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コシヤマイン記

巫女カビナトリの神謡序

 これは祖母が神威(カムヰ)様から授つて私に伝へた神謡(かみうた)だ。祖母は大変良い声だつた。私は駄目だ。それに沢山忘れた所がある。そんな所は私が思ふ通りに唱つてしまふ。祖母も矢張り忘れた所は自分でうまく(こしら)へて唱つた。私は今年九十二になる。日本の天子様から頂いた木や金のお盃を沢山持つてゐる。

 

     第一章

 

 勇猛を以つて聞えたセタナの酋長(オトナ)タナケシが、六つの部落(六の数は多数の意。)を率ゐて蜂起した時、日本の大將カキザキ・ヨシヒロは(いつは)りの降伏によつてタナケシをその(やかた)に招き入れ、大いに酔はしめて(これ)を殺した。その後七年、荒熊も怖れる酋長タリコナは、再び起つてヨシヒロの館に迫つたが、この(たび)も亦虚偽の和睦に欺かれてタナケシと同様の運命を辿つた。このタリコナはタナケシの女婿(ぢよせい)たるものであつた。

 かうして西蝦夷(にしえぞ)のチエブコイキウシ(漁場)は、日本人の跳梁を(ほしいまま)にする所となつたけれど、幾何(いくばく)もなくして、タナケシの妹の子たる若い酋長ヘナウケが、神聖なヌササン(幣柵)を冒した二人の日本人を()ち殺し、そのチヤシ(砦)に()つた。併し彼には十分な準備もなかつたので、六つの部落が彼に援助を申出た時、彼はその()べてを断つて云ふには、「私はウタリ(同族)の胸の火を出来るだけ掻き立てて死ねばよい。今はまだウライケ(戦争)の(とき)ではないのだから。君達は怒りを慎しみ多くの部落と相謀つて(とき)の到るを待たなければならない。」

 日本の大軍が押寄せると聞くや、ヘナウケは、勇猛なるセタナの酋長の血統を飾るに父祖に恥ぢぬ壮絶な最期を以つてしようと思ひ定め、妻のシラリカを呼んで云ふには、「お前は猛々(たけだけ)しいタナケシとタリコナの唯一のケセ(後裔)たる我が子コシヤマインを抱いて此処を(のが)れ、立派に育て上げねばならぬ。お前は山の向うのもう一つの海に臨むユーラツプ部落の酋長イコトイに頼るに勝ることはないのだが、今は未だ雪が山を被うてゐないから、イワナイ部落の酋長シクフの(もと)に行かなければならぬ。我が貴い血統を見捨て給はぬ神威(カムヰ)は、必ずお前の脚を強くし、お前達二人を安全に去らせ給ふだらう。お前は、昔日本の総べての館を陥れたかの英雄の名を、私がこの子に附けたラムー(意味)を忘れてはならぬ。私の遺言(ゆゐごん)はこれだけだ。」

 シラリカは嬰児(みどりご)(みづか)ら背負ひ、特に選ばれた勇しい部下キロロアンと六頭の犬とに護られ(なが)ら、夜陰(やゐん)に乗じてセタナを去つた。彼等がイワナイ部落に着いて間もなく、セタナの(チヤシ)は日本の大將トシヒロの軍勢によつて敗られた。

 ヘナウケは身に数へ切れない程の矢を受けて捕へられ、浪荒い浜辺で首を()ねられたが、その彼の首は、あたかもエサマウ((かはうそ))が湖に走り込むやうに自ら転つて渚に達し忽ち海中に消え去つたのである。大将トシヒロは、セタナの酋長の血統を厳びしく探ねて六十人のシラムコレ(縁者)を殺したが、遂にヘナウケの妻とその一人子コシヤマインの行方を突き止め得ずに終つた。彼は首のないヘナウケの屍を馬に積んで其館に引揚げた。

 

     第二章

 

 イワナイの酋長シクフは、信義を重んずる人であつたので、勇猛なセタナの酋長の不幸な妻子を歓んで迎へると、新しい二棟の(チセ)を与へ、(ねんご)ろに之を保護した。数年の後、シクフは死に、その子トミアセが酋長(オトナ)()いだ。このトミアセは早くより美しいシラリカに恋情を抱いてゐたのであるが、今酋長となるに及んでは、その権力によつてシラリカに臨まんとし、その(ほしいまま)なる思ひを充たさんが為めには、戒律(イレンカ)も亦彼にとつては低い(チヤシ)の如くに見えて来た。シラリカは常に忠実な部下キロロアンの守護によつて固く身を守ることを得たのであるが、今は一日も早くヨイチ部落立去るのが最上の方法であると考へた。キロロアンも亦それに同意し、(ひそ)かに準備に取り掛つた。

 冬が来た。彼等は犬橇(いぬぞり)によつて曠野を横切り峠を越えて遙かにユーラツプ部落へ向はうと決心した。然るに或る吹雪の夜のことであつた。見よ二人の暴漢がシラリカの家を襲つた。そして無謀にも彼女を抱き上げて逃げ去らうとした。この時、キロロアンは(をさな)い主人コシヤマインの激しい叫びと、犬共の(かしま)しい吠声(ほゑごゑ)に眼を醒した。そして、こんな事もあらうと(かね)て思ひ定めてゐたこととて、直ちに屋外に跳り出て、犬の吠声の方を指して鹿のやうに飛び、暴漢を捕へて雪の上に打ち倒した。彼は、コクアと葡萄の蔓で二人の曲者(くせもの)を固く縛つて彼の小家に投げ入れて後、シラリカの前に(ひざまづ)いて云ふには、「夜の明けるを待つて、あの二人の愚か者をトミアセのもとに曳つ立てませう。これが何者の所業かは既に明かではありますが、こんな無法が神威(カムヰ)戒律(イレンカ)に背き必ず神威の懲罰を受くべきことを、トミアセに知らしめる事は、私共のせめてもの報恩であらうかと存じまする。」シラリカは涙を流して云ふには、「私の良人(おつと)も、良人の母も姉婿も、そして又その父も、共々に日本人(シヤモ)の為めに殺され、セタナの酋長の血は、只だ一人この稚いコシヤマインにのみ(つたは)つてゐます。私はこの子の母であることを誇りとし、この子を守り育てて再びセタナの部落の誉れとする為めにこの身を捧げようと固く神威に誓ひました。それは上座の人(良人)の只一つの遺言でもありました。神威の守護は、あの尊い酋長シクフを通して私達の上にありましたが、その子トミアセは悪魔の(とりこ)となつて、コシヤマインの母たる私を怖しい無法を以つて従はせようとします。あゝケウシユツ(父祖達)は日本人によつて(しひた)げられ、その後裔(ケセ)は今又同族のためにこの災難に遭ふのです。これは畢竟セタナの血統を、神威が見捨て給うたのに違ひない、と私は愚かにも疑ひました。私が、怖しい辱めを受けるよりも、(いさぎよ)く死をば選ばうと決心しました時、神威は強いお前キロロアンによつて私を救ひ給うたのです。お前は、私に亡き良人の妻として身を守らせ、我が子コシヤマインの母としての面目を保たせ、その上に私の命までも全うするを得させたのです。あゝ、この限りないお前の忠勤に酬い()くも、頼りないこの身に、何も出来はしないのを思へば、それが私には何よりも悲しいのです。」キロロアンも涙を拭ひながら云ふには、「身に余る(おそれおほ)いお言葉で御座いますが、私の一命は酋長(オトナ)のもので、私はあの時、酋長と共に最後まで(チヤシ)(とどま)つて日本人(シヤモ)と戦ひ、酋長と共に死ぬべきもので御座いました。それが今日かうして生き(ながら)へて居りまするのは、一重(ひとへ)に酋長の深い御思慮に依るもの、このキロロアンが、その大任に相応(ふさは)しい男だと御信頼下さつたが為めで御座います。おゝ、あの酋長の力強い御囁(おささや)きが今もまざまざと耳に聞えます。取るに足らぬこの私が貴女様のお役に立つた御褒賞は、私が酋長の御信頼を裏切らなかつたと云ふこの悦びで十分で御座います。願はくは、これより後貴女様と稚い酋長の上にいよいよ激しく迫る苦難の度に、私が間違ひなく役立ちまするやうに!」

 主従は、夜の明けるまで語り合ひ、この吹雪の止むのを待つて、ユーラツプ部落への逃走を決行しようと定めたのであつた。

 

     第三章

 

 朝となつて、キロロアンは二人の虜に食物を与へた。そしてトミアセの前に彼等を曳いて行つた。(みち)すがら、二人の虜は彼等の犯した罪を謝して云ふには、「キロロアンよ、私達は貴方達が即刻ここを立去るのをお勧めしないではゐられませぬ。貴方達は叢林を抜けてから川に添つて進み、捷路(チシニナイ)を取つて山を越え、クツチヤン部落の心の正しい老酋長ムビアンをお頼りなさるがいい。さもなければ、私達の酋長は必ずスツツ部落の日本の会所(アイヌ民族を監視し、日本人等を保護する役所。)に貴方達を曳いて行きませう。それは、恋に魂を奪はれた私達の酋長が、すでに心に思ひ定めてゐる所なのです。」キロロアンは憤然と答へて云ふには、「不義の酋長の下には不義の部下がゐるとは本当だ。君達は生命を捨てても酋長の無法を(ひるがへ)さしめるべきであつたのだ。しかも今となつては、君達の酋長の秘密を私に密告して恥としない。私はどんな意味にもせよ、自分の酋長を裏切るよりも、生きながら鼠に噛み殺される方が遥かにいいのだ!」

 さてキロロアンは、トミアセの館に近づいた。その時、見よ、六本の矢が風を切つて飛んで来た。彼は突嗟に雪の上に身を伏せたので、矢は二人の虜に突き(ささ)つた。ブシ(鳥冠)の毒は忽ち彼等を殺した。キロロアンは死骸を両手に引提げて、一散にトミアセの館に(をど)り込んだ。そして物静かに云ふには、「神威が、イワナイと云はずセタナと云はず、アイヌモシリ(全世界)に(くだ)し給うた、最も尊いイレンカ(戒律)を犯した者を私は曳いて来ました。此処が()し我がセタナの部落ならば、神威の御怒りを鎮める為に、即座に二人を打ち殺したのですが、此処は貴方様の部落である以上、お許しを得なければなりません。二人は既に(かく)の如く矢を浴びて(たふ)れましたが、イワナイ部落の尊厳の為めに、(すみやか)に背徳者の未だ()め切らぬ血を、雪の上に注がせて下さい! さもなくば、忽ち神威の御怒りは、名にし負ふイワナイ部落の上に落ちて来ませう!」トミアセは(ひげ)を掴んで小声で云ふには、「セタナの勇士キロロアンが虚偽の訴へをするとは思はないが、さりとて、何人(なんぴと)をも首肯(しゆこう)させる証拠がなければ裁きやうがない。」この言葉の終るのを待たずキロロアンは一足前に踏み出して、真面(まおもて)にトミアセを睨みすゑなが云ふには、「さうだ、此処では、貴方の裁判より強いものはないであらう。だが、貴方の髯の一本一本をも常に数へ給ふ神威の御眼を欺くことは()きませぬぞ!」キロロアンの眼と声とによつて、トミアセは(かば)の葉のやうに(おのの)いた。彼は髯の上から顎や頬をば掻き乍ら気を取直して云ふには、「神威の御支配に就いてセタナの勇士から教へを受けたことは、誠に光栄だ。しかし(いづ)れにもせよ、かくの如く葡萄蔓で縛られた我の部下を見ることを私は欲しない。」さう云つてタンネプ(太刀)を抜き蔓を切つた。そして太刀を鞘に納めると見せかけて身を返へすや、忽ち全身の力を籠めてキロロアンを()ぎ払つた。それと見て、多くの部下達も抜きつれてキロロアンを取り囲んだ。不覚にもキロロアンは最初の一太刀を左腕に受けたが二の太刀を待つまでもなく、トミアセの腕を掴んで引寄せ、太刀を奪つて大声に云ふには、「一つの背徳は数限りない無法を呼ぶとは本当だ! これが貴様達のプーリ(流儀)なのか? 音に聞くイワナイ・アイヌも、日本人(シヤモ)の様な欺し討ち(松前藩のアイヌ民族鎮圧は欺し討に終始してゐる。)でなくば、セタナのキロロアン一人を殺せまい。したが、俺は未だ貴様達のエヌカラマキリ(鈍刀)で死にはせぬぞ!」彼が叫ぶ時力を籠めた掌の中で、トミアセの手の骨は音を立てて折れた。キロロアンは、その音を聞いて、トミアセを突き放ち、奪ひ取つた太刀を(ひっさ)げてウタラ(人々)の包囲の中を真直ぐに歩いて屋外に出た。誰一人としてこの勇士に打ちかからうとする者もなかつたが、それは、イワナイ・アイヌの中に、キロロアン程の勇士が一人としてゐなかつたからではなく、それ等の人々に、神威を畏れる心があり、トミアセの無法に組みすることに気臆(きおく)れしたが為めであつた。

 

     第四章

 

 日のうちは晴れ間を見せてゐた空も夜に入ると共に掻き曇つて乾いた雪を降らせ始めた。月は宙空にかかつて光りを失ひ、焼いた魚の眼玉のやうに見えた。やがてそれも掻き消えると、月魄(つきしろ)をもつて空一面の雪雲を明くしたが、遂にただ仄々(ほのぼの)としたテララクーリ(白い闇)が(あまね)曠野(かうや)(おほ)うた。それと見判(みわ)かぬ遥かの川下(かはしも)のイワナイ部落からは時折り鳴き連れる犬共の長鳴きが嫋々(でうでう)と流れて来た。この時、キロロアンは彼のハチコチセ(小家)のヲマイ(飾所)(家の東隅にあつて、神威の訪れる最も神聖な所とされる。)から太い革紐を取り出して、十二頭の犬を犬橇(いぬぞり)につけた。シラリカは其間に用意の食物や宝物を橇に積んだが、幼いコシヤマインも母を(たす)け、母にも劣らぬ力を現した。彼はキロロアンのやうに犬の毛皮の下に太刀を帯びてゐた。それは歩くと脚にからまり、坐ると内側から毛皮を突き上げたが、敵や狼の不意の襲撃に備へるのだといつて、ポンムカフ(小さい刀)に取代へることさへ(がえん)じなかつた。

 ()てキロロアンは右手でマクル(手綱)を執つた。それはかのトミアセの一太刀を受けて左手の自由を失つてゐたからである。かくして主従三人を乗せた犬橇は白い闇の中を突き進んだ。シレチヤーカシユヌ(案内者)もない危険な旅が始まつた。キロロアンは左手の痛みをじつと(こら)へ、大地や海の底までも見透し給ふ神威(カムヰ)に一切を(ゆだ)ねた。シラリカは、忠実な部下の手によつて幾重にも重ねられた毛皮のなかで、早や眠に()ちたコシヤマインを掻抱(かきいだ)き、ツイマカムヰ(遠い神威)やハンケカムヰ(近い神威)の保護を願ふ(あらた)かな祈祷(その祈祷は、世の始に神人アイヌラツクルが授けたと云はれる。)を心に唱へつづけた。

 キロロアンは図らずもこの時、かの二人の(とりこ)が、彼に告げ知らせた言葉を思ひ出した。それは、叢林を(よぎ)つてチシユナイ(捷路)を取り、山を越えてクツチヤン部落へ(むか)へとの忠告であつた。犬橇は早やそこに達してゐなければならぬ時間をば十分に走つてゐたに係はらず、叢林は見えず依然として平坦な曠野が続くのであつた。    

 キロロアンは、胸の(うち)に彼の知る限りの地形を(いたづ)らに描いた末、全くその方角を失つた。ただ風の流れが頼りであつたが、今や彼の腕の痛みは全身に(みなぎ)り、屡々彼の神気を奪ふに至つた。かうして永い時間を費すうちに、膿野は終つて俄に嶮しい山に突きあたつた。犬共は激しく喘ぎ、鼻を鳴らし尚も力の限りに橇を曳いた。

 幼いコシヤマインは、ふと熊に噛まれた夢を見て眼を醒した。そして彼の脚の上に、キロロアンの昏倒して居るのを見た。彼は脚を抜きとつて、岩のやうなキロロアンの体を引起さうと努力したが、それは彼には重過ぎた。不幸はこれに止らなかつた。この時、見よ、十二人の追手が橇の跡を辿つて曠野を(よぎ)り三人の逃亡者に迫りつつあつた。シラリカは忽ちその気配を感じて眼を醒し怖しい運命を知つた。彼女は毛皮の中から跳り出て、コシヤマインと共に昏倒してゐるキロロアンを引起してその耳に云ふには、「キロロアン、キロロアン! お前はオトナ(酋長)のイレンカ(命令)を忘れたのですか! 敵は私達のすぐ後に迫つてゐます!」若い酋長も声を励まして云ふには、「キロロアンよ、起て! 私の後に続いて戦へ!」

 その声によつてキロロアンの魂は再び彼の体に()へつた。彼は起き上つて太刀を抜き放ち、(よろ)めきながら三度それを神威(カムヰ)に捧げて後云ふには、「これがキロロアンの最後の働きでありませう。貴方様お二人は総べてを神威の御導きに委ねて、食料の続く限り、もう一つの海の見える所まではお進み下さい。海辺の部落は日本人(シヤモ)を憎み、必ず酋長ヘナウケの名を憶えてゐますから。明日の朝迄にはきつと山を越えて向うの曠野に出られるでせう。しかし、天に(とど)くマツカリヌプリ(羊蹄山)の麓なるクツチヤンの酋長ムビアンの宰領する部落には決して、停つてはなりませぬ。何故なら、そこは海に臨んでゐない上に、かの二人の虜が、誠しやかに、ムビアンが心の正しい老酋長だと云つたからです。私は今それを思ひ出しましたが、この春イワナイを訪れたオマナンアイヌ(行商人)に聞いた所では、ムビアンはトミアセよりも年若く、且つその商人の品物を、云ひがかりに事寄せて奪つたと云ひます。幸ひ雪も止みました。では御無事を祈ります。コシヤマイン様よ、セタナの酋長様よ、きつとその御名に恥ぢない英雄となつて下さい。私の魂が常に貴方様のお側にあることをお忘れ下さいますな。私は此処に立つて敵を(むか)へ討ち、此処より先きには一歩も進ませは致しませぬ。さア一刻も速く橇をおやり下さい!」かう云ふうちにも早や追手の声が遥かのシユプ(麓)の方から聞えて来た。

 キロロアンは、彼と共に(とどま)らうと云ふコシヤマインを諭して去らせると、蹌めきながら命の限り戦ふべき場所をしかと見廻した。彼は最早(もは)や立つてゐることさへできなかつたので、十二人の追手が彼の前に立現れた時には雪の上に坐りシユン(蝦夷松)の幹によりかかつたままかう叫んだのである。「そこに停れ! イワナイの鼠共、一足でも前に進んだらセタナの酋長(オトナ)ヘナウケの部下、キロロアンの一と太刀がそ奴の顔のノシキ(真中)に食ひ込まうぞ!」

 

     第五章

 

 キロロアンを後に残して、シラリカとコシヤマインとは山又山を行き(なづ)んだ。そして翌る日の夕方、マツカリヌプリ(羊蹄山)が見事に晴れ渡つた中空に、真紅い夕陽を浴びて聳え立つのを仰ぐことが出来た。それは呼べば山彦を返へすかと思はれる程間近かに迫つて見えた。

 シラリカは我子に云ふには、「お前は、凡ての高い山々にもまして高いあのマツカリヌプリのやうに、凡べての英雄にも一際勝る英雄とならなければなりません。あの怖ろしい山又山の間から、シレチヤーカシユヌ(案内者)もなくて無事に此処まで来られたのも、神威(カムヰ)の御護りが私達の上にあつたからなのです。あゝキロロアン、キロロアン! お前を一人残して私達は此所(ここ)に来ることが出来ました。お前の忠誠はコシヤマインの名が、マツカリヌプリの天に達するがやうに高く挙がつた時、人々のこぞつて讃へる所となりませう。コシヤマインよ、お前はあの時のキロロアンの言葉を憶えてゐるでせう?」をさない酋長(オトナ)は肯いて云ふには、「昔私と同じ名前の英雄が居ました。私はその人よりも強い英雄にならなければなりません。」シラリカはつづけて云ふには、「あゝその通りです。では、お前は何所の酋長ですか?」「私はセタナの酋長コシヤマインです。」「そして、お前の敵は?」「シヤモ!」シラリカは我が子を抱き上げて、神々しいマツカリ岳に向つて礼拝を捧げしめた。(アイヌにあつては一般の女性は直接神事を行ふことが出来ない。)

 礼拝の終るのも待たず、稚い酋長は身のうちに沸き返る不思議な力に駆られて、雪の上に走り出た。彼は見はるかす群峰の重畳(ちようでふ)たる彼方(かなた)に向つて、あらん限りの声をあげた。それは群峰をして彼の方へ振り向かしめようとしたのであつた。彼は又、焦茶色の(かぶと)・焦茶色の着物・焦茶色の鞘の太刀と、金の帯とを身に着けたアイヌラツクル(人間臭い人の意。人類に智慧と火を与へた神威の子、アイヌ民族のプロメシウス。)のやうに橇を(ぎよ)して虚空を自由に駆け得ないのを焦躁(いらだた)しく思ひ、両手を拡げてそれを打振り、身を投げて我から顛倒して雪煙と共に斜面を転つて落ちた。それは、夕陽の中に独り高く、その頂のあたりに一抹の白雲を纏つた、偉大なマツカリヌプリに対する圧へ難い嫉妬であつた。

 行く程に、彼等は遥かの前方に夕煙の棚曳く大きな部落を望んだ。そこは、かのキロロアンが彼等に教へたオトナ(酋長)ムビアンの館のあるクツチヤン部落に相違なかつた。

 彼らは、クツチヤン部落を避け、木立の中に見捨てられたクーチ(狩小舎)に一夜を明して、次の朝、再び海へ向けてのサンオマナン(旅)に(のぼ)つた。マツカリ岳の裾を(めぐ)り、雲が、真右から真左へ流れるやうな方向を失はないやうに橇を走らせるうちに、彼等はいつか密林の中を(さまよ)つた末、渓間(たにま)のナイキタイ(水源)の畔に辿りついた時は荒れに()れる吹雪のさ中であつた。食料は最早(もはや)余す所がなかつた。(あまつさ)へ橇は破れ、犬は傷ついてゐた。シラリカは意を決して犬共を解き放つて自らシツケ(荷物)を背負つた。コシヤマインも亦母に習つて毛皮や太刀を背負つた。解き(はなた)れた犬共は競つて渓間を下つて行つたが、ややあつて遥かに激しい吠え声が起つたと思ふ間に、次ぎ次ぎに噛み殺した狸をくはへて帰つて来た。シラリカとコシヤマインとが渓底に着くまでには更に多くの獣が(はこ)ばれた。彼等は夢かと疑ひながら堅く凍つた川の面を下つて行く程に、忽ち川隈(かはぐま)の林の中に、濛々とウララ(霧)をあげて溢れる湯の水源を見出したのである。その一帯には雪もなく、青草すら繁つて居て、犬共の捕へた数多(あまた)の獲物の血がそこら一面に流れてゐた。

 彼等は吹雪と戦ひながらそこの樹間に毛皮の幕屋を張つた。六日六晩を荒れ通した吹雪の難も、全く彼等には及ばなかつた。シラリカはわが子をして湯の水源の東の(みぎは)にイナウ(帛幣)を立て、永い永い感謝を神威(カムヰ)に捧げしめた。

 

     第六章

 

 天が再び晴れ渡つた朝、シラリカは、橇のないまま、出発すべきか、或ひは又、パイカラ(春)の来るまで停るべきかに就いて思ひ惑つた。(いづ)れにせよ四隣の様子を知り度いものだと考へて、彼女は、コシヤマインを連れて対岸のオリカ(小高い丘)の頂きに登つて行つた。犬共も前後に従つた。丘の向うにはもう一つのより高い丘があつた。彼女がそこに達した時、見よ、瑠璃玉のやうに(あを)い一望の海が見渡されたのであつた! 嬉しさに気もそぞろのシラリカは、急いで丘を下つて行つたが、彼等の幕舎の前には思ひもかけぬ弓を携へた一人の若者が立つてゐた。シラリカの犬共は、この逞しい若者を取巻いて吠え立てたが、それには振向きもせず、若者はシラリカに近寄つて来て云ふには、「貴女は何者でそして何処からやつて来たのですか?」シラリカは何う答へようかと躊躇(ためら)つてゐる時コシヤマインは進み出て云ふには、「私は、セタナの酋長コシヤマインだ!」若者は驚いてシラリカに云ふには、「私は貴女達が尊い血統の人々だと云ふ事を知つて居ります。何故なら、貴方達の荷物の中にあるイコロ(宝物)とタンネプ(太刀)とを見たからです。しかし、今この可愛らしいヘカチ(少年)が云つた言葉が本当だとは、どうして信じられませう? あの雄々しい最期を遂げたヘナウケが、その血統を絶たぬ為めに、妻と一人子とを隠したと云ふことは知つて居りますが、今その妻とその一人子とをこんな処に見るなどとは不思議でなりません。」

 シラリカは若者の言葉とサーヌ(素振り)によつて彼を信じた。彼女は焚火を(おこ)して若者を招じ、一伍一什(いちぶしじふ)を物語つた。

 若者はそれを聞き終ると跪いて両掌を額にあて恭々(うやうや)しく合掌して(貴人に対する礼)、さて云ふには、「私はアプタペツ部落を宰領する酋長(オトナ)キビインの末の弟サカナイモクと云ふ者です。私が、誰よりも早く貴女達を見つけたのは(さいわひ)でした。さもなければ、ライコロウタラ(愚な人々)は貴女達を捕へ私の兄キビインの所に曳いて行くでせう。そこで彼等は僅かな褒美に(あづか)り、キビインは直ぐ(さま)貴女達を牢に繋ぐでせう。そしてアプタペツ部落から程近いモンペツ部落の日本の会所に、春になつて役人達がやつて来た時引渡すでせう。兄は決してラムーウエン(悪い心)の人ではないのですが、(ひど)日本人(シヤモ)を怖れ、日本人に服従するより(ほか)に、その漁場を守る方法がないと考へてゐるのです。しかし私は兄とは違つた考へを持つてゐます。御安心なさい、私は貴女達の味方ですし、私の味方の者共も決して少くはありません。コシヤマインよ、間もなく六十の部落の大将として起つべき貴方は、もつと強く、もつと賢くならなければなりません。私は、貴方の忠実な部下キロロアンに代つて、貴方を守り育てませう! 貴方は太刀や弓でも、馬や舟でも、人に勝れた腕前を磨かなければならないばかりでなく、六十の部落を自由に指揮する力量を学ばなければなりません。やがて時が来て、雄々しいヘナウケの一人子が、同族(ウタリ)の為めに剣を執つて起つたと聞いたならば、互に相争つてゐる同族も其争ひを止め、心の()えた人々も(かうべ)を上げ、モシリ(全土)の人々は日本人(シヤモ)の圧制に(むく)いるはこの時ぞと鯨波(とき)を挙げて集つて来るでせう!」

 かうして、シラリカとコシヤマインとは、アプタベツ部落のサカナイモクの(もと)に身を寄せた。直ぐ様、サカナイモクが山から連れて来た、美しい母子(おやこ)の事が、部落中に知れ渡つた。併し用心深い酋長の弟は、最も信頼した仲間にも、又その妻と定めてゐる部落の娘ペチカにさへも、真実を明かさなかつた。人々は皆、彼の言葉の通りに、彼女がトーヤ湖の(ほとり)なるモシリ部落の娘で、早くからサカナイモクの妻であつたのだと信じた。やがて春になつて、ヘナウケの子がその母と共にイワナイ部落から逃れて行方を暗ましたと云ふことが、日本の役人によつて伝へられるまでは、誰一人それを疑ふ者もなかつたのである。

 

     第七章

 

 春になつて諸々の花が一時に咲き匂つた。サカナイモクは(にしん)来襲(クキ)を見守る為めに、海岸の、ポロンシラルカ(大きい岩)の上に立つて、鴎の群の移動を眺めてゐた。

 彼は、未だ冷たいが併し気持のいい潮風に、その瑞々(みづみづ)しい髯を(なぶ)らせながら、我にもあらずシラリカの事を想ひ耽つた。そしてシラリカを彼の妻だと人々に信じさせた突嗟の智慧を我ながら巧みだつたと思ふと、(おのづか)ら微笑が涌いた。たとひ偽りにもせよ、それは快よい偽りであつた。とは云へ、彼は、わが妻と定めたペチカの事を想ふと流石に暗然とした。彼女はシラリカとその子とが現はれて以来毎日泣き暮して一度も家を出なかつたが、ある夜秘かにサカナイモクの(もと)を訪れて、涙ながらに彼の裏切りを責めた。彼等の婚礼の挙げられるべき春が来たので、彼女はさうしないではゐられなかつたのだ。サカナイモクは、あはや真実を洩らさうとして思ひ止つたその時の苦しさを、今もまざまざと身に覚えて溜息をついた。そしてそれが賢かつたのだと自ら慰めながらも尚それを疑つた。

 様々な思ひに駆られてゐる時、一人の若者が砂濱を狐のやうに走つてくるのを見た。ふいご

のやうに喘ぎながら若者は、サカナイモクの妻と子とが、イワナイ部落を脱走したヘナウケの妻と子であるとの嫌疑によつて、酋長の(もと)へ曳かれて行つたことを知らせた。サカナイモクは、聞きもあへず岩の上から砂濱に跳んで、一散に走つたが、早や武装した多くの人々が彼の行手を阻んで云ふには、「サカナイモクよ、貴方が酋長の館に行くのでしたら、我々は貴方を通すことは出来ません。」サカナイモクはその言葉に腕の一振りを以つて答へ、彼を遮る六人を忽ち地上に打倒して兄の館に躍り込んだ。そして、何事ぞと驚く人々を尻目にかけて、そこに(うづくま)るシラリカとコシヤマインとを両腕にむずと抱き寄せ云ふには、「その良人の留守の間に、あらぬ疑ひをかけて妻子を曳き立てるとは何事であらう! 兄よ、貴方は弟の妻子を売つてまで、日本人(シヤモ)の歓心を買はなければならないのですか?」酋長キビインは日本の酒に赤く焼けた鼻を鳩のやうに鳴らして云ふには、「サカナイモクよ、お前がおれの弟だと云ふことを忘れないならば、愚かな武勇には駆られまいぞ。アプタベツの尊い血統を忘れた武勇でもつて汚すまいぞ。」サカナイモクは更に声を荒ららげて云ふには、「武勇を忘れたしたり顔の智慧がアプタベツの血統のみならず、アイヌモシリ(全国土)を宰領する神威を汚してゐるのを知らないのか!」酋長は又もや鳩のやうに鼻を鳴らして云ふには、「何方(どちら)が神威の前にただしいか、今更お前と論議した所で何にならう。俺はお前に命ずるだけだ。ウタリ(同族)の血を尊び、同族のくらしを保證する日本人に(あらが)ふ一切の行為を慎しめ! さもなくば、お前も亦、このヘナウケの妻子と同罪だと知るがいい!」サカナイモクはその言葉を奪つて云ふには、「モシリコタン(部落)で得た俺の妻をどうしてへナウケの妻と云ふのだ。そんな讒言(ざんげん)を以つて人を陥れようとするのは何者だ?」酋長は笑つて云ふには、「お前が、この女をばモシリ部落の娘と信じてゐるのを(とが)め立てしようとは思はない。これがヘナウケの妻シラリカで、それがその子のコシヤマインとは、他ならぬこのイワナイ部落の酋長トミアセの部下たるマニベの、動かすことの出来ぬ證言によるのだ。」そして酋長は赤い鼻を鳩のやうに鳴らしたが、その時、サカナイモクの怒は、忽ちマニベの上に(くだ)つた。彼は、大きなマニベの体を、館が上下に動いた程強く、土の上に投げつけて殺し、そのままシラリカとコシヤマインとを両脇にして屋外に走り出た。併し、酋長の配下の者共がどつと襲ひかかり、折重なつて彼を縛り上げ、牢屋に繋いだ。ヘナウケの妻子は其場からモンペツ部落の日本の会所へ護送された。

 サカナイモクは今はもう他の機会を(うかが)ふより他に致方(いたしかた)はなかつた。彼はその機会の必ず来ることを信じた。そして、二人を連れて遠い奥地へ、––今度こそは誠の、トーヤ湖の畔なるモシリ部落の方へ落ち延びねばならぬ思ひ定めた。只だ、二人が、日本の会所に繋がれるとすれば、それを奪ひ返すことは生命がけの仕事だと思はれた。彼はそれを敢行せずには置かぬと決心した。彼の血は涌き立つた。かうして一睡もせずに夜を明かすうちに、突然プラヤ(神窓)から一振りの小太刀が投込まれた。それは彼の肩にあたつて藁の上に落ちた。何人(なんぴと)とも知れぬこの計ひによつて自由となつたサカナイモクは、監視の者を絞殺して逃れ去つた。彼がモンペツ部落への道を急ぐ時、彼の前に現はれたのは、思ひ(まう)けぬペチカであつた。

 彼女は美しい声をひそめて云ふには、「貴方の味方の人々が、貴方に小太刀を投げ与へるやうに私に命じました。私は、その役目を立派に果しました。私はこんな(うれ)しいことは御座いません。味方の人々は、あの尊い方々を護送の途中で奪ひ返して、貴方のお出でになるのを待つてゐます。」

 サカナイモクは今はもう何のはばかる所もなかつたので、ペチカを抱きしめて云ふには、「妻よ! 私の雄々しい妻よ! お前は私の苦しい虚言を察して居て呉れたのだな? 私は片時もお前の事を忘れはしなかつた。そしてこんな風にお前を掻抱く日が来るのを信じて疑はなかつた! さア、我々四人は、遠くケウレウセグル(今日の有珠岳、軽石を創り出す神の意。)の噴煙を仰ぐトーヤ湖の向う岸に、暫らくの間身を隠さう!」

 

     第八章

 

 コシヤマインが十分大きくなるまで、彼等は、トーヤの蒼黒い湖の北岸に安全に暮した。コシヤマインは、サカナイモクによつて(あら)ゆる武術を教へられ、今はもう総べてに於いて師よりも優れた若者となつた。

 或る日サカナイモクが云ふには、「コシヤマインよ、貴方は最早や、私から学び得る一切の事を学ばれました。お聞き下さい。朝日が昇るあの山の向うに、広い海と野とがあり、そこには数へ切れない多くの部落があります。そこのモシリ(国土)をサロウンペツと云ひます。(その)一つのハエ部落にオニヒシと言ふ酋長が居ります。彼はよくその多勢の部下を統率して平和に暮してゐたのですが、接するシビチヤイ部落の酋長シヤクシヤインと仲違(なかたが)ひをしてゐます。シヤクシヤインはオニヒシにも劣らぬ大将ではありますが、その部下が屡々ハエに属する猟場を荒すのを黙認し、遂に争ひを起してオニヒシの部下を殺しました。ハエの人々はシヤクシヤインの部下を殺して報復しました。かうして一つの殺合ひから無数の殺合ひとなり、二つの部落は相憎み、その(チヤシ)を固めて譲らないのです。何事にでも口を出す日本人(シヤモ)が、(かつ)て仲裁に入りましたが、そんな争は、そこから(にしん)や昆布や毛皮等を、自由に奪ひ取るのに不便だからでした。一度は、二人とも争ひを止めようと誓ひはしました。それは争ひで疲れたサルの国土を、日本人に奪はれるのを怖れたからでしたが、彼等の部下は事毎(ことごと)に争ひを止めず、又も二人は仲違ひとなつたのです。私達は、(いづ)れが正しいともいふことが出来ず、又何れに味方することも出来ませんが、今、貴方の優れた腕を実際に試し、私から学ぶことの出来ない事を学ぶ為にはこんないい機会は又とありません。先づ私達は、此処から近いハエ部落のオニヒシの(もと)へ行つて、彼の(たくみ)な指揮を学び、その部下の雄々しい働きを見ませう。貴方の父上が二人の日本人を殺して砦に兵を挙げた時、一番早く()せ参じようとしたオニヒシは、きつと貴方を歓んで迎へて呉れるでせう。」コシヤマインは、言下に答へていふには、「さア行きませう。私は、()しそれが出来るなら、オニヒシを説いて、シヤクシヤインと和睦させ、二つを合せた大軍を以て日本人(シヤモ)を我々のモシリ(国土)から放逐(はうちく)しようと思ひます!」

 二人の勇士は、旅の支度をして、その母とその妻とに別れを告げ、サロウンペツ指して出発した。三日の後、彼等はオニヒシの館に着き心からの歓迎を受けた。

 オニヒシはマラープトイベ(宴会)の席に()いた時、コシヤマインの父なる、英雄ヘナウケを賞揚していふには、「貴方の父上が、()し多くの部落の応援を承諾されたならば貴方と同名のかのコシヤマインにも劣らぬ力を持つたでせう! (しか)し彼は私のラムー(魂)に、いやアイヌモシリ(全国土)のすべての人々のラムー(魂)に、神威(カムヰ)の子たる高い誇りを()りつけ、真実の勇気の何たるかを打込んだのです。今貴方を迎へて貴方の父上もかくもやと思はれる雄々しさを、貴方の面上に見るのは何といふ光栄でせう。何卒(どうぞ)私の部下を自由に使つて貴方の腕を十分に御揮(おふる)ひ下さい。私の軍勢は、貴方の来られたといふことを聞いただけで大いに奮ひ立つでせう。」さういつて、彼は盃の酒を空にまき地に(そそ)いだ。

 幾何(いくばく)もなくして、シヤクシヤインの軍勢は襲ひ来つて、オニヒシの一族ツカホシの甥を捕へて之をシビチヤリの河の畔に殺した。オニヒシは怒つて自ら大軍を率ゐ前線に進み出た。そしてシヤクシヤインの軍勢をサロウン(ペツ)の対岸に破つたが、悲しいかな、毒矢のエアツプ(狙撃)を脚に受けた。コシヤマインは左翼の部隊を指揮してゐたが、之を聞くや、直ぐ様馬に(むちう)つて駆けつけた。オニヒシは最早口をきくことさへ困難な有様であつたが、コシヤマインを見て微笑み、其手を固く握りしめて「全軍の指揮を貴方に(ゆだ)ねます」といひ終つて落命した。コシヤマインは声を挙げて()いた。そして軍勢を整へる間も遅しと長駆シビチヤリの砦に迫つた。この時の彼の周囲には僅かな戦士が続いてゐるに過ぎなかつたが、忽ち彼は固い砦を破つて躍り込んだ。

 シヤクシヤインと太刀を合せること六度、その部下に阻げられて遂ひに之を逸した。

 

     第九章

 

 コシヤマインが、ハエ部落の指揮者であるとの報は、モンペツの日本の会所に達した。日本の大將クラノヂヨウ・ヤススヱは、急遽多くの軍勢を率ゐてマツマエの本城を出で、トマコマイに上陸してハエ部落を占領した。コシヤマインが、遠くウララペツ部落(コタン)(ウラカワ)に近い所まで、シヤクシヤインを逐うて空しく引返へして来た時、すでにサカナイモクは日本の軍勢と戦つて死に、ハエの徒党は散つてゐた。コシヤマインは身を以つて逃れ、深く奥地を巡つてトーヤ湖の北岸に帰つた。ペチカはサカナイモクの戦死を聞くや、そのまま家を出て行つたが、日ならずしてその溺死体がトーヤの湖に浮んだのである。

 やがて此所(ここ)にも追求の手が伸びた時、彼は大胆にも母を伴つてアプタペツ部落に程近いレプン部落に逃れ、夜を待つて秘かに海に漕ぎ出した。追風(おひて)と早潮とに乗つて、湾の対岸なるユーラツプの海岸に着いたのは翌る早朝のことであつた。

 彼は老酋長イコトイの館を訪れて云ふには、「我が父ヘナウケが、華々しい最期を決心した時、私の母シラリカにセタナの酋長の血統を守る為めに速く逃れよと命じました。そして云ふには『誰よりもユーラツプの酋長イコトイに頼るに勝ることはないが、雪が未だ山を被うてゐないから、イワナイの酋長シクフに頼れ。』あゝ()しも犬橇が走れる程固い雪があつたならば、私達は山を越えて、ただちに此所へ参つたでせう。然るに私達は、ユーラツプヘユーラツプヘと志しながら、永年の間方々を(さまよ)ひ、最後にここに参ることが出来たのでした。日本の役人は私を激しく()つて居ります。私は、それを怖れは致しませんが、私が死ねば、父ヘナウケの望みは裏切られ、セタナの酋長の血統は私の死と共に絶えるのです。且又(かつまた)、私は、時の到るを待つて父や先祖の恨みを報いる戦ひを起さなければ死ぬことが出来ません。このまま空しく捕へられて首を()ねられたなら、私は()の国の父祖達に逢つて何と申しませう。酋長(オトナ)よ、貴方の御力によつて暫らくの間私の身を隠して頂き度う存じます。」酋長イコトイは恭々しい礼を以つてコシヤマインを上座に据ゑ、刎頸(ふんけい)の友であつた、コシヤマインの父の勇猛を(たた)へ、さて云ふやうには、「貴方が、此所に逃れて来たのは賢い考へであつた。(わし)は、かくの如く老い衰へてはゐるが、未だ一度も日本人(シヤモ)の侮りを受けたことがない。それは、俺が特別に強いからでなく、日本人が、取り分け俺とクンヌイ部落(コタン)の反抗を極度に惧れ、俺達には出来るだけの特権を与へねばならぬからのことであらう。それが何時(いつ)まで続くか、知れたものではないが、現在は尚、此処はアプタよりもマツマエの本城に近いのに拘らず、貴方の身を隠すには却つて都合がいい場所だ。俺は貴方と貴方の母上シラリカに、いい隠家(かくれが)をあげよう。そして又、貴方の父上の望みを叶へて上げるのは、私の務めだと思ふから、私の末の娘ムビナを貴方の妻に差し上げよう。貴方は、今から直ぐ、このユーラツプ河の上流、誰も人の行くことのないビンニラの美しい林の間に漕ぎ上つて、後から行く舟を待つがよろしい。貴方達を此所で歓待することの出来ないのが残念だが、(いづ)れその日があらう。何よりも、今の貴方にとつての御馳走は、貴方の身を安全に(かく)まふと云ふことだ。いい折があつたら、貴方がオニヒシの葬ひの為めに、豪雄シヤクシヤインをウララペツ部落の近くまで逐ひ落した武勇の話を聞かせて貰ひ度い。貴方の眼を見ればその眼が、口を見ればその口が、貴方の父上をまざまざと思ひ出させる。私は老いさらばうて恥しい有様だが、今、ヘナウケの為めに奉ずることが出来るのが何よりも(うれ)しい。あの世に行つて、(くは)しくヘナウケに貴方のことを話してやるのも間もないことであらうよ。」

 

     第十章

 

 ユーラツプの奔流が、緩やかな流れと変る所、山地と平地との境目なるビンニラの左岸に、コシヤマインはポンチヤシ(小家屋)を建て、やがて、美しいムビナを迎へた。此処は、ピリカハプタラ(美しい深淵)或ひは又エラマスイカムヰミンダラ(麗しい神園)と呼ばれ開闢(かいびやく)(いにしへ)から、毎年一度神威(カムヰ)()()る天より降り給ふ(ため)しとなつてゐたのである。それはウンポウチユプ(足裏の冷たい月)(アイヌ民族の陰暦九月の称。)からシュナンチュプ(篝火で鮭を()る月)(同十月の称。)に至る間であるが、其頃のビンニラ程美しい所は又となかつたのだ。両岸から諸枝(もろえ)を差し(かざ)して、深緑の屋根を形造つてゐる様々の樹々は、神威の降臨を言祝(ことほ)ぐやうに、その一枚一枚の葉を黄に紅に鼈甲(べつかふ)色に、思ひ思ひに染め尽した。常には青葉の下で冷たく澱むほどろの闇も今は一変して、眼も眩むばかりに輝き、それが滑らかな水面に照り映えて、さながら虹霓(にじ)のクーチ(帯)かマンチユコソント(満洲錦衣)に包まれたかと疑はれる程であつた。やがて夥しい鮭の群が海からやつて来る。そしてその綺羅びやかな紅葉の天井を浮べる水面を、背鰭で楔形(くさびがた)()き乱す時、鴛鴦(をしどり)真鴨(まがも)羽白鴨(はじろがも)が飛んで来て岩畳の上に行儀正しく並んだ。(いたち)(かはうそ)や、熊や狐さへも、此処では全く貪慾を忘れて首を振りつつ(みぎは)を逍遥し、眩しい樹間には、懸巣鳥(かけす)赤啄木鳥(あかげら)が、高々と啼きながら、栗鼠(りす)共を揶揄(からか)つて翔び()つた。一切のものが神威の秩序のうちにあり、得も云はれぬ豊かな平和がそこにたゆたうてゐるのであつた。

 ユーラツプ部落の狩人達も、神威の遊び給ふ間だけは、彼等の独木舟(まるきぶね)を此処に漕ぎ入れるやうなことはなかつた。彼等は神威の掻き鳴らすこの世ならぬ(トンコリ)の音が、カムヰミンダラ(神園)の奥深い辺りから漏れて来るのを屡々聴いたのである。

 幾何(いくばく)もなく、クエカイチユプ(弓折れる月)(アイヌ民族の陰暦十一月の称。)が近づき、神威(カムヰ)の天に()へる日が来るが、平和と秩序とは、神威と共に去つた。慌しい風が此処を吹き通つた。乾き切つた数万の木の葉が絶えず散り込む(とろ)の面からは、朝な夕な、狭霧(さぎり)が立ち昇り、金色の日條が(あら)はな梢から幾条もこぼれ落ちた。熊は白い息を吹き(なが)気忙(きぜわ)しく食料を洞穴に(はこ)んだ。鼬は岩の間をちよろちよろ走つた。獺は山鮎をくわへて浮び出た、と思ふ間に再びさつと水に潜つた。鮭共は波立つ水面を破つて跳ね上り、競つて荒瀬を(さかのぼ)つた。

 山々には既に冬が始まる。そしてそこに散らばつてゐる夥しい鹿の大群が、四隣をとよもして此処に殺到する時、ビンニラの平和と秩序とは一挙に消し去られるのであつた。

 併し、神威の平和と秩序とが去つても、此所は、若い酋長コシヤマインには絶好の隠所(かくれが)であつた。一人の部下はなくとも、慈しみ深い母と美しい妻とがあつた。食料は周囲に溢れて居り、自然は美しかつた。シヤモ(日本人)の迫害と同族の裏切りとを思へば、胆は痛み頸は固張(こはば)つたが、やがて一切の恨みと屈辱の、その最も小さいものまでも残らず晴らす日を想うて自ら慰めた。其日には、コシヤマインの名は、群峰を圧して天に(とど)くかのマツカリ(ヌプリ)の如く輝くであらう。かうして、彼は、いつか数多(あまた)の年をここに過ごした。しかし待ち心もしぬに待ち望む嬰児は、ムビナの腹に宿るとも見えなかつた。

 

     第十一章

 

 コシヤマインが、白い狐を獲つた翌年の秋の事である。多勢の日本人を乗せた大きな船がユーラツプ部落の浜に着いた。それは場所請負人(幕府より指定された地域の商業的権利を付与された者。)とその一統で、彼等は海の(あはび)や昆布を採つての帰るさだつたが、舟から(はるか)にユーラツプを望み、其無限の樹海に目をつけたのである。モシリ(国土)の何にでも慾深い目を輝かせるのが、日本人(シヤモ)、分けても場所請負人である。彼は逞しい部下を六艘の独木舟に乗せ、ユーラツプ部落の同族を漕手(こぎて)として、ユーラツプ河を溯つて来た。コシヤマインは年老いた母と妻とを岩の間に隠し、その闖入者の動静を静かに窺つた。

 六艘の舟は漕手の躊躇を罵つて、視よ、何人(なんぴと)にも(をか)されたことのない神園(カムヰミンダラ)に漕ぎ()つたのだ。水鳥は舟の行手からどつと沸き()ち、その羽音無数の矢を放つやう。舟がビンニラの崖の下に進んだ時、場所請負人は早くも崖を()ぢ登る熊を見つけた。コシヤマインはぢつとそれを見守るうちに、一艘の舟から長い火が迸り、濛々たる煙が吹き出したと思ふ間に、忽ち突き落されたシカンナカムヰ(雷神)(雷神は地上の美女を見惚れて雲より墜落しその美女によりてアイヌラツクルを生んだ。)のやうな轟きが神園を震はせた。視よ、この驚くべき(つる)のない弓は、眼に見えぬ矢を飛ばせて遠い崖の熊を射たのだ。熊は一声吠えて跳り上つた。そしてそのまま汀まで転り落ちた時には早や全く息絶えてゐたのである。

 コシヤマインは、吐く息も吸ふ息も打忘れた程、腹のあたりがむず痒ゆかつた程、まのあたりに見る一切に気を奪はれてゐた。

 この出来事は、コシヤマインの驚駭(きやうがい)のみに止らなかつた。岩の間に隠れてゐた年老いた母シラリカが、突き落された雷神の様な轟きを聞いた瞬間、俄に怖しい形相(ぎやうさう)となり、着物を引裂き、()び上つて岩を打ち叩き始めたのであつた。それはまがふ方もなくイムの発作(アイヌ民族独特の短時間続く精神病、中老婦人に多く主としてトツコニ<蛇>に対する潜在意識的恐怖に起因するものらしい。)であつた。彼女は更に驚くムビナに(ふき)の葉や虎杖(いたどり)の葉を千切つて投げつけ、果ては跳りかかつて嫁をねぢ伏せ、足蹴りにし、髪毛を引毟(ひきむ)しつた。

 コシヤマインが妻の悲鳴を聞いて駆けつけた時には、早やイムの発作は治つて、シラリカは傷ついたムビナを慰めてゐたが、彼女は、さめざめと泣いて我子にいふには、「私が生き永らへて来たのは何の為めだつたらう。ただ一つお前が、多くの部落を率ゐて起ち、父ヘナウケや祖先の恨みを晴して後、再び尊いセタナの酋長の家に坐るのを見度(みた)かつたからです。それなのに私達は、かうして異境の山深く隠れて永い月日を(いたづ)らに過し、今又私は恥しいイムフツチ(イムフツチはイム婆さんとより訳しやうがない。イムの発作の持病ある老婆の意、或はトツコニバツコ<蛇婆さん>)とも称す。)になつて、ウエンプリ(乱暴狼藉)を働きました。私は今更、セタナの家を逃れて以来の様々の苦労を繰言(くりごと)し度くはありませんが、今はもう、其総ての苦労も無駄に終つたといふべき日が来たやうに思はれます。」此時コシヤマインは声を励ましていふには、「母よ、貴方の胸の苦しみより、私の苦しみの方が一層激しいのです。何故なら、私は貴方と同じ苦しみをする上に、貴方の苦しむのを見てそれをも亦くるしまなければならないからです。(しか)し神威の御守りがあるならば必ず遠からず貴方と私の望みが叶ひ、私は貴方のお(よろこび)を見て悦ぶことが出来るでせう。たとひ私が、父のやうに死なうとも、それは必ず為さなければならない私の務めです!」

 彼は、彼の最後を飾る戦ひの為めに、冬の間に、この大きな(ポロモイ)に臨む総ての部落を巡つて準備をしようと決心してゐたのである。それはユーラツプの老酋長の勧めによるものでもあつた。

 かうした決意を固めながら彼の血は何故か沸き立たなかつた。そして絶えずあの弦のない弓のことが頭に浮んだ。彼は幾度か気を取直して、常に神威の戒律を犯してゐる日本人に対して神威が同族の軍勢に味方し給はぬ筈はない、と思ふことによつて自ら慰めた。山をも打砕く神威の眼には、弦のない弓、白い長い太刀といへども、風に吹かれる草の穂と何の選ぶ所があらう!

 

     第十二章

 

 コシヤマインは、履橇(くつぞり)を着け、浪の砕ける渚に沿うて部落から部落へ歩いて行つた。彼の訪れた部落の数は、両手の指を六度数へる程だつた。彼は遠くハエに行き、吹雪を冒してシビチヤリにも行つた。

 オニヒシとシヤクシヤインの居なくなつたハエやシビチヤリは、卵を産みつけた後の鮭のやうに魂がなかつた。彼の武勇を憶えてゐる者も沢山ゐたが、皆一様に昔語りに(うつつ)を抜かす、哀れな(やから)に過ぎなかつた。彼が深く望みをかけたカイヌ(若者)達も、押し並べて日本の強い酒と(タンバク)に眼を濁し、ただもう人の良い薄ら笑ひを唇に浮べてゐた。コシヤマインは一つの部落を後にする度に、髪の垂氷(たるひ)を引ん(むし)つて、何者かに向つてそれを投げつけた。

 彼は(くびす)を返へしてトーヤ湖の北岸に廻つた。モして母と共に葬つてやつた、サカナイモクの妻の墓を尋ねたが、そこと覚しいあたりには、ウス岳の噴き出したこごしい

岩が折り重つてゐた。彼は冬も凍らぬトーヤの蒼黒い水を見た。そればかりは昔のままの色であつた。彼は、湖から冷い風の吹き上げる崖の上に、其まま石に変るかと思はれる程、永い間跼(うづくま)つてゐた。彼は()いた。涙は頬の上に凍り、髭に垂氷となつて止つた。それから、彼が、サカナイモクによつて弓や馬や舟の操作を習ひ、乏しいけれど楽しかつた少年の日を過した土地をば(つぶ)さに見て歩いた。しかし変らないものは、矢張り只一つ、蒼黒いトーヤの湖の色だけであつた。思ひがけない所に沢があり、思ひがけない所に岩の丘が(よこたは)つてゐた。彼が太刀を打ちかけてそれを折つた白樺の大樹も遂に見当らなかつたし、舟を(くつがへ)して水を存分に飲んだ水木賊(みづとくさ)の繁つた入江もそこと思はれるものはなかつた。ささやかながら湖の魚によつて生計を立ててゐた、あの平和な十四戸のモシリ部落も、全く湖底に呑まれて跡形もなかつたのである。「何故に、神威(カムヰ)は怒つてあの部落を湖底に沈め給ひ、神威の国土をば、日本人(シヤモ)の蹂躙に委ねて恥としない多くの部落を見逃し給ふのであらうか?」コシヤマインは、湖心に映つたウス岳が、さりげなく黄色い煙りを吐いてゐるのに向いてさう呟いた。彼はどうしても神威の御心を知り度いと思つた。

 この地を去つて彼の足は何時しかマツカリ(ヌプリ)の麓なる密林の中を歩いてゐたが、彼の前に大熊が立ち現れて来ればいい、拳を以つてその心臓を()ち破つても呉れよう、と云ふ狂ほしい思ひが鍋からあふれる煮汁がゐろりの火にたぎつやうに胸に涌き起つた。彼は直接身を衝きあて、生命の限り戦ふ相手が欲しかつた。かくしてクツチヤンを過ぎ、彼が母と共に犬橇を(ぎよ)して二日の間行き(なづ)んだ山又山の間に分け入つた。彼は山々がマツカリ岳を全く隠して(しま)つた時、振り返へつてももう見えないと判つた時、不思議な安堵を覚えて、始めて頭を挙げた。そして、朧ろな記憶を辿つて、キロロアンが、彼等の為めに最後の忠誠を尽して死んだ場所を求めた。そしてイワナイに下つた。

 彼は、何者とも知れぬ者に導かれてゐる気がした。何故イワナイを訪ねようとするのかと自分に尋ねながら曠野を(よぎ)つて行つた。しかし、遥かに白い歯浪(はなみ)の立騒ぐ海岸の叢林の蔭に、イワナイ部落を望んだ時、云ひ難い懐しさで胸が痺れた。しかしそれも束の間で、彼の心には彼の故郷セタナヘの思慕が油然と(みなぎ)り溢れた。たとひイワナイが彼の幼い日を(はぐく)んだ所だつたにしても、彼の部落ではなかつた。たとひセタナが全く彼の記憶にはない所だつたにしても彼の血の中に生きる部落であつた! キロロアンに腕を折られた者の子がイワナイの酋長であつたが、彼は何時も何かに吃驚りしたやうな眼を持つた落着きのない男で、スツツの日本の会所からこの界隈のアイヌ部落(コタン)の宰領に任ぜられた役人であつた。彼はコシヤマインを恭々しく迎へはしたが、コシヤマインを捕へる事で起る身の危険を(おそ)れて、早く立ち去ることを廻り(くど)く頼んだのである。コシヤマインは日本人が冬も駐在するスツツの会所の前を通つて夜を日についでセタナヘ向つた。翌日の夕暮に彼は故郷を見た。其海に全く(にしん)の群が来襲しなくなつて以来、日本の漁夫達がセタナには全く停らず、遠くシヤコタンの陸地に沿つてカムヰエンルム(神威岬)を過ぎ、追鰊漁に漕ぎ出すやうになつて以来、又、怖しい庖瘡が三度もそこを襲つて真実と思はれぬ程多くの人命を奪ひ、人々を散らして以来(日本人によつて種痘が施されるまで、アイヌ達は、庖瘡の流行に際しては、戦ふ方法がなく、病にかかつた肉親をも見捨てて遠い地方へ逃げ去つた。)、彼の故郷は荒廃の極に達してゐた。そこには只だ十戸程の同族の腐つた家があるばかりであつた。

 彼は、見る影もない故郷を(まのあた)りに見ても、父が日本人と戦つて捕へられたチヤシ(砦)の跡を見ても、余りに甚だしい気落ちの為めに何の感情も起らず、見るよりも想ふ事の方が幸なのを知つた。

 彼は山をこえて、曲りくねつたユーラツプ河に沿うて下り、ビンニラの我が家に帰つた。この時以来、彼は口髭ばかり噛み続ける無口の男となつたのである。

 

     第十三章

 

 コシヤマインは、ユーラツプの老酋長(オトナ)を訪ねて云ふには、「私はすつかり見て参りました。遠くサロウン(ペツ)を越えて、シビチヤリまで行つても見ました。そして貴方が私に云はうとなさることが何かが判りました。しかし私はどうしたらいいでせう。」さう云ひ終つて彼は(げん)然と哭いた。老酋長は云ふには、「セタナの勇士よ、(わし)()貴方(あんた)程若かつたら、貴方と同じい涙を流すだらう。智慧が俺達を敗かしたのだ。ブシ(鳥冠革)の毒矢より鉄砲が勝れてゐるのだ。このモシリ(国土)の六倍もある海の向うの国土が、只一人の酋長によつて宰領されてゐるのに俺達は昔ながら一つ一つの部落に分れてゐるに過ぎない。俺達がオロツコ族よりも強いやうに、日本族は俺達よりも強いのだ。俺達は、石でなく金を自由にし、土器でなく陶器を作り、チキサニ(水楡(みづにれ))の衣でなく紡いだ布を織り、伝承でなく文字を使ひ、()り抜いた木舟でなく板の船を操り、足の下で自然に出来た(こみち)でなく手で(ひら)いた路をつけ、銭を飾り物としてでなく品物の交換に用ゐる(ことわり)を知らなければ、最早や同族の運命はオロツコ族よりも(みぢ)めであらうよ。コシヤマインよ、俺は、貴方の父上と共に死ななかつたのを常に悲しんでゐる。」さう云つて老酋長も涙を流した。

 夏になつて、再び多勢の日本人(シヤム)達がやつて来た。そして場所請負人は、彼の部下に三挺の鉄砲を持たせて河を溯つて来た。彼の声はカムヰミンダラ(神の遊ぶ園)の青い木下闇(こしたやみ)の中に響き渡つた。そして、斧を持つた部下達は、ビンニラの崖の美しい樹木を次々に伐り倒した。秋になつた時材木は渕に投げ込まれ渕を被つた。それは河によつて下流に運ばれ、ユーラツプ部落の前で筏に組まれて海に押し出された。無数の板で出来た大船は、膨んだ広い布の帆を高くかかげ、筏を曳いて南方へ去つた。

 翌る年もそれが繰返された。カムヰミンダラ(神園)は明るくなつた。コシヤマインは獣を得るために、遠方へ出掛けなければならなかつた。そして、鉄砲の轟きが、母のイムを引起す度に、他の静かな場所へ移り度いと考へた。彼はいよいよ気六ケ敷(きむつかし)くなり、髪には白髪が交るやうになつた。母はひどく老込んで、容易に治まらぬ咳をし、妻は子を産む気配もなかつた。かうして又永い年月が過ぎた。

 ユーラツプの老酋長は死に、その子のリキンテが酋長となつた。そして、その多くのウタリ(部下)は日本の品物を買入れる銭を得るために場所請負人に使はれた。彼等は材木を転ばして川まで運んだり、岩や(みぎは)にひつかかつてゐる材木を、(かぎ)で引き寄せて流したり、それを筏に組み、大船の側まで引き着けたりした。彼等は、日本から来た煙草を吹かし、酒を飲み、日本の言葉を使ふやうになつた。コシヤマインは、それ等の一切を無限の憎悪をこめた眼で睨んだ。或る時、彼の大力を以つてすれば、一日に壷半分の酒を得るのも易々たるものであらうと云つて、同族の一人が彼に日本人に傭はれることを勧めた時、彼は、有無を云はさず相手を地上に()ち倒したのであつた。

 彼の小家のある岸の対岸、ビンニラの崖のやや上手に、二十人余りの日本人が寝起きする細長い家があつた。朝早く彼等は眼を醒ました。そしてマリキ(斧)やぎざぎざのある魚の背鰭(せびれ)のやうな平太刀を持つて林に入り、日が落ちる時まで働いた。しかし三挺の鉄砲と長い太刀とを持つた逞しい日本人は少しも働かずに煙草を吹かし、雑談し、傭つた同族のみならず日本人達をも絶えず罵り、屡々殺すのではないかと思はれる程劇しく棒で殴つた。コシヤマインは、日本人と日本人との間で行はれるこの激しい暴行の意味をどうしても理解することが出来なかつた。彼は殴られて悲鳴をあげる日本人を見ると快かつたが、殴つてゐる日本人を見ると憤りを覚えた。

 

     第十四章

 

 或る夜更の事であつた。最初の霜が降りさうな晩であつた。コシヤマインはふと眼を醒して対岸の物々しい気配に耳を(そばだ)てた。妻も眼を醒したがこの時、怖しい鉄砲の轟きが起つた。そして眠つてゐた老母はいきなり魂を掻き()ぜられてイムのウエンプリ(狂乱)に陥り、手に触れるもの凡べてをコシヤマインとその妻とに向つて投げ散した。コシヤマインは妻を後へ隠して、その胸で飛んで来る器物を受けながら、歯を噛みならし、口角に白い泡を溜め、理解に苦しむ(みだ)らな戯言(ざれごと)を口走る老母を見つめた。それは榾火(ほたび)の焔に照し出されて、コシヤマインをさへぞつとさせた。発作は永くは続かなかつた。そして対岸の騒ぎも静まつた。

 もう明け方に近い頃、コシヤマインは再び物音に眼を醒した。奇妙な唸り声が聞えた。それはずつと遠いやうにもすぐ間近かにも聞えた。

 彼は腰にマキリ(小刀)を挾んで戸口に立つて(うかが)つた。その(うなり)は直ぐ戸口の向う側から流れて来るのであつた。彼はさつと戸口を開いた。そして、そこに倒れてゐる半裸の人間の慄へる肩を見た。彼は手でその肩を掴み榾火の焔の明りの前に引出した。哀れな男は痩せ衰へて、顳顬(こめかみ)は水の溜る程凹んでゐた。「お前はシヤモ(日本人)か?」と彼は訊ねた。男は肯いて、両掌を合せた。

 コシヤマインは早や息絶えるかと思はれる日本人を両腕に抱いて小屋の中に入つた。そして榾火をかき起し熊の毛皮を掛けてやつた。妻も母も起きて来た。昏々と眠る接骨木(にはとこ)のやうなシヤモ(日本人)は眼を開いて下手なウタリ(同族)の言葉でいふには、「私は死ぬ。もう駄目だ。私は帰り度い。私の国土(コタン)を一眼見て死に度かつたのだ。」コシヤマインがいふには、「お前は日本人のニシパ(親方)に鉄砲で撃たれたのか?」シヤモ(日本人)は切れ切れの解り難い同族の言葉で言ふには、「いゝや、撃たれたのは私の友人だ。彼は小舎から私と逃出した。彼は丈夫だつたからすぐ河を泳ぎ渡らうとした。彼は私が岸のキナ(草)の中に隠れてゐる時、私の眼の前でエアプ(狙撃)されて死んだ。私達のモンライケ(労働)は苦しい。それに私はこんな病人だ。しかし働かなければ打ち殺される。私のコタン(故郷)は海の向うのムツノクニだ。そこにはわたしの病気の母が居て、私が銭を持つてかへるのを待つてゐる。私はもう三年も故郷に帰ることが出来なかつた。私は母に逢ひたいがもう駄目だ。」コシヤマインがいふには、「何故お前をニシパ(親方)は(いぢ)めるのか。」「私が働けないからだ。」「お前は病人ではないか?」「それでも働かなければならぬ。」「何故ニシパはお前をそんなに働かせるのか?」「私は(やと)はれてゐるからだ。」「お前は死んで()まふではないか?」「死ぬる迄働かされる。」「それはイレンカ(戒律)に逆いてゐる!」「それがニシパ(親方)のイレンカ(戒律)だ。」その夜、哀れな日本人は口と鼻から沢山の血を吐いて泣きながら死んだ。

 朝になつてコシヤマインは死骸を抱へて後の叢林の中の丘の上に運び、頭を死人の故郷の方へ向けて埋めた。そして柳の樹を切り、その先端を三稜の槍の穂形に削り、その頸部にイヌエ(彫刻)を施した墓標を作つて、それを土の上に立ててやつた。

 

     第十五章

 

 冬が来た。最初の吹雪が来る前に、対岸の小舎の日本人(シヤモ)達は例年のやうに親方達と共に崖の細路を通り、草原を横切つてユーラツプ部落に引挙げ、それから徒歩でハコダテヘ向けて出発した。(しか)し今年は、小屋に六人の日本人が残つてゐた。そして越年の用意に毎日忙しさうに薪を割つた。彼等は歌を唱ひ、互に大声で話し合つて笑つた。それは嬉しさうに見えた。

 雪の止んだ日のことであつた。コシヤマインは川上の林の中で兎を()つて、独木舟(まるきぶね)を漕いで下つて来た。荒瀬は対岸の日本人の小屋の前に打ちつけてゐた。彼の舟は、そこで水を汲んでゐた一人の日本人の前を通り過ぎた。その時、日本人は彼に声をかけて笑つた。彼も我にもなく人の好い笑ひを返へした。日本人が云ふには、「お前がその兎を呉れるなら俺達は酒をやらう。」コシヤマインは頭を振つて云ふには、「日本人の酒は辛い、君達は冬中ここにゐるのか?」「さうだ。」「ニシパ(親方)は居ないのだね?」「俺達皆がニシパ(親方)だ。」コシヤマインは笑つた。そして、哀れな日本人の死を彼に知らせてやつた。日本人は驚いて云ふには、「さうだつたか。俺達は彼の死骸が川下で鴉に喰はれたことと思つてゐたのに!」

 かうして彼等は親しくなり、日本人達は不幸な死を遂げた仲間の墓にお参りに渡つて来たりした。そしてこの事では彼に非常に感謝してゐるやうに見えた。

 或る夕方のことであつた。コシヤマインは、哀れな日本人の仲間の為めに、一頭の狸を与へようと思つて舟を対岸に着けた。六人の日本人は、彼を歓迎して、日本の酒を飲ませた。夜の更けるまで彼等は飲み、コシヤマインは日本の酒のお礼にユーカラ(神謡)を謡つて聞かせたりした。幾度か、対岸から、母と妻との声が響いた。彼女達はコシヤマインがそんなに(おそ)く迄日本人達の所に居るのを怖れたのであつた。コシヤマインは皆に暇を告げて立上つた。十分に酔つてゐたので彼は(よろめ)いた。そして大いに笑つた。六人の日本人達は彼を(みぎは)まで送つて来て云ふには、「お前は日本の酒で今晩はぐつすり眠れるだらう。」コシヤマインはからからと笑つて、「朝まで何も知らずに眠れるだらうよ。明日の晩は、俺が酒と兎を持つてお礼にやつて来る。」彼は、さう云つて、(もや)つてある綱を柳の枝から解きに取りかかつた。

 視よ、この時、一人の日本人が、太い棒を、コシヤマインの後頭部に打降した。他の者共も走り寄つて滅多打ちにした。コシヤマインは、前にのめつていはれなき乱打を受けながら、必死に柳の幹にとりすがつて振返へつた。人々はさつと身を退いた。苦痛に耐へ兼ねてコシヤマインは片膝を地に突いた。この時、対岸からは再びコシヤマインを呼ぶ母と妻との声が響き渡つて来た。彼は最後の努力で膝を起し、両手で柳の幹に取縋つた。そして「又も(だま)し討ちにしたな」と云ひ終つて、どつと(みぎは)に倒れて死んだ。六人の男達はコシャマインが全く死んでゐるのを確めた上で、死骸を川に投じた。そして競つて舟に乗込み、彼等の情慾を充すに足る少くとも一人の女の居る対岸へと急いで漕ぎ渡つて行つた。

 コシヤマインの死骸は、薄氷(うすらひ)の張つた川をゆつくりと流れ下り、荒瀬にかかつて幾度か岩に阻まれたが、遂に一気にビンニラの断崖の脚部に()つかつた。それから、(かつ)神威(カムヰ)が年毎に訪れ給うたカムヰミンダラの渕に入つて、水積(みづ)いてゐる楓の下枝に引つかかつてそこに止つた。やがて氷が渕を(おほ)うた。そして僅かに氷の上に見えてゐたコシヤマインの砕けた頭部を、昼は鴉共が、夜は鼠共が(ついば)んで、その脳漿(なうしやう)の総べてを喰らひ尽したのであつた。

 

      (昭和十一年九月「文藝春秋」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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鶴田 知也

ツルタ トモヤ
つるた ともや 小説家 1902・2・19~1988・4・1 福岡県小倉市に生まれる。1922(大正11)年に神学校を棄てて北海道に渡り、農夫、馬車曳き、職工などして渡り歩き、翌年から葉山嘉樹指導下に名古屋市で労働組合運動に挺身するなど山川均らに感化された民主主義運動に永くたずさわり、敗戦後には宿願の日本農民文学会また社会主義文学クラブなどの結成や発足に尽力した。

掲載作は、同人雑誌「小説」に発表し1936(昭和11)年第3回芥川賞を受け9月「文藝春秋」に掲載された。叙事詩風の作と見えつつ、資本と労働との激しいせめぎあいを体験してきた作者の、悲痛なまでの思い入れが読み取れて切ない。

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