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梔子(くちなし)の門

  プロローグ

 

鍵のかかっていた門扉をお嬢さんがひらいた向こうに北田玲子さんが現れた時、それまで不安で緊張していた私は 「まあ、いらっしゃいませ」という昔とちっとも変らないやや甲高い優しい声を聞いて、自然に彼女の顔を見ることが出来て、ほっとした。アルツハイマーと聞いて予想していたのとは違って、彼女は様子はあまり変わっていなかった。多少白髪になっていたが、こちらの三人はもっと、純白に近い人もいる。私達が一人一人学生時代の旧姓を名乗って挨拶するのを 「山根さん? そうお」 「村井さん、ああそう」 「峰さん、そうお。 私わかんないの」と言われると、やはりそうかとは思ったが、そこに本人が忘却を悲しいと思ったり、相手に失礼かとおもったりする翳りがないのがむしろ気楽である。 私達は母屋と庭続きになっているお嬢さんの家に通された。面窶(やつ)れもなくて相変わらずの色白の彼女を、娘の千鶴子さんは、何もしないで寝てばかりいるから、一頃よりむくんだの と言うが、初期癌の手術の後はずっとひどく皺だらけになっていたそうであるのに、今は戻って娘時代とそれほど変らぬ面差し。ものの言い方がかなりたるくゆっくりしているのも、昔の特徴のある穏やかな物言いとひどく変ったわけでもなく、病んだ人を見舞う折の気後れが私達の中から次第に消えていった。 彼女は 「ここは何処なの」 と時々見まわす。 「千鶴子さんのお家でしょ」 とか 「千鶴子の家じゃないの、ばあば」と言われると 「ああ、千鶴子さんの家なの? 私始めてだわ」と、その度に珍しそうにあたりを見まわす。 「綺麗にしてらっしゃるわねえ、ここは」 と何度も毎回感嘆していう。娘さんは 「やだわ。千鶴子んとこへ毎日お食事にきてんのに」と嘆くが、 「千鶴子? ああ、千鶴子はまだ帰らないのかしら」 と呟く。 幼い娘の記憶はあっても、今の娘さんとどうしても一致しないものらしい。 「千鶴子さんが沢山いるのよ。娘の千鶴子・・お手伝いの千鶴子さん・・」と娘さんはかすかに眉根を引き()らせた。 玲子さんは私達が代わる代わる昔のことなど話しかけると、記憶していないことも殆どだったが、それでも話しかけの一つ一つには、分らないとか、忘れたとか、知らないなどの言葉が多くても、決してとんちんかんではない。ただ、すぐ忘れてしまうらしく、同じ話題が何度でも繰り返される。そしてその会話のちょっとしたとぎれ目に、「ここは静かねえ」 と幾度も声を出す。 「テレビでもいつも見ていらっしゃるの」と聞くと、全く刺激がなくてはいけないからとテレビやラジオを殆どつけっぱなしにしているのだそうだが、彼女は見るでもなく聞くでもなく殆ど独りの時は横になっているということだった。けれども同じような思い出話を何回か繰り返すうちに、五十年も昔の学生時代の記憶の断片は少したぐりだされて来たらしくふいに名前を呼んだり、「私達いつも何をするのも一緒だったわね」と峰さんにすりよって肩に手をかけたりするようになった。そして誰かが私の旧姓を口にした時、耳にとめて「あ、山根さん。なんか小説を書いてらしたわねえ」と言い出した。 「まあ、よく覚えていて下さったわねえ。あの頃よくバレーボールを一緒にしたわね」 と声をかけると 「今何処でどうしていらっしゃるのかしら」 という。 「私よ。ここにいる私よ」 といっても、じっと顔を見るのだがそれは分らないらしい。 ともかく脳萎縮という病の悲しさはあり、日夜心を砕く娘さんの苦労も想像の外であろうと思えるが、ご当人が憂いも消え去った今、少なくとも短い時間の訪問者である私たちにはとりとめのない昔話でも辛い時間ではなくなっていた。

 

「こんなものが出てきましたの」 と最後に辞去する時になって千鶴子さんが両手に抱えて出てきたのは十数冊のノート類だった。 「昔の、母の娘時代からの日記や・・何やかやと書きとめた、古いものが多いですけど、活字にならなかったものをいつか整理しなくてはと思ってるのですけど、もしかしたら少なくとも若い時のは、その頃をご存知の方に目を通していただけたら・・やはり母の生きた証として整えて残してやりたいなんて、不遜なことを考えるのですけど・・文才のない私にはまだまだそれには至らなくて・・」  それらの数冊はほんの十代始めからの日記であったが、あとは折々のメモ。そして比較的新しい方は、再びまめに記されるようになった日記であるらしかった。  「これはもう今の母には全く意味がなくなってしまったし、自分の書いたものとも分らなくなってまして、私にはどうしようもなく・・ でも、沢山の原稿類なんか処分するにしのびなくて・・」 「あ、処分なさるなんてとんでもない。私に見せていただけたら・・」 私は思わず声を挙げてしまった。 「玲子さんの半生は、玲子さんと私達の世代は、戦前の日本で一般庶民の女性が、男女差別の現実の中でそれぞれ苦労してきた世代ですし、それに実は私の青春は玲子さんとの手紙のやりとりの討論で培われた面が多いんですの。あの時私の青臭い議論なんかを怜悧だった玲子さんの側でどう受けとめていらしたかを今知ることができたらきっと・・」  と私は一緒の友人達を見かえって続けた。 「彼女が踏み越えようとしたものが何であったか分るかもしれないわ。道はあれっきりわかれてしまったけれど、女として同じ荷を抱えてきていると思うの。玲子さんのためにその生き方をしっかり見つめてあげるのが同じ世代の女の・・」 私にそんな大それたことが出来るだろうか。しかしこの瞬間、私は玲子さんの半生、といっても記憶を喪失してしまった今の彼女には、それまでの自覚的な生涯のすべてといっていいだろう生活を書き上げることで、同じ世代の過去を生きてきた自分達女性の或る側面を、間接的に自らも見ることができるのではないかと閃いたのだった。他の二人はちょっとびっくりしたようだったけれど、すぐに私がそれを預かることに賛成した。この二人の友人共に有り余るほどの才能を持ちながら、当時の良妻賢母育成の女子高校の見本のような女性として、家庭に浸り、ただ温順なだけでは済まされない心を、一人は短歌に、一人は日本画に、とそれぞれ趣味の才を磨いているひとたちである。 「それでしたら・・」 と急に千鶴子さんは乗り出すようにノート類を手渡しながら、しかしすぐに自分の性急さに気づいてはにかみに戻ったものの、噴き上げるように言葉を重ねてきた。 「それでしたら、厚かましいのですが、母の雑多な原稿類も、もし目を通してくださってお気がつきのことがあれば・・」

私が力の不足はもとより、伝記などというものは好まないなどと広言してきたにも関わらず、一人の女の生涯を書く気になったのは、このような経緯があってのことだった。そもそも伝記の人物像は通常伝記作者の眼鏡から出ることはないという限界を踏まえてのものと承知しながらである。

 

北田玲子は東北人の内向性を生涯超えることができなかった。それは必ずしも気弱ということではない。むしろ外部の状況変化にさらりと即応変化できない頑なさ。或いは一見反応の鈍い弱さに見えるかもしれないが、しかし外の変化に鈍感なのではなくて逆に敏感過ぎてその先まで見えると瞬間的に態度を決めかねるというところもあるのだ。尤も玲子自身は東京で生まれ、東京で育ち、殆どは東京で過ごしている。といえば東北人といえないのかも知れないが、両親共が学校を出た後東京へ出てきた人で、特に母は東北の中でもいわゆる「おしん」の山形。そして仙台のミッションスクールを出てから伝道に暫く携わったクリスチャンでそれゆえ家庭の中ではきびしい躾をして三人の子供を育てた。

厳しい躾が内気さを助長するというものでもなく、その枠付けが却って反発で外向することもあるが、玲子は結局生涯その枠を超えられなかった。ともかく彼女は母としんのところでは非常に似たところがあった。その母の運命への忍従の強さは結婚にも端的に現れていた。母は結婚式の日にはじめて父を見たという。父の親友と母の尊敬していた先輩の宣教師とが友人で、遠い会津と東京との縁が結ばれ、母は(父もそうだということになるが)仲人を信頼して見も知らぬ相手と結婚した。その時代にはまだ家と家が結婚の主体だったのも普通だったから、それでも個人と個人の問題だという意識に目覚めていた点ではまだ新しいほうともいえたのかもしれないが。とにかく「神これを合わせ給う」を全面的に信頼してきたというから玲子の世代には考えられぬことであった。そして結局真面目で誠実ではあるが我の強い夫と金婚式まで連れ添い、晩年には時折夫婦そろって幼い頃の何年かを過ごした思い出多い地をかなり時間をかけて楽しんで帰京して間もなく、心臓の発作で急逝した。 ついでながらその時代の、家庭で日常生活を妻に全面的に依存してきた日本の男の場合、たいてい妻の死後三年くらいでなくなるといわれていた。が、まさしく父もその三年と三ヶ月後に同じ心臓発作で亡くなった。先ずは平凡ながら収入のわりには浪費家の夫の陰で自分の着物すらろくに買わないやりくりに苦労しながらも、平均的に幸福な夫婦ということだったろう。その点で玲子は時代が違って、そんなに「目を開いたまま飛び込む」ような結婚はしなかった。といっても、結婚は或る意味では皆賭けといえるのだろうか。人は多かれ少なかれ、目をあいたままそれをするのかもしれないが。

玲子にも初恋というものがあった。それは外目にはどう見えるつまらない、意味のない事件であったにしたところで、とにかく初恋はなんらかの消え難い傷を残す。初恋のトラウマが人のその後の人生を方向づけるとさえ言って差し支えないかもしれない。いや、その恋がどのようなトラウマを残すかはその人生来の何かによって決まるのかもしれないが。とにかく初恋は、そこから或る方向付けが決定的になされる転回点となりがちなことは、ほぼすべての人にいえるかもしれない。

玲子は学校を出るとすぐ文部省の民族研究所に勤めた。所長は岡村博士。まだ十五年戦争のさなかであったので、民族研究はアジア諸民族、北方民族、それにオーストラリア、南洋諸島等々が主で、ヨーロッパやアフリカ系、むろんイラン系等の諸民族は扱っていなかった。(尤もそれらについての知識も民族については世界的に流動関連があるからかすべての研究員が玲子からみると驚くほど持っていたようであるが)。研究室は数個、岡村研究室、岩田研究室、江口研究室、八代研究室・・というふうにそれぞれ室長の名を冠して教授、助教授にあたる研究者、助手にあたる一、二名、計四、五名くらいづつで構成。 が、若手の助手といえどもそれぞれの専門で既にりっぱな研究者であったようだ。玲子は女子大学という名の専門学校の英文科を出たが、女性を大学から閉め出していた時代なので、文部省「雇」という名の研究室付きだった。役所では雑務のつもりで女性を各研究室につけたらしい。ところが岩田研究室に配属された玲子は、むろん朝夕の研究室の掃除片付けはするが、教授が自分の研究室にあるどの本を読んでもよろしい、翻訳は自分でしてしまうから特に用はない。自由に勉強してよろしいという方針であったので、氏の原稿の清書をときたま手伝うくらいのもので、あとはすべて勉強に使うことが出来て非常に恵まれた。おまけに研究所では毎週一回、交互に各研究室から研究成果の発表がある。それに正規の研究員でない玲子達女性数名も参加してよいと言われたので、男尊女卑の社会で大学教育を知らなかった玲子にとって、こんなに自由な差別の少ない境遇は目を洗われる思いであった。研究発表はむろん民族学の素養のない玲子にとって殆どよくわからないことが多く、この、何もかも戦争戦争の目標へ駆り立てる社会で、戦争に直接関係のなさそうな、聞いたこともない民族の名すら混じって、彼らの祭忌がどうの、呪術がどうのまでいう話は、全く珍しいから興味はつぎつぎにたかめられてはくるものの、社会に出て何かすぐ社会生活に意味を持つ仕事をと模索しはじめていた玲子には一方に密かな焦りも払拭できないまま、日が過ぎていった。

もう戦争も末期、日本の敗戦をおおっぴらに匂わすことは出来ないが玲子のような未経験の若者にもはっきり感じられていた。ところがこの研究所では戦争批判はおおっぴらだった。というより、別にあらためての批判ではなくはじめから日本の侵略がよくないという判断のもとですべてが語られるのであった。新聞の日々のニュースにも研究員達はアジアの事情によく通じていて、ニュースの裏を的確に読み、預言的な判断が討議されるのが日常だった。玲子は始めてマスコミの裏表を見通す力を次第に覚えて行く。

だんだん東京にも空襲が多くなってきて、勤務時間中にも警報が鳴ると防空壕にはいらなくてはならなくなる。すると研究員らは皆室からでてくるが、互いに顔が合うのが好機とばかり、そのへんに突っ立ったまま研究情報の交換や討議にはいってしまう。ただ、それが聞きたくて傍らに立っている玲子達には、「お嬢さんがたは防空壕にはいりなさい。僕らは貴方達にたいして責任があるから」 と結局追いやられてしまうのであったが。真っ青な高い空を銀色の胴体を輝かせて美しいB29が悠々と編隊を組んでわたってゆく。自分の頭上に爆弾を落すために飛来しているのだと思っても、思わずみとれて仰ぎ続ける。日本の高射砲の弾煙はずっと下のほうで散発的にはじけては消える。 「あれだものな。全然届きやしない。はじめから科学の進度は桁違いのくせに」  戦争で学問研究の予算を押さえて軍事費ばかり攫い取ってしまうから、益々後れて負けるのだと姦しい。最終的に防空壕へ追いやられるまではできるだけ玲子もそういう話をそばで聞いていた。年配の先生方は紳士的で、決して玲子達の存在を無視することはなかったが、その頃の日本では一般庶民の男では女性に親切にすることに慣れていなかった。慣れていなかったというより出来なかった。たまに親切そうにするのはたいてい下心があったからで、それがあると思われたくないと、必要以上なまでに女性を避ける。だから玲子は対等に男性と学問の話をしたことがなくて訓練ができていない。ましてここのように一級の学者達の間では口を挟む力などとうてい出てきようがない。ところが先生方は彼女らに直接討論で話しかけることはむろんできなくても、そこに彼女らが居るのを無視した態度や行動はしたことがない。防空壕に入りなさいとかなり度々勧めはしても、それをかわして討論をそっと聞いている彼女らの存在はそれなりに尊重しているようだった。

その中で助手の滝田はちょっと変っていた。玲子の所属の岩田研究室ではなく八代研究室だったから、それまでは毎日見るわけではなかったが、あとで事務室のおしゃべり雀達の言葉を耳に挟んだところでは、上司の八代先生に将来を嘱望されている青年ということであるらしかった。

その日も警報が鳴って岩田先生はゆっくりと厚い書籍を閉じ、書きかけのペーパーをつかんで辺りを見まわしながらたちあがり、玲子が控えの小部屋で待っているのを見つけると始めて「急いで出なさい」と促した。そのころ男より先に戸口を出るようなことは礼儀に背いていた。まして先生より先にということはなかったので、玲子はいつも戸惑う。しかし先生は必ずこういう時は彼女を先に出した。ヨーロッパ的に身についた教養だった。玲子が飛び出すと、ちょうどドアの前を通った滝田と危うくぶつかりそうになった。一瞬すくんだ彼女を通すため彼は立ち止まったが、まごついた彼女が目を上げると彼の顔がみるみる赤くなった。戸惑った玲子も岩田先生がすぐ後ろに居るので立ち止まっていられない。しかし「おっ!」と滝田を見つけた先生が立ち止まったので振り向くと滝田はあかくなった顔を不器用に俯けていった。 「なんだ。ぶつかった? 面倒なこったね、毎度」といいながら先生は何も気に留める風もなく一寸空を仰いでさっさと出ていった。それが玲子が滝田の存在にこだわりをもたせられたはじめだった。

しかし何といっても相手は秀才で聞こえた若手ながらも学者。それも始めの印象では世間にでたての玲子には彼がかなりの年配に見えた。戦争末期には国民服というようなものが一般であったし、日常出勤でも男はゲートル巻きが要求される空気が強かったのに、滝田は上着は白黒のツイード、ゲートルは巻かずにポケットへ突っ込んであって、どうしても巻かなければならないとなると、考えられないほど無器用におそろしく時間をかけて、それでいて途中でこぶが出来るような、見ているほうでまだるこしい巻き方をするのだった。 「ゲートルを巻いたからって死なないで済むってものでもないしね」と八代先生も呆れたように慰める。 「しかし今度蒙古へいっちゃ、そんなぺらぺらした格好じゃ歩けないよ」と岩田先生が言うと、 「蒙古へいったら蒙古人の馬に乗る格好をしますよ。こんな兵隊泣かせの為に発明したようなズボン括りなんかやってられますか」と彼は言うのだった。 「もっと合理的な服装ってもの、考えられそうなもんだ」 研究所では近く大編成の調査隊を組んで蒙古へ行くことになっていた。 「とにかく早く奥さんを貰うことだね」と何の関連からか八代先生の言った言葉が耳に入って、ふと何気なしに滝田の方を見やると、彼が玲子のほうにちらと走らせた視線とぶつかり、彼のほうが慌ててそらした。

そんなことから何となく彼の存在が気になり出すと、意外に度々顔を見る機会が多くなった。或る朝の出勤に同じ市内電車に乗り合わせたことがある。こんなことはあまりないことだった。玲子達「雇」は朝九時出勤、夕方五時退所と決まっていて守っていた。しかし研究員達は規定に拘束されず、とんでもないガタガタ電車の混雑を外してゆっくり出てくることもあれば、仕事の都合で早い時間にもう研究室に入っている人も、又、研究室に何日も泊まりこんでコーヒーも簡単な朝食も自分で整える先生もあったので、殆ど通勤時の電車で顔を合わせることはなかったのである。滝田に気がついて頭を下げたものの、人ごみを掻き分けて近寄る話題もあるわけでなく、玲子はそのまま立っていた。この電車は靖国神社の前を通る。その度に誰が号令をかけるでもないが、暗黙のうちに乗客は窓の外に対して敬礼をしなければならない戦時の雰囲気がある。混んでいるのを幸い、いつも玲子は必ずしもきちんとその方を向くでもなく、また頭を下げるともなく動かすだけで済ませていたのだが、その日は滝田がじっと彼女を見ているようだったので、まごついた。遥拝なんかしたら彼が何と思うかわからない。しかし人々がざわつく中で毅然と不動で居るというのも心の定まらない玲子には苦痛であった。彼の視線を額の上に熱いほど感じながら彼女は電車が神社を通りすぎる時間を辛うじて耐えぬいた。通りすぎて思わず緊張が解け、ちらと目を上げると、その間ずっと彼女を見つめたままだったらしい彼がいつも無口で不器用な彼に思いがけなく、無邪気といえるほどの子供っぽい微笑を見せたのであった。玲子は自分が赤くなってゆくのがわかった。 「遥拝なんて形を強制したって何もなりませんよ」 電車を降りてから研究所への緩やかな坂をあがりながら滝田は言った。 「あそこに祭られる人こそ犠牲者ですからね」

彼のいう「犠牲」の意味が当時本当には解っていなかったことを何年も後、玲子は知るようになった。アウシュビッツや南京や、各地で殺された人々が犠牲者であると同じ意味で日本の兵士も天皇制による夥しい犠牲者といえる人々であったことが。 「英霊」だの「神」だのという名もそらぞらしいものであることをあっと悟らされたことがある。戦後もずっとあとのことだが、夫の親戚の叔母の死の折、悪名高い或る宗教団体がとりしきる葬式にでたことがあった。そのとき、片田舎の鈍い専業主婦に過ぎなかった叔母が信者として「婦人部長」の贈り名をいただいたと、叔父が誇らかに名誉を玲子にまで報告したことがある。どんな集まりか知らないが、その中で「部長」になるだけの活動も出来た叔母なのかなと、生前の、どんより相手を見つめ続ける表情のない目を思い出しながら、お祝いを言ったが、後で聞くと、信者の女性はすべて死ぬとその肩書きが貰えるのだという。団体の外の者には何の価値もない名称だが、同じことではないか。日本的に「神」という名を贈られて宥められた男たち。

滝田は痛烈な彼の非難にたいしてただ黙って頷くだけの玲子にその時それ以上は言わなかったが、それから時々通勤電車で会うことがあるようになり、或るときは彼女にドイツ語を教えてあげるから民族学を勉強しないかと言い出した。その戦争末期の日本ではドイツ語も男性には高校から必修課目だったのに、女性がドイツ語を習える機会は極端に少なく、玲子も古書店でヤスペルセンの独習書を買ってたどたどしくやっていただけなので、彼の申し出は大変魅力的だったのだが、ただ民族学をと言われたことに躊躇があった。英文科を出ただけの彼女には自分が何をするかまだはっきり掴めていないところがあった。読みたいものは限りなくあり、勿論民族学も大変魅力的であったが、それだけに怖さもあった。しかも先生方の家柄や経済力のバックは彼女の階層の想像を超える。そのような怖さもあって、即答が出来ない。それに自分でもはっきりまだ言明できなかったが、本望は文学(それが何であるかもまだわからないながらも)をやりたいが周囲の何処にもそれを教えてくれる手がかりになるものもない。ただ手当たり次第に読む中から自分なりに道筋を立てかけていただけで、偶々その頃は文芸学に惹かれはじめて、それにはドイツ語は重要であったのだが、彼に教えられると、面白い民族学にのめりこんで他のものに向かう暇がなくなるのが怖かった。ドイツ語は習いたいが、民族学の勉強は、とも言いかねて返事が数日延びているうちに、突然研究所が疎開で、彦根に移るから一緒に彦根にくるかという打診が岩田先生からあった。女性が一人旅など以ての外、夜十時以後外出していることも非常識、独り暮らしも怪しまれる・・という時代に、単身赴任をなんなく薦める先生方の先進的な活動についていく事に非常な魅力を感じたが、両親はひどく驚いて、どうしてもゆるそうとしなかった。殆ど男性ばかりの職場(当時大学に入れなかったのだから女性の研究員はいない)、それにそんなにしてまで打ち込むべき自分の学問かと言われると、頑張り通す理由も弱く、それに自分の給料だけでくらしていけるかどうか全く無知であった。当時は給料にも男女差があった。それまで給料は手元の小遣を除いて全部母に渡し、母はそれを玲子の結婚資金にと貯金していたようだ。それが所帯を構えるのに足りるかどうか全然考えたこともなかったので、そのことも両親が反対する理由になった。

疎開先が決まるともう移転の準備は早く、玲子は職を失うのが目の先になった。その時に滝田が突然近くの南洋経済研究所というところの南洋辞典を編集するための翻訳という仕事を持ってきてくれた。自宅にいて仕事をしながら、まだ一年あまりはすくなくともかかるという。そして滝田が疎開で別れる前に一度ゆっくり話そうということで、初夏のすがすがしい一日、武蔵野の面影がまだよく残っていた郊外の欅の並木道を、目的地を定めず歩いていくことになった。その頃は玲子の心にほとんど恋といえる好意が芽生えていた。あまり世間的な常識がなくて人に無愛想にみえる不器用なお坊ちゃんだが、それだけに純粋素朴で誠実に思われて、第一印象ではかなり年長者に思われた彼が、意外な瞬間に少年のような微笑やはにかみを見せるのが、彼女には今まで知らなかった、そしてひそかな母性的な、心の熱さを覚えさせるものがあった。

道の両側のみずみずしい欅の浅緑の葉が遮るものもなく空にむかって広がる姿を見上げて、玲子は次第に胸が高鳴るのを抑え難く覚える。歩きながら傍らの滝田の方を見る勇気が出なかった。しかし彼が時折自分のほうに指しつける視線の痛さを生々しく感じていた。口はきかないけれども彼から流れてくる透明な沈黙が次第に体の中に染み入ってくる。それはやがて全身に生まれ出ようとする言葉を育んでいるようだった。その言葉が自分の中からついに生まれ出る息詰まる瞬間を少しでも遅らせたいように彼女は梢を見上げたまま「まあきれい!」と感動を挟み込む。 滝田は彼女の見上げている空を見なかった。そして彼女の言葉に、はじけたように彼女の顔を見た。玲子は彼の視線にじかに応えることに辛うじて耐えて、ただ、そらしたままの顔におさえきれない微笑だけを広げた。

と、暫くしてふいに彼が吐息したのが聞こえて、その微笑が凍りついた。何なのだろう。思いきって目を向けると、俯いていた彼はすぐ彼女の動きに敏感に応じて顔を上げ、笑みを浮かべようとしたのだが、ふいにその微笑を引き攣らせた。玲子に理由のわからない怖れが襲った。何故だろう。余りの歓びと平穏とは、それまで知らなかっただけに、至高の歓びの後にはその代償として何が落ちかかってくるか分からないという怖れが生まれる。今までは言葉がないからこそ透明な心の通い路と思っていた彼の沈黙が、長引くにつれて少しづつ身体を締めてくるように苦しく感じはじめたとき、彼が木立の中に少し上りになって小高い丘へ向っている道を見つけ、黙って指差した。その低い丘の上に草地が木群の中にひらけ、そこにちょうど腰掛け易い高さになる倒木が三、四本、手を加えたふうもなく転がっていた。少しあがっただけなのに下の野や畑が意外に広く小枝の間から広がって見える。下の道を自転車に乗った男が一人、二人。そして暫くしてから若い女と少年とが通りぬける頭部が見えて過ぎた後、静けさが立ち戻ってきた。

彼が指すまま玲子はやや斜めの倒木に腰を下ろす。そのあとから滝田はを遠くをみやったまま、彼女の傍らに腰を下ろしていった。それでも相変わらずの沈黙がいつしかかすかに不安になって、玲子は耐えきれなくなり立ちあがろうとした。と、その瞬間に 「玲子さん!」 それまで聞いたことがなかった深い重たい声で呼ばれた。 彼女は急にそこに縛り付けられたようにしびれを感じた。 「玲子さん! 貴方を・・愛しています」 最初彼女は言葉の意味を理解していなかった。それから次第次第に今まで知らなかった心が胸から湧き出してくるのがわかった。覚えず声が漏れだしていた。「私も・・」 では、これが、愛というものなのだろうか。これでよいのか。ここでこうして、受けていけば・・  玲子は息を詰めるようにして待った。何をだかわからない。ただ烈しい期待が待つうちにふくらんで、押し上げてきて・・  が、彼は黙したままだった。みじろぎすらする気配もない。とうとう玲子が顔を向けると、殆ど同時に彼は両手で顔を覆って俯いていった。「けれども僕は婚約しているのです」絞り出すように息苦しい言葉だった。何を彼が言ったのだか今度こそ玲子はよくわからなかった。いや、言ったのかどうかも分からなくなっていた。 婚約しているですって? この人が? この人に別な愛する人がいる? そう彼は言ったの? どうして、どうして、そんなことが? 彼女が何も言わないのをいぶかしんだ彼がとうとう手を落して頭を上げた。突然迸るように涙が流れるのを覚えた。 「それは・・それは・・おめでとうございます」 すると凝然と強張った姿勢のまま彼は今までに見たことのない恨みのこもった目で、さすように彼女を見返した。玲子は涙に気がついて、親指の先でできるだけさりげなくそれを押し上げるように拭う。しかし彼の視線に耐えられず指が震えた。しばらくして彼は不意に投げつけるように言った。 「しかし僕は婚約を解消します」 「それはいけませんわ」 反射的に彼女は思わず言った。 「いけませんわ、そんなこと」 しかし滝田は彼女をなじっているような目でそれ以上口をきかない。まるで少年のような片意地なその目つきが玲子の胸に不思議ないとおしさにも似たものを芽生えさせる。いつしか小刻みに身体が震え出していた。婚約しているですって? そんなことがあるのかしら。「愛している」そうあの人は言ったのに。だのに別な女性がその陰にいるの? でも、でも、それが事実なら愛してはいけないんだわ、この人を。玲子は立ちあがった。すると滝田もまつわるように立ちあがった。「いいえ、いけませんわ、その方を・・悲しませるようなことを・・」

今度こそ彼は殆ど怒ったような、石のような、沈黙に落ちた。私はこの人を愛している、と玲子は始めてはっきりと感じた。このひとも私を・・ では、何故、何故、愛してはいけないの。愛することが罪になるの。

後になっていくら思い返しても玲子は彼とその日何処でどのようにしてついに別れたか思い返すことが出来なかった。初めて歩いた道であったからそんな林の中でそのまま別れたはずはなく、少なくとも郊外電車の駅までは一緒でなかったはずはないのに、覚えているのはその単線の鉄道の小さな駅のプラットフォームで、片側の丘の斜面からせりだしていた樹枝の間から漏れる淡い午後の陽の中に押し黙って彼女をみつめていた彼の翳った灰色の瞳。そしてどんな時に彼が言ったか記憶がはっきりしないままに、 「すみませんでした。貴方を苦しませてしまって・・僕はいうべきではありませんでした」 というくぐもって調子の外れたような声だけ。 「ただもう貴方とは会えなくなる日が迫って・・」 もう遭えなくなる・・ そのことに彼女は始めてきがついた。分かりきっていたはずだったのに。 研究所の疎開は目の先に迫っていたし、彼女の退職はその月の月末だったから。それなのに分かれる運命などということが全然念頭になかった自分の鈍さに臍をかむような思いだった。

しかしそれが結局最後になったのではなかった。まだ確か二週間あまりは研究所へ毎日行くのだったし、何故か、殆ど毎日、何処かで彼に遭遇した。図書室へ岩田先生にいわれて腕一ぱいの本を抱えていく廊下の角などでふいにぶつかりそうになる。彼は一目みてぎょっとするほど頬が落ちて青ざめていた。玲子はせめて彼の失意を救い力を与えたいと、せいいっぱいの微笑を浮かべる。すると彼はそれに応えるどころか、激しい恨みを込めた目で抉るような視線をさしつけてくる。玲子は自分の微笑の欺瞞を射抜かれたことで激しい自己嫌悪に陥る。私の苦しみ方が足りないことで彼は苦しんでいる。でも、でも、私が自分の胸のうちをあらわにしてしまったらどうなる? 彼は喜んで生気を取り戻して、そしてその人を、捨ててしまう。罪のないその人を。それにしても何処に罪のある人がいるのだろう。わたしたち三人。あの人にそういう女性が居ることを知らなかったことで私に罪があるだろうか。しかし罪がなくてどうして私は苦しまなくてはならないのか。(人は罰としてでなければ苦しむ筈がないという、なんとナイーヴな稚い頭。後年分かってみれば、人の理不尽な苦難は世界中に溢れているのに。それどころか罪深いからこそ苦しみもしない人間も多いばかりなのに)  玲子は毎日そういう堂々巡りをするだけで、できるだけ彼を避けようとし、それでいながら彼の姿のないところではどんな行為もまるで意味のない虚ろな思いで、機械人形のように、というより我ながら霊がさ迷うように研究室を往き来した。幸いに、というべきか、岩田先生は出張調査のため、その頃から留守にして、二室続きの研究室は時折入ってくる助教授の小田先生を除いては、一日玲子一人で守っていればよかった。主要な書籍その他はもうあらかた荷造りがされていて、それでもまだ沢山書棚に並んでいる本は、岩田先生が「好きなのは上げるからみな持っていきなさい」といってくださったので、整理や荷造りの必要もなくなっていた。室外にでなければ一日中独りの多い玲子を、さすがに滝田は部屋に入ってくることはなかったが、外へ出ると殆ど必ず彼の姿にはどこかで遭う。玲子は遭うのを恐れて閉じこもっていることが多かった。それでいて彼の姿のない空気が時折息を塞ぐ程狂おしく襲ってくるのだった。或る時とうとう彼はまた会釈だけして行き過ぎようとした彼女に 「僕は婚約を解消しました」 と鋭く囁き、過ぎようとした。瞬間言葉を失ってたちすくんだ彼女に、彼は錐でももみ込むように目をおしあてて動かない。 「そんな、そんな、いけませんわ。それ・・」 が、混乱した彼女の中にふいにどっと抑え難く歓びが溢れ出してくるのが自分でわかった。 え? ではこれで私たちは自由になったの? 私達の間にはもう障害はなくなったの? しかし彼女は首をふっていた。 「いけません。他の方を不幸にして、それで・・自分達の幸福を得ることなんか」  そのとたんに彼の瞳の奥から急に一瞬発射された黄色い怒り! それはその後も彼女の目の先から消えずに時として襲ってくる光だった。人間の目が内部から光を発する! 彼女は自分が、言葉では拒んでいることの嘘を彼の瞳が険しく(なじ)っているのだと知っていた。しかし、だからといって、自分の幸福を掴むために、片方では悲しみの淵にしずんでゆく人間があることを知っているのに、いま、どうせよというのか。私には出来ない。私には出来ない。

とうとう或る日彼女は前に彼と行ったことのある野中の道を独りで歩き出した。欅はわづか旬日のうちにぐんぐん葉を広げて夕暮れ近い空を背景に亭々と辺りをその威風で抑えているように見えた。何が変ったのだろう、あの時から。自然は何ひとつ彼女の苦悩には気づいていない。どうして愛するということが罪だというのだろう。しかもいったん愛したものを愛さなくなるということはもっと大きな罪ではないか。愛を裏切ることなしに、しかも彼と離れて生きる・・歩きながらどれだけ激しく首を振りつづけている自分に気づいたことだろう。なぜ神様はこんな出口のない苦しみの中に私を突き落とされるのだろう。私は彼への愛を裏切ることなんかしない。が、うらぎらないままにこの愛を秘めたまま生涯を送る・・それこそ欺瞞の生ではないか。この後も彼なしで生きてゆくべきならば・・愛を裏切らず、しかも愛を持ちつづけないで・・なんという出口のない愛だろう。私の彼への愛が罪のない人を不幸に落すことだといったん知ってしまったからには、知らなかったときの愛をもち続けていけば、彼女に対し新たな罪を生むことでしかないとは。

何時の間にか道を外れて田の畔に下り、靴先が泥で濡れるのをむしろあらあらしく求めて歩きまわっていた玲子はとうとう耐えがたくなって葦の叢の陰に身を寄せるようにしゃがんだ。ふっと目の端に何か動くものを見捉えたからだったろうか。目をこらしていると去年の枯れ葦の茎が乱雑に倒れ重なっている間から小さな蛙がそろりそろりとあがってくるところだった。蛙の開いた目が玲子を動くものとは認めなかったらしく、恐れるふうもなく一歩一歩と近づいてくる。何の邪気もなく周囲に放つたままの目は、小さな己が生に何の疑いももたないのか。玲子はそっと手を葦の茎にまでのばして蛙が何の躊躇もなく歩み寄ってくるのを受けた。 今までだったらあの足指の吸付くような粘りがむしろ気味悪くて、蛙に手をのべることなどなかったものである。しかしその小さな冷たい足指の感触がその時の玲子には生きとし生けるものへの限りないいとおしさに変っていった。彼女の掌の上で蛙は蹲り、その目はどこに放たれているのか、むろん玲子なぞ見ないで自らの生に満ち足りて疑いも持たないらしい。玲子は自分の疑いだけに溢れかえって波を立てている意識がこの小さな生き物の前で恥ずかしく苦しかった。 「お前は何の苦しみも知らないのだね」 恐らく飢えと外敵に襲いかかられた瞬間、それ意外には予め無益な迷いなぞない動物たち。本能の真っ正直な発露。そして・・そして・・清浄な生は結局、そこにしかないのではなかろうか。

といっても、人間として一旦意識したことを知らなかった昔の本能にたち返ることはできるものではない。絶対に無垢な愛に立ち戻ることはできない。苦しさに思わず手を握り締めようとしたのだったろうか。蛙はぴょんととびだして忽ち葦の中にみえなくなってしまった。蛙の消えた方向から夕闇はすぐ足元近くまで迫っているのに我に還る。

とうとう別れの日は来た。玲子は退所の日、他の研究室の主任の先生方のところも挨拶に廻ったが、既に疎開先に出かけていた先生もあり、八代先生にも会えなかった。しかし滝田の室へは寄らなかった。狂おしいほど彼にあいたかったが、彼のあの瞳の前で偽りを見透かされるのには耐えきれない。彼女は待っていた。何をだかわからない、何か事態が変るものを。しかしいっぽう限りなく恐れているのだった。何かが起きることを。

その日彼女は帰宅が遅れてもうすっかり暗くなってから、家の玄関の遮蔽された薄い光を目当てに最後の角を曲がった。灯火管制はきびしくなっていたが、それより数日前にはとうとう東京の山の手にかけてまで広範な空襲があって、玲子一家は偶々その日、茨城の海岸近くに疎開で借りた家に行っていて火の中を逃げ惑うような恐ろしい目には遭わなかったものの、大きな荷物をすべて預けた親戚の防空壕が直撃弾を受けて大半の荷物を失ったところだった。それとても数え上げれば惜しかったものは数々あるけれども、当時鉄道トラック輸送など思うに任せず、家族で交代に荷物を少しずつ背負っては疎開先に運んでいくことが何時果てるともない苦役にもなっていたので、すっかり家財を失ってもうそれをする必要がなくなったとなると、ひそかにほっとする側面もあり、当座日常の起居に必要なガラクタ類は疎開先にいっていたので、今日明日の暮らしには困らないという安心がさ中だった。むろんそれが浅はかな子供の考えだったことは間もなくわかる。金目の物を焼失してしまったら、食料に替えられるものがないということで、現金だけではもう役に立たないという時代だったから、貧しさという観念が全く違ってきてしまった。食料を持っている農家には着物も道具もどんどん集まる。月給は貰っても物を失った者達は食べ物が思うように手にはいらなくなってしまうのだった。

しかしその頃はまだまだ家庭の責任者でなかった玲子にはその苦労も観念的なものに過ぎなかった。思い返してみれば父親はその頃、三日に上げず列車で3時間近くかかる郷里へ食料の調達に蔵書を売った金でリュックサックを背負って出かけていたし、母は早朝近所の農家へ行ってちょっとした手伝いをしては野菜を売って貰っていたようだ。それを玲子は疎開先へ荷物を運ぶ手伝いが突然不要になって、仕事が減ったとしか感じないで、自分独りの悩みのためにその方面の手伝いなど考えつかないのだった。尤も小娘がどこへいったとて、そこそこのお金ぐらいでは物が手に入る世の中ではなくなってしまっていたけれど。とにかく、もしかすれば命は明日にも空襲で・・と観念では知っていても、若さは目前の死を前提にした生き方はしないのであった。夜二度も三度も警報が鳴る。疲れ果てて漸く眠りに入ったとたんに起きねばならなくなる。そしてやっと解除になったと壕を出て床につくと間もなくサイレンが鳴る・・ということが繰り返されると、自分達の手でようやく庭に掘ったしゃがんで隠れるくらいの穴に、重い遮蔽板を一々閉じるのももう厄介になって、その隙間から空の遠くで展開される空中戦を、この世の現実とは中々実感されないまま見つめ、小さな日本軍の飛行機がパッと花火のように燃え上がっては旋回したまま光の尾をひいて落ちて行き、間もなく消えて見えなくなるのを、 「ああ、今また一人、或いは二人の兵の命が飛行機と共に消えたのだ」と一々心に叩きこもうとつとめるうちに、疲れはて、 「もうもう床の中で死んでもいいから防空壕に入ったり出たりするのは止めたい」と苦し紛れに思うのだった。それでいてこの恋の行く末に死を考えていたりすることはなかったようだ。滝田のためにもひたすら生きなければ・・

その日も暗くなって漸く家への角を曲がった。明日は滝田がついに大津の研究所へ去る日だと思いながら、未練こそ自ら選びとった道に対する最大の裏切りであり、しかしまたこのままの別離忘却は二人の愛の欺瞞なのだという背反に苦しめられ続ける。ほのかに垣に混じった梔子の香がした。締めつけられるようにそこに滝田の俤を求める。と、門柱の前に突然ほんのり白く彼の顔が浮かび上がった。それが気の迷いではなくて現実の彼であったということに漸く気がついた時、殆ど息が止まった。 「玲子さん」 彼の声だった。二度と聞くことがなくなったと思っていた彼の声だった。玲子は咽喉がつまってかすれた声しかでなかった。事態の新しい展開の光がさしたと、瞬間胸が踊るように期待がこみ上げてきた。  けれどもどんな展開があり得るというのだろう。彼が婚約を破棄したって、一人の女の不幸を踏み台にしなければ自分の愛情がないというならば結局彼を受け入れることなどできない。何の解決もありようがなかった。小さな言葉の繰り返しのあと、滝田は殆ど怒ったように黙り込んでしまった。そこへふいに懐中電灯の光が揺れて、すぐ消え、玲子の後ろを黒い隣人の影が黙々と通っていった。光がさしつけられた瞬間、下から照らされた滝田の顔に歪んだ奇妙な黒い線が揺らいだ。

再び暗闇が戻ったあとの沈黙は引きこまれるように深かった。玲子は自分が最後に言った言葉だけを覚えている。 「私は・・私は・・大丈夫です。独りで生きていけます・・」独りで生きるという宣言は、以後結婚をしないという意味とはならない。彼への愛を抱いたまま独りで生きるということは、偽りの生を生きることである。さりとて忘却はこの愛への最も激しい裏切りである。この背反する愛をどう生きればいいか、とかくそれはもはや自分独りの生の問題であった。 ただその真意が滝田に伝わらないのが、否、伝えてはならないのが、彼女の苦悩であった。彼は彼女の言葉を勿論裏切りに取るだろう。しかし彼に分かってもらってはいけないのだった。分かったら彼はもう決して彼女を放さないだろう。それは他人の運命をふみつけにして得る幸福・・ こうした堂々巡りから抜け出せる道を希求するのが彼女の「独りで生きる」道でなければならない。けれどもその後も何年たっても、角をまがればその向こうに彼の姿があるだろう と絶えず襲ってくるむなしい期待を抑えることはなかなかできなかった。もう彼には会ってはならないのだった。想ってはならないのだった。しかし「忘れて」しまうことも甚だしい裏切りなのだ。この二面を凍結して、いや、凍結はいつか溶ける可能性を抱えているから・・凍結ではなく、止揚して・・愛を生きる・・ 

すべてコトバでしかないじゃないか。しかし一旦言葉にしたからにはそれに生きなくてはならない。それが彼女の東北人気質なのか、つまり会津っぽの頑固な保守性なのか、それともキリスト教の掟の拘束なのか、彼女自身には分からなかった。ケルケゴールのレギーネに対する愛を理解しようとした。ただ大きな違いは、彼ケルケゴールにはレギーネを拒まなければならないような社会的拘束は全くなかったということだ。一旦婚約した彼女を、しかも愛しているがゆえに、拒んではならない拘束しかなかった。それにも関わらず絶対者への愛が人間的愛と矛盾することを知った彼。これは根本的に異なったものではないか。そしてそれが根本的に彼の偉大さと彼女の卑小さを分けるものだ。神への愛、真理への愛、というものが、肉の女や男への愛と矛盾するという境地には玲子はほど遠い。むしろその両方の愛が合致することを辛うじて求めているのだから。

とうとう滝田は去った。失望を抱いた彼がその後結婚をどうしたか知ることを玲子は避けるように努めた。しかしその専門のほうで彼の名がだんだん聞こえてくるのは避けようがなかった。彼の名が記事や人の口から聞こえるたびにいつも人知れぬ痛みが伴った。しかし悔いとは違うものでなければならなかった。彼が抱いて去ったであろう誤解を解きたいという激しい想いはその度に噴き上げる。しかしそれをすることは勿論自分の弱さに他ならない。一切の瓦解に他ならない。あの愛の純粋さを汚すものにしかならない。何という試練を神は私に課されたのだろう。 滝田への愛と矛盾しない形で他の人への愛も持ちうること。特に滝田の婚約者という人に愛が及ぼせること。それはやはり単なる言葉でしかないにも関わらず、玲子にとっては解決に達しなければならない問題だった。その人の姿が全く見えない、思い描けない、ということがある意味で甘いこの考えを許していたのかも知れないが、それでもそうでなければ滝田を拒んだ彼女の愛は成り立たないと思われるのだった。  何処へいってもふいと立ち現れる彼のまなざし、ふと道の角にさしかかると締めつけるように襲ってくる期待、角をまがったそこに彼が現れるだろうという現実には何の根拠もない切望。しかもそれに縋ってはならないという闘い。それがどれだけ繰り返されただろう。時が解決してくれるというのは最も恐ろしい。風化ほど不滅の愛の裏切りはないのだから。しかし現実には彼と二度と会ってはならないのであれば、何時いかなる場であっても彼に恥じない生き方をする以外に望み得る道はない道理だった。その心をまた彼に知ってほしいとまたしても()き上げてくる熱い思い。

戦争はいよいよ末期に入って、沖縄では中、南部で全滅戦・・というような情報が入ってくると、もう東京も日ならず戦場にならないとも限らない。父は一大決心をして、東京郊外の家を売りに出し、疎開先として小さな家を確保していた茨城県の海岸近くに移って、そこもなお艦砲射撃を受ける恐れがあるから更に奥まった山のほうに開墾地を探し始めた。事実上大学生の勤労動員で、工場で働かせられている学生の授業などできず、監督ぐらいしか用のなくなった職を擲って百姓をしようというのであった。 父親はごく若い頃、武者小路実篤の「新しき村」の運動に感ずるところあって参加しようと決意したことがある。そして結婚の折に相手にもこの了解を求めたそうだが、その後、どういう事情か(武者小路自身が参加しなかったからか)、玲子はつい聞くことがなかったが、その計画を止めていたのだった。その若いときの血が農業をすることに何の躊躇いもなく、それどころか隠れていた年来の夢に飛び込むような情熱を掻き立てられるところもあったらしい。幸い玲子にとっても南洋経済研究所は翻訳の仕事は主として郵送でつづけさせてくれることになったので、両親と共に疎開するのに好都合であった。 もちろん農業労働は決して絵画に見る田園風景でもなく詩的な憧れを満たしてくれるものでもなかった。しかし度々の空襲警報に熟睡する暇も与えられず、精神的にも疲労困憊して「もう死んでもいいや」と言いたくなる日常から開放されて何の煩いもなく青い空を見上げ、朝早くから日の暮れるまで鳥の声に慰められ、夜は疲労の果て、倒れるように眠りについても朝までぐっすり眠れる日常を取り戻した事は、戦争中には得難い幸運とみなくてはならない。移住して後の通信をうけつけないようにしたからには滝田との一切の現実の関わりは更に不可能になったわけだった。畑の中でも林に踏み入っても、何処に居ても彼の俤は思いがけないときにまつわる。けれどもそれを玲子は抱きしめることを固く抑制したかわりにもうしいて払いのけたり、目を閉じたり(閉じても見えるのだから)しなくなっていった。何処に居ても、彼への愛が他の人への愛と矛盾しない生き方を・・ そう痴人のような決意を握り締めて、がむしゃらに労働と僅かな暇を掴んで読書と翻訳と・・ 季節は夏を迎えて、草草は猛烈な勢いで開墾畑を周囲から襲い、作物の伸びも早いが、その草との闘いに明け暮れて・・それ以外に何をすることもできない忙しい日々が続いた。

 

  新生日本

 

広島、長崎に「大型爆弾」の風評も信じられぬデマと揺れていた直後、ついに終戦が訪れた。玲子達にとって終戦の詔勅を聞いた時の感情はまず喜びだった。もちろん詔勅文の意味は極めて曖昧で、同じに聞いた人々でも「これからもっとしっかり戦争をやれ」という意味にとった人もあり、負けたのだと分かった者は多くなかったらしい。理解できないような表現をわざと取ったのであろう。しかし村の旧家の縁先でラジオの周りに集まった人々の中で玲子の父が真っ先に「戦争が終わった!」と叫んだのだった。みんな疑わしそうな、それ以上に詰るような、目を見迷わせた。玲子は突然に身体中を縛っていたものが嬉しさにするするとほぐれるように溶けるのを感じた。感情を憚りもなく外に出せるようになるにはむろん暫く時間がかかることではあったが、何といっても開放感が最初の印象であった。しかし急激な価値転換をおしつけられたような生き方をしてかなり戸惑った人も多い。「今の時代は・・だそうだ」「今は時代だから・・だ」「時代だからしかたがない・・」という行動様式。多くの人々の現実順応には救い難い脆さがある。根底の思考論理をつくそうとしない。現実を掴んだ上ならばそれも結構な姿勢であろうけれど、大半が目の前の状況の中で自分がなるべく有利になる態度を取るだけということになる。

戦後逸早く瓦礫の巷に湧きでたのは闇市。尤も戦争中から闇の物資は大いに動いており、それは軍関係の者や政治家にだけ物が潤沢に出回るという不公正で、それを一般人も見、聞きしていたのに、その特権を正面きって憤ることをしない。出来なかった。そして不平不満を溜め込んでも、もしも少しでも自分にチャンスが向けばむしろ飛びついてそれを利用するのが利口さであると思っていた。勿論誰でも食べ物を得る必死の努力で、いくら取り締まっても米などの闇商売は横行していたのだが、戦争が終わると今や闇市の繁栄はどんな取締りによっても抑えることができなくなっていた。玲子の南洋経済研究所は勿論終戦で南洋辞典の当面の必要はなくなってしまい、失業したわけだった。そこで彼女は二ヶ月後に英語で仕事のできる進駐軍関係に就職することにして上京した。そこでの給料は七百円という一般の10倍だったので誰しもびっくりしたものだが、もうインフレは庶民の懐にお構いなしにどんどん進行して、例えばヤミ市では或る日小さい皿にひと並べの小鰯が五円とあって仰天したのに、翌日は七円になるというふうで、日々恐ろしい勢いでインフレは進み、七百円でもやりくりは容易でなくなっていた。進駐軍以外の日本の会社等の給与はよくても元通り、遅配欠配はざら、働き盛りの男で八十円、せいぜい九十円で、百円の月給と聞くと疑わしい顔をされた時期もあったのだから、生き残るには多くのひとがどんな生活をしたのか玲子には今でも想像がつかない。 進駐軍の仕事というのは民間情報教育局というところでの翻訳だった。それも多くの部署があってはじめは通信文の検閲。一般人の書簡を日本人が読んで、進駐軍が指示する幾つかのチェック条項に触れるものを選り出して翻訳するのである。自称「英語に堪能なる者」が何百人も集められているのだから、実力のない者も多数居り、十数人づつのグループに一人のキャップがついてそれらの翻訳を訂正する。始めは勿論玲子も既にあったグループに配属され、そこは彼女の後輩がキャップだった。玲子は就職時期の後先だから何とも思わなかったのだが、彼女はあとから考えるとひどく危機感を抱いたらしい。或るとき玲子は呼びつけられて「貴方の翻訳はひどい。見て御覧なさい」と一通の文を見せられた。どう見ても自分がやったとは思われないひどい文だったので、「これ、あたしじゃないと思うわ」といったのだが、相手は「そうよ。貴方がやったのよ」と頑張る。職場での同輩の意地悪というようなことには経験どころかそれがあることさえ知らなかったので、すぐその文を直して出したのだが、少し後、何処でどう実力が分かる仕組みなのか、それから間もなく別なグループのキャップに転出させられて、例の後輩の意地悪に晒されることもなくなってしまった。ただチェック条項は主に戦中の特高、憲兵などのその後の全国的な動静を掴むことにあったらしいことは察せられ、またそれは日本が戦後民主国家になるには望ましい手段であるから、その必要性は理解できたものの、個人の書簡を読むということは信書の秘密という点から検閲課に居たくはなくなってきた。同じ教育局に新聞雑誌の検閲課というのもある。そこで私信を読むよりは既に印刷公表されたものならいいだろうともう一度試験を受けてそちらに転課した。ただ進駐軍に勤めて何より印象深かったのはレデイファーストである。先ず出勤してエレベーターにくると米兵が、先に乗ろうとする男たちを抑えてそういうことに慣れていなかった女達を必ず先に乗せる。その頃までの日本は何をするのも男が先だったのである。男たちはぐじぐじ先に入る女達のそれこそ出来ることなら尻を蹴飛ばさむばかりに苛立って待っていたことだろう。職場の米士官達の間では階級の上下にあまりかかわらず女性が優遇される行動をしていた。もちろんこういうレデイファーストもやはり女性を弱者とみなすところから出来た習慣に過ぎないとは知っていたが、とにかくこうして日本の男性の無反省な女性蔑視は少しづつ叩かれたのである。

もう一つ最初に驚いたのは何百人というメンバーの一人一人に英和と和英の、しかも日本の戦前から著名な出版社の大きな辞典が仕事中貸与されることであった。玲子はおおきな辞典を空襲ですべて失っていた。が、米軍のそれらは米国内での海賊版であるらしかった。戦争の終わらぬうちから占領の構図ができあがっていて、準備が整っていたことを如実に見てくると、戦争中英語は敵国語だと排斥した日本との何という違いだろう。

しかし戦後すぐの社会の窮乏は大変なものだった。又、戦争による孤児や空襲で罹災して保護者を失った子供達は巷に溢れ出した。住むところもなく、食べ物も自分で調達しなければならなかった無数の子供達。町でみかけるのは六、七才くらいから十五、六かと思うが、それ以下は生き伸びるのも難しかったのではないか。彼らが群をなしてかっぱらい、泥棒、もやりながらも靴磨き、メッセンジャーボーイなど知恵のありったけを尽くして生きてゆくありさまなどは、痛ましくはあるものの、その野放図な逞しさに不安も交えて圧倒された。彼らは自然に群をつくってねぐらを定め、そのうちに当然リーダーも使い走りも定まっていくようだった。それら戦災孤児のごく一部は澤田蓮子女史などの献身的な事業で救われていくのもあったものの、大半は玲子よりせいぜい十才くらい年下だったろうから、今でも何処かで切り開いてきたそれぞれの人生を抱えて生きているのであろうか。世の中が曲がりなりにも秩序だってくるまでに、どんなことがあったか、それぞれに長い長い物語があったに違いない。

戦争が終わって一年ほどたって玲子が結婚したのは兄から持ちこまれた兄の友人との縁談だった。玲子はその頃、かつて母が一度も会ったことのない相手と結婚したときの気持ちが少しわかるような気がしはじめていた。もちろん今の時代に見も知らず何も考えず結婚するなどということはとんでもないことである。できるだけ知り合うということは必須条件であろうけれど、どのような人であれ、そのひとの生涯に責任を持っていきてゆける覚悟の出来る相手ならばという心である。それはかつて滝田に対して持った心を、他の誰にでも、少なくともその人に接触する部面での限界が及ぶ限りは誰をも裏切ることもなく持たなくては・・またしてもコトバでしかなかったかも知れない。しかしもう迷いのない気持ちでこのことに真向っていた。そして、この事も今なら滝田に言うことも出来ると、折々思わず求める彼の俤にむかって言うのだった。もうそれは現実の彼ではないからだった。何年もたって母が亡くなってからふっと、そんな心境に達した自分を思い返してみる時、或いは母の結婚もそのような何か初恋の苦しみを知ったからだったろうかと思いつくことがあったが、もはや事実を聞くすべもない。確かにケルケゴールの偉大さには到底及ばない卑小な凡人の、時と言うものが齎す人間の肉体的心理的変容に、コトバのほうで妥協していったに過ぎないと言われるかもしれない。それでも玲子はついに大きな決意と期待をもって結婚を考え始めた。

北田健は国鉄の技師であった。玲子は勿論その専門のことがわかるわけもなかったが、彼は相手の反応なんかに煩わされず、倦むことなくその時自分がとりかかっていた車両の改造の話なんかを、目を輝かせてする。そういう彼は玲子の目など見つめず、逸らしている視線の先には自分のプランのほか何も見ていないようだった。それで却って息が詰るような思いをしないことが、玲子には快かった。その代わり自分の仕事以外の話になるとほとんど発言もせず、文学のことなどあまりわからない、というより関心が薄く、考えようともしないらしい。そういう今まで全然関わりのなかった世界を知ってゆくということはそれだけに好奇心も動くし、気楽だった。玲子は度々彼と出かけるようになった。彼は喋り出すともう周囲には目もくれずに荒れた巷のそちこちに屯して目を光らせて、通行する人々を窺うボロを来た男や女達にもまるで目を向けなかった。尤もボロは終戦直後の街では大半の人々がそうで別に階層や貧困をそのまま表しているわけではなかったから、服装そのものに警戒するのではなかったが、それよりもそのような人々の飢え、渇いたような視線の中を歩くのは我慢のできないほど息苦しい。男女連れ立って歩くのは、米兵に縋る女達のほかはまだあまりみかけられない時代だった。だからそのような人々の視線の中を歩くのは息苦しかった。それに靴磨きなどする少年のまわりにしゃがみこむ子供達。交代で働くのだろうが、彼らの不遜な目付きにも時々驚かされる。

とうとう玲子は彼に一度郊外を散歩しようと提案したことであった。静かな野を歩きながら話を聞くほうが心が休まる。彼は案外すぐに同意して、仕事が休めるようになった最初の日に二人で出かけていった。べつにどこという名所でもなく、その頃はまだまだいくらでも周辺に残っていた武蔵野の欅並木や畑や田の畔などを、草草が足の下で踏まれ軋む感触をゆっくり身内に聞きしみてゆく。いつも埃っぽい町中を歩くときの饒舌とはちょって違って、さすがに彼も静かな田園の空気をゆっくりと吸い込んでいるように見えた。そうすると話題が何となく思い出話のようなものになっていった。尤も彼はいつもかえってきたばかりの戦地の話しはあまりしたがらないようにみえた。それ以前の平穏だった時代にとかく向う。そんなときだった。彼が滝田の話を持ち出したのは。玲子はどきんとした。どうして彼が滝田のことなど知っているのだろうか。兄が話したのか。いや、兄はあのことを知っているはずがない。少なくとも相手が滝田であることなど知っている筈がない——そうではなかった。彼は七年制の高等学校の同期だったのだ。何という符合だろう。 「ちょっと変った男がいてね。 親父が軍人のくせにはっきりと反戦的なことをいう。僕らはだいぶ彼に影響されたが、まあ子供だったからそれで済んだのだろうけれど・・その後彼は民族学とやらに入り込んで・・」 急によじられるような胸の痛みが重い音で胸にめり込んでいった。話が進んでみるとそう滝田とは親しかったわけではないらしいし、大学の科も結局違ってしまったわけだったが、かえって印象は強く残ったらしい。 「あとで、そいつが若し軍隊に取られていたらどういう生き方をしただろうと時々思ったけど、あいつが正しかったわけだ。しかし軍隊というところへ突っ込まれてしまったら・・」 いつものように彼はそれ以上あまり軍隊での経験や戦場の思い出は言いたがらない。しかしそれは彼なりに戦争の問題に何か応えを求めようとして滝田の話が出たのかと気づいて、玲子はだんだん胸が熱くなってきた。 「どうして彼は軍隊にとられなかったの、滝田さんは・・」 玲子は震えてくる声を押し隠そうとして小さく訊ねた。 「検査に不合格だったんだ。結核か何かがあったんだか——」 「・・」 「多少は親の顔も効いたってこともあるかもしれない。だが結局それでよかったね、彼は。信念を曲げないで済んで、今じゃ専門のほうで・・」 玲子は黙り込んでいた。しかし健とこの後も一緒に居るようになるなら、滝田のことを黙っていてはならない気持ちが押し上げてくる。もちろん告白とか何か、現実には何があったわけでもないのだから、彼に余計なひっかかりで疑念を抱かせる必要はないと強く思い返す。それでも黙っていることはこの人との生活に一つの陰を持つことになる。あれは陰であってはならない。あれは既に乗り越えてきたもの(そう思ったときに再び痛みが走る)。 そしてこのひとには私の何もかも知ってもらわなくちゃならない。 「私は研究所で滝田さんを知っていたわ」 彼は目を大きくみひらいてすぐには何もいわなかった。 「彼に・・結婚を申し込まれたことがあって・・けれども・・」 それからどのように滝田のことを彼に話したのか、細かくは思い出せない。一人への愛が他への愛と違背してはならないという心の重荷。したがって現実の生でもう彼と会うことは、また彼を想うことも、自分自身への裏切りになると思っていること・・ ひとの心理的細やかさなど理解する気配のなかった健にそうした屈曲した言葉を注ぐのが、何の意味を持つかと我に還るまで心の中をはじめて健にそそぎ続ける。次第に彼に縋る想いがきざしてくる。その中で彼がただ黙り込み、ながいことそのまま地面に目を落していた姿だけを覚えている。それが歩きながらではなかったのか、どこかに腰を下ろしていたのかも殆ど彼女の記憶に残っていない。それから二人は再び歩きだした。午後の風に無心に揺れる草の間から発散していた乾いた匂い。目の前に茫漠と広がる殆ど胸丈まであるほどの叢。何時のまにか二人はちいさなせせらぎを越した草原からゆるやかに雑木林の裾にかかっていた。その林を見上げたとき、ふと神秘の森に分け入ろうとする前の締めつける胸の疼きを感じた。この先の森に—— 健の変らぬ沈黙の水の上に彼女はふっと耐えきれず呟きの石を落した。 「誰をも裏切ることのない愛・・それを私は持ちたい・・欲しいのです」 それでも健の声は水に沈んだままだ。ふっと言葉を押し殺して耐えている彼の息遣いに思いもかけなかったいとおしさがこみ上げてくる。このひとを、私は苦しませてしまったのだろうか。手の先に彼の指が触れた。玲子はその暖かさを引き止めるように触れられた手に思わず力をこめた。

それは突然のことで、その時の彼の表情の全体はほとんど見えなかった。ただふいに屈みこんできた二つの瞳がいつもの色の消えた灰色のそれではなく内からの激しい光を黒々と凝縮させて迫ってきていた。驚いてすぐにはそれが健の瞳と判ずる力もなく、まるで真空に吸いこまれるように彼女は光に抱きすくめられ、畏れに掴まれて言葉を失い、渦巻くように周囲の静寂の中を落ちてゆく。何故あらゆる音がはたと消えたのか、考える暇もなかった。何時のまにか緩やかに草の中に沈んでいた。そしてやがて草ずれの微かな音の中で彼女のゆえのない悲しみをいたわるように全身にひろげられてゆくてのひら。熱い囁きが耳に、瞼の上に、ついで唇に、そして首に、咽喉元からみぞおちに・・としるしづけられてゆく。いえ、言葉は聞き取れないのだから、それは囁きではなかったかもしれない。やがてそれは一つ一つ乳房の上で暫し躊躇い、たゆたい、強く押し当てられ・・それからふいに深く、そして更に深く、彼女の中へ沈んでいった。

時間の全く消えた深みの底から、耳の中へそそぎこまれていた健の声でようやく浮かび上がった時、玲子ははじめて健の瞳の中にやさしさを見たのだった。限りない優しさでそれは濡れたようにきらめいていた。 「貴方は強い。強く乗り越えた」と彼は言った。もう彼女の中では何もかもが溶けて崩れていた。その瞬間自分が如何に弱くなったかに気づいて、彼女は両手で顔を覆った。涙はそのまますべてをとかし続けるように流れる。暫くの沈黙の後、健はやがてその涙にくちづけを一つすると、静かに彼女を再び覆いすくめて、ゆっくりと引き起こした。 「貴方は強かった。もういいんだ。それでいいんだ」と彼は言った。

 

玲子は結婚した。彼が相変わらず自分の仕事については話し相手の反応におかまいなしに熱心だが、ひとの話にあまり深い関心を示さないのは、家庭内の雑事に忙殺されるようになってその間にもどうやら文学に或る方向を捉え、自分の仕事を模索していた玲子にはむしろ気楽でもあり、彼は玲子のすることには殆ど何もいわなかった。そして滝田のこともそれっきり話題に上らなくなった。あまりざらにある苗字ではなかったからその機会は多くはなかったものの、滝田という名を聞く度に、見かける度に、胸の痛みは容易には消えない。彼の深い瞳が刺しとおすようにふいに立ち現れることもあったし、角を曲がれば・・の不安とそして結局の・・当然ながら・・失望とが折々は蘇るのであったが、しかしそれは未練とか悔いとか言う回顧の思いを伴ってではなかった。その瞳の前で「私は大丈夫です・・生きてゆけます・・」と口にした稚い自分の言葉がいつも耳に戻ってくる。私は生きてゆく。ひとの愛を裏切らないように、現実の今の健への愛を通して、あの拒んだ愛を捨てるのではなく、彼とはこの世で関わりを持たないことによって彼岸で永遠に変ることのないものとして、持ちつづける・・という誓を改めてくりかえして歳月は経っていった。

 

もともと玲子は押さえ難い欲求から書くことを続けていった。子供の時から日記をつけていたが、それがやがて思春期の初めにはご多分に漏れず、同級生との頻繁な文通となって、私と彼女とは、傍から見ればまだ他愛ないものであるかも知れないが、真理とは、美とは、善とは・・と果てしない論及。男性であったならば夜を徹して談論、議論を沸騰させて、はばかりもなく大人に生長してゆく過程の青春を燃焼させてゆく時期であったのに、当時の日本社会では女が議論などは以ての外。夜間外出も、それどころか昼間の一人歩きも許されない環境であったから、彼女らは毎日顔を合わせるのに学校の休み時間では足りない。文通によってしかそうした話題にふれることは出来ない。僅かに文通によってさまざまな刺激で学ぶことがあるのだった。そして中でも彼女の一番頻繁な相手が私だった。尤もおしまいに英文科に進んだ彼女と国文科の私とでは互いに文学の論戦では細かい問題が異なってくる。幅広くかみ合わせられるほど二人とも未だ知識が余りにも少ない。それに玲子が討論相手を見つけにくくなったのは、学校に優れた友人が居なかったわけではないが、男女差別社会の結果、女性だけの外国文学科にはいってくるのも文学そのものに魅力を感じてとは限らなかったからである。ただ大学に女性を入れない仕組みであったから、そもそも男女別学は小学校4年から始まり、小卒だけで終える生徒のクラスだけが共学である。ということは階層が低ければ男子の学力も高める必要がないという考え方だったのだろう。そして中学のコースは勿論、高等学校には女子の学校そのものがない。それで、多少とも学問への意欲があったりすると上級学校へ行く女性が科目の限られた女子の専門学校へ集まってくるというだけのようだった。だから、文学そのものへの関心からくるとは限らず専門の討論など思いも寄らない。女達は話していて意見が異なりそうになると、皆上手に話題をすっとそらしてしまう。真剣な心のぶつかりがないのが、玲子には失望の連続だった。だいたい教師自体にその雰囲気や意図、意欲が少ない。玲子のクラスには東大の名物だった教授も教えにきていて彼女はかねて尊敬していた教授に直接教えをうけられるのが大変嬉しく、その授業の質の高さも嬉しくて、(それでもあとから考えれば、女だから加減していたらしいが)一生懸命勉強した。ところが試験の時になってその出題が余りにも易しかったので愕然とし、この先生もやっぱり女性への偏見があると大いに落胆したことがある。今日フェミニスト達はこんなに四方塞がれた女性蔑視の中で生きてきた女性の行動を一々意識が低いと指摘しては批判するが、低いどころか切実に体に傷を受け打撃を蒙りつつ、差別を知ってきているのである。例えば当時破格に女性として自立の道を歩んだ宮本(中條)百合子を今日女性までが批判することがある。あの「道程」の、佃のように、男性の常識的にはよき夫でさえあった男の中に、やはり当時の苦闘を強いられた社会条件を実感していないから、男性の許し難い差別意識を嗅ぎ付けて妥協できなかった彼女の強さには、男のみか現代の甘やかされた女性の多くも気がつかない。佃もまた犠牲者なのだということにまで彼女が気づいていることが分らないのだろう。ところがそこまで強く環境を壊せなかった大半の女性の中には、外側の差別の枠の中で、上手に見えないように男を切り捨て、支配してきたものも多いのは確かだ。ただ、それらの二重性の欺瞞のほうが女性の美徳だと感じる神経を、むしろ見なおすべきではないだろうか。それに話を飛躍させて言えば、差別のない社会はいっそうありようが難しい。男だってまた差別を受けている。差別の撤廃のために生涯を埋める覚悟の人間でないかぎり、その渦中で歪みを受けている人間の醜い姿を批判する時はそうした社会の現実の中での個々の姿とその環境との関連の中でとらえなければ、批判も、そして生の現実を押さえるリアリズム文学の立場も、片手落ちではないか。とにかく玲子は専門も学歴の上からも全く中途半端な上、研究を続けられる道は殆どとざされていたといっていい。対等に議論できる相手も居ないということが、彼女に読書と書くこととにわずかな活路を見出さしめたのであった。

ただ結婚して外へ出ることが殆どない生活の中では、書くだけは書いても、それを発表する手だてを知らなかった。その頃まだ女性の出版界での活躍は僅かに婦人雑誌を除いては殆どなく、当時の婦人雑誌の質の低級さでは、同期の婦人編集者のところへ作品を持ちこむ気を全く起こさせなかった。何時か時期がきて世に認められることへの漠然とした期待や願いのほか、何のても知らない。ただ書かずにいられないものは次々に沸いてくるが、そのための自分の部屋やデスクどころか原稿用紙を充分に整えることにさえ、家計の中で遠慮があって、時に広告紙の裏を使ったりして茶の間で家人の留守にだけ書く。途中家事の用事が出来たり、人が入って来たりするとそのまま書きかけの紙を割烹着のポケットに押し込んだりするので、清書前の原稿はくしゃくしゃで、食物の汚点などがついてしまった。

しかしやがて文芸誌に入選することもあるようになり、或る時思いきって作品を或る、フランス文学を大学で講じながらプルーストばりの長編小説を出した新進の人気作家に送ってみた。学生時代には、特に女性の学校では文学の充実した授業は受けられなかったので、理論的に批判はまだできなかったのだが、近年の日本の小説の傾向、手法の大勢に不満があり、ヨーロッパやロシア文学の視点、特に二十世紀初頭からの心理小説や同時性の表現、時間の継起をカレンダー的時間の生起とは別に反転させたりする手法などに惹かれたからだと思う。見も知らぬこの不躾な女からの手紙を、しかしこの作家は大変親切に細かいきびしい批判をして送り返してくれたので、却って玲子は驚いた。それから何回かの作品にもいちいち評を加えてくれる。ただ彼の忠告は同じ本を繰り返し読むように、それが筆を磨くといわれたが、焦っていた玲子には一冊だけで満足できる本などなかなかない。「シャーロット・ブロンテなどは片田舎の極端に狭い社会の中で、恐らく読んでいた本の数は非常に限られていたんだとおもいますよ」とは二度も彼に言われたことだった。しかし十九世紀の英国作家だけでなく、原書は読めずともプルーストにも感嘆した彼女は、そうした手法の変化からサルトルなどにも関心が移り、とても数少ない本だけにこもっていることが出来ない。だから小説の創り方は進歩しなかったのかも知れないが、それでもやがて彼の許へ時折呼ばれるようになり、そのうちに弟子達の同人グループに加えてもらうようになった。

けれども若手の男ばかりの同人誌の中での妬みや競争の険しさには一驚した。とかく嫉妬は女の専売のように言われるが、閉ざされた環境の中では、生きとし生きる意思を持つものすべて同じと見える。ただ玲子自身は主婦で、男達のように世に出るための熾烈な競争の経済的必要や名声欲に迫られていなかったから、(そこに女の結局は甘さもあったわけだが)、男達も彼女を競争相手と真剣に挑んだりもせず、そこで個人的に悩まされることも少なかったが、それだけに真剣に文学の論争をする場でも結局なかった。時たま作品を同人誌に載せる機会も生まれたが、それには当然主婦にとっては高額の分担金も入用だった。むろん分担金を多く出せる者が発表の機会が多くなるということでもなかったが、或る編集担当になった男が自分の作品をだらだら毎号連載するために、他の同人の作品を勝手に取捨選択をするのに気づいたりすると、その喧嘩で騒々しい合評会にまじめに作品を出す気もしなくなる。

その上に子供の手がいくらか離れたと思ったのは束の間。精神的にも経済的にも家庭での気遣いが絶えない。それは必然的に、書くことへの出発点に関係してくることであった。第一に家庭内のことを題材にする気はなかった。まず身辺のスケッチを、とはよく言われたが、作文の域を出ないのでは自分にとって以外、意義があろうか。それに作品に現実のモデルを探られるのは疎ましい。近親者や友人に読まれたくない作品は書きたくなかったし、さりとて生活圏のせまい主婦のモデルは限られていて、中々ストーリーは進展しない。そのうちにも同人達はそれぞれ活動の場を確保するようになって、やがて「一時的に解散」ということになって、玲子はその後とうとうその同人会とはつながりを持たなくなってその結果、第一には書くことの意味、足場等々の基盤が未解決で、それは主婦の立場が許さない様様な行動制約と無関係ではなかった。

といって書くことをやめることはできなかった。うずくように書かずにいられない気持ちはある。スケッチの断片はどんどん溜まってゆく。ただそれらを纏め上げるには相当の集中時間が必要なのに、主婦にはなかなかそれが許されない。健はその時代の男としては妻の行動の自由を黙認していたほうかも知れないが、男と違って夕食の時間を無視し、家事万端を放り出して、子供の出入りも完全に無視したまま、主婦が机にばかり向かっていることが出来るはずもない。徒らな焦燥のうちに月日はどんどん経っていった。あの親切な作家の助言は何時も頭にあった。少ない本を深く読め。けれども繰り返し読める本が定まるべくもない。どの本も関心を注げば注ぐほど、読みたい他の本が出てくる。ところが又この作家自身は非常に多読で、豊富な知識にあふれた人なのである。玲子はとうとう彼をそれ以上煩わせるのが心苦しくなって、次第に足が遠のいてしまう。といって、はっきりもう書けませんとはどうしても言えなかったのだ。

 

   安保闘争

 

その間にも戦後の日本社会は目まぐるしい変転を遂げていく。

中でも安保闘争は個人にとって大きな節目になった。その頃まだやっと中学生だった長男の隆が、どうしても闘争のデモに加わると言い出した。日本が再び戦争の道を歩まないために、殊に自分の息子が兵になることがないようにこれには大きな関心を寄せていたものの、いざ子供に言われて玲子は鞭で打たれたようにわれに帰った。批判するだけでなく行動によって参加しなくてはならない。そこで息子には、この行動は親の責任だからと説得してやっと参加を思いとどまらせ、生まれて始めて政治行動に、ただ単なるデモの隊列の一員としてに過ぎないが、加わることになった。息子の行動を押しとどめたことが本人の自立にとってよかったことなのかは後になって考えることもあったが、その時は、恐らく自分の子供は危険な目に会わせたくないという母性のエゴがなさしめたのかも知れないが、ともかく自ら体で参加したことが、彼女自身に一つの段を上らしめた。

安保闘争は偶々彼女が参加したその日に、1人の女子学生が警官隊に殺されて、大変な騒ぎになっていった。これまで家庭の主婦として外部活動に何の関わりもなく来た玲子は、当日デモ隊の集合場所へいってもどの隊列に入っていいか全く見当がつかない。安保に反対するという共通の意思を持った人々ばかりのはずなのに、彼女が入ろうとするどの列にも暗黙の壁のようなものを感じる。みなそれぞれのグループが仲間意識でかたまっているばかりなので二列を組むことが出来ない。うろうろしているうちに「誰でも入れる声なき声の会」という旗を見つけてほっとしてその方へ寄ってゆく。それは当時の岸首相が「安保反対だ、反対だと騒ぐけれどもそんなに多くの国民が皆反対なわけじゃない。野球場なんかいっぱいじゃないか。もっと声なき声を聞け」 とマスコミに噛み付いたために、「俺達は安保反対闘争をしてから野球場にくるんだ」 と早速「声なき声の会」というのが出来たのだった。 そこもしかし中年の主婦がうろうろと紛れ込めるような雰囲気がない。みんな職場などから連れ立って賑やかにお祭りのように入ってくるのだ。それでも玲子ははみ出されそうになりながら、とにかくそこに割り込んでいった。しかしそのデモの列までもものものしい警戒とマスコミの取材者に囲まれて居り、写真を各方面から撮り続けられる。玲子は自分が撮られる理由は勿論ないし、偶々写ったところで人に知られている顔でもないから、避けはしなかったものの、やはりいい気持ちはしない。しかし行進しているうちに、写真はマスコミの取材者だけでなく学生の隊列に対しては公安とおぼしい人物も異常なほど厳しい警戒だけでなくて、威嚇的な行為も時々取られる。学生達は 「女性を中に入れろ!」 と外側の列は男子学生で、女性を中に挟むように隊列を整え直す雰囲気も出来てくる。だんだん権力者に対する憤りが、単に観念で今まで燃やしていたのとは違った身体的な怒りにかわっていった。

ただ、「声なき声の会」 は年齢層も高いし、雑多であるせいか、歩き方もゆるく、余裕があり、シュプレヒコールは唱和するが、時々玲子の傍らの男性などはデモを囲む警官達に向って、「おまわりさんもデモに加わりなさい!」 と呼びかけたりしている。国会を囲むのは何しろ大変な人数なので列は中々進まないが、唯独りで誰も見知る者もなく内心どきどきして参加した玲子はその間に様様な人々の反応を見て落ち着いてゆく。そして学生達が如何に危険な状況に警官から追いこまれていくかを目の当たりにして、いっぽうではやっぱり息子を参加させないで自分が出てきたのはよかったと、親の立場として多くの若者達の上を切実に心配するようになった。

その夜,樺美智子さんが殺されたというニュースを見たあと、健は玲子がデモに参加したときいて露骨にいやな顔をした。が、自分がでていった理由をきかされると、常々から息子の行動をもっとよく監督しろと言った。 「再び若い者を戦争に駆り立てる道を、貴方は容認なさるんですか」 というと彼は脇を向いた。「もう戦争にはならないさ」 「そんなことは決まってませんわ。 軍備でもしなきゃアメリカは景気が続かないんじゃないですか。軍備をすれば必然に戦争に・・」 「周りが軍備してりゃ、丸腰じゃ・・」 「ご自分が苦しい目にあわれたあの戦争ですよ。息子がまた殺されたり、人を殺したり・・」と言いかけると、彼は「もう戦争の話をするな!」 といきなり怒鳴った。 「女には分らんくせに。とにかく隆をよく見ていないと、ああいう・・(とテレビの方に身振りをして)目にあったりすると・・」 「それには親が真剣になって戦争反対の行動をしなきゃ・・」  玲子はふと脇を向いたままの夫のとがった横顔に漂う暗さに (この人も人を殺させられたことがあるのでは)と不安に掴まれ、この日の暗いニュースでデモに参加するぐらいで何が変えられるかと無力感が思いがけなく襲ってきた。このときから「再び戦場に息子を送らない、人を殺させない・・」という決意が強くなったと思う。

そうして何日かの闘いを経て安保条約は成立してしまった。成立となる時間が迫ると、真夜中の国会を囲んでいた多数のデモ隊の中に厳粛な悲壮な空気が漲り、張り詰めていった。とうとうその時間がきた一瞬、沈黙の中から強い声が上がった。 「闘いはこれからだ!」  ワアッと叫びがあがり、胸の中に熱い、重い、手応えを感じたが、しかし解散して家路を辿る足取りは誰しも、何としても、重かった。

 

こうして次第に日本における社会問題のいろいろな関連に目がいくようになると、いつの頃からとはっきり言えないまま、玲子はマルキシズムというものの存在を知るようになる。これも当時男性なら大学で様様なディスカッションをして、肯定否定ともにあるのはともかく、そのような思想の存在はとうに知っていたであろうに、女では高等教育を受けてないので、知る機会も少なく、しかも労働の現場にいない生活では書かれたものを通してしか知る道はなく、(実を言うと、今になって彼女のそれと知ると、筆者のこの私もその思想を系統的に勉強するてだても知らないので、膨大な資料を読みはじめても、消化されず一人密かなまさぐりをはじめていたばかりだが、玲子さんと話し合うにはまだまだ躊躇が多かった。何しろ彼女は当時まで私から見ればコチコチのクリスチャンだったから)、けれどもだんだん気がついて見れば教条的にではなく、既に民族研究所の先生方の近代的な思考の基礎には民主主義としてその影響がちゃんとあったということが今になって分るし、また、後の国鉄をめぐる沢山の事件には、社会主義者や共産主義者に対する無知からの異様な政治の暗黒部からの圧力が加わっていたことに気づく。そうしているうちに、偶々ロンドンの書店でみつけた炭坑事故の小説を翻訳し始めたとき、特に四百五十人の死者を出した九州大牟田炭坑の炭塵爆発事故のニュースは彼女に一つのきっかけを与えた。

そしてやがて間もなく又起きた北海道夕張炭坑の大事故。

  '夕張、苦うばり、坂ばかり'(里謡)

北海道の夕張はその頃、一頃の炭坑の繁栄は未だ消えやらず、国鉄がかなり頻繁に走っていた。夏は木々が内地のように一様に黒ずんだ濃い緑ではなく、それぞれの若若しい緑の相の変化を重ねて、深い美しい野山の起伏の中を列車がだんだんと山にはいっていくと、やがて豊かな夕張川が線路の右に左にうねって流れてくる。確かに炭坑からの流れで、当時その水は黒くて、景色だけとしてみれば美しい流れではない。しかし炭坑の人々はあとあとまでもその黒い水をなつかしんでよく話題にする。玲子も始めての時はつい澄んだ水を惜しむ思いで、しかもその豊かな水がそんなに真っ黒になるほど盛んな石炭産業に驚き、これから自分が見ることになる夕張の鉱山への計り知れない期待と、故知らぬ不安とで胸をいっぱいにして次第に山間にはいってゆく列車の窓外から目を離さなかった。 何しろ家庭の主婦の範囲でしか外に出たことがなかった玲子である。旅行は何度もしたが、それらは根を家庭に下ろしたまま、楽しみだけを得て帰るものであったのに、今度は違う。見たことのない炭坑町。そして九十名以上の命を奪った大事故で一家の柱を失った人々のいる街。それだけでなくその事故のために、もう鉱山そのものの存続が危機にたっているという騒然としたその町へ、知人も一人もいないところへ、行くのであった。国鉄の鈴木勉運転士から紹介の連絡は届いている筈で、先方の労働組合の役員の名前も連絡先もちゃんと整えてある。しかしいよいよ列車が鹿谷だの清水沢だのと夕張に近づくにつれて、川越しなどの山の斜面にやや遠く見え始めた炭坑住宅の連なりは、仕事のためだけの旅行はしたことがなかった彼女の胸を、未知への期待だけでなく、不安で騒がせるのであった。

夕張におりたつと、駅前にはたった一軒しかない旅館がある。玲子はそこへ入るとすぐ炭坑の労働組合事務所へ電話をした。鈴木運転士が紹介してくれた後藤泰男がすぐに電話に出た。玲子のほうがでかけていくつもりでいたのに、夕食後に三、四人で宿にきてくれるという。何となく炭坑というところを少し、外からでも見せてもらえるようなつもりでいたので戸惑ったが、もちろん操業中の炭坑に入るなどということはできる筈はなかったし、炭坑そのものに休みはない交代勤務だから、それは当然だったろう。そこで夕食までの時間町に出てみたが、別に何といってみるところがあるわけでもなく、ものの十分も歩いたら、町も尽き宿に戻るほかなくなってしまった。

食事が終わるか終わらないうちに彼らはやってきた。ということは彼らにはまだ夕食前だということになるのに、勧めても食事を取ろうとしなかった。電話の時の口の聞き方からしてもしっかりと要点を掴んだ応対に、炭坑員に漠然としたイメージしか持っていなかった玲子には意外だったのに、宿の玄関に現れた男達四人は、服装は作業服のままであったが、いづれも態度といい、しっかりした目付き、言葉遣いといい、東京の彼女の近所の商店などの男達とも違った節度を持つ都会的(?)な機敏さに、自分の漠然とした先入観でふらりと上滑りな取材にやってきたことを羞じさせるものがあった。彼らが先ず宿へ訪ねてきたことも考えてみれば当然であった。もともと彼女は自分が翻訳中のイギリスの炭坑小説にでてくる炭坑の構造、坑内設備の各名称、用語などを知りたいというのが目的であった。勿論先般の大事故の事情は充分知ってくるのは当然だが、別に自分勝手だからだけではなく、素人が労働社会問題にまで言及するには臆病な遠慮もあったからであるが。しかしすぐに分ったことは、彼らはこの大事故の性格、日本政府の石炭政策、それに現れてくる根底の政界の体質等を玲子にも訴えて知ってもらいたいのであった。

玲子には勿論政情に大いに関心はあったが、新聞雑誌の論文で読む以上に情報源はなく、実際活動とはそれまで全く繋がりがなかった。僅かに安保闘争でおづおづとデモに加わったくらいである。三鷹事件に始まり一連の、下山事件、松川事件へと、国鉄にかけられた攻撃には多大の関心を持って新聞だけでなく目につく書は手に入れて読んでいったから人にも語ることはいくらかあっても、夫は相手にならず、友人の女性達は殆どそうしたことに関心がない。ちょっとでも彼女が口にするとうまく話をかわすか、疑わしい目で避けてしまう。正面から持ち出すのは見こみないと気がついて、わづかに下山総裁事件の犯罪捜査に関わる血液鑑定の専門家が、搦め手から真相に迫るヒントを出している論説をみつけたので、一人の友人に読ませることに成功したが、その相手が言った。(実はそれがこの私であった。今となっては私は自分の勉強不足を非常に恥じる。) 「とても綿密な研究でいろいろ教えられたわ。でも何故これを私に読ませたいの」 玲子は自分の意図が通じなかったことに落胆した。下山事件は夫と又もや二度と話題に上せられない対話をしてしまった衝撃的な事件だった。健は商業新聞マスコミの言うところから一歩も出られず、米国某機関の謀略云々はすべて共産主義者の歪曲と玲子を罵った。共産主義とはどういうものかよくまだ知らなかった彼女は、人道的なことと、それが、どういう関係にあるのか、却って関心が俄かにたかまってきた。米軍の要請に総裁がどんな形で抵抗をみせたのか、それとも労働組合を押さえられない総裁を生贄にして労働者弾圧に利用したのか、とにかくあんな謀略を白昼堂々とやってのける大きな黒い存在への底知れない怯えの中で、そうしたことを微塵も感得できないらしい国鉄勤務の夫には、いくら真実追及の熱意があろうとも彼女の立場では要するに伝聞を語る以上に何の行動も出来るわけではないと知ると、話し合いを続けることが殆ど出来なくなった。だからこそ血液鑑定に限った犯罪捜査の側面からこれほど鋭く核心を衝いている論説を、女達、特に親友に、知ってもらいたかったのに。(そう彼女が書いているのを読んだとき、私はじくじくした自分の余計な勘繰りを恥じた。意気地ないと女の欺瞞を批判するくせに、私も実はそれが下山事件を告発しているのではないかと思うと同時に、国鉄人を夫としている彼女にそれを示唆するのは気の毒と思って鈍感なふりをしてしまったのだった。) 当時長々と雑誌連載の続いた広津和郎氏の綿密な鋭い直感と閃きから生まれた問題意識で、倦むことなく科学的に探求を重ねた松川事件も読んで、下山事件に始まり国鉄を舞台にして、占領軍の色々な暗躍が計画的に続くのではないかと不安で、そのことで国鉄人を夫とする彼女と話を続けていられない気持ちだったのだ。つまらない目先の気がねが先で、決して問題を客観的に平静に語れない女の矮小さ。それが玲子を誤解させていたと今ごろになって知るなんて。もし当時その話題が二人の間で発展していたらと考えると、ことほどさように当時の女の周辺は無知と偏見に沈滞していて、自らの日常生活に直接関係ない話への壁を破ることはできていなかったのだ。それをこの男達は初対面で、しかも学歴からいって一般にそう高くないはずの肉体労働者が(女として学歴に偏見を持っていないつもりだった玲子でもついその条件を思い浮かべるという弱点・・)、そして又中央の専従活動家でもないただ一地方の一炭坑の鉱員が、揃ってこのような問題にはっきりした意見を持ち、しかも行動しているという事実の一端を目の当たりにして、先ず感嘆した。そしてそれが玲子の炭坑問題への関心だけでなくその後の社会動勢、政界の体質等々への資料に積極的に取り組むきっかけとなったのであった。

彼らは恐らく食事前であったろうに、玲子が持参した菓子にも手をつけず、行儀よく、こもごもそうした話を続けて、長時間にわたって事故の背後状況について、情報を与えてくれた。尤も、甘い菓子に手をださなかったのは別な理由だった。あとで玲子がビールを少々出させたときは飲んだし、彼女も少し飲めると分ってからは彼らの打ち解け方はまた一段と進んだ。結局坑内の設備、構造、行動その他各部の名称などは簡単に分るようになって翻訳に難なく役にたった。ただ平面図でみせられても中々内部構造は納得がいかなくて、しかも彼女が翻訳していた、イギリスの海岸に近いしかも150年前の炭坑と、山奥の現代の、最新掘削技術を標榜して誇っていた夕張炭坑とでは構造が確かに違って、翻訳そのものにすぐ役立つわけでないところもあった。けれども炭坑をじかに見ることはもう実際の目的でなくなってきた。

翌日、後藤泰男と市議森谷猛の二人が玲子を案内してくれた。森谷はこの炭坑の危険を早くから訴えていた前市議田口睦夫の親友であったが、田口が自分であんなに警告していた爆発の大事故で亡くなってから、すぐ推されて後の市議に当選していた。田口を語る二人の目はいつも赤く潤む。先ず事故の犠牲者の慰霊塔にいったが、ふたりはここに頭を下げなかった。これは会社が死者や遺族の補償をないがしろにしてこんなものをを建てることで償ったつもりになっているという烈しい怒りである。しかも塔の題字が北炭社長の筆であるという。 「労働者を殺しておいて、だよ。安らかにお眠りくださいとは何たるふざけた話だ」と二人顔を合わせては憤る。 そもそもどうしてこんな事故が起きたか、家庭から出なかったそれまでの女の生活では納得のいかない、そして分ってみればいっそう納得など絶対出来ない、話である。それについては別記しなければならないが、玲子の目に映った様様な炭坑の側面を下敷きにしなければならないから、今はそのままその日の行動に移ろう。

先ず題字を社長が書いて償いの恩恵を与えたつもりの感覚。そして石の面には死者の名の列挙だけでそこに没年齢もないのが大変な彼らへの敬意の欠落であろう。玲子が見たイギリスのハートレー炭坑の犠牲者の墓には年齢が添えてあった。測量の杜撰さから一瞬の海水侵入という事故でなくなったそこの多数の人々は、150年も前では年齢幅もまちまちに大きくて、7才から70才を越した者もあった。教会の大木の下陰で、ひっそり湿って傾きかけた石の面の名は、家族毎に並べられていてそれだけに痛ましいが、またその年齢によって、未知の我々にも彼らの生前の生活が自ずと偲ばれる。蚊柱がたつ木陰に暫く佇んで彼らの生きた日々を想うのは、現代の我々にとって貴重な歴史を想う時間であった。ところがここ夕張新坑跡には全く知らない名前だけが無表情にならんでいる。どんな人々であったのか想像の広げられるよすがもない。現代ではもう坑内に子供はいなかったし、或る年齢以上の老人ももう雇われなかった。ただ働き盛りの男達の名前ばかり。 「この人とこの人、同じ苗字なのは兄弟か親子とか・・親戚なのですか」

あまり長い無言が続いたので二人の労をちゃんと自分は受けとめているのだと伝えたくて、訊ねてみる。が、後藤は「いや」 と短くしか答えない。こんな名前の羅列だけでは生前の彼らを知らないものには想像の広げようもない。いや、それどころか、二人が更に憤慨していたのがその名前の並べ方であったことが分る。年齢でもアイウエオ順でもなく、生前の役職の高さからの順だということである。 「えっ!」と玲子までも驚いて声が出てしまった。死んで人間に何の差別が残る? そうした差別観そのものに非人道的な根本的原因がある・・と彼女まで腹の底から憤慨してしまった。

その後昔からの坑夫たちが眠る市営の墓地に案内された。そこで草深い入り口にたった時、まず後藤が言った。 「この草の中をよく見て下さい。自然石の墓がありますから」 自然石? 都会では大変贅沢な趣向である。戸惑った表情の玲子に彼は続けて言った。 「つまりですね。事故などで一家の柱を奪われたあと、墓を立てる余裕のない家族達が川原の石を拾ってきて・・」 玲子は言葉が出てこなかった。自然石。手に握り締めて永劫の時に託す思いを、その名を標すすべもなく、誰に残そうとしたのか。 「この辺にあるんですよ。沢山あるんです」 と彼は自分に呟くように言った。 草を分けて入るそこここの大きい墓石も、時代様式はまちまちで、この炭坑町の開拓以来の歴史の跡、一つ一つに千万の物語があるのであろう。事故死だけでは勿論ないが、他の土地のどの墓地よりもそれが多いであろうことが、胸を圧する。しかも名も記されずに草の中にそっとうずめられた沢山の川原石。いや、石を拾ってくれる家族さえなくなった孤独の死で抹消された生命の数々。その上に、遠い海の彼方の異国から、攫われて、引きずってこられて・・その名も、存在さえ知られずに果てた人々。 「ここには朝鮮の人の慰霊の塔が別にあるそうですね」と玲子が言うと、「神霊の塔ですか」 と森谷が腕を伸ばして山の上のほうを漠然と指した。 「山のずっと上の方なんですが、遥か故郷、朝鮮の方を向けて建てたものです。ごらんになりますか」と一寸間をおいて彼が言った。 玲子にはすぐに彼が忙しい市議としての時間を気にしているのが察しられたので、無論すぐに「いえ」と辞退した。「ずいぶん沢山朝鮮人が連れてこられたようですね」 後藤が経験の多い年配の人らしく、子供の頃の思い出に話が移る。 「ここは山また山をいくつも越えなくては外に出られないから、炭坑から逃げ出すことは容易じゃなかったんですが、其れでも朝鮮人が逃げ出すことがありましたね。その度に物凄い山狩りが行われて。一度、つかまった男が引きずられて行くのを見て・・」 子供の目に絶対消えない光景として絶句し、彼は多くは語らなかったけれど、そのあとぽっつり言った。 「・・人間の扱いじゃありませんでしたね・・」 その日墓地へ来た目的は前市議田口睦夫の墓へ詣でることでもあった。他に比べて殆ど真新しい墓であった。 「これは田口が父親の為に建てたんでしてね。あまり立派な墓を建てないほうがいいんじゃないかって我々言ってたんだけど、とうとう冗談が其の通りになってしまって・・」  森谷のおしまいの声は曇った。そして玲子が手を合わせて前へ進むと、彼らはひっそり後ろを向いて、其の表情を隠した。

墓地を出るといよいよ山の坑口へ向う。といっても勿論操業中の坑内へ部外者が、殊に女が入ることは出来ない。今は閉鎖された昔の小さい坑口などを見ながら山へ上っていくのである。石ころだらけの斜面に疎らな雑草を踏みながらいくと、廃坑になった坑口、大正末期に坑内火災で閉鎖された坑口・・などとぽつぽつ案内される。斜めに地面から立上がって閉じられたコンクリート蓋から細い煙突がでているのもある。坑内のガスを抜くとかで、二人は時々その煙突の先に手をかざしてみることもある。別に目にみえて何もでているわけでもないし、温度が高いとか、冷え冷えとしているというわけでもないが、坑内火災で閉じられたという坑からの特別な「気」も彼らにはあるのであろう。 「よくこういう口をあとからあけてみると、中から逃げ出してきてここまで達しながら、閉じられた蓋に阻まれて外へ出られなかった人の爪跡がこの蓋の裏に残っていたりすることがあるんです」と後藤が言った。 彼が煙突の先にかざした手を下ろす時、返事も出来ずに玲子は思わず目を閉じた。どうして彼は爪痕のことだけをいったのか。 この汚れたざらざらのコンクリート蓋のすぐ裏側に、そうした逃げられなかった人々の、もがきにもがいた爪痕の下には、当然・・ あたりの石のかけらやコンクリートの破片が、うるんだ彼女の目の先でその骨のかけらともいうべく、かすかに妖気を漂わせているとさえ見える。 後藤には自分の辿ってきた幾つかのちいさい炭坑に思いでが尽きないものがあると見え、次から次と坑口の名を挙げてゆく。 「こうした名には水に関係したものが多いんですよ。千歳川の千歳とか・・それほど炭坑火災は恐れられていたからですね」 若い森谷市議はこうした時は聞き役になる。 後藤はその後、いやな思い出を振り払うように、急に、 「しかし僕らが入った頃の炭坑の中には、こういう山全体がそもそも炭層といえるところでしょ。だから中には入り口から入っていくと、じきに地下へ降りるんじゃなくて、却って上りになっていくのもある。山の上の方へ上がっていくんですね。そうすると中には昼休みなんか山の上へ出られるところもある。面白いですよ。夕方仕事がおわって薄暗い坑口からでてくる連中が、背中に蕗や花や山草なんかをいっぱい背負ってね」 そう語るとき彼はあれら悲惨な事故の人生を、自分は経験せずとも仲間のために闘って生きてきた男の、どの境遇に対しても強靭な力でむしろ跳ね返してみせる無邪気なまでの喜びを顔にあらわした。 山あいの小川沿いに上がっていくときもそうだった。 幾つもの旧い昔の炭坑跡を辿ってきて、ひそかにそれぞれ息苦しい思いにひろがってしまった沈黙を断ち切るかのように、森谷が「魚いるかな」と流れを覗きこむと、後藤はまた手元の長い草を掴みながら 「うん、ここらの魚はわりと簡単につかまるんだ。こんな草の葉でも、飛んでいる蜻蛉なんかちょっと捕まえて・・」 彼はあたりを見まわしたが、別にすぐには蜻蛉も見えない。 「割とすぐつかまるんだ。つり竿なんかなくても」 それで何となく重苦しい沈黙が振り払われて、足取りが幾分軽くなる。

ともかく玲子が訪れた時、夕張新坑は、残った坑内員の強い操業続行の希望にも関わらず閉鎖というので、人々が闘っているときであった。会社側はむしろ事故を奇貨として(というより実は彼らの予想通りの好機として)閉山を強行し、別な事業の会社として(観光業・・こともあろうに)生き延びようと企んでいる時であった。そこで次の日はまだ残って頑張っている労働者の1人が、自分の車で玲子を炭坑博物館へ案内してくれた。

この博物館は昔やはり13名ほどの犠牲者の出る事故を起こした比較的浅い炭坑の廃坑を利用したもので、地上に立派な露頭炭層がみえている。博物館としてはかなりよく出来ていて、坑内で使われていた機械、道具の展示も規模が大きく、実際の坑道の構造もじかに見ることが出来るよう、かつて使っていた坑道そのまま歩いて廻れる。それだけでなく昔からの炭坑夫の生活を取り巻く社会制度の一端、友子制(組合以前の一種の親分子分のしきたりか)なども人形などで展示してある。ただいくら昔の鉱夫長屋の6畳1間に家族全員、子供は押し入れなどで寝て・・という古新聞が貼り付けられた破れ襖でも、展示というものの性格上、模型は綺麗事にしかならず、案内した鈴木一男の、現場の者だけが語れる色々細かい事実が玲子にはこの上ない参考になった。むろん今の坑内員の生活はかつての炭坑長屋ではない。北海道では今でも多い4軒が一棟になった住宅が列をなして並んでいるところもあるが、それは冬の雪深さと暖房効率を考えた北海道の都会にも多い木造住宅の伝統でその一軒一軒は独立して三部屋以上を持つし、新しい方の住宅は公営のアパート群と変らない。危険な仕事であったせいか、給料は肉体労働者としてはよいので、むろんこの山奥では間遠なバスと汽車しか交通手段がないから必需品でもあるのだが、みな車を持っている。  とにかく説明をききながら模擬炭坑を見ていくと、もしそれが本当に地下千メートルであればと(この模擬鉱に入るとき、地下何百メートルと下りてゆくさまを見せる為にエレベーターの窓は実際の何十倍もの速さでくだってゆくかのようにみせる仕掛けがしてある。ところがこの模擬鉱は最後に少々歩いて上がれば、そのまま地上に出られる。入り口は小さな丘の上だが、出口は丘の下につけてある)、中は馴れぬ者には寒気がするところもある。何十人も一緒に最新式の機械の自走枠に乗って掘削する広い坑道も、命は太い風管で入る空気一本に頼っているわけで、最悪の場合の末端の救命設備は、間遠に置かれた救命テントと、あとはところどころにぶら下げられたビニール袋である。一人一個のその袋は救助を待つ30分だけ持つとか。しかしその坑道より上のほうで事故があり、空気が送られなかったら・・電気がきれた暗闇の中で袋がみつからなかったら・・人数より袋が足りなかったら・・いや、実際この前の事故では倒れていた仲間を見つけてとびだして引きずってきて(その間だけでも自分がガスを吸うことも危険だったのに)自分の袋を一緒に吸わせたなど(それだけ空気は早くなくなってしまう)、美談かもしれないが、この最新式のテクノロジーで世界最深の掘削を誇っていた会社が、むしろ労働対策の恥を世界に晒す話ではないか。しかし一般の見学者はそんなことは考えないで、ものめずらしい設備に満足して帰るだけかも知れないが。

博物館から外へでると鈴木は夢でも見ていたように瞬きをして、長年昼間の明るさに遭うことがほとんどなかったから、白日の下では変だ、変だ、と二度も言って笑った。模擬鉱の中でもあの方が彼になじむ世界なのかもしれない。墓地を訪れたときの後藤も森谷もそうだったが、彼らは過去の悲惨な事故について語りながら、なお前を向いて闘っていく力を持っていることに賛嘆する。彼らだって逃げる気になれば今まだ他の収入の道はないわけではない。しかし自分や家族の生活だけの視野ではなく、仲間全体、いや国の政策へも目がいってるので彼らは逃げ出さないのだ。先人の犠牲を物語るあの墓地を度々訪れながら、彼らは明日自分がそこに入ることを思わないのか、あえて困難な道を逸れようとはしない。国の政策のひどさを、いや、本当は「国」ではなくて、国の名において私利を図る政治家たちのひどさを、玲子ははじめて知った。後藤が旅館に持ってきてくれた資料は、短い、忙しい滞在中は、ごく一部しか読みきれなかったが、帰りの車中や帰宅してからは関連の図書を手に入れて分ったことは、驚くべき、政界と企業家をめぐる、すべて金のための収賄汚職の陰謀だったのだ。

勿論エネルギー政策の転換という事情は個人の政治家や企業家だけの責任によるのではないことは自明の理だが、だからといってこの間に彼らがやり遂げた行動の個人としての責任はいくら追及してもし足りない犯罪であろう。ある期間を置いて石炭を徐々に切り捨てる。それは鉱員らの生活の転換をスムースに行う為などではない。企業がエネルギー転換を終えて石炭を買わなくなるまでに過ぎず、それまでは遮二無二働かせて石炭を掘らせておく。その間次第に減ってゆく生産量を大会社が損失を負わないようにまず中小の炭坑を整理吸収する。その度に賃金の低下、首切り、下請けの労働条件の悪化は当然起きる。究極には日本に三大炭坑だけが残る、というプログラムである。すなわち九州の三井有明鉱、北炭夕張新鉱,三菱南大夕張である。このスクラップ・アンド・ビルド政策には補助金を出す。そして新しく効率のよい生産機構に転換する会社には助成金を出した。その援助金、助成金がくせものなのである。当時、ロッキード事件で田中総理の逮捕のあと、総理大臣になった三木武夫の政治に、自ら金まみれの暗部を抱えた保守派議員達は危機感を抱き、三木をおろすため、福田赳夫を総理にと画策をしていた。北炭の萩原社長らは、福田に資金を提供する為に何をしたかというと、先ず現存の炭坑を坑道で小さく分けて幾つもの小さい会社とする。勿論ペーパーの上だけで操業の形が変るわけではない。それを北炭が吸収すると援助金をせしめ、ついで新しい夕張新鉱を興すので助成金を取る、というのであった。もちろんそれらの金は福田にかなり還流して総理への運動の資金となった。

こうしてかなり減じた金で新しい炭坑を掘るというので、この夕張の世界有数の深い炭層の優秀な炭質の石炭を、世界で未だ試みたことのない優れた機械で掘り出すという。しかし先ず建設の場所設定からして、掘り当てたよい炭層に坑口をつけるというのでなく、石炭を運び出すのに交通の便とか、人家への距離がどうやらパスするようなとか・・すべて外部条件で決める。それからボーリングだがこれは一層徹底的になされねばならないものを、それが誤魔化された。失敗してロッドが入っていかなかったらそこはガスの巣で、絶対に掘ってはならず、強行すれば高圧で押し込められていたガスが突出して大惨事になるのである。しかしこの新鉱はボーリングの失敗はそのまま、ロッドを中途で引き抜いて中断し、それで一丁あがりとして次に移り、試掘は予定通りやってのけたからボーリングは成功、としてしまった。そればかりか労働者の告発によれば、ロッドが足りないことが時どき起きる。それを要求すれば現場労働者の数え違いということにして葬り、規定通りの試掘が済んだとしてしまう。かと思えば前日数えたロッドが増えていることもある。おかしいと思った労働者が済んだはずの試掘管を調べたら、半分までしかいれてないので余ったというのだ。それも激しい抗議にも関わらず労働者の数え違いということで問題は葬られてしまったとか。そういういいかげんな試掘には社長自身もその自叙伝で「それだから・・場所の選定については・・不安だった・・」と言っていた。(勿論彼はその困難を克服した新鉱の設立を誇って述べたものである。)とにかく彼らはボーリングの終結を急いだ。助成金というものの性質上、X年X月着工、X年X月石炭搬出開始・・を守らないと助成金を切られてしまうからであった。

そもそもそのような操業での危険性は現場の労働者の経験とカン、及び現場各所の不備や欠陥からすぐにあきらかになって、故田口市議が先頭になって労働組合が真剣に訴え始めてきた。その矢先の危惧通りの惨事であった。もうこれは不慮不測の事故というものではない。会社の犯罪である。おまけにこの事故は北炭夕張新鉱一つにとどまらなかった。間もなく玲子の翻訳がほぼ完成した時、九州有明鉱で大爆発が起り、更に愈愈その本が出版になったときに南大夕張の三菱炭坑が同じガス爆発を起こして、三大炭坑が相次いで全滅。政治家の予定の筋書き通りになった。事故をまで予定して政策をたてるはずがないというのは凡人の無知の甘さである。否、甘さも罪である。ともかくそういうことで、戦後の日本は目まぐるしい変転を遂げた。特に安保闘争後、政界の転変に国鉄が絡み、利用されてゆく事件がだんだんに出てきた。

 

  国鉄の分割民営

 

戦後の日本社会は目まぐるしい変転を遂げた。特に安保闘争後、政界の転変に国鉄が絡み、利用されてゆく事件がだんだん出てきた。先ず下山事件。労働組合の弾圧が始まってその口実に企まれた占領軍側の手による殺害であることは後にはっきりしてくるが、真相がわかるまではずいぶん多くの人々の努力と犠牲が費やされている。続いて三鷹事件。無人の電車が暴走して人家に突っ込むという考えられない事件だが、これも何年か後に多くの労働者に犠牲がかぶせられたあげく、組合の罪ではないことが分ってしまう。ついで松川事件。こうなると素人にも全般的なねらいは次第に透けて見えてくる。しかしなんといっても具体的な証拠事実を掴むまでには非常に多くの優秀な頭脳のたゆまぬ努力、特に広津和郎氏の何年にもわたる綿密な調査分析と透徹した直感が必要だったのである。そして勿論労働組合運動に直接携わった有能な男達の夥しい犠牲と。

国鉄の一つ一つの事件毎に、当然食卓での話題がそれに触れる。けれども健はにべもなくすべて新聞の発表通りにしか見ないで、玲子の素人的疑問なぞ一笑する。 「鉄道労働者なんて、無知でがさつだからなあ」 玲子は思わずきっとなっていった。「私の親戚にも何人か運転士や何かいるわ」 貧しい中から末子の父を学資を出して今日の大学教師にしてくれた伯父達の子供だった。当時地方により子供を中学にやる学資のない家庭の進学の道は鉄道学校ということがあった。 「境遇のお陰で学校を出られなくたって、生来優秀な人間は沢山いるわ」 「そりゃ特別なのもいるだろうけれど・・」 「特別ということはないわ。恐らく大勢いるでしょう」 (女にだって、沢山・・)  従兄弟たちを見ていて、能力に環境がどのように影響条件を持つか、知らず知らず関心を寄せるようになっていた。同時に学歴が高いために社会的に或る程度の地位を占めるようになっている者の実力や実体への無条件な肯定評価も控えるようになる。優秀とは何を基準にしていうか。

ところで一方、健は学歴のせいでもあるのか、職場ではどんどんいわゆる出世をしてゆく。そのうち政治的方面の人々との出入りや交際もぐんぐん増えていくらしいのにも気がついてきた。それをどう考えていいか分らないながらも、直接家族生活にまだ不都合があるわけでもなく、客の応対に忙しいことだけが、だんだん彼女のものを書く時間を狭めてくるのだけが最初は気になるくらいのものであった。一方では例の国労をめぐる大事件についての健の煮え切らない意見がひっかかるものの、玲子にしてはまだ自分に直接関係ある事件でもなかったので、松川事件の広津氏の調査や論説に惹かれて人道的関心から関連の論説や記事を皆気をつけて読むようになったものの、それが健と対決すべき思想上の問題であるとは自覚できなかった。

彼女は炭坑事故取材中にも政治家の利権の狙いは石炭の次に鉄道・・(勿論それに通信事業NTTの問題も出るが)という予想もでてきたが、まさしくその通りそれに引き続いて国鉄の分割民営問題がおもてに出てきてしまったのである。国営企業を政治家が私企業に取り込んでしまうという構図は今や国鉄に迫った。

その頃鈴木運転士が国鉄の分割問題には世論を支えにしなくてはと、玲子にも反対の署名を求めてきた。かつては優良運転士として表彰されたこともあった彼が、国労組合員排除のJRの方針によって、駅のベンディング配属となり、自動販売機の飲料の詰め替え、運搬などに追いまくられることになった。或いは自分が教官として教えた若手の運転士の目の前で、彼らが入庫する車両の掃除雑役をさせられたり、更には人材活用センターとしょうする室や建物に多くの運転士、車掌などを他の乗務員から切り離し、隔離して、不要になった線路を切断して文鎮を作らせたり、廃棄する電線の被覆剥きだとか、彼らの給料に満たない仕事を強制しておいて、それが彼らが無駄飯食いである証拠のように喧伝していた。しかもその一方では運転士の不足、技術低下、経験の不足、判断の未熟等々により、従来は考えられなかった事故が各地で多発した。時刻表厳守を強制するために、運転台の自動制御装置を切られ、そのためにカーブで前車が見えなかった新米の運転士が急追突で本人もろとも多数の乗客が死んだり、それでも責めは運転士にだけ負わせるとか、強風の中で高い長い海岸の鉄橋を渡るのも、現場の運転士の風力判断が容れられず、遠い司令室の、局地情報のない甘いいいかげんな判断で指示されて、長い車両が横風に転落、運転士も乗客も死んだばかりでなく、下にあった漁業生産工場が潰れて、作業していた女性達も死ぬという事件。果ては単線の区間で正面衝突、という信じられない無責任さ。それらは経験も技量も豊富な国労の組合員を元に戻せば解決のつくはずの、全く初歩的な誤りか無責任が生むやりきれない事故ばかりであった。しかも罰せられるのはいつも現場の直接の労働者で、上には殆ど責めが及ばない。

玲子はどんな点からいっても国労潰しの策謀で、労働者にもっぱら責任を負わせるやりかたに怒りを感じていたので、その反対署名にむしろ進んで応じた。そしてこのあたりから健と表立って議論が生じることになった。議論といっても健は論理を尽くしてまともに相手になる気は全然ない。長い間の労働者への偏見や権威盲従のサラリーマンの性はもう抜き難くなっていた。その上このごろになって彼自身政界への誘いがかなりもう具体化し始めていたらしい。もちろん労働運動を敵視する政党へである。玲子の抗議は全然問題にしない。まともに討論してなら玲子もどうせ行動力としては何ほどのこともない一主婦としては、運動への参加不参加は一時留保してもよかっただろう。が、そうした政治の動向だけでなく、或る時、新線の開発の為、土木機械が入ったところで遺跡が発見されてしまったことがある。こうしたことはこれまでも決して珍しいことではなく、度々ではあるが、考古学の知識が広まってきた近年、遺跡をそのまま破壊して工事を進めることはできなくなっていたのだが、それで鉄道の建設が遅れたり、設計を大幅に変更せざるを得なくなることがあるのを、健は無駄な、あるいは非能率的な、または退嬰的、非近代的、道理に合わないやり口などと来客達を前にしても盛んに批判する。玲子の考古学観も勿論素人の興味、関心の程度でしかなかったが、それでも遺跡の保存がその後の学問の発展に、どれだけ計り知れないものであるかは分らずにいない。が、考古学というものへもまさか民族学(=滝田)とまさか同一視したわけでもあるまいが、やや異常なほどの彼の憎しみのようなものを見せられて、 ふと戦くこともあった。それも次第に健の仕事への不信を深めるようになっていったようだ。とにかく今度も労働問題そのものの正面きっての論議を尽くそうというのでもなく、労働者の立場を理解しようとする気配もなくて、煎じ詰めると自分の出世昇進しか念頭にないといわざるを得ない夫の態度に怒りを覚えて、とうとう鈴木の持ってきた署名簿に記名した。だからといって別に活動家になるわけでもないからと思ったまま。職場での組合活動の経験もなかった玲子の認識は甘かった。国鉄幹部に近い者の妻が国鉄の方針に反対運動・・ということは近く参議院選に出馬を予定していた健にとって、どういうことなのかを玲子は知らなかった。健は出馬のことを一言も相談しなかった。ところが事はただ国鉄の分割民営の反対という個人の意思表示をするだけですまなくなってきた。或る晩めずらしく健が食事に間にあって帰宅して、機嫌よく晩酌をはじめたので、玲子も張りのある気持ちで署名の話をすると、彼の顔色が変った。妻が国鉄の分割民営に反対する運動に名前が出るといって、彼は激怒した。 「俺の立場も知らないで」 その時はじめて次の参議院選挙に出馬を要請されているのだと怒りをぶつけたのである。 「よりによってだよ。その俺の妻が・・となったら」 もちろん立場といっても個人的意見以上の意味を持つと思わなかった玲子は賛同者名簿から名前を消してもらうことはすぐ出来る。しかし名を出さなくても自分はもうこの問題に無関心でいられないことを知った。もちろん健の政治運動に邪魔をいれるようなことをするつもりはない。けれども家族として彼に協力することを要請されるとなると、自分の信念は枉げられない。自身の生活の足場から生き方の反省を求められることなのだとはじめて知ったのである。

これまで個と社会的な繋がりはせいぜい観念でしかなかったが、健との違いはだんだん強くなると単なる感想ではなくて、離婚をまで考慮させるような要件になってきた。むろん彼が彼の生きたいように活動するのは彼女の勉強の自由を許してくれている限り、彼女にどうしようもないし、しようとも思わなかった。しかし選挙の応援活動をしなければならない立場を自分に許すことは出来ない。勿論、しかし反対運動の中で自分が少しでも実際の活動力になりうるなどとは思わなかったし、このままただひっそりと身をひいて精神的応援をしてすませれば一番好もしくはあったろうが、健の妻という立場がそれで許される筈がない。自分の愛欲に関係のない国鉄の民営化問題が離婚の理由になりかかったことに、玲子はむしろおどろいていた。

とはいえ事態は猶予を許さない。健はどうしても、少なくとも今の時期での離婚に承知しないし、いよいよ候補者になることが発表されると彼女に手をつかねていることも許すはずがない。勿論彼女は民営化反対運動から身をひいて問題はなかったものの、健の選挙運動にはどうしても参加したくない。この問題を彼とじっくり話し合う時間を求めても彼にはそんな手間暇をかける気も時間も全くないようだった。何度も内助を要求される。それでも彼と話し合いたい。彼の幅広い胸に顔を埋めてその奥深くに注ぎ込む心を受けてもらいたい。彼の仕事の方は今更いざこざ言うわけにいくまい。ただ愛情と関係のない他のことが二人を切り離すことになるのは・・ 

それを一日考えて待って、彼が帰宅すると我ながら不思議なくらい胸が高鳴り、真新しい下着などつけた日には特に乳がそれに触れて痛いほどであった。しかし疲れきった様子の彼にはもう彼女の肌へのいたわりも残っていないらしい。ただ出来るだけ早く自分一人の眠りに逃げ込みたいようでしかなかった。愛情も外の事情と無関係でないことは今はじめて知ることでもなかったのに、玲子は次第に失望に沈んでゆく。時には無性に気弱くなって、もしその瞬間彼に烈しく抱き締められて唇を塞がれたりしたら、彼のどんな要求にも頷いてしまいそうな気がすることもあった。しかし現実に彼の瞳をみると、また自分自身の立場がはっきり思い知らされてわれに返るのであった。

そうして抵抗が続くうちに立候補発表の時は容赦なく近づいてきた。すると或る時、健が彼女に病院で健康診断をしてもらうよう命じた。成人病のドック入りである。勿論これは必要で異論を挟む余地はない。むしろそれを言われた彼女はふっともしこれで病気が指摘されたら、それが彼女自身の苦境を救ってくれることになるかもしれないと気づく。健がどんなつもりで言い出したかは知る由もないが、或いは精神の不安定を理由に病院へ押しこむつもりかなど邪推もチラと働いたが、それも一時的にはむしろ事態を糊塗する助けとなるかとさえ考えた。

検査の結果は思いがけず初期の肺がんがあるということがわかったので、時を移さず手術ということになった。そしてこの手術の時の全身麻酔が今日の彼女の病症の始まりになったという。少なくとも娘の千鶴子さんはそう信じている。そして玲子はこんな形で夫婦の危機を回避できたわけだが、その不運でその信念を徹底的に貫くことも、以後の意志の進展を見ることもできなくなったわけだ。彼女の生涯のたゆまぬ歩みがこんなことでまっとうできなかったことをやはり口惜しく思わざるを得ない。それで私はこの彼女の半生を書いたものを先に一緒に見舞に同行した二人に見せて、もしも手術が成功したら、あるいは病気そのものがなかったら、彼女は離婚してその信念を貫いたかどうか結論を訊ねたことがある。一人は「でも、それで離婚がうまく避けられて、まあ不幸中の幸いじゃない?」 という。私は反射的に彼女から目を逸らしてしまった。何年も前、彼女が夫に女がいるらしいこと、けれども別れたら子供の養育や経済的に困るから・・というような愚痴をもらしたことがあった。 私はその、愛してもいないのにお金のために我慢という女のエゴと残忍さにぞっとしたけれども、その時個人的に私が相談を受けたわけでもなく、そんな愚痴も、彼の帰宅を見れば恐らくいそいそと身の回りの世話にたち回るだけで決定的な喧嘩はしないだろうその優柔さ、狡さがうとましかったのを思い出したからであった。今の彼女は多分子供も立派に独立、結婚もし、単身赴任の多かった夫も定年を迎えて家庭に落ち着き、彼女は短歌の会などに出て歩くぐらいの満ち足りた奥様でいるらしい。 私は彼女があの時離婚しなかったことの損失なんか、一生知ることのない人だろうと気がついた。もう一人は暫く黙っていた。「そうね、でもこれで病気のお陰で男の方から離婚を申し渡される目にはお会いにならないですんだわけね。 せめてもそのことを喜ぶしか彼女の挫折を惜しむことはできないでしょうね」 と彼女は吐息して付け加えた。 「これが結局神のお計らいだったのかしら」 今のような状態であっても、離婚されさえしなければ玲子さんはまだしも「幸せ」だというのだろうか。私は幸福だけが最高の価値であるかのように、言葉の断片だけで「幸福」の貼り合わせをして償おうと思っている二人に、彼女が突然、あの時、「ここはどなたのお家?」と千鶴子さんに向って綺麗な瞳を上げたときの姿をもう一度思い出させたくなった。 「でも神のお計らいといえば、玲子さんの今現在だけがすべてである世界も一つの幸福ともいえるのではないかしら。過去もない、未来もない、ひとが幼児としてはじめて世界に目をひらいた瞬間、本人にとっては憂いの全くない今・・」 いうまでもなく二人は結局何もいわなかった。それでも私までも或る時、千鶴子さんの憂いを軽減し、労をいたわるつもりで、やっぱり「神の摂理」という言葉を、別な意味で口にしてしまったことがある。 「でもご病気によって離婚が避けられて、結局はよかったことになるのでしょうね。せめて神の計らいというか・・」 すると千鶴子さんは俯いて暫くたっていった。「いいえ、両親は離婚しましたの」 「ご病気になられたから?」と私は思わず声を高くした。 「・・でも・・」と俯いたままの彼女は、私にだけはじめて伝え、父上にも未だに一切話していないことだが・・と、「でもいよいよ手術に入る前、母は是非私に了解して欲しいといって、自分が元気に戻ったら、実は離婚するつもりでいるって打ち明けましたの。 だから・・だから、多分これは結局母の願い通りになったことだと思っています」 「こういう形で!こういう形で離婚とは、多分思っていらっしゃらなかったでしょう。まさか病気で今のようになってしまわれてから」 容赦なく捨てられたというのか。男は女を捨てたのだ!  千鶴子さんはながいこと黙ったままだった。けれども私が最後に暇を告げようと立ち掛けたときに付け加えた。

「父もああいう職にいますと主婦役なしではやっていけませんでしょうから・・」  ああ、そうだったのか。彼は思い通りに参議院選で当選して、国鉄は解体。分割民営の作業は政治家のプログラム通りに着々進行。沢山の矛盾した事態を強引に隠蔽して、あのJRは鈴木運転士ら労働者にたいする不当労働行為を、労働委員会の裁定や裁判でさえ認めたのに、賠償や職場復帰を無理無理引き伸ばし頬被りしている。こうして国有財産取りこみの既成事実をつくってゆこうという運輸行政の企みはなお続けられている。次はトラック輸送の権益をめぐる汚職。そして通信事業から情報の操作・・ 政治家たちは飽くなき利権の収奪を、この先何に狙いをつけ続けるのか。 「だけど若し・・」 と私は言わでものことだけれどどうしても千鶴子さんを励ましてあげたくて、付け加えてしまった。「だけど、若しこの場合、お父様が病気になられたのだったら、玲子さんはそれでも離婚を決意なさったでしょうか」 と。

 

夕霧がいつのまにか門の外の紫陽花に暮れなずむ刻となっていた。何処かからほのかに梔子の香が流れてくる。 くちなし・・語ることを押さえられてきた女の、それでもなお漏らさずにいられなかった言葉。しかもやがて再び忘却の闇の中へ沈み去ってしまうだけであろう呟き。私と玲子さんの長い交友からたぐった女の一生がこのように翻弄されて終わるのだったか・・。 と、私は門を出る私の背後で、母上が彷徨することのないようにと千鶴子さんがすぐに閂を下ろしてしまう音を聞きながら、呟かずにいられなかった。

と、門内で声が上がった。 「閉めないで! 閉めないで! 千鶴子が帰ってくるから・・」 若いときに聞きなずんだあのやや甲高い澄んだ玲子さんの声だ。 「千鶴子がまだ帰らないから・・」 「千鶴子は帰っているわよ」と千鶴子さんが強くたしなめて遠ざかる気配を追いながら、私はしばし凝然と門扉の外に立ち尽くしていた。 玲子さんの中にまだ残る愛・・ 「誰をも裏切ることのない愛」 玲子さんの日誌の中にあった言葉がふと浮かび上がってきた。空疎な上滑りな読み方をして過ごし通りぬけてきた言葉。その時私の胸の中に小さなほだ火がぽっとともった。くすぶった火はやがて煙を巻いて燃え始める。「貴方の中断されてしまった生をそのままにはしないわ。書こう。書きつづけよう・・たとい死がやがて私の口を塞ぐ時が来ても・・誰かが、誰かが、貴方よりも強く生き続けていくように。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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筒井 雪路

ツツイ ユキジ
つつい ゆきじ 翻訳者・エッセイスト 1921年 東京都に生まれる。

掲載作は書き下ろし。

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