野狐
ひとのいう、(たいへんな女)と同棲して、一年あまり、その間に、何度、逃げようと思ったかしれない。また事実、伊豆のM海岸に疎開のままになっている妻子のもとに、度々戻ったこともある。
しかし、それはいつも完全に逃げられなかった。(たいへんな女)が恋しく、女房の鈍感さに堪えられなかったのである。たいへんな女、桂子の過去を私はよく知らない。私は桂子と街で逢った。けれども普通の夜の天使と違った純情さと一徹さがあると信ぜられた。
私との商取引ができた後、私は四、五人の
いわば
その頃から、第二次世界大戦が激しくなってゆき、私は度々、出征した。殺人と放火の無慈悲な戦場にいると、そんな
戦争が済むと、私は会社を
けれども一年ばかりで、私は現在の共産党に幻滅を感じた。それはボス中心の私利私欲を追求する連中だけに利用されているよう思われたからである。それでも私は内部に踏みとどまって、戦うのが正しかったのだろう。だが私は一時の感情にかられて、党に脱党届を叩きつけた。そして党を憎むよりも自分を憎んだ。自分が裏切者、不義士の張本のように思われ、醜悪にみえて仕方なかったのである。
そして家に帰って、
ところが、その幾らかの余裕のできるようになった頃、私は前のような事情で、桂子と知り合いになった。桂子は、前に
桂子も私に幾つかの嘘を
そこで私は、桂子と、夜昼なしの愛欲生活を送りながら、カストリ雑誌なぞにしきりに書きはじめた。そうした雑誌の編集者たちと飲みあかす晩も少なくなかった。生活の乱れに筆の荒れるのを感じるようになる。また金だけ送って疎開先におき放しになっている妻子、特に子供たちに良心的
私は眠れないまま、しきりに催眠剤を用いるようになった。はじめはカルモチンなら十錠、アドルムなら二錠で眠られたのが、しまいには、カルモチン五十錠から百錠の間、アドルム十錠ほど、一気にのまなければ眠られなくなった。それも飲むと眠たくなる代りに気持よい
私は前から酒好きで、その酒も強いほうだったが、催眠剤を連用しはじめると、酒だけではまるで酔えなくなった。私は昔のボート選手で六尺、二十貫。それでも一升飲めばいい気持になったのだが、そのうち、
そのままでは、私の健康も才能も、また疎開先の妻子もダメになると思って、私はやりきれない気持だった。そこで私は酔うと酒乱になる桂子と
また桂子が酔って見境がなくなり、遊びに来ていた他の男たちと夜の町にとびだしてゆくと、私も
桂子は前に同棲していた異国人から、縞馬と呼ばれていたという。色の浅黒い、手足の小さい、小柄の女で、顔は平べったく、低い鼻の穴が大きく天井を向いている。化粧すれば、そうみっともない女でもなかったが、素顔の時は呆れるほど平凡な泥臭い百姓の娘さんだった。けれども、その疲労を知らぬ、
ところで私は、俗物たちが
そこで最後に昨年の暮、バカな私にも、桂子が異国製の菓子と煙草をかくし持っていたり、おまけに当時、ジフリーズで、ペニシリンの注射をさせてやっていた頃、彼女の浮気というより、その淫奔さに薄々、気づいていたので、また催眠剤を飲んで彼女と喧嘩の末、伊豆の妻子の下に逃帰った。だが、催眠剤は勿論、沼津からも酒を飲みはじめ、夜中の十二時になっても、我が家に帰る気がしない。妻のぷッと膨れた冷たい顔を見るのが辛いのである。十二時頃、千二百円でハイヤーを雇い、M海岸まで帰ったが、そこでわが家を指呼の間に望みながらも帰る気になれない。家の下に、淫売宿をかねた飲み屋のあったのを幸い、そこの
帰る途中、畑に
すると妻は子供たちを連れ、すぐ東京の実家に泣きこみにいった。そこで
そして妻子はすぐ上の姉の離れに住まわせ、私自身は近くに仕事部屋を借りて貰った。けれども、そうしていても始終、妻のふくれた顔が私のまぢかにある。また私と別れてヤケになっているという桂子が、社交喫茶に勤めだしたというのも気にかかる。といって、もう一度、桂子に顔を合せるのも苦しい。私は集金できる出版社をあてにして、黙って仕事部屋をとびだした。
催眠剤と酒の数日間が続く。眠ったのは、浅草のいまは廃業しているお好み焼屋とか、親しい編集者や作家の家。実に多くの人たちに言いようのない迷惑をかけた。
浅草のある社交喫茶に桂子に似ている女給がいたので、彼女を連れ、一度だけホテルにいった。けれども、私は、桂子の肉体と違う女と交合する欲望はない。丁度、桂子との
そして桂子も私に対して同様な気持でいると信じていた。二十貫もあった私の肉体はやせおとろえて、二貫目もやせ、アバラ骨さえ出る始末。そうした夜昼なしの放浪の間、私は浅草でも、新橋でも、横須賀でも、鎌倉でも、ところかまわず、酒と催眠剤を飲み歩いていたが、絶えず夢うつつのように桂子の幻が浮んでいた。きっと桂子も私と同じように不幸なのであろう。
それで、ある日、思いあまって、私は新宿のいわゆる愛の古巣に戻っていった。午後三時頃、台所から、こっそり声をかけ、上ってもいいか、桂坊がいままだ不幸な気持かと尋ねた。クスクスいう含み笑いと、「あたし、うれしいわ」という甘ったるい桂子の色っぽい声。「あたし勿論、不幸よ。帰ってきて下さって嬉しいわ」
こんな言葉に私は有頂天になって、懐しい六畳間に台所から入っていった。彼女はしきなれた布団の上に、なまめかしい寝巻姿で寝ており、その枕元に、私たちのいた頃から使っていた、近所の人のいい老婆が、優しく笑っていた。私はどこよりも、桂子の家で、家庭的なあたたかさをもって迎えられたのだ。私はとっさに情欲よりも、もっと高い愛情にうちのめされた気になった。私の帰るべきところは結局、ここより他にないともう一度、信ぜられた。
私はオバさんを帰してから、桂子を膝の上に抱いて、雨アラレと色々なことをきいた。
「ぼくがいないんで、本当に淋しかった」
「誰も好きなひとができなかった」
「一度ぐらい浮気をしてみた」
私には桂子が別れた時より、ずっとポッチャリ肥ってしまったのが、ちょっと、気になった。私がこんなに
桂子はハリキッた肉体を身もだえさせ、こんなに言った。
「さびしかったわ。時々、夜中に靴の音が聞えると、ひょっとあなたが帰ってきて下さったかと思って目が覚めるのよ」
「勿論、誰も好きなひとなんかできるはずがないじやないの」
「浮気」彼女は
その前、彼女が私に逢いたく、姉の
けれど私はなにもいわずに、その夜は自分の本を売って金を作り、ふたりで酒をのみ、肉鍋をつついて、楽しく遊んだ。一月もむなしかった私の欲情も、その夜から
はじめの約束では、私は、月に時々そうして桂子に逢う積りだった。その度に、金を持ってこようと思っていた。すると桂子は、「そんなに来るたんびにお金なんかいらないわよう」といった。彼女も、勤めを継続しながら、私に時々、逢う積りでいたのだ。
翌日、私は集金の予定のある出版社に出かけていった。そこで都合が悪く、先づけ小切手を渡されると、私はそれを近くの、いつも迷惑ばかりかけている、ある出版社の社長に現金にかえて貰いにいった。そして酒を御馳走になってしまうと、桂子と約束の時間に帰れなくなった。その夜、彼女は勤めを休むとはいっていたが、私の帰りが遅いのに腹を立て、きっと勤め先に出かけたに違いない。
それで私は、ひとり多分、社長から貰ったに違いない一升瓶を抱え、本郷から自動車を、とばし銀座に出た。彼女の勤め先は、西銀座の「うらら」という店である。
運転手に探して貰うとすぐ分った。これもやはり第三国人の経営だという、ビルの二階の大きな酒場だった。下にボーイが二、三人、白い制服で頑張っていて、怪しげな客は通さないようにしている。私は、本名で出ているという桂子の名前をいうと「ケイコさん」と呼ぶ、けたたましい指名で二階に通される。これが桂子のいう上品な酒場か。
青い照明の下で、鳴りひびくバンド。踊っている客と女給たち。ここに上ったら最後、最低三千円は取られるのを覚悟しなければならない。ところが桂子の話だと、どんな客でも
私がいわゆる、桂子の旦那だと分ると、私は店の奥の、外人客が通されるという、特別な囲いに案内され、四、五人の女給たちが私をとり囲んだ。桂子にはとにかく、まじめになりたいという気持が感じられるが、その四、五人の女たちは、全く典型的な
全てか、然らずんば無か、私のこうした極端な気持が一度、共産党と
桂子と同棲中、私は彼女から逃げようと思い、彼女のため、池袋にマーケットを買ってやったことがある。そのマーケットを月三千円で、桂子は友達のリリーに貸してやっていた。リリーは芸者上りの、桂子よりはいわゆる、美貌だが同じようにヒステリックらしい女である。今の世には、異常な男女が刻々とふえつつあるのだ。そのリリーが、桂子のいないため、最後まで私につきそっていてくれた。
私は持ってきた一升瓶を飲み、女給たちは店のビールを飲む。そして結局、看板まで私は居残ることになった。酔いと遅くなって面倒なのとで、私はリリーとハイヤーで新宿まで帰ることにした。
店を出ると、その角に中華料理屋がある。リリーが何か食べたいというので、入って、私のためにはチキンカレー、リリーのためには、焼そばと卵のスープを取った。私は充分に酔っているので、もはや、食欲がない。ぼんやり、リリーの食べかつ飲むのを眺めていると、彼女は瞬く間に、自分の分を平らげてしまい、「私は面倒なのはキライよ」と絶叫しながら、私のカレーまで飲みほすように食べてしまった。まるで餓鬼である。地獄の女たちのひとりだ。私は桂子が、逢いはじめにやはりこのように怖るべき食欲を発揮したのを思いだす。彼女たちは愛情にも、金銭にも、食欲にも、あらゆるものに飢えているのだ。
銀座から新宿までの車代が一千円。車は外国団体の所有のものらしい高級車で、運転手のサイドワークらしい。
「早く、乗って下さい」とせかし立てる。車の内でリリーも酔ったらしく眼を据え、私のチップの払い方が少ないなぞ文句を言いだす。そして新宿の家についても、桂子に対して、「あなたの旦那を送ってきてやった」と恩を着せ、またチップのことをゴタゴタ言い出し、おまけに池袋のマーケットの家賃が高いなぞと言い始める。酔っている時の桂子は、決してリリーなぞに負けるような弱気ではないが、
私は遠慮して、女たちふたりを
私は帰ってきた
「わたし、お店に出て、いろんなことを覚えたわ、愛情は物質と平行するものよ、わたし、着物も欲しいし、うんと
ああ、これが私との逢いはじめに、私が、ボロボロのジャンパーに軍靴をはき、「ぼくは身なりをあまりかまわない男ですよ。それに貧乏作家で、あなたに贅沢をさせられないかもしれない」といったのに対し、やさしく、「ええ、あなたの愛情さえあれば、わたし、なんにもいらない」と答えた女なのだろうか。
ーカ月の社交喫茶勤めという悪習が、桂子を急速に堕落させたのだろうか。イヤ、元来彼女はそうした虚栄心の芽のあった女ではある。それが私に対しては慎ましく、「なにを買ってくれ」というのも遠慮していたのが、私には余計、
けれども、今は、店の同僚の女たちの衣裳がみんな数十万円のものを身につけてると
その翌日、私は彼女とともに、近くの先輩作家のもとにいった。先輩といっても、五十を過ぎ、平和な落着いた家庭を持っているひとなのだ。そのひとを仮にYさんと呼んでおこう。Yさんは、久し振りの私を歓迎して下さって、お酒の御馳走をしてくれた。
Yさんの小さい子供たちの無心に遊んでいるさまをみるのが、私には、自分の子供たちが思い出されて、身を切られるように辛い。それで殊更、元気をだし、その子供さんたちに校歌を教え、優しい奥様に、よく知りもしない禅の講釈などをしていた。私は彼女と別れて放浪中、偶然、古本屋で買った、「無門関」を
百丈和尚、
師イウ。因果ヲクラマサズ。老人、言下ニオイテ大悟シ、作礼シテイウ、ソレガシ
師、維那ヲシテ白槌シテ衆ニ告ゲシム。食後ニ亡僧ヲ送ラント。大衆、言議スラク、一衆ミナ安シ。
無門
私はこの公案に自己流の解釈を下そうとは思わない。ただ懸命に人生を生きぬき、修行しさえすれば、よい作家になれると単純に信じている私に、この公案が、(あきらめよ、わが心、けだもの、眠りを眠れ)と話しかけるのである。
私がこの禅の話で、夢中になっている間、桂子はひとりでコップ酒をがぶがぶ飲みはじめたようだ。私のハッと気づいた時には桂子は、ベロベロに酔って、眼を据えていた。そして、先輩のYさんと
「君、なにを失礼なことをいうんだ。もういいから帰ってくれ給え」
「帰るとも、ロクなものを食わせもしないで大きなことをいうな」
桂子がフラフラ立上るのに、Yさんが、「この女、生意気な」と組みついていかれて奥さんに引きとめられ、奥に寝かされに連れてゆかれてしまった。私も
私とても薬と併用しているから腰が切れない。ふたりでよろめきながら、崖上のYさんの家を出てゆくのに、彼女は足をすべらせ、真っ逆様に、前の溝に落ちてしまった。臭い、すえた溝の中から、はでな湯文字がみえ、暗闇には薄白くみえる、桂子の両股があらわである。
私は自分も尻餅をつきながら、やっとの思いで、彼女の身体を溝から引っ張り上げたが、泥のおびんずる様みたいになっている。そして周囲にいつの間にか、多くの弥次馬。
「やア女の酔っ払いだ。みっともない」
「水をかぶせて、そこに寝かせておけば治ってしまうよ」
私は桂子がそんな風に醜悪で、みんなに侮辱されれば、されるほど、いとしくてならない。仕方がないからYさんの玄関にでも、ねかせて戴こうと頼みにゆくと、奥さんが手拭に
桂子は幾らか正気づき、自分でフラフラ立上る。着物の前ははだけ、裾からは真黒な
私も少年時、鎌倉の農村に育ち、桂子のような少女たちに、しきりに好奇心と淡い恋情を感じたことがある。都会に出ていって、悪い病気をうつされ、まだ若くして死んでいった、そうした多くの娘たち。その娘たちに感じていた愛情が、桂子の上に爆発したのだ。
十六、七の頃、近くの老農に犯されようとしたり、医者の息子に追いかけ回されたという彼女。十九の年、田舎碁打ちに誘惑されて処女を失い、二十一の時、身内の勧めで、気に入らぬ結婚をし、姑や小姑たちと仲が悪く、カフエの勤めに出たり、夫の出征した後では、印刷工場に入って自立し、敗戦後、帰還した夫を嫌って、離籍し、ある異国人と
私は彼女のハンドバッグと
昨夜、そこの溝板の上に、短刀で一突きにされたという青年の死体の転がっていたマーケット。その溝板の上を彼女は足袋跣足で、髪をぼうぼうと乱し、平目に似た眼を吊り上げて、平然と歩いてゆく。その醜骸を、私はどんなに熱愛していたことか。途中、警官の不審尋問にあったが、私がついていたので、なんでもなく済んだ。
彼女の家に帰る途中に、支那ソバ屋がある。桂子は勤めに出ていた頃、時々お腹がへるとここに寄ったという。ある時は、送ってくれた酒場のボーイを連れて。それはお客かもしれぬと一瞬、邪推したが、その時、私はまだ過去の恥ずかしいことでも、隠さず語ってくれると思う桂子を信じていた。そして桂子は玉子を入れたラーメンを二杯も食べる。昨夜のリリーに見た時のような恐るべき食欲。
帰って私たちは死んだように抱き合って寝る。朝、目がさめると、途端に私のほうからしかけてゆく
それは男だけに浮気の権利があって、女にはないというのではない。一度、私が桂子を棄てた以上、その間に、彼女が売春をしたことがあっても仕方がない。ただ、そうしたお互の恥ずかしいところを全部、見せ合うところに、お互の愛情と信頼が生れると思う。それがなかったために、私は妻が
翌日は、彼女に勤めをやめさせる日。最後の晩、気持よく勤め、みんなにも挨拶したいというので、私は銀座
青い照明の、他の厚化粧した女たちと、酔った男たちのいる店でみる桂子は別人のようだ。他の女たちに比ベ、わざとらしく肩を張っているのも、田舎っぽいのも、小柄なのも、私には
曲がタンゴでもブルースでもかまわず、トロットのボックスを踏んでいればよい怪しいダンス。戦前、やかましいダンスを覚えた私には、それがまるで気ぬけしたみたい。しかし、結局、音痴でダンス嫌いの私には、このほうが気楽でよい。
一曲、踊って席に戻ると、桂子の組長だという、しっかりした美貌の女給が私の前に坐る。一目みて、江戸っ子と分る、
彼女に比べると、私の桂子はひどく泥臭く、もの欲しげな女にみえた。私は数日前の放浪時代、浅草のレビューの女優さんたちとものを食ベ、酒を飲んだこともあったが、彼女らも敗戦前の彼女らに比ベ、夢やヴァニティがなく、ただ物欲的なのに失望した。そして、それよりも失望したのが、この新興喫茶というものの女給たち。そこに、一口にいえば、こんな風にガッツいていないタイプの組長に逢って、私は嬉しかった。
その夜も酔ってしまうと、省線に乗るのが面倒になり、ハイヤーで帰る。これは日本の木炭自動車で八百円。帰って、ふたりで寝ると、習慣になった摩擦行為が繰返される。私は自分の肉体の衰えと、彼女の身体のハリキリ方を身にしみて感じる。
翌日から私は仕事を始める積りだったが、朝、ふっと彼女の身体に触ってしまうと、前夜の酔いも残っていて、私には仕事ができない。オバさんに頼み、近くの薬局からアドルムを買って来て貰うと、朝から二錠、四錠とのみ出し、終日、布団の中でうつらうつらしている。そうすると稼がない私に対して、彼女の仮借ない
だから、私はアドルムを制限され、その夜、五錠しか与えられない。すぐに
彼女は米を買う金もないと言いだしたから、私は大切にしていたクロポトキンの、「ロシア文学の理想と現実」、ジョイスの「ダブリンの人々」他二、三冊の洋書を、訪ねてきた編集者に頼み、一面識だけある本屋の社長に図々しくも売ってきて貰う。しかもその後で、私は彼女に万という貯金のあるのも分った。
昔、彼女と
しかし、彼女がその一月の間に三夜ほど外泊し、その度に、分厚い札たばを持ってきて、貯金したという話をきいて、私は
そこには妻の勝ち誇ったような顔がある。妻は、私が桂子の家に行っている時、四人の子供を連れ、私たちの留守に、桂子の家を襲った。そして留守番のオバサンから、彼女が三度、外泊した話と、分厚い札たばを持返った話をきき、胸がスッとしたというのだ。その妻は、私の留守中、
だが、その妻の勝ち誇った顔は、私の胸の傷をなお深くえぐった、私はその時から、妻子の顔をみているのが堪らなくなった。姉が泣きながら止めたが、私は妻と別れると言い張ってきかず、とうとう、妻や幼い子供たちを、姉の家の近くの、長兄の家に追いやってしまった。そして子供たちの養育費は出すが、妻は家政婦として働かせるようにした。
私は妻の泣き顔をみたようにおもう。だが、それは私の悪いマノン、桂子の泣顔ほどにも、私の胸に残らなかった。
そして私は姉の離れの十畳を借り、いちばん上の十二の子と、味気ない生活を始めるようになった。朝十時頃、起き、午後の四時頃まではなんとか机に向って仕事を続けていられるが、五時、六時頃になると、死にたいほどの孤独感にふいと襲われ、台所で食事の支度をしている姉のもとにアドルムを貰いに出かけてゆく。
二、三時間ほど禁断症状が起ったのを我慢した後だから、四錠ほど飲んでも、いつもの十錠分ほどの効目がある。天国に上昇してゆくような
それでも姉には、多くの子供たちや、夫があり、私だけに愛情を注いで貰えぬ淋しさがある。その思いが、二十年間、仲むつまじく連れそってきた姉の夫、義兄の帰宅してきた時から一層、ひどくなる。義兄は、財界を動かす「ニューフェース」の中に数えられる、ある経済団体の所長代理、すでに五十歳。その彼に私はインフェリオリティ・コンプレックスを感じる。その淋しさをまぎらせるため、私は姉の子供たちと将棋なぞやって気を
その間にも、私は桂子に手ひどく
そうしたある朝、九時頃でもあろうか、アドルムを飲み、ぐっすり熟睡していた私を、姉がけたたましく揺り起す。枕元にはどうも見覚えのある老人が坐っている。いつも桂子の家に手伝いに来ているオバさんの
それで落着いて、昨夜、二度も、近くの長兄の家を訪れて引返し、三度目、深更二時頃、警官の手を借り、長兄の家にたどりつき、その夜、長兄のもとに一泊し、こちらに回ったという、オジさんの話をきく。
オジさんの話では、私に、二度目に家をとび出された桂子は、その日、アドルムを買ってきて熟睡し、翌日の昼頃まで死んだように眠った後、フラフラ表に出、見知らぬ若い男と帰ってきた。そしてふたりで夕食を食べた後、桂子は勤めに出ると言い、その男とふたりで外に出た。間もなく、若い男がひとりだけで帰ってきて、友人と約束の時まで休ませて欲しいと、家に上りこんだ。
人のいいオバさんは、その男を信用し、男に勧められるまま、近くの自宅に御飯を食べにゆく。そして約一時間後、帰ってきて愕然とした。
ボツボツ家政婦に出だした妻がまだ一張羅の晴着を質屋から出してないのを私は知っている。それでも私には、桂子の盗難のほうが気になり、ゆっくり相談したい気持になるのだった。なんという不道徳漢と誰に
夜の九時頃になり、そのうち玄関を激しくノックする音。「誰」ときけば、「あたし」という独特のしわがれた声が桂子である。私は一面、嬉しく、一面、気まりが悪く、大急ぎで子供たちを退散させてから、優しく桂子を部屋に迎え入れた。先日までピチピチ肥って、元気そうにみえた桂子が、いまはアドルムの酔いもあるらしく、ひどくやつれてみえる。女性にとって、衣類はそれほど顔をやつれさすほど貴重なものらしい。ほどよく酔っている桂子はしきりに、(女にとり第一に大切なのは衣裳、第二が生命、第三が恋人よ)という。
私はまた彼女がそのように、いっさいをハッキリいう時の、お転婆の童女のような顔が好きなのだ。いつの間にか戸外には、いまの時代を思わせるような激しい風が、ピュウピュウ吹きはじめ、私は幾らかでも酔っている彼女を、そんな夜、ひとりで新宿まで帰すことが不安になった。
どちらかいえば、妻子のある私と関係しただけでも桂子に好意の持てぬような姉までが、その夜は、彼女に同情し、彼女の災難をともに心配し、風が強いから、泊っていったらどうか、これからも昼間、時々、遊びに来るように勧めていた。そう勧められると駄々っ子の桂子は、どうしても帰ると言い張る。私はそんな風に酔った桂子が、深夜おそく、新宿のマーケット街を放浪する光景を想像すると
また彼女の過去に、そのような事件があるのを私は度々、目撃しているし、
途中の喫茶店にチョコレートを飲みに入ったが、そこで彼女にせがみ、アドルムを三錠、十錠のみはじめると、私は丁度、麻薬中毒患者が薬にありついたような、ただ本能の奴隷となる。私は再び、もはや、彼女と別れたくない気持。彼女が前に三度、外泊したというのは一度の誤り、それも銀座から帰る途中、リリーとふたりで輪タクの運転手と
また泥棒に入られる前夜、外泊したのは事実だが、それは国際文化社という
そして熱い酒を飲みだすと、私はなにがなんだか分らなくなる、いっさいの恥も外聞も忘れ、まるで自制心がなくなる。散々飲んだり食べたりした後、その店に払う勘定がないと、店の子供を使いにやり姉を呼ばせる。姉はいちばん下の五つの女の子を連れ、やってきたが、私の醜態をみると泣いてしまったようだ。そして意見がましいことをいうのに、
どうして姉の離れの十畳に帰ったかよく分らぬ。ただ煙草を買いゆくと出た桂子のなかなか掃ってこないのが気になる。大学の試験を明日に控えている姉の長男を何度も、表に走らせ、桂子をみにやったが、どこにもいないという。それで私は大暴れ、妻の唯一の財産の
ふと気がつけば、私は離れの十畳に寝ており、姉がかいまきをかけてくれている。桂子のハイヒールもハンドバッグも残っているが、すでに彼女が出て三時間にもなる。私は諦めて寝てしまう積り。姉の手からアドルム十錠、奪いとるようにして取り、それを飲んで、うつらうつら眠くなった頃。
突然、酔っ払った桂子が
私はそんなに言うのなら、そこにやるのもよかろうと思った。だが、ひとりでは不安なので、また姉の長男に警官を呼んで来て貰い、桂子を警官に送らせようとする。しかし警官の顔をみる頃から桂子は
朝、酔って乱暴したいつもの朝のように、桂子は、私の胸に泣き崩れてきた。肉体をかすかに揺動かす、彼女のテクニック。私は醜い哀れさに堪らなくなり、彼女に肉体の欲望があるかどうかを
そこに七十三になる私の老母が泣き崩れ、半狂乱になり、
姉は、私の桂子に対する本当の気持を薄々、知っているのだ。愛と僧しみの間。醜い哀れなものに対する、どうにもならぬ
盗まれた品物を桂子は私に説明しながら、ふっと出てきた貯金帳を、そっと右手にかくす。私はそれを無言で奪いとって調ベ、ギョッとする。私が飛び出した日の日付で、彼女は二万五千円の貯金をしている。それから、三回にわたり、五千円
それに引替え、三万円の貯金と、バラックながら二軒の家持ちの桂子、私は子供の頃、ひとから(おまんこ倉)と
不落不昧、両彩
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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