濃霧のカチン
夜の六時からのコンサートまで少し時間があるので、すぐそこの市庁舎前の広場まで出てみよう。あそこには本屋もあるし、アプテカで薬を買うことだってできるだろう。それには先ず換金をしておかなくてはならない。ワルシャワ空港で換えた二万円はポズナニまでのタクシー代で吹っ飛んでしまった。それでも白タク運転手の要求していた六百ズオテイに百ズオテイ足りなかった。空港での換金は率が悪いということを知らなかった。栞は外出の準備を始めた。日本を発つ前に引いてしまった風邪がまだ喉のあたりにしつっこく居座っている。その違和感が気持ちを重苦しくさせていた。もしこの部屋にバスがついていて、昨夜温まって寝ればそれで治ってしまう程度だったので、その設備のないことが悔やまれる。しかも鍵の具合が悪くそのために扉の開閉に二、三分はかかるに違いない。その三分が今、惜しまれる。十一月だというのに、手袋の必要がない位暖かだが、帽子とマフラーだけは忘れないようにしなくてはと彼女は腰を上げた。その時、つかつかと一人の女が入ってきた。赤く染めた髪を高く結い上げ、巴旦杏のような大きな目の上すれすれまで前髪をたらしている。太くて大きな鼻と受け口のやや厚ぼったい唇。黄色いバラの花束を胸に抱え頬を紅潮させている。栞にはそれが一目でアリツィアだとわかった。もう十年も前のことになるが、彼女に会ったことがある。彼女の詩を翻訳しポーランド詩撰集の中に入れた。掲載本を送ったにもかかわらず返事はなかった。彼女の方は栞のことを咄嗟には思い出せないでいるようだ。無理もない十年も前のことである。しかし、そんなに自分は変ってしまったのか? 外見はともかく自分の内部はあの頃と何一つ変ってはいないというのに‥‥。
「ほら、ワルシャワ大学の教職員クラブでお会いしたじゃありませんか?」
そこではお茶やちょっとした軽食をとることができた。二人で向かい合って紅茶を飲んだことを思い出しながら栞が言った。いきなり詩を翻訳して上げたじゃありませんか、とは言い出せず、ひょっとして受け取ってないのかも知れないしとも思い、そう言うと、彼女はすぐにわかったらしく、最初の、外国人しかも東洋人に対する警戒をといて、あっけないほど打ち解けた様子で話し出した。あぁー、私の詩を翻訳して下さった栞さんね、と思い出してくれた。
「あの時、すてきなブレスレッドいただいたわね、覚えている?」
ひとしきりの雑談の後、その腕輪のことに触れた。
「覚えているわよ、今度もあなたは何か一寸した面白いもの、私から貰うことになるわ」
彼女はもうボストンバックの中をごそごそやり始めた。持ち物をこれ以上、増やしたくない、と身構えていると目の前に緑色の小さな紙袋に入れられた、象牙細工のミニアチュアの象のペンダント・ヘッドのようなものが置かれた。足の長い居丈高の小豆粒ほどの白象だった。
「これを持っていると幸せになるのよ。失くさないで」
前にやはり何か東南アジヤ系の彫金ブレスレッドを彼女がプレゼントしてくれた。その時も、同じように言われたけれど特にそれで幸せになったという自覚も成果もない。ブレスレッドとかイヤリングを身につけるのはあまり好きではないので、ほんの一、二度はめただけで抽斗の奥に、それは眠っている筈だ。しかしその白い小さな象は忘れていた宮沢賢治の「オッペルと象」の白象のことを一瞬の中に思い出させてくれた。高校三年の時、人形劇で栞は白象を文芸部の仲間と演じた。彼女の細い透明な声が当時評判になった。後にも先にも主役を演じたのはその時だけだ。「ベニスの商人」のポーシャ姫も朗読劇の時の配役。中三の時の「小公女」はフランス語の教師。結構、配役をした部活の担任教師は栞の本質を見抜いていたのかも知れない。自分は全く翻訳者になるつもりなどなかったのに、とそんな感慨にふけっていると、今度はやっぱり緑の小袋に入れられた、とてもつけられないと思うようにケバケバしいオレンジピンクのマニュキア用のエナメルの小瓶がサイドデスクの上に置かれた。それからこれは女性にいい薬なのよ、と言って銀色のシートにびっしり埋められている透明な丸薬も飲むようにすすめてくる。あまり親切というか何でもくれようとするので、いささか負担になってくる。いただいたからには何かお返ししなくてはならないし‥‥。
さっきから暑い、暑いと彼女が暑がっているので、日本からスーブニ—ル用に持ってきていた白檀の扇子があったのを思い出し、それでも上げようかとスーツケースの方に行きながら、
「実はね、この部屋の鍵の具合が悪くて昨日から困っているの」、
そう栞が言うと彼女は神経質そうに眉を寄せ、「どれどれ?」とすぐ扉まで行き鍵の具合を試そうとしたが、なるほど鍵の抜き差しがなかなか上手くいかないので「これは、駄目だわ」とすぐレセプションまで交渉に行った。彼女は白いスポーツシューズに身を固め、背筋もピンと伸びていて身のこなしも軽々としている。だが一九三八年生まれだからそう若いとはいえない。大体、同じ年格好の栞も実は昨夜遅くワルシャワから西へ約三百キロの中部都市ポズナニのこの「ホテル・リツェルスキ(騎士の館)」に着き、三階の一番奥のツインルームに落ち着いたものの、鍵の具合が悪かったのでレセプションにすぐ直行した。受け付けには若い男が一人で当直にあたっていたが、取るものもとりあえず調べにきてくれ把手を少しずらして手前に引っ張るようにして開ければいいということがわかった。コツを呑み込めばいいのだろうが、不器用で性急な彼女にはその手間がもどかしい。それに空き部屋はもうないということで、そのまま栞はそこで一夜をあかしたのだ。アリツイヤが現れる迄、相部屋になるのだとは思ってもみなかった。シングル・ベットが二つと小さな戸棚に作り付けのラジオは故障しているのか音が出ない。テレビは望むべくもないにしても、ラジオから流れてくるポーランド語のニュースや音楽をじかに耳にするのを楽しみにしてきた栞はいささか落胆した。十年前にこの「国際詩祭」に参加した時は「ホテル・ポローニア」というセカンド・クラスの老舗のホテルだった。シングル・ルームが当てがわれラジオはちゃんと聴くことができた。その後、栞は丁度その時期、仕事も忙しく他の季節にポーランドへいくことはあっても、この十一月という真冬に開かれる詩祭にはずっと参加することなくきてしまった。しかし、これから年をとってゆくばかり、おそらくもうこれが最後かもしれないという思いが日々募り、悲壮な決意で真冬のポーランド迄やってきたという訳だった。だが思いもかけない暖冬で、昨日ワルシャワでは手袋も帽子もいらなかった。一寸、拍子抜けする思いだったが、暖かいにこしたことはない。胃袋迄凍りつくような寒さや、濃いミルクのような霧に一寸先の視界が閉ざされてしまうこの国の十一月にはやはり拒絶反応を起こしてしまう。
アリツィアはすぐ戻ってきて「二階にトイレ・バスつきの二人部屋があいてるから、そこに移りましょう。鍵も大丈夫よ」という。栞がもう大部、クローゼットのハンガーに掛けてしまった上着やブラウス、また洗面所に拡げてしまった洗面道具類をまとめ、スーツケースや、靴や書類等と共に何回かエレベターまで運び入れる間、三階で止めてしまったエレべーターの扉をあけたまま辛抱強く待っていてくれた。こんな時のポーランド女の我慢強さは格別である。
受け付けの女たちは、しかしこのバスなしの部屋というのが契約条件なのだから、と渋っていた。しかしアリツィアはそんなことはまるで意に介さないという風で、「だってこの鍵じゃどうしようもないじゃない」というともう次の行動に移っていた。多分日本円にして三千円程の差なのだろうが、栞だったら、その一言に引っかかってこの「国際詩祭」実行委員会の予算のことまでおもんばかって、遠慮してしまうところだが、なるほどこういう風にすればいいんだなと少し勉強したような得したような気分になった。上背のある見るからに知的な感じのする、ポーランドの古都クラクフからきている女性詩人は詩人というよりは教師か薬剤師のようだが、同室のイタリアの詩人イレナ・コンテとわざわざ三階までいって、立て付けの悪いその部屋の扉の開閉を試してみて、「私にはできたわ、要するに能力の問題なのよ」と誇らしげに言っている。しかしそんなこともどこ吹く風というようにアリツィアは「だってトイレ・バスつきということが大事なことよ」と頑として譲らぬ構え。彼女はミネラル・ウオーターで喉を潤し、「今度あなたにも買ってくるわ、水は血をきれいにするのよ。たくさん飲んだ方がいいのよ。」と同じビンの口から栞にも飲むようにすすめながら、出版したばかりだという「女の体へのオマージュ」というかなり恣意的な題名の詩集を栞に渡した。それから「妖精たちの不思議な冒険」という題の童話本を出すと、甘くて重厚なソプラノともメゾともつかぬ声で彼女に読み聞かせ始めた。「日本で出版したらどうかしら? 子供たちにとても人気があるのよ。この本はもう五刷りになっているの」
彼女は自分の声に酔っているかのようにいつまでも読み続けている。この十年の間にすっかり児童文学の分野での人気作家になっていたらしい。この他にも二、三冊の童話本と、詩集も三、四冊彼女はボストンバックから次々と取り出し栞に見せた。昔は「親友が去っていく」なんて随分淋しい題の詩なんか書いていた。そんなの理解できないと思っていたら、だんだん栞の方もそんな不条理の只なかに放り出されてきていた。富と名声は友情を破壊するという。富も名声もあまり彼女には関係ないのだが、何かユニークなこととかあまり人がやらないようなことをやり、それでたまたま脚光を浴びたりすると今まで友達と思っていた人には、面白くないようなのだ。「親友が去っていく」‥‥今ではわかるわ、あなたのこと、アリツィアよ。今、あなたは見事に仕事をつぎつぎとこなしてこんなにたくさん本も出版しているのね。それにひきかえ、こちらの方はこんな風に今、これが私の最近の仕事よ、と言ってあなたにさし示すことのできるようなものは何一つない。経済危機の中で彼女たちだって大変な筈である。前にも何人かの詩人たちが自作の詩集を送ってくれたが、みなハード・カバーの美しい詩集を新興の出版社から、それぞれ出版している。どうしてそんなことが可能なのか? 日本でもかなり有名な詩人でも詩集は大体、自費出版だと聞いている。お金がないと詩集もだせない。そんな栞の思いをよそに、この引越し騒ぎで、イアリングを片方失くしてしまったようなので、コンサートの前に買っておきたい、それにビタミン剤もとアリツィアが言いだして少し早めに二人で部屋を出た。
栞も風邪薬とビタミン剤が欲しかった。日本より安価で良質のものが入手できるかも知れない。ポーランドの薬剤関係の管理はとてもレベルが高いのだ、と前に聞いたことがある。その情報を鵜呑みにしてよいかどうかはわからないが、とりあえず薬に頼る以外はない。お腹にくる風邪で飛行機の中から痛み始めていたのが今また疼きだしていた。こんな症状は初めてだった。
中世からの名残りで、ヨーロッパの各都市の中心地にはスクエアーといわれるマーケット広場がありそこには必ず市庁舎がある。ここもその例外ではない。ゴシック建築の市庁舎のモスグリンのドーム型の屋根の色も美しく、この広場にはその他にもオリーブグリーン一色に統一したシェンキェヴィッチ博物館や、世界の珍しい楽器のみを網羅した楽器博物館があることでも知られている。
アプテカは丁度、市庁舎の真向かいにある。アリツィアは「流感じゃないといいけどね」といいながらアスピリンがいいんじゃない? といって窓口で頼んでくれ、その代金も自分で払おうとする。しかし、そんなことして貰ういわれは全くないのであわてて返すと、その半分の一ズオテイを強引に払ってしまう。ポーランドでは紅茶一杯の値段だ。昨日、無料配布の新聞を配っている中年男がお茶代に一ズオテイくれといっていたので、今、一ズオテイで紅茶が飲めるんだな、とわかった。日本円にして三十三円位。栞がポーランドに留学していた一九六九年の終りから一九七〇年代の始めにかけてもやはり一ズオテイで紅茶が飲めたがあの頃は一ドル三百六十円の時代で日本を発つ時、喫茶店で一杯五十円だった紅茶が父の急死で一時帰国した時には、四百円に跳ね上がっていた。ポーランドでもその後、デノミが導入されたりいろいろ通貨の変動があった。一年前の夏、クラクフで体格のいい六十前後の男性から通りでいきなり「一ズオテイ恵んでください」と言われビクッとしたものだ。だから一ズオテイだって貴重な筈だった。
熱がないので流感ではないと思うのだが、右腹の二十代の始めにとった盲腸の跡あたりが痛むのが解せない。でもどうしてアリツィアはこんなに、いろいろプレゼントしたがったり、払ってくれようとするのだろう。詩を訳したお礼のつもりなのだろうか? ポーランドの人は何か身につけているものを褒めたりすると、すぐ外してプレゼントしてくれるので素直に自分の気持ちを表現したがる栞もこの頃は自粛している。何でもカトリックの教えにあるそうで、欲しがっているものに与えないのは罪になるらしい。褒めたからといって、それが欲しいということとイコールではないのに。あなたにそれはとても似合っている、とか、その琥珀なかなかいい細工ね、と思った通りに言っているだけなのに。栞にしたら思ったことをすぐ口にしないと腹ふくるる思いというのに過ぎないことなのだ。趣味の違いというかアリツィアの持ち物を特に褒めたりしたことはないので彼女のこんな言動は理解に苦しむ。
コンサートは市庁舎の別館にある瀟洒なホールの中で開かれた。ポーランドの子供たちが次々とピアノの前に座り、情熱的な演奏を繰り広げていく。一人の男の子はピアノの前でかなり長いこと祈りを捧げていた。深々とした臙脂のビロードの椅子に腰掛け、一時の平安を貪っていた栞もその演奏が本当に成功するようにと願わずにいられなかった。もしその演奏が失敗してしまったらどうしようと手に汗を握る思いだった。そしてあの長いお祈りの御利益があったのか神のご加護のためか演奏は一つの綻びもミスもない素晴らしい出来栄えであった。その間に詩人たちの詩の朗読が編み込まれ、詩人のウツヤ・ダニエレスカの司会で会が進行してゆく。灰青色のスーツに大きな銀色の薔薇の造花をつけた彼女はもう七十歳になるのに、まるで銀の薔薇の精のようだ。詩人たちの朗読の技術も年季がはいっている。コンサートの後、ポーランドの最初の王、ミエシコの別荘までフェリーボートでレドニアグルスキという名の大きな湖を渡った。ひょっとしてノーベル賞詩人のシンボルスカの「景色との別れ」という詩はこの湖のことをうたったのではないか、と栞には思われた。苦労して訳したその詩の幾つかのフレーズを彼女は思い起こしていた。
あの湖のほとりが
あなたが生きていた時と同じように
美しいという報せを受けた
時にすばやく 時にけだるく
岸辺に打ち寄せる波
ある時はエメラルド色に
ある時はサファイア色に
そしてある時は黒々とした
林のほとりの深淵に
私は何も求めたりはしない
シンボルスカが晩年になって親交を結びサルトルとボーヴォワールのようにお互いの創作生活を尊重し、別々に暮らした恋人の作家フィリポヴィチの死を悼んでうたった美しい詩で、日本でも評判になった詩であった。
真っ暗やみの中をフェリーががたがた音をたてて向こう岸まで連れて行く。透き通るような濃紺の夜空には銀色の三日月が凍りついていて、面白い形の樹木もカチンカチンの銀色に光っている。どんな前衛芸術よりも前衛的な自然の造形である。ポーランド発祥の地が、ここグニエズノであることを改めて確認した。
アリツィアがどこにいるのかわからなかったが、次の便できたようであった。
明かりの灯った館に導かれて中に入ると、大テーブルにはもうパンやバター、サラダ、ソーセージ等のオードブルがふんだんに並べられていた。逞しい二人の女性が腕まくりで甲斐甲斐しく接待に当たり、スープやビゴスという塩漬けのキャベツを酸っぱくなるまで発酵させたものに何種類もの肉やソーセージにきのこやプラムを入れて煮込んだ狩人風の郷土料理等が大鍋の中で鼈甲色に煮詰まっていく。お腹の空ききった詩人たちはだれにすすめられなくても、次々と手を伸ばし胃袋を充たしてゆく。そこで十一時過ぎまで過ごし、またバスに小一時間ほど揺られホテルに戻ってきた。
栞はすぐシャワーを浴び、寝支度を始めたが、日本時間では丁度これから起きようという朝の七時という時刻だったので、容易に眠りの世界に入ってゆくことはできない。しかし、とにかくベットの上に身を横たえた。そうしないと体が持たないからだ。どこかへ行っていたアリツィアが戻ってきて、その彼女を追いかけるようにして文学同盟の事務局に勤めながら、いつの間にか自分も詩人になってしまったヘレンカおばさんが、アリツィアから聞いたらしく栞に風邪薬とビタミン剤を持ってきてくれる。その後から、高校の教師をしながら詩を書いているヨアンナ・ノバク姐御がやってきて上半身裸になるとアリツィアのベットに横たわった。見るも無残な程背中といい、お腹といい贅肉の山だ。彼女だって十六・七の頃はスリムで軽やかな美少女だったに違いないというのに。アリツィアにマッサージをして貰うためだった。栞は彼女のエネルギーに圧倒される。今朝八時何分かの汽車でワルシャワを発ち、九時からのポズナニ大学での「詩のマラソン」には間に合わなかったが、十一時からの職業高校での講義を終え、そしてホテルのチェック・イン、引越し騒ぎ、その後栞に付き合って薬屋やアクセサリー屋へゆき、コンサートに出て、それからフェリーボートに乗って、湖上の館でのいつ果てるともつかず長々と続いた晩餐会に出席してやっと帰ってきたところなのだ。普通だったらすぐにもベッドに横たわりたい所ではないか。それが今からマッサージ? 驚いて目を剥いている栞にヨアンナの後はあなたにもやって上げる、と声をかけた。栞はいつの間にかうつらうつらとしヨアンナがいつ帰ったのかもわからなかった。その後、エラがきたり、ヘレンカもきたようだが風邪気がまだ抜けないので早く治したいと寝たふりをして重い布団を被って横たわっていた。やっとアリツィアもベッドについたが、寝つかれない様子だ。じっとこちらの様子を窺っている。それが暗闇の中でもはっきりとわかる。マスクを持ってくるのを忘れた栞はタオルを濡らして鼻の上にのせることにした。新聞の健康雑誌かなにかの広告で見ただけなのだが、風邪を引いた時には、こうするのが今までの経験上一番いいからだ。しかしタオルを水で湿しに洗面所へ行くには、部屋のこちら側の壁についているスイッチをつけ、扉を開けなくてはならない。扉は上部が曇りガラスになっている。電気をつけた途端ぱっと部屋の内部まで明るくなった。それに扉がぎぎーっと、いやな音を立てた。寝付きのわるいらしいアリツイアはこれですっかり目が冴えてしまった。栞の一挙手一投足を目、耳にしているようである。特に濡れタオルを顔の上にのせたのには驚いたようだ。
「眠れないの?」
暗闇の中から杏ジャムのように、甘ったるい彼女の声がする。
「いいえ、私はもう一眠りしたしこれからも眠りますよ。ただ時差の関係で今丁度、日本は朝の九時頃だから、動かないと気持ちの悪い時刻なもので、御免なさい。あなたこそ今朝、早くワルシャワを発っていらしたのですから、早くお休みにならないと」
結局、アリツィアは一睡もしなかったようだ。栞ももう寝つくことはできなかった。やはり一人で、あの立て付けの悪い、バス・トイレ無しの部屋にとどまるべきであった。
それでそう言葉に出して言うと、アリツィアは、「だって仕方ないわ。相部屋という決まりなんだから」そう言うとくるりと向こうの壁の方を向いた。
その間に起き上がると、栞は素早く見繕いをした。七時半から下の食堂で朝食が食べられる。パンとバターとソーセージか炒り卵、そしてコーヒーか紅茶。ほとんどの人が炒り卵を選ぶ。あのクラクフの詩人が、少なくとも卵の方がソーセージより新鮮ですものね、と言っている。
アリツィアも降りてきて、もう一人イタリヤ人と結婚しているというポーランドの女性詩人のイレーナ・コンテと四人での会食になる。しかし彼女が会うたびにくれる名刺にイタリヤの住所はない。十年前は目もうつろで夢遊病患者のようだった彼女も去年この国際詩祭賞を受賞したり、国立の出版社からポーランド語とイタリヤ語と二ヶ国語の詩集を出版したりしているせいか大分しっかりしてきているのが感じられる。
やはりこんな時の朝の挨拶は「よく眠れた?」が定番である。栞もアリツィアもそれには答えず、パンにバターをこすりつけ、いり卵を突っつきコーヒーを胃に流し込む。砂糖やミルクをいれなくても程よく酸味のある、香り高いコーヒーが時差ぼけの頭を何とかすっきりさせてくれる。
この日は朝の九時からバスで三十キロ移動し、レシノという都市の専門高校でそれぞれ詩人たちが自分たちの詩作について話をする。栞は数学専攻の男女学生を前に自分の翻訳から出版にいたるまでの苦労話などの体験談を話した。その後、一人の女生徒が初見で次から次へと栞や他の日本の詩人たちの作品を読んでいく。終わるといくつかの質問を受ける。日本人は勤勉で休暇をとる権利があるというのに、それも取らずに働きつづけるというが、それはどうしてなのか、日本ではどんなポーランドの本が翻訳され読まれているのか、日本語のアルファベットについて、どうして詩の翻訳をするようになったのか、というような質問であった。
昼食は図書館の食堂で、スープ、ロール・キャベツ、サラダ、果物の砂糖煮のデザートなどの食事を取り、夕方からの詩の朗読会に参加する。アリツィアはこの朗読メンバーには入っていない。栞が「時間」という詩を朗読した。
「今、日本はもう翌日の十五日の朝の二時です。」
友人、知人の寝ている姿が浮かんでくる。まだ起きて書いたり、仕事している人もいるかも知れない。そんな光景がぱっと目の前に拡がる。しかしそれはもうあまりにも遠く離れた手の届きようもない世界だ。
「そして、私の詩の題名も『時間』というのです」
二十代の後半に書いた詩であったが、今までいろいろな所にそのポーランド語訳が掲載されてきた。
時が過ぎ去ってゆく
錆色の音と匂いをもって
私を連れて行くのはだれ?
決して願いはしなかったのに
こんなにもここに止まっていたいのに
それは錆色の匂いをもって
私の内部を突き刺す
耳を塞ぎたい
目を覆いたい
光の中で歩むことのできる
その時まで
二十代の後半、三十歳になる直前、栞は時が矢のように過ぎ去って行くのが恐ろしくてならなかった。両親が父の仕事の関係で西の宮の団地に移住してしまい、彼女はかなり広い東京の家に一人取り残された。六畳の茶の間で夜一人で読書をしたり、気儘に絵を描いてみたり、文章を書いて机に向かっている時、一キロ程離れた南方の中央線から、西や東の方向に走って行く電車の音が時々聞こえてきた。そんな時、言い知れぬ寂しさと焦燥感に襲われた。一体、これから先、自分はどうなってしまうのだろうか、時が一刻一刻過ぎ去っていってしまうのだという‥‥できるものなら時を全身で抑え、阻止したい気持ちだった。その時、勤務先の会報に発表した作品がこれであった。詩を書くことはたまさかのことで、日記がわりに時々ノートに書きつける位なのだが、その詩を何年も後になって、ポーランド語に訳したのが、思いがけずいくつかの雑誌やアンソロジーの中に採録された。ギリシャ系の詩人、ニコス・ハジイコラウが栞の粗訳に手を入れてくれ、雑誌に発表したり、アンソロジーに入れてくれたのだ。実はその前にポーランドの友人に直して貰ったのを更に、ニコスが手を入れてくれた訳だが、友人が添削したことで原詩から意味が少し逸れてしまったのだが、彼が手を入れたことで栞の言わんとしたことが実にそのままに訳出されたのであった。このギリシャ系の詩人は一九五〇年代にギリシャの言論弾圧の迫害にあった家族の難民の子として先ずユーゴに逃れ、彼の最初の詩「鳥」を読んだノーベル賞作家、イヴォ・アンドリッチからポーランドで勉強するようにと強くすすめられ、ポーランドでは音楽院でピアノを専攻したものの、文学への情熱を断ち切れずに詩人への道を選び、歴史教師のポーランド女性と結婚しこの国に永住することになった。多くの詩集を発表、またホメロスの「イリヤド」のポーランド語訳もものし、ポズナニ文学同盟の代表者としての重任にも就いている。毎年十一月に開催される国際詩祭の組織委員長を長年勤めているが、体制の変換により国家から経済援助を得られなくなった後も、新興の銀行や菓子工場のオーナーなどの援助を仰ぎ、危機の時も絶えることなくこの詩祭が続けてこられたのは実にこのニコスの東奔西走のおかげであった。栞ももう十年も前に彼の詩を含むアンソロジーの編纂に携わったが、その後何度も彼の詩は他の出版社や、新聞社が世界の詩の特集を編むというような時にはその翻訳詩集の中から決まって取り上げられた。書かれている詩の、一つ一つの言葉が、単純明快、何の奇もてらわず抵抗なく読み手の中に飛びこんでくるというのがその理由のようであった。
栞はポーランド系アメリカ人でニュー・ヨーク在住のアダム・シペルの「ニュー・ヨークの孤独」という詩の後に自作朗読をした。ポーランドで自作詩の朗読をするなど全く考えてもみないことであった。中学校の時、初めて詩らしきものを書いた。国語の宿題でどうしても書かなくてはならなかったのだ。栞の家には父の仕事の関係で政治経済の本が多く文学書は漱石全集と世界文学全集が数える程、詩集は殆どなかった。僅かに母の買ってきた竹内てるよの随筆集や詩集などがあった。それはあまりにも悲しすぎる内容で二度と手にとってみたいとは思わなかった。詩とは悲しいものだ思った。そしてもう一つわからなくて、吉屋信子の「花物語」や漱石の「それから」や「明暗」の方にのめり込んでいった。母は深尾須磨子とか九条武子等に夢中になっていて、よくその名前を口にしていたが、その作品は栞の目には届かぬところにおかれていたのか読んだことはなかった。今のように地域の図書館が自由に利用できる時代ではなかった。小学校の教科書に載っていたのは宮沢賢治の「アメニモマケズ、カゼニモマケズ」、そして「黒竜江の解氷」というのもあった。しかし特に影響を受けた覚えはない。中学になって国語教師が三好達治の「太郎の家に雪ふりつむ」とか山川弥生の「薔薇は生きている」を朗読してくれた。戦争を挟む二度にわたる引っ越しで母の蔵書や童話の類はどこかへいってしまった。それで新しく越した家中の本の中から探し出して、やっと一冊詩集らしきものの本を探し出し、その中から「朝の金色の光に」というフレーズを探し当て、それを使ってやっと一編の詩をどうにか作り上げた。女子大の国文科を出たばかりのまだうら若い教師は、その詩をクラスで読み上げた。前に同じ教師に作文を読み上げられたことがあった。それは自分の目で見、聞いたことをもとにして書いた庭の白椿の花とその頃よくリヤカーを引いてはきていた朝鮮の女の屑屋のことを書いた作文であった。自分の見聞をそのまま書いたものだった。小学校の時にも作文を読み上げられたことがあり、自分は作文が上手いのだろうか、と漠然と思ったが、それで天狗になったり、自慢する気持ちは全くなかった。見たまま、感じたままをそのまま書いたのに過ぎなかったから。だからその時もそのことを別に大したことと思いもしなかった。しかし今回はたとえ一行にせよ部分的盗作であった。彼女は耳朶まで赤く染めていた。だから詩作には全く自信がなかった。詩ではいいたいことのすべてを表現することはできないと思った。まだ詩と散文の違いを把握できてはいなかったのだ。しかし詩人でロシヤ文学者だった安宅英二が、彼女がポーランド語を勉強しているのを知ると丁度彼が編集長をしていた小さな詩の雑誌で世界の詩を紹介する企画があるからと言い、ポーランドの詩を二、三編訳してくれないかといってきた。詩の翻訳など大学の購読でポーの「アナベル・リー」という詩を訳したことがあるくらいだったので戸惑ったがとにかくやってみることにした。ルジェヴィッチとかゴンシヨロフスキの詩など五、六編訳して持ってゆくと「ポーランドの詩ってつまんないんだね」といいながらもその中の二編を掲載してくれた。原稿料は湯飲み茶碗一個だった。一体日本の出版界ってどうなっているの? と思いながら、しかしその時から栞は詩の翻訳にはまっていった。その時翻訳を手伝ってくれたポーランドからの留学生やワルシャワ大学の日本学科の教授、コタンスキ博士の見識や解釈の豊かさに引きつけられたというのが当たっているかも知れない。コタンスキ博士の解釈はまるでオーケストラを指揮するコンダクターさながらに栞を行間のもう一つの世界へと導いた。「テーブルの上に置かれているカーネーションの花」というフレーズから彼はさまざまな情景を引き出し、そこに描き出し、さし示した。
帰国して最初に出版したのも女性詩人の詩集だったので、詩を訳す人ということになり、こうしたポーランドでの詩のフエステバルに招待されるようになった。そしてこちらでは詩人と呼ばれるようになっていた。詩の翻訳をするからには翻訳者も詩人でなくてはならなかった。プーシキンの詩の訳者、ジュコフスキは言った。「散文の翻訳者は原作者の奴隷にならなくてはならないが、詩の翻訳者は原作者のライバルでなくてはならない」また「翻訳とは植物を移植するようなもの」という翻訳家もいる。その心は「根付かせるだけではなく花咲かせなくてはならない」ということであるらしい。原作を上回る翻訳の例を栞はもう幾つもみている。翻訳者の苦労がどれ程のものか、それはやっている本人にしかわからない。栞の先輩格の安藤彦助の原稿を一度見たことがあるがすでに四稿に迄なっていたが、校正原稿には真っ赤に赤が入り、原文を丁寧に咀嚼ししかもそれを上回っていた。しかし翻訳者の評価も報酬もあまりに低いのが現状である。
何とかつっかえることもなく栞はその朗読をやり遂げることができた。
会が終わると、アリツィアが寄ってきて「すごくよかったわよ。あなたが一晩眠らなかっただなんて誰にも信じられないでしょうよ。肌がとってもきれいだったし、朗読もよかった」そう言うとまたどこかへいなくなった。その後七時からレシノの市庁舎の会議場で晩餐会が始まった。きれいに整えられたテーブルに招待客全員が目をみはった。オードブルにサラダ、飲み物も豊富だがその飾りつけが実に洗練されている。ここは大きな製菓工場や被服産業の栄えた所でもあり、十七世紀にすでに二つの印刷工場が存在したということでも知られている。そのためか建物や人々の言動にさえ、歴史や伝統の重みからくる言うに言われぬ奥床しさのようなものが漂ってくる。
会場の隅でワイングラスを傾けていたギリシャからきている女性詩人マリア・ミストリオテイの大きな褐色の目はしかし悲しみに満ち、今にも涙がこぼれ落ちそうであった。彼女はその年の五月、アテネでの「国際詩祭」の実行委員という大任を果たしたばかりで華奢な体にそのほとぼりがまだ沈殿しているかのようであった。彼女は「私の夫は五十四歳で死んでしまったの。とても有能な外科医だった。息子も娘もいるけど皆別々にくらしているの、だから私は今一人ぼっちでとても寂しいのよ。」とたどたどしい英語で一つ一つ単語を確かめながら言った。するとそばにいたポズナニ出身で昨日のコンサートの司会という大任を果たしたダニエレフスカという女性詩人が「モワ・オシィ(私だってそうだわ)」とフランス語で応じた。彼女も二回結婚し一回目は離婚、二回目は死別、それぞれの夫との間に息子をもうけたが、二人目の息子は交通事故で二十八歳で亡くなってしまった。慰めの言葉もなかったが、まだこうやって口にだせる人はいい。口にもできない悲しみだってあるのだ。それぞれみんなが深い孤独を抱えながら生きている。栞もここで自分の身の上話をする気にはなれなかった。互いの心の傷をなめ合ったところで何になるというのだ。自分の心に秘めているだけで十分だ、そうやって今まで生きてきたのだ。
ホテルに帰るとアリツィアが今夜、私は友達の所で寝ることにする、と言った。栞にとっては願ってもないことであった。一人には慣れているし、こんな病気の時はその方がいい。アリツィアは彼女の出版してきた童話や詩集を更に次々と出して栞に渡した。日本で出版できないか、というのであった。詩の翻訳、そして出版が今、日本でどんなに難しいことであるか、そして童話も、成功した試しはなかった。今までにもこんな種類の子供向けの本の翻訳をいくつかやり、出版社にも見せてきたが、日本ではどうもと言われ続けてきた。素朴でナイーブなものはなかなか売れにくい。売れるか売れないかが資本主義国の価値のバロメーターなのだ。
受け取るべきかどうかためらっていると、彼女が最後にとりだしたのは、B五版の薄い詩集だった。女性の体を縦に三つに断ち割ったようなアブストラクトで前衛風な表紙はいやでも興味をそそられる。扉に彼女の息子、マテイウシュ・パテリの辞が載っている。
詩は光の束となって読者の心を打つ。いろいろな解釈ができる。捨てることも取り入れることも可能だ。
その中から何かを発見できる、感動的なもの、魅惑的なもの、そして反省すべきもの。呟きに満ちた言葉には耳をかたむけなくてはならない。その呟きの中に警告の叫び—戒告を聞くことができるからだ。
私は長く母の詩を理解することができなかった。私の物理学者としての厳密な思考方法にとっては、迷路のような連想、言語のアクロバット、非論理的なイメージの世界を到底受け入れることはできなかった。
彼女の朗読に耳を傾けるだけで精一杯であった‥‥。
この詩集は私が気にいっている普遍的な真実を含む詩、しかも個人的に、国の命運に翻弄された家族の運命に関するものを集めている。
それらの中にわれわれすべてに対するメッセージがこめられている。それは取りも直さず私への。
二十三編の短い詩ばかり集めた、その小さな詩集の中に「カチンの叫び」という詩も収められていた。一九八九年になってようやくソ連によるポーランド将校四千五百人の虐殺が明るみになってきた。一九四三年ドイツ軍当局は、スモレンスク西方十二キロにあるソ連の避暑地を訪れ、長さ二十八メートル横十六メートルの十二層からなる穴に約三千人のポーランド軍将校の死体が横たわっていたのを発見した。全員、正規軍装を着用し、手を縛られ、首の後ろ側に銃で打たれた跡があった。アリツィアの父親はこのカチンで虐殺された。その中には映画監督のワイダの父親もいた。一九八九年七月彼女はアンジェイ・ワイダ等とカチンまで旧ソ連の国境近くまでバスで行った。その時の印象が次の詩となった。
カチンの叫び
父に
弾丸が
あなたの頭を貫いた時
崩おれながら
どんな想いが
あなたの胸をよぎっていったのか
冷たい銃口が
頭の後ろに突きつけられた時
あなたの目の前には
どんなイメージが
そして
怒り
無力
悲しみ
絶望
もろもろの感情が
一瞬に過ぎ去っていったのに違いない
一人の証人もいなかったというのか?
空はしかし
突き刺すようにそして威嚇的に
樹木はいつまでもざわめいていた
傷ついた太陽が
子々孫々の記憶の中に
向かって沈んでゆく
一九八九年七月
「灰とダイヤモンド」や「大理石の男」等々で世界的に有名な映画監督、アンジェイ・ワイダがカメラを向けて、何かコメントして欲しいと言った時、アリツィアはもろもろの感情が突き上げてきて涙がこみあげ、なに一つ言葉を発することができなかった。
そして思うことはこの時を待たずに死んでいった彼女の母親のことだった。戦後父亡きあと、アリツィアを育てるため小学校教師として生涯働きづめであった。母とこの場を訪れたかった。手と手を取り合いこの悲しみをわかちあいたかった。一人では立っていることさえ困難であった。彼女自身、父親がカチンで殺されたということはずうっと人に言うことができなかった。「お父さんは?」ときかれた時にはただ「いない」とだけ答えた。ある時にはオシヴェンチム(アウシュヴィッツ)でとも答えた。もしカチンで‥‥等と言えばこれという何の仕事にもつけなかっただろう。本を書いたり、出すこともできなかっただろう。だから詩を書いてはいたがいきおい抽象的でわかりにくい作品ばかり書いてきた。だから息子にもまったく理解されなかった。今本当の気持ちを書くことができるようになってやっと息子が「母さん、わかるよ」と言ってくれた。そして今までの作品の中から二十三編を選び、こんな序文まで書いてくれたのだ。
栞が一九六九年から一九七五年まで留学生としてポーランドに滞在し、その後何度もポーランドまで「翻訳者会議」とか、「国際詩祭」、「音楽祭」等に招かれ、また通訳の仕事等で何日かこの国に滞在したが、一九八九年になるまでカチンのカの字も聞いたことも見たこともなかった。
アリツィアのこと少し、やっと理解することができるようになったわ、と彼女は自分に言い聞かせた。勿論まだ全部ではないが‥‥。人を理解するなどということは本当に難しいことだ。表面の外側からだけからなんて理解できはしない。同じ一人の人間にしても、その時、その時の状況によっていろいろに変化するものなのだから。そう、人間は或る時、悪魔になったり、天使にもなるものなのだ。一面的にある一つのかけらのみを捉えて決めつけるのは危険だ。水面下でどんなにどろどろした「泥の花」が咲いているかわからないのだから。またその逆も。それにしてもこのアリツィアの父親があのカチンで殺されていたとは‥‥。全身を衝撃が徐々に走っていった。ワイダの父親の名前をカチン関係の資料に載っていたリストで見た時以上の戦慄にも近い衝撃‥‥。こんなにも人々に愛を注がずにはいられないアリツィア、幸せを願わずにはいられないアリツィア、人にも自分にも。それはきっとそんな風にして妻子を祖国に残し、異国の地に無残にもその命を葬りさらざるを得なかった父親への愛のオマージュなのだ。お祖母さんはフランス人だったというが、最後に父親と別れを告げた時、彼女はきっと愛くるしい巻き毛のフランス人形のような女の子だったのに違いない。そんな光景が目の前に拡がる。
ソ連のポーランドへの侵略は一九三九年八月締結の独ソ不可侵条約秘密議定書に基づくものと言われている。一九四一年六月、ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を破り、ソ連に進攻する。そしてポーランド全土はドイツ軍に占領される。
しかしなぜポーランド将校は四千五百人も殺されてしまったのか? 複雑な国際間の問題があったにせよ、これはだれの頭にもすぐさま登る単純疑問であろう。その原因を解明するためには一九二〇から二十一年かけてのソ連—ポーランド戦争時にまで遡上らなければならない。この戦争に破れたソ連は、領土のかなりの部分をポーランドに割譲することになった。といってもこれはもともとポーランドのものであった。しかしスターリンはこれらのことに深い不満を抱いていた。殺害されたポーランド将校の中にこの戦争に参加したものが多かった。反ソ的なポーランド将校は邪魔だったのだ。
栞が一九七〇年代に購入した国立学術出版社から出されているポーランドの百科事典にはこのカチンの地名すら出ていない。避暑地だったというそこは砂地に松の木の並ぶ美しい場所だったと言われている。
改めて栞はまじまじとアリツィアを見た。赤毛の髪を高く結い上げ、大きな巴旦杏のような目の上すれすれまで前髪を垂らしている。だから彼女の眉がどんな色と形をしているのかわからない。太くて大きな鼻と受け口のやや厚ぼったい唇。そして少し甘えたような媚びるような声で話し、すぐ自分の作品を声にだして読みだす。それはいやでもいつか食べたハンガリー産のジャムの味を思い出させる。とても美味しかったけれどもう一度買うのには少し抵抗がある。いつも大きく襟の開いた花柄のブラウス。右手首の何本もの銀のブレスレット、大きなイヤリング。白い、厚い踵のスポーツ・シューズで音もなくすいすいと歩いている。勿論、十年前にはこんなスポーツ・シューズで、街を闊歩するものはいなかった。スラブ系というよりはラテン系の血を感じさせる一寸国籍不明の掴み所のない人、と捉えていた。彼女の顔を覆う微かな影のようなものにもさして注意を払うことはなかった。影といえばもっともっと深い影を顔に落としている人は他に一杯いたのだから‥‥。
だから、そんな血の滲むような体験をしてきた人と想像することすらなかった。
アリツィアは自分の荷物をまとめると、今度は楕円形の白い石鹸を栞の掌の上にのせた。かすかにライラックの花の香りがした。
「これ使って。お肌がすべすべになるのよ。今夜から、あなたは一人になってしまうのね」と栞の背中を撫ぜた。あまりいつまでも撫ぜているので、「移ってしまうでしょ。私は大丈夫よ」と彼女を押し出した。彼女はポズナニ在住のやはり詩人のエリジュビエタの家に泊まりに行くらしかった。大柄なやはり美しい詩人でコルベ神父のことを書いた子供向けの本もだしている。オシベンチムで子供のいる囚人の身代わりとなってナチに銃殺された神父様であった。彼女はこの十年、栞と逢わなかった内にもうすっかり年を取り、生活の疲れがその顔にも体にも滲み出ていた。無理もない母親の亡き後、寝たきりの人になってしまった父親の面倒をみているのだから、仕方ないさ。自分が風邪などにかかってしまったためにいろいろな人に迷惑をかけてしまう‥‥。栞は一人、取り残されたガランとした二十平方米ほどの部屋でアリツィアの置いていった黄色いバラの花束をみやりながらつくづくと、そう思った。
昨日、彼女が職業学校に話にいって貰ってきた花束には黄色いミニバラの他に湖の畔で取ってきたと思われる葦の乾いた葉や鶇の柔毛などが薄茶色の紙に包まれオレンジの太いリボンで結ばれていた。小さな黄色いバラからは北国の太陽のほのかなぬくもりと若い人々のエネルギーのようなものが伝わってきた。しかし、その花束の向こうに無残にも異国で命を落とすことになったポーランド将校の何千何百という髑髏のイメージが広がった。長さ二十八メートル横十六メートルの十二層の穴にひしめくように積み重ねられ、折り重なっているそのイメージを振り払うように栞は慌てて窓まで飛んでゆき、窓外に目をやった。外にはまぎれもない、この国の十一月の灰色の空が重く垂れ込め、人びとが急ぎ足で通り過ぎてゆく姿が目に飛び込んできた。
参考文献 「カチンの森とワルシャワ蜂起」
渡辺克義“岩波ブックレット”シリーズ「東欧現代史」他。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/04/09
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