう。それが、もしも村松氏にそのように見えたとすれば、それは三島由紀夫自身が本質的に通俗性を持つているということにほかならない。そして、いうまでもなく、そのことは作家三島の不名誉でもなんでもない。

 大体、大衆文学を純文学に対立するもの乃至は敵とみる概念そのものが間違つているのである。

 なぜ純文学が衰弱したかといえば、一般読者の生活の幅が広まつてきたのに対して、純文学作家が追いつけなくなつたためである。否むしろ、視野を狭くしていなければ、自己の純粋さが保持できないというような作家の生活意識感情が問題なのである。それが、いきおい作家をして純文学といえば私小説乃至私小説的な傾向へ自らを追い詰める結果となるのだ。「社会化された私」など、今日の純文学に見ることができないのは当然であつて、作家は自己を「社会化」しようなどと思つてはいないのだ。むしろ社会化されることによつて「俗化」されるのを恐れ、自分から拒否しているといえよう。

 自己をなるべく純粋に保とうとする努力が私小説的にしかあらわれない結果になるのは、その自己が狭い世界に安住の地を見出そうとしているためともいえる。そういう場所にいなければ、忽ち俗化されそうな危険性を感ずるからであろう。現代がそれほど俗化力の強烈な時代だともいえる。

 そして、俗化をあえて恐れず時代現象に立ち向かつたところに、松本清張の驚異的な人気がおこつたのだ。氏の最近の作品が次第に質的に低下しているのは事実だが、急激に氏がのし上つてきた動機はそこにあつた。伊藤整は、松本清張が、「プロレタリア文学が昭和初年以来企てて果さなかつた資本主義社会の暗黒の描出に成功し」、水上勉とともに、「純文学の理想像がもつていた二つの極」を推理小説の様式のなかで「あつさりと引き継」いだと述べている。(「『純』文学は存在し得るか」・「群像」昭三六・十一月号)

 松本氏が、そういう危険な作業に成功したのは、自己の俗化をおそれなかつたからだ。唯あまり恐れなさ過ぎて、最近のように凡作を連発することになつたのは残念なことである。そこで、こういう現象を目撃した一連の純文学作家が、より以上に自己の世界を狭く限定することによつて、純粋性を保とうとする感情を強めたのも、一応は無理ないところである。

 そして、在来の私小説の私では、自分の体験をすら表現できないと考えた作家たちのとつた方法が、_私″を一種の抽象化された人間として描くという手法である。私小説的作品であることによつて批評家が問題とした吉行淳之介の「闇のなかの祝祭」や小島信夫の「四十代」に、それがみられる。これらの私小説的作品が、上林暁や川崎長太郎の私小説と異なるのは、そういう人工的な操作が、_″私″にたいして施されているからである。

 江藤淳は、「闇のなかの祝祭」について、吉行氏が、「私小説的様式を信じている」ために、「この作品がでれついて、かえつて作者の理想喪失を露呈している」と述べているが、私は作者は「私小説的様式」を信じていないと思う。だから氏もいうように、「この恋愛こそおれの文学を生かすだろうというような、かつての私小説家のこけの一念などはこの作者にはない」のである。小説を信ずるということと、「私小説家のこけの一念」とは、決して別々にあるのではない。このことは小島信夫についてもいえる。ただし私は「四十代」についての評価では、江藤氏よりも村松氏に賛成である。そして「闇のなかの祝祭」は、吉行氏としては、かつての「鳥獣蟲魚」の必然的過程に生まれた作品であつて、村松氏のいうように「吉行には珍しいこの姿勢」という風に特別視する必要を感じない。

 この作品について、村松氏は「作者はこの小説を、どうしてこのような私小説の形で、書かねばならなかつたのか。私小説風に書けばモデルとなつた女たちが傷つくことは必定だろうに」といい、平野謙もまた「現実には問題が落着したから書いたのだろうが、どうして寝た子をおこすようなことをするのか」という意味の批評を書いていたが、批評家はそこまで案ずる必要があるのだろうか。

「『週刊誌の連載小説は前の年の暮に終つて、彼にとつては最初の新聞小説の連載開始が一ヵ月後に近づいていた』とたとえば彼は書く。新聞小説とはいうまでもなく『街の底で』のことだろう。実在の人々を傷つけることを覚悟の上で、しかもこれほどトリヴィアルな『事実』をまで書き入れているということは、つまり作者が、この問題を書くにあたつて、『事実』の重みの援助の必要を感じたということなのか」

 村松剛は、そう書いているが、こういう批評も小説の批評としては行き過ぎではあるまいか。誰が傷つこうが批評家の関知するところではあるまい。また、平野氏とは反対に、「現実の問題が膠着状態にあるので、書くことによつて何らかの解決方法を作者は求めようとしたのだ」という知つたかぶりの批評も見受けた。事実はそうかもしれないが、そんなことも批評家が立ち入る問題ではなかろう。恐らく、このような小説一篇で現実上の問題の何が解決する筈もなく、作者もそんなことを信じてはいないであろう。

 それが事実を題材にした作品であろうとなかろうと、それは批評家にとつて「作品」でしかない筈だ。批評家がモデルの心配までする必要はない。なお私は大岡昇平なども使つているが「家庭の事情小説」などという言葉を好かない。いかにも小説を馬鹿にしているようであり、そういう小説観念が成り立つとも思われない。「家庭の事情」をまつたく事実通りに書いた作品があろうとも思われない。

 しかし、こういう一連の小説が批評家によつて、作品としてのみ見なされず、それが書かれた作者の個人的な動機にまで立ち入らさせるには、作者の側にも責任があるのだ。作者のほうで、その主人公が自分であることを読者が感知するだろうということを心得て、それに寄りかかつている弱味があるからで、それは吉行氏や小島氏よりも、もちろん在来の私小説家の方が更に強い。ただ、それを救うものは、在来の私小説にあっては時代にたいする反俗性であり、作者がおのれに課した倫理的なきびしさであつた。

 ところが、今日ではそういうものの土台が動揺し崩壊し通用しなくなつた。川崎長太郎の「老残」(「群像」昭三六・十二月号)のような作品が、まつたく惨憺たるものに見えてくる理由である。純文学の末路というような痛ましい感懐を誘うのはこういう小説だ。まさに「私小説の老残」である。しかし、だからといつて私たちが川崎長太郎に別のものを要求するのは、最初から間違つているのだから、なお困るのである。つまり、もはやここに至ると問題はなくなつてしまうのだ。しかも純文学概念の原型がここにある。

 平野謙は、自分の考えている純文学作家とぃう概念に一番ぴつたりするのは尾崎一雄だといつて、「志賀直哉から尾崎一雄へという路線のなかに純文学概念は停着している」と述べているが、そういう言い方をするならば、「徳田秋聲から川崎長太郎へという路線」も考えられるのではないか。純文学の原型的な像が私小説にあり、私小説が自然主義の胎児であるならば、そういう概念規定も成立する。ただ秋聲の場合、すぐれた純文学もあるが、同時におびただしい通俗小説があるので、平野謙は賛成しないかもしれない。

 秋聲の通俗小説には、これがあの「縮図」の作家が書いたものかと驚くほどの愚作がある。今日、純文学作家も生計のために通俗小説を書くが、それほど両面の仕事に、はなはだしい相違を見せていない。これを純文学の純度が低下し、通俗小説が質的に向上したためと見ることはできる。

 それでは現代の両方を書く作家が、筆の使い分けや調子の区別をしていないかといえば、決してそうはいわれまい。むしろ使い分けは、ますます微妙を極めているといえよう。「群像」や「文学界」に書く場合と、「オール読物」や「小説新潮」に書く場合は違うであろうし、更に「別冊文藝春秋」や「小説中央公論」でもまた違うであろう。もし、全く違えずに書いて、その作品がどの雑誌からも無条件に受け入れられるとすれば、それはよほどの「実力者」ということになる。現代では、谷崎潤一郎を別格とすれば、丹羽文雄、舟橋聖一、石川達三らがそれに該当するだろう。

 そして、これらの作家が、やはり文字通り文壇の主流であることを否定できまい。しかも、批評家がこれらの作家にあまり関心を抱かなくなり、批評をできれば回避したそうなことも事実である。氏らの作品が、批評家にとつて大きい興味を抱かせないのは何故であろうか。そこに現代の問題がないからだろうか。そうではあるまい。「人間の壁」や「エネルギイ」や「顔」には、それぞれ現代の問題が描かれている。ただ、氏らはあまりにも論じつくされたので、今さら批評家が何かをつけ加えることができなくなつたのだとも見られる。

 しかし、私は実はこれら昭和十年代作家こそ、現代文学の最も典型的な主流派であると信ずる。新聞小説を質的に高めたのも氏らであり、中間小説を今日あるもののように作りあげたのも氏たちいわば「実力者」だ。

 今日の若い作家の中間小説も、無意識ながら氏らの作りあげた作風に支配されているのである。批評家は、つぎからつぎに提出される文壇現象を追うのに多忙だが、その文壇現象の背景には氏らの存在している場合が意外に多いのだ。しかし、それが案外気づかれないでいる。中間小説の過半は、今日でも風俗小説であるが、それは氏たちによつて決定された動向なのだ。私はやはり現在でも氏らの存在は注目されなくてはならぬと考えている。

 若い作家たちは、自分は氏らの影響を受けてはいないと信じているであろう。彼らは戦前派であり、戦争が彼らと自分たちを根本的に断絶せしめているとも信じている。しかし、昭和文学の現在ある状態の殆どは、この昭和十年代作家によつて形成されたのであつて、その点を無視することはできない。批評家が氏らの存在抜きで、現代文学の状況を語つているのは片手落ちであるといえるだろう。

 純文学の中間小説化が憂うべき問題であるならば、彼らはその犯人として指弾されねばならぬし、「人間の壁」のような小説が新聞小説として成功したのが功績ならば、氏らはその代表選手として賞讃されなければならないであろう。ただ、批評家が氏らの作品を直接批評しないのは、大家となつた氏たちが主力を純文学の創作欄に置かなくなり、もつぱら週刊誌や新聞小説が、その舞台となつてしまつたからに違いない。つまり接する機会が少くなつてしまつたのだ。

 しかし、たとえば私は舟橋聖一の「夏子」が、十年という歳月をかけて完成したという事実も、やはり黙殺しえない。そして「小説新潮」の存在をクローズ・アップしたのは、この小説と石坂洋次郎の「石中先生行状記」であつたという事実は、中間小説の性格を考えるとき重要な意味をもつと考える。「大衆文学と純文学」というような問題を論ずるよりも、この方に現代文学のあり方を考える際には意味があると思うのだ。

 批評家は、よく「中間小説の功罪」という問題を扱わさせられるが、この問題はいつそ、「『小説新潮』の功罪」というふうに絞つて考えた方が、もつとはつきりするのではないか。

 伊藤整は、「『純』文学は存在し得るか」のなかで、氏がアメリカへ出発する一年前、進藤純孝や奥野健男のような若手批評家が、私も混えて、「中間小説と『純』文学の区別が可能か否かを論じていた」のを回想して、続けてこう述べている。

「なるほど、あの時から危機または転機は来ていたのだつた。だがその頃私は、若い批評家は、さして問題にすべきでない事についてもずいぶん神経質なものだ、外に問題がないから、このようなことを論じているのだな、と思つていた。」

 そして、「いま一年の留守の後に東京に帰つてみて、私は、もうこの問題を取り上げることは批評上の流行ではなくなつているという事実に気がついた」と語つている。

 なるほど、すでにそれは「批評上の流行」ではなくなつている。しかし現在大衆文学や松本清張にたいする「批評上の流行」は、一年以前の中間小説と純文学論議の延長過程にある問題なのだ。批評家が大衆文学として扱つているのは、大衆作家の書く中間小説であり、松本清張や水上勉その他の推理小説も中間小説の主流派として繁栄しているのである。そして、それらの小説の作風には、昭和十年代作家の手法が歴然と残つているのである。たとえば小説を量産できる手法だ。流行作家にはすべて共通した描写の方法があることは、伊藤整が、かつて述べた通りであつて、その手法を編みだしたのは、昭和十年代作家であり、新人の推理作家もそれと同様の手を用いているといえる。

 中村光夫の「風俗小説論」が、文壇に大きい波紋を投じたのは、今から十年以上も以前の昭和二十五年であつた。そのころから、平野謙のいわゆる横光利一の「純粋小説論」を下敷きとする中間小説化は、すでに充分問題となるまで熟していたのである。「小説新潮」の創刊が、その三年以前の昭和二十二年であるのは、文学的風潮としては偶然ではない。

「純粋小説論」の目的や、広津和郎の「純文学と新聞小説の統一」の提唱が、大きい風潮として実践されたのは、昭和十年代作家の中間小説進出によつてであつた。戦前とは比較にならぬほど、小説マーケットが拡大し、中間小説がその主流を占めたのは彼らの手によつてであつて、現状はその必然的な拡張にほかならない。

「小説新潮」による中間小説の流行は、作家の収入を豊富にすることにおいて貢献し、安易な小説制作態度を覚えさせたことによつて弊害を生んだ。そのときから、すでに今日のような問題は生まれていたのだが、当時はまだ純文学の方も、いまほど衰退していなかつたので、批評家は中間小説の繁栄をそれほど純文学への脅威と考える必要を感じなかつたのであつた。

「今の純文学は中間小説それ自体の繁栄によつて脅かされているのではない。純文学の理想像が持つていた二つの極を、前記の二人(松本・水上)を代表とする推理小説の作風によつて、あつさりと引き継がれてしまつたことに当惑しているらしいのである」

 伊藤氏のこの言葉は、大岡昇平氏によつて「大変時宜を得た指摘」であるとされているし、私もさきに触れたように、その事実を認めはするが、やはり、それだけではない。たつた二人の作家によつて、純文学が脅かされたり当惑させられたりする筈はない。根本は、依然として中間小説の勢力であり、小説一般の中間小説化にある。

 それが証拠に、「純」文学作家であり、かつ中間小説の流行作家である前記の昭和十年代作家は、一向に脅威も感じていなければ、純文学の衰弱についても、深い関心を示してはいないではないか。推理小説ブームに足をとられることもなく、着実に自分のペースで仕事をしている。彼らはかつて第一次戦後派が激しく彼らを非難しながら擡頭したときにも、そうであつたように、推理小説がどれほど繁栄しようとも平然たるものである。

 それは彼らが純文学作家だからではなく、中間小説の流行作家として、いまや不動の位置を占めているからだ。そして、批評家が彼らに深い関心をもたない理由も実はここにある。

 すなわち批評家たちが問題としている問題に、彼らがなんの関心も示さないから、批評家としても彼らに興味を抱けないのだ。ただ十年代作家では、作家でもあり批評家でもある伊藤整と高見順だけが、こういう問題に関心を抱いている。(先述の=)彼らとしては、「そういう問題は批評家に任せておけ。自分たちは着実に自分たちの仕事である小説を書くだけだ」という心境である。つまり、彼らは自分の小説観念というものを信じきつていて懐疑していない。この事実が、批評家には彼らが今日の作家でないような印象を与えるのだ。

 しかし、それでは彼らは本当に自己の小説または小説観念に懐疑をもつていないのだろうか。彼らはそんなに鈍感なのか、という問題が出てくる。恐らくはそうではあるまい。舟橋氏が「エネルギイ」のような作品を書くのは、夏子的耽美の世界だけには安住しえないからであり、丹羽氏が在来の手法を変えて心理描写ばかりの新聞小説を書いているのも、つまりは自己の小説に疑問を抱いているからであつて、批評家が漠然と考えているほど、彼らは鈍感ではないし鈍感である筈もない。「純」文学の危機は、彼らにも痛切に感じられている。ただ、彼らは職業意織に徹していると同時に、作家としての自己に過去の実績による自信も持つているのだ。そして大衆文学の繁栄というが、大衆作家と同じように彼らの文学も繁栄している事実を、批評家は忘れてはならないだろう。

 

 要するに批評家たちの大衆文学論は、私には空転としか思われない。どこにそれほど大騒ぎするほどの大衆文学の傑作があるのか。純文学の世界が偏狭なのは、なにも昨日や今日はじまつたことではない。

 しかし、次ぎのような大岡氏の批判も、私には承諾できない。

「批評家も言うことがなくなると、飯の食い上げである。昨年来大衆小説と純文学の問題で、原稿料は相当批評家の懐に入つているはずである。二人の役者を仕立てて喧嘩させておけば、お話はいくらでも作れる。無論火のないところに煙は立てられないが、問題は批評家の売文の必要によつて、不必要に大きくなつていることを忘れてはならない」(「常識的文学論」)

 平野氏たちが、大衆文学論でどれほど原稿料をかせいだか私は知らないが、なにも売文の必要から、問題を大きくしたとは思われない。平野氏自身、「群像」(昭三六・十二月号)の座談会で、「大岡昇平がぼくの純文学変質説を評論家の経済問題という点からカンぐつているのなどは、やはり枝葉末節の論だといわざるを得ませんね」といつているが、そうであろう。

 私は、純文学と大衆文学を対立的に論ずる意味は認めないが、文学の変質は肯定するのである。あえていえば、「純」文学の中間小説化という現象を肯定するものだ。ここまできた現象を、今更否定したところでどうなるものでもない。問題は、中間小説化した文学が文学性をいかに回復するかにあるのであつて、大正期的純文学への逆行や郷愁からは、なにも生まれはしないと認識することだ。私小説や私小説的作品だけが文学ではないのだし、むしろそうした小説の狭い世界から自己を追放するところに、文学を見出したいのである。「純文学」という概念は、今日では無意味であり、そんな概念を抱いているから「純文学」は、お子さまランチになつてしまうのだ。

 私には、純文学を大衆文学と比べて、その存立をあげつらうなどという風潮が、すでに純文学の実際的な崩壊を示していると思われる。

「『純』文学と言われているところの小説の形では、ある種の題材は大変扱いやすいが、ある種の題材は極めて書きにくいのだ。だから暗黙のうちに『純』文学の題材はかなり狭い限定を持つている。そしてその限定された題材を、限定された手法で書いたものが、質の高下にあまり関係なく、純文学の扱いを受けるのが実状であると私は考える」

 そして、扱いやすい題材とは私小説であると伊藤整はいう。純文学の衰弱は「限定された題材を、限定された手法で書いてきた」ことによる。また、批評家が大衆文学と信じている一連の作品ではなく、本当の大衆文学もまた実は限定された題材と限定された手法で書かれているのである。その限定の限界は、ある意味では、純文学のそれよりも狭いのだ。山手樹一郎の作品が、いかにどれも同じ調子で同じような人物と事件を描いているかを見れば判るであろう。

 それは、まず読者がどういう人物を主人公にし、どういう話をつくれば歓ぶかという前提のもとに書かれる。これだけでも、純文学よりも遥かにその限定された範囲は狭い。作家は不自由だ。それが大衆文学なのだ。批評家たちが大衆文学の傑作として挙げている海音寺潮五郎の「二本の銀杏」などは、そのように狭い限定の中では書かれていない。「大衆」のために書かれたのではなく、かなり高度の読者を対象としている。山本周五郎の作品も、ある程度の文学愛好家を読者層として書かれている。

 これらは、中間小説であつて大衆文学ではないのだ。

 大衆文学とは、作家が自己の欲望を抛棄して、読者のために全面的に奉仕する作品をいうのであつて、川口松太郎の作品でいえば、「生きるという事」は大衆文学ではなく、「蛇姫様」がそうなのである。批評家たちの観念では、大衆作家といわれる作家の書いたものは、みな大衆文学だという錯覚がある。したがつて、大衆文学が、「純」文学の「目標としていたもののある部分」を奪つたりすることは不可能なのである。それは中間小説の仕事なのであり、そういう傾向が生じたのは、中間小説の書き手が、最初は純文学作家であつたからである。さきにも述べたように、昭和十年代作家たちである。そして、大衆作家が中間小説を書くときに、その作風を真似たと見なすことができる。

 いまや「純」文学という観念が放逐されなければならないと同時に「中間小説」という観念も放逐されなければならないであろう。なぜなら、中間小説という概念は、「純」文学があつてこそ成り立つたのだから、それがなくなれば存立し得ないのである。「中間小説を書こう」と思つて小説を書くような概念がなくなつたとき、はじめて純文学でもなければ中間小説でもない、「小説」が生まれるだろうというのが、私の理想である。

 その時でも、大衆文学は残るであろう。もちろん、それは文学ではなく娯楽としてである。繰り返していうが、批評家のいう大衆文学ではないし、マス・コミの中で華々しい位置を占めるものでもない。それでも、それは強力な浸透力をもつて庶民の間に読まれてゆくであろう。文壇人は、この種の読物、つまり実際的な意味での大衆文学というものの実体を、ほとんど知らない。したがつて彼らの大衆文学論は空転するのである。吉田健一が新聞紙上で批評している作品は、「大衆文学時評」と銘うたれているが、実は中間小説である。

 今日の大衆文学志望者は、尾崎秀樹によれば「彼らははじめから自分の書くものは一つであり、それが大衆文学と銘うたれようが、純文学ととられようが意に介さない。それだけ大衆文学の書き手の意識は変つてきた」という。それは実は彼らが「大衆文学志望者」でもなければ、「大衆文学の書き手」でもなく、小説志望者だからである。まつたく書き手の意識の変らない大衆文学は、今日あるように明日も貸本屋の本棚に並んでいるであろう。

(「文学界」昭和三十六年十一月号)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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十返 肇

トガエリ ハジメ
とがえり はじめ 文藝評論家 1914・3・25~1963・8・28 香川県高松市に生まれる。佐藤春夫に耽溺し、上京して中河与一、丹羽文雄、船橋聖一らに接し「青年藝術派」を結成して文壇に足場を得てゆき、戦時応召も経て、戦後に旺盛な執筆活動を繰り広げた。

此処に掲載した1956(昭和31)年12月「中央公論」、1961(昭和36)年11月「文学界」初出の2篇は、優れて犀利な批評の資質を典型的に示し、戦後文壇史・批評史の不滅の一環を成し得て感嘆を誘うものがある。

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