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山へ帰る

 したたるほどの緑に溺れそうだった。濃密な緑が波しぶきになって窓の外を猛然と流れていく。緑の波をくぐって突き進む潜水艦みたいだ。静一は緑の波に直接頬や掌を触れさせてみたかった。だがガラスを下げると、ハンドルを握っている父親に、クーラーがきかないじゃないかと、大声をだされた。すでに二度も同じことをくりかえしたのだった。つづら折りの登りの山道になり、父が腕を忙しく交差させてハンドルを回転させ、前方の景色が右に左にとすべった。もっともっとスピードを上げてと思ったが、静一は黙っていた。エンジンの苦しそうなあえぎが背中のほうから響いてきた。

「お父さん、本当に大丈夫なの」

 助手席に坐っている母が横顔を見せ、口紅を塗っている唇を動かした。父が長く伸ばして息をはく。

「自分で飯を炊いて暮らしてるんだから心配ないさ」

「頑固なのよね。お母さんもなくなったんだし、素直に息子の世話になればいいのよ。こっちだってどんなに心配させられてるか」

「昔からなんでも自分の思ったとおりにしなければ、気がすまなかったよ。お袋も忍従してた」

「あんたにそっくり」

「お前も忍従してるんか」

「主婦はみんなそうよ」

 母は顔を小刻みに横に振り、父は肩から息を抜いた。静一はガラスに顔を寄せ、刻一刻形を変えていく山を眺めていた。山と山の間の平地は耕され、その真中に川が流れていた。橋を渡っては山にはいり、また一掴みほどの村にでた。整然と植林された暗い杉の森の中を、時折白っぽい鳥がよぎった。

「あんたもずいぶん田舎で生まれたものね」

「日本は結構広いんさ」

「なんだか別の世界にはいっていくみたい」

 杉は大きくなって鬱蒼と繁り、光は薄まって黄昏のようになった。白っぽい幹の下の草は枯れて勢いがなく、陽光は葉叢の間から粉のようにこぼれてくるばかりだ。窓を開ければ杉のはく瘴気に巻かれてしまうかもしれない。アスファルト道路の両端と真中に引かれた白線が鮮かだ。まわりの風景は変わっても、真新しいアスファルトと道幅だけが変わらなかった。車があまり通らないので、道路はいつまでも古びないのだ。

「何着てったらいいかしら」

「向こうで何でも買えるさ。買えばそれがお土産になる」

「支店長は奥さん同伴で赴任してるんでしょう。みっともない格好だけはしていけないわ。陰で何いわれるかわからないもの」

 父と母はアメリカにいくことになっていた。ニューヨーク支店への転勤辞令がでた父についていって、母は二週間ほど遊んでくるのだ。

「今度はあたしが一人で運転して静一を迎えにこなくちゃならないのね」

「一本道さ。この道をどこまでも登っていけばいい」

「二時間も一人で走るのね」

 新幹線に一時間乗り、在来線に乗り換えてまた一時間車内で辛抱し、着いた駅でレンタカーを借りた。静一は自分が捨てられるのではないかとさえ感じた。それでも別にかまわないのだった。父とも母とももう一ヵ月は言葉を交わしてはいなかったのだ。静一は小学三年生だが、学校にいっていなかった。この自分さえあれば何処にいても同じなのである。たとえはじめて顔をあわせる祖父のもとに預けられるにしても……。

「ねえ、ニューヨークってどんなところ」

「この世のありとあらゆるものが小さな岩盤の島の上に集まってるのさ。いや、わからねえよ、俺もはじめてだから」

「楽しみね」

「お前だって、一度見ておけば安心だろう。へんな嫉妬をしないでもすむさ」

「いいところだったら住んじゃおうかな」

「そうもいかねえだろう」

「環境が変われば、静ちゃんだって、変わるかもしれないわよ」

「だから、年寄りと二人だけで暮らすのもいいんさ。これまであまりに自然を見せなかったからな。子供は子供なりに感じるだろう」

 父がバックミラーの中からちらちらとこちらに視線を送ってくるのが、静一にはわかった。母は顔を前方に向けたままだ。静一は背凭れに背中を預け、窓ガラスに頬を押しつけていた。冷んやりとしたガラス窓もすぐにぬくまった。冷気が顎のあたりに縞になってでてくる。杉林が跡切れ、視線が放たれた。静一は遠くの山に向かい、馬鹿と声にはださずに口の形をつくった。静一の前に現われる大人はみんな馬鹿だ。

「お母さんのお葬式以来よね。あの時は静一がおなかにいた」

「九年にもなるのか」

「お母さんの心臓があんなに弱ってたっていうのに、病院にも連れていかないんだもの。家で死ぬのを待っていたお母さんは、どんな気持ちで毎日毎晩床についていたのかしら。恐ろしいわねえ」

「ちょっと黙れよ」

「だってそうでしよう。あたしだったら気が狂うかもしれない」

「死ぬとわかったら、一日でも長生きしたいと思うより、場所を選ぶさ。知り合いもいない病院なんかより、自分の家で死にたいさ。病院にいれられたら、もう帰れないのがわかっていたからな。人間なら、そういうもんじゃねえか」

「人間というより、動物ね」

 父は怒りを呑み込むふうにして黙った。道は田んぼの中を伸びていた。人の手がはいって稲が緑の穂をそろえている田んぼよりも、雑草が茫々と生い繁っている放置された田のほうが多かった。窓ガラスに耳を押しつけていると、何処からともなく水音が聞こえた。行く手のアスファルトに陽炎が立ち、道路には透明な水がたまっているようだった。父も母も黙っていたが、それぞれ別のことを考えているに違いない。道路の両側に家が何軒かならんでいた。どの家も雨戸に板が斜交に打ちつけてあり、屋根もガラス戸も土埃をかぶって全体に白茶けていた。藁屋根が半分崩れて竹の骨組みが露わになっている家もあった。残った藁屋根にはまるで地面のように草が繁っていた。父が運転する車の速度は極端に遅くなった。

「なんだか変わっちゃったわねえ」

 母の言葉に父は反応しなかった。父は窓を下げ、身を乗り出すふうにして腕を突き出した。一瞬にして空気が入れ替わり、静一は湿った熱い舌に顔を嘗められたように感じた。ガラスというガラスがすっかり破られ、膝をつくようにして傾いている家があった。廃屋が抱える闇の中から今にも人が立ち現われてくるかのようだ。

 アスファルトに罅がはいり、そこに夏草が生えていた。一個所の草は少なかったが、あちらこちらにあった。かまわず走っていった車の底を、草が撫ぜた。

 道は消えて、その先は登り傾斜のついた雑木林になった。道の両側と真中には白線が鮮明に伸び、アスファルトがなくなるまでつづいていた。アスファルトに含まれた光沢のある黒い石が陽光を鋭く跳ね返していた。父は行き止まりでブレーキを踏みエンジンを切ったが、すぐには外にでようとしなかった。

「帰らざる道路になってしまったなあ。道路を通って街から仕事がくるはずだったのに、村の人間がでていく道路になっちまった。こんなになってるとは思わなかったなあ」

「どんなになっても故郷がまだあるだけいいのよ。あたしなんか東京の団地に生まれたんだもの」

「いいから、黙ってろ」

 父は少し強い声をだした。二人が黙ると、雑木林から?の声が聞こえた。窓の下のアスファルトは一直線の傷のように盛り上がって罅割れ、下に根が走っているのがわかった。蟻が歩いていた。静一はドアを開け、車の中で裸足になっていた爪先をそろそろと降ろした。熱が足の裏に貼りついて気持ちよかった。静一はそのまま三歩四歩とあるき、あわてて車に戻った。足裏の皮をアスファルトに忘れてきたような気になり、掌で触れて確かめた。掌の皮膚にも熱が伝わってきた。

「うわあ、暑い、暑い」

 車の外にでた母が、陽光を遮るつもりか両腕で頭を抱えて叫んだ。母の足元に穴でもできたように黒い影があった。母は陽炎に包まれ蒸発して、みるみる大気に溶けて消えてしまう。静一の眼は浴解していく母を見ていた。白いワンピースが陽にきらめいた。母は背中を丸めて走っていた。

「たまらない。息が詰まりそう」

 母は道路縁の家の軒下にはいり、肩で息をついていた。運転席から振り返った父の眼に、静一は見詰められていた。父は恥ずかしそうな表情で微笑んでいたのだ。

「なあ静ちゃん。ここがパパの生まれたところなんだ。パパが静ちゃんと同じ歳の頃には、このあたりを走りまわってたもんだよ。よく見ておけよ。これがもう最後かもしれないからな」

 逆光で顔はよくは見えなかったのだが、父は泣いている様子だった。車が止まっていると、緑が波打ち、大波となって頭から襲いかかってくる。束の間、?の声がやんだ。

「静ちゃん、お祖父ちゃんにいろんなこと教われよ。パパはもう教えてやれないんだ。お前と遊んでる時間すらないからな。お祖父ちゃんはなんでも知ってるぞ。かまわないから、犬ころみたくなって遊べよ」

 父は明らかに泣いていた。静一は買ったばかりの真新しいスニーカーをはいて車の外に跳び出した。粘りつく光に囲まれ、緑のにおいの強い空気を一息で胸の奥まで吸い込んだ。その瞬間視界から光が失われ、気がつくとしゃがんでいた。顔中から汗がひっきりなしにしたたる割に、口の中が乾いていた。呼吸のたびに喉が笛のように鳴った。

「少しずつ身体を慣らしていかなくちゃ駄目だよ。泳ぎ方も知らないのに急に水に跳び込んだら、溺れるだろう」

 父の声は頭上から下のほうにきた。静一の身体がふわりと抱き上げられたのだ。おとなしくしていると、静一の視界に緑の海が戻ってきた。静一は緑の波に浮かんでいる。そのまま進もうとして少し手足をばたつかせた。父は道路の端の黒っぽいコンクリートの側溝をまたぎ、草の中に踏み出した。よく磨かれた父の黒い革靴は草の色と不釣合いだった。

「父ちゃ—ん、いるか」

 父が叫び、胸から震えが伝わってきた。父は同じことを三度くりかえしいってから、静一を草の上に置いた。スニーカーのゴム底から草の硬い感触が伝わってきた。奥にある小さな野菜畑でトマトの実が陽光を浴びて赤く輝いている。静一と父と母とはならんで庭に立っていた。灰色のスレート瓦の大きな屋根が山のように聳えていた。一戸が開け放しになって、穴のような暗い部屋に黄色い畳が見えた。畳は波打ち、表面が擦切れて霜が降ったようになっていた。部屋は整頓されて誰かが住んでいることはわかったが、家全体から人の気配は立ち昇ってこなかった。

「親父はきっと畑にいったんだよ。どんなに暑くたって働くと涼しくなるって、昔から口癖だったからな。冬の寒さだって身体を動かしていればしのげるって」

 父は上機嫌でいいながら縁先に坐った。白っぽい床板は木目を浮き出していた。父はいかにも懐かしそうな様子で指先で木目に触れ、柱や天井を見詰めた。顔を左右に振り、含み笑いをして下を向いた。

「いやだあ。この人、思い出し笑いをしている」

 母のあたりはばからぬ大声を聞きながら、静一は土に一列にできた雨垂れの窪みを踏んでいた。ついでに蟻を踏みつけた。一匹を踏み潰すとすぐに次の一匹が見つかり、静一は蟻を踏むことに熱中していった。いくら踏んでも蟻は身体が潰れる感触を伝えてはよこさなかった。勢いをつけて踏むと、空気が逃げて靴底がばたんと地面を打った。その音が気にいって静一は地面を踏んだ。着地した靴の底に必ず蟻がいた。静一は蟻に導かれていったのだった。

 平屋だったが、見上げるばかりの大きな家だった。陽の下から影に抱かれると、水に漬かるように冷んやりとした。家の真中にまるで横穴が掘られたように土間がつづいていた。土間の向こう側の部屋は雨戸で閉じられていた。静一は不揃いの長方形の白い石の上に渡してある敷居をまたぎ、土間の奥に踏み込んだ。黴臭い湿った風が奥から吹いてきた。二歩三歩進んでからふと不安を感じて振り返ると、過剰なほどにあふれた光がしぶきを立てながら横穴の奥のほうに押し寄せてくるのが見えた。その光に背中を押されるようにして静一はそろそろと進んだ。明るいものを見すぎたため、前方はただの闇の固まりになっていた。こんこんとしわぶきが聞こえ、静一は立ち止まった。虫の声かもしれない。静一は息を殺し、声の方向に耳を澄ませた。

「良一かあ。良一が帰ってきたんかあ」

 か細い老人の声だった。老人は父の名前を呼んだのだ。静一の視界に仄白い老人の顔が徐々に輪郭を整えてきた。老人の身体は丸く小さくなって空中に浮かんでいた。

「良一、よく帰ってきたなあ。山の奥で迷ったかと思ったけど、帰る道がよくわかったなあ」

 短かい白髪がわずかに残った頭をこちらに向けて横たわったまま、老人はゆるゆると腕を伸ばしてきた。外からの光が老人の瞳に写っていた。同じように揺れる瞳の光と腕とを見詰めたまま、静一は思わず後退っていた。行き止まりになり、振り仰ぐと、父の掌が背中にあてられていた。

「父ちゃん。俺だよ、良一だよ」

 息せき切っていう父の声が頭上から降ってきた。

「やっぱり良一だな。間違いはねえと思ったぜや」

 祖父は静一だけしか見ていなかった。父に背中を押され、静一は進むも戻るもできなくなっていた。父の声が再び頭上で響いた。

「そんなハンモックに乗って、危なかんべ。落ちたらどうすんだ」

「夢を見てたんだよ。何度も何度も見たんだかんなあ。夢観音様はやっぱり嘘はつかねえなあ。ありがてえこった」

 祖父は両掌を前にあわせて口の中で何事かを唱えてから、足を敷居のほうに伸ばした。ハンモックは座敷からさほど高い位置には吊ってはいなかったので、降りるのもそれなど難儀ではなかった。祖父は骨の浮いた身体を畳の上に立て、背伸びをするようにして腰を伸ばした。腰が伸びると、その分猫背になった。ランニングシャツにパンツ一枚の姿だった。眼の光は相変わらず静一だけに注がれていた。

「さあ、良一。いくら久しぶりだって、自分の家なんだから、遠慮することはなかんべ」

 祖父の口の中には歯が一本もなかった。動かすたび、唇の端に白い泡がたまった。静一は祖父に手を取られた。スニーカーを脱ぐのももどかしく、土間から座敷に引っぱり上げられたのだ。踏むと敷居は軋んでへこんだ。畳もべこべこして、歩くたび重心が崩れそうな気がした。静一の手を引いたまま祖父は建てつけの悪い襖を開き、次の間にはいった。真似をして静一が正座すると、祖父は安心した表情で頷いてマッチを擦り仏壇の燈明を点けた。オレンジ色の光があたりにひろがり、仏間にたまった薄闇がかえって意識された。祖父の皺だらけの顔には燈明のオレンジ色がクリームのように光沢よく塗られていた。祖父は腰を浮かして鉦を叩き、澄んだ音を耳の奥に突き立てた。耳からはいった音は頭蓋骨の内側をまわっていつまでも消えなかった。祖父はまたふうっと息を吐いて合掌した。

「しばらく山に隠れていた伜がようやく帰ってきやんした。これで長生きをしたかいがあったというものでやんす。ありがとうごぜえやした。ありがとうごぜえやした。なんまんだぶ。なんまんだぶ」

 念仏を唱えながら、祖父は何度も腕で横なぐりに眼を拭き、鼻を啜り上げた。そのたび小さな蝋燭の火が揺れた。炎がまた元の形に戻ると、発光する芯を中心に外側に向かってほんの少しずつ暗くなる炎の層が重なった。炎の中に瞳を吸い寄せられていた静一は、祖父の形を真似て掌を前に合わせ頭を下げていた。重ねた目蓋に炎の微かな熱が届いた。

「父ちゃん、俺が良一だよ。これは孫の静一。顔は似てるかもしんねえけどよ」

 父が仏間には入ってこずにいっていた。父の声に促されたのか、祖父は静一の手を取って仏間からでた。祖父は二度三度空気を吐くように口を動かしてから、今気づいた様子で深々と頭を下げた。

「これはどちら様でござんしょうか。本日はまた伜の良一が山から帰ってきためでたい日でごぜえやす」

 祖父はいよいよ強く静一の手を握るのだった。乾いた骨っぽい感触だったが、静一にとっては何とはなしに懐かしい気分にひたらせるものだった。祖父と静一の落ち着きぶりとは対照的に、父は頭に手をやったり瞳を横に動かしたりした。

「まいったなあ。電話で話した時にはちゃんと正気だったんだけどよ。何でもわかってるはずだったんだけどよ」

「大丈夫でしょう。御飯だけ食べさせてくれればいいのよ」

 父と母の声は遥か遠くから聞こえてくるように、静一には感じられた。握っていた祖父の手が開いた。静一の指はすっかり汗ばんでいた。

「良一の大好きなものがあったぜや。裏の井戸に冷やしておいたから。待ってろや、今父ちゃんが取ってきてやっから」

 祖父は機械仕掛けの人形のような動き方で土間に降り、外に消えた。しばらくの間、静一は部屋に一人で立っていた。部屋の真中の畳が心持ち陥没し、それにあわせたように煤だらけの天井も真中のあたりが垂れ下がっていた。天井に近い壁には神棚があり、その隣に老人ばかりの古びた写真の額が五つもならんでいた。壁に近い畳には炉が切ってあった。外にいっていた父と母とが畳の上に鞄を置いた。静一の足の裏に震動が伝わり、天井から下がった煤だらけの自在鉤の孟宗竹が揺れた。

「静ちゃん、これ着換えよ。必要なものは全部ここにはいっているからね」

 母の声がしても、静一はそのほうを見なかった。自分は捨てられるのだった。動揺はなかった。母は何度か静一の名を呼んだ。母の声は上ずっていた。

「ママがいなくても、自分のことは自分でできるわね。もうお兄ちゃんなんだものね」

 静一は?の声を聞いていた。何匹鳴いているのかわからない焼けつくような?の声に、梢から梢へと渡る風の音がまじっていた。何処からかせせらぎも聞こえた。渾然一体となったそれらの音の中を、草履の底を土間にこすりつけて祖父がやってくる。

「父ちゃん、東京で一番うまいクッキー買ってきたぞ。たまには甘いものも欲しかんべ」

 先に聞こえてきたのは父の声だった。父の声は隙間だらけの部屋に残響もなく消え、代わりに祖父の息遣いが近づいてきた。

「ほら、良一、食え。今年は雨が少なくって暑いから、大豊作でなあ。いくらでも食え」

 盆の上に西瓜が切ってあった。よく熟れた赤い西瓜だった。黒い種が点々と埋め込まれていた。静一は西瓜を一切れ掴み、祖父とならんで縁側の端にしゃがんだ。かぶりつくと、汁があふれて地面にしたたった。静一は父と母とを眼の端でとらえていた。父も母もその場にいないと一緒だった。

「ほら、うまかんべ。いっぱい食うんだぞ」

 静一が食べ終らないうちに、祖父は新しい西瓜を渡してくれた。歯のない祖父は歯茎で器用に西瓜を食べた。唇の間から西瓜がこぼれてくるので、日の中が真赤に見えた。

「大丈夫よ。お父さん、案外しっかりしてる。いいでしょう、孫と過ごせて」

「ちょっと心配だな。事故が起きても、ここじゃどうしようもねえ」

「決めちゃったんだから、もうどうにもならないわ」

「親父のことだって心配だしな」

「あんた、ニューヨークにいけなくなるわよ。自分から志願したんでしょう。決心して、こんな山の中から一人ででてきたんでしょう。ここに残ったんならともかく、でてきたからには頑張らなくちゃ」

 父と母とが遠くで言葉を交わしあっていた。二人の場所は山を越えたよりも遠くに思われた。父と母の声はコンクリートの団地から吹いてくる風を感じさせた。その団地こそ静一の生まれ故郷だ。十五階建ての十五階に静一の部屋はあった。南側の窓は隣の建物によって視界が塞がれていたが、北側の窓辺に立てば海のようにひろがる大都市が眺め渡せた。実際窓の端には東京湾も見え、晴れた日には空と海の色とが同じになる美しい景色を与えてくれた。だがいつも締め切られた窓越しに見る風景には匂いはなく、手を伸ばせば届くというものでもなかった。ブラウン管のガラスの中を流れていく光と陰とどれほどの違いがあるのだろうか。この部屋にいれば、すべてが眼の前から遠くを移ろい過ぎていった。静一は空中に浮かんだこのコンクリートの箱の中にいるのが好きだったのだ。外にでるたびに不安を覚えた。保育園や幼稚園や小学校や、日曜日になると近くにある臨海公園や遊園地に、父と母とは何かと理由をつけて静一を外に連れだしたがった。そのたびに静一はひどく不機嫌になって部屋に逃げ帰ってくるのだった。他人の中にいれられるのは、汚水の中に投げ込まれるような気分になった。学校や街の雑踏に連れていかれるたびに静一は泣き騒いだ。精神科の病院や情緒障害児教室に無理矢理連れていかれることが重なるにつれ、静一は暴れることのない従順な子供になっていき、そのかわりに言葉を失っていった。自分の内部に部屋をもうけ、その中に坐っていたのだ。何処に連れていかれても、部屋にしゃがんで景色を眺めていると同じだった。

「やっぱり静一を置いていくのは無理だなあ。親父も引き取らなくちゃならねえや」

「どうするのよ、ニューヨークは」

「頭が痛てえなあ。会社に事情を話して、出発を少し延ばしてもらうか」

「そんな。交代の人はもう帰ってきちゃったんでしょう。せっかくの抜擢を断ったら、一生浮かび上がれなくなるわよ」

「今夜はここに泊るぞ。ちょっと様子を見よう」

「無理よ、あたし」

「じゃあ、お前だけ帰れ」

「ひどいわね」

「駅前にビジネスホテルがあったな。一人でそこに泊って、明日また迎えにきてくれないか。それまでに結論だす」

 縁側の正面は竹藪だった。少しでてきた風を含んで竹の葉は騒ぎ立っていた。光沢のある竹の葉叢を背景にして、黒揚げ羽蝶が飛んでいた。蝶は風に逆らうのを楽しんでいるかのように同じ場所で羽撃いていた。西瓜の盆を横に置いた祖父は、蝶を指差していきなり大声を張り上げた。

「ほら、見ろ、良一。母ちゃんも帰ってきたぞ。良一を見にきたんだべ」

 祖父の声に、父と静一とが同時に黒い蝶を見た。大ぶりな蝶は羽撃くたびに陽光を細かく砕いた。

「ほ—ら、炊けたぞお。久しぶりの割にはよく炊けたんべ」

 父は竈から煤けた釜を両手で運んできた。上半身裸になり、手拭いではちまきをしていた。囲炉裏辺の藁の鍋敷きの上に釜を置き、蓋をとった。白い湯気の固まりが吹き上がった。囲炉裏を囲んで坐った祖父と静一に飯を盛りながら、父は機嫌よくいった。

「父ちゃん、飯はちやんと炊いてるみてえだな。台所が意外にきれいに整頓されてたもんな」

「飯を食わなければ人間は死ぬぞ。死にたくなければ、飯を炊かねばなんねえ」

「米も野菜も自分でつくってんだな」

「何でも自分でつくらねば、誰が恵んでくれるもんでもねえ」

 父と祖父とは滑らかに言葉をやり取りしていた。山のほうで鳥が疳高い声で啼いた。父は静一の飯茶碗の上に梅干しを一個指で摘んで置いた。

「これで飯を食え。炊きたてだからうまいぞ。パパが子供の頃はこればっかりだったんだから」

 静一は先の剥げた塗箸で飯を口に運んだ。舌の上で跳ねまわる熱い飯を、思いきり呑み込んだ。熱い固まりが喉元から食道を通って胃に落ちた。吐いた息は湯気がまじって熱い。汗の粒が額にならびはじめるのがわかった。父が正面から静一を見て笑った。静一と父とで祖父を囲むように坐っていた。

「様子がわかんねえからな。昼飯はこれだけしかねえけどな。晩飯はうまいのをこしらえてやっから」

 父は誰に向かってともなく呟いた。静一は息を吹きかけてから、また一口、飯を口に運んだ。舌の表面が火傷をしたのか、味がしなくなった。

「隣も、その隣も、みんなでてったんか。父ちゃん一人しか残ってねえんか。いくら電話したって、全然なんにもいわねえんだもんなあ。こっちだって事情がわかんねえべ」

 父の話の区切りのたびに、祖父は大きく頷いて飯を口からこぼしそうになった。眼にうっすらと涙を浮かべて正座している祖父は、叱られている子供のようだった。父はいくら話しても話し足りないというように言葉をつづけた。

「村がなくなっちゃったぜや。父ちゃんが最後の一人ってわけか。ここにはもう暮らせねえなあ。やっぱり養老院にでもはいってもらわなくちゃしようがねえべ。金さえ払えば、いくらでもいい養老院があっから。金か。こんな土地には誰も買い手がつかなかんべなあ。久しぶりに帰ってきたっていうのに、なんだか悪い夢でも見てるようだぜや」

 父の箸は動かなかった。父も泣いているように、静一には見えた。

「良一よお。せっかく山から帰ってきたっていうのに、苦労かけるなあ」

 祖父は両掌で飯茶碗を腹のところに持ったまま、身体を折って静一と父とどちらにともなく頭を下げた。その時、柱時計がベーンベーンとバネを打った。午後二時だった。

 庭から見える山の向こうに巨大な入道雲がかかった。雲も山も光っていた。風は死に絶え、じっとしていても全身に汗が惨んできた。樹や草の吐きだす息がふくらみ、緑のにおいに染まった。静一は祖父とならんで鶏小屋の前に立っていた。赤く錆びた金網は、真中あたりが大きく破れていた。灰色の羽が落葉のように散っている地面に、もうひとつの木箱の檻がいれてあった。そこには黒い瞳をした薄茶色の小動物が身動きもせずに丸くなってじっとうずくまっていた。祖父は静一の手を力をいれて握った。

「せっかく良一が帰ってきたのになあ、ごっそうもねえや。鶏を潰して腹一杯食わしてやりたかったのにな。ここに五羽もいたんだぜや。毎日三つも四つも卵を生んで、いい鶏だったんだわ。雌鶏は四羽きりいねえのにな。イタチに全部やられちまった。この馬鹿イタチは、屋根を破って飛び込んだのはいいが、逃げらんなくてなあ。わしも良一にごっそうしてやんなくちゃなんねえから、お前に働いてもらうことにするべ」

 祖父はしゃがんで箱の檻のほうに顔を突き出し、一言一言ゆっくりと話しかけたのだった。静一も祖父の真似をして草を千切り、箱の中のイタチに向かって突き出した。イタチは身じろぎもしない。イタチの顔は祖父に似ていると、静一は思ってみた。

「まさかイタチを食うんじゃなかんべなあ」

 背後から父がいった。祖父は肩越しに振り返り、まじまじと父を見詰めた。祖父は深い溜息をついた。

「良一か。どうしてここにいるんだ」

「さっきからいるよ」

「そうか。そうだったな。学校が休みになったんか」

「父ちゃんを迎えにきたんだよ」

「学校はもうなくなったぜや。統合されて、廃校になったんだかんなあ」

「俺はうかつだったよ。自分のことばっかり考えててな」

 父は静一のほうを見て悲しそうな表情をつくった。瞳が涙でレンズのように白く盛り上がっていた。静一は祖父のごつごつした掌で頭を柔らかく撫ぜられた。

「さあ、良一、イタチ漁にいくべ。今夜は腹一杯魚を食べらしてやっから。父ちゃんがな、お前だけに見せてやっから。誰にも見せねえぞ。お前は父ちゃんの跡継ぎだから、これは覚えなくっちゃいけねえぞ。父ちゃんもな、その前の父ちゃんに教わったんだから。お前にこれを教えねえうちは、父ちゃんもあの世にいけねえや」

 話しながら歩く祖父に手を引かれ、静一は納屋にはいった。動きのこつがわかってきて、父が動作を起こす直前に静一は身を処すようになっていた。農具には泥がついていることもなく、鎌も鋭利に研いであって、納屋の内部は気持ちよく片付けてあった。天井から玉葱やにんにくがぶら下げてあり、藁苞には串焼きになった魚がさしてあった。藁も結束して壁にていねいに積んである。祖父が諸道具類の中で掴んだのは、切り出しナイフと透明な糸束のような網だった。祖父は親指の腹をあてて刃を確かめてから、ナイフを作業ズボンのポケットにいれ、ナイロンの網をマフラーのように首の両脇に垂らして掛けた。静一を見おろして笑う祖父の目つきは、沼のような鈍重さから解放され、年齢をいくつも後戻りしたかのように澄んでいた。祖父はナイフをいじっていた指で静一の髪を撫ぜてからいった。

「あんまり天気がよすぎんなあ。本当は曇った日のほうがいいんだけどな。まあしばらくやんなかったから、ヤマベのやつも油断してるべ」

 静一は祖父が一言一言すべて自分のために語っていることを知っていた。いつも静一のすぐ後に父がいたが、いないも同然だ。自分が父なのである。タイムスリップして静一は少年時代の父と一体になったのだった。父の息遣いが遠くの風のように感じられていた。静一は団地のいつもの部屋に坐って外の景色を眺めるように、タイムスリップして別のものになった自分を外側から見ていた。前を歩くのは異界に住む不思議な老人なのだ。老人はイタチのはいった木の箱を持ち、白い網を首に掛けていた。父はずっと後から頼りなさそうについてきた。野菜畑を突っ切り山に向かって歩きだした祖父は、一歩ごとにゴム長靴から空気の洩れる音を立てた。思ったよりも歩く速度が速く、距離ができてしまった静一を、祖父は時々立ち止まって待ってくれた。近づいていく静一に向かって、祖父は笑顔で声を投げてくるのだった。

「山がおっかねえんか。あんまり長いこと山にいすぎたからだんべ」

 静一も笑っていた。声はださなかったが、眼と口のまわりに笑いの小波がひろがっているのが自分でわかった。ほら、良一が笑ってら、と祖父は大声をだしてまた歩きだした。木箱の檻は重いはずなのだが、祖父は両腕で前方にかざして易々と運んでいく。尖った石が上に半ば潜っていて歩きにくい道だった。祖父は石から石へと跳んでいった。黒い影が起伏の激しい地面の上を素早くすべった。

 森にはいった。頭上の枝にとまって啼いている山鳩が見えた。丸い眼も黒い嘴の中で震えるピンクの舌も、静一には克明に見えるのだった。一定以上に距離が詰まると、突然山鳩は羽撃いて梢の先の光の中に溶けていった。鳩自身が光を呼び寄せて道をこしらえたようにさえ見えた。

 ?の幹が両側に分かれると、そこに水があった。水は音を立て、岩を噛んで流れていた。水を見たとたん、静一は冷気に包まれた。川が息をしていた。祖父は川畔にある青い平らな岩に立ち、静一を手招きした。時々水が嘗めるようにかぶるので、岩は濡れて光っていた。両岸から鬱蒼たる樹木が覆いかぶさって川面は暗かったが、それでもところどころ梢の間から白っぽい光がシャワーのように洩れ、とどまることなく形を変えていく水面に落ちかかっていた。

 青い岩の上に箱の檻を置くと、危険を感じたのかイタチは、チイチ、チイチ、と金属をこすりあわせるような心細い声で鳴いた。波が檻の底にはいり、イタチは箱の内側に身体を打ちつけた。鈍い音を立てて木箱は動いた。

「良一よ。生きてるもんは悲しいなあ。死ぬまでびくびくしてなあ。こいつ、きっとおっかねえんだんべなあ」

 祖父は無造作に箱を水に漬けたのだった。浮かんでこようとする箱を無理矢理掌で押さえつけた。岩の前は流れがゆるやかに淀み、底の緑色の砂が見えた。しゃがんで腕を伸ばし箱を押さえつけたまま、祖父は静一と視線をあわせて眼を細めた。

「もうおっかなくはなかんべ。魂がそのへんをふわふわ飛んでるべ。ちっちゃい魂だんベなあ。見えるといいんだが」

 祖父は川面のあたりを指差したのだった。しぶいて光る水に、静一は視線をこらした。次々に流れが岩に当たって水しぶきができ、光って消えた。それが魚や虫の魂というものかもしれない。おびただしい数の魂だ。

 祖父は木箱を水から引き上げた。板の間から水がこぼれて落ち、箱の中に濡れ雑巾のような細長いものが残った。イタチの脱け殻は箱の縁に貼りついていた。祖父は小さくみすぼらしくなったイタチを掴みだし、伏せた箱の上に横たえた。イタチは瞳と口とを開いていた。濡れそぼった毛皮の先に突き出した前足と後足の四つの精緻な指と爪とが、何かを掴む寸前の形に見えた。祖父はイタチを仰むけに大の字にした。イタチの薄茶色の身体から水が四方に流れた。

「よく見とくんだかんなあ。こいつがお前に見せてくれてんだぞお」

 いって祖父はイタチの喉元にナイフを突き立て、そのまま真っすぐ尻尾に向かって引いた。色の淡い血が泡立ちながらあふれでて、岩を赤く染めた。頭を押さえられたイタチの身体は細長く突っ張り、開いた腹の中から見えるか見えないかくらいの湯気を立てた。ナイフの過ぎた後に白やピンクや深緑や赤黒い内臓がふくらみでる。そこにも湯気が立つが、祖父が水をかけてしまうので湯気はしぼみ、間を置いてまた微かに淡い白糸のように立ち上がる。みすぼらしく濡れそぼった身体に、この小動物の生命がまだ残っているかのようだった。

 尾を持ってイタチを水に漬け、祖父は乱暴に洗った。水中にひろがった血液は黒かった。黒い血はたちまち流れ去っていく。祖父は水中で内臓を引き千切って捨てたのだった。流れゆく澄んだ水の中で内臓は別の生きものになった。祖父が指先でイタチの目蓋を降ろしてやった。哀れな小動物の表情はやすらいだ。

「可哀相だね」

 静一の唇が動いて言葉が洩れた。声が頭の骨全体を響かせた。自分自身の声を静一は久しぶりに聞いたのだった。

「生きてるものはみんな可哀相だなあ」

 祖父は静一の言葉をなぞるようにしていいながら、イタチの腹にできた傷口の肉と皮との間にナイフの刃先を差し込んだ。ナイフが巧みに動いて、肉と皮とを剥がしていく。皮と接する肉は脂肪の層があって白い。

「ほら、こうやってなあ、ていねいに皮を剥ぐんだ。イタチが命をくれたんだから、失敗しちゃあなんねえぞ」

「死んでるんだから、痛くはないよね」

 静一は顔を覗き込ませていった。声を発する感触が全身を震わせた。腥い臭気が鼻腔を突き上げた。だが静一は顔をそむけなかった。

「良一もこれから一人で生きていくんだから、なんでも覚えなくちゃなんねえぞ。やってみろ」

 祖父はひょいとナイフを渡してきたのだった。切り出しナイフの柄は血と脂でぬるぬるした。柄を握った手を祖父に包むように握られ、イタチの肉と皮の間に刃先をこそぐようにいれた。ナイフをいれた分だけ皮が剥けた。肉を切って尖った三角形の刃先が走るたび、ガッガッと微かな音がした。軽快に動いていたナイフも、祖父が手を離すや、急に重くて道筋が定まらなくなった。静一はかまわずナイフを動かしつづけた。毛皮の背中を破ってナイフの先が突き抜けた。

「ほら、イタチが痛てえっていってるぞ。どれ、父ちゃんに貸してみろ」

 静一は祖父にナイフを渡した。血と脂で汚れた掌を流れにひたして洗った。掌の皮膚を岩にこすりつけ、川岸の砂で揉んで、また水で洗った。砂は水中で踊ってすぐに沈んだ。水は岩の手前で渦を巻き、白い気泡を含んで暗緑色の岩を包んだ。それから傾斜を一気に進んでいった。水面には細かな皺が寄っていた。幾つもの分かれ道をつくって流れた水は、また渦を巻き、同じことをくりかえした。水に落ちた枝が手招きするような動き方をしていた。祖父は少しずつ注意深くナイフを動かし、頭から皮を剥いだ。残りは尻尾だけだった。

「山には川が流れてるべ。川には水があって、魚がいる。蟹もいる。山にはなんでもあるかんなあ。山にはいれば食いっぱぐれはねえぞお。山に棲んでた良一は知ってるべえが、これから父ちゃんが知ってることを全部教えてやっかんなあ。全部覚えてから、山に帰れ。父ちゃんだってもうすぐ山に帰んなくちゃなんねえ。何に生まれ変わっかわかんねえから、山では会えねえかもしんねえしなあ。最後に良一に会えてよかったぜや」

「ぼく、帰らないよ」

 思わず叫んではみたものの、静一には自分のいっている意味がわからなかった。‐

「帰んねえなんてわけ、いかねえよ。そりゃあ駄目だ。どうあったって約束は守んなくちゃなんなかんべなあ」

 意外に強い声を祖父がだしたので、静一はいいかけた言葉を呑み込んだ。祖父は岩に置いた尾を縦に裂き、イタチを肉と皮とに完全に分離した。梢が騒ぎ、降りかかってきた陽光を受けて脂肪に覆われた肉がキラキラと輝いた。毛皮を残した四肢の先だけが、薄茶色の靴下をはいたようだった。靴下の先には精巧な指と爪とがついていた。

「水に帰れ」

 そういって祖父は肉を川に投げた。肉は水流をなぞって浮きつ沈みつ遠ざかっていった。岩と岩との狭路をくぐり抜けるや、細長い白い肉は独楽のように回転をはじめた。肉は水平にも垂直にも回転し、じきに視野から消えた。静一の喉元に言葉が浮かんだ。

「あれ、どうなるの」

「魚の餌だんべ。なんにも無駄はねえよ。食べたり食べられたりだかんなあ。山では全部がぐるぐると回ってるんだよ。人間だって埋めれば土になって、草の肥しになんだから。今頃イタチは空に浮かんで、流れていく自分の姿を見てるべなあ」

 祖父は血まみれのボロ布のような毛皮を水中で洗った。水の中では毛がふくらんでイタチの形をしていたが、上げると皮は形を崩して祖父の掌にしなだれた。

「イタチは死ぬと空に浮かぶの」

「人間だってそうさ。父ちゃんはなあ、良一が生きてんだか死んでんだかわかんなくなってきたぜや」

「死んだらどうなるの」

「山に帰るんだよ」

「帰ってどうなるの」

「どうなるんだんべなあ。帰ったとたんにみんな昔のことを忘れちゃうんだよ。生きものなんてのは、いつも今しかねえんだなあ。良一だって前のことはわかんなかんべ」

 いわれてみると静一はどこからやってきたのかわからなくなりそうだった。ずっと前から祖父とこの山の中に暮らしているような気がしていた。それとも自分はイタチだったのかもしれない。たった今溺死させられて皮を剥かれたイタチだ。山は静まり返っていた。川の流れが単調な響きを伝えてくるほかには、鳥も啼かず、獣も吼えなかった。静一は白い網を首に掛けた祖父の後に従い、山道を川に沿って歩いていた。自分の足音を自分が追ってくるようだ。岩だらけの山の頂が梢の間に見えたり隠れたりした。白っぽく鋭い光を放つ山頂はナイフの刃のように見えた。水流が川底や岸辺を打つ震動が足の裏に届いた。

 静一に見えるように草を分け、祖父は切り出しナイフで竹を伐った。根元に斜めに力を向けると、刃は楽々と潜っていった。幹のまわりから何度もナイフを沈め、竹を掴んで祖父が全身の力を掛けると、竹はほとんど抵抗もせずに折れた。それからエンピツでも削るようにして次々と枝を払った。竹は立てると先端が心持ちたわみ、振るとぶるぶると震えた。静一が竹を持って立っている間に、祖父は?の幹に絡みついたままの藤蔓の皮を削りとって三十センチほどの紐をこしらえた。

「板に貼って乾かしておけば何度でも使えるぞ。一回きりしか使わねえと、イタチに申し分けなかんべ」

 ひとり言のように聞こえても、祖父は全部静一の耳に届くように話しているのだった。いわれるままに静一は竹を倒して持った。祖父は竹の先端に藤蔓を十センチほども伸ばしてイタチの皮をぶらさげた。再び竹竿を立てると、イタチは空で暴れたのだった。

「生きものはみんな巣をつくる。きのこだってしろがあるべ。この次はきのこのしろを教えてやっかんなあ。いいか、今日はヤマベのしろだ。誰にも教えねえかんなあ。良一だけだ。ヤマベのしろには一度しかこらんねえかもしんねえから、よく覚えとくんだかんなあ」

 祖父の言葉が終るのを待ちかまえて、静一は大きくひとつ頷いた。静一の瞳から視線をはずさないまま祖父も大きく頷いたのだった。静一は生まれてからずっとこの老人と暮らしているような気になっていた。この森から一歩も外にでず、この先も命が尽きるまででない。それでもよいと静一は思ってみた。祖父は手近の枝を二本切り取った。

「よし、お前は利発な子だぜや。父ちゃんがいなくなったって一人で生きていけるなあ。あと何日一緒にいられるかわかんねえんだかんなあ」

 二度三度と祖父は鼻水を啜り上げながらいったのだった。祖父はマフラーのようにした網の両端を木の枝に縛りつけていた。祖父の口は動きつづけた。

「生きてるものの定めだ。すべて息のあるものはやがては一人になるんだなあ。その時になってあわてねえように準備しとかなくちゃなんねえなあ」

 藪を掻き分けて進みながら、祖父は枝が跳ねないように注意してくれた。足場が悪くて静一は枝につかまって上体を支えねばならなかったが、祖父は枝と枝の隙間をうまく縫っていき、距離ができそうになると枝を押さえて待ってくれた。祖父は竿の先のイタチが枝に絡まないようにと頭上にも注意を払った。顔に蜘蛛の巣がかかった。瞳の光に魅かれるのか、小虫が払っても払っても眼の中にはいってこようとした。眼に飛び込まれて立往生した静一は、眼をこするなと祖父に大声をだされて手を引かれた。眼を閉じたまま立ち止った足元の土は柔らかだった。涼気が肌に触れ、水辺にいることがわかった。

「この虫はよっぽど良一が好きなんだんべなあ」

 祖父の声がすぐ間近でした。目蓋が持ち上げられ、朦朧として像を結ばない白い光が飛び込んできた。眼の表面が拭かれ、静一はびくんと上体を強張らせた。

「ほら、もう大丈夫だぞお。虫だってうんとびっくりしたんべなあ」

 正面で少しずつ輪郭を整えてきたのは祖父の顔だった。祖父は腰に下げていた手拭いを左の人差し指に巻いていた。指先の手拭いに草の種のような黒い虫がこびりついていた。虫は潰れていたが、それでも微かに脚を動かしているのだ。祖父の顔の次に見えたのは、深い色の水をたたえた淵だった。両側から岩がせり出して、川幅はやや狭くなっていた。水流は今まで見た中で一番落ち着いているふうに見えた。

 大きな岩が跳び石状にあるので、向こう岸に渡ることができた。静一はイタチの皮を縛りつけた竹竿を持って岩の上に立ち、岩と岩の間に網を固定する祖父の身のこなしの軽さを見ていた。ナイロンの網は幅も長さもたっぷりとあり、岸から岸まで届いた。網はすっかり水に隠れて見えない。祖父は岩に上がってくるなり、静一の手から竹竿をとった。

「よく見とけやあ。この技はもう誰もできねえぞお。良一だけに教えてやるかんなあ」

 祖父は竹竿を両手で持って前に倒し、岩の上で背筋を伸ばした。岩は水面から上にせり出し、深くなるにつれ窪んで淵は広くなっていた。筋をつくって流れてきた水は急に穏やかになり、澄み切った水面と空気との境界が曖昧だった。祖父は水面におごそかに竹竿を運んだ。イタチは空中と水面とに二匹いた。水面が揺れて輪がひろがり、二匹が一匹になるや、イタチは軽い身のこなしで泳ぎだした。少しずつ深く潜りながら岸辺の岩に向かっていき、それから岩を嘗めるように悠然と行ったり来たりした。頭が竹竿に引っぱられ、胴と尻尾とが細長い黒い影となって潜水をした。水の深みから黒い小さな幾つもの影が一瞬流れを遡るのが見えた。

 イタチが水から跳び上がった。静一にはイタチが命を甦らせたとしか思えなかった。イタチが空に向かってぐんぐん上昇していくのを見たとたん、静一は岩の上で四つんばいになっていた。昇天していったイタチはすぐ頭上までくると揺れて止まり、さかんに水滴をしたたらせた。祖父に渡された竹竿を静一は岩に膝で立って掴み、イタチはいっそう傾いて揺れた。

 祖父の動きも軽快だった。岩から岩へと跳び移る時、水面に獣のような影が走った。祖父は岩に腹這いになって水に腕をいれ、網を引っばり上げたのだった。そのまま祖父は網を両腕で抱えて岸に跳んだのだ。魚が二匹、暴れた拍子に網から水に落ちるのが見えた。銀のしずくのようだった。

「ヤマベもびっくりしたんべなあ。二度びっくりした」

 肩で息をつきながら、祖父は笑っていた。足元の草地には、網に絡まれて魚が懸命に尾と頭とを振っていた。暴れるたびに銀色の魚は身動きがつかなくなってくる。折り重なっている魚を静一は何度も眼で数えた。十五匹までのところでいつもわからなくなった。魚は瞳を見開いて空と地面とを見ていた。陽光が銀の色を振りまく。熱い草の上で魚たちのジャンプはみるみる弱くなってくる。

「あの淵にはヤマベがいくらでもいるかんなあ。とったらとった分だけ湧いてくんだ。今度は良一の番だぞお。イタチを泳がせて、ヤマベをまたびっくりさせてやれや」

 網から魚をはずしながら、祖父が歌うようにいった。岸辺から遠くにほうられた魚は、二度三度跳ねてから、今度は草に絡みつかれた。黒い斑点が散らばった身体は、よく見ればほんのりと赤味を含んでいた。これも誰かの生まれ変わりなのだろうか。魚が散乱する草の上に人が立っていた。父だった。静一と視線を合わせると、父はしきりに口を動かして何かをいおうとしていた。声は聞こえなかった。父は遥か彼方にいってしまったかのようだった。静一は祖父に促されて再び川に向かった。背後にはもう父の気配はなかった。祖父は同じところに網を仕掛けていた。静一は岩の上に立ち、先程と反対側の岸辺に向かってイタチの竹竿を構えようとした。斜めにすると竿は重くて、腕が震えだした。

「あわてちゃ駄目だかんなあ。はじめたら、一気に動かすんだ。イタチの気持ちになって」

 背中からかぶさるようにして祖父が手を貸してくれた。祖父の息遣いが背中に届いた。祖父は静一の呼吸をはかって、耳元でそらっと小声をだし、イタチを水面に叩きつけた。イタチはヤマベのいる水中に潜っていく。水の感触と圧力とをイタチは全身で味わっている。あわてふためく魚たちが、イタチの眼には見える。イタチは深く潜水をしてヤマベを追い出しにかかっていた。

 

 

立松和平文庫

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/11/09

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立松 和平

タテマツ ワヘイ
たてまつ わへい 小説家。1947年 栃木県宇都宮市生まれ。毎日出版文化賞。環境問題の様々な実践活動に熱心で、体験を積極的に作品化している。2010年没。

掲載作「山へ帰る」もそうした作品のひとつ。著者の自選である。「すばる」1987年11月号初出、「瑠璃の波」(1991年、集英社)所収。

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