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古典教育雑感

   

 先日よその大学へ用事で行つた時、研究室関係の人たちから歓迎会や懇談会のやうなものをしてもらつた。わたしはどつちかといへば出不精の方で、あまり旅行好きではない。だから、多少はめづらしがられることもあるらしい。もつともその時は、はじめての土地でもなかつたから、むしろ友人たちと雑談をたのしむ普通の会合であつたと言ふ方が当つてゐるかも知れない。まあしかし、それはどうでもいいことなのである。わたしが今その会合のことを思ひ出してゐるのは、その時の雑談でも話題になり、後で学生諸君を交へた会合でも質問されたことが、何か説明を要することとして、心にのこつてゐるからなのだ。質問は簡単なことである。わたしは近ごろ現代の問題について発言することが多いやうだが、わたしの関心は古代にあるのか、それとも現代にあるのかといふことである。あるひはまた、わたしの関心が古代ギリシアを離れて、現代の日本に引きつけられてゐるのではないかといふやうな疑問である。

 無論、それは軽い個人的な興味の問題であつて、さうむづかしく考へる必要はないとも言へる。わたし自身のことで言へば、二つの関心は別に矛盾するものではなく、わたしが教へられることの最も多かつた哲学は、つねに自分の住んでゐる時代と社会に対して批判的であることを要求してゐるのである。しかしわたし自身のことを離れて言へば、むかしのギリシアのことを研究してゐる人間は、どこか世間離れのした専門家でなければならないのであつて、現代のことについて考へたり、発言したりすることは、何か滑稽なことであり、余計なこと、本務にもとることであるといふ風に、一般に考へられてゐるのではないだらうか。もしさうだとすると、わたし自身のことはしばらくおくとしても、これからの若い研究者のためには、このやうな窮屈な縄張りがきめられてしまふのは面白くないことに思はれるので、わたしはこれらの偏見を、できたら打破したいと思ふのである。例へばフランス文学専攻の人間が、文学そのものについて語ることは、別に不思議でないけれども、ギリシア文学の研究家が、劇の本質について語つたりするのは、とんでもないことであると考へられたりするならば、それはどうもをかしなことだと言はなければならないからだ。哲学の場合などでも、例へば現代ドイツ哲学界の消息に通じてゐいるといふやうなことが、哲学プロパーの仕事をする資格であつて、プラトンやアリストテレスを知つてゐるのは、何か特殊な研究家のことであるといふやうに考へられたりするが、およそ馬鹿げたことであると言はなければならない。最新の流行に通じてゐるなどといふことは、商店の番頭のつとめであつて、藝術や哲学とは直接の関係はない。文化のめくら輸入の時代も久しいものであるが、もうそろそろ整理期に入つてもいいのではないか。

 

   

 

 トインビーの名は、今日ではひろく知られるやうになつたので、かれの「歴史の研究」は読まなくても、その歴史論の大体は常識的に知られてゐるのではないかと思ふ。かれの「試煉に立つ文明」といふ小論集のうちには、その歴史観の由来が語られてゐる。これはわざわざ紹介するまでもなく、上手な翻訳もあつたはずだから、一般に読まれたひとも多いことだらうと思ふ。かれはオックスフォード大学を卒業するまで、ほとんどギリシア・ラテンの古典ばかりで教育されたのだと言つてゐる。そして卒業後も研究生としてアテネに在留したり、オックスフォードで、古代史の研究指導をしたりしてゐる。かれの歴史的開眼は、一九一四年の第一次世界大戦の勃発によつてである。かれは当時オックスフォードの学生たちのため、ツキュヂデスを講義してゐた。

「その時とつぜんわたしの理解の眼が開かれたのである。われわれが現在この世界で経験しつつあるものは、既にツキュヂデスがその時代のなかで経験してしまつたことなのだ。わたしは今かれを新しい認識をもつて読み直してゐるのだ。かれの言葉のうちに含まれてゐる意味、かれの言葉づかひにひめられてゐる感情、それはかれを動かしてあの歴史を書くに至らしめた歴史的危機といふものに、今度はわたしたちが当面しなければならなくなるまでは、それとして感じられなかつたやうな意味であり、感情であつたのだ。いまやツキュヂデスは、この地帯に精通した先達の如くに見られるのである。われわれがわれわれとして到達した歴史的経験のこの段階においては、かれとかれの同時代人は、わたしやわたしの同時代人よりも先の方を歩いてゐるのである。じつさいかれの現在は、わたしたちの未来となるものだつたのである。

 ところで、このことはわれわれの世界を近代、ツキュヂデスの世界を古代ときめてしまふやうな年代表記の仕方を無意味だとさとらせた。年表の上ではどうあらうとも、ツキュヂデスの世界とわたしたちの世界とは、哲学的に見れば同時代であることが、今や明らかにされたのである。そしてもしこれが、ギリシア・ロマ文明と西ヨーロッパ文明との真の関係であるとしたならば、われわれの知つてゐるすべての文明間の関係が、これと同じことになるのではなからうか」

 つまりトインビーの歴史観として知られてゐる根本の考へ、すべての文明の同時代性の原理は、かれが活眼をもつてツキュヂデスを読むことを学んだ日に、突如としてひらめいた考へだつたのである。無論、これはかれが「ギリシア歴史思想」(一九二四年)の序論で言つてゐるやうに、「すべての古典学者の信条」なのであつて、別に異なことをのべたわけではないのである。古典研究の情熱に対しては、古代も現在なのであつて、通俗の歴史教科書のやり方で、世界のすべての出来事をただ一本の時間的尺度で整理しようとすること自体が、むしろ奇怪なことであり、古代と近代の区別なども、皮相な区別に過ぎないのである。

 しかしわたしはここで、トインビーをひとつの権威として引用しようとしてゐるのではない。ただ一つの事例として、かれの存在に注意したいと思ふだけなのである。ギリシア学者であつた彼は、いまのべたやうな歴史的開眼をもつて、今度は現代史を実際的に、また歴史家として取扱ふことになるからである。かれは一九一五年にはイギリス外務省に入り、情報局にあつてトルコ関係を担当し、一九一九年にはパリ平和会議の専門委員となつてゐる。わたしが面白く思ふのは、古典の学徒が自由に官途につき、その力量を発揮することができるやうな、かれらの政治組織である。今日でもわが国に在留する外交官で、古典を学んだ者があつたりするからである。この点、わが国の官吏がほとんどすべて法科出身者によつて占められてゐるやうな現状は、知識や才能を公共のために役立てる面で、多大の欠陥を蔵してゐるのではないかと思ふ。他方また法学部関係の学者さへ、少数の例外を除いては、あまり実際の役に立つ者のないやうなのも、心細い次第であると言はなければならない。

 トインビーは一九二〇年から、イギリス国際問題研究所に入り、その研究部長として、毎年「国際問題概観」を公刊し、「平和会議以後の世界」といふ論述においては、かれのツキュヂデス研究が無駄ではなく、かへつてそれがかれをすぐれた現代史家たらしめてゐることを示したのである。古代ギリシアの研究が、およそ現代とは無縁であり、その研究者が現代について発言するのは、むしろ滑稽であると考へたりするのは、この一事例によつて見ても、あきらかに偏見であると言はなければならないだらう。

 

   

 しかしながら、これはトインビーといふ特別の才能においてのみ見られる事例であつて、すべての古代研究家が同様の仕事をすることができるといふやうなことは、むろん言へないわけである。わたしたちが一般的に言へることは、ギリシア・ロマ世界の研究といふやうなことは、必ずしもわたしたちを現代に対して盲目にするものではない、むしろすぐれた観察眼を与へることもあり得るのではないかといふだけのことである。トインビーはこの点に関しても、かれが青年時代にギリシア・ラテンの古典だけで教育されたことを、むしろ有難いことであつたと感謝してゐる。かれの一家はむしろ近代派に属し、母親は大学に学んだ最初の女性であつて、近代ヨーロツパ史の最新の教育を受け、イギリスの国史を専攻したわけなのであるが、かれ自身はむしろ旧式の教育を受け、ギリシア・ロマ世界の歴史を専攻したのである。

「しかし歴史家を志す者にとつては、そして特にこのやうな時代に生まれた者にとつては、古典教育はほかにかけがへのない恩恵なのである。訓練の場として、ギリシア・ロマ史は著しい利点をもつてゐる。まづ第一には、ギリシア・ロマ世界といふものは、これをわれわれはパースペクチイブ(遠近の見通し)のうちに見ることができ、ひとつの全体としてとらへることができる。これに反して、われわれ自身の西ヨーロツパの歴史は、まだ未完の劇のやうなものであつて、われわれはその結局の末を見ることができないし、現在の一般的な様相さへも、われわれ自身が押し合ひへし合ひの混雑した舞台に、束の間の一役をつとめてゐるのであつてみれば、これを見ることはできないのである。

 第二には、ギリシア・ロマ史の領域は、多過ぎる資料によつて場所をふさがれ、印象を不明にされることがなく、われわれは樹だけでなく、森を見ることができるのである。これはギリシア・ロマ社会の崩壊とわれわれの社会の出現との間に断絶があつて、思ひ切り樹木がすかされてゐるお蔭なのである。またその上、証拠史料も使ひこなすに丁度いいほどの分量が残されてゐて、地方政権の公文書が今日のやうに、後から後から積み重ねられて、むやみな比重を占めるやうなことはないのである。ギリシア・ロマ史研究のための現存史料は、量において手ごろであるばかりでなく、質においてもよく選択されてゐる。それはバランスのよくとれた性質のものである。ここでは彫刻や詩、哲学の著作が、法律や条約の本文よりも重要性をもつてゐるから、ギリシア・ロマ史によつて養はれた歴史家の心のうちには、釣合に対する一種の感覚がはぐくまれることになる。

 第三の、そして恐らくは最大のギリシア・ロマ史の利点は、その眺望がむしろ全世界的であつて、一地方に偏してゐない点にある。アテナイやロマが輝かしい存在になつたために、スパルタやサムニウムの影が薄くなつたのかも知れないが、とにかくアテナイはその青年期において、全ギリシアの学校となり、ロマはその老年期において、全ギリシア・ロマ世界を一丸とする、ひとつの共同体をつくり上げたのである。ギリシア・ロマの歴史にあつては、これをその始めから終りまでを総観すると、全体的統一の調子が支配的である。だから、一度この大交響楽を聞いてからは、もはや自国の地方的な歴史がかなでるわびしげな、辺境音楽に夢中になる恐れは、わたしにはなかつたのである。それは母がわたしを寝かしつけるために、毎晩少しづつ話してくれた時には、わたしを夢中にしたものだつたのだけれども」

 

   

 

 わたしは今ここで、古代派と近代派の歴史的論争を再開しようとしてゐるのではない。どちらがいいか、どちらがすぐれてゐるかといふやうな議論は、今さらむし返してみても仕方がないやうに思ふ。またわれわれの世界を近代、ギリシア・ロマの世界を古代と単純にきめてしまふことに対しても、いま既にトインビーの異議が出されてゐたのである。古代ギリシアといふやうな言ひ方にも、あるひはつまづきがあるかも知れない。いづれにしても、ギリシア人の世界はわれわれ日本人の古代ではないのである。西ヨーロッパの人たちにとつてさへ、古代ギリシアはもう卒業してしまつた過去ではない。それはわたしたちの未来を含み、現在と対応するものをもつてゐるのである。しかしこれは、ギリシア人の世界がわれわれの理想であるとか、モデルであるとかいふことを、単純に意味するものではないだらう。ただわたしたちがわたしたち自身を見る上において、わたしたちの眼識は、ギリシア・ロマ世界で訓練されるのが、恐らく一番都合よくはないかといふだけのことである。

 丁度いまトインビーは、歴史家を志す者が教育され、訓練される場所として、ギリシア・ロマ史の研究が、自国の近代史の研究よりも、一層多くの利点をもつことを指摘してゐた。恐らく本来の古典といふものは、このやうな教育価値によつてのみ古典と呼ばれてゐるのだと言ふことができるだらう。わが国では古典といふ言葉が、はつきりした意味規定なしに、むしろ安価に乱用されてゐるやうであるが、いつたい古典教育といふやうなものが、ほんたうに認められてゐるのだらうか。わたしの関係してゐる学会に「西洋古典学会」といふのがある。「西洋古典」といふのはあいまいな名前かも知れない。だから、この学会が学会連合といふ組織に加入しようとした時、学会そのものの性質があいまいであるやうに誤解されて、一部の人たちから異議が出た。つまり「西洋古典学会」といふやうな学会を認めると、いまに「東洋古典学会」とか、「日本古典学会」とかいふやうな漠然とした名前の学会が出来た時にも、これの加入を認めなければならないことになるといふのである。たしかに「西洋古典学会」といふやうな日本名だけで考へると、そのやうな恐れもないとは言へないだらう。だから、わたしたちに同情してくれる人たちは、いつそ「ギリシア・ラテン学会」とでもしたらよいのではないかといふやうにも言つてくれたのである。しかし京都大学の文学部では、以前ギリシア・ラテン文学(と語学)に対する講座を、西洋古典文学の名で呼んでゐたのである。そして西洋では、単純に古典と言へば、まづギリシア・ラテンを考へるのが常識で、Classical Languagesと言ヘば、ギリシア語ラテン語を指すわけである。だから、「西洋古典学会」の英語名は Classical Society of Japanですむわけなのだ。しかしこの英語名も、ときどきをかしいといつて、外国語の上手なはずの人たちから叱られることがある。わたし自身もあまり自信はないので、をかしいと言はれると、そんな気のすることもないではない。これはしかし語学の問題ではなくて、わたしたちの古典といふ言葉に罪があるのかも知れない。ギリシア・ラテンといふやうなものが、古典といふ言葉を聞いて、すぐにピンと来るやうには出来てゐないからであらう。さうすると、学会連合の加入に関して出された珍論も、たまたま当の人が無学であつたといふやうな事情によるのではなくて、わたしたち全体が古典的教養とかいふものを、歴史的にも実際的にも、ほとんど知らなかつたところから来てゐるのかも知れない。

 

   

 

 しかしこれは、西洋の特殊事情に過ぎないのであるから、われわれがかれらの古典教育を受けてゐなくても、別にさしつかへいのではないかといふ風にも考へられる。またわれわれにはそれに代るものとして、東洋の古典があるといふ風にも主張されるであらう。たしかにわたしたちの父祖は、一種の綜合性をもつた何か古典教育に当るやうなものを受けて来たのである。しかしそれは明治以後次第に失はれて、現代のインテリには、それに代るものが何も見当らないのである。大学の一般教養科目といふやうなものは、出来るだけ要領よく取るための単位として存在するだけで、何を教育してゐのかは疑問である。既に見られたやうに、トインビーの言ふ古典教育は、単なる知識ではなくて、むしろ訓練だつたのである。それとも、このやうな旧式教育は無用なのだらうか。もしさうなら、明治から現在に至るまでの日本知識階級の教育は、そのやうな旧式教育からの解放の歴史として、いはば模範的な意味をもつてゐると考へなければならないだらう。果してほんたうにさうだらうか。

 わたしは近ごろ必要があつて、政治学、法律学、社会学、経済学、歴史学といふやうな方面の人たちの書いたものを、いくつか読んでみたのであるが、そこでもかれらはいつたい基礎教育をどこで受けるのかといふことに、いつも疑問をもたずにゐられなかつた。無論、かれらの基礎教育は、その専門とする学問によつて与へられると言はなければならないだらう。しかし専門科学といふものは、特に十九世紀以来の極端な専門化の傾向においては、充分な教育的意味をもつとはいへない場合が多いやうに思ふ。部分的な材料過多によつて、いはゆる樹を見て、森を見ない危険が多いからである。いま名をあげた学問のうちでは、政治学が一番綜合性が高度で、また従つて教育的な意味が多いのではないかと見られる。既にプラトンは、政治の綜合性の故に、これの学問は万学の王たる哲学と等置されるのではないかと考へてゐたのである。近ごろは経済学の発言力が増大して来て、いろいろな問題が経済学によつて取扱はれてゐる。しかし経済学が政治学に代つて、他の一切を取扱ふといふやうなことは、どうも無理のやうである。それは唯物史観などの偏見による場合が多く、実際の処理には成功してゐないやうに思はれる。国家社会の全体を綜合統一的に取扱ふのは、むしろ政治の立場であるから、経済学も政治学の下に従属し、その包括的な立場から、根本的な支へを得なければならない。無論、このやうな政治学の考へは、むかしの夢であつて、近代政治学はこれとは違ふのだといふ主張も出るであらう。しかしこのやうな主張は、何も珍しいことではない。哲学や文学その他の領域でも、一つの傾向としていつも一部に存在する考へ方なのであつて、特にわが国では不勉強と無学の言ひわけに、安価な近代主義が謳歌されたりするのである。しかし既に見られたやうに、近代と古代の対立などといふことには、それほど多くの意味はないのである。むしろ政治学のそのやうな失権は、今や回復されなければならないのである。そしてそのやうな政治学だけが、ギリシア以来の正統に立つものとして、他の社会科学者にも一種の古典教育、あるひは基礎教育の場を提供することができるだらう。しかしわが国政治学の現状では、そのやうなことは何も期待できさうもない。末流の専門科学の一つとして、いつも原理的な不足になやみ、絶えず他からのそのやうな支へを求め、現在ではいつもイデオロギーの指図を待つやうな、御用学となる危険にさらされてゐるのではないか。

 何だか話が妙な方へ外れてしまつたやうに思はれるかも知れない。しかし例へば、政治小説が求められても、それが実現しないのは、本来の政治学の立場が確立されてゐないといふ、いま見たやうな事情が大きく作用してゐるかも知れないのである。また国史の研究といふやうなものが、戦前も戦後も政治史の見るべきものがないために、大きく制約されてゐるのも、同様の事情によるのではないかと疑はれるのである。トインビーの教へるところによつて見れば、わが国の歴史家たちは、世界的な規模における大きな変化を、長期にわたつて全体的に見通すことのできる予備訓練の場をもたず、ほどよいバランスの取れた史料の取扱ひによつて、ひろく人間的な見方を養ひ育てる機会なしに、いきなり自国の限られた歴史だけを取扱ひ、処置に困る時は、借りものの歴史観などに頼るよりほかはないやうな状態にあるのではないか。わたしがここで感じるのも、やはり基礎教育の不足なのである。今日の専門科学の勉強だけでは、そのやうな教育の代りにはならない。いつたい今日のわれわれは、むかしの人が古典教育から得たところのものを、ほかに何処から求めようとするのであらうか。  (了)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/09/22

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田中 美知太郎

タナカ ミチタロウ
たなか みちたろう 哲学者 1902~1985 新潟県新潟市に生まれる。京都帝大哲学科選科卒、京大文学部教授。日本のギリシア古典哲学研究の泰斗で、ことにプラトン研究に成果を挙げた強靭な意志力のヒューマニスト。哲学不在の進歩的文化人への厳しい批判者としても知られる。

掲載作は、1959(昭和34)年「新潮」9月号初出。

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