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明日(あした)が来なかった子どもたち

 健太(けんた)は、庭の大きな楠の幹にある窪みに腰を掛けて、いつものように(キム)さんの行列を待ちました。毎朝八人の外国人が一列になって、監視役らしい日本人の後を、のろのろと歩いていきます。

 健太の家の下には大通りに通じる細い道があります。その外国人たちは、近くの刑務所から、重い足を引きずるように出てきては大通りを隔てた鉄工所に向かいます。健太には、初め、この人たちが外国人だということは分かりませんでした。顔形も背丈も日本人と同じに見えましたから、『大人があんなにいやいや歩いていいものか』と思って腹が立ちました。『おれだって、いつも腹減って死にそうなんだ。だけど、そんなこと外に出したことないぞ。男は強くなけりゃいかんって先生が言うから、腹ぺこで目が回りそうな時だって力強く行進するんだ。大人のくせに、しっかりしろ』と、心の中でつぶやいては、楠の陰から石ころを投げつけたりしていました。

 ある日、お母さんに見つかり、こっぴどくしかられました。「あんたは三年生にもなって、まだそういういたずらをするの。あの人たちは遠い国からこんな所まで連れてこられて働かされているのよ。お父さんと同じくらいのおじさんたちだけど、お父さんが外国で小さな子供に石投げられていたら、どう思う?」と、いつもは優しいお母さんが、激しい口調で言いながら目にいっぱい涙をためていました。

 それからは健太は金さんにお父さんの身を思い重ね、いじわるはすっかりやめました。かわりに妹の美華子(みかこ)の大きめのお手玉をくすねて、行列の最後尾の金さんに投げつけています。もっとも、お手玉ではなく、信玄袋(しんげんぶくろ)のようになっていましたが……。中には小さな干芋のかけらや、大豆を煎ったものなど、健太の分け前から少しわけて入れるのでした。

 初めてお手玉を投げた時は、金さんが怒って顔をまっ赤にして投げ返してきました。健太は、投げ返された袋を指さして食べるまねをして、再び投げ返しました。中には煎り豆と、『いままでのことは、ごめんなさい。これからは、いいものをなげますから、かならず、かえりに、このふくろをかえしてください。 つるやま けんた』というひらがなの大きな字で書かれた手紙が入っていました。

 夕方仕事場からの帰り、袋は楠の根元に投げ返されていて、『けんた、ありがと、 キム』と、たどたどしい日本語が、健太の手紙に炭のようなもので、書き加えられて入っていました。

 あれから四ヶ月もたち、きょうは八月九日。朝から太陽がギラギラと照りつけています。袋の中身は、珍しくピーナッツでした。田舎のおばあちゃんが送ってくれたのを、お母さんが明日の美華子の誕生日のために取っておいたもので、健太が待ちきれず、一日前に煎ってもらったのでした。ほんとは、自分一人で全部食べたいのですが、金さんたちはもっとお腹が空いていると思うとそうもいきません。健太の分の半分あげたとしても、金さんたちには一粒もあたらないような数でしたから、きょうはたった二粒しか自分には残さず、グーグーいっているお腹の虫をなだめながら、金さんを待っていました。先頭を歩く監視役の男に見つかるといけないので、大きな袋を投げる訳にはいきません。さいわい、健太が石を投げていたころ、その監視の男は、それを知っていたにもかかわらず見てみないふりをしていたので、石がお手玉にかわっているとは、夢にも思っていないようです。

 小柄な金さんが、健太が投げる袋を目にもとまらない早業で受けると、ポケットにつっこんで、にっとすきっ歯を見せ何事もなかったように歩いていく妙技(みょうぎ)は、健太にはたまりません。それを見たさに健太は投げ続けているところもあります。言葉を交わすチャンスはありませんが、健太にはずっと昔から知っているおじさんのような気になっていました。

 下の通りに人影が動いた気配がしました。「早く歩かんかあ」と、監視の男が怒鳴ると、その一瞬行列は足ばやになり、またすぐのろのろとした歩き方に戻ります。金さんが健太の居る真下を通り過ぎようとした時、いつものように上手に袋を投げました。ところが、金さんはそれをポトンと地面に落として慌てて拾い、ポケットに押し込んでそのまま行ってしまいました。いつもなら歯を見せて笑ってくれるのにおかしいなあと思いながら、うしろ姿を見送りました。

 庭の楠の木陰では、美華子がむしろを敷いて、一人でままごと遊びをしています。むしろの上には、欠けたお茶碗やお皿やカップなどが並んでいます。お茶碗の中には、白いダリヤの花びらがご飯のように盛ってあり、お皿には黄色の花が平たく乗せてあります。カップの中には、朝顔の花を絞って作ったジュースが入っています。

 「お兄ちゃん、ご飯だよ。早く、早く」と美華子がしつこく言うので、健太は仕方なくむしろの上に座りました。

 「お兄ちゃんはお父さん、わたし、お母さんだよ」美華子はうれしそうにほっぺにえくぼを作って、健太の前にご馳走を並べます。健太はご飯やお皿の卵焼きをむしゃむしゃ食べるまねをして「ごちそうさま」と、さっさと立ち上がりました。「お兄ちゃん、まだだよ」という美華子の声をあとにして、健太は「美華の好きな花摘んできてやるから…」と、そそくさと川遊びに行ってしまいました。健太は、黙って座っているより走り回っているほうが好きでしたから、ままごと遊びの相手がいちばん苦手でした。

 家の近くに、二本の細い川が合流して少し広くなっていて、小さな滝があり、涼しげに水しぶきをあげています。その上は、川の両岸から木々の葉がおいしげり、すっぽりと水面をおおっています。木漏れ(こもれび)が水面に幾筋も反射するさまや、アメンボが川面をスイスイと滑るようすを見ていると、健太は、戦争なんてどこの話かと思うほど、のどかな気持ちになります。浅瀬では川ニナがころがり、沢がにがチョコチョコ歩き回っています。川岸には、ピンクのタデの花や赤いアザミや、かやつり草、青空を思い出させる露草などが、元気さを競うように茂っています。

 健太は、頭が出るくらいの深さまで、Tシャツと短パンのままで水に入ります。犬掻きで泳いだり沢がにを捕まえたり、メダカを追っかけたり、面白いことがたくさんあります。

 春には、土手でツワブキやヨメナやセリを摘んで帰り、お母さんを喜ばせました。また時には、蝶やトンボを追いかけたりしますが、捕まえても必ず放してやりました。たまには、大きなドンコを捕まえて、お母さんにお土産に持って帰ることはあります。ほんとはドンコも放してやりたいのですが、食べ物がなくなっていくので、仕方がありません。

 きょうは、健太はポケットのピーナッツがぬれないように浅瀬を動き回り、少しつかれて、流れに大きく頭を出している岩に腰を下ろし、辺りを見回しました。二匹の蝶がダンスを踊っているように、離れたりくっついたりしながら目の前を通り過ぎていきます。まるで黄色のひまわりの花びらが、風に乗って舞っているようです。それを見送ると、輪っぱのようなものが目に入ってきました。よく見ると二匹のトンボがまあるい輪を作って飛んでいるではありませんか。健太は、今までトンボはたくさん見てきましたが、まあるい輪になっているのは初めてでした。『不思議なトンボだなあ』と思って身を乗り出して捕まえようとしてポシャンと水の中に落ちてしまいました。トンボは、深い滝つぼの方へ飛んで行ってしまいました。

 ポケットの大切なピーナッツが、もう少しで水につかるところでした。ポケットに手を入れると、かさかさと殻が手にさわりました。殻まで食べられればいいのにと健太は思います。十時のおやつに一つ、三時ごろに一つ、食べようと楽しみにしています。健太がポンポンと手でポケットを叩いた時、ウーウーウウウと空襲警報(くうしゅうけいほう)がなりました。

 美華子はお兄ちゃんに逃げられてがっかりしましたが、お母さんに「かわいいおべべをお誕生祝にぬってあげるから、おとなしく庭で遊んでいなさい」と言われたので、一人でおままごとを続けています。お父さん役とお母さん役を一人でやっているので、むしろの上を行ったり来たりしています。それがあきると、楠の幹の窪みに入り込みます。窪みは、美華子の体全体を包み込むような形をしています。そこに入ると、つい先日まで暖かいあぐらの中に美華子を入れてくれたお父さんのことを思い出します。

 時々、お母さんに「ねえ、お父さんはどこに行ったの。いつ帰ってくるの」と質問攻めにします。

 お母さんは、その度寂しそうな顔をして「もうすぐよ。きっとお土産たくさん持って、美華ちゃん、おりこうだったかあって帰ってくるよ」といいます。美華子は「ふ〜ん」と不満そうな返事をします。

 さっきからさやさやと楠の葉が鳴っているのを子守唄にして、美華子は窪みの中に入ったまま眠ってしまいました。

 お母さんは、自分が娘時代に着ていた浴衣(ゆかた)を、美華子の洋服に作りかえていました。紺地にピンクや赤の朝顔の模様がついています。そのきれいな朝顔が美華子の胸のところにくるようにデザインをして、ワンピースを作っているのです。(かすり)のもんぺとありあわせのブラウスしか着せたことがなかったので、明日の誕生日にはワンピースを着せてあげようと、せっせと針を運んでいます。

 頭の中は、明日のご馳走をどうしようかということでいっぱいです。お米も麦もほとんど家にはありません。大切に取ってあったピーナッツは、健太の強いお願いに負けてすでに使ってしまいました。とりあえず家にあるのは、高太(こうた)が畑から掘ってきてくれる芋やトマト、台所のカンカンの中のどんぐりの粉と、少しの大豆だけでした。お芋をつぶしてどんぐりの粉と混ぜ、大豆を煎ってきな粉にして、まぶしてきな粉だんごでも作ったら喜んでくれるかしら、と考えています。

 手元では、小さなかわいいワンピースが出来上がっていきます。美華子が生まれてすぐに戦争が始まったので、いままで女の子らしい洋服など着せたことがありませんでした。ですからお母さんも明日の美華子を見るのが楽しみで、汗をふきふき一生懸命ぬっています。と、突然ウーウーウー……とサイレンが鳴り出しました。お母さんはピタリと手をとめ、庭に飛び出しました。楠の窪みで眠っている美華子をすばやく抱きかかえると、防空壕(ぼうくうごう)へ走りました。

 高太は、お父さんが出征(しゅっせい)する時に「高太、おまえはお兄ちゃんだ。しっかりお母さんや、弟、妹を守ってやるんだぞ」と言い残していったことを忘れてはいません。きょうも裏庭の畑で、雑草をとったり水をあげたり忙しそうです。たまには、健太のように川でおもいっきり遊んでみたいと思いますが、お母さんが一人でお父さんの分まで働いているのを見ると、そういう訳にもいきません。薪わりや水くみ、夏休みに入ってからは、お母さんと買い出しにも行きます。田舎にお母さんのすてきな着物を持って行って、お米や麦や芋、かぼちゃ等にかえてもらっています。お米にはめったにかえてもらえなくて高価な着物がたったの一升の米になる時もあります。そんな時高太はお母さんがかわいそうになりますが、お母さんはぎゃくにとてもうれしそうにしています。

 高太が大切に育てている芋は、八月半ば過ぎれば大きくなっているはずです。それまではなるべく掘り出したくないと思っていましたが、明日の美華子の誕生祝に少しだけ掘ってみようとしています。ついでに、クラスメイトの麻子(あさこ)にも持って行ってやろうかと思っています。夏休みに入って、麻子のお母さんが急に病気になり、おばあちゃんが麻子と麻子の弟の面倒を見ているので、麻子は朝から晩までおばあちゃんのお手伝いをしているのです。高太の家の裏庭から麻子の家の庭が見えますが、近ごろ麻子はよく庭先にたたずんでいます。高太と麻子は、小さい頃はよく遊んでいましたが、六年生になった頃から何だか意識しはじめて、学校で会ってもあまり話さなくなっていました。でも高太は、ふと気が付くと一日中麻子のことを考えて、麻子が家から出て来ないかなあと、待っていたりします。たまに麻子が回覧板(かいらんばん)を持って来るのですが、そっと置いていくか、「はい、回覧板」と高太に渡してさっさと帰って行ってしまいます。高太も「うん…」と言うだけで、あとが続きません。そんな時麻子の顔を間近に見ると、長いまつげが悲しそうに動いて元気がありません。高太は明日の美華子の誕生会によんであげたいと思っていますが、麻子が忙しそうなので、芋でも差し入れてやろうと、少し多めに掘ることにしました。

 お母さんと草をとったり、こやしをあげたりしたかいがあって、芋は順調に育っているようです。高太は大切そうにそっと鍬を当てていきます。つややかな赤い芋がコロコロと出てきます。まだ十分大きいとはいえませんが、とてもおいしそうにしています。芋づるを引っぱると、ぞろんと数個が連なって出てきます。高太はグーグー空き腹を鳴らしながら、芋を一つずつていねいに土をはらって篭に入れていきました。もう一頑張りと、汗を辺りにまき散らしながら、鍬を振り上げた時、ウーウーと空襲警報が鳴りました。高太は急いでいつものように防空壕へ走りました。真夏の防空壕の中は暑苦しく汗臭く、一分でも一秒でも早く外に出たいと誰もが思うのでした。特に子どもたちは、泣いたり笑ったり話したりできませんから、早く空襲警報が解除になればいいと思っています。

 健太は防空壕に入ると、いつも川辺のことを思います。きらきらと輝きながら流れる水、スイスイと滑るように川面を走るアメンボ、ひらひらときれいな洋服を見せびらかすように飛び回る蝶々等、目を閉じている健太の頭の中は、なじみの風景でいっぱいになっています。

 妹の美華子は快い眠りを起こされてご機嫌が悪く、お母さんがしっかりだっこしてあやしています。

「おとなしくするのよ。恐い飛行機が行ってしまうまで。いい子だから」

 汗だくになりながらお母さんは美華子を寝かしつけています。

 高太は芋ほりで泥んこになった手を枕に横になって、麻子のことを思っています。あんなに明るかったのに、夏休みになってから麻子の笑顔は全然見られなくなったと高太は思うのです。きっと麻子のお母さんがひどくぐあいが悪いにちがいがありません。自分で良ければなんでも手伝ってあげたいと思うのですが、うまく伝えることが出来なくていらいらしているのです。お母さんに言ってみようかとも思いますが、少し恥ずかしくて言い出せません。今度外に出たら麻子の家を訪ねてみようと決心しました。

 一方金さんは、朝からお腹のぐあいが悪く、仕事に身が入りません。健太が投げてくれたピーナッツも、ズボンのポケットに入ったままになっていました。いつもなら監視の目を盗んで口にほうりこんだり、仲間にそっと渡したりするのですが、そんなことをする元気がないのです。

 鉄工所の仕事は重い物を持ち上げなければなりませんでしたから、金さんはありったけの力を出しているのですが、どうにもなりません。仲間が金さんをかばいながら、作業を進めていきました。

 金さんが、もう限界だと座りこんだ時です。ウーウーと空襲警報がなりました。監視の男が早く防空壕に避難するようわめきたてました。金さんは仲間に助けられながら、無事に逃げ込むことができました。暗いじめじめした防空壕の中でも、金さんたちにとっては体を休めるのに一番良いところでした。金さんはポケットの中から袋を取り出しピーナッツを出すと、仲間に全部配りました。自分は、もうなにも食べられそうにないと思ったからです。小さな袋は大切にポケットにしまいました。

 健太にお礼を入れて返したいと思っているのですが、そういう元気が出るか分かりません。もしここで死ぬことになるのなら、その前にはってでもあの少年の所まで行って、『地獄の中、あったかい気持ちにしてくれてありがとう』と一言言いたいのです。金さんはぐったりとして横たわっていました。やがて警報は解除になり、みんな追い立てられるように鉄工所に帰って行きましたが、金さんだけは監視の男に足蹴にされても動きませんでしたから、そのまま一人残されていました。

 かび臭く蒸し暑く暗い防空壕の中から、やっと解放される時がきました。待ちに待った空襲警報解除です。健太はまっ先に飛び出しました。

 お母さんが「少しはお兄ちゃんのお手伝いをしなさいよ」という言葉をしりめに、一目散に川へ走りだしていました。もう一度あのトンボの輪を見たいと思ったからです。というのもお母さんが、「それはトンボの恋人たちなのよ。そうやって好き好きって愛しあって、トンボの赤ちゃんが生まれるのよ」と防空壕の中で教えてくれたからです。ついでに美華子の誕生日のプレゼントも、川辺で探そうと思っていたのです。天空(てんくう)を木々の葉っぱでおおわれた川面はひんやりとして、汗だくになっていた健太には心地よく生き返ったような思いでした。得意そうにスイスイと水面を滑っているアメンボを驚かさないように、健太はそっと水の中に入って行きました。浅瀬にはやせた川がにがのそのそと歩いていますし、小さな魚もちょろちょろと泳いでいます。健太は、水面に頭を突き出している岩に腰をかけて空ばかり見上げて、輪になったトンボが飛んで来るのを待ちました。「世の中で一番大切なことなの。そうして命が永遠に受け継がれていくのだから。お母さんの命もお父さんの命も、健太や高太や美華子の中に生きているから、歳をとって死んで行っても大丈夫なのよ。だから、三人ともお父さんとお母さんの宝だから、あまりやんちゃばかりしないでちょうだい」と言ったお母さんのお説教が耳に残っています。

 健太にはあまり難しいことは分かりませんが、お父さんが戦地から無事に帰ってくるまでは、ケガをするなと言っているのだと思いました。

 葉っぱの間から真夏の太陽がきらきらと輝いて、きょうもぐんぐん暑くなりそうな気配です。健太は長いことぼんやりと空を見上げていました。と、突然賑やかな子供たちの声が聞こえてきました。近所の友達で、洋一(よういち)昭子(あきこ)太郎(たろう)和子(かずこ)一郎(いちろう)が、泳ぎにやって来たのです。

 「健ちゃん、来てたんだ。これで遊ぼう」と、太郎がゴムマリをポンと水に浮かべました。今ではすっかり珍しくなったゴムマリを追って、みんながいっせいに水の中に飛び込みました。水しぶきをあげて歓声をあげ大騒ぎになりました。みんな洋服を着たままで頭からびしょぬれになっています。洋服といっても、男の子は短いズボンにTシャツかランニングで、女の子はもんぺにブラウスという質素なものですが、戦争中なのであらゆる物が不足していて着替えもあまりありませんから、みんなにとっては大切なものでした。

 健太はふいに、美華子の誕生日のプレゼントのことを思い出しました。「そうだ、明日妹の誕生日だった。おれ、花束つくるんだ。手伝ってくれたら明日おれんちに来てもいいよ。お母さんがきな粉だんご作るんだ」それを聞いてみんなは、いっせいに水から上がると、

 「よし、一番きれいな花見つけてくる」と洋一が河原を走り出しました。

 「わたしも」

 「ぼくも」と続きます。

 きな粉だんごなんてみんなずいぶんたべていませんから、そう聞いただけでよだれが出てきそうなのです。河原には、つゆ草やひる顔やあざみやかやつり草など、われもわれもと元気にはびこっています。浅瀬では沢がにの家族がちょろちょろと動き回っていたり、黄色や白の蝶が小さな野の花から花へと飛び回っています。

 一郎はえび茶色の沢がにの一番大きくていばっているのを、指でつついてからかっています。

 和子はかやつり草で花輪を作り始めました。かやつり草だけでは淋しいので、花輪が出来たらお家の庭に咲いているダリヤの花を、飾りつけてやろうと考えています。

 昭子は、ひる顔もつゆ草も摘み取ってしばらくすると、しんなりしてきれいではなくなるので、生の花束はあきらめて、お家に大切にしまってある色紙で、美華ちゃんにすてきなお花を作ってあげようと思っています。河原に落ちている色の美しい石を、色紙に包んであげてもいいなあと、石を拾い始めました。

 健太は痛い思いをしながら、あざみの花のきれいなのを選んで手折っています。でも、やっぱりあの輪のトンボが気になって、辺りをきょろきょろ見回しています。お母さんが言ったようにほんとに二匹のトンボが手をつなぐように輪を作っているのかどうか、ぜひ自分の目で確かめたいと思います。しかし、そのめずらしいトンボは現われません。河原のあちこちでは、友達が思い思いの美華子へのプレゼントを作っています。

 健太は『ちょっとたくさん自分の友達を呼びすぎたかな』と内心思いましたが、美華子はまだ学校に行ってなくて友達が少ないから、普段も自分の友達や高太兄ちゃんの友達と遊んでいるのだから、きっと喜ぶにちがいないと思い直しました。できたらあの輪になったトンボを見せてあげたいとも思って、しきりに空を気にしています。左手をポケットにつっこんで、すっかりぬれてしまった残りの一粒のピーナッツを握りしめながら。突然昭子が、「わたし、帰る。お家で美華ちゃんのプレゼントを作るから。あした、何時なの」と、健太に声をかけました。

 「十二時だよ!!」

 「じゃあ、あしたね」

 と、手を振って、昭子は帰っていきました。

 一郎はかにと遊んでいるうちに、かにを家に持って帰りたくなりました。

 「ちょっと家からバケツ持ってくる」

 と言って走って行きました。

 太郎はひとりゴムマリで遊んでは、何か美華子にあげるきれいな花はないかと、目をきょろきょろさせています。

 洋一も真剣な表情で、すてきな花を探しています。青々とした葉っぱはたくさんあるのですが、美華子が喜びそうな花は見つかりません。

 「洋ちゃん、いいこと教えてあげるよ。こっちへおいでよ」と、健太が呼びました。健太は右手にあざみの花束を持って、河原の平べったい岩に腰を下ろしています。目は空中を絶えず見回しているようです。

 「何してんの。何かあるの」と洋一が走り寄ってきました。

 「洋ちゃん、輪になったトンボ見たことあるか」「ないよ。そんなのいないよ」「でも、いたんだ。きょう朝早く見つけたんだ。ほんとうだよ。もう一度見たいんだ。だから、洋ちゃんもここにすわって一緒に見つけてよ」

 健太は真剣です。洋一はそんなトンボ居るはずがないとおもいながら、健太がとても一生懸命なので、一緒に見つけることにしました。空が曇り始めて、すこし涼しく感じます。二人は仲良く岩にすわって、空中を見回しています。

 「輪のトンボが見つかったら、花束をそれに通して美華ちゃんに持っていこうよ」と、洋一がいいました。「うん、そうしよう」と、健太は大賛成しました。いいアイデアだと二人は思い、顔を見合わせて満足そうにほほえみました。

 「でも、美華に見せたら放してやるんだ」「うん、それがいいね」と、洋一も賛成しました。それから二人は、明日の美華子の誕生会のことを思い浮かべました。珍しいトンボの輪でまとめた花束を見た時、美華子がどんな顔をするか楽しみだし、友達もきっと驚くにちがいありません。黄色の蝶が二匹、鬼ごっこをしているように追いつ追われつしながら通り過ぎていきます。

 健太は、お母さんから聞いたことを洋一に話しました。ますます興味を持った洋一は、「早く来ないかなあ」と待ち切れないようです。風が急にざわざわと吹いてきました。二人の目にふんわりと小さな輪が、飛んで来るのが見えました。と同時にトンボの何万倍もあろうかと思われるぎらぎらと光る飛行機が、目に飛び込んできたように思ったとたん、「あっ、トン—————

 数億個の雷が一度に落ちたような地鳴りと、地面のミクロの砂塵(さじん)まで照らし尽くすような光と、全てを灰にしてしまいそうな高熱がおおいつくしました。後にはぶつぶつに火傷(やけど)をした岩が河原にごろごろところがっているだけでした。

 健太と洋一の姿は、その一瞬の光と熱と地鳴りにかき消されたのでしょうか、どこにも見当たりません。河原で花摘みに夢中だった和子の姿も太郎の姿も、もちろんありませんでした。

 健太の家では、お母さんが明日の美華子の誕生日に、約束のきな粉だんごを作ってやろうと、土間にむしろを敷いて石うすを出しています。大豆を煎って石うすをひくと香ばしいきな粉ができます。田舎のお婆ちゃんから、思いがけずも小麦粉が届いたばかりで、手持ちのドングリの粉と混ぜると少しはおいしいはずですし、量も多くなるのでお友達が増えても大丈夫だと一安心。重い石うすをひくのも心がはずみます。

 美華子は、出来上がったばかりのお洋服を胸に抱きしめて、お母さんの回りを飛びはねています。そして時々足を止めて、大切そうに広げて体にあわせては、「ねえ、着てもいい!」と、お母さんにおねだりしています。「あとでね」と、お母さんは忙しそうに大豆を石うすの小さな穴の中に入れながらゴロゴロとひき続けています。辺りにひきたてのきな粉のかおりがただよって、美華子の腹ぺこのお腹がグーとなりました。

 時計が十一時を知らせています。お母さんは急に手を止め、「もうこんな時間なの。お昼の支度しなくっちゃ。じゃあ、こっちへきてごらん。でもちょっとだけよ。明日着て見せるんでしょ、お友達に」「わあい!着てもい————

 突然、地球が破裂してしまったような衝撃(しょうげき)がはしりました。と、同時に健太の家は押しつぶされてしまいました。まもなくあちこちから火の手があがり、赤や青みがかった炎が地上をどこまでもなめ尽くしました。健太の家があった所には、高熱で表面がぶつぶつになった石うすが、ぽつんと残っているだけでした。

 高太は、防空壕を出ると芋畑に急ぎました。なるべく早く芋を掘り終えて麻子の家に行ってやろうと思ったからです。できればトマトも、もいで持っていけば、きっと喜んでくれるにちがいありません。美華子の誕生日にお母さんが、トマトも採ってくるように言ったから、麻子にも少し分けてやろうと思いつきました。

 空には、雲も出ていて時々太陽が見え隠れしたりするのですが、暑さは厳しくなるばかりで、(くわ)を振り下ろす度に汗が飛び散ります。なるべく大きめの芋を選び篭に入れ、今度は近くにあるトマト畑に行って赤くなったトマトを見つけては、篭に入れていきます。篭がいっぱいになったので、高太は顔や手の泥を手ぬぐいで拭いて、身支度を整えました。麻子にきたないと思われたくなかったから、いつもより丁寧に泥を落とし汗も拭きました。

 坂を下って麻子の家の階段を上りかけた時、麻子がちょうど家から出て来るのが見えました。高太は小走りに階段をかけ上がって行って、持ってきた篭を麻子の方へ差し出して、「麻ちゃん、これ芋とトマ—————

 麻子は、お母さんの熱が下がらないので、昨夜からずっと水で冷やしてあげていたのですが、やっと熱が下がってきたので回覧板を高太の所へ届けようと、玄関の引き戸を開けたところでした。高太が階段をかけ上がって来るのを見て、なんだかほっとした気持ちになり、麻子も二三段降りたところで、「高ちゃん、ちょうどよか—————

 二人がもう少しでお互いに持ってきた物を交換しようとした時でした。猛烈な光と熱と振動に一瞬にして巻き込まれたのは。麻子の家もかき消えて、高太も麻子も、悪魔の一吹きのような地上の全てを巻き上げてしまった竜巻に巻き込まれたのでしょうか、姿がありません。

 金さんは、暗い防空壕の中で気を失っていたのですが、いきなり暗かったのが昼間のように照らし出され、山が動いているような激しい揺れに正気を取り戻しました。大きな爆弾が近くに落ちたにちがいないと思いました。防空壕の壁から石ころや土が崩れ落ちてきます。ここに居ると生き埋めになるかもしれないと思い、やっとの思いで外に出ました。

 

 目の前に広がっていたのは、びっちりと並んでいた家々がすべてぺったんこにつぶれ、どこまでも見通せる広っぱでした。そして、あちらこちらから不気味な色をした炎が地上を這い回ろうといているではありませんか。

 金さんの立っている所は小高い丘で、浦上の町がひと目で見渡せました。緑におおわれていた健太の遊び場だった小さな滝つぼも、すっかり裸になっていて、川の流れが、くっきりと地図を見るように大地に線を引いているのでした。

 金さんは、一瞬何が起きたか理解できませんでした。

 頭に浮かんだのは、健太のいたずらっぽい笑顔でした。すぐに健太を探さねばと思い、ポケットの中の健太の小さな布袋を握りしめました。すると、手に触る物がありました。さっき仲間にピーナッツをあげる時は気がつきませんでした。急いでポケットから出してみると、くしゃくしゃな紙切れに健太からの伝言が書いてありました。ついでに、紙に挟まった一粒のピーナッツもぽろりと転げ落ちました。金さんは、慌ててピーナッツを拾ってポケットに入れると、紙切れを読みました。大きなひらがなで、『あしたは、いもうとの、たんじょうびで、きなこだんごを、おかあさんがつくります。だから、きむさんのかえりに、ふくろをなげます。たのしみにしていてください。 けんた』

 金さんはひらがなは読めましたから、健太のやさしい気持ちがよくわかります。早く健太の家に行ってみなければ、と自分のぐあいが悪いこともすっかり忘れて、丘を下り始めました。

 ところが、たくさんの人々が列をなして丘のほうへ上ってきていて、金さんが下りるのを止めるのでした。行列の後ろの方には、薄い布を引きずってよろよろ歩いてくる人がいます。良く見ると、布ではなくその人の皮膚でした。顔が焼けてひぶくれして、誰か見分けがつかないような人、手足に火傷をして今にも倒れそうな人、髪の毛が総立ちになって目の玉が飛び出した人など、とても悲惨な姿の人々でいっぱいです。金さんは、大きな人の流れに逆らえなくて、押されるように同じ方向へ歩き始めていました。

 浦上地区は真っ赤な炎に包まれ、空はもうもうと燃え上がる炎と煙に赤黒く染まり、とても人の世とは思えない情景でした。

 夜になって、かんかんに怒ったような真っ赤な月が東の空に不気味に輝いて、地上の惨状を照らし出していました。金さんは歩き疲れ、山沿いの道端で倒れるように寝込みました。ずいぶん歩いたように思うのですが、実はまだ浦上地区の丘をうろうろしたにすぎませんでした。

 金さんの口の中には、一粒のピーナッツが入っていました。あれほど何も食べたくなかったはずなのに、口の中に何か入っていると元気が出るような気がするのでした。

金さんの回りには、傷ついた人々が大勢横たわっていました。金さんはピーナッツをしゃぶりながら、どうしても健太の家まで行ってみようと思いました。

 翌日、朝早く起きるとそろそろと丘を下り、健太の家の方向へ歩いて行きました。いつの間にか浦上天主堂のあった所に来ていました。大聖堂は見る影もなく破壊され、マリア像が手をもぎ取られ、鼻をそがれて悲しげに空を仰いでいました。途中にある小学校には元気に遊ぶ子供の姿はなく、まっ黒こげになった人間が運動場のあちこちに見られました。

 金さんは逃げるようにそこを離れると、大きな木を目印に健太の家を探しました。木はかろうじて残っていましたが、大きな幹にがらんと穴が開き、むこうの焼け野原が()けて見えます。家も人影もなく、ただぽっつんと石うすがありました。金さんが石うすの上段を持ち上げてみようとすると、くっついたようになかなかとれません。やっとのことで持ち上げると、黒こげの大豆がまだ粒々のままで残っていました。きな粉がこげ茶色になって石うすにこびりついていて、すこし香ばしい薫がしています。金さんは無意識にその大豆ときな粉をきれいに集め、健太の小さい袋に入れました。辺りは、異様な匂いと地面からむんむんする熱が上がっていました。

 金さんはもう一度人影がないか確かめ、いつも健太が遊んでいた河原へ下りていきました。そこには、丘の上から見えなかった恐ろしい光景が広がっていました。おそらく水を求めて怪我をした人達が集まってきたのでしょう、折り重なって大勢の人が死んでいました。そのすべてがあまりにも変わりすぎていて、誰が誰なのか分かりません。中には、犬や猫や大きな馬まで焼け死んでいます。この中から健太を探すのは、難しいことでした。もしかしたらどこか避難していて、ひょっこり『金さん、おれ!』って出て来るかもしれないと思い直して、金さんは歩き出しました。でも、浦上地区の子どもたちは、ほとんどが二度と戻っては来ませんでした。世界で二つ目の原子爆弾(げんしばくだん)が落とされ、子どもたちの言いかけの言葉をかきさらっていってしまったのです。

「あっ、トン————

「わあい!着てもい————

「麻ちゃん、これ芋とトマ————

「高ちゃん、ちょうどよか————

健太、美華子、高太、麻子、洋一、和子、一郎、太郎……

 

 それから二十年近くの歳月が流れました。祖国に帰った金さんは、長い間体の調子が悪く、あまり働くことができずに貧しい生活が続きました。幸い家族に恵まれ、かわいい男の子もでき、少しずつ幸せになってきていました。男の子が大きくなるにしたがって、健太のことが思い出されました。戦争に巻き込んだ日本は許せなくっても、自分を救ってくれた日本の少年には感謝を忘れたことはありませんでした。

 金さんは、日本の新聞の『尋ね人』(たずねびと)の欄に健太のことを出してもらい、健太のお父さんを探し当てました。健太のお父さんは、戦地から無事に帰ってきたのですが、家族は誰も生き残っていませんでしたから、家族の最期がどうだったか全く分かっていませんでした。健太のお父さんも家族の消息を知っている人を、必死に探しつづけていたのでした。

 

 金さんは、二十数年目の八月九日、あの大きな楠のある庭に立っていました。楠は昔のように元気に葉っぱを付けていましたが、かつて美華子をすっぽり抱きこんでくれたり、健太が金さんを毎朝待っていた幹の窪みは、筒抜けになって風が吹き抜けていました。

 そこには、もう一人白髪の目立つ男の人が、金さんの手をしっかり握って涙をながしています。健太のお父さんでした。

 二人の手の中には、古ぼけた小さな袋がありました。袋の中には、健太が金さんに書いたあの朝の伝言と炭のようになった一粒の大豆が入っていました。金さんは、あの日お腹をこわして死にそうになっていた自分が助かって、元気な子どもたちが犠牲になってしまったことが信じられませんでした。これまでも、きっと健太はどこかで生きているにちがいないと、かすかな望みをつないできたのでした。そして、今ここに自分が立っていられるのは、あの時健太がくれたピーナッツと石うすの中に残っていたわずかな大豆とその粉が命をつないでくれたからだと、健太のお父さんに伝え、心から感謝しました。

 二人はいつまでも小さな袋を握りしめて立ちつくしていました…。

 

おわり

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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鶴 文乃

ツル フミノ
つる ふみの 作家 1941年 長崎県に生まれる。

掲載作は、2000(平成12)年8月サンパウロより刊行。

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