最初へ

把手のない扉

 夜になった。長い一日だった。午前中、リトル・ロックのダウンタウンの教会で、ホームレスや生活困窮者たちに食事を配る手伝いをして、午後、三百キロの道程をドライブしてミシシッピ州までやって来た。助手席に乗っていただけだが、疲れた。日本からの時差の疲れもまだ残っているようだ。

 洗面所とシャワールームの蜘蛛の巣を手で取り払って、シャワーと洗面を済ませて簡易ベッドに横になった。外は物音一つしない。闇と静寂がミス・サンダースとテリーサの家を覆っている。通路を挟んだ向かい側のミス・サンダースの部屋からかすかな音が漏れてくる。テレビの音らしい。

 疲れているのに意識が冴えている。一つのことが頭から離れない。ミシシッピ州で三日間を過ごしてリトル・ロックのナンシーの家に戻ったら、ナンシーとネルソン夫妻が集っている教会の八人位の女性たちの前で、自己紹介をすることになっている。のり子から差し障りのないことだけでいいと言われているが、どの部分が差し障りがないのか、自己をさらけだして痛まなければ差し障りがないということになるのか、さらけだす部分をどのあたりにするかが決まらない。

 起き上がって出入り口のドア付近のスイッチを探った。見当をつけてあったあたりに触れるものがあった。指先で軽く押すと頼りない音がして、ベッドが置かれている場所に近い天井の明かりが灯った。読み書きをするには不十分だが、仕方がない。

 三日分の着替えを入れてきた旅行カバンの底から、ノートを取り出してベッドに腰かけた。そのときに思いついたことを話せばいいとは思うが、下書きをして考えを整理しておきたかった。

 

 二年前まで私は、夫と大学生の息子と、平凡な家庭を営んでいました。世に言う、幸せ、と断言してもいいと思って暮らしていました。豊かではありませんでしたが、日本の平均的な家庭のつもりでおりました。細かいことを言えばきりがありませんが、家事をして、夫や子供の世話をして、家庭を守ることにも満足でした。息子が中学を卒業するまで働き続けていて、いつも時間に追われていましたから、家庭に入ってからの静かな時間は、願って求めて手に入った貴重なものでした。今の幸せが死ぬまで続くことも祈っていました。

 

 現実にはそうではなかった。理由をいくら考えてもわからない。はっきりしているのは、光一が安代を選んで家を出てしまった、という事実と、その結果自分が捨てられたと感じないわけにはいかなくなったことだ。自分たちとは関係のない人々の価値判断で幸不幸を決めるなら、光一と安代が幸せで、捨てられた女は不幸だということか……。そんな単純な結論は許せない。

 遠くで鳥の鳴くような声がする。眠気を誘うような声だ。少し横になろうと思ったとき、ドアの外でジョージの声がした。

「滝田さん、蛍がいますよ」

 ネルソン夫妻は散歩に出ていたようだ。

「すぐに行きます」

 身支度を整えて前庭に出るとのり子も待っていた。闇の中に蛍が無数に光を点滅させている。大陸の蛍は日本のよりも大きい。風もなく、三人が草の上を歩く足音までも聞こえる。突然梟のような鳥の声がした。さっき部屋の中にもかすかに聞こえてきた鳴き声だ。

「なんて鳴いているんですか」

 ジョージに尋ねた。

「ホイップフル」

 ジョージが日本語の発音で答える。

「どういう意味ですか」

「ぼく、ここ。ぼく、ここ」

 ジョージが裏声を使って鳥のように鳴いてみせる。

「単に存在を認めさせようとしているのでしょうか。それともほかの鳥を威嚇しているのでしょうか」

「両方でしょうね。動物の世界だから」

 のり子の所見だったが、違うとも思えなかった。

「縄張り、ですね。ホイップフルの」

 昼間見た広大な景色は闇の中だ。目を凝らすと、門の側の大木が、際だって黒く深く見える。

「ほんとうに静かですねえ」

 ホイップフルが時折静寂を破る。ジョージとのり子は二人だけでこの静けさを堪能したかっただろうに、思わぬ闖入者のために、貴重な休暇を三人で過ごす羽目になってしまったのだ。気の毒なことだ。

「今度みなさんの前でお話しする内容を、さっき少し書き出してみたのですけど、なかなか思うように進まなくて」

「何でもいいんですよ。滝田さんのことが少しわかれば」

 のり子は気遣って言うが、その少しで躓いてしまう。

 もう誰も言葉を発しなかった。耳を澄ますと、夜露の降りる音が聞こえそうなほどだ。蛍はいつまでも光を点滅させている。牧場にいたテリーサの馬も、仲間に入れなかったミス・サンダースの馬も、鶏も、ひよこも、みんな眠りについている。無言のときは流れる。

 日本は今一日早い昼間だ。周造は今日もトラックに乗って引越しのアルバイトをしているのだろう。

「俺はここだ! おまえら認めろ」

 ホイップフルの声が周造の叫びと重なる。

 

 夜明けとともに自然に目が覚めた。だだっ広い、本の倉庫のような部屋にはカーテンがない。ベッドのところは直接光は当たらないが、目が覚めるには十分な明るさだ。洗面を済ませてから身支度を整え、居間の方に行くつもりでドアを開けると、ミス・サンダースの部屋も少し開いていた。

「Good morning」

 黙って行くことに後ろめたさを感じて、声をかけてみた。

「Good morning!」

 ベッドの上でテレビを見ていたミス・サンダースは上機嫌だった。

 居間に行くと、ジョージが一人で新聞を読んでいた。テリーサは五時に起きて馬の世話に行ったのだという。

「滝田さん、サンドウィッチ食べますか」

 ジョージがキッチンに立って、ロールパンにレタスとハムを挟んで朝食を作ってくれた。ミス・サンダースも起きて来た。

「日本茶ありますよ」

「いいえ、コーヒーを頂きます」

 アメリカに来てまでおいしくもない日本茶を飲む気はしない。せっかくのミス・サンダースの申し出を断った。

 ジョージが作ってくれたサンドウィッチとミス・サンダースがいれてくれたインスタントコーヒーの朝食を一人でとりながら、この人たちは、朝食は銘々が準備して自分の都合に合わせて食べるのだと理解した。

 居間の大型テレビに、いつまでもクリントン大統領が写って喋っている。スキャンダルの弁解らしい。

「私、この人にいい感情もっていない」

 ミス・サンダースが顔を顰めて言う。

「多くの日本人も同じだと思います」

 と言ってから、はたしてそうだろうかと急に自信がなくなった。

 食事を終えて部屋に戻ると、ドアが少し開いていた。建て付けの悪いドアがひとりでに開いたらしかった。把手を引くとベッドに見覚えのある子犬が寝ていた。勝手に呼ぶことにしたチワワだった。

「こら、おまえはだめ」

 言葉だけでは通じなかった。抱き上げて下ろそうとすると、ベッドカバーに尿を漏らした。小型犬で量は少ないが、夜、同じベッドカバーを使う気にはなれなかった。汚れた部分を内側にして丸めて、居間にいたミス・サンダースのところに持って行った。

「ミス・サンダース、チワワがおねしょしました」

 よく聞き取れなかったのか、通じなかったのか、ミス・サンダースは無言でベッドカバーを受け取った。

 部屋に戻ると、チワワがまた中に入ろうとした。

「こらこら、もうだめですよ」

 今度も言葉では通じなかった。ドアを閉めようとしたが諦めない。

「おや、この子だったの。大きい犬かと思った。この部屋はいつもは誰もいないから、犬は入らないのよ。あなたがいるからね、きっと」

 困っていたところに、ミス・サンダースが代わりのベッドカバーを持ってやって来た。ミス・サンダースに追い立てられて、チワワは引き下がった。

 昼に、ネルソン夫妻と一緒に、ミス・サンダースからレストランでの食事の招待を受けている。それまでまだ時間は十分ある。誰かが呼びに来るまで、リトル・ロックでの自己紹介のための下書きをすることにした。

 

 二年前、一人の女性と知り合いました。彼女は夫と離婚して、心が病んでいました。親身になって付き合ってくれる友人がいなかった彼女は、いつか私を頼るようになりました。頼られることが負担になる一方で、優越感を感じていたことも否めませんでした。まさか、泥酔して汚物にまみれるような女性と、夫がどうにかなるとは思ってもみませんでした。青天の霹靂はほんとうにありました。突然に、全く突然に夫は家を出ました。彼女と暮らすためにです。この二年間、裏切られた思いで二人を恨んできました。正確には、アメリカに来るまではです。ここ何日間か日本を離れて、大自然の中で、皆様の優しさに触れているうちに、わずかですが、違った見方ができるようになりました。彼女のように正直に生きていなかったと気付かされました。努力して、家庭を形から守ることしか思いつきませんでした。家族なのに、深いところで結び付いていなかったのです。放置しておいてはいけないことは、お互いに理解が得られるまで話し合う習慣を持つべきでした。息子が教師に怪我をさせられて入院しているのに、見舞いにも行かない夫を黙って見過ごしてはいけなかったのです。一事が万事です。肝心なことからは、いつも目を背けていたように思います。家庭に波風がたつのが怖かったのです。自分の身の安全しか考えられない愚かな人間でした。

 

 居間から聞き馴れない男の声がした。時計を見るとレストランに向かう時間が迫っていた。ワンピースに着替えて、急な寒さに備えてスカーフを一枚バッグに入れて居間に移動した。男だとばかり思っていたが、居間にいたのは、背の高い、男のような骨格のテリーサの年頃の女性だった。ミス・サンダースに、友達だと紹介された。彼女が手を差し伸べてきた。笑うと女性の顔だった。

 

 住宅街の中の一軒の家がレストランだった。昨日ミス・サンダースに、街ですか、村ですかと質問して笑われた。大都市かダウンタウンでないかぎり、閑静で空間の多い場所も街なのかと、アメリカだけがそうであるかのように思ったが、生家のある古里も、田畑ばかりでも、町村合併したばかりに町と呼ばれている。

 Tea For Two

どことなく控えめな看板が掲げられていた。全体が白い建物で、ミス・サンダースたちの家よりはずいぶん狭いが、瀟洒な点ではレストランが勝っている。シェフは女性だった。テリーサたちの年代に見える。白衣をまとい、白い帽子を頭に乗せている。ミス・サンダースたちは馴染みの客らしく、親しげに言葉を交わしている。テーブルが数卓ある店内の一段高いところが個室だった。ミス・サンダースかテリーサのどちらかが予約を入れていたらしい。他人の家に泊めてもらって、個室での食事にまで招待される資格など自分にはないことを思って心が騒いだ。

 都会に出て暫らく、それほど近くもない親戚を頼ってたびたび訪問した。子供のころ、母の従兄が生家を時々訪ねて来た。『東京のおじさん』と呼ばされていた。父も母も遠方からやって来た彼をよくもてなしていた。『東京のおじさん』のお土産は、いつも包装紙に『二見菓子店』と名の入った菓子店の箱に入った焼き菓子だった。田舎では、町まで行かないと手に入らないものだった。愛想がなくて優しい言葉もかけられたことのない『おじさん』だったが、おいしいお菓子をもって来てくれる人だから、いい人だと思っていた。彼の両親は早世していて、頼るところがなかった、と成長するにつれて知っていった。彼も弟子からたたきあげて、今では工務店を経営するまでになった、と来るたびに酒の話で両親にしていたのが耳の奥に残ってしまっていた。

 だから自分も出世した彼を頼っていいことにならないと知ったのは、都会に出て彼を訪ねてからだった。一、二度で止めておけばいいものを同い年の彼らの娘ともうまくいっていたし、彼の妻が何かと世話を焼いてくれたので、彼らがいつまでも歓迎してくれるものと勘違いしてしまった。三度四度と訪問が重なるにつれて、彼らの視線、言葉使い、態度が微妙な変化を見せ始めた。人を訪ねるときは痛みを覚えるほどの代償が必要だと教えてくれなかった両親を恨んでもみたが、それ以上に自分の鈍感さに腹が立った。

 『東京のおじさん』の体験がきっかけになって、無償の親切に臆病になってしまった。その自分がネルソン夫妻をアメリカまで訪ね、さらに関わりの少ないミス・サンダースを訪ね、無償の親切に甘んじている。

「あの、どうしたらいいんでしょうか。お食事代、私が払わせて頂けると一番いいのですが」

 のり子に小声で聞いた。当然そうしたいとも思った。

「ごちそうさま、でいいのよ」

 屈託なくのり子が言った。

 注文した料理がそれぞれに運ばれてきた。ジョージとのり子に倣ったこともあるが、メニューから、一番胃に負担がかからなそうな、チキンサラダサンドウィッチを選んだ。料理を目の前にして、判断は正しかったと思った。サラダもほうれん草のパスタスープも好みに合った。ミス・サンダースたちは、ホワイトソース仕立てのパスタ料理だった。皿に山盛りになったパスタの中に野菜らしきものは見えない。ソースの中に煮込まれているのかもしれないが、野菜を中心に考えている者には不満だ。

「わ、サンドウィッチにしてよかった。すみません、またサンドウィッチで」

 ジョージがミス・サンダースたちのパスタを見て、いたずらっぽく日本語で言った。朝もジョージに作ってもらったロールパンのサンドウィッチだった。

「パンが好きですから」

 アメリカに来た以上、毎食がパンでも文句はないと思っている。

 食事のあいだ、話の中心はミス・サンダースだった。

「今朝彼女に『日本茶あるわよ』って言ったら、彼女『コーヒー』ですって」

 一瞬だったが、ミス・サンダースの話題の主人公になった。分からない会話が続く中で、唯一わかった英語だった。

 

 レストランを出ると、霧雨が降って少し肌寒かった。バッグの中からスカーフを取り出して肩に掛けた。

「きれいね」

ミス・サンダースの友人に褒められた。男性のように体格のいい彼女が、人の身につけている物を褒めるときは女性の表情をしていた。ブティックのバーゲンセールで売っていた端切れを買ってきて、自分で四隅をまつったものだった。大判で皺になりにくいのと、モノトーンの服に合わせ易い色ということもあって、持ち歩くことも多い。洋服の生地でスカーフには珍しい柄だからか、初めての人には評判がいい。

「ありがとう」

 とりあえず礼は言ったが、正直なところは飽きがきていた。

 食事の後、ミス・サンダースたちと別れて、ジョージとのり子と三人で、メンフィスの昔の村を再現したショッピングセンターを散策した。一軒のアンティークの店に目を引かれた。

「ちょっと覗いて見たいんですけど」

「どうぞ見てらしてください。表で待っていますから」

「先生方はいらっしゃいませんか」

 のり子は興味がなさそうだった。

「家の中、アンティークのものばかりです」

 ジョージに笑わせられて、一人で店に入った。

 世界中から集められた装飾品や室内調度品が陳列されていた。一つ一つは珍しくて、想像力を働かせて見ていたら一日では足りないかもしれないが、今住んでいる場所には、建て方も違うし、飾り立てる空間がなくなってしまっているし、不釣合いなものばかりだ。人の良さそうな若い店員が電話をかけている。その隙に店を出るつもりになった。帰り際、もう一度出入り口に近い陳列ケースに目をやると、金属のブローチが一つ目に入った。猫が彫ってあった。一匹の小さな魚の載った皿を五匹の猫が囲んでいた。家に残してきた老猫が思い出された。周造が小学生のころ近所に捨てられていたのを拾ってきた猫だった。もう十七歳になる。

「これください」

 電話中の店員にブローチを持っていった。受話器を耳と肩に挟んで彼女はレジを打ち、ブローチを袋に入れてテープで止め、電話の相手にと同じように、好意的な微笑と客へのあいさつを怠らなかった。

 店員の器用さに感心して表に出ると、のり子が本を読みながら待っていた。近くを散策していたジョージが、

「南北戦争の跡があるから行きましょう」

 と迎えに来た。のり子と二人、ジョージに従った。その場所は、ショッピングセンターと地続きと言ってもいいほど近くにあった。いつ建てられたのか、黒の御影石の記念碑があった。激戦の地だったらしい。芝生が広がりよく手入れされた公園のような場所だが、多くの血が流され、ここらあたりの土にはおびただしい血が染み込んだに違いない、と想像した。空を突き破りそうな大木も戦争で流された血の上に、屈託なく聳えている。どれほど大きな犠牲があった場所でも、ときが経てば、何事もなかったかのように塗り替えられてしまう。人間が存在する限り、いつも同じことが繰り返されていくのかもしれない。人が人を憎んで……。

「滝田さん、向こうに停車場がありますよ」

 ジョージが指さす方に線路が見えた。いつごろまで使われていたのか、線路の側に終着駅だったらしいバラック建てのような、木造の小屋があった。一八三五年、と書かれた札が表に下がっていた。一六三年も前とも、まだ一六三年とも言える。はっきり言えることはだれも一六三年前を知っている人間がいないということだ。果てしもなく長く続く宇宙の歴史の中で、人の一生など短すぎて話にもならない。どうせ短い人生を生きるなら今のようではない、納得できる人生でありたい。

 床が地面より高くなっている。歩くと靴の音が響く。コンクリートにはない木の感触が足に優しい。過去に逆戻りしなければ出会えない優しさだ。寝転んで木に頬擦りしたい気持だ。

「あまり強く降らないうちに帰りましょう」

 雨脚が増した。のり子の一声で、三人でジョージの赤い車に急いだ。

 見慣れたエントランスを入ると、時刻は午後二時を指していた。車が車庫に入っても、七匹もいる犬たちは素知らぬ顔だ。自分たちの命の保障をしてくれる人間と、そうでない人間をよく見分けている。ミス・サンダースたちは先に帰ったはずだが、彼女の姿もテリーサの姿も見えない。テリーサは家畜の世話にでも行ったのだろう。ミス・サンダースは昼寝かもしれない。昼食のあいだも、彼女は食欲よりも会話の方が旺盛だった。疲れて休んでいるのだろう。

 車から下りて、ネルソン夫妻とも別れて、与えられている自分の部屋に落ち着いた。旅の疲れは残っているが、横になろうとも思わなかった。ネルソン夫妻はきっと午睡をとるだろう。彼らこそ体を休める暇もない。この三日間も二人だけの休暇ではなくて、気遣う必要のあるやっかいな人間が道連れだ。

 自由に使ってはいい部屋だが、広すぎて乱雑すぎて何をしたらいいのか分からない。仕方なしにまたノートとペンを取り出した。リトル・ロックに帰ってから、木曜日に話す原稿を読み返して続きを足すことにした。

 ふいに昨日のダウン・タウンの教会でのことが浮かんだ。ホームレスたちは、少なくてもあのときは自分の境遇を嘆いているふうには見えなかった。一か月間生き延びれば十分な食料にはありつける。その一か月間はどうしているのか。あの幼い姉妹たちはどんなところで寝起きしているのだろうか。女の子もいつか女になる。その前に獣に化した男たちの餌食にならなければいいのだが……。ある国で、性の奴隷として売られる幼児のことを何かで読んだ。買う日本人のことも……。

 周造の部屋を掃除していて、押し入れから数本のビデオテープが転がり出てきた。中身は見なくても低俗な題名から、その類いのものだとわかった。自分の身を汚されたように腹立たしく、苦痛だった。夫だった光一は、

「誰でも一度は通る道だよ。正常に成長している証拠だ」

 とせせら笑った。笑えることだったのだろうか。性を軽視している子供を親が諌めなくてもよかったのだろうか。あのときも悩んだ。悩んでも分からなくて、あのビデオテープは全部屑籠に捨てた。どうして手に入れたかなど聞く必要もないと思った。誰かに借りたのであれば、何らかの代償を払わなければならなかっただろうが、その代償は大きければ大きいほどいいと思った。

 笑っていた光一は、『誰でも通る道』をまた通った。真実の恋だとか、純愛だとか、並べ立てたら都合のいい理屈はきりがないほどあるだろうが、どれも光一にとっては真実であっても、その真実によって自分は傷ついた。傷を癒すために光一と安代を恨む自由はある。恨まない自由もある。恨まないほうが人間的に立派ということになるのだろう。立派でなくてもいいが、恨みからは解放されたい。恨みの先に見えてくるものは何もないことはわかる。わかるなら、裏切られても、傷つけられても、怒ることも、泣くこともしないで鈍くなっていればいいということか。そんな感情のない石のような人間にもなりたくない。

 光一は感情を優先させたのかどうかはわからないが、表面に現れた行動だけを見ると、感情——、それも本能、最も獣に近いものだと思うが、そのどれかに翻弄されたのだ。そう結論づけても自分が捨てられた事実に変わりはないが、感情など厄介なものだ。まるで別の生き物のようだ。

 光一と安代が出会った以前の気持に戻ることはあり得ないが、感情を温存して、何事もなかった、と言い切って生きるには、支配されているものから解放されるしかないのだが、その近道が知りたい。彼らを再起できないほどの悲劇が襲ったら、快感に浸ることができそうな気がする。あのホームレスたちのようになった二人を見て喜ぶ嫌な人間、そのことの方が悲劇だ。

 原稿を書くつもりが少しも先へ進んで行かない。仕方なしにノートを閉じた。長い一日のまだ半分しか経っていない。何もしないでいることが辛くなって表に出た。

 家の裏手にある池に出た。鴨が並んで器用に泳いでいる。よく見ると一羽ずつ色が違う。雄と雌と子供との家族にも見える。小鳥が水面すれすれに降下してまた飛び上がった。池の中に渡し場が迫り出している。ところどころに山盛りの犬の糞がある。大型犬のものだ。いい気持はしないが、決まったものしか食べさせられない犬の方が、人間のに比べたらよほど清潔だ。自分の排泄したものを持って癌の検査に行くなど考えられない。発見が遅れてもそのときは本望だと言い切って死にたい。

 犬の糞から少し離れた場所にしゃがみこんで時間をやり過ごした。池の対岸まで歩いて行ったら一時間はかかりそうだ。この広大な自然の中に埋没して、人とも関わらないで生きているとどうなるのか。それでも過去を反芻するのだろうか。そうなるとどこに住んでいても同じことか——。

 鳥たちは絶え間なく泳ぎ、餌をついばみ、また泳ぐ。教えられもしないのによく脱落しないものだ。

「滝田さーん」

 ジョージの声が聞こえた。黙って出て来たので探しに来たようだ。

「テリーサさんが、一緒に魚の餌やりに行きましょうって言ってます」

 テリーサと直接話すことは今までなかったが、気にはしてくれていたらしい。玄関でテリーサとミス・サンダースが待っていた。テリーサが自分のブーツを履くようにと、ジョージを通してすすめてきた。サンダルを履いている足元を見て危険だと思ったらしい。シンプルなデザインで結構上等に見えるテリーサのブーツは見るからに小さかった。無理だとは思ったが、片方の足だけ試してみた。

「ごめんなさい。私には小さ過ぎます」

 せっかくの好意に応えられなくてすまないと思ったのだが、テリーサは気にもかけない様子だ。

 サンダルを、旅行中履き続けてきたテニスシューズに履き替えて表に出た。テリーサが小型のトラクターを準備して待っていた。促されてテリーサの運転席の後ろにまたがった。トラクターが発進すると、四匹の犬が一斉に走り出した。ビッグ、レッド・ボーン、エレクトリス、セカンド、どうにか名前も覚えてきた。

 家の裏手は見渡す限りの草原だ。なだらかに見えるが起伏もあり、谷も山も越えているような気分になる。一キロくらい走ったあたりに池があった。家のすぐ裏の池よりは小さくて、人工池のようでもあったが、そうではないかもしれない。テリーサとは片言の英語の会話もしていなくて、話しかけるのがためらわれた。

 テリーサがトラクターを止めたので一緒に下りた。

「ちょっと待って」

 と言って荷台から缶を取り出して蓋をひねった。魚の餌だった。

「Kiddy Kiddy fish! Cat fish!」

 テリーサが甲高い声で繰り返し魚を呼び餌を撒く。あなたもやってごらんとも言われなかったので、彼女をカメラに収めた。水面に口を開いて浮き上がったのは鯰らしい。獰猛な鯰にほかの魚が食い尽くされないか心配になった。

 餌をやり終わって、テリーサがまたトラクターに戻った。テリーサとのあいだに会話はないが、ころあいを見計らって彼女に合わせる術も身についてきた。黙ってテリーサの後ろにまたがった。四匹の犬たちも小走りについてくる。トラクターはさらに草原を進む。肌に感じる風は、大地に息づく草や、空を覆って聳えている樹木から渡ってくる。どうやら贅沢な時間と空間の中にいるようだ。十八歳の晩秋に故郷を出ると決めてから、ときがずいぶんと流れ、求めていた道ではない方向に来てしまった。もう引き返せないところに立っているような気がする。テリーサは前進だったのか、引き返したのか、この贅沢さの中にいる。ドクターとして病む人々のために働くよりも、自然の中に埋没して生きる道を選んだのはなぜだろう。

「テリーサ、あなたはどうして今の生活を選んだの」

 ぐらいは聞くことができても、その後彼女から返ってくる厖大な英語の何を理解できるというのだろう。

 もしかして、一言も答えたくない理由だってあるかもしれない。最悪のことがあったとしても、彼女は今屈託なく魚を呼び寄せ餌をふるまっていた。消してしまいたいような過去があったとしても、意志があればテリーサやミス・サンダースのような生き方ができそうだ。

 

 テリーサが草原の中でトラクターをまた止めた。荷台に積んである堆肥を撒くためにだった。フォークを取り出して、草原に手際よく堆肥を撒き散らす。草は自然に生えて勝手に伸びていくものと思っていたが、手を加えればいっそういい草に育つのだろう。テリーサは本物の農婦になりきっている。

 時折止まってはテリーサが堆肥を撒き、犬たちも歩を止めてテリーサを見守る。テリーサのように生きたい、と意志をもったとしても、越えて行かなければならないいくつかのことがある。一番大きな問題は自分自身だ。動物の糞尿にまみれて生きる決心がつくかどうかが最初の問題だ。ミス・サンダースの生き方はどうかと問われたら、やはり否だ。彼女のように老後を不安なく生きるための努力はしてこなかった。

 意志力を働かせるにしても、何に向かってかがはっきりしていない。アメリカの雄大な自然も人々の親切も、何かに到達する途中の経験であり、最終の目的ではない。それでもいい経験をしたい。認めたくはないが孤独なのだ。周造がいても、彼は子供で自分の人生を分かち合える相手ではないし、孤独を癒すための役には立たない。

 二つ目の池が最終地点だった。草原はもう少し続きそうだ。テリーサが残っていた餌を取り出して、

「Cat fish!」

 と呼ぶと、鯰の口が水面に浮かんだ。髭まではっきり見えた。テリーサが撒く餌に鯰が群がる。ここでは小魚が根こそぎ鯰に食われてしまいそうだ。事実テリーサは、Cat fishとしか呼んでいない。最初の池と違って、この池は古くからある、沼のようだ。周囲に茂った木が水面に枝を垂れ、半分水中に沈んでいるのもある。日本ならおぞましい伝説でも生まれそうな感じだ。いつもこんなところまでトラクターを走らせ、草原に堆肥を撒き、魚に餌をやりに来るテリーサは強い女だ。犬たちが付き従ってはいるが、どれほどの慰めになるのか。

 テリーサの仕事は終わった。空の缶をしまってトラクターのハンドルを回すと、犬たちが一斉に吠えた。

「セカンドだけ」

 テリーサに選ばれたのは、セカンドと呼ばれている黒い犬だった。立ち上がったらテリーサの背丈ほどもありそうなセカンドを彼女が選んだ理由はわからないが、セカンドは運転席の前に飛び乗って、行儀よく納まった。ほかの三匹の犬たちは、来たときと同じように走りだしたトラクターを追って走る。

 人間の世界であればさまざまな感情が渦巻くのだろう。人間の思惑になどかまっていられないとでも言いそうな顔をして三匹の犬は走る。後ろからは見えないが、運転席の前ではセカンドはテリーサに抱かれるようにして、満足そうな顔をしているだろう。

 帰りはノンストップでトラクターはひたすら走る。浅い谷を下ったところでテリーサがスピードを緩めた。

「Turtle!」

 木の根元を指さして、テリーサが興奮した声をあげた。

「ひゃあ、大きい!」

 海亀かと思ったほどだった。急いでカメラを向けた。テリーサがさらにスピードを落とした。二、三枚、急いでシャッターを切った。亀を媒体にして、テリーサと感情を共有できたような気がした。

 

 ミシシッピ州を去る日がきた。瞬く間に過ぎた三日間だった。支度を整えて居間に行くと、ネルソン夫妻も、ミス・サンダースも、馬の世話を終えて戻って来たテリーサも、集まって談笑していた。チワワと白に模様の混じった猫が一緒にソファーにもたれているミス・サンダースの胸に抱かれている。

 よく耳を傾けると、ジョージはテリーサから、エルヴィス・プレスリーの館があるメンフィスへ向かう高速道路の説明を受けている。話が終わるとテリーサから一枚の絵葉書をプレゼントされた。エルヴィス・プレスリーがギターを弾いているブロンズ像の写真だった。表にテリーサのサインがあった。あまり意志の疎通がないと思っていたテリーサからも最後に代価なしのもてなしを受けた。

 ジョージとミス・サンダースが別れのあいさつを始めた。ジョージが慣れたふうにハグして、彼女の頬に口づけた。ジョージはアメリカ人だ、と思った。次にのり子とミス・サンダース、そのあいだにジョージとテリーサ、それぞれハグし合うのを傍観者となって見ていた。いつまた会えるのか、明日のことはわからないのだから、抱き合って別れるのはいい習慣だと思った。ミス・サンダースとはハグし合うつもりで、彼女がジョージたちとあいさつが終わるのを待った。

「ミス・サンダース、すばらしいヴァカンスでした。ご親切にしていただいて、ほんとうにありがとうございました」

 単純な英語しか知らなかったが、ミス・サンダースは気持のすべてを理解してくれたかのように、強い力で受け止めてくれた。手に当たったミス・サンダースの背中は、肉付きがよくて逞しかった。年老いたミス・サンダースとハグし合うなどもうないかもしれないと思うと、肉親と別れるような感情がこみあげてきた。

「テリーサ、昨日は楽しかったわ。ほんとうにありがとう」

 テリーサとは手を握り合った。テリーサの手に力がこめられていた。

 ミシシッピ州をいつか訪れることも、ミス・サンダースやテリーサと会うことももうない。ミス・サンダースとは特にそう思う。もう会えないとわかっていて、彼女たちは赤の他人の日本人をもてなしてくれたのだろうか。

 旅の理由を告げなくても、ミス・サンダースもテリーサも、彼女たちを取り巻く自然も、彼女たちに柔順であったり、手を焼かせたりする動物たちも、無言で受け入れてくれた。のたうちまわるほどだった胃の痛みももう忘れてしまったかのようだ。原因のわからない湿疹で醜く腫れ上がった目の回りも、気にはなるが、前ほどではない。彼女たちとの別れの瞬間、タイムスリップしたかのように、これまで生きてきた中で、数え切れないほど味わってきた思いが込み上げてくる。

 一番強烈だったのは、生後三か月にも満たない周造を初めて保育園に預けたときだった。一日中仕事に身が入らなかったのに、自分の感情を振り切って、わずかな収入を得るために、周造よりも仕事を選んだ。大切なものを手放してどうでもいいものを握り締めて生きてきた。

 大切なものを探せなくて、ぼろ雑巾のように体を使って引越しのアルバイトをする周造が哀れだ。三日間ジョージたちやミス・サンダースたちに大切に取り扱われているあいだも、ろくに睡眠もとらないで体を酷使しているはずだ。馬鹿な奴だ。身勝手な親なんか捨ててしまえば楽に生きられるのに。この夫のために命を捨ててもいいと思ったこともない夫に捨てられて、恨んで憎んで暮らして、見境もなく家を飛び出して、アメリカ辺りまで来て、人に犠牲を払わせるような親を持ってしまって、考えたら周造はろくでなしで止まっていないでもっと悪でいいはずだ。

 ジョージがエンジンを回した。何もかも振り切ってと言われたような気がした。車庫から車をバックさせて、向きを変えたら三日間のミシシッピ州での思い出と訣別してしまうのだ。

 

 三日ぶりにリトル・ロックのナンシーの家に戻った。ナンシーとは一週間足らずしか一緒に暮らしていないが、三日間会わないでいて顔を合わせたら、懐かしい気がした。

「ただいま、ナンシー。はい、これお土産」

 相変わらず呆れるほど単純な英語だ。ミシシッピ州からの帰り、途中メンフィスにあるグレースランドに寄って、エルヴィス・プレスリーの館を見学した後、売店で、ギターと音符を図案化したマグネットをいくつか買い求めたのだが、そのうちの一つだった。誰かのためにではなくて、親しい人たちの中で、アメリカに来たことを知られてしまった人にだけ渡すつもりだった。ほんとうのところは、リトル・ロックに近付いてから、ナンシーに何もお土産がなかったことに気が付いたのだった。そんなことも知らないで、ナンシーは単純に喜んで、もらうとすぐに冷蔵庫に付けた。

「アサコ、あなたロック好きなの?」

 ナンシーがギターを弾くまねをした。

「うーん、今はそれほど好きじゃない」

 ロックに夢中になったのは高校時代だ。その後何が好きだったのかはっきりしない。ロックが好きだったときでも、プレスリーの歌をあまり聞いていない。高校を卒業して生きることに必死だったときが、プレスリーの全盛時代だった。

 南部の田舎町と呼ばれているようだが、それでもメンフィスはミス・サンダースたちのところと比べれば都会だった。牧場もある大邸宅と呼ばれたグレースランドも、ミシシッピ州の彼女たちが住む場所と比べたら、規模が違い過ぎて話にもならない。

 自分を顧みないで、他人を語るのはずいぶん簡単だ。ミス・サンダースのように暮らしたいと思っても誰もが同じようには暮らせないし、求めもしない。プレスリーのように有名になりたいと思う若者はごまんといても、そのほとんどがなれない。田舎と比べたら狭いだけで、グレースランドは、死後も観光名所として残るくらいだから、アーティストとして頂点を極めた人間の住むところとしてふさわしいのだろう。

 周造がもしプレスリーのようであったら……、大スターの母、考えるだけで滑稽だ。光一は——、彼なら使える。大スターの父が女と駆け落ち——、スキャンダルが人気を繋ぎ止める役割を果たすことだって有り得る。

 プレスリーの人気を支えていたものは、家族が自分たちのように世間の笑い者になったからではないことだけは、確かなようだ。日本語のガイドで彼の表面的なことは知った。かなりの信憑性もあると思った。自分が知った以上のことも以下のことも知る術はもうない。彼が四十二歳の命を終えてずいぶんときが経つ。誰かが可能な限りの手段を駆使して調べたとしても、もう第三者を通してのプレスリーでしかない。

 見ただけで疑いもなく確かなことはあった。彼と家族のお墓だ。

「屋敷内に埋葬してもいいんですか」

 素朴な疑問が湧いてジョージに聞いた。

「共同墓地だと盗む人がいます」

 亡骸になっても一緒にいたいと思う人間がいたら、プレスリーにとってはよいことではないかと思うが、屋敷内に移して監視をつけてまで守らなければならない人物だったようだ。

 彼らの墓石に死亡した年月日が刻まれていた。一番早かったのは、早世したプレスリーの双子の兄で、最後まで残ったのは祖母だった。長く生きていると子も孫もいなくなってしまうことだってあるわけだ。周造より後にのこるなどとんでもないことだ。ろくでなしでも、今消えてもらっては困る。さんざん世話になったナンシーにはマグネットしかないのに、ろくでなしには、プレスリーのロゴ入りのTシャツを買った。

「趣味があわねえから、いらねえ」

 と頭から拒否されるだろう。どう反応しようとかまわない。息子だと認めないわけにはいかないのだから。これを自己愛と言う人もいる。

「アサコ、ミシシッピ州はどうだった」

 ナンシーも相手が理解できる程度の英語で聞いてくる。

「ほんとうにすばらしかった。とってもリラックスできたわ」

 細かく話すのには、少ない語彙を用いて遠巻きに説明を加えながら、何倍もの時間をかけなければならない。早口のナンシーでも耳を傾けて理解しようとはしてくれるだろうが、三百キロ以上のドライブをしてきて、話すのが億劫だった。

「ナンシー、後でジョージとのり子とプロ野球のナイトゲームを見に行くから、一緒に行かない?」

 午後六時半に郊外にある野球場に向かうことになっている。

「私は行かない。野球は時間がかかるから。アサコが帰ってきたときには私、先に寝ていると思う」

「わかったわ。それじゃ、明日の夜、レストランで一緒に食事しない?」

 明日一日でアメリカを離れる。最後の夜はナンシーとネルソン夫妻と一緒にそうしたかった。

「Okey 期待してるわ」

 

 シャワーを済ませて出かける準備をしていると、六時半になってネルソン夫妻が迎えに来た。のり子が手に毛布のようなものを持っている。

「夜になると寒いから、上に羽織るものを持っていらしたほうがいいわよ」

 昼間と同じように軽装で出かけようとしたのだが、のり子の忠告を聞いて、長袖の上着を持って行くことにした。

 郊外にある野球場も、例外ではなく広くて、今日はマイナーな試合だと聞いていたが、駐車場もメジャーリーグのときでさえ、満車になることなどあるのだろうかと思ったほど、無限に広がっている。入り口はさすがに入場券がないと入れない。空席も目立ったが、客もかなり入っていた。ベビーカーに乳児を乗せた若い母親が一人で入って来た。

「誰でも気軽に野球を見に来るんですね。日本にはない雰囲気ではないでしょうか」「あらそう。私たちよく行ったわよ」

 ジョージが野球好きなことは知っていたが、たびたびプロ野球を見に行っていたとは、知らなかった。日本ではチケットも高かったのではないかと気になった。アメリカでも日本でもジョージたちの生活は質素だ。

 ジョージが夕食を買いに行くのにホットドッグを頼んだ。のり子は輪を三つからませたスナック菓子を大型にしたような菓子パンとコークがいいと言った。飲み物はのり子と同じにした。

 昼はグレースランドで、巨大な南部の焼肉サンドウィッチというのを、スモールサイズと言ったのに、日本人にとってはラージになってしまうようなコップに入ったコーヒーと一緒に齧り付くようにして胃の中に押し込んでおいた。まだ空腹ではないが、夜の食事がホットドッグ一個と冷たいコークでは、どこか淋しい気もする。夜になって気温が下がってきた。敷物にしているのり子の毛布を肩にかけてもいいくらいだ。なかなか減らない冷たいコークは飲みきれなくて、座席の下に置いた。

 客が増えてきた。すぐ前のほうの席に高校生くらいの少年が数人と少女が一人腰を下ろした。グラウンドにろばのぬいぐるみを着た者が現れた。おどけた仕草をしてから、客のいるスタンドに姿を消した。視界から消えたと思ったろばが目の前に現れた。前の席の少年たちに気づかれないように、背後に近付いて行った。一人の少年に着ていたシャツをめくって頭からかぶせた。後ろから出し抜けに襲われた少年は、突然視界を奪われ、動物的な叫びを上げて手足をばたつかせた。状況を知った仲間の笑い声で、被害者の少年も何かを察したらしく、暴れるのを止めた。

 ひとごとだと思って笑いながら見ていたが、ろばが向きを変えて、階段状になっているスタンドを上がってきた。まさか、こんな年の者をからかったりしない、とは思ったが、心が騒いで、意識的にろばから視線を逸らした。すぐ側を通り過ぎるはずだったろばをジョージが呼び止めた。

「彼女と一緒に写真に入ってくれない」

 ジョージの思いつきにうろたえた。

「いえ、いえ、私は結構です」

 反射的に手まで振って拒否した。ろばが気安く応じて、両肩に手を回してきた。アメリカ人のジョークとユーモアだとわかっていても、何者かわからない者に気安く体に触れられると、恐怖が走る。

 ジョージがおもしろがってシャッターを押す。続けざまに二、三枚写して気軽に礼を言ってろばは離れて行った。のり子が声をたてて笑っている。のり子が笑うほどおもしろい光景だったのかと思うと、おかしくなった。

 午後七時、場内にアメリカの国歌が流れて、スタンドの客が一斉に立ち上がり、星条旗に注目した。同じ列の少年が胸に手を当てて身じろぎもしない。少年にとってアメリカは誇れる国のようだ。子供のころ、意味もわからずに、教えられるままに歌っていた国歌を歌えなくなって久しい。少年のことが気になって止めようと思っても視線がいく。一途な表情をしている。小学校六年生くらいだろうか。あの少年と同じ年のころ、周造も一途に野球に向かっていた。

 

 近所に住む周造の同級生の母親から、周造に少年野球チームに入ってほしいと声がかかった。

「周造くんは入ってくださるそうですが、ご両親にもお許し頂きたいと思いまして」

 六年生に進級して間がないときだった。周造のことは、生後三か月に満たないうちから保育園に預けて、小学校に入ってからも放課後は他人に世話を頼んで働き続けていた。母親の協力が必要なことはなにもさせてやれなかった。六年になったから一人で自由にさせても大丈夫だと、光一と話し合って結論を出した。

 周造が誘われたチームは、周造が入る少し前までは、強力なチームとして地域でも名が通っていた。最近になって分裂騒ぎが起きた。主だったコーチと父母が、チームの大半の子供を連れ、備品の多くを持ち出して、新たに一チームを作ってしまったのだと、周造を誘った同級生の母親から聞かされた。理由は、監督のやり方が気に入らなかったからとも彼女は言った。

 周造は父親に遊んでもらうこともあまりないのに、野球の道具をほしがった。遊ぶ仲間がいないときは、一人で建物の裏にある建物の壁にボールを当ててあそんでいる姿を見かけた。同級生の母親の記憶の中にも一人遊びをする周造の姿があったようだ。

「周造くん、ときどき壁当てして遊んでますねえ。野球がお好きなんだと思っていました」

 兄弟もなく一人で遊ぶ姿を見て不憫だと思うこともあったが、何がきっかけになるか分からないものだとも思った。 

 周造が加わって、四年生から六年生まで、試合に臨むにはぎりぎりの人数で、ろくな備品もなく、山桜チームが再編成された。チームに残ったのは、強かった時代の、山桜、という名前だけだった。入りたての周造は始めから主力投手だった。日曜日は朝から近くの空いている公園を移動しての練習が始まった。親は常時付き添う必要はなかったが、遠くの公園やほかのチームとの練習試合のときなどは、分担して子供たちの送迎を引き受けることにしていた。

 ある練習試合のときだった。試合前の軽い練習をしていた相手チームの少年たちがボールを取り損ねた。指導していたコーチか監督らしい大人が、大声で子供たちに怒鳴った。その様子が少し滑稽に思えたので、隣にいた同じチームの子供の母親と顔を見合せて笑った。

「相手側の失敗を笑ったりしないでください。これからもあることですから、お願いします」

 前にいた監督が振り向いて、いつになく厳しい表情で言った。ばつの悪さはあったが、気持は爽快だった。この善良さが分派をおこされた理由の一つだったかもしれないと思った。

 一学期のあいだ、山桜は試合に負け続けた。どこのチームも六年生が中心になっていて、山桜のように試合に四年生も加わるところなどなかった。相手のチームは、試合相手が山桜だと、一様に安心した表情を見せた。負けてばかりいるのに、山桜に悲愴感はなかった。いつか、兄弟のような連帯感が生まれていった。平日、仕事を終えて帰宅すると、狭い玄関に男の子の靴が折り重なるように脱いであることもあった。練習の場ではないところでも一緒に遊びたい気持も一致していったようだった。夏休みのあいだも、子供たちは練習を厭わなかった。特別に暑く感じられた夏だった。

 秋の公式戦が始まった。第一戦が近くの小学校の校庭であった。いつものように子供たちの送迎を引き受けて、初秋のある日曜日、応援席に立った。監督の性格から、特別に厳しい練習を強いられはしていなかったとは思うが、夏が終わって、子供たちの体躯に逞しさが増したように感じられた。

 試合が始まった。山桜を相手にしているチームには、監督にもコーチにも余裕がみられた。一回戦、山桜の守備だった。周造がマウンドに立った。ふだんの周造とどこか違って見えた。一球目を投げた。ボールにもスピードが加わった。試合は双方無得点のまま平板に進んでいった。山桜が変わっていた。相手にまで得点を許さないことなど過去にはなかった。四年生の二人の少年までもエラーがない。試合も終盤になったときだった。周造がヒットを打った。続いたのは周造と同じ六年生の少年だった。応援席が沸いた。期待と不安がないまぜになって襲ってきた。次の瞬間奇跡が起きた。再びヒットが出て、周造がホームインした。最後まで一点を越えることはなかったが、勝利の一点だった。新生山桜の初勝利だった。まさか、の一点だった。

「あんなチームに負けて恥ずかしくないか」

 監督に叱られてうなだれる負けたチームの少年たちの姿があった。

 あんなチーム、の山桜の少年たちは、初勝利のその日、町の集会所に途中で買った弁当を持ち込んで祝った。監督は、

「嬉しくて、飯なんか食えないよ」

 とお茶ばかり飲んでいた。周造もヒットを打った少年もにわか英雄にされた。次の試合がなければ、彼らは暫らく英雄でいられるはずだった。

 

 アーカンソー州のチームのトラベラーズよりも、ニューメキシコ州のチームのヴィジターズの方が、かなりの差をつけて得点を上げていた。どうにかトラベラーズにもつきが回ってきたようで、立て続けにヒットが出て、一、二点を加えた。ランナーがホームインすると、ジョージが立ち上がった。長身のジョージが体を折り曲げて、

「セーフ!」

 審判のように両手を広げて言った。宣教師ジョージ・ネルソンのもう一つの顔か、彼のすべてかわからなくなった。

「大ファンみたいじゃない」

 のり子が笑う。ジョージは笑わないが、第三者が笑う価値はあると思った。マイナーチームでもプロ野球ともなると、大差をつけられて無得点で敗れるということはなさそうだ。できたらジョージが応援しているトラベラーズに勝ってほしいものだと思った。

 周造たち山桜チームが二回戦に臨んだとき、勝ってほしいものだ、と期待したのは、試合が始まるまでのことで、途中から見ているだけで耐えられなくなったほどの試合だった。地区でも最強に入るチームが二回戦の相手と聞いても、試合振りを見たことがない者には、本番になるまでその怖さがわからなかった。山桜は得点どころかヒットもなく、差は恐ろしく開いていった。青ざめて投げる周造の球は、キャッチャーのミットに届く前にグラウンドをこすったり、とにかく最悪だった。

「周造、肩の力を抜いて。男だろう」

 監督が時折声をかけて励ます。二十何点もの差がついても彼はピッチャーを交代させなかった。泣きたいのをこらえている周造を見ているのが辛かった。早く試合が終わってほしかった。

 子供たちには長く拷問のような試合だっただろうが、一応は終わった。二十点以上の差は縮まらなかった。

「おまえたち、よくやった。山桜と違って、全員が六年生だったんだ。やればあそこまでできるんだ。来年、がんばろうな」

 監督が一人一人をねぎらった。

「周造、最後までえらかったぞ」

 青ざめていた周造の顔にも色が戻った。二度と野球はしないと言い出すのではないかと恐れたが、中学に入って迷わずに周造が選んだ部活動は野球だった。

「お母さん、申しわけありませんでした。途中で交代することも考えましたが、周造君は男の子ですから、乗り越えてほしいと思って最後まで投げさせました」

 子供たちと同じユニフォーム姿の監督に、帽子をとって深々と頭を下げられた。確かに見ていて辛かったが、監督の責任だとは思っていなかったので、戸惑った。

 少年野球の監督をしていたいからと、五十過ぎまで正社員にならないで、長距離トラックの運転をして働いてきた監督の真意を少し垣間見たような気がした。五人の子供を育ててきて、経済的にも大変だったろうに、大変さを顔に出さないで、チームの子供たちを見つめる監督にも、彼の妻にも、底の深い強さを感じた。

 トラベラーズが勝つ気配は百パーセントに近い割合でなくなってきた。試合途中で帰る者も目立ち始めた。

「帰りましょうか」

ジョージとのり子も相談がまとまったようだ。七回戦が終了したところで、きりもよかった。

 

いつもより早めに起きて、ナンシーと朝食をとった。シィーリアの朝食も最後になった。日本に帰ればシィーリアなど見向きもしなくなるのだろう。嫌いではないが、食べる習慣がないから、自然に忘れても仕方のないことだ。

オフィスへ出かけるナンシーを見送って出かける準備をしていると、九時半になった。約束どおりジョージとのり子が迎えにやって来た。八人くらいの女性たちが集まって歓迎会を開いてくれる日だ。玄関に出ようとしたとき、ジョージが入って来た。

「ちょっと、ナンシーさんの新聞を見ます」

 ジョージが開いたのはスポーツ欄だった。

「昨日の試合ですか」

「そうです」

 あれだけ差が開いていて、トラベラーズが勝つわけないと思って、ジョージが探しているところを脇から覗いた。

「あ、勝った!」

 トラベラーズが逆転勝ちしていた。

「野球は誰にも迷惑がかからなくていいスポーツです」

 ジョージの気分のいいところで出発となった。

 閑静な住宅街の中の一軒の家に到着した。ネルソン夫妻と同年代くらいの痩せぎすの女性が玄関に現れた。この家の主婦でキャロルという名だと紹介された。あいさつがすむとキャロルがジョージにすまなそうに言った。

「ごめんなさい、ジョージ。私、男性との聖書研究に慣れていないから、後で、食事のときに来てくださらない?」

 キャロルは静かな口調だが、緊張の場面になるかと身構えた。のり子は家で煮込んできたカレーの鍋を抱えて、先にキッチンに行ってしまった。

「Okey」

 ジョージの返事を聞いて、無用の心配をしたものだと苦笑した。安心してのり子の後を追った。

 すでに準備は整えられていて、手伝うことはなかった。のり子一人にさせないで、ナンシーのキッチンで何か一品作ってくればよかったと後悔した。アメリカのスーパーマーケットでアメリカ人向けの食料品を前にして、種類と量の多さに驚くばかりで、何か作ることまで思いつかなかった。余裕があれば日本から用意してアメリカで作るという方法もあるが、今回のような旅では無理なことだった。

 今日集まる予定になっているらしい女性たちが、次々に現れた。のり子から一人一人に紹介された。

「アメリカと日本は違うから戸惑ったでしょう」

 ジーンズの生地のロング丈のワンピースを着た女性が話しかけてきた。

「ええ、まあ……。ネルソン先生ご夫妻が助けてくださいますから、戸惑うよりも、毎日を楽しく過ごしています」

 どこまでも大地が広がって、すべてが大きくて、食べ物もあり過ぎて多過ぎて、驚いてばかりいたが、戸惑いとも違う気もする。一番の戸惑いはナンシーといて言葉が通じないときだが、互いに信頼関係ができてきた今になっては、それも克服できたつもりだ。あとは引き摺ってきた傷が、明日の早朝までに癒されるかどうかだ。明日は、大地も人もナンシーもまだ眠っているうちに出発する。来たときと変わらないまま帰りたくない。誰に、何に期待したらいいのか、答えはまだ見つかっていない。

 ジョージが帰って、キャロルを中心にのり子と六人の女性たちが、キッチンやダイニングルームから居間に集まった。キャロルがビデオのスイッチを入れた。イギリスの俳優だとのり子から聞かされていたが、一人の男性が画面に登場した。聖書の中の話を一人芝居で演じている。所々で女性たちが笑い声を上げる。マルコの福音書の中の、イエス・キリストのたとえ話の一つだが、のり子に日本語の聖書を借りて読んだ限りでは、笑えるところはなかった。

 

 イエス・キリストはたとえを使って人々に話し始めた。

 ある農場主が葡萄園を造って垣根を巡らし、葡萄の汁を搾る穴を掘り、見張りのやぐらを建てた。この葡萄園を農夫たちに貸して外国に出かけた。葡萄の収穫の季節になって、農場主は代理の者をやり、分け前を受け取ろうとした。けれども農夫たちは、代理の者を袋だたきにしたあげく、手ぶらで送り返した。

 そこでもう一人の代理人を送ったが、彼も同じような仕打ちを受け、しかも頭にひどい怪我を負った。農場主はまた別の人を送った。こともあろうに、農夫たちはその人を殺してしまった。その後も次々に人が送られたが、みな袋だたきにされたり、殺されたりして、残るは農場主の息子だけになった。愛するただ一人の息子だった。農場主は『息子だったら、農夫たちも尊敬してくれるだろう』と思い、その息子を送りだした。ところが農夫たちは息子を見ると、『おい、絶好のチャンスだ。葡萄園の跡取りがやって来る。あいつを殺っちまおうぜ。そうすりゃあここは俺たちのものよ』とばかりに、いっせいに息子を捕らえて殺し、死体を葡萄園の外に放り出した。

 俳優の口調が変わった。聖書の中でも確か変化がつけられてあった。

 農場主がこのことを知ったらどうすると思いますか。すぐさま帰って来て、農夫たちを皆殺しにし、葡萄園はほかの人たちに貸すでしょう。

 

 たとえ話だがやりきれない話だと思った。

 ビデオが終わり、キャロルが解説を加えた。

「農場主は神、息子はイエス・キリスト、代理人は預言者たち、農夫はエルサレムの指導者たちのことです。指導者たちは、その悪い農夫は自分たちだと気が付いて、イエスを捕らえようと思いましたが、群衆の暴動が恐ろしくて手出しができませんでした。仕方なしにそそくさと立ち去りました」

 指導者たちはイエス・キリストを嫉妬するあまり、ついには捕らえて十字架につけてしまったのだ。二千年前の出来事だと片付けてしまうことができない、何かが残った。エルサレムの指導者たちが悪人で、自分とは関わりないとも思えなくなった。ただ、神とイエス・キリストの馬鹿がつくくらいのお人よしぶりは理解できない。

「私、子供のときに洗礼受けてるの。でもイエス・キリストのことがよくわからないの。喜びとか、平安とか…」

 クリスチャンではないから理解できないのだと一人ひそかに思っていると、オリエント調のヘアスタイルの女性が、本音を漏らした。黙って聞いていたのり子が聖書を開いた。

「ヨハネの黙示録にこう書いてあります。『ごらんなさい。私は戸の外で、しきりに叩いています。その呼びかけに応えて戸を開ける人なら、誰とでも、私は中に入って、親しく語り合います。そしてお互いに楽しいときを過ごすのです』そのドアの外側には把手がありません。ドアは中からしか開かないのです。あなたが、心のドアを開いてイエス様を迎え入れなければ、イエス様は勝手にお入りになれないのです」

 やはりのり子は宣教師だった。年下でいつも下手に出るのり子が、年上の権威ある神学者のように見えた。今の話は自分に向けて言われたような気がした。

 それぞれが感想や日常の経験を述べ合って聖書の研究は終わった。手分けして食事の準備が進められた。銘々が大皿にご飯を盛り、カレーをかけサラダを添えて席に着いた。付け合せはのり子のアイディアで、アーモンドのスライス、レーズン、ココナッツだった。食事のときになってジョージも加わった。カレーとご飯はのり子、サラダ、果実、手作りのクッキーも分担が決まっていたようだ。人に施しを受けているという意識もだんだん薄れてきた。自分がこの人々のために何ができるのか、と考えると疼くものはあるが、アメリカに来る前と比べたら、痛みはかなり少ない。

 評判のよかったカレーの食事も一通り済んで、デザートのクッキーや果実を食べながらの談笑も収まりかけてきた。

「みなさん、これからミセス・タキタに証しをしていただきます。彼女は私とジョージが日本の教会にいるとき、英語クラスから日曜日の礼拝にもときどき出てくださるようになりました。日本では大学生の息子さんと一緒に暮らしていらっしゃいます。それでは滝田さん、お願いします」

 のり子が改まって言った。彼女たちの視線が向けられた。今まで何日間も考えてまとまらなかったが、ここまできたら何か言うしかなかった。

「みなさん、改めまして、こんにちは」

 のり子が通訳を引き受けてくれることになっている。

「今紹介されましたように、息子と二人で住んでいます。仕事はこれから日本に帰って探します。二年前までは三人家族でした。もう一人は夫です。豊かではありませんでしたが、生活困窮者でもありませんでした。平均的な日本のサラリーマン家庭だったと思います。この平凡な家庭が崩壊するとは、思ってもみないことでした。二年前、私の知人の心を病む女性を、自宅で一週間お世話しました。先をお話ししなくてもおわかりと思います。夫はその女性と家を出てしまいました。私、夫を心からいとおしいと思ったことがあるかと問われたら、自信がありません。それなのに二人を恨みました。先日ネルソン先生ご夫妻とダウンタウンの教会で、ホームレスや生活困窮者の方々に、食事を配るお手伝いをさせていただきましたが、あのとき、夫たちもこうなればいいのに、と本気で思いました」

 話しているうちに涙が出てきた。二年間、泣きたい気持を押さえ込んでいたようだ。話を続けられなくなって下を向いていると、キャロルがティッシュペーパーを渡してくれた。目立たないように気を配っているのがわかった。通訳をするのり子も聞いている女性たちももらい泣きしている。

「アメリカに来て、ネルソン先生ご夫妻や、ナンシーや、教会のみなさまや、ミシシッピ州のミス・サンダースやテリーサたちと接しているうちに、自分の中の何かが少し変わったような気がします。それまでは相手だけが悪いと思っていました。今でも夫や知人の女性を許せるかと言ったら、心からは許せません。少し違ったというのは、自分にも責任がある、と思い始めたのです。夜、夫と女性を二人だけにする機会を与えたのは私でした。夫をかけがえのない人だと思っていたら、自分も同席すべきだったのです。夜遅く、夫一人に女性を送らせたのです。愚かな両親をもった息子こそいい迷惑でした。方針も決まらず、目的もなく生きている息子の姿は、私なのです」

 涙を拭いながら話して頭が重かったが、話し終わって気持が軽くなった。目を赤くした女性たちに、代わる代わる抱きしめられた。

「あなたのこと、忘れないわ」

「Oh Dear!」

 

 ナンシーが運転する日本車で到着したのは、メキシコ料理のレストランだった。ナンシーが時々利用する店らしい。ナンシーが予約していた席に案内された。ほの暗い店内にはメキシコの調度品が飾ってある。南米の雰囲気を漂わせるウエイトレスがメニューを持ってきた。メニューをあいだに置いて、ナンシーとネルソン夫妻の英語の会話が弾む。

「コークお願いします」

 日本語的に発音した飲み物はすぐに通じた。ナンシーが早口で矢継ぎ早に注文する。聞き取ろうとしていた彼女は困惑した表情で、奥へ引っ込んだ。少し年長の女性が英語で注文を聞いてきた。

「驚いた。アメリカに住んで働いて、英語を話せない人もいるんですね」

「彼女、メキシコ人かしらね」

 ナンシーには通じなかった。アメリカは多民族国家だと来てみて納得したが、言語については誰もが英語を話すものだと思っていた。

「ニューヨークのチャイナタウンに行くと、生まれてから死ぬまで中国語しか使わなくても生きていけるそうよ、ね」

 のり子がジョージに確かめた。

「日本では難しいですね。国土が狭いですもの。日本語話せません、では生きにくいですよね。人と違うと迫害する民族ですから。一握りのエリートは別でしょうが。改めて、ジョージ先生の日本語、すごいと思います。奥様が日本人ということもあるかと思いますが、日本人と対等に話ができるまでにはご苦労なさったでしょう」

「日本語の訓練を受けていたとき、地方だったから、方言も覚えたのよね。『見えねえから、読めねえ』なんて」

 のり子に笑いながら言われても、ジョージは自分が話題の中心ではないような顔をして聞いている。ナンシーは運ばれてきたアイスティーに人工甘味料を入れて、ストローでかき混ぜながら、しきりに吸い上げている。ビールの大ジョッキのようなコップだ。

「アサコ、今日は何をしてきたの」

 ナンシーに問いかけられると、同じように早口で喋らなければならないのかと、萎縮してしまう。

「うーんと、Bible study」

「何人で、誰と?」

 キャロルしか名前が覚えられなかったと思っていると、ジョージが助けてくれた。

「キャロルはすばらしい人よ。聖書にも精通してるし。アサコ、いい機会だったんじゃない」

 大皿に山盛りになったコーンチップスを忙しくほおばり、アイスティーをすすりながら、ナンシーは聞いてくる。話題を盛り上げるための一つの材料だとわかってはいるが、構えないと答えられない内容だ。

「私はいつも聖書を読んでいるわけではないから、みなさんのお話の中には入っていけなかったけど、黙って聞いていて感じたことはあるわ。自分のことだけど。それと、キャロルはすばらしかったわ。ナンシーの言うとおりだった。自分が中心になって学びをしていても、出過ぎないし、それどころかむしろ控え目だったわ。彼女には誇るべき多くのことがあると思うのにね」

 さりげなくティッシューを渡されたときの感触がまだ残っている。

「これ、もう持って行ってほしいわ。あると全部食べてしまうから」

 コーンチップスの山がなだらかになったところで、ナンシーが皿を隅に押しやった。ナンシーの話題が変わるようだ。

 運ばれてきたメキシコ料理は、アメリカ的な味付けになっているのだろうが、口々においしいと言うと、ナンシーが、面目躍如とでも言いたそうに、私の推薦だと言った。

 ナンシーの早口の英語にジョージとのり子の控え目な英語が交じって会話が弾む。よく聞き取ろうとして耳をそばたてているうちに、どこかで躓いて理解不可能になって料理に手を出す。気が付いたナンシーが単純な英語で話しかけてくる。同じことの繰り返しだったが、自分も会話に参加している気分にはなった。そのあいだナンシーは何度もアイスティーを注文して人工甘味料を入れては忙しくかき回してすすっていた。まともに砂糖を入れていたら、巨大な体躯になるにちがいない。朝の食事も少しのシィーリアと溢れるばかりの無脂肪のミルクだ。ナンシーは肥満のことを気にしているのだ、と思ったら、見上げるばかりに背の高い年下の嵐のように勢いよく話すナンシーが女らしく見えた。

 女らしく見えたナンシーは食事代を全部払うと言って譲らなかった。世話になったお礼として、最後の夜はレストランでの食事でもてなそうと思って決めていただけに、ナンシーの好意は予想外だった。押し問答の末にナンシーに押し切られてしまった。ネルソン夫妻に助けを求めたが、彼らは笑って見ているだけで、期待に応えてくれようとはしなかった。これ以上の迷惑をかけることが耐えられないほどの気持になった。

 夜も更けてきた。いつも夜はナンシーの家に寝に帰るだけだったが、レストランの帰りは、ナンシーに招き入れられて、ジョージとのり子も一緒にナンシーの応接間で少しのあいだくつろいだ。

「十日間、あっという間だったわね」

 のり子よりももっと過ぎ去った時間の早さを感じている、と思う。何か文句をつけるべきことを探しても見つからない。ジョージとのり子を通して、ナンシーやミス・サンダースやテリーサに世話になり、キャロルや教会の人々にもてなしを受け、一方的に恵みを受けた十日間だった。人からこれほどの恩恵を被って、何も返すものがない自分はいったい何者なのか、わからなくなった。すこしわかったことは、この人々は、人が悲しんでいるときに一緒に泣き、喜んでいるときに一緒に喜べるということだ。不思議な人々だと思ったとき、また不思議が起こった。ジョージとのり子とナンシーが、跪くほど深く頭を垂れて祈りを始めた。

慈しみ深い、天の父なる神様

私たちの愛する滝田麻子さんの

心の傷と悲しみを

あなたが完全に癒してください

涙をすっかり拭いとってください

日本に帰られても

神様が滝田さんとともにおられて

眠っているときも

目覚めているときも

常にみ手を置いてくださって

慰め、励まし、力づけてください

私たちの主

イエス・キリストのお名前で

お祈りします

 言葉は違うが、明日からはいなくなって、いつ会えるのかもわからない人間のために、真剣に祈る人々がいた。

「ほんとうに、最高のお礼の言葉と言うのがあったら教えてほしいのですけど、今はただありがとうございますしか思いつきません。みなさん、ありがとうございます」

「滝田さん、私は明日早いからお送りできないと思うけど、お気を付けてね。いつも祈ってます」

 リトル・ロックに来たときと同じようにのり子はハグして、明日空港に送ってくれることになっているジョージと帰って行った。

「ナンシー、あなたのご親切に心から感謝します。日本の私の家はとても狭くて汚いけれど、もしあなたが訪ねて来てくださったら、喜んで部屋を空けます」

 と言っても、ナンシーは言葉も通じない外国の人間を頼って、わざわざ日本まで来ることはない、とも思った。ナンシーならもっと有効にお金も時間も遣うだろう。もし訪ねてくれたら、自分が受けたようなもてなしはできなくても、近づけるための努力はしようと思う。

「ありがとう、アサコ。私もあなたが来てくれて楽しかったわ。明日は私も朝早いから起きないと思うけれど、旅の安全を祈っているわ。いつまでも元気でね」

 ナンシーにこそ二度と会えないかもしれないのだ。ナンシーはどうか知らないが、感傷的になってハグし合った。ナンシーも、

「See You later alligator!」

 と冗談を言ったときの顔ではなかった。

 

 少しまどろんで、すぐに目が覚めて、深く眠れないまま、気が付くと午前三時になっていた。ジョージの迎えの時間までに一時間余りしかなかった。睡眠不足で頭が重かったが、意を決して起き上がった。今度のホームステイのためにナンシーが用意してくれた、小花模様のベッドカバーを整え、音を立てないように気を配って身支度をした。

 午前四時十五分、ジョージの迎えの車が到着した。声をひそめてあいさつを交わすと、ジョージが、来たときよりもずいぶん重くなったトランクを持ち上げて、車に積み込んだ。朝の光がさし始め、絵のような町並みが浮かぶ。町もナンシーの家もナンシーもまだ眠りに包まれている。ナンシーが植えた日々草とハイビスカスが陽光に命を輝かせ始めた。玄関に鍵をかけ郵便受けに入れた。

「こんなに早く申しわけございません。先生まだ眠いでしょう」

「帰ったらまた寝るからいいです」

「そうしていただけたら、気持がいくらか楽になります」

 気持が全部ジョージに伝わったかどうかと思っていると、ジョージが車を発進させた。

 三十分足らずでリトル・ロックの空港に着いた。五時前だが空港にはすでに行き交う人の姿があった。車から荷物を下ろして、ジョージが、

「滝田さんのために、お祈りします」

 祈りの姿勢をとった。

「愛する天のお父様、どうぞ滝田さんの旅をお守りください。いっさいの災いから遠ざけてください。神様が特別に滝田さんを愛してください。イエス様のお名前でお祈りします」

 祈り終わるとジョージは、チェックインの場所までトランクを押して先に歩いて行った。

「もう一人で大丈夫です」

 日本語の通じる人間が誰もいないところでのチェックインは不安だったが、ジョージに一緒にいられると、申しわけなさが先に立って落ち着かなかった。ジョージが帰ってほんとうに一人になった。言い残したことがあるような気がした。振り返るとジョージの後ろ姿があった。

「先生——」

 ジョージが振り返った。

「中からドアを開けます。キャロルさんのところでのり子先生がおっしゃいました」

 まだ振り返っているジョージを残してチェックインカウンターに戻った。胸に閊えていたものが一つ、取れたような気がした。

参考資料  『ザ リビング バイブル』いのちのことば社

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/08/20

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

谷本 多美子

タニモト タミコ
たにもと たみこ 小説家。1943年 福島県生まれ。

掲載作は、小説「ミシシッピ川を越えて」(2004年叢文社刊)所収で、今回は、最終章「把手のない扉」のみ収録。

著者のその他の作品