最初へ

鳥羽家の子供

 松根は五人目の軍治を生んだ時にはもう四十を越えてゐた。子供の間が遠くて、長女の民子はその時他へ嫁いでゐた位だつたが、男の児と云つては、長男の龍一が(やうや)く小学校に上つた(ばか)りであり、次の昌平は悪戯(いたづら)盛りで、晩年のお産のためか軍治は発育が悪く、無事に育てばよいがと思はれる程だつた。

 松根の身体もそれ以後めつきり弱つた。気管支が悪いと医者に注意されもしたし、雨の日など寝て過したりした。だが、弱つたのはお産のためばかりでもなかつた。神経質で、何から何まで気のつき過ぎるやうな性分が、もうそれまでにすつかり心身を費ひ果してしまつた所もあるのだつた。次女の卯女子(うめこ)はもう娘になりかゝつてゐたので、家の中の仕事などは、松根の指図を聞いただけで大体やつてのけた。母が以前のやうではなく懶気(ものうげ)に身体を動かせて軍治の世話をするのを見ると、卯女子は仕掛けた仕事を止めても傍へ来て、軍治を自分の手に受取つたりした。それでゐて、するだけの事はてきぱきと片をつけるのだつた。そんな所は若い時分の母に似てゐた。

 松根は気を許したとも見える様子で、時々訪ねて呉れる民子を相手に、立働いてゐる卯女子を見やり、これなら私がゐなくとも大丈夫だ、と、笑つたりした。

 その民子が或る日、固い顔をしてやつて来た。

 父と幾との噂を聞いたのだつた。苦々し気にそれを言つたのは(しうと)の土井であつて、幾が中村屋と云ふ料理屋の女主人で、今はその母と二人暮の身であることは民子も知つてゐたが、真逆(まさか)あの父が、と云ふ気がした。誰にたしかめてみると云ふ人もないので母の所に来てみたのだがそれらしい気振(けぶ)りもない母に(むか)つて、其の事を言ひ出すわけには行かなかつた。別に話すこともなくなつたが、長いこと傍に坐つてゐた。卯女子のところへ行つてみたり、又、母の傍へ来たりした。終ひには、松根の方で、そんなにゆつくり構へこんでゐて土井の方はいゝのか、と言つた位だつた。

 その時はそのまゝ帰つて来たが、噂が事実とすれば母の様子も落ちつき過ぎてゐるし、事実無根とすれば何かと耳に伝はることが多かつた。退職官吏で、家名とか、気品とか云ふ言葉を常々口にする舅の土井は、二度とそれを言ひはしなかつたが、時々、鳥羽家の様子を民子に訊き、遠廻しに不機嫌な意向をほのめかした。それが窮屈でもあり、又、父母のことが気になりもして、民子は土井家と鳥羽家との間を行つたり来たりしたが、日が経つにつれ、噂は矢張り事実であること、母は何もかも知り抜いてゐて、故意(わざ)と気のつかない風を装つてゐることなどが、朧気(おぼろげ)に少しづつのみこめて来た。

 松根は其の後も民子に対つては一言もそれに触れなかつた。それに押されて此方で黙つてゐると、民子は不意に腹が立つたりした。何時言ひ出さうか、と思つてゐる中に、母が殊更のやうにこの頃幾と親しくし始めたのが眼についた。天気のいゝ日など、行つてみると卯女子がゐるだけで、訊いてみると、母は中村屋へ行つた、と言ふ。そんな事が何度もあつた。今日も行つたのかな、と民子がぼんやり帰らうとしかゝると、裏口から母が帰つて来たのに会つたこともある。出嫌ひな母にしては変でもあるし、身体の弱つて来たことを考へれば可訝(をか)しいと云ふ気がした。

 民子はある時それとなく、父に対する不足を言つてみたのであるが、母はその不足が何を指してゐるのかを考へるやうに、しばらく黙つてゐた後で

「そんなことを言ふものではない」と強くたしなめ、その後で軽く笑に(まぎ)らした。

 民子はそれまで、母が何故腹のなかを割つて見せてくれないのかと云ふ気がしてゐたのであつたが、その時は一言も言へないほど胸がつまつた。何ごとも表面にはあらはさないで、自分の中だけできまりをつける母の気質は、あれほどのみこんでゐた積りなのに、いまの母の、さりげなく押しかくしてゐる苦痛に何故気づかなかつたのだらう、と思つた。自分の父に対する不足も、もとはと云へば、舅の土井が自分に向けて父のことを遠まはしに誹難して来る、そのためのものであつて、母の場合にくらべて見れば、それこそなんでもない、と考へられもした。

 さう思へぱ、母のやり方も一々得心が行くのである。母と幾は以前からの知り合ひであつたが、最近になつての親密な往来と云ふのも、父に肩身の狭い思をさせまいとする心遣ひなのであつた。

「私は身体が弱いのだからね」と、母はさう云ふ言ひかたで民子に思はず横を向かせたこともある。

 しかし、幾に対して、母は真実どんな心持でゐたのであらう。幾は寡婦になつてからこのかた、老母と二人きりで、出入の多い料理屋をともかく後指をさゝれずにやつて来たほどであるから、柔い中にどこか堅気のある女にちがひないが、かうなつた上は父の顔を汚すやうなことをして貰ひたくないと、母はそれをも考へてゐたのにちがひなかつた。

 事実、母と幾との親しさを見て、町の人々も(うるさ)く噂はしなくなつたのである。それにしても病身の母があれこれと思ひをめぐらし、努めてそのやうにしてゐるのを眼にとめると、民子はたゞ痛々しいと感ずるのでもあるし、又誰にともなく腹が立つのであつた。

 父は民子に会ふと幾分気まづい顔をしたが、それも最初だけであつて

「変りはないか」と短く訊いたぎり、見慣れてゐる渋味のある顔にかへつて行つた。もともと無口な父は、日常でもさう云ふ調子なのであるが、この場合は、又特別の意味があるやうに民子には思へた。しかし、母が以前にもまして物柔かに父に対してゐるのを見ると、民子は折角の母の心遣ひを無にするやうなことがあつてはならないと思ひ、つとめて父には眼を向けないやうにした。とは言へ、父は昔のまゝの気難しい表情の下で、母の心遣ひを十分感じとつてゐるのは明らかだつた。

 すぐ下の卯女子は別としてもまだ年もいかない弟たちは、もとより何も知るわけがないのだが、構はず家中を走りまはつて戯れ遊んでゐるのである。それがいぢらしくもあるし、又母の心を汲んでゐるのは自分だけだと云ふ気持も深くなつて、民子は日によると何度となく実家へ帰つてみるのだつた。

 後になつて民子は妹の卯女子とも話し合つたのであるが、この心労がなかつたら母の病気もあれほど悪くはならなかつたのかも知れないと、ふと思ふこともあつた。

 心なしか母の顔に疲れ切つた様子が薄い膜のやうに出て来はじめたのを民子が気にかけてゐる(うち)に、急に発熱して寝ついてしまつた。肋膜が悪いと云ふことから、肺が侵されてゐると言はれるやうになり、それから又一年近くの間、永い病気であつた。

 死ぬ少し前松根はどこかでそれを感じてゐたのか、その頃片言まじりに喋るやうになつた軍治が卯女子に抱かれて、庭先から病室をのぞきこみ、姉の口真似で母を呼んでゐたのだが、ちやうど居合せた民子をかへりみて

「あの児が、気にかつてね」と言ひかけて止めた。

 民子が胸を突かれながらも

「そんな気の弱いことではいけません」となぐさめると、卯女子も傍へ寄つて来て母の顔をのぞいたが、松根は枕の上で顔をそむけた。

 病気が重いと云ふことを誰から聞いたのか、それまで一度も家へは足を入れたことのない幾が見舞にやつて来た時には、卯女子だけが居合せた。幾はそれでも遠慮して姿は見せないで女中の口から見舞に来たとつたへて貰つた。卯女子はどうしていゝか解らないので、そのまゝ通じると母は(うなづ)いた。

 卯女子が幾を見たのはその時が始めてなのであつたが、幾は想像してゐたよりもずつと小柄で、白粉気などはなく、おづおづと卯女子に挨拶して病室に通つたのが、まるで噂に聞いた幾とは思へないほどであつた。

 民子は後でそれを知つた時には思はず眉をしかめたが

「多少は悪いと思つてるんでせうよ」と云ひながらも憎めない気がした。

 しかし母がある時ふいに(しはが)れた声で民子に呼びかけ、民子がのぞきこむと母はぢつと民子の眼の中に見入つてゐるだけで何も云はない、その奇妙にはりつめた瞬間を、民子は母が幾のことを言ひたくて口に出せないのだ、と感じとつた。

「安心なさいましよ、後は私が見てゐますからね」と民子は涙声で言つた。母は頷いたとも見える様子でそのまゝ()むたげに眼を閉ぢたのであるが、民子は母がやはり自分の言葉に安心したと信じて疑はないのである。

 それだけに母の死後半年位たつた頃、それまで何時出るか、と思つてゐた話しが父から持出された時には、民子は無理にもその日のことを思出してみ、心を引きしめたのであつた。幾を後妻に入れると云ふのである。

 ()()みと父の話を聞いてみると、やはり父には父の言分があるので、真向から反対はできないと云ふ気もしたのではあるが、一人になると、これでは母に済まないと云ふ感情が無暗(むやみ)に突き上げて来た。それに、父の話しやうも相談と云ふよりは頭からきめてかゝつたところのあるのが思ひかへされると、自分は現在他家に嫁いでゐる身ではあるが、母のゐない後では自分が母の代りのやうなものでもあるのだからもう少しは遠慮と云ふものがあつてもいゝし、又遠慮されてもいゝほど自分は娘ながらに多少は分別のある年になつてゐるのだ、などと考へられもした。さう思へば話しの嫌な部分ばかりが頭に来て、どんなことがあつてもこれだけは父の言ふなりになつてはならない、と自分で自分に言ひ聞かせた。

 それが顔に出たかして、鳥羽は民子を前にしたまゝしばらく苦り切つてゐたが、民子が図にのつて母のことを言ひ出すと、矢庭に厳しい面持になつて

「お前なんかに何が解るか」ときめつけた。

 幾のまはりの者でさへとやかく言つてゐることは民子の耳にもとゞいてゐた。あれまで通して来た家業を止め、一人きりの老母と別居してまで、何を好んで子供の多い格式高い鳥羽家へ入るのか、まるで体のいゝ女中代りのやうなものではないか、と云ふのである。

 鳥羽の親戚の側ではそれを又特別な見方をしてゐた。それまでにして来る幾の腹の中が解らないと云ふのである。さう明らさまに出しはしなかつたが、あんな女を後に入れるやうでは親類づき合ひは御免(かうむ)るとまで言つた。

 民子は土井から何度もさう云ふ口吻を洩されたのであるが、それが民子を通じて鳥羽に伝はるだらうと考へてのことであるのは、民子にもよく感じられた。しかし、そのまゝを父に向つて言ふわけには行かないし、さうかと云つて、義父にどう答へたものだらう、このまゝで行けば自分も土井家からかへされるかも知れないと云ふ気がした。すると事の次第はともかく、たゞ無暗に悲しくなつて、その場を動けないもののやうに肩を落すと

「お義父(とう)さんに対しても私、顔むけがなりません」と言ひかへした。

 鳥羽はじろりと眼を向けたが、

「それは俺から話す。お前は黙つて居ればそれでいゝ」と言ひ放つたなり部屋を出て行つた。

 民子は後で一人で泣いてゐたが、やがて弟たちの走り近づく足音が聞えると逃げるやうにして部屋を出た。母が永い間病臥して居り、息もそこで引きとつた離れの横を廻ると裏庭なのである。民子はそこの支那風の水盤の傍で、うつそりと立つたまゝ空を見、畑を眺めたりしたが涙は後から後からと溢れ出た。静かな足音が背後できこえ、民子はそれが卯女子だと知つたがぢつと立ちつくしたまゝでゐた。

 

 曲りなりにも話しは片附いて幾は鳥羽家に入ることになつたのであるが、しかしそれには鳥羽の友人の奔走もあつたのである。

 鳥羽は相変らず無口であつたが、それでも多少は安心したのだらう、暫らく投げやりにしてゐた植木いぢりを始めたりした。もつとも鳥羽のやり方はたゞ裾をはしよつて(はさみ)を持ち、木の間を廻ると云ふだけで、よく子供たちから格好だけだと笑はれたものであるが、やはり手は汚さないでも手入はしたやうな顔つきで、煙草を吸つては庭を眺め眺めしてゐた。庭木の大部分は松根が生前好んで植ゑた木犀(もくせい)山茶花(さざんくわ)、もつこく等の常緑樹であつた。それを特別に思ひ出すのは卯女子なのであつたが、父もそれを考へてゐたかどうか、そこまでは解らなかつた。

 上の男の児二人はとにかく小学校に通ふ年頃になつてゐたが、末の軍治は母親の晩年に産れた為か身体が弱く、又病気が病気であつたから母親の乳ものませないやうにしてゐたので、なほのこと皮膚から手足まで弱々しい感じがしてゐた。それもこの頃はめつきりいたづらになり頬にも紅い色が現はれて来た。着物を沢山着こんでゐれぱ、肥つて来たのかなと思はれ、鳥羽はいつも自分で風呂に入れてゐたのであるが、どうにか普通の子供らしい肉づきも実際に出来たやうである。その軍治が兄の歌をうろ覚えに声だけは高く唱ひながら、離れと母屋(おもや)とをつなぐ廊下を勢よく行つたり来たりして遊んでゐるのを、鳥羽は卯女子をかへり見て「あいつは母親を知らんのだからな」と言つたことがある。可憐児と呼ぶのが鳥羽の口癖であつた。卯女子はその度に父の中でも母のことが時々は深い思ひ出となつて出るのだらうと、考へがそこに落ちると自分も母がなつかしく、又さう言ふ父の心持が()しはかられて自然と涙ぐむのである。しかし卯女子は幾に対してさう悪い感情を持つてはゐなかつた。母の病気見舞にやつて来た時の幾の様子は、今でも眼の前にあるのだつた。母が死んだ時、幾はその老母と二人で手伝に来たのであるが、主に口を利くのは(まき)だけで幾は心持その後に控へてゐる風があり、手伝と云つても台所の方にばかりゐて、滅多に人の多勢集つてゐる座敷の方へは姿を出さなかつた。

 湯灌の時、手伝の人々が病気が病気だからと尻ごみしてゐる風があるのを見ると、蒔は自分から先に立つて

「こんな風におなんなすつて、可哀想に可哀想に」と一心に独り言を言ひながら、痩せ細つた死者を抱き上げた。親戚の中には傍に立つたまゝ、それを見て「出過ぎたことをする」といふ顔をした者もあつたが、蒔はそれも眼には入らないもののやうに、残りなく拭き潔めたのであつた。実際卯女子にしても、自分の手に触れるこの死体が吾が母であるのかと思へば、ただただ涙が出るばかりであつて、結局は手をつかねて涙を押へるのが漸くである有様だから、このやうにしてくれる幾の老母に対しては、何とも云へない感謝の念が湧いたのである。

 後になつて誰かが

「あの年寄りは()つかり者だから」と言つたが、卯女子にはその意味が解るやうで解らなかつた。

 それから又、鳥羽側の親戚が、たゞの家婦(かふ)でならと云ふ条件で漸く承諾したことなど、幾が知り抜いてゐるのに甘んじて来るのは、それで自分の肩身を広くしようと云ふ腹があつてのことだと、見透したやうな物の言ひ方をする者があつた。

 卯女子はさう云ふ風な物の見方を知らなかつた。小柄な幾の肩姿が眼に浮び気の毒な感じがしたが、又何かと自分などには解らない底知れぬことが身のまはりにあるやうな思がした。しかし、姉の民子でさへやはりそれに似たことを言つてゐた。気のせゐか、近所の人との出会ひ(がしら)の挨拶などにも、さうとればとれなくもない言ひまはし方があると思はれた。そのことが卯女子の中に一種の(かげ)を落し、忘れてゐるとふいに頭を横切(よぎ)つて来るのだつた。

 もつとも、幾はいつも身をへり下つてゐるのであつて、子供達から「小母さん」と呼ばれても不足らしい顔は見せなかつた。大体卯女子は弟達の世話を、幾は台所の方を、と云ふ風に仕事の分け方がいつとはなしに出来てゐたのであるが、時々鳥羽が勤め先から帰つて来て小言を云ふことがある場合に、落度が卯女子にあるとも、幾にあるとも解らないことがあつた。すると、幾はきまつて自分の落度にしてしまふのである。そして又、鳥羽はそれが明らかに卯女子の落度であると解つてゐるやうな場合でも、幾に向つて叱りつけるのだつた。

 卯女子は幾が父に詫びてゐる背後で顔を(あか)らめることもあつたし、又父の仕方をありがたいと思ふのでもあつたが、さう云ふ事も重なると、父の態度も外々(そらぞら)しいと思ふことがあるのだつた。しかし、これが反対に自分が叱られてばかりゐたら、又これは腹の立つことだらう、と多少は考へてもみるが、やはり実際にないことには頭が向かないのである。

 料理屋の方は他人に貸してしまつて、蒔は鳥羽家からさう遠くない場所に家を借り、そこに一人住ひをしてゐたのであるが、よく裏庭から顔を出した。彼女が来ると、老寄(としよ)りらしく同じことをいつまでもくどくど繰りかへし話すと云ふので、幾は迷惑がるのであつた。卯女子の前で、二人はそのことで言ひ合ひをしたこともある。幾もその母に向つては腹を立ててみせたりするのである。しかし、二人が心から言ひ合ひをするのでないとは、卯女子にも見てとれた。

 蒔は幾にたしなめられても構はずに卯女子を捕へて、自分がどんなに鳥羽の恩をうけてゐるか又そのためには今までの商売もやめる気になつたのだなどと、いよいよその決心になつたまでの自分と幾との話の模様まで細かく話して聞かせるのだつた。

 卯女子は始めの(うち)こそ気恥しくもあり、当惑しながら聞いてゐたが、今ではその話しにも慣れたやうに、やはり下手(したて)に出る相手の仕方にも慣れたのであらうか。それとも、今は記憶も薄らぎはじめた母親が、実は頭の底深く沈んでゐて、その生前見聞きしてゐた幾への反感が形を変へて今頃出て来たのであらうか。卯女子は幾の動作の気に入らない部分が眼につくと、露骨に眉をしかめるやうになつたし、又それがあたり前のことになつて来た。

 弟達については、もともと母の生前から卯女子が面倒を見てゐたのだから、幾が来ても、別にその点変りはないのだが、それでも弟達の寝床をのべてやつたり、末の軍治を寝かしつけてやつたりする卯女子の様子には、以前とはちがつた何かが加はつてゐるのだつた。言つてみれば、これだけは誰にも指一本だつて触れさせないと云ふ感じがあつた。それが今では卯女子の様子に底意地の悪い感じを加へて来たが、当の卯女子にしても、幾にしてもそれを普通のことにしてゐるのであつた。

 しかし、幼くてそれだけに敏感な弟達には、眼に触れる姉と幾との感じが頭の中に特別な形を植ゑつけるのである。もう中学校へ上るやうになつた長男の龍一はとにかく、次の昌平と軍治は、姉や父の口真似をして幾を叱りつけることもあつた。

 覚悟はしてゐた積りだつたが、幾も子供達から「小母さん」と呼ばれたときには、流石(さすが)にあまりいゝ気持はしなかつたのである。誰がさう呼ぶやうに教へこんだのか、幾は考へてみようともしなかつたし、又、それも仕方はないことなのだつた。底を割れば鳥羽から離れ難いからではあつたが、いろいろと親身になつて面倒を見てくれた鳥羽に対し、また鳥羽の妻に対し何故かさうしなければならぬ義理と云ふやうなものを感じてゐたのである。それには商売はやつてゐても親子二人ぎりで、別にこれと云ふ縁辺もない心細さは沁々と身にこたへてゐたのだから、いつそのこと鳥羽に頼り切れば又先々の路は開けるだらうと云ふ気持もあつた。

 しかし、幼い軍治に対してさへ頭の上らないところが重なると、自分ながらどうしてこんな気になつたのだらう、と思ふことがあつた。たゞ、幾の心を(やはら)げてくれるのは鳥羽だけであつて、彼は折に触れ

「お前には済まんな」と短く言ふのだつた。それも時々であつて、鳥羽は相変らず家の中のことは見て見ないふりをしてゐるのだつたが、ある時ふいに卯女子を叱りつけたことがある。

 事柄は些細なことであつたが、鳥羽の怒りやうといふものは実際思ひがけないほどで、幾は始め何事かと思つた位であつた。聞えて来るのはやはり幾にも関係のあることなので、とりなすことも出来ずはらはらしてゐた。すると、卯女子は顔を押へながら父の部屋を出ると、その儘台所の方へ走つて行き、物音にぽかんとした軍治が、玩具(おもちゃ)を手にしたまゝ突立つてゐるのをやがて出て来た父がその頭を撫でたが、軍治はやはり驚いたやうに幾を見てゐて、これも亦いきなり泣き出すと幾にすがりついて来た。鳥羽は苦笑してその場を立ち去つたが、幾はその時位自分の身の置き場のない思をしたことはなかつた。それ以来幾はかうしてこの家にゐる以上、自分の苦労などは決して表面に見せてはいけないものだと考へを決めたのである。

 だが蒔は別居してゐるだけに何かと気にかゝるらしく、時々顔を見せるのも幾の様子を見に来るのであつた。前とちがつて幾の指の荒れて来たことや、身仕舞なども構つてゐられないところなどは、どうしても眼につくらしかつた。幾はそれを隠すやうにしてゐるのだが、時には母にだけ見て貰ひたいと思ふこともあるのである。しかし蒔がぢくりぢくりそれに触れて来ると、幾は又腹が立つた。

 その蒔がある日悪い時に顔を出した。

 幾が軍治に殴られてゐた。何を怒つてゐるのだか解らなかつたが、脾弱(ひよわ)癇癖(かんぺき)の強い軍治は地団駄を踏みながら、何ごとか()めいて幾の肩を小さい手で打つてゐた。幾は台所の板間に片手を突き、押しこらへるやうに肩を軍治のするまゝに任せてゐた。それを見ると今までのことが一ぺんに頭に来たのか、蒔はさつと顔色を変へて、物をも言はずに近よると、いきなり幾の腕を捕へて引き立てようとした。幾はその権幕に押されて、たゞ理由なく引き起されまいと身を()しちゞめてゐたのであるが、蒔はどこからこんなに力が出るのかと思はれるほどぐいぐい曳いて来た。見れば口も利けないほど興奮してゐるらしく、唇をたゞ無暗に動かせるだけで眼を据ゑてゐるのがすつかり普段の蒔ではなかつたので、幾はますます尻ごみしてゐると、それまで吃驚(びっくり)したやうに立ち辣んでゐた軍治が突然大声をあげて走つて逃げた。向うの子供部屋のあたりで激しく泣いてゐる軍治をなだめてゐるのは卯女子らしく、他の児達の声も混つてゐたがやがてそれも止まり、急にひつそりとなつてしまつた。その切つて落したやうな空々しい沈黙の中で、幾と蒔の二人はやはり言葉もなく揉み合つてゐたのであるが、やがて二人とも(くた)びれ、静かになり、幾はそのまゝ板の間わきの土間へぺつたり坐りこんでしまふと、今はたゞ突張つただけの両腕の間に顔をすり落して、低い子供のやうな啜り泣きを始めた。

 

 依然として父からは「可憐児」として扱はれ、母親代りに手塩にかけて来た卯女子からは特別な愛情を注がれてゐたので、軍治は本能だけが鋭敏な子供らしい増長をしてゐたのだつた。言つてみれば、幾は自分のために何でもしてくれるのだし、また自分がどう仕向けても構はない、と云ふ考へ方が自然と軍治の中に出来上つてゐた。しかし乍ら、母親の記憶と云ふものを全然持ち合はせてゐないために人懐(ひとなつこ)いところもあつたので、一面には他のどの兄よりも幾に親しんでゐたのも亦事実である。

 この点は幾にしても同じなのであつて、今では軍治に対して自分でも不思議なほど情愛を持つてゐるのだつた。自分の子と云ふものを持つたことはないのだから、これが母親の気持だと(うなづ)くことは出来なかつたし、又、卯女子が居て自分がさう云ふ立場になれるわけもなかつたが、軍治に甘えられると云ふことで理由のない喜ばしさを感じるほどにはなつてゐた。

 それやこれや、彼女が今まで想像さへしてゐなかつた気持を少しづつ経験しはじめたのは正しく云へば卯女子が他家へ嫁ぐ前後からのことである。第一、当の卯女子にしてからが、さう云ふ話になると父に向つては直接頼み難い事があると見えて、自然幾が代りに口も利けば間にも立つと云ふ風で、幾と卯女子との仲はいつとはなしに柔かなものになつて行つた。支度や何かで卯女子が忙しくなると、軍治の世話も大抵は幾が見ると云ふ工合になつた。今の(うち)に癖をつけて置かなければと云ふので、軍治は幾に抱かれて寝るやうになつた。そしてこの寂しがり屋の児は幾の乳を探つたりするのであつた。

 卯女子の嫁いだ所は町から河沿ひの路を山の懐深く(さかのぼ)つた村であつて、父、卯女子、幾と云ふ順序で(くるま)がゆるゆると列を作つたのであるが、軍治は父の膝から今度は幾の方へと気紛れに乗り移つて、姉の俥に乗るとは言はなかつた。向うの家へ落ちついても軍治は厚化粧をした卯女子をずつと遠くからでも眺めてゐるかのやうに間を置いて見てゐるだけで傍へは近寄らなかつた。披露の席で軍治は急に姉の傍へ坐ると言ひ出したのであるが、それでも幾が軽くたしなめると温和(おとな)しくその膝に来たのだつた。

 鳥羽は地方銀行の町の支店の支配人だつたので、(ひる)の弁当を銀行へ持つて行くのが軍治の役目であつた。これが軍治にとつては一番楽しみなのである。銀行にゐる時の父は軍治が行くと一寸頷いて見せるきりで別に相手になつてくれるわけではなかつたが、欲しいと思ふ物があつても幾が承知してくれないとなると、軍治はきまつた様に銀行で父にせがんだのである。さう云ふ軍治を鳥羽は決して叱つたことがなかつた。言へば、黙つて封筒に少しの金を入れて呉れるのである。軍治は欲しい物を買ひ、家へ帰つて、それ見ろ買つて貰へたではないか、と云ふ風に幾に示すのであつた。

 鳥羽は浅黒い顔に心持薄い唇をいつも引きしめて大抵の場合渋い苦り切つた表情をしてゐたが、それを恐れなかつたのは軍治だけであつて、他人には随分厳格に見えるのだつた。実際、用談の場合などには、相手の腹を何から何まで見透かしてゐると思はれる風な鋭い、迫つた口の利き方をしたゐた。かう云ふ点では随分多くの敵を作つてゐたのであるが、一面には親しくなると気が弱く、位置に似合ず信用貸に類したものが沢山あつて、没落して始めてそれらのものが形をなして現はれて来たのである。

 最初、銀行の金で定期に手を出したのが(もと)で、それがうまく行かず、損が次第に大きくなると、それからは自分で自分の穴を掘つて行く有様だつた。

 当然来るべき筈のものが来た。検査役の手で一切が明るみに出てしまつたのである。行金費消は数人によつて行はれたのであるが、支払能力のあるのは鳥羽だけであつて、責任と云ふ点もあり、鳥羽は私財の全部を提供することになつたがそれでも全額を償ふには足りなかつた。明るみに出たとは云へ、やはり銀行の内部だけの話しで、友人の心配もあり、示談と云ふことで済みさうになつた。

 前から話はあつたのであるが、軍治が幾の家名を継ぐといよいよ決まつたのも、又、次男の昌平が遠縁の家へ養子に行くとなつたのもこの期間のことなのである。最早その時から父は自殺の覚悟をきめたのであらうか。それでなければあゝ云ふ風に一人一人の子供の片をつけて置くわけがない、と後では親戚の者も言ひ合つたのであるが、それはとにかく、家屋敷は銀行に引渡すことになつたので、幾はそれまで他人に貸してゐた料理屋の家をとり戻し、改めて旅館をやることになり、鳥羽は今度こそ幾の世話になる筈だつた。

 そのところへ一切を検事局と新聞社に密告した者があつた。検事の家宅捜索に来る前日、鳥羽は幾の家を出て住み慣れた自分の家に行き母の病死した離れで縊死(いし)してしまつた。

 それは午過ぎの頃で、母屋(おもや)には休暇で中学の寄宿舎から帰つてゐた長男の龍一や昌平、それに民子も丁度来合はせてゐたのであるが、誰一人気がつかなかつたのである。父は一度裏庭の方へ出て行き、離れへは裏の方から入つたものらしい。最後に父を見たのは昌平であつて、昌平は風呂へ水を汲み入れてゐたのであるが、父はその頭をいつもの癖で捻るやうに触り

「よく働くな」と言つた。それから

「軍治はどこかへ遊びに行つたのか」と訊いた。

 昌平が、知らない、と答へると父は片手を懐に入れたままゆつくり裏の方へ行つた。

 縊死してゐる父を最初に発見したのは軍治なのである。

 遊び疲れて帰つて来た軍治は、幾から父が元の家へ出掛けたと聞いて後を追つたのだが、泥を手足から顔までくつつけてゐる軍治を見ると、兄も姉もからかひ半分に父は此処には来なかつた、と言つた。真に受けてそのまゝ又遊びにとび出したが、「可憐児」の彼はそれだけに父の姿を求めてゐたので、暫くすると又もや引返して来た。今度は、裏庭だ、と云ふので行つて見たがやはり父は見あたらず、大声をあげて父を呼び、答がないので半ば歌のやうな調子から次第に独語のやうにぶつぶつと父を(のゝし)り乍ら、その時分にはもう整理した家具什器(じふき)の一杯に押し込んであつて誰もは入れないやうになつてゐた離れに、なにか悪戯でもする積りで忍び入り軍治は変り果てた父の姿を眼にしたのである。それからの軍治はもう夢中で、兄が走れば自分も一緒に走り、姉が叫び泣けば軍治も亦ついて大声に泣きだすだけであつた。

 幾は鳥羽がその前夜遅くまで起きて何か書き物をしてゐたのは知つてゐたが、新しい商売の支度に忙しかつたので、真逆それが遺書だとは気がつかなかつたのである。

 最初から、いつもの気質で烏羽は幾に向つても何も言ひはしなかつた。それでも、多少は耳に入ることもあるし、又急に出入の激しくなつたことや、ますます気難しい眉になつて行つた鳥羽の顔で、大体の様子は知つてゐた。いよいよ身動きの出来ない所に来て、鳥羽は「面目ない次第だがかう云ふ事になつた」と(くは)しく話してくれたのであるが、話の理否条路は女の幾には聞いたところでよく解るわけでもなく、たゞ胸のつまる思がした。

「何分よろしく頼む」と、自分のこととも軍治のことともつかず、鳥羽が幾に向つて頭を下げた時には、あの他人にはこればかりも弱味を見せたことのない人がと云ふ気がして、幾はその顔をまともに見ることさへ出来ない思をした。

 なにか起らねばよいがと云ふ気もして、幾は幾なりに鳥羽の様子に気をつけてゐたのであるが、あれが遺書だと知つたならどんなことをしても死なせるのではなかつたと、思ひ出してはそれを考へ、又、民子などとも話し合つて泣いたのである。

 あの朝も、鳥羽は、一寸向うの家へ行つて来ると言つて出かけたのであつた。引渡しの済むまではと云ふので、龍一と昌平の二人は親戚の者と一緒に未だ元の家にゐたのだつた。幾の新しい家の方では器具の整理や部屋部屋の手入などでこれもごたごたしてゐた。

 軍治が午過ぎに走りこんで来て、子供らしい頬に息をのみ「お父さんが」と言つた。

 気配で、幾はもうびくりとなつてゐたが、

「どう、どうなの」と、軍治の手を捕へて訊いた。そのまま手を引くやうにしながら、下駄をつゝかけて走り出すのと、死んでゐる、と云ふ言葉や場景が頭に入つたのとが一緒であつた。()つては軍治の母親がやつて来たり、又途中まで送つて行つたりしたことのある河沿ひの小路を、幾と軍治は何が何やら解らずに突走つた。路に小石が沢山出てゐて、下駄をとられさうになつた。子供でも、軍治の方が速い。久留米絣(くるめがすり)の小さい肩を切なく上下させ乍ら、軍治は幾の前を走つていくのである。遅れまい遅れまい、さう思ふのと、無暗(むやみ)にこみ上げて来る荒々しい感情とで、幾は青く(ねぢ)れたやうになつて前にのめつた。

 成長盛りの年齢の加減もあるだらうが、この頃から軍治の心ははつきりと眼覚めて来た。誰も事の次第を分けて言ひ聞かせて呉れる者はなかつたが、(ひし)めきざわめいた世事の(もつ)れは、唯その中に一個の小さい身体を置いてゐるだけで、軍治には厳し過ぎる刻印を打ちつけた。

 憎い奴だ、彼奴(あいつ)と彼奴は父の敵だ、と、さう姉や親戚の者達が円座を作つて、顔を歪め唇を(よぢ)り曲げて罵り合ふのを、軍治は何度となく眼にし、耳に聞いた。密告した男の顔と、今一人は父の同業者である肥満した男との顔が何時何処で見たと云ふこともないのに軍治の頭にも焼きつけられた。父と銀行との中間に立つて種々斡旋の労をとつて呉れた父の親友へ宛てた遺書が発表されて、父がその同業者に対して最後迄憤り憎んでたことが明かになつたのであつた。

 父の費消金の中には信用貸でその男に用立てた部分があり、問題が起るとかうなるからは五十歩百歩なのだから父の負担として呉れ、その代り家族救済として後で支払ふ、と、その男が言ひ出し、父が拒絶すると言を左右にし始め、最後には最早支払済だとさへ白を切つた、と言ふ。遺書を読み上げたのは民子の(しうと)の土井であつたが、遺児達はそれをかこんで首を垂れ首をさしのばし、聴いてゐた。巻紙に書きなぐつた遺書の文字は聴く者の眼にも透して見え、読み辛いかして土井は度々咳をし乍ら、それでも声だけは激しく高く、父の悲憤の感情がありありと移り迫つて、皆は座に堪へない思をした。姉達や親戚の者は時に溜息を洩し、時に眼を見合はせてゐたが、未だ成人してゐない男の兄弟、とりわけて長男の龍一は深く顔を伏せてゐるだけであつた。

 又、父の死後一週間目に僅かな額の貸金の請求を葉書に朱筆で(したゝ)めて寄越した男があつた。この男は父の生前十何年来と出入してゐて、台所口から頭を低く何度も父に泣きついて来た時分のことは長姉の民子もよく知つてゐる程であつた。自分の今日あるは一重(ひとへ)に父のお蔭だ、と口癖のやうに言つてゐた男だつたが、父の蹉跌(さてつ)前後から遠のいてゐて、葬式の際に一度顔を出したきりであつた。不人情者、恩知らず––父に対する哀惜の情や、跡方もなく消えた一家の犇々(ひしひし)と身に迫る切なさから、皆は口を極めてこれらの人達を()(ざま)に罵り、僅かに鬱憤を洩らすのであつた。

 父の墓は町端(まちはづ)れの小高い丘の上にあつて、丘の下の墓地へ上る路の向ひ側には、皮肉なことに、この男の家があつた。二階家で、墓参の途中一寸頭を廻せば二階の様子などはまるで見透しだつた。墓水を桶に入れて丘の上まで持運ぶのは中々の苦労であつたが、その男の家の井戸は直ぐ眼の先に見え乍ら、どんなことがあつても彼奴の家の水は貰ふな、と兄姉はその度に(いまし)め合ひ、あらためて彼の小肥りに肥つた様子を罵つた。その頃からこの男は高利貸を始めたと言ふことであるが、二階の障子は常時閉められてあつた。一度、軍治と卯女子とこの路を降りる時、二階で誰かと対談してゐる彼を見たが、姉は口早に、見てはいけぬ、と、軍治に鋭く言ひ自分も殊更顔を外向(そむ)けた。彼は確かに此方を振り向いたのだが、思ひなしか心持白んだと見える顔を対談者の方に返してぢつくりと自分の身体を下に押し着けてゐる風な肩つきを見せたのである。

 一度は彼の方で此方の挨拶を待つかのやうにぢつと眼を送つてゐたが、さうなると猶のこと軍治達は横を向いたまま通り抜けるのだつた。会ふ時には会ふものと見えて、それからは続け様に二階と墓路との反目を続けたのであるが、彼は上眼で見ては止めたり、又或る時なぞは上手から降りて来る軍治達を迎へて、二階の窓に真正面に向きなほつてゐたりした。

 其後暫らく会はないでゐたが、矢張り何かと伝へて呉れる人があつて、彼は益々強慾(がうよく)になり貸金の回収手段の非道(ひど)さは随分泣かされてゐる人間も多く、家作も次々に建てたが、最近手を出した製氷所が失敗して、癲癇(てんかん)になつたのも積悪の報だらう、と云ふ噂を聞いた。F市の大学病院に入つたと云ふ話も耳にしたが、ある時、卯女子、龍一、軍治の三人が何気なく墓地から降りて来ると、行きがけには閉つてゐた二階の障子が開いて、見ちがへる程青ざめた彼が上半身を窓から乗り出し、いきなり叫びかけた。ひどいぢあないか、自分だつてあんた方のお父さんには懇意にして貰つた間柄だ、一度位は挨拶の声をかけてもよいではないか、さう云ふ意味のことを手を振り唇を(ふる)はせて、(しはが)れた鋭い声で喚き立てた。姉はさつと顔色を変へて、はあ、とだけ言ふと、軍治を引き立てるやうにして足早に歩き出したが、その時には彼の妻らしい人影が二階に動き、何か揉み合ふと見えて、ピシヤリと障子が閉り、声はなく慌立(あわたゞ)しい物音が起つたのだが、発作(ほつさ)でも起したらしかつた。

 

 だが、それもこれも家屋敷が銀行に引渡される迄のことであつて、もう嫁いでゐて云はば身の固まつた姉達にはともかく、男の兄弟三人の生活と云ふものはそれ以来全く思ひ思ひの方向に絶ち切られてしまつた。次男の昌平は鉱山師だと云ふ新しい養父に連れられて、南の方のK市に行つた。長男の龍一には学資として多少の金が取除かれてあつたが、始の(うち)は止めると云ひ張つてゐた学校の寄宿舎へ、(なだ)められて立ち去つた。彼には最早帰るべき家と云ふものがなく、先祖の位牌は彼が一家をなす迄といふ約束で幾の家に預ることになつた。

 軍治は一人一人立ち去つて行く親戚の者や姉達から、幾は最早「母」であつて「小母さん」ではないことを(うるさ)い程言ひ聞かされた。余り執つこく言はれたので、軍治はかへつて不安になつた。幾の顔を見ると、その事が頭に浮び、変に言ひ難かつた。口に出しかけてもぐもぐしてゐると、幾はしかけてゐた仕事を止めて、軍治の方を向いたりした。それが「母」と呼ばれるのを待つてゐた様子なのかどうか、軍治には解り兼ねた。しかし、或る時、何気なく、戸外から走りこんで来たはずみに「母さん」と大声に言つてしまつた時、幾は軍治にもそれと見てとれるほど嬉しさうな顔をした。鈍い、霧の中からだんだん明瞭に近づいて来る人声のやうに、軍治の中で何か響き答へるものがあつた。

 幾から子供用の新しい番傘を渡されたことがある。小学校へ通ふ子供は誰も自分の傘に遠目にも解る程大きな字で姓名を書いて置くのが習慣だつた。軍治の開いて見た傘には黒々と、中村軍治と云ふ字が真新しく浮いてゐた。今でも町の人は彼を呼ぶのに「鳥羽さん」と言つてゐた程であつたから、軍治にはこの新奇な不慣れな姓が恥しかつた。軍治は家の出口で、きまりが悪い、と言ひ言ひ、傘を開き目にしたり閉ぢたりした。すると、それまで笑顔で眺めてゐた幾が不意に恐い顔をし、どこがきまりが悪いの、と言つた。軍治は泣き顔をして傘を肩に(かぶ)さるやうにし、道の端ばかりを見るやうにして歩き出したのだが、突然の幾の権幕の意味が解らず、無闇と辛かつた。

 旅館とは云ひ乍ら昔風の大きな家を改造し、建増したものであつて、外見は普通の家と殆んど変りのない格子戸が廻してあり、内部へ入ると広い式台のある玄関から真直ぐに長い光る廊下が奥に伸びてゐた。その廊下は三棟の二階家をつないでゐるもので、戸外から覗いてみると途中にある二つの中庭から、樹木の緑を混へた光が廊下に映り、足音をたてずに忙しく往来する女中達の白足袋などが(あざや)かに動いてゐたりして面白かつた。

 初めの(うち)、軍治は物珍らしく、長い廊下を走つてみたり、客用の器具を持ち運びする女中達の手伝をすると云ひ出してきかなかつたりした。朝に晩に、見知らぬ多数の客が出入して、中には度々来るので軍治の顔を見覚え「坊ちやん、来い」と言つて客室へ連れこみ、菓子を呉れる客もあつた。酔ひ()れて、廊下をふらり、ふらりよろめき歩き、面白がつて眺めてゐる軍治に、卑猥な指の作り方をして見せる男もあつた。常に家中を見廻り歩き、台所で口汚く女中を叱りつけてゐた幾が、さう云ふ客に向ふと、まるで別人のやうに物柔かな顔になり、腰を低くするのが軍治には恥かしく、腹立たしい気持だつた。

 夜は一時か二時に寝、朝は朝で女中よりも先に起き出る幾は、昼間の(ひま)な時刻にはごろりと居間の暗い片隅で横になり、直ぐに(いびき)を立てた。すると、その時分はもうすつかり老いこんで腰の曲つた蒔がごそごそと一人物音をたてて、押入から蒲団を引出し、寝てゐる幾に掛けてやるのだが、見るとそれが敷蒲団であつたりした。

 忙しくて食事の時間が少しも決まつてゐなかつた。朝学校へ行く前など、軍治はよく一人で食膳に向つた。直ぐ傍の台所で、女中達が拭き並べる客膳の音、板場の罵る声、幾が帳場から台所、客室への挨拶などで小速(こばしり)に踏み歩く足音、それらが高く入り乱れ、間断なく響いた。面倒を省く為に、軍治は客と同じ食事を()てがつて貰つてゐた。毎日殆ど変りのないもので、終ひには刺身、吸物と云ふやうな食事を見るのも嫌な気がして来た。夜の食事が一番遅れ勝ちであつた。待つてゐてもなかなかなので戸外へ遊びに出ると、近所の友人やその弟達が湯上りらしい()()か光る鼻をして、のんびりと遊んでゐる中へ這入ると、軍治は自分だけが汚くよごれ、腹の空いた顔をしてゐるやうな気がし、誰にも云へない卑屈な寂しさを味つた。その間にも用意が出来たかどうか見に帰つたが、居間には蒔が視力の薄い眼で自分だけの食残りの皿を出してゐるだけなので、軍治は又何気ない顔で、友達の間に帰つて来たりした。

 兄姉達と戯れ笑ひ乍ら明く楽しい灯の下で食卓をかこんだ頃の事が忘れられず、軍治は幾を待つてゐるのだつたが、幾の来る時には食事が冷え切つてゐたりした。幾は鳥羽家にゐる間は忘れてゐた晩酌を、その頃から始めるやうになり、くどくどと蒔を(とら)へては商売の辛らさを言ひ、時には愚痴の涙まじりに盃を重ねるのだつた。しかし、幾が軍治の記憶にもない頃の鳥羽家の様子を話して聞かせる時には、軍治は楽しく聴入るのだつた。父の気難しかつたことを言つては丁度お前に似てゐる、と軍治を指して笑つた。それから又、母が幾の家へ遊びに来た時のことも話して聞かせた。母は煙草が好きで咽喉(のど)が悪いと云つて咳をし乍らも、煙草を手から離さないやうにしてゐるので、幾がそれでは身体に悪からう、と云ふと、母は、病みつきだからこればかりはね、と笑つてゐたが、矢張りあの煙草好も胸を悪くする(もと)だつたらう––それを話し乍ら幾はどことなく顔を伏せるやうな風があつた。軍治はその時奇妙な不安を感じた。彼の頭には姉から聞いた母の死前後の模様が残つてゐるのである。幾のことがあつたし、母は随分死ぬ迄気にかけてゐたのだ、と聞いた。母の記憶はなく、幾の親味(したしみ)だけが胸にある軍治には、それも唯聞いてゐるだけであつたが、この場合になつて不意に湧き上り、重々しく胸を打つた。意味はよく解らなかつたが、頭の中の物が右と左に引き離され、何か安心してゐられない気持だつた。

 ある夜、客が混んで、室が空くまで暫らくの間、二人の男が軍治達の居間に座をとつた。客の商人と、今一人は客を訪ねて来た町の人であつたが、酒を飲み、歌ひしてゐる(うち)にだんだん乱れて来た。冬も夜更けであつたから、軍治は、眠くはあり、隅の炬燵(こたつ)で小さくなつてゐた。傍には蒔が寝てゐた。すると、客の一人は年老いた蒔の寝顔を眺め、卑猥なことを口にした。軍治は炬燵の上に頬を押しあて、眠つた振りをしてゐたのだつたが、かつと胸が熱くなり、起きなほつて男を睨みつけた。しかし、酔ひ痴れてゐる男は軍治が眼に入らないらしく、もう相手の客と何事か笑ひ興じてゐた。軍治は立つにも立てず、蒲団の下で炬燵の(やぐら)をしつかりとつかみ乍ら、ぶるぶる小さい身体を顫はせた。

 その頃から軍治は来る客来る客に憎しみを覚え始めたのだつたが、それを幾にどう言つたらいゝものか解らなかつた。肩を張り廊下を踏み鳴らす客、傍若無人に女中を叱りつける客、それに対して、女中はもとより、幾も亦唯々(ゐゝ)として言ふなりに動きまはるのが、見てゐて軍治は苦痛だつた。家中どこにゐても楽々と手を伸し、足を投げ出すやうな屈托のない(あかる)さはなかつた。軍治は鼠のやうに、客の眼を恐れ、客の気配を感じ、居間から女中部屋へと、安息の場所を探して逃げ歩いた。

 軍治は日に増し癇癖が強くなり、何かにつけてぶつぶつ幾に不足を云ひ「そんなこと構つてゐられるもんですか」と言ひ棄てて立去つた幾が、次の瞬間には襟元を合せ、小柄な肩に控目な様子をつくろつて、小刻みに廊下を客室へ行くのを見ると、いきなり手許の皿などを庭に投げつけ、居間にのけぞつて、手で畳を殴り足で障子を蹴りつけするのだつた。

 さう云ふ時に、蒔は不自由な足を引きずつて近づき「これはどう云ふ児か」と老人らしい筋を額に見せると、軍治は大声に喚き出し、蒔を罵り、今度は又立ち上つて手あたり次第に物を四方に投げつけ、踏みつけ、女中達が呆れてゐる前を盲滅法に家の外へ走り出ると、切なさと後悔の念を交へた頭から胸一杯の混乱に唯ぼうつとなつて、うろ覚えの河沿ひの道を歩いて行つた。姉の所へ行く気だつたが、町を離れると路面は埃で白く唯遠くつながり伸びてゐて、山の重り合つた裾に消え込み、瀬の音が急に耳について来ると、軍治は路傍に(しやが)みこんで、歩いて来た道、眼の届かぬ行手に頭を廻し、母よ、母よ、と意味もなく、声もない呼声に胸をかきむしられた。

 夜になつて、疲れ鼻白んで帰つて来ると、幾は奥から走つて出「どこへ行つつてゐたの、どこへ」と訊いたが、軍治が黙つてつゝ立つたまゝでゐると、その手をとり居間に引いて来た。見ると、幾と軍治の食膳がいつになくきちんと並べてあり、幾は自分から先に坐つて軍治をも膳につかせ、親しみ深い手つきで飯を盛つた。軍治は甘酸つぱい気持の中で温和(おとな)しく箸をとり上げ乍ら、思ひ出が今又帰つて来たやうで楽しく、又、幾の心を試したやうな気にもなるのだつた。

 それ迄は別にこれと云ふ際立つた意識もなく過して来たのだつたが、軍治の脊丈が眼に見えて伸び始める頃になると、彼の中で或る物がはつきりと眼覚めて来た。それは今も猶鮮かに残つてゐる生家の記憶、云はば鳥羽家の気質であつた。

 この頃では蒔はますます老いこみ、腰がひどく曲つてゐるので着物の前が合はなかつたりして、子供のやうにだらしなかつた。幾は幾で、小鬢には白髪も少しは見えて来たが、相変らず客を送り迎へする時には見ちがへるほどしやんとなり、いそいそとして客の後になり先に立ちする様子を見ると、軍治はこれが幾の身についてゐるのではないかとも思はれ、又、この商売を楽しんでゐるのかも知れぬ、と疑ふのだつた。

 何時誰からともなく、幾のずつと前身は町端れの煮売屋で、他人からでも名前を呼び捨てにされてゐた、と聞き覚えてゐた。「小母さんは怜悧(りかう)な人だから、自家(うち)へ来れば他人から呼び捨てにされないと、ちやんと知つてゐたんですよ」と姉からも聞いたことはあるが、さう云ふ意味の事は遠縁の老婦も言つてゐたし、幾の家へ来てからも、台所で下働きをしてゐる話し好きな老婦が問はず語りに聞かせて呉れた。その時は、なにも特別な感情を与へはしなかつたが幾や蒔の様子に何か軍治の身体の底の方で喰ひ違ひ、時には歯の(きし)むやうな嫌らしさを起させる所があるのを感じたりするいまでは、それ等の智識が特別な意味で軍治の頭に(よみが)へるのだつた。

 幾の手に引かれ、身の廻りの世話をして貰つた記憶はまざまざと今も残つてゐるのだが、その親身な感じで今の幾を見ると、これがあの幾だつたのか、と云ふ気がした。ここ数年間幾はたゞ客の方に気をとられてゐて、軍治の着物の世話などは全くの他人任せになつてゐたからよく寸法が狂ひ、仕立下しの着物が引きずるほど長かつたり、胴が窮屈で着られなかつたりした。

 客に怒鳴られ、平謝りに詫びてゐる幾を見、少しの落度もないやうにと忙しく走り廻つてゐる幾を見すると、軍治は自分が(いや)しめられてゐると感じた。それも重なり重なると、着の身着のまゝごろ寝して枕を外し、腕を伸し、大口を開けて鼾声を立てる幾の格好などが一々(いと)はしく、嫌らしく、これは自分の母ではないぞ、と、軍治は心密(ひそ)かに自分に言ひ聞かせるのだつたが、それにしても最早自分の身を寄せる所はこの幾より他にないと云ふ考へも湧き、じめじめと卑屈に客の顔色を窺つたりした後では、又しても癇癪を起し、何と言つたつてお前はこの俺を息子にして喜んでゐるのではないか、と口には出さないまでも、手荒にガタビシと障子襖を開け立てし、果ては幾に喰つて掛かつて、幾が逃げかゝると猶も追ひつめ、手こそ振上げなかつたが、狂ほしく声を限りにが鳴り立て、幾が堪りかねて、客に聞えるから、となだめにかゝると、客と此の自分とどつちが大事なんだ、と青くなつて足を踏み鳴らしたりした。

 

 かう云ふ軍治と幾との間は普通の継母子でもなければ実母子でもなく、相反撥し、又、相引合ふ奇妙な状態であつて、それが軍治に苦痛を与へてゐると同じやうに、幾の中にも絶えず響いてゐるのだつた。

 鳥羽が軍治に幾の家の跡目を継がせようと言つて呉れた時には、自分のこれから先が急に開いたやうな気さへしたのだ。同じやうに蒔もこれには涙をこぼして嬉しがつたので、それを見ると、幾は自分も苦労の仕甲斐があつた、と思つた。鳥羽家の子供を晴れて吾が子と呼び、母と呼ばれる楽しさは、鳥羽に死なれ、又以前のやうな商売に入る辛らさを消し慰めて呉れたのだつた。軍治の母になると、鳥羽の親戚の者でさへ以前とは違つた眼で見てくれるのがそれと解る程だつた。

 しかし、母だ母だと思つてみたところで、軍治に対する今更らしい扱ひ様があるわけではなかつた。鳥羽の子供だと云ふことが未だに頭にあり、又、下手にばかり出てゐた癖は消え失せず、結局軍治の我儘を通してやることが多かつた。母と呼ばれることにも慣れてみれば、商売の忙しさが身を追つて来て、寝る暇さへない位に働いてゐる(うち)には、気の張りも出るし、人扱ひの面白さも思ひ出して来た。それもどうにか目鼻がついて来ると、面と向つて、女手一人で感心なと言はれる時の励みもあり、商売柄で毎日のやうに現金が自分の手で動かせる楽しみも加はつた。この分ならば軍治にも出来るだけの教育を受けさせ、鳥羽側の親戚に対し引け目を感じないで済む、さうも思つた。

 その軍治が時々発作のやうな癇癖を起しまるで手のつけられない事のあるのには、どうしてこんな子供を貰ひ受けたのか、と愚痴と解つてゐて考へたりした。それも中学へ入つたら、少しは大人びて来るかと思へば、(たま)に休暇で帰つて来ると、二三日はともかく、直ぐに不機嫌になつて、何が気に入らないのか事毎に癖の発作を起す。癖だと思ひ過してゐると、客が来なければ静かでいゝと云ふやうなことを口に出すのだつた。誰のために商売してゐると思ふかと幾が腹立ちまぎれに開きなほると、自分が好きでやつてるのぢやないか、と底意地の悪い眼で睨み返して来た、幾は青くなつて「知らん」と言ひ、立ち上つた。すると軍治は傍に在つた長火鉢の火箸をぱつと幾の足許に投げつけたのだが、一つが跳ねかへつて幾の足にあたつた。幾はそのまゝ縁側に走り出ると声を立てて泣き始めた。傍の台所から女中がとび出して来たのを知ると、幾は顔を両手で押へ乍ら居間に引返し「一体どつちが悪いのか、卯女子さんの家まで聞いて貰ひに行く」と云ふ意味のことを途切れ途切れに叫び、矢庭に箪笥の引手に指をかけたが、見当もなく衣類を引張出すと、その上に俯伏(うつぶ)して肩を(をのゝ)かせ、身悶(みもだ)えし乍ら泣き出した。

 その次の日、軍治が何時になく(やはら)いだ眼つきで話しかけ、この商売を止めてくれるわけには行くまいか、と言つた時には、幾は又かと云ふやうに眉をしかめたのだが、軍治は珍らしく神妙だつた。家が家らしくないこと、(たま)の休暇で帰つてみても昼と夜とをとりちがへた騒々しさで、絶えず客の気を兼ねてばかりゐなければならぬやうなこの商売は自分の気質に合はないこと、若し自分のためを思つてくれる気があれば止めて貰ふわけには行くまいか、など話すにしたがつて胸の迫るかして、軍治は未だ産毛(うぶげ)のある感じのする唇のあたりを引き締めるやうにし乍ら哀願した。

 こんな風に言はれてみると、それもさうだと云ふ気がするのだが、又一方では、何か自分の馴染(なじ)み知り抜いてゐる場所から引落されるやうな、底の知れぬ不安な感情も湧いて、幾は当惑し、顔を曇らせてゐたが、何とか言はねばならぬ気がして、それほどなら、と、口に出しかけた。軍治は見上げ、ぱつと明るさを顔に(ひら)めかした。幾は黙つて自分の手許に眼を落してゐたが、軍治に見つめられてゐると思へば、猶のこと心苦しくなり、やがて苦痛の感じを身体一杯に現はすと、それなり口を(つぐ)んでしまつた。

 実際幾はかう云ふ種類の商売は娘の時分から慣れて来たものであり、殊に今は歳が歳だつたから、止めると云ふことは頭で解つても事実の感じが身に迫ると、唯空恐しい気持に脅かされるのだつた。軍治の鳥羽家風の気質がだんだん拡がり出て来るのが重荷でもあり、又、憎々しい気さへした。

 それを又、軍治の方では、情ないと云ふ気の裏から、幾の気持を右から見左から見して詮索し、向うがその気なら此方だつて考へがあるのだぞ、と云ふ風に底冷い様子を身体つきに(にじ)ませるのだつた。

 

 中学も後一年で済むと云ふ時、夏休過ぎて家を立去つた軍治は一月余りで突然帰つて来た。肺尖加答児(はいせんカタル)で、医者から休学を勧められた、と言つた。肺、と云ふ言葉で、幾は顔にこそ出さなかつたが、ぎくりとした。今迄とは別な意味で、烏羽家の子、と云ふことが頭を(かす)めた。しかし、見た眼には、顔色は案外よかつた、変つた家の中の様を見廻し、苦がい鋭い顔になつてどこに自分は寝起するのか、と言つた。

 その時分、唯一の交通機関であつた乗合自動車が二つの会社に増え、新設の会社から運転手や車掌に部屋を貸してくれと申込まれて、客を引いて貰ふと云ふ弱味があり、否応なく承諾させられたのだが、客室を使ふわけには行かず、幾は自分達の居間を提供し、蒔と幾は玄関傍の帳場に寝起してゐた有様だつた。

 幾は今にも軍治から激しい権幕で詰めよられるやうな気がして、慌てて、玄関の上にある女中部屋を片づけ、掃除したのだが、その間、軍治は袴も脱がず、縁側にたつて中庭に向ひ、何か押へつけてゐる風な後肩を見せてゐるきりだつた。女中部屋は以前物置になつてゐたのを畳を入れ、天井を張つただけで、狭い急な板梯子(いたばしご)を上ると、(すゝ)けた天井裏の一部が見え、道路に面して低い窓があり、長持や器具類が壁際に押し並べ、積み上げてあつた。埃の舞ひこむ窓口に軍治は机を置き、長持に(もた)れて足を投げ出し、弱い眼つきで垂れ迫る感じの低い天井を眺めたりした。

 二三日すると、軍治は幾に(むか)ひ不意に、金を呉れ、と言つた。低い、押しつけるやうでもあれば又(おど)かすやうな声でもあつた。だしぬけに云つたりしてどうする金か、と幾がむつとして訊くと、どうだつていゝ、と軍治は痩せたとも見える頬に刺々(とげとげ)しい(あざけ)りの色を見せた。幾がぶつぶつと言つてゐると、卯女子姉の家へ行つて来るんだ、と投げつけて、軍治は先に仕度を始めた。それでも、出掛けには、あすこは山の中だから空気もよからう、と幾が言ふと、軍治はふりかへつて頷いてみせたりした。

 それも十日許り後には舞ひ戻つて来た。今度は自分で女中部屋の掃除をしたりした。滅多に口を利かず、天気がいいと戸外を出歩いてゐたが、黙つて墓参用の水桶を提げて出ることもあつた。

 かうなると幾には軍治のことが気になり始めた。卯女子の家へ行つてどんな事を話し合つたのか、と云ふ気もした。今では軍治にある鳥羽家の感じが、幾には苦痛でもあり、重荷であつた。蒔は老いこんで呆けたやうになつてゐるが、それでも身体は確かで、台所へ出て来ては炊事の手伝をしたがつた。それが一々足手まとひで女中達が嫌がるのを見兼ねて幾が叱りつけ居間へ蒔を追ひやるやうにするのだつたが、又しても着物の裾を引きずり台所に出て来た。それも出来ないとなると、玄関傍の火鉢の前に坐りこんで、客毎に頭を下げ、場外れな挨拶をした。みつともないから、と云つて手をとり引き立てるやうにすると火鉢にしがみついて、自分の何処が悪いか、と(かたく)なに言ひ言ひ、皮膚に黒い斑点の浮いた褐色の筋張つた手をもがくやうにして幾の手を払ひ、揉み合ふこともあつた。それにしても、幾の愚痴を聴いてくれ、本気になつておろおろと涙さへ浮べてくれるのはやはり蒔なのであつて、血の通ひ合つてゐるのはこの母と自分だけなのだ、と沁々考へることがあり、さう云ふ時今更のやうに犇々(ひしひし)と孤独な不安に襲はれるのだつた。

 

 冬になり、気遣つてゐた軍治はかへつて肥つた位だつたが蒔が寝ついてしまつた。心臓は確かだが、と医者は言つた。老衰だとは誰の眼にも明かだつた。

 場所がないと云ふので自動車会社の人には他所へ移つてもらひ、居間が病室に宛てられた。床の間はついてゐたが、細長い建方なので、居間は障子を閉めると薄暗く、隅の炬燵で蒔は蒲団にくるまり、ぜいぜい息の音を立て、時々(うご)めいた。頭が呆けて、何を言つても解らず、又他人にも聞きとれない囈言(うはごと)を洩らし、突然手を伸して頭のまはりの空気を掻き集めるやうな格好をした。白髪の油に埃がつき、それが蒲団に覗いて乱れ、寝てゐるかと思へば、不意に啜り泣きのやうな迫つた(うめ)き声を立てたりした。

 便の始末は幾が人手を借りずにしてゐたのだが、蒔はそれだけは解るのか、身をもがいて嫌がつた。一度、軍治は見るに見兼ねて手伝つたが、此方の腕からすり脱けようとして蒔のもがく力の強さは、抱きかゝへてみて共倒れをしかけた程だつた。時々蒔は()ひ出ようとすることがあつた。何所へ行く気なのか解らないので、無理にも蒲団の中へ押し入れると、その時はぢつとしてゐるが、暫くすると又動き出すのだつた。誰も傍に居合せなかつた時、蒔は縁側から長廊下の中途まで這つて来てゐた。便が居間から廊下にかけて、かすり附いてゐた。

 軍治は蒔の薄汚い立居には以前にも露骨に顔をしかめなどしてゐたのだが、病気になつて以来の蒔の様子には唯驚き眺める許りで不思議に汚いと云ふ感じが起きなかつた。傍にゐて、すつかり相好(さうがう)の変つた蒔の寝顔を眺め乍ら、これが肉親の祖母であつたらどんな気がするだらうと思つた。すると、突然、悲しさがこみ上げて来た。何か特別な愛情に捲きこまれた感じだつた。

 雪は降らなかつたが風が冷い夜更、誰か玄関で大声に呼び立てるのに眼覚めると、傍には幾も居らず、何事かと出て見ると、玄関の土間に見知らぬ男が蒔を抱きかゝへてゐた。大戸は開いてゐるので、風が吹きこみ、蒔の下半身から水が(したゝ)り、紫色に(くろず)んだ頬を固く痙攣(ひきつ)つたまゝ速く荒い呼吸をしてゐた。

 幾も軍治も寝こんだ隙に這ひ出て、戸外に迷ひ行き、家の前を流れてゐる下水溝に落ちこんだことが解り、幾は済まぬ、済まぬと何度となく口に出しては詫び乍ら、意識の不明瞭な蒔の身体を撫でさすり、夜通し起きてゐた。

 それから急性肺炎になり、三日目に蒔は死んでしまつた。軍治はその時二階の部屋にゐたのだが、幾も客室の挨拶に出て居り、居間には女中が一人附いてゐた。誰か早く来て下さい、と(おび)えたやうな声が響いて、軍治は矢庭に急な板梯子を中途からとび下り、居間の障子を引き開けると、蒔はもう歯のないよぢれた膜のやうな唇を間を置いて開き、又閉ぢしてゐるだけであつて、それも呼気(いき)の通る音が次第にうすれると、唇も弾力を失つたかのやうにぢつと静まつてしまつたが、同時に顔の皮膚一面に現はれて来た一種滑らかな、静止し、安定した表情以上の表情と云ふやうなもの、その柔く、又冷い、絶対に落ちつき切つた感じが、不思議に軍治を打ち、一種名状しがたい悔恨の情が彼の胸を(うづ)かせた。軍治は、居間の外で女中達の幾を呼び求める声、誰彼となく走り近づく足音を聞き乍ら、蒔の未だ温い手首を握り耳を押しあて、脈搏を探つたが、やがて、幾が走りこみ、その後から室一杯に、死者と幾と軍治の周囲にひつそりと輪を描いてゐる女中達や近所の人に気づくと、突然湧き起つた羞恥のために顔を上げることが出来ず、最早脈の消えた手首の上に何時までも顔を押しあてたまゝの格好でゐた。

 葬式も済み、急に風の落ちた後のやうな夜になり、居間で軍治は久し振りに会つた姉の卯女子と話し合つてゐた。仏壇の蝋燭をさし換へる度に、仏具が光り、姉の横顔が殊更白く浮いて見えたりした。三人の子の母親になつてゐる彼女は、昔のやうではなく、世慣れた様子で、線香の消え尽きたのにもよく気がついた。幾が入つて来て、軍治に、風呂はどうか、と訊いた。入る、と答へて腰を上げずにゐると、幾も卯女子の傍に来た。蒔の死際の話しが出て

「あの時は流石(さすが)にこの人も泣いてゐたんですよ」と、幾は軍治を見て、卯女子に話した。軍治は、自分が顔を蒔の手首に押しつけてゐた、それを幾が言つてゐるのだと思ひ、(ひや)りとしたが微笑してゐた。一寸間を置いて立ち上り、風呂へ、と云ふ様子で後向きになつたまゝ障子を閉めて居間を出た。

 さう云ふ時、死んだ鳥羽そつくりの形が軍治の後肩のあたりに出るのだつた。

 

(昭和七年三月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/07/29

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

田畑 修一郎

タバタ シュウイチロウ
たばた しゅういちろう 小説家 1903・9・7~1943・7・23 島根県益田に生まれる。 私小説系の作風で繊細な才能を数少ない作品に傾注、極めて短い作家人生に優れた足跡を残して、旅中の不幸な発病と手術予後の急変から世を去った。

掲載作は、1932(昭和7)年3月に書かれた代表作で、1938(昭和13)年6月砂子屋書房刊、同題の創作集に収まり、この年の芥川賞有力候補とされた。

著者のその他の作品