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病間録

   知 己

 

 何人(なんぴと)も他に知られたしの念あり、千万人の(あだ)なる喝采に動かざるものも、尚ほ其の一人(いちにん)の友に知られんことを求め、一代の盛誉をあなかまと聞きすつるものも、尚ほ知己(ちき)を千載の後に期す、人は己れを知るものなき生活に()ふる(あた)はず。曠野を家とし、岩洞を居とし、世を無きものと住みわぶる窒欲(ちつよく)枯禅の徒も、尚ほ中心いづこにか知己を求むる声あり。人に知られんことを求めざるものも、尚ほ吾れと同じ心持てらん何物にか知られんことを求むる、是れ実に人の社会的性情の自然の発動にあらずや。

 他に知られんことを求むといふ、而かも吾人(ごじん)は人の私心私情に知られんことを願はず、其の朗かなる公明の心に知られんことを願ふ。こゝに訴ふるものは、他の個人意識にあらずして、遍通意識也、主観意識にあらずして客観意識也。かくして吾人が他に知らるゝを求むる心の、真実なればなるほど、其の知己たるべき人の標準を高うし醇化し、(つひ)に其の一切の(あだ)なる、うつろひ易く、揺ぎ易き一時性、偶然性を()き尽くして、之れを常恆不易、正確無謬(むびう)の人となす。されば人に知らるゝを求むる心は、之れを究竟(くきやう)すれば、やがて神に知らるゝを求むる心にあらずや。極めて実際気質なりし孔子だに、知己を人以上の境に求めて、知我者其天乎(われをしるもの、それてんか)と言へり。

 吾人は神に何を知られんことを願ふ()。吾が価値也、真情也、真要求也。吾が価値に対する自信あり、吾が真要求に対する自覚ありて、吾が心始めて神に嚮往(きやうわう)す。神に知られんことを願ふものは、先づ吾れに神に知らるゝ要求、自信無かるべからず、神を呼び求むるものは、先づ吾れに神を呼び求むる権威無かるべからず。吾れに抑遏(よくあつ)すべからざる旺盛なる要求若しくは自信ありて、則ち神を仰ぐの一念(せつ)也。

 吾れ自ら吾が価値要求を自覚自信す、この自覚と自信とありて、尚ほ何為(なんす)れぞ神に知られんことを願ふぞ。答へて曰はく、吾が価値、要求の自覚自信といふもの、是れ吾が私心に媚びて得たる浮誇矜驕(ふこきんけう)の沙汰にあらずして吾が心の客観的遍通的方面に訴へたる意識、一言すれば、吾が心之天に知られたるの意識也。真の自信は、畢竟(ひつきやう)すれば、吾れ自ら吾が心之天に知られたるの意識にあらずや。何人(なんぴと)か吾が心之天を敬せざる、何人か吾が心之天に知らるゝことに、至高の満足、窮極の安心を見出でざる。絶対的懐疑白眼の徒は言はず、(いやし)くも厳粛なる一念を以て、人生を観じ、其の真摯なる努力を泡沫の夢となさゞる限り、何人(なんぴと)か暗々の(うち)、吾が心之天に真認識、真評価の知己を求めて、こゝに究竟の安立を託せんとはせざる。自家妍媸(けんし)自家知。而して吾が、心之天に訴ふる心ぞ是れ取りも直さず神に知らるゝを願ふの心なる。神に知られんと願ふ心は、吾が心之天に知られんと願ふ心と同じ心の根柢より咲き出でて、其の一層調べ高く光強く震動煥発せる者にあらずや。自己の価値及び要求に対する真自覚と、神に知られたる心とは所詮離れたるものにあらず。一は主観に(くわい)し、他は客観に溢れたる也。古人が浩然天地の間に塞がると言ひしは、此の主観信の客観信に溢れたる心也。()のウォームスの大会(だいゑ)に無前の自信を発揮して「神吾れを(たす)けよ」と叫びたる健児の声を聴かずや。大なる自信は神に()く。されば又孔子が知己を一種の霊智ある天に求めたるも、一直に支那三代の因襲的信仰の片影とのみ見るべからず、少なくとも彼れが之れを発したる刹那には、(むし)ろ其の盛大なる道徳的自信の、客観的に発展し煥発(くわんぱつ)せるものと謂ふべき也。

 

   価 値

 

 価値は之れを評価する自覚と、相錯(あひまじは)り相待つ。一切の価値は、之れに価値を附し、之れを価値ありとする自覚者の在るありて、始めて之れを言ふを得べし。()し人生に真善美の実在するを許るさば、同時に()た真善美その者の価値の評価者、自覚者あるをも許るさゞる可らず。されど謂ふ所の自覚者を以て個人覚のみとは見る可らず。個人覚には生滅あり、而して真善美には生滅あらざれば也。天地の破壊、人類の滅亡と共に、個人覚の全く地上に跡を絶つ時ありとも、真善美は尚ほ(とこし)へに其の光輝ある実在をいづこにか有すと思はざるを得ざれば也。吾人は一切の個人覚を考へ去るを得べし、無きものとするを得べし。(つひ)に真善美の理想組織そのものを考へ去る(あた)はず払拭(ふつしよく)し去る能はず、無きものとする能はず。真善美は吾が一心の所産にあらず、吾れは之れを左右する能はず、むしろ吾れは其の客観的権威に左右せらる。真善美の来たるや、吾人は時として唯々(ゐゝ)之れを打仰いで個人覚に受け納るゝ(ほか)なきが如き観をなす。この消滅的納受の一種微妙なる機関を有するもの、是れ特に天才と称せらるゝ者にあらずや。驚くべきかな真善美の現前、誰れか能く其の深秘なる来路を(たづ)ね窮むる、吾れ真善美を作ると言はむか、吾れ実に之れを作りぬと(おも)へる刹那にも尚ほ吾れは外より与へられたる(のり)に従へることを意識す、意識せざる能はず、吾が自ら新たに踏み固めたりと思ふ道は、是れ既に太初より坦々として走れる大道にあらずや。されば真善美は外より来たつて吾れを(ばく)すと言はむか、極めて然らず、()(むし)ろ来たつて、吾れを釈放し吾れを自由にす。吾れの其の姿、其の声に於けるや、(あだか)も懐かしき古里の月を観、古里の物語を聴く思ひあり。かくばかり吾れに親しくして、而かもかくばかり吾が個人覚の力に()つこと少なき真善美は、そもそも何物の力に()つて能く自ら在りとするの客観的権威を有するぞ。若し、吾人個人覚を超越し、若しくは其の根抵に深処遍在する大覚の在るにあらずば、人生に唯一の意義を附する真善美の実在は要するに個人の主観の空華幻影に過ぎざるべし。天地に遍満せる大覚の、其の根抵となることなくして、真善美は能くその実在を保ち得る()。真善美若し、個人覚の生滅を超すとせば、吾人は(すべから)く謙譲敬畏の心を以て其の実在の根拠を大自覚者に帰すべき也。真善美は単なる主観の理想にあらず真善美は人生の中空に淡く浮かべる虹霓(こうげい)にあらずして堅く、(さか)んに燃えのぼる不尽の太陽也。真善美の光明を慕ふものは又その由つて発し来たる太源の大自覚者に渇仰(かつがう)(おもひ)()せざるを得ず。真善美の為めに戦ふは神の為めに戦ふ也。

 

   理 性

 

 宗教上の信仰が感情分内の事にして理性と相渉(あひわた)らざるは少しく実験あるものゝ否まざる所なるべし。宗教は神秘なる個人の感情に根ざせる事実なり、言説すべからず、分析すべからず、概念組織に構成すべからず、猶ほ感覚てふ具象的事実の、(つひ)に理知の分析説明を()るさゞるが如し。然らば宗教の信仰は全く理性と相渉らざる独立の者なる()。世の多くの宗教家は、是くの如き(けん)に住して、信仰を全く理性の権能以外に立たしめんとす、信仰果たして全く理性の権能以外に立つものなる()。之れに答へて然りと言ふものは、是れ畢竟理性を以て論理的若しくは推論的理性と解したるなり。()くの如き理性の職とする所は、唯々既存の事実と事実との関係を辿りて、之れに条理あらしむる也、自家撞著なからしむる也、論理あらしむる也、所謂(いはゆる)理窟に合はしむる也。而して事実そのもの理想そのものを立するの一事は(つひ)(あづか)らず。理性若し唯だ是くの如き意義職分を有するに止まらんか、其の信仰の究竟相と触接の点なき弁を()たざるなり。信仰の極処が、個人神秘の感情に根ざせる事実なること、(さき)に言へるが如し。所謂(いはゆる)理性の是くの如き事実に面する、唯々之れを所与の事実として打仰ぐあるのみ、摂受するあるのみ、其の意義及び価値を理解し、批難し評価する如きは全く不可能とする所也。誰れか美意識の究竟相に是くの如き理性の力(あづか)れりといふ。誰れか宗教的信仰の極処に是くの如き理性の交渉ありといふ。

 されど理性の義これに尽きず。前言の理性は唯だ特殊なる、而して(むし)ろ狭隘なる一義の理性を指斥(しせき)したるに過ぎず。信仰と理性とを(きり)離すと見るは、要するに是の狭隘なる一義の理性をのみ眼中に置いて、之れを信仰と対せしむるがゆゑ也。されど若し理性を解して、唯だ之れを論理的推論的のものとせず、更に之れを以て是くの如き論理、推論を()るの基礎、根拠となるべき究竟の原理、若しくは、理想其者を立する一性能と見做(みな)さんか、此には信仰対理性の関係は新たなる面目を()け来たる。この一義の理性、是れ吾人全人の理想を与ふる立法的統一的、直覚的理性にあらずや。この一義の理性、是れ唯だ吾人の心の知力的方面のみならず、更に意志感情の要素の大いに(あづか)る所ある、一言すれば、深く吾人全人の要求に根ざせる所ある理性にあらずや。而して又この一義の理性、是れ取りも直さず前解狭義の理性と並びて、古来慣用せらるゝ所にあらずや。

 信仰の究竟相は毫も理性の力に()たずとは一の理性に()いては言ひ得べし、他の理性に即いては言ふべからず。夫れ信仰は全人の理想と調和して、始めて充実すべし。信仰の煥発するや、全人格の根柢よりす。信仰()し全人の理想と調和を欠き、若しくは中に人格の二元的分裂を蔵せんか、忽ち無限の空虚を生ずべし、光なく、力なく、萎靡枯槁、能く信仰として存在するなかるべし。而して是くの如き全人の究竟理想を吾人に付与するもの、謂ふ所の直覚的理性に外ならずとせば、信仰亦(つひ)に理性の権威の下に立つことを否むべからざる也。何人(なんぴと)か有意又無意に自家信仰の窮極の理由根拠を此の意義の理性に訴へざる。之れに訴ふる所なしと言ふは、是れ(みづか)(あざむ)けるのみ。信仰若し此の理性の直覚に参する所なからんか、其の全人に占むる一要素としての正当なる位置を失ふべく、其の活発なる全人的交渉、はた(こゝ)に杜絶すべし。信仰その者の吾人の全性情に占むべき不動の位置を指示するもの、(やが)て理性究竟の直覚を措きてあらざれば也。何物か信仰を信仰そのものとして存立せしむる、理性の究竟の直覚のみ、其の直覚の掲ぐる理想のみ。直覚的理性は能く全人の理想を掲げ来たりて、吾人一切の要求に個々正当なる意義と価値とを附して、互ひに相調和統一する所あらしむ。理性は是れ至高の法廷にあらずや。信仰亦実にこの至高の法廷に参して、自家存立の権利を要請する外はあらず。

 若し古人と共に「不条理なるが故に信ず」と言はむか、其の謂ふ不条理なるが故に信ずることの窮極の理由もしくは根拠を与ふるもの、是れ亦(つひ)に右いふ理性の力にあらずや。若し又信仰は理性(狭義の)を超すと見て、之れを理性以外の境に護らむか、此く信仰を理性(狭義の)の畛域(しんいき)より別かちながら、尚ほ其の相当なる存在権に是認の印を捺するもの、是れ亦竟に右いふ理性の評価指導に()つにあらずや。謂ふ所理性の直覚の内容なるもの、人々(にんにん)万殊なるべし、而かも何人(なんぴと)か竟に能く理性最高の統一的指導以外に立ち得る。頑信迷溺の徒、尚ほ自家分上の理性に自ら是とする究竟の根拠を託すべし。感情としての信仰は自家に局する所あり、自家以外に眼を放ち、自他の関係を較して其の全人組織に占むる位置を見定むる如きは其の能くせざる所、而して是れ(ひと)り理性の能くする所にあらずや。狭義の理性は唯だ能く事実と事実との間の論理上の関係を定むるを得、而かも能く事実そのもの(信仰、原理、理想)を立すると共に、其の事実相互の間の価値上の位置有極的意義を規定するもの、是れ(ひと)りこゝに謂ふ直覚的理性の権能にあらずや。信仰は不断に理性の感化を受く。信仰は不断に理性の大気を呼吸す。理性の大気は、人により、時によりて、極めて稀薄なることあるべし、極めて不透明なることあるべし、極めて浅陋狭局なることあるべし、而かも猶ほ信仰はこの大気を呼吸して其の不断の感化の中に生活せざる能はざる也。

 

   

 

 擾々(ぜうぜう)たる人の世を眼下に()て、無限に高く独立軒挙する是れ吾が一の(ねがひ)也、一杯の水をだに、熱き心をこめて、世の哀れなる同胞に頒かち与ふる、是れ吾が他の願也。曠達と細心と、白眼と、熱誠と是れ吾が(ふた)つながら獲むと欲する所也。吾れは無限に我を拡大すると共に、無限に、我を縮少し、無限に我を肯定確立すると共に、無限に我を否定抛擲(はうてき)せんことを願ふ。自家実現を理想とする希臘(ギリシア)意識と、克己献身を理想とする基督教意識と、共に(あつ)めて吾が一心の有とせんこと、是れ吾が本願にあらずや。何ものか能く此の矛盾を結ぶ(えに)しの(いと)たる。吾れ之れを暗黙の淵に(もと)めて獲ず、之れを深秘の海に尋ねて会はず、吾れ之れを索めて(つひ)の姿にその面影を得たり、(ひそ)かに(おも)ふに、愛こそは独りこの名を負ふに堪へたれ。夫れ愛人愛神は広く一切の矛盾を(をさ)めて、深く之れを一樹の根柢に(つちか)ふ。我を殺してやがて活かすものは愛にあらずや。我を棄てゝやがて獲るものは愛にあらずや。我を(いやし)うしてやがて高うするものは愛にあらずや。愛は人生に於いて最も広き波紋を描くと共に、又最も深く其の水心を点破す、又(たと)ふれば、愛は猶ほ高く天翔(あまか)ける雲と低く下ゆく水と、末の姿を隔てながら、心一つに澄み通へるが如き()(いにしへ)の神人が、一気高く天地の実在に迫りて、「吾父(わがちゝ)」の意識に(のぼ)れると共に、卑く身を世の無告者の(かん)に下だして、其の罪障に涙をそゝぎ、其の弟子の足をさへ()づから洗へる、是れ(あに)愛の大統一力にあらずや。愛を外にして、かゝる荘厳なる矛盾を結ぶもの、()たあるべしや。

 人ありて、愛は無私ならざるべからず、全く己れを献ぐる純愛ならざるべからず。若し愛そのものに依りて得る心の喜びをだに一毫計較の中にまじへなば、純愛の全徳既に()けたるもの也と言はむ()。されど、誰れか是くの如き純乎たる無私愛が吾人の性情に最高満足を与ふる事実を否むものぞ。而して又誰れか愛に(つゝ)まれたる如是甚深(によぜじんしん)の悦びを獲むとは願はざる。己れを献ぐるは愛の一面のみ。愛は己れを献ぐると共に、()た己れを()。吾人は吾が全熱愛を(あつ)むる者の中に真生命を見出だし得べきにあらずや。死之術と共に、生之術を併せ教ふるものは愛也。愛ばかり己れを遠く(なげう)ち去つて(ふたゝ)(ちか)く己れに還らしむものはあらず。無我と我と、無限に(たもと)を分かちながら、左右頭々原(さうとうとうげん)に逢ふ者、是れ愛に非ずや。法律の蹄係(わな)は膚寸の我を捕らふるのみ良心の声は我を(いた)ましき二元に()く。それ唯だ愛()、我に迫らず、我を()かず、(うち)より密かに我を(あたゝ)め養うて、潤沢の一気、渾然(こんぜん)徹せざる所なからしむ。愛は外より法を掲げずして、(うち)より自づから之れを成就す。愛に依りて、己れを()つるは是れ中心喜びて己れを捐つる也。而して中心喜びて己れを()つる、是れ真に己れを獲るものにあらずや。義務に依りて己れを捐つるものには未だ中心の喜びあらず。其の喜びには一味の空虚あり、凝滞(ぎようたい)あり、深からず、(あまね)からず、最も富贍(ふせん)なる生命は、吾人之れを義務に於いて見ずして、愛に於いて見る也。

 数多(あまた)の惨烈なる人生の矛盾に、最も深く且つ豊富なる総合点を与ふるものは、夫れ唯だ愛()。真に愛の(こゝろ)を描くものは是れ髣髴(はうふつ)天地の至高者を描くものと謂ふべき也。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/01/19

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綱島 梁川

ツナシマ リョウセン
つなしま りょうせん 思想家 1873・5・27~1907・9・14 岡山県上房郡に生まれる。神童とうたわれ15の少年時に受洗熱心の基督者となって上京、坪内逍遙、大西操山の薫陶下深く「早稻田文學」の編集にかかわりかつ旺盛に文学美術の論説を発表したが、その生涯は結核との闘病ともいえ、その間に人格的神への思慕に誘われて光耀・見神の体験を深めて特異の境地に到達、熱烈の支持をあつめながら僅か35の生を終えた。

掲載作は、近代日本を一面強く感化した基督教的愛の歓喜と決意を披瀝する記念碑的な言説。1904(明治37)年10月に書かれ後に同題の著に収められた。

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