最初へ

冬のかたみに

  第一章 幼年時代

 

 父が無量寺から十日ぶりに下山してきた早春のある日の夕食のときだった。父と母は、春から私を黙渓書院に通わせるか、それとも無量寺の老師のもとに通わせるかで話しあっていた。私は父と同じ膳にむかい、母はつぎの間で弟と膳にむかっていた。父が下山してきたので食膳には牛の骨つき肋肉(カルビ)が出ており、下女(げじょ)が炭火で焼きあげた肋肉を順次に台所から部屋に運んでいた。父の下山日は一定していなかった。五日目におりてくるときもあれば、ときには半月もおりてこないこともあった。寺では精進食だったので、父は家に帰ってくると驚くほど肉と魚と大蒜(にんにく)と唐辛子を食膳にのせた。父が寺からおりてくる日がわかると、母は下男(げなん)に命じて町まで骨つきの肋肉を買いにやらせた。下男はたいがい肋肉を三本か四本もとめてきて、俎板(まないた)にのせ、食べよい大きさに(なた)できりおとした。そしてこれも食べよいように肉に庖丁で線をいれた。母は二人の下女をつかって、醤油に蜂蜜をとき、大蒜をすりおろして混ぜ、胡麻をいれ、そこに肋肉を漬けた。父が寺からおりてくる日はたいがい前日にわかった。六十すぎの寺男が、

「明日は薬師殿さまがおりてこられます」

 と知らせにくるのであった。母は寺男の労を謝し、たいがいなにほどかの金品をあたえた。父は無量寺の伽藍(がらん)のなかの薬師殿に常住していたので、そのように呼ばれていた。母も村人から薬師殿さま、あるいは無量寺さま、と呼ばれていた。無量寺の寺僧で麓に(きょ)を構えているのは私の家だけで、あとの僧はみな遠くに家があった。

「あなたが僧侶になったからといって子供までを僧侶にすることはないでしょう。黙渓書院に通わせた方がよいのではありませんか」

 と母は言っていた。

「書院では四書五経だけを教える。僧堂なら四書五経のほかに仏法を教われるし、経典を身につけておいてわるいことはない。それに、僧堂に通ったからといって必ずしも僧侶になることはない」

 と父は答えていた。

重行(しげゆき)が小学校にあがる頃にはどうしても大邱に戻らねばなりませんのに、僧堂の生活を身につけさせてどうなさるおつもりですか。わたしもいつまでもこんな淋しい村で暮すのはいやですよ」

「淋しいのなら生家に戻れ」

 父はいくらか口調をあらげた。

 それっきり母はだまりこみ、やがて食事が終って父は書斎にひきあげた。台所ではやっと下男と下女が食事をはじめていた。

 私は数えで六歳になっていた。村の人達は親切だったし、両親が彼等から尊敬されていることを知っていたが、私は自分がおかれている立場をおぼろげながら感じとっていた。やがて私は物心つくようになって村の子供達と遊ぶようになったが、倭人(ウエヌム)とか合の子とかいった言葉を私に教えてくれたのは村の子供達だった。その言葉の意味を両親にたずねるのがなんとなく憚られ、子供なりに勘で意味を解釈していた。私の家には畳の部屋があり、ここは父が書斎に使っていたが、この畳の部屋が、村の人達の家にはなかった。村の人達の家では便所はすべて家と切りはなされ庭の隅にあった。こうした家の構造のちがいとか家で使われている二つの国の言葉などから、私は自分がおかれている世界を感じとっていた。

 父は無量寺からおりてくると数日家にいた。書斎にこもっていることが多かったが、春と秋には、下男をつれて昔の窯場(かまば)の跡をさがし歩いていた。窯場跡から掘りだした高麗青磁(こうらいせいじ)李朝白磁(りちょうはくじ)が父の書斎にはかなりあり、台所で日常の雑器にも使われていた。父は、青磁の水注子(みずさし)に酒をいれ、白磁の染付(そめつけ)の壷に花を一輪投げこんでいた。花は桔梗(ききょう)龍胆(りんどう)葉鶏頭(はげいとう)などだった。そして青磁の鉢に木綿豆腐を盛り、刷毛目(はけめ)の茶碗で酒を()んでいた。陶磁器が日常生活の伴侶になっていた。ときたま町から父の友人が訪ねてきて泊ることがあり、そんなとき父は友人と夜おそくまで酒を酌みかわした。友人達はみんな倭人だった。下男の文鐘台が、あの人達は父上の学校時代の仲間ですよ、と話してくれたことがあった。父は友人が帰るときに、土産だ、といって掘った青磁や白磁を持たせた。

 後年、私は、無作為なこれらの青磁や白磁が、私の(うち)に明確な記憶残像としてあとをとどめているのに気づき、類のない幸福な幼年時代を過したことを知った。しかし私の幼年時代は一方で限りない無常感に充ちていた。

 

 文鐘台が川芹と例年より早い山菜を摘んできた春のある日の朝、私は父につれられて無量寺にのぼった。いつものように家族が門まで見送りに出てきたとき、

「鐘台もそろそろ嫁をもらわないといかんな」

 と父が言った。彼は二十二歳になっていた。彼はあかくなって顔を伏せ、権淑河と李麗安の二人の下女が面白そうに彼を見ていた。淑河は十七歳、麗安は十六歳だった。

 村から寺領の入口までは近かった。村を出はずれたところに渓流があり、弓なりに()った半月橋(はんげつきょう)という石橋(しゃっきょう)を渡ると、渓流を左に見て伽藍への道が続いている。並木は赤松の古木と槭樹(かえで)が殆どで、私は(きのこ)とりに鐘台について何度かこの道を歩いていた。渓流の川床は石が透けてみえ、流れに朝の陽がきらめいていた。渓流の水は村にはいって田圃(たんぼ)に引きいれられていた。そしていくつかの小さな流れになり、そこには(ふな)泥鰌(どじょう)(うなぎ)がいた。

 私は、渓流に魚はいないかとあっちを見こっちを見しながら父の後を歩いた。川向うの山にも、右側の山にも、いくつかの(こみち)があり、径がつきるあたりに庵の瓦屋根がみえた。鐘台の話では、それらの庵には四溟庵とか毘盧庵とか菩陀庵とかいった名がついており、えらい禅師にはなれなかったがしかし仏法を修めつくした年老いた僧が棲んでいるとのことだった。庵は全部で十五はあるだろうという話だった。

 父は無量寺につくまでただ黙々と歩いていた。

 やがて山門についた。山門の前を小さな渓流が横切っており、石橋を渡ると、入口の右側に大きな石碑が建っている。東国第一禅院無量寺と刻みこまれている。後年私が調べたところでは、無量寺は新羅(しらぎ)第二十七代善徳女王十五年、西紀六四六年に、慈蔵律師が創建し、短い期間、法眼宗、潙仰宗(いこうしゅう)、雲門宗、黄檗宗(おうばくしゅう)を提唱した時代もあったが、李朝時代にはいってからは臨済(りんざい)本来の家風を守り今日にいたっていた。

 私は薬師殿の前でしばらく待たされた。やがて袈裟をとって平服の僧衣を着た父が出てきた。僧堂は本院の東にあり、そう深くない渓谷にかかっている石橋を渡った山に建っていた。

 私は、前日父から教えられた通りに老師の部屋に入って三拝し、本日よりお教えを乞います、とお願いした。

「ああ、大きくなったな。今日からおまえはわたしの子じゃ。わたしの子は仏さまの子じゃ。おまえには梵海(ぼんかい)禅文という名をあげよう。だから今日からは単に梵海とか禅文とかよばれる。家ですこしは字を教えたか?」

 老師は父にきいた。

「いえ、漢字はまったく教えておりません。ハングルと日本の仮名は読み書きができますが」

 それから父は老師と寺のことについてしばらく話していたが、やがて本院におりて行った。

 この日から私は習字手本として四言古詩の〈千字文(せんじもん)〉を、読む本として四書五経をあたえられた。

「あの子もおまえと同じ年頃にこの僧堂にきた」

 とある日老師は〈論語〉の講義途中で言った。老師は父をあの子と呼んでいた。あの子はずいぶん苦労をしたが、おまえはあんな苦労はしない方がよい、と老師は言った。倭人とか(あい)の子とかいった事と関係があるのだろう、と私はぼんやり考えた。

 僧堂の一日は朝三時の起床からはじまった。庫裡(くり)の外に裏の渓流から引きいれた水が溢れている大きな四角の石槽があり、水をくんで顔を洗うと本堂である大雄殿(だいゆうでん)で礼仏坐禅、五時朝食、六時から九時まで本堂で老師の講義、九時から十一時まで雲水(うんすい)達は自習、この間私は九時から正午まで老師の講義をきき、正午昼食、午後は五時まで作務(さむ)で、畑を耕す日もあれば豆腐をこしらえる日もあった。無量寺の伽藍(がらん)で使う豆腐、味噌、醤油はすべて僧堂でつくられていた。私は午後は自由時間が多かった。雲水達は週に二回、午後は本院に講義をききにおりて行った。本院には仏教叢林という専門学校があり、宗務長をつとめている父はそこで若い僧侶達に教えていた。この叢林には各地から若い僧侶が学びにきていた。

 

 最初の三日間の僧堂生活を終え、四日目の昼、食事をすませると、私は老師にいとまを告げ、〈論語〉をわきにはさんで山からおりてきた。老師は、解らない言葉でも、百回読めば意味は(おの)ずとわかってくるものだ、と言った。

 樹木がやっと芽をふいてきたばかりの山をおりてきたら、村の田園風景は三日前よりさらに春らしくなっていた。水がぬるんできたのか、畔のかたわらの流れでは村の子供達が魚を()っていた。

「もう獲れるのかい」

 と私が子供達のそばに行ってみたら、みんなバケツや(かめ)に鮒や泥鰌(どじょう)をいっぱいにしていた。

「いけねえ、これじゃみんなに獲られてしまうな」

 私は家に走って帰ると縁側に本を投げ、鐘台が大事にしている柳製の()とバケツを持って流れに行った。

 流れは幅が一メートル五十ほどで水深は三十センチあり、水底は小石で、いつも魚の姿がよく見えた。私は、村の子供達がかたまっている場所からすこし下流の方に行き、靴と靴下をとって水に入った。水はまだつめたく、芹や草だけが青かった。私が水に入ると魚は草叢に姿を隠した。私は静かに箕を草叢に入れ、足で草を踏んだ。そうして箕をあげたら、泥鰌が五匹、鮒が二匹入っていた。子供達はみんなこの方法で魚を獲っていた。無量寺の山から流れてくるいくつかの渓流は、村に入ってから一本の川になり、かなりの水深があった。そこでは大きな鯉や鰻が、夏になると鮎が獲れたが、子供達が入るのは禁じられていた。それでも大きな魚をつかまえようと出かけて深みにはまりこみ、年に何人かの子供が死んでいった。どこの家でも子供達が獲ってきた泥鰌と鮒を食卓にのせた。泥鰌はたいがい里芋の赤芽の茎を乾したのを水にもどし、豆腐といっしょに泥鰌をいれて骨がとけてしまうまで煮込むのであった。鮒は刺身にし、唐辛子味噌を酢でとき、そこにつけて食べた。鐘台は鮒を三枚におろすのが上手だった。

 草叢に箕をいれ足で踏んでつかまえるのを一時間もやっていると、たいがいバケツ半杯は魚が獲れた。いくら獲っても流れの魚は減らなかった。私より大きいもう学校に通っている子供達は、こうした魚獲法に習熟していた。しかしなんといってもいちばんうまいのは鐘台で、彼は魚があつまっている場所を勘でさぐりあて、彼がいちど箕をいれるとたいがい十匹から二十匹は獲れた。後年私はいろいろと釣りをやったが、あれだけ原始的で、自然にとけこんだあの幼年時代の魚獲法にまさる方法はほかになかった。そこには夾雑物(きょうざつぶつ)が入りこむ余地のない子供と田園の世界が展がっていた。

「おい、無量寺、獲れたか」

 私が四回目の箕をいれていたとき、村の子供達が場所をかえてこっちにやってきた。彼等は私のバケツをのぞきこみ、みんな小さいな、と言った。そして彼等はめいめいの容器から私のバケツに適当に魚をわけてくれた。

「こんどまたあれをくれよな」

 と年長の仁勲が私に言った。私の家のとなりの李家の息子で、あれとはチョコレートのことだった。

 帰宅したら、川へ行ってはいけないと言ったのに、と母が小言をいった。

「小川、だよ」

 と私は弁解した。

 僧堂の生活はつらくなかったか、と母はきいた。たのしかった、と私は答えた。いまはよいが冬はつらくなることだろう、黙渓書院に通わせればよいのに、と母はそこにいない父に不平をのべた。村の子達はみな黙渓書院に通っていた。書院の先生はもうだいぶ齢をとった老人で、チョゴリ(上衣)バジ(ズボン)に冠をかぶり、()のながい煙管(きせる)をもってよく村を歩いていた。

 

 数日がすぎて僧堂にのぼったら、本院から小僧と叢林で学んでいる青年僧が数人、豆腐と卯の花を受けとりにきており、庫裡(くり)当番の雲水が、石槽から豆腐をとりだしていた。青年僧の一人が、宗務長のお子さんですか、ときいていた。

「そうです」

 と雲水は石槽から豆腐をあげて木槽に移しながら答えると、早く老師のもとに行きなさい、昼から山菜摘みに連れて行ってあげるから、と私に言った。私は小僧達とくちをききたかったが、またつぎのおりにしようと思った。

 大雄殿(だいゆうでん)では雲水達が老師の講義をきいていた。私は老師の部屋に入って机にむかった。硯に墨を()り、手本の木版刷の〈千字文〉をあけ、朝鮮紙に天地玄黄と書いた。三回ほど書いたら()きてきたので、廊下に出た。廊下は廻廊になっており、中庭をはさんで老師の居間のむかいに遷化堂(せんげどう)、右に大雄殿、左は楼になっていた。遷化堂には無量寺代々の禅師の肖像画がかかっていた。私は楼に行った。楼の下は広場で、石段を登ると中庭だった。楼から表の境内を見おろしていたら、庫裡から豆腐の入った木槽を担った本院の僧達が出てきた。

「円俊先生の子だ」

 と小僧がこっちを見あげて言った。父は_居円俊と呼ばれていた。

「だまって歩け」

 と青年僧の一人が小僧を叱った。するとその小僧はおとなしく両手を前に合わせ、足もとをみて歩いた。木槽にはふとい綱が四本からめてあり、うしろを担っている僧がその綱を手で動かないように押えていたが、歩くたびに木槽が揺れ、水がこぼれ落ちた。木槽の水が陽に光り、なかの豆腐が白かった。やがて一行は林のなかに消えて行った。境内の前方は雑木林で、その向うには寺領の田園がひらけていた。それは()きない眺めだった。

 やがて庫裡の方で九時を告げる木槌の音がした。時を知らせるこの大きな分厚い板は庫裡の出入口にさがっており、板の中心は叩かれてへこんでいた。私は老師の部屋に戻り、紙にまた天地玄黄と書いた。

 本堂から戻った老師は、楼からなにが見えたか、ときいた。豆腐が見えた、と私は答えた。

「それは面白いものが見えたな。今日は〈論語〉はやめ、面白い話をしてやろう」

 老師はそれから寒山・拾得(じっとく)の話をした。

 話をききながら私は笑いころげた。国清寺で二人が罵声を発しながら廊下を悠々と歩き他の寺僧を困らせたり、寺僧達が食べのこした食物を拾って竹筒に蓄えて食糧にしたりした話が、謹厳な顔をしている無量寺の雲水達と比べて面白かった。

「人間は苦しみが多すぎると寒山・拾得にはなれない。おまえは寒山・拾得にならなければいけないよ」

 この日、私は、なにか豊かな気持になって僧堂からおりた。そして家に帰ってから鐘台と淑河と麗安に寒山・拾得の話をしてきかせたが、三人は、その二人は乞食坊主だ、と言った。三人がすこしも笑わないので、私はすこしばかり腹をたて、お前達には寒山・拾得が解らないのだ、と言った。

 四月から五月にかけて、雲水達は交替でせっせと山菜摘みにはげんでいた。食膳には三度三度山菜がのった。紫萁(ぜんまい)だけは乾して丸く束ね、藁でくくり、庫裡の軒につるした。貯蔵食糧であった。いっしょに出かけた私に、雲水達は樹木の名をよく教えてくれた。これは藪山査子(やぶさんざし)、これは酸塊(すぐり)、これは山苺(やまいちご)、これは(とち)の木、と教えてくれた。秋になると実がなるが、この木の実は食べられる、などとも教えてくれた。

 僧堂の朝食は一汁一菜だった。木綿豆腐の味噌汁に山菜の胡麻()えだった。昼間はそこに大豆蘖(もやし)の胡麻油炒めがつき、夜は豆腐の煮つけに、稚海藻汁(わかめじる)がついた。季節に応じて食卓も変化していったが、一汁一菜にかわりはなかった。庫裡にはいろいろな道具があった。石臼は殆どまいにち使われていた。豆腐をつくる大豆を()き、饂飩(うどん)をうつ小麦を碾いていた。胡麻油は五日も六日もかかって絞られていた。分厚い板を四角に組みあわせ、麻布に包んだ胡麻を中に入れて重石(おもし)をしておくと、二日目頃に木枠の横の穴から油がたれはじめる。それは一滴二滴といった落ちかただった。(しぼ)ったあとの(かす)は石のようにかたく、私はよくその糟をもらってかじった。

 ここには、閉鎖された世界ではあったが、生活共同体があった。外から買いいれるものは、砂糖、塩、海草に衣服地ぐらいのものだった。雲水は三十人ちかくいたが、田畑のいそがしいときは叢林の僧侶が手伝いにきていた。

 雨の日の午後はたいがい菓子をつくっていた。本院の方も賄わねばならないから、すべてがたいへんな量だった。庫裡の裏の蔵には大きな味噌甕が二十ちかく並んでいた。

 菓子をつくるのはたのしかった。餅を厚さ二センチの薄さにのばして十センチ平方に切って乾しあげると、胡麻油で揚げた。それを水飴のなかにくぐらせると、そこに()って(はじ)けた真白い玉蜀黍(とうもろこし)をまぶして乾燥させた。玉蜀黍のかわりに炒った黒胡麻をまぶしたのもあった。糯米(もちごめ)()いて蒸籠(せいろう)でむしあげ、そこに松の実あるいは胡桃(くるみ)を割って入れ、型にはめて乾しあげたのなどもあった。黄粉(きなこ)で固めた菓子もあった。

 勉強が終ると、老師は、今日もよく出来た、といって棚からこれらの菓子をとりだし高坏(たかつき)にのせてくれた。

「ことしも(なつめ)がよくなった」

 と老師はよく中庭の棗の大木を眺めながら言った。赤く乾しあげた棗を入れて蒸しあげた餅とか、碾いた糯米と小豆(あずき)を段々に重ねて蒸しあげた餅を、僧堂では月に二回はこしらえていた。

 私はよく青い棗の実をとって食べた。村にもいたるところに棗の木があり、村の子供達もよくとって食べた。青い実はほのかに甘く、なにかさびしい味がした。それは、李朝(りちょう)の白磁からにじみでてくる味にどこか似ており、ある日父にそれを話したら、おまえには焼物が見えるらしいな、と言われた。私が父のこの言葉を理解したのは、やっと二十歳をすぎてからだった。李朝の白磁には、むかしの陶工達の生活感情がにじみでていたが、しかし絶えず北方民族から攻められ圧力を受ける生滅(しょうめつ)常ない現実を踏まえながら、そこにはある静観が横たわっていた。彼等は現実を裁きもせず叫びもあげていなかった。それでいながら力強さがあった。そこには当然、足蹴轆轤(あしけりろくろ)をまわしながらの経験があり、経験は制限と断念をうむはずなのに、そんなものはひとかけらも見あたらず、見えるのは無限だけだった。どのようにして昔の陶工達は自分の作品に無限を持ちこんだのか。私は李朝の白磁にであうたびに、いつも棗の実がほの甘かった幼年時代に還って行った。

 六月は木苺(きいちご)のさかりで、私は僧堂にいるときは午後は周辺の山に木苺を食べに行った。赤や橙色(だいだいいろ)の実は熟れきっており、ふれただけで掌に落ちてきた。

 

 村はもう夏に入っていた。田植はとうに終っていたし、私達は殆どまいにち桑畑に桑の実を食べにでかけた。桑の木に登るには規則があった。まだ葉を摘んでいない木には、蚕に食べさせる葉をいためてはいけない、といって登れなかった。半分ほど葉が摘まれたあとの木ならかまわなかった。私達は木に登ると枝にまたがり、まるで蚕が葉を端から食べて行くように実をとって食べた。こっちの枝を食べつくすと向うの枝に移った。半熟の実は赤く、熟した実は紫黒色で、私達はくちびるだけでなくシャツやズボンまで桑の実の汁で染めながら(むさぼ)りたべた。赤い実はいくらか酸味があり、熟した実は甘かった。

 そしてあくる日はまた別の桑畑にでかけた。桑の実は村の子供達の共有物だった。

 村の西にあまり高くない峠があった。峠をこえると、麻畑と綿畑がどこまでも続いている平野で、平野のまんなかを一本の川が流れていた。私達はよく峠をこえて平野の中の果樹園に桃や真桑瓜(まくわうり)を買いに行った。米や麦などの穀類を持って行くと、果樹園の番人が高い番小屋から梯子をつたって降りてきて、(ます)で穀類を計り、それに応じた果物をわけてくれた。精麦前の麦二枡で桃が二十個、瓜が十五個ほど交換できた。村の他の家のように私の家では田や畑をやっていなかったので、私はたいがい白米を一枡持って行った。

 桃は小粒で固く歯ごたえがあり、瓜は黄色いのと緑色に白い縞が入っている二種類があり、香がたかく甘かった。私達はたいがい番小屋の下の涼しいところで瓜を一個食べてから果物の入った袋をかつぎ村に帰るのであった。私達は帰り道によく青い綿の実をとってあまい汁を吸った。青い棗の実と同じくさびしい味がした。

 このとしの夏、二度目に果樹園に行ったとき、私は番人から、あなたは無量寺の御子息か、と丁寧な言葉できかれた。私がそうだと答えると、あなたは米を持ってくる必要はない、と言われた。平野の麻畑、綿畑、果樹園の殆どが父方の祖父の領地であると私が知ったのは、後年になってからだった。

 村では早くあがった繭から生糸(きいと)をとりはじめていた。庭に大きな鉄釜を据えつけ、煮たった湯に繭を入れ、解けてきた糸を棒でまきあげるのであった。ある日、となりの仁勲の家に遊びに行ったら、生糸とりがはじまっていた。

「おい、これを食べないか」

 と仁勲は糸をとったあとの(さなぎ)をひとつかみくれた。

「そんなものを食べさせたらその子のお母さんから怒られるよ」

 と仁勲の母は言ったが、私は蛹をひとつだけとり、こわごわ食べてみた。脂肪がたっぷりした味だった。

 生糸は定期的に買いあつめにくる商人がいた。売れ残った屑繭は、村の女達が夜なべに手で紡ぎ、(はた)で織りあげた。私の家ではこの織物を買いあげて染めにだし、蒲団(ふとん)や座蒲団をつくった。

 麻を紡いでいる家もあった。出来あがった麻はいくらか黄色がかった褐色の布で、父は夏のあいだ涼しいといって甚平にこしらえて着ていた。

 

 老師は講義の途中でいろいろな話をはさんだ。

「おまえは祖父に会ったことがあるか」

 とある日老師がきいた。

「祖父なら大邱におります」

「いや、それは母方の祖父だ。まあ、あの人は日本人の商人としたらまっとうな方だろう。私がきいているのは父方の祖父のことだ」

「会ったことがありません」

「母方の祖父と父方の祖父は友人だ。そして父方の祖父と私は友人だ。わかるか」

「はい、わかります」

「これは、大きくなったら、自分で理解することだ。そうだ、歴史は、理解するしかない。おまえの父は、無量寺からいちどはぐれて行き、日本の軍人になった。そしてまたこの無量寺に戻ってきた。おまえは、はぐれないように生きていかねばならない。父から両班(ヤンパン)の話をきいたことがあるか」

「ありません」

 私は、鐘台から、あなたは両班の血が流れているのですから、村の子達とはちがうのですよ、と言われたことがあったが、私はその意味を理解していなかった。

 老師の話はつぎのような内容だった。

 高麗、李朝時代の上級官僚はすべて両班で占められ、文官は東班、武官は西班と称され、この貴族達は兵役、賦役を免ぜられ、広大な領地を占拠できる階級であった、しかしわが朝鮮を滅ぼしたのはこの両班であり、特にこの地方の両班がよくなかった、下層階級にたいして非道きわまりないことをした両班が多かったが、朝鮮が日本に合併されてからその両班は崩潰(ほうかい)した、残されたのは両班(ヤンパン)という名称だけになった、そんな時代の流れのなかで、おまえの祖父は自分の広大な領地を日本人に渡さずに済んだが、それは彼が日本人と組んだからである。その結果がおまえの父であり、おまえだ、おまえの祖父のなしたことはやがて後世の人が評価するだろう、おまえの祖父はわが朝鮮人のあいだでは悪者になっているが、私はそうは思わない、日本人と組みながら貴族の矜恃(きょうじ)を保ち得たのは記憶しておいてよいことだ、おまえの祖父はこの無量寺の領地も守ってくれた、かつて日本の浄土宗と真宗がこの寺に乗りこみ、この寺を浄土宗と真宗の末寺(まつじ)にしようとしたことがあった、また日本の曹洞宗(そうとうしゅう)の武田範之という僧侶が、朝鮮の臨済宗を日本の曹洞宗の末寺にしようとしたこともあったが、彼等を追放してくれたのがおまえの祖父だった、振りかえってみると、祖父のなしたことは功罪(あい)なかばするが、自分の領地を守った貴族の血はほこってよいことだ。

 そして老師は、

「おまえの家は代々東班であったが、高宗(こうそう)大王(西紀一八六三~一九〇六年)の時代から一族のなかから西班に列せられる者も出てきた。つまり両班(ヤンパン)を占めていたわけだ。おまえは自分の血をほこるべきだ」

 と言った。

 私は、どこか遠い国の物語をきいたような気がした。このとき私がこの老師の話をすべて理解したわけではない。後年、九州大学医学部の研究室にいる母方の叔父を訪ねたとき、叔父がこの話に補足をしてくれたのである。

 ある日私は昼食をすませてから本院に遊びに行ったが、小僧達は極楽殿の床を雑巾がけしていた。私が声をかけても彼等は返事をしなかった。見たら堂内に青年僧がたっており、小僧達を叱りつけていた。私は雑巾がけが終るのを待つことにし、大雄殿の広場の方に歩いて行った。そして観音塔の石塔の前で、薬師殿の方からきた父にであった。父は左手に書籍を持ち、足もとをみて歩いていた。父上と私はよびかけた。すると父はこっちをみてたちどまった。

「ああ、おまえか。庫裡で菓子でももらったら老師のもとに帰りなさい」

 父はなにかひどくだるそうに言うと、仏教叢林の方に歩き去った。このときの父の後姿はながいこと私の心にやきついていた。

 私は薬師殿に行ってみた。大雄殿には釈迦如来と文殊(もんじゅ)普賢(ふげん)の金銅仏があり、となりの八相殿には釈迦八相の曼荼羅(まんだら)が掛けてあった。そのほか四聖殿には釈迦、弥勒、阿難陀、観世音が祭ってあり、境内をまわってみると、冥府殿、念仏堂、山神閣、七星堂などの建物があった。薬師殿には薬師如来の金銅仏が奉安してあり、堂の東側に_居堂という小さな庵が建っていた。_居円俊、つまり父はこの_居堂に寝起きしていた。ここは温突(オンドル)の部屋で、私が門をはいって縁側からなかをのぞいたら、いつも村におりてくる寺男が部屋を掃除していた。

「おや、父上はたったいま叢林にお出かけになりました」

 寺男は箒をやすめると部屋から縁側にでてきた。

「いま、そこで会ったよ」

 と私は答えると、部屋の調度品をみた。

 机の上には硯箱と数冊の本がのっており、壁によせた本棚には本がぎっしりつまっていた。

「父上はここでやすむの?」

「いえ、寝所は奥の部屋でございます。ごらんになりますか」

「いいんだ」

 私は寺男にさよならと言い、_居堂を出てくると、七星堂の前を通って別院の講堂に行った。父はそこで講義をしていた。

 窓からのぞいたら、講義をきいている僧侶は四十人ほどおり、なかに僧堂の雲水(うんすい)の顔も見えた。私が昭和十九年に無量寺を訪ねたとき、雲水頭だった虚白堂清眼は宗務長になっており、彼はこの日のことをよく憶えていてつぎのように話してくれた。父は当時ここで朝鮮仏教史と〈碧巌録〉を講じていたとのことだった。黒板には白墨で碧松智厳と大きく書いてあり、その左側に、

 

 正徳戊辰(中宗二年)秋入金剛山妙吉祥。看大慧語録。看無字話。打破漆桶。

 (補・正徳戊辰<つちのえたつ>中宗が二年の秋、金剛山妙吉祥に入り、大慧<だいえ>語録を看、無字話を看、漆桶<しっとう>を打破す。)

 

 と書いてあった。

「〈仏祖源流〉にこのように残っているから、智厳(ちげん)の公案が趙州無字(ぢょうしゅうむじ)なることは明白である」

 と父は述べると、黒板につぎのように書いた。

 

 一衣又一鉢。出入趙州門。踏尽千山雪。帰来臥白雲。

 (補・一衣又一鉢、趙州の門に出入し、千山の雪を踏尽し、帰来して白雲に臥す。)

 

「このように師の禅が臨済正系を守ったのもまた明白である。金剛山の妙吉祥は楡()寺の近くだ」

 さっき石塔の前で会ったときのだるそうな声ではなく、ふとい響きのある声だった。私は別の世界の父をみた気がした。私が、僧堂の雲水は何人きているのかと指を折って数えていたとき、虚白堂清眼がこっちを見て頭を横に振った。そんなことをしてはいけない、と言っているらしかった。

「そこでなにをしている!」

 と父が私をみてどなったのはこのときだった。

 私は窓からはなれると一目散に極楽殿の方に走りだした。

 極楽殿に行ったら、小僧達はまだ雑巾がけをやっていた。今日はだめだ、と小僧の一人がこっちを見て小声で言った。私は僧堂に帰ろうと思い、境内を東の山門に向った。途中、五重塔の捌相殿の前を通ったら、相輪(そうりん)の頂に(かささぎ)がとまってこっちを見おろしていた。

 山門をくぐると、僧堂の入口の石橋までは瓦と土を交互につみかさねた低い土塀が片側に続いており、そこにはいつも無限のさびしさが充ちていた。子供心に私はいつもこの道に充ちているさびしさがなんであるかを考えた。

 ふと顔をあげたら、石橋のそばの木陰に女が一人たっていた。麓の村では見なれない顔だった。近づいてみたら、上等な白麻のチョゴリとチマ(スカート)()を包んだ若い女だった。私はなにか眩しさを感じ、前を通りすぎようとしたとき、

「坊や」

 と女が笑顔で私によびかけた。女のななめうしろには、提唱碧巌録無量寺開山祖堂の石碑と女人禁制の小さな石碑が並んで建っており、私は石碑と女を見比べた。

「坊やはこれから僧堂にのぼるの?」

 私は頷いてみせた。

「ひとつ頼まれてくれないかしら。_居先生にこれを渡してほしいんだけど」

 女は右手に矢文に結んだ紙を持っていた。

「_居先生なら僧堂にはおりませんよ」

「あら、それならどこにいらっしゃるの?」

 私は本院の方をゆびさした。

「それなら、わるいけど、本院にいらっしゃる先生にこれを届けてくれるかしら」

 私は矢文を受けとった。女の白い指がひどく眩しかった。

 私は東の山門にひきかえし、境内にはいるときに石橋の方を振りかえった。女は物思いに沈んでいる風にたたずんでいた。

 私は薬師殿に行き寺男をさがした。寺男は_居堂の裏の渓流で米をといでいた。

「爺や。父上を訪ねてきた人がいるよ」

「来客ですか」

 寺男は米のはいった笊を渓流の石の上におき、表にまわってきた。

「どこですか?」

「あっちだ」

 私は東の山門にむかって歩きだした。

「山門の外ですか?」

「僧堂の橋の手前だよ」

 やがて山門を出て橋の方をみたら、女はさっきと同じ姿勢でたたずんでいた。

「あの人だよ」

「ああ、そうですか。坊ちゃんは早く僧堂にお帰りなさい」

 それから二人は女のところに歩いて行った。女は寺男を知っているらしかった。

「あ、これ……」

 私は矢文を寺男に渡した。

「早く僧堂にお帰りなさい」

 寺男は私をせかした。私は石碑のそばをぬけ石橋をゆっくり歩いて渡った。ここにいらしてはいけませんね、と寺男が言っているのがきこえた。橋を渡って林のなかに入ってから私は振りかえってみた。女は寺男と道をひきかえしていた。やがて二人は山門の前でたちどまりなにか話していたが、寺男は山門に入り、女は土塀に沿って表の山門の方におりて行った。樹木の枝ごしに白い麻のチマがゆれているのを眺めながら、私は女を追いかけて行き、話をしたい感情になっていた。

 私はこの白い麻服の女のことを誰にも話さなかった。女はなにか清らかな(かたち)で私の心にのこっていた。

 

 しばらく雨が続き、村の子達はみな家から出てこなかった。鐘台は、雨の日は魚がよく獲れるといってよく早朝に出かけていたが、たいがい鯉や鮒や鰻をつかまえてきた。前夜のうちに仕掛をしておき、夜そこに入った魚をあげてきているらしかった。母は、生臭いから獲るのはいいかげんにしなさい、と言っていたが、鐘台は母に隠れて庭の隅の下男部屋で、鰻を丸のままぶつ切りにし炭火で焼いて食べていた。鯉は大きな甕にいれて数日水に泳がせて泥をはかせ、煮魚(にざかな)にした。村には泉が三ヵ所あり飲料水だった。鐘台はたいがいタ方二個の桶をさげて泉に行き、水を運んできた。彼は何往復もした。まず台所の二つの甕に充たし、それから湯殿の風呂桶に運ぶのであった。泉には沢蟹がいて、ときたま桶にはいってくることがあった。父がいないときは私が最初に風呂に入らされた。ある日の夕方、麗安が私を風呂に入れようと浴槽の蓋をあけたら、沢蟹が赤くなって泳いでいた。おかしな奴だな、と私が言ったら、麗安が、おかしくないですよ、()だって死んでいるのですよ、と答えた。

 前夜から大雨がふり風のつよい朝だった。私が僧堂にのぼる日で、母が、今日はやすみなさい、と朝食のとき言った。私は行くと答えた。父がいないときでも私は高座の部屋で独りの膳に向わされていた。

 結局、鐘台が私を無量寺に送って行くことになった。傘は風で吹きとばされるというので、私は、母が町から買ってきてくれたゴム合羽(かっぱ)をつけ、鐘台は藁蓑(わらみの)をつけて家を出た。

 半月橋まで行ったとき私は足が竦んでしまった。渓流には水が溢れ、樹木がうなりをあげていた。橋に欄杆がないので、風で吹きとばされたら渓流に落ちるだろうと思った。向う岸の木とこっちの岸の木に一本のふとい綱が渡してあり、それも風にゆれていた。

「いいですか、私にしっかりつかまりなさい」

 鐘台は(みの)をとって腰にさげると私を背負った。そして片手で私の尻を支え、片手で綱をつかみ、ゆっくり橋を渡りだした。彼は途中なんどもたちどまったり、しゃがんだりした。

「鐘台、こわかったよ」

 橋を渡りきったとき私はほっとした。ふだんはなんでもなく渡っていた橋だった。

「私がついていれば大丈夫ですよ」

 鐘台は私をおろすと蓑をつけた。

 林が動いているような感じがした。昼間はいくら林が動いても恐くないが、夜の林は本当に恐い、と鐘台は言った。

「夜の林に入ったことがあるの?」

「茸とりに行って道に迷いましてね」

「それでどうしたの?」

「朝になって帰ってきました。私がまだ十ぐらいの頃でした。それは恐いものでした」

 私達は本院の山門を入らず、土塀に沿って僧堂の方の道をのぼった。そうしたら、東の山門のところに父が立っていた。私は、おはようございます、と挨拶した。

「母上が鐘台をつけてよこしたのか」

 と父がきいた。

「いえ、私が勝手についてまいりました」

 鐘台がすばやく答えた。

「よし、わかった。これからはひとりでのぼってきなさい」

「はい」

 私は桐油紙(とうゆし)に包んだ本をわきにしっかりはさみ、僧堂に向った。

 庫裡に入って合羽をとった。炊事番の雲水が二人で饂飩をうっていた。一人が粉を練っており、一人は棒でのばしていた。鐘台についてきてもらったのか、と雲水の一人が私をみてきいた。私はそうだと答え、庫裡から廊下にあがり、老師の部屋に行った。

「おう、こんな天気の日によくのぼってきたな」

 老師は私をほめてくれた。私は、鐘台についてきてもらったこと、半月橋は鐘台に背負われて渡ったこと、東の山門のところで父にあったことを話した。すると老師は、いくら下男がついてきても、本人が風の中を歩く意志がなければ山にはのぼってこれないのだ、と言った。

「今日は、昼前に本を読み、昼すぎからは大雄殿でお経をあげることにしよう」

 饂飩の昼食がすみ、大雄殿で老師が私にあたえてくれたのは〈般若心経〉だった。老師は、〈論語〉のように意味を述べても、この経は〈論語〉のようにはすぐは解らないから、いまはただ仏さまにあげればよいのだ、と言った。そして老師が、ゆっくり抑揚をつけて一節を誦し、私は老師の抑揚をまねて誦した。

 経を読むようになってから、老師は、家に帰っても一日だけ遊び、明後日はまた僧堂にくるように、と言った。だから私は僧堂に三日いて四日目の昼すぎに山をおり、あくる日は村の子達と遊び、そのあくる日はまた僧堂にのぼった。僧堂にいるあいだ私の衣類は雲水が洗ってくれた。

 私は老師が考えていたよりもはやく経をおぼえたらしかった。秋の初め頃には雲水達といっしょに経をあげることが出来たが、しかし雲水達のようには息が続かなかった。

 後年私は、二百六十二字のこの短い経典をわりあいはやくおぼえたのは、音楽的韻律がともなっていたからだろう、と解釈したことがあった。

 僧堂にいる分には涼しかったが、村におりてくると田園は夏のさかりだった。村の子達はよく渓流でまるはだかになり水遊びをしていた。彼等は、私が僧堂からおりてくると、たいがい半月橋よりすこし下流の方で遊んでいた。そこがいちばん安全な場所だった。私は仲間いりする日もあったが、たいがいは岸でしばらく彼等を眺め、それから家に帰るのであった。仲間いりしても、水がつめたく、ながい時間は入っていられなかった。水からあがると冷えた肌を太陽で乾かし服を着た。

 ある日、僧堂からおりてきたら、渓流に子供達の姿が見えなかった。半月橋まできて、今日はいるかな、と考えるのが私にはたのしかった。他のところに遊びに行ったのかな、と考えながら橋を渡って村にはいったら、大人が二人私の目の前を駈けぬけて行った。彼等は駈けながらなにか声高(こわだか)にさけんでいた。川で子供が溺れたのだとわかった。私は川の方に駈けて行った。

 子供達は川岸にいた。

 渓流と川の流れは岸よりかなり低く、大きな岩の下が淵になっているところがあり、その辺に村人があつまっていた。一人の女が川原の石ころの上にすわっており、

「アイゴウ、わたしの餓鬼や、ここにきてはいけないと言ったのに何故きたのだ、アイゴウ、瀬で遊ぶんだよ淵に行ってはいけないと言ったのに何故行ったのだ、アイゴウ!」

 と両手で陽に灼けた石を()ちながら()いていた。金永浩の母親だった。

 永浩は淵の底に沈んでいるらしかった。大人達がくちぐちになにかさけんでいるなかを、一人の若者が遺骸をわきに抱えて浮かびあがってきた。若者は流れに逆らわず下流の方に泳いで行き岸にたどりついた。村の子達がそっちに走りだした。

「いけませんよ」

 とこのとき私はうしろから腕をつかまれた。鐘台だった。さ、帰りましょう、と鐘台は言った。肉親いがいの遺骸を子供のうちにみるものではない、大人達がいくら行ってはいけないと言っても、魔がさすのか、淵に行く子がいる、と鐘台は道々言った。

 家に帰ったら、台所で下女達がおそい昼食をとっているところだった。麗安が、ちょっとそこにいなさい、と私と鐘台が家に入るのをとめた。淑河が塩をひとつまみ持ってきて二人にふりかけた。

「さあ、俺も昼飯をたべるか」

 と鐘台が膳の前にすわった。母は、居間で、町からきた染物屋と話しているらしかった。村の女が屑繭で織りあげた布を、母はいろいろな色に染めていた。それはたいがい蒲団や座蒲団や寝巻になったが、後年私が結城紬(ゆうきつむぎ)になじむようになったのはこの時分の影響だった。夏は誰でも麻を着ていたから、私が上布(じょうふ)に愛着を感じたのも、やはりこの時分の影響だった。

 下女達は荏胡麻(えごま)萵苣(ちしゃ)の葉にめしをくるんで食べていた。

 

 夏が(ゆる)やかにすぎて行き、間もなく田園では稲の穂が色づいてきた。私達はよく赤蜻蛉や鬼やんまが飛び()っている田圃に(いなご)とりに行った。私達は畦道にはいると、まず稲の穂を一本ぬきとり、穂先を下にして、獲った蝗の背中に軸を通した。一本の穂に二十匹は通せた。これを何本もぶらさげて家に帰ると、一晩そのままにしておいて糞をださせ、あくる日、醤油で煮つめて菜にするのであった。これは子供達の遊びだったが、鐘台は布の袋を持って蝗をとりに行き、いつも袋をいっぱいにしてきた。

 そんなある日、私が村の子達と蝗とりをして家に帰ったら、老師と父が山からおりてきていた。ほかに雲水が二人いた。

「わたしの子や」

 と老師は私を呼びよせた。老師は、これからこの子達をつれて麻谷寺、通度寺、普賢寺、月精寺、帰州寺をまわってくるが、留守のあいだも僧堂にのぼって、虚白堂清眼から学びとるがよい、と言った。老師があげた寺を私はみんな知っていた。かねがね老師からきいていたし、雲水達もよく話題にしていた。

 私は老師の言いつけにしたがい、それまでと同じように僧堂にのぼった。虚白堂清眼は声が大きかった。

 ある雨の日の午後、清眼が用があって本院に行き、雲水達が庫裡(くり)で豆腐をこしらえていたとき、私は遷化堂(せんげどう)に遊びに行った。そこにかかっている無量寺代々の禅師の肖像画を見るのが私は好きだった。私には彼等がみんな老師に見えた。遷化堂では香煙があがっていた。私は香炉の前に行き、そばにおいてある香木と小刀をとりあげ、香木を削った。そして削ったのを香炉にふりかけた。それからいつものように肖像をみてまわって廊下に出てきたら、大雄殿のうしろの開山祖堂で人の声がした。そこはふだん人がいない御堂だった。私は遷化堂のきざはしを降りて庭にある木靴をはき、開山祖堂に行ってみた。

 開山祖堂の入口の戸は閉まっていたが、格子のあいだから中をのぞいたら、うす暗い堂内の床の上で、裸の雲水が二人絡みあっていた。一人が背中を上に向けて寝ており、一人がその上に重なっていた。二人は、私には解らない言葉でしゃべっていた。そのうちに下になっている雲水がひょいとこっちに顔を向け、宗務長の倅だ! とさけんだ。私は雨のなかを走って遷化堂に戻った。同時に雲水の一人が、あわてて僧衣を着たのか、前がはだけた恰好で私に追いついてきた。

「いい子だから、俺達があそこにいたことを、老師にも虚白堂清眼にも言わないでくれ」

 とその雲水は言った。

「うん、誰にも言わないよ」

 と私は答えた。

「本当に言わないか」

「言わないよ」

 私は雲水をにらんだ。すると雲水は、いい子だから約束は守ってくれ、と言い、あたふたと開山祖堂に戻って行った。

 しかしこの二人の雲水は、稲の刈りいれがはじまる頃に老師が帰山してまもなく、やはり雨の日に開山祖堂にいるのを虚白堂清眼に見つかり、大雄殿の前にすわらされ、清眼から棒で打たれた。老師が、赦してやれないか、と清眼に言ったが、清眼は容赦がなかった。二人の雲水は一晩雨のなかを境内にすわらされ、あくる日の朝、無量寺から追放された。

 二人の雲水が僧堂から追放された日の午後、私は清眼に呼ばれ、遷化堂に行った。清眼は香木を削って香炉にくべると、私といっしょに歩きなさい、と言って肖像をひとつひとつ眺めあげて歩いた。肖像の下には慈蔵律師、大覚国師、普照国師、都城相定、碧松智厳、春坡双彦、白華堂けい珠(けい字は、さんずいヘンに、冏)、青梅印悟とかつての禅僧達の名が書いてあり、なんども遷化堂にきている私はだいたいの名を憶えていた。

 肖像の前をひとまわりして出入口に戻ってきたとき、清眼は、あの二人の雲水が開山祖堂にいるのを見かけたのはいつだったのか、と私を見てきいた。私はだまっていた。すると清眼はつぎのように言った。昨日の午後開山祖堂で二人を見つけたとき、雲水の一人が、梵海禅文が密告したんだな! とさけんだので、そのことを知った、おまえが二人のことを私に密告しなかったのは、二人との約束を守ったからなのか。

 私は、よくわからないが他人に話すのはいやなことだと思った、と答えた。すると清眼は、それはいい答だ、密告はいちばんよくないことだ、と言った。

 後年私はよくこの清眼をおもいかえし、あの人はいつも抜身をそばにおいて生きていた禅僧だった、と考えたことがあった。振りかえってみて、私は、老師からは寛容を、父からは美を、虚白堂清眼からは倫理を学んだように思う。

 清眼はよく私に坐禅を組ませた。組む場所は大雄殿のときもあり遷化堂の日もあり梵鐘楼のときもあった。

「禅文、ちょっと来なさい」

 と彼は私を呼ぶと、いちばんちかい建物に私を連れて行き、いっしょに坐禅を組んだ。坐禅は山の中でも木の上でも水の中でも組める、と彼は言っていた。

 ある日の午後、私が大雄殿の前の百日紅の幹に登っていたら、下を清眼が通りかかり、そこで坐禅を組んでみろ、と言った。ここでは組めない、と私が答えたら、馬鹿者、工夫して組んでみろ、と言いのこし、庫裡の方に去ってしまった。結局私は幹に背をもたせ、枝が二つにわかれているところに尻をのせ足を組んでみた。動けば落ちそうだった。私は大雄殿の四本の柱にかけてある(ばん)の字を目で追っていた。そうしないといまにも落ちてしまいそうだった。黒い板に彫ってある字は白く塗ってあり、つぎのような四節だった。

 

  道死道生担板漢   (死といひ生といふか 担板漢め)

  非生非死豈中途   (生になく死になく何ぞ中途なる)

  説破両般生死字   (説破す 両般生死の字)

  殺人剣与活人剣   (殺人剣はそれ活人剣ぞ)   編輯室注

 

 私は右から順にこの字を目で追っていた。

 後年調べたところでは、これは、仁祖二十三年(西紀一六四五年)乙酉(きのととり)の一月、金華山の澄光寺に七十三歳で示寂した月潭雪霽(げったんせっせい)禅師の臨終の()で、〈喚惺集〉という本に出ていた。昭和十九年に無量寺を訪ねたとき、私は虚白堂清眼に、あれは「殺人剣与活人剣」を私に読ませるためだったのか、ときいた。このとき清眼はわらって答えなかった。

 老師と父が無量寺を留守にしていたあいだ、私は一日鐘台につれられて町に行った。その日は市のたつ日で、村の人達は牛に荷車をひかせるかリヤカーで野菜を売りに行き、帰りは稚海藻(わかめ)、昆布、海苔、明太(めんたい)などを仕入れてくるのであった。鐘台は母から金を渡され、買ってくる品物を言いつかっていた。村には店といったら居酒屋が一軒あるきりで、(たばこ)はこの居酒屋で売っていた。まいあさ酒造会社の荷馬車がきて、樽に詰めた濁酒をおろし、前日の空樽を積んで帰るのであった。

 町はにぎやかだった。前年の秋、私は母につれられてこの町から汽車に乗り大邱に行ったことがあったので、この町はこんどで二度目であった。塩を山盛りにして売っている店、穀類の店、海産物の店、肉を売っている店が並んでおり、露店では野菜が売られていた。市のなかほどに居酒屋があり、男達が大勢どんぶりで濁酒をのんでいた。店の前には大きな釜が据えつけてあり、なかでは肉と野菜が煮えていた。あれはなんの肉だ、と鐘台にきいたら、犬の肉だと言った。その居酒屋の軒には殺された犬が一匹ぶらさがっており、一人の男が刀で皮を剥いでいるところだった。

「市がたつと、かわいそうに三匹は殺されますよ」

 と鐘台は言った。

「鐘台も食べたことがあるの」

「いえ、私はありません」

 私がみたところでは、釜のなかで煮えている肉はとてもうまそうだった。

 鐘台は母から言いつかった品物をいろいろと買いととのえ、露店で野菜を売っている隣家の李仁勲のリヤカーに運んでいた。帰りはたいがいこのリヤカーで品物を運んでもらっていた。

 それは海産物を売っている店が数軒ならんでいるすこし先の方に行ったときだった。小さな店で鐘台が縫糸を買っていたとき、普通の家の門の前で、女が一人たってこっちを見ていた。開山祖堂の石碑の前に佇んでいた女だった。

「鐘台、あの人はだあれ?」

 私は鐘台の袖をひっぱった。

「ああ、あの女の人ですか。あれは妓生(キーサン)ですよ」

 鐘台はこともなげに答えると、店の人に糸の代金を払った。

 女はずうっとこっちを見ていた。

「すこしこの辺の店を見物してもいい?」

 私は鐘台にきいた。

「いいですよ。私はまだ買うものがあるので、すこししたら李さんのリヤカーのところに戻ってきなさい」

 鐘台はこう言いおいて市場のなかの方に歩いて行った。女はやはりこっちを見ていたが、やがてこっちに歩いてきた。女は今日はうすい水色のチョゴリとチマで()を包んでいた。

「坊やは_居先生の子だったのね」

 女ははじめて笑顔をみせ、私の手をとると、すこしのあいだだけわたしの家にいらっしゃい、と言った。私は市場の方を振りかえってみた。

「下男ならまだ買物をしているわ。さあ、いらっしゃい」

 女の手はふっくらとして温かかった。

 下女が一人いるこざっぱりした家だった。女は菓子をだしてくれた。私はだまって菓子を食べた。

「坊や。今日ここでわたしと会ったことを_居先生にだまっていてくれるわね。このあいだも坊やはだまっていてくれたらしいわね。だから頼むのだけれど」

 私はこっくりをしてみせた。そして起ちあがった。

「あら、もう帰るの。でも下男が待っているわね」

 女は門まで私を見送ってくれた。私は市場のなかにむかって歩きながら、数度うしろを振りかえってみた。女は門の前に立ってこっちをみていた。

 後年私が、再婚して去った母よりも、たった二度しか会っていないこの妓生を懐かしくおもいかえしたのは、どういうことだったのか。この妓生のうつくしさ、ものやわらかさ、やさしさが、後に私の想像のなかで倍加されていたとしても、幼年時代のこのであいはやはり決定的だった。

 僧堂のゆきかえりの山道ではもう龍胆(りんどう)が咲きだし、茅蜩(ひぐらし)が鳴きはじめ、村でも寺領でも秋の収穫がはじまっていた。寺領の田圃では、叢林に学びにきている僧が稲刈にかりだされていた。そして数日天日に乾された稲は脱穀機にかけられ、(もみ)(かます)に詰められ、蔵にしまわれた。精米は町の精米所に行かねばならず、これは村の人達がやってくれた。

 稲の収穫が終ると(なつめ)、栗、柿、胡桃(くるみ)のとりいれだった。棗は赤く色づいた実をとって庭に乾し、柿は乾柿に、胡桃は皮を洗って庭に乾した。

 山では紅葉がはじまっていた。

 前の日に雨がふったある早暁、大雄殿で礼仏坐禅を終えたとき、虚白堂清眼が、いっしょにこい、と言った。朝食までに裏山から松茸を穫ってくるのだといって雲水が一人竹籠を持ち、三人で庫裡を出た。

「禅文。よく場所をおぼえておけ」

 松林に入ったとき清眼がたちどまりながら言った。清眼がゆびさしたところの松葉をかきわけたら、松茸の頭が半分ほど湿った地面から出ていた。

 教えてくれた場所には必ず松茸があった。やがて松茸が籠に半分ほどになり、私達は松林から雑木林に移った。そこでは椎茸としめじを穫った。

 松茸は割いて胡麻油で(いた)め、しめじは味噌汁にいれてこの日の朝食の膳にならんだ。新米に掘りたての松茸の朝食のうまさに、私は後年再び出あうことがなかった。清眼は、雨がふったあくる朝は必ず私をつれて山に入った。椎茸は保存食品に乾しあげていた。これは無尽蔵といってよいほど寺領のどの山を歩いてもあった。清眼は食べられる茸と食べられない茸を教えてくれた。これを食べたら五十かぞえないうちに死ぬとか、これを食べたら三日は笑っていなければならない、などと教えてくれた。笑い疲れて死んだ雲水がいたという話をしてくれた。

 ある日の午後、村に帰るとき、

「これを父上のところに届けてから行け」

 と虚白堂清眼が小さな竹籠に入つた松茸を私の前に置いた。そこには、まだ笠が開いていない大きな松茸が七、八本入っていた。

 私は籠を薬師殿に届けに行つたが、父はいなかった。_居堂では寺男が障子をはりかえていた。

「父上は叢林か」

 と私は寺男にきいた。

「いえ、父上はお家です」

 と寺男は障子から目をはなさずに答えた。

 私は濡縁に籠をおき、無量寺からおりてきた。

 稲の収穫が終った村は寂しい風景になっていた。家々の軒には乾柿がつるされ、枯れてきた田圃では(かささぎ)があちこちにとまっていた。家についたら、母は麗安と淑河を指図しながら白菜(キムチ)を漬けこんでいた。鐘台は裏庭で白菜漬の甕を()けるのに穴を掘っていた。

「父上は?」

 と私は鐘台にきいた。

「父上は無量寺ですよ」

 このとき私はふっとあの妓生(キーサン)をおもいかえしていた。

「さあ、白菜を漬けこんだら、こんどは雉子(きじ)をつかまえに行く季節だ」

 鐘台はうれしそうな声で言いながら穴を掘っていた。私は父に松茸を届けたことを知らせられないのですこしがっかりし、台所に入ってみた。母は白菜に入れる赤い唐辛子を鋏で糸のように細くきっていた。

「父上にあわなかったのですか」

 母がきいた。

「あいません」

「もっともおまえは僧堂ですから」

 私はやはりあの妓生の顔をおもいかえしていた。

 なか一日おいたあくる日、私は僧堂にのぼると午前の講義を受け、昼食をすまして本院に行ってみた。まっすぐ叢林に行ってみたら、父が講義をしていた。私は_居堂に行き、松茸を父上にみせたか、と寺男にきいた。

「昨日の昼すぎに戻ってこられてすぐ召しあがりました」

 と寺男は答えた。このとき私は、父が村の家を素通りしてどこかに行き、そしてまっすぐに寺に戻ったことを知った。開山祖堂の石碑の前に佇んでいた女に、寺男が、ここにいらしてはいけませんね、と言っていたことがまたおもいかえされた。

 私は_居堂を出て庫裡(くり)に行ってみた。

 庫裡では小僧が四人で里芋の皮を()いていた。

「もう今日の勉学は終ったのか」

 と小僧の一人が私をみてきいた。

「終ったよ」

「いいなあ。自分達はいつになったら勉学できるんだろう。まいにち掃除ばかりやらされている

 他の三人は黙々と里芋の皮を剥いていた。

 私は、さよなら、と言って庫裡を出てきた。

 僧堂に戻ったら、庫裡で三人の雲水が笹の葉に薬飯(やくはん)を包んでいた。糯米(もちごめ)のなかに棗、銀杏(いちょう)の実、赤大角豆(あかささげ)、胡桃、乾椎茸、乾柿などを混ぜていれ蒸籠(せいろう)でむしあげた保存食だった。朝から火を通していたが、出来あがった薬飯はいかにもうまそうだった。

 このとき奥から、出来たか、と言いながら虚白堂清眼が出てきた。

「新糯米だからおいしいだろう。禅文、大雄殿に行って高坏(たかつき)を持ってこい」

「はい」

 私は大雄殿に高坏をとりに行った。まず仏に供えなければ食べさせてもらえなかった。

 やがて雲水が高坏に笹の葉に包まれた薬飯を五個のせ、大雄殿に供えてきた。

「よろしい。禅文にひとつやれ。禅文、それを食べたら、薬飯を母上に持って行って差しあげ、寺に戻ってくるんだ」

 清眼は、薬飯を包むように雲水に命じた。

 やがて私は渋紙に包まれた薬飯を持って村におりて行った。

 あくる日の午後から僧堂の庫裡では味噌の仕込がはじめられた。秋の午後は雲水達のいちばんいそがしいときだった。味噌の仕込が終ると、何年も寝かせた味噌樽から(たまり)(すく)いあげて甕に移し、この時分になると、本院からは味噌と溜をもらいに来る。

 ある日の午後、山栗をひろって戻ってきたら、庫裡で焼豆腐をつくっていた雲水から、老師の部屋にはやく行きなさい、と言われた。

 部屋に行ったら、洋服を着た老人が老師と向きあってすわっており、老人のはるか後方にやはり洋服を着た二人の若い男が控えていた。

「おまえの父方の祖父だ。挨拶をしなさい」

 と老師が言った。

 私は老人の前に行って三拝した。

「この子か」

 と老人は言った。目の鋭い人だった。

「名はなんという」

 老人がきいた。

「重行です」

「いずれその名は不要になる。梵海禅文がおまえの名だろう」

「はい」

「よろしい。勉学に励め」

 私は老師の部屋を辞し、山栗を焼くために庫裡に戻ったが、老人の鋭い目が追いかけてくるような気がした。老人に好感が持てなかった。前年の秋、母につれられて大邱に行ったとき、私は父方の祖母に会っていた。この人はやさしい人だった。父方の祖父といったら祖母といっしょにいるはずなのに、祖父に会うのはこの日がはじめてだった。祖母は下女を一人つかってひっそり暮していた。

 私は竈の前で、山栗が火のなかで弾けないように小刀で栗の頭を剥き、薪のなかに入れた。

 間もなく祖父が帰る気配がし、雲水達があわただしく庫裡から出て行った。

「禅文、祖父どのがお帰りだ。見送りなさい」

 虚白堂清眼が庫裡の出入口から私をよんだ。私は栗が焼けすぎないように火箸で栗を竈の前にかきよせておき、表庭に出てみた。

 父は背がたかかったが、祖父は父よりたかい人だった。老師と雲水達が渓谷の橋まで祖父を見送った。

 後に私が九州で母方の叔父からきいた話では、私が無量寺の僧堂で祖父にあう十年以上も前から、祖父は祖母に生活費だけを送っていたそうであった。祖母は(つい)に日本には帰らず、昭和十五年頃大邱で病没したということだった。青年時代、私はしばしば無量寺の僧堂で会った背のたかい祖父をおもいかえし、禍のすべてはあの老人が原因だったのだ、と考えた。幼年時代、老師から、おまえは自分の貴族の血をほこるべきだと言われたが、私はその後自分の血をほこりに思ったことはいちどもなかった。もし出来たらそこを避けて通りたかった。しかし叔父の話では、性剛だった祖父の一面をもっともよく享けたのは私だということだった。昭和四十八年の五月、私は二十九年ぶりに韓国を訪ね、焼物や寺をみてまわったとき、物書きにならなければ生きて行けなかった自分を振りかえり、はじめて父を祖父を理解したと思った。私はもうこの風土には還るすべがなかったが、そこが父の、祖父の国であったことを理解した。

 

 村では、夏のあいだはやすんでいた飴屋が、秋になって再び来るようになった。飴屋は、横に長い三段重ねの木の箱を背負って鋏を鳴らしながらやってきた。鋏の音をきくと子供達は表に飛びだして行った。

 三段重ねの箱のいちばん上の箱には上等な白い晒飴(さらしあめ)が分厚い一枚の板のようになって入っており、その下の箱にはいくらか黒ずんだ飴が入っていた。そしていちばん下の箱には物々交換で得た穀類や襤褸(ぼろ)が入っていた。子供達は穀類や襤褸を持ってきて飴をきってもらった。飴屋は、飴の上に(のみ)を当て、鋏の柄で叩いて割った。私は母から飴屋の飴を買ってはいけないと言われていたが、たいがい麗安や淑河から米をねだってこっそり飴を買った。

 渓流の紅葉が流れに映え、朝夕がずいぶと冷えてきたある日の午後、半月橋をわたって村におりたら、飴屋がきていた。飴屋はもうかなりのとしの男で、泉のちかくで箱をおろし鋏を鳴らしていた。子供達はまだ数人しかあつまっていなかった。

「坊や、また米を持ってきてください」

 と飴屋が私をみて言った。たいがいの子供が麦や栗を持ってくるのに私だけが白米を持って行くので、飴屋にとって私はよい得意先らしかった。すぐ持ってくるよ、と私は言いおいて家に戻ったが、この日は米が持ちだせなかった。飴屋がくるたびに私が麗安と淑河に米をねだっていたのを母はちゃんと知っており、そのことで二人の下女がまとめて母にしかられている最中だった。今日も、飴屋の鋏の音をきいたとき、私がもう下山してくる時刻だろうからといって麗安がそっと米をとりだしているところを母に見つかったらしかった。家には町からまとめて買ってきたチョコレートやキャラメルがあったが、私はどうしても鋏を鳴らしながら売りにくる飴屋の飴がほしかった。鋏の音は、この村の子供達にとっては風物詩だった。

 仕方なく私は母のうしろから麗安と淑河をみて、ごめん、と手で合図をし、裏庭で薪を割っている鐘台のところに行った。

「鐘台、すごいなあ!」

 私は裏の軒に吊るされた雉子(きじ)を見あげて声をあげた。長い尾に黒い横縞が入っているのが二羽、尾の短いのが一羽、あわせて三羽が軒先に吊るされていた。尾の長い方が雄で羽根が美しかった。雌の羽根は褐色だった。

「いつ獲ってきたの?」

「ついさっきですよ」

 鐘台は得意そうだった。一昨日の夕方森に(わな)を仕掛けておき、昨日の朝みに行ったときは一羽もかかっていなかったが、今日の昼前に行ったら五つ仕掛けた罠のうち三つに雉子がかかっていた、と鐘台は語った。

「今夜食べるの?」

「いえ、今夜はだめです。今夜ひとばん吊るしておくと脂がでてきますから、明日あたり羽根をむしって煮凝(にこご)りにしておきますと、明後日あたりに父上が山からおりてこられます」

「明日こしらえてくれよ。明後日は僧堂にのぼるんだから」

「そういたしましょう。一羽は塩焼にし、二羽を煮凝りにしましょう」

 鐘台は煮凝りのこしらえかたがうまかった。骨から肉をはがして刻み、骨もこまかく刻み、釜に水と塩と粟といっしょに入れ、とろ火で一日煮つめるのであった。煮つめたのを()ましておくと煮凝りになり、それを庖丁で適当な大きさに切って塩をふりかけあるいは葱醤油をかけて食べた。骨までがやわらかくなったこの煮凝りは冬の食卓から欠かせなかった。ほかに鐘台はよく小綬鶏(こじゅけい)を獲ってきた。これはたいがい塩焼にした。

 ほかに鐘台は鶏の締めかたがうまかった。鶏は村の農家から買いいれた。父が、

「鐘台、今夜は鶏を締めてくれ」

 と命じると、鐘台は母から金をもらって農家に出かけ、よく肥えてうまそうな鶏をつかまえ羽交絞(はがいじめ)にして持ってきた。鐘台は裏庭で鶏の羽根をもとに戻し、両手で首を握り、

「ほらッ極楽に行け」

 とさけんで瞬時に首をちぎってしまうのであった。

 あるとき鐘台が、首をちぎってから鶏を地面においたことがあった。すると頭のない鶏が首から血を噴きながら走りまわった。それは無量寺の曼荼羅をみているような一瞬の色彩的な光景だった。

「よしなさいッ鐘台!」

 母が怒った。母は、おまえの締めかたは潔いが首のない相手を走らせるのは卑劣な行為だ、と言った。鐘台は顔をあからめ、以後そんなことはしなくなったが、父は、あいつの締めかたは名人芸だ、と言っていた。父は怒ることがめったになかった。他人がなにをやっても眺めていた。

 

 渓流を染めていた紅葉の最後の一葉が散って行く頃、寺領はもう冬にはいっていた。庫裡の裏の渓流も日ましに水がつめたくなり、あれほど石槽に舞いおりていた紅葉も数が減ってきたある払暁(ふつぎょう)、私が雲水達といっしょに顔を洗っていたら、

「どうだ、つらいか」

 と隣にいる虚白堂清眼からきかれた。

「つらくありません」

 と私は答えた。春、母から、いまはよいが冬の僧堂生活は子供には無理だ、と言われたことがあったが、私はそれほどつらいとは感じていなかった。温突(おんどる)の部屋に寝ている分にはよかったのに、払暁におこされるのはちょっとつらかったが、身にしみるというほどではなかった。老師は、冬は朝食の頃まで睡っていてもよい、と言っていたが、清眼は時刻になると私を起しにきた。老師と父が夏の終に無量寺を留守にした頃から、清眼が老師にかわって私に教える日が多くなっていた。おまえはやがては無量寺を継ぐ身だ、と清眼は言った。そのときにどう処すればよいか、と私につぎのような昔の禅師の()を幾日もかかって教えてくれた。

 

  飛星爆竹機鋒峻   (星飛び竹爆き機鋒峻し)

  裂石崩崖気像高   (石裂き崖崩し気像高し)

  対人殺活如王剣   (人を殺活す王剣の如し)

  凛々威風満五湖   (凛々威風は五湖に満つ)

 

 このような一面をそなえながら、またつぎのような者にもならなければいけない、と清眼は別の偈をまた幾日もかかって教えてくれた。

 

  浮雲来無処     (浮雲来れどよしなし)

  去也亦無蹤     (去るにまたよしなし)

  細看雲来去     (よく雲の来去をみよ)

  只是一虚空     (只これ一の虚空のみ)

 

 虚白堂清眼は武人のような禅僧であった。私が後に調べたところでは、前の偈は仁祖年間(西紀一六二三~一六四九年)に生きた海運敬悦禅師、後の偈は英祖年間(一七二五年~一七七六年)の禅僧雪峯懐浄師のものであった。

 ある日、虚白堂清眼は所用があって自分の寺の釈王寺に帰ることになった。ちょうどその日は私が村におりる日で、昼食をすませてから私達は僧堂から出た。

 私は自分の家の前を通りすぎ、村のはずれまで清眼を見送った。村のはずれで私は清眼にいつ帰ってくるのかときいた。十日ほどしたら帰ってくる、と清眼は答えると、私に背をみせて歩き去った。褐色に枯れた野を清眼はいちども振りかえらずに歩いて消えた。私は彼の姿が見えなくなったとき、もう無量寺には帰ってこないのかもしれないと思った。

 二日後に僧堂にのぼったとき私は、清眼は本当に帰ってくるのか、と老師にきいた。老師は、帰ってくるとも帰ってこないとも答えず、どうやらおまえにはあいつが必要なようだな、といった意味のことを言った。

 虚白堂清眼がいないあいだ、私は朝食時まで睡っていてもよいのかと思ったら、そうではなかった。老師が清眼のかわりに私を起しにきた。朝食時まで睡っていてもよいとおっしゃったのは老師ではないですか、と私はある朝老師に言った。すると老師は、清眼がここにいるときはおまえが寝坊をしてもよい、そのとき清眼がおまえを叱ったら、わたしはおまえを助けてあげられる、しかし清眼が留守のあいだ、おまえが寝坊をしたら、おまえは清眼を裏切ることになる、と言った。私が老師の言葉を理解するまでにはすこし時間がかかった。

 ある日の午後、家に帰ったら、鐘台が裏庭の石の上に俎板をのせ牛の肋肉を鉈できっていた。

「父上が帰ってくるんだな」

 私は鐘台のそばで肉を眺めながら生唾をのみこんだ。

「はい、お帰りですよ」

 鐘台はきりおとした肉に庖丁で線をいれた。それはいかにもうまそうだった。

 父が帰ってきたのは暮方だった。私が門の前でさびしい空をみあげ、虚白堂清眼から習った()の一節、対人殺活如王剣をなんどもくちずさんでいたときだった。私はこの一節が気にいっていた。黙渓書院に四書五経を習いに通っている村の子供達は、論語読みの論語知らずが多かった。それは父と母が私を僧堂にあげるか黙渓書院に通わせるかで言いあらそっていたときに父が言っていたことだった。その点で老師と虚白堂清眼は言葉の裏にあるものを教えてくれた。

「今日は家か」

 父は機嫌よく声をかけてくれた。手には椿の花を一枝持っていた。その椿は、山桜とともに無量寺の山に自生している佗助(わびすけ)だった。もっとも私がこの椿に佗助という名がついているのを知ったのは後年だった。

「鐘台が肋肉(カルビ)をこしらえてありますよ」

「それはありがたい。おまえな、この花を挿すから、どれでもよい壷にひとつ水をいれてくれないか」

 私は父の書斎に行き、染付の壷をひとつ持つと台所へ水をいれに行った。水をいれて庭に戻ったら父は濡縁に掛けていた。

「ありがとう」

 父が壷を受けとろうとしたとき、私は沓脱石(くつぬぎいし)(つまづ)き、壷を石の上におとしてしまった。あっと思ったが壺はすでに割れ、水が石を濡らしていった。

「ごめんなさい」

 私はなにか恥ずかしかった。

「いちばんよい壷を割ったのですか」

 母が障子をあけて出てきた。

「割れたものは仕方ない。おい、もうひとつ壺を持ってきてくれ」

 父は母に命じると、それを拾いあつめて眺めておけ、と私に言った。私は破片を拾いあつめて風呂を燃している鐘台のところに持って行った。

「鐘台、割ってしまったよ」

「おや、これはいちばんよい壷ですよ」

 鐘台は母と同じことを言った。

「鐘台にはこれがわかるのかい」

「それはわかりますよ。父上と何年いっしょに歩いたと思いますか。叱られましたか」

「拾いあつめてよく眺めておけ、と言われたよ」

「そうですよ。よく眺めておいた方がいいですよ」

 鐘台はまるで権威ある者のように言った。

 

 ある寒い日の午後、うすぐもりのなかを僧堂からおりてきたら、村の田圃はいちめんに白く凍っており、村の子供達がスケートをやっていた。

「いつから滑っているの?」

 私は子供の一人をつかまえてきいた。

「昨日から凍っているよ」

 とその子は答えた。

 私は家に走って戻り、鐘台に滑り板をだしてくれと言った。鐘台は雉子の羽根をむしっているところだった。

「昨日から凍ってきたので、ちゃんと出してありますよ」

 鐘台は起ちあがると私を下男部屋につれて行った。縁側に、針金をまぶしいほどにみがいた滑り板と突き棒が並べてあった。

「みがいてくれたの」

「錆びていたのでは滑れませんからね」

 それは、鐘台が私のためにこしらえてくれた、村の子供達の誰のよりも立派な滑り板だった。一枚の厚い板の片側にふとい針金が四本渡してあり、この針金の側を氷にのせ、そして板の上にすわると、五寸釘を打ちこんだ(きり)状の二本の棒で氷を突いて走らせるのであった。これが冬のあいだの村の子供達の遊び道具だった。

 無量寺の田圃は冬のあいだは水を()らし春になると渓流の水をいれていたが、村では子供達のためにいくつかの田圃に水を湛えてあった。

 滑り場に行ったら、滑り競走をやっている者もおり、独楽をまわしている者もいた。子供達はたいがい乾柿か乾棗をポケットにいれてきてそれを食べながら滑っていた。

「おい、無量寺、キャラメルをくれよ」

 滑り場では村の子達が私のまわりにあつまってきた。私は母からもらった二十個いりのキャラメルの箱をとりだし、子供達に一個あてわけた。

 年嵩の子達はさすが滑り方がうまかった。勢よく滑って行き、いきなり方向転換をすると、針金で削られた氷が白い飛沫になって散った。みんなそれをやったが、なかなか上達しなかった。

 たいがい暮方まであきもせずに滑った。すると滑り場からいちばん近い農家の一軒から、もう夕飯だよ、と声がかかってくる。子供達はそれを潮にめいめい滑り板を抱えて家に帰るのであった。

 この日の暮方ちかく、私は、禅文、と大声でよばれた。網代笠(あじろがさ)をかぶった虚白堂清眼が道に立っていた。私は板を滑らせて清眼のところに行った。

「お帰りなさい」

 久しぶりで清眼のふとい声をきいたとき私はうれしかった。

「きちんと勉学にはげんだか」

「はい」

「明後日だな、僧堂にくるのは」

「明日のぼって行きます」

「そうか。母上によろしく」

 清眼はすたすたと山の方に歩いて去った。私はにわかにさびしくなり、滑り板を抱えて家に戻った。

 清眼が私にあたえてくれたものがなんであったか、私は後年しばしば考え、それは、卑劣なもの、醜いものに対する容赦のない視線ではなかったか、と思った。幼年時代の私に父は解らない人であった。そして老師は大きすぎて解らなかった。しかし清眼はまっすぐ私のなかに響いてきた。殊に寺領の四季の移りかわりの美しさ、遍在している自然のたしかさを教えてくれたのは彼であった。

 あくる日僧堂にのぼり、老師から午前の講義を受けていたとき、私は、清眼はなぜながいあいだ釈王寺に帰っていたのか、と老師にきいた。

「清眼の母上が世を去っての、葬儀をすませてきたのじゃ。つぎを読みなさい」

 老師はもう何事もなかったように私をうながした。

 十九年の春、無量寺を訪ねたとき、虚白堂清眼はつぎのような話をしてくれた。

 老師は無用松渓と称し、没落した貴族の生家を捨て、いらい名利(みようり)を求めず、無量寺に入ってからは生涯山を降りたことがなかった。また、六朝(りくちょう)時代の詩人陶淵明(とうえんめい)の影響を受け、人間の生死を自然現象の一部分として捉えていた。示寂する数日前、門弟が偈を請うと、顕宗年間(西紀一六六○~一六七四年)の碧巌門派の高僧翠微守初(すいびしゅしょ)の文を紙に認めた。

 清眼はそれを屏風にしてあった。

 

  従朝而行及暮而息     (朝より行い暮れてはやむ)

  未有長行而不息者     (長く行いやまざる者なし)

  吾将息矣         (われ、いま、やまんとす)

  汝等各信自心勿外辺浪走  (汝、自ら過信して辺浪に走るなかれ)

  老僧生七十有九坐六十有五 (われ、今歳七十九、打坐は六十五年)

  年非不耆         (十分に老い)

  臘非不高         (成し終えて)

  何所慊焉         (不足はない)

  母襖悩母厚葬母封塔求諸銘 (嘆くな、厚く葬るな、墓も讃辞も無用)

 

 遺言にしたがい簡素な葬儀をすませ、墓石も小さくした、と虚白堂清眼は語ってくれた。老師は詩文を愛したが、自らはつくることをせず、もっぱら古人の詩文を誦していたという。無用松渓の無用は、粛宗年間(西紀一六七五~一七二○年)やはり碧巌門派だった禅僧無用秀演の詩を愛したことからとったそうであった。

 後年私が陶淵明に親しみ李朝時代の古書をいろいろさがすようになったのは、私の幼年時代に影響をあたえ、私の今日をつくってくれた老師を知るためだった。そして、英祖年間(西紀一七二五年~一七七六年)になっている〈蓮潭集林〉に、私はたまたま無用秀演に関する一文を見つけたことがあった。

 

 本寺於三十年前奉無用老師大会学衆之数百人。内有影海高弟為当機。伏惟、大師素是天稟堅貞、加以学問敦実。盤根錯節庖丁之刃恣遊。入室升堂祖逖之鞭先著。名相識数至吾師而彰。明観行義門非余人之彷彿。実為諸方之眼目。

 

 本寺は三十年前無用老師を奉じて大会(たいえ)す学衆数百人。内に影海高弟当機たり。伏しておもうに、大師もと是れ天稟堅貞、加えて学問敦実を以てす。盤根錯説も包丁の刃は恣まに遊び、室に入り堂にのぼり祖逖の鞭先ず著し、名相識数は吾が師に至りて彰わる。明らかに行儀の門を観じ、余人の彷彿たらず。げに諸方の眼目たりし。

 

 本寺とは松広寺で、影海は無用の高弟であった。なお無用秀演には<無用集>二巻があり、つぎのような詩があった。

 

  一星天上落   (一星天上より落ち)

  五馬踏江南   (五馬は江南を踏む)

  徳振風行草   (徳風振い草をわき)

  心虚月印潭   (心虚の月潭に映る)

  訟余来鳥雀   (訟余に鳥雀来たり)

  琴了続清談   (琴了には清談つぐ)

  照夜光無尽   (照夜の光り尽きず)

  寒輝物外罩   (寒輝は物外に罩む)

 

<無用集>にはこのように仏界を離れて自然に没入した詩が多かった。老師が偈に先達の「封塔して諸銘を求むるなかれ」と示したのは、これは(あきらか)に陶淵明の世界に相通じている世界であった。父方の祖父と親友でありながら、祖父とは別な歩みかたをした老師は、無量寺で現世の虚しさを見極めた人でもあったのだろう。

 老師の墓は遺言により父の墓と並んで建っていた。私が十九年にここを訪ねたのは春だった。虚白堂清眼は、老師は無用者に徹した生涯であった、と語った。私は、父は老師のようにはなれなかったのか、ときいてみた。清眼はそれには答えず、私をうながして墓所から離れた。

 釈王寺から戻ってきた虚白堂清眼は以前とかわっていなかった。禅文、これをやれ、あそこへ行ってこい、といった口調も常と同じだった。私はそんな清眼に安堵していた。

 

 滑り場の氷が厚くなってくるにつれ寒さもきびしくなってきたが、私は村の子達のように手袋をあたえられなかった。この手袋のことで母が父に文句を言っていたが、父は相手にしていなかった。私に手袋を禁じたのは父でも老師でもなく、虚白堂清眼だった。しかし母は靴下のことまでは知っていなかった。私は清眼から靴下も禁じられていたのである。僧堂ではみんなが素足だった。しかし僧堂と村の往還に素足はつらかった。私は家を出るとき穿いた靴下を、本院の東の山門のところで脱ぎ、万年開いたままの扉のうしろに隠しておき、僧堂から村におりるときに穿くことにしていた。

 ところが、ある日の午後、僧堂からおりて山門の扉のうしろをみたら靴下が消えていた。靴下はいつも(かんぬき)と扉のあいだにはさんでおいた。ちかくをさがしてみたが靴下は見あたらなかった。私は、たぶん(かささぎ)(くわ)えていったのだろうと考えた。

 母には、靴下を渓流に落してしまったと言った。おまえは馬鹿な子ですね、こんな寒い日に渓流に入る子がいますか、と言われたが、僧堂で靴下を禁じられているとは答えられなかった。

 そして二日後に山にのぼったとき、こんどは扉のうしろに隠さず、土塀の屋根瓦の下に丸めていれておいた。低い土塀で、背のびしたら瓦の下まで手が届いた。

 あくる日の午後、私は土塀に靴下をたしかめに行った。靴下はちゃんとあり、これなら鵲が銜えてはいかれない、と私は安心して僧堂に戻った。

 ところが山をおりる日にこの靴下も消えていた。私は山門の内側で本院の建物の甍を見あげた。鵲は捌相殿の相輪の頂に一羽、七星堂の屋根に一羽とまっていた。風が吹いているのに鵲は静止していた。私は、あいつらじゃないな、と思った。同時に、清眼だ! という考えがひらめき、私は僧堂にむかって走りだしていた。

 虚白堂清眼は老師の部屋にいた。老師と清眼とのあいだに擂鉢(すりばち)がおいてあった。そばの丼には米粉を蒸した餅の塊が盛ってあり、清眼は胡麻を擂っては餅を小さく手でちぎって擂鉢に投げこんでまぶし、ひとつを老師の前の皿に、ひとつを自分のくちにいれ、禅問答をやっていた。

「清眼、俺の靴下をどこへやった!」

 私は村の子供達と遊ぶときの口調の言葉で虚白堂清眼を問いつめた。

「おや、そばに影がよぎっていったと思ったら、おまえか。おまえの靴下? 私はおまえが靴下を穿いているのを見たことがないが。師は禅文が靴下を穿いているのを見たことがございますか」

「ないね。清眼、もうすこし塩をいれろ」

 二人とも私の方は見ず、擂鉢を見ていた。虚白堂清眼は小皿から胡麻と塩をつまんで擂鉢にいれ、擂粉木で擂り、さっきと同じように餅を二つ投げこんで胡麻をまぶし、ひとつを老師の前の皿におき、ひとつを自分のくちにいれた。

「清眼、ひとつまぶしてやれ」

 と老師が言った。

 すると虚白堂清眼は餅をかなり大きくちぎり擂鉢にいれて胡麻をまぶし、老師の皿にのせると私の前においた。しかし二人ともいちども私の方を見なかった。私は餅をつかむと老師の部屋から走りでた。うしろから二人のわらい声が追ってきた。

 二日後、私は僧堂にのぼるのに素足で家を出た。母はそこにいない父を責めていたが、私は逃げるように家をでた。老師と虚白堂清眼はすでに私の(うち)にぬきがたい影響をあたえていた。

 だが石槽も筧も渓流も凍ってしまう暁がつづきはじめると、やはり素足は堪えられないつらさになった。しかしそれはどこまでも皮膚感覚の問題にすぎなかった。老師も清眼も私の方をみていないようでちゃんとみていた。私は二人の視線にいつも温かさを感じていた。私の中に二人は大きな影をおとしていた。

 ある暁に目ざめたら、音がしなかった。雪だった。顔を洗いに出てみたら、暗い空から大きな雪が舞いおりてきており、雲水達は雪掻(ゆきかき)をしていた。顔を洗って楼に行ってみたら、僧堂の前庭でも雲水達が雪掻をしており、数人の雲水が柏槇の枝から雪をふるいおとしていた。空をみあげると暗いのに、地上は雪であかるかった。この明暗はなんだろう、と、私が暗い空をみあげていたとき、わたしの子や仏の子や、とうしろから声がして老師がそばにきた。

「なにが見えるかの」

「雪」

「空は暗いか」

「暗い」

「地上はあかるいか」

「あかるい」

「では、暗さとあかるさの境目が見えるか」

「そんなものは見えません」

「見えない。それはおかしい」

「師には見えるんですか?」

「見える。あそこだ」

 老師は指で空の一角をさししめした。

「どこ?」

「あそこだ。よく目をあけて見ておけ」

 老師はこう言いのこして楼から戻って行った。

 私は老師のさししめした空の一角を視つめたが、白いものだけが限りなく降っており、明暗の境目は分明でなかった。

 雪掻で朝の坐禅礼仏はないのだろうか、と私は考え、老師の部屋に行ってみた。老師は虚白堂清眼と向きあってすわっており、二人のあいだに紙と硯がおいてあった。二人はだまって向きあっていたが、やがて虚白堂清眼が墨をすりはじめた。墨をすり終ると、筆にたっぷり墨をふくませ、紙につぎのように書いた。

 

  師恒説苦空無常    (師は恒に苦と空と無常を説きながら)

  亦為生死所使而不坐化 (生死に使すべくは打坐なさらないが)

 

 するとこんどは老師が筆をとりあげ、つぎのように書いた。

 

  坐不必是坐   (坐は坐に限らないよ)

  臥不必是臥   (臥は臥に限らないさ)

 

 この雪の暁の筆による禅間答の記憶は鮮明で、私は十九年に無量寺を訪ねたとき、虚白堂清眼からそのときの筆録を見せてもらったが、虚白堂清眼の字は楷書で老師の字は天馬空を行くような草書体だった。

 

 父の亡骸がかえってきたのは、風も凍るかと思われるほど冷たく晴れわたった日の昼すぎだった。私が滑り板を抱えて門を出たとき、向うから虚白堂清眼が(ひつぎ)を担った四人の雲水を従えてこちらにやってきた。雲水の肩にのっているのが柩だとわかるまでにはちょっと間があった。柩には曼荼羅がかけてあった。

「禅文」

 と虚白堂清眼がよんだ。彼は私の前にきてたちどまった。

「禅文、ようくきけ。父上が世を去られた」

 このとき柩の後方でなき声があがった。寺男だった。

 私は滑り板を足下に投げると家に走りかえり、母をよんだ。私が母上、母上と大声でよんだら母は障子をあけて縁に出てきたが、柩を一目みるなり、どうしたのですか、と清眼にきいた。

「薬師殿さまが御自害なされました」

 清眼は深く頭を垂れた。

「それはまことのことですか」

 母は縁にすわりこんだ。鐘台と麗安と淑河が出てきた。

 柩は書斎に安置され、清眼が母に事情を説明した。いつも父が薬師殿で朝の勤行(ごんぎょう)を終える頃、寺男の仕度する朝食が出来あがり_居堂に膳が据えられるが、今朝は朝食の支度が出来あがっても起きてこないので、寺男が寝室に伺いに行ったら、返事がなかった。そこで寺男が戸をあけた。寺男は数度薬師殿さまと呼んだ。やはり返事がないので寺男は室内に入った。そして父の寝顔を伺ったら蒼い色をしているので手をふれてみたら冷たくなっていた。くちから血が出ていたのに気づいたのはその後だった。町から医者と警官がよばれ、ついさっき検視が終ったので、仏法により躯を浄め、山をおりてきた。

 父の自裁が青酸カリによったことを私が知ったのはずうっと後年になってからだった。このときにはただ自裁だけを知らされていたのである。

 曼荼羅がのけられ柩の蓋が開かれた。

「禅文、父上のお顔をようく見ておけ」

 と清眼が言った。

 土色になった父の死顔は明確だった。夏のある日、本院の石塔の前で父にあったとき、父が、ああ、おまえか、庫裡で菓子でももらったら老師のもとに帰りなさい、とひどくだるそうに言いのこして仏教叢林の方に歩き去ったことが思いかえされた。

 母は死顔をみてからつぎの間に行き()いていた。鐘台と麗安と淑河は台所で欷いていた。私は不思議に涙が出なかった。私はこのとき、本院の東の山門から僧堂にいたる道を視ていた。片側に瓦と土を交互につみかさねた低い土塀が続いている道には、いつも無限のさびしさが充ちていた。私はそこを通るたびに、ここに充ちているさびしさがなんであるかを考えた。

 今日はここで通夜をし、明日の朝柩を無量寺に運び、午後から寺葬をおこなう、と虚白堂清眼が母に言った。

 私は表に出た。門を出たら、すでに父の死が村に知れわたったのだろう、あかるいがしかしさびしい陽ざしのなかを、村人達が私の家にむかって詰めかけていた。私は滑り板を拾い、滑り場に行った。村に不幸があったので子供達は滑り場からひきあげていた。

 さびしい午後の陽ざしのなかで滑り場の氷が白く光っていた。私は氷の上に板をのせ、その上に乗ると、突き棒で氷を突いた。

 

 あくる朝私は家族よりさきに柩といっしょに家を出た。虚白堂清眼と私が並んで歩き、そのあとを柩がつづいた。

 寺葬は本院の大雄殿でおこなわれ、ずいぶんたくさんの人々が会葬にきていた。香煙のなかで僧侶達の読経(どきょう)がつづき、私は柩を視て看経(かんきん)をつづけた。

 やがて葬儀が終り、柩は雲水に担われ、西の無常門から出て行った。家族と会葬者は無常門まで柩を見送った。西山に無量寺の火葬場があった。柩が出てから無常門は閉じられ、家族は門の内側で欷いた。

 私はなき声をあとに、ひとり本院の境内を横切り、東門を出た。そして無限のさびしさが充ちている土塀に沿った道を歩き、僧堂にのぼった。

 僧堂では、雲水達は本院に行って一人もおらず、老師がひとり本堂で読経していた。私は老師のうしろにそっとすわった。読経がやみ、しばらく間があった。

「葬儀は終ったのか」

「はい……」

「無常門まで見送ったのか」

「はい……」

「家族は今夜は_居堂で夜をあかすはずだ。そちも行くか」

「いいえ、ここに居ります」

 老師は、わたしは(つい)にあの子が行く道をさがしてやれなかった、と言うと、再び読経をつづけた。しばらくして私は老師の背中を視ながら般若心経を読経した。

 荼毘(だび)に付された父の骨が無量寺の正門から戻ってきたのは、あくる日の朝だった。大雄殿で経があげられた。骨は、母の希望で、父が愛してやまなかった李朝の白磁の壷にいれられ、僧堂の裏の墓所に埋葬された。埋葬に立ちあったのは老師と清眼と私だけで、家族は橋の手前まで骨を見送り、村におりて行った。

 埋葬が終ったとき私ははじめて声をあげて欷いた。父上がいないよう、父上はどこへ行かれたのだ、と私はさけびながら欷いた。

「父上はそこにおられる。おまえがないているのを見ておられる。思いっきりなけ」

 清眼が言った。

 あくる日から私の僧堂生活は常に戻った。

 老師も清眼も、父の死を自然現象として受けとめていた。老師は午前の講義のとき、葬儀が終りあの子は土に還った、と言っていたし、午後から清眼について墓所に香を()きにのぼったとき、清眼は、_居先生は土に戻った、と言っていた。

 数日して鐘台が私の着がえをもって僧堂を訪ねてきた。

「母上が、家に帰ってきなさい、とおっしゃっていました」

 と鐘台は言った。父方の祖母がまだ家に滞在しているということだった。

「そのうちに帰るよ」

 と言って私は鐘台をかえした。滑り板を抱えて門を出たとき向うから来た柩にであったときの光景が、私の頭からはなれなかった。家にかえればまたそんな光景にであいそうな気がした。蒼ずんだ土色の父の死顔が私のなかにはっきり残っていた。春になり、私の一家が町に越すまで、私は無量寺にいた。

 ある日の午後、私は本院に行った。冬の陽に御堂の(いらか)は鎮まりかえっており、_居堂はひっそりしていた。私は_居堂のなかに父がいないのを知っていた。裏の渓流に行ってみたが、流れの音だけが、胸に響いてきた。渓流に沿って迂回し薬師殿の前にでたら、小僧が数人で雑巾がけをしていた。

「おい、勉学は終ったのかよ」

 と年嵩の小僧が私をみおろしてきいた。私は返事をせず裳階(もこし)をみあげていた。するとその小僧がきざはしを降りてきて私の前にたった。

「おまえはててなし子になってしまったな。倭人(わじん)だから、これまで通りに勉学ができるかな」

 小僧の嗤い顔が私の目の前にあった。私はものも言わずに小僧を突きとばした。

下種(げす)は無量寺から出て行け。ここは俺の寺だ!」

 私は小僧をにらんでさけんだ。

 小僧は私をみていたが、やがて泣声をあげながら庫裡の方に走って行った。そして他の小僧も薬師殿からおりてくると、庫裡の方に走り去った。

 私はひどい孤独に陥り、境内を横切って東の山門を出た。そして、土塀沿いの道を歩きながら、山鳩がククウ、クウクウとないているのをきいた。私はたちどまり、僧堂の森をみあげた。雑木林の枝ごしに遷化堂と開山祖堂の甍が鈍く光っていた。だが、この土塀の道に充ちている陽ざしのさびしさはなんだろう……。

 私は僧堂にかえると、本堂にあがって燭台にみあかしをたて、火舎(かじゃ)に香木を削ってくべ、五鈷鈴(ごこれい)を鳴らし、般若心経をあげた。

 あくる日から私は午後の一刻よく土塀に沿つた道に行き、そこでしばらく佇んでから戻るようになった。白い麻服の女をおもいかえす日もあった。_居堂の前にもよくでかけた。それは、父がこの世にはいないことをたしかめるための往還だった。小僧たちはもう私を見かけても話しかけてこなかったし、たまたまそばを通ったりしたら、こそこそと逃げて行った。

 十九年の春、私が虚白堂清眼からきいた話では、父は釈王寺に数日滞在したことがあり、そのとき父はつぎのような語を残していた。

 

  千山曙色赴晨鐘   (千山の曙色は晨鐘に赴き)

  浮響冷々在半松   (浮響は冷々と半松に在り)

  不復朋徒来講法   (朋徒来て法を講ずるなく)

  終朝無語対青峯   (終朝青峯に対し語るなし)

 

 秋雨宿釈王寺(秋雨釈王寺に宿す)という題がついており、私はこれを読んだとき、仏法を万法の源とみていた父がなぜ自裁しなければならなかったのか、と考えた。幼年時代に僧堂で暮した歳月をいれれば、面壁九年を超えていたはずだった。それでも行く道が見えなかったのだろうか。この七言絶句は、仏法は講ずるよりも坐禅入定すべき精神を説いていた。四十八年の五月、私は韓国の田園と寺院を訪ね歩きながら、いつしか父が自裁したときの年齢をはるかに超えてしまった自分を振りかえってみて、父の自裁を理解したと思った。父の三十四年の短い生涯は無常感によって支えられていた。私が無限のさびしさが充ちている土塀沿いの道を歩いたように、父もまた幼年時代にそこを歩いていた。

 ある日の午後、私はまた_居堂に行き、閉じられた戸を眺め、それから土塀に沿った道でしばらく佇んだ。陽の光は拡っているのに寒くはげしい日だった。このとき私は白い風が中空をわたって行くのを視た。

 そして、風のあとを、一羽の(かささぎ)が、風に揉まれるように、しかしすっきりした姿で通りすぎて行った。やがて鵲は空に吸いこまれて見えなくなったが、私は、鵲が飛び去った方をながいこと視ていた。

 

 

  第二章 少年時代

 

 私は廊下にたってぼんやり中庭の花壇と向うがわの校舎を見おろしていた。向うの校舎でも教室を掃除している生徒の姿が見えた。中庭の花壇には残暑が(おり)のように溜っており、その上を赤蜻蛉や塩辛蜻蛉が飛び()っていたが、風が吹きぬけていないせいか、重苦しい感じがした。私がたっている廊下は、西側から一年生、二年生、と教室が並んでおり、一年生の教室は六年生が掃除していたが、やがて掃除を終えた彼等が引きあげるとき、なかの一人が私のそばにきて、

「おまえ、二年生のくせになにをやったんだ」

 ときいた。私は返事をせず蜻蛉を見ていた。

「強情な奴らしいな」

 と別の者が言い、六年生は引きあげて行った。やがて私の級の者も掃除を終えて帰った。

 中庭は眺めがよくなかったので、私は教室にはいり、校庭に面した窓をあけた。九月の陽が照りつけていたが、高い空はすでに秋の気配で、六年生が野球をやっているほかは土曜日の校庭は閑散としていた。

 

——以下・起稿中——

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/10/01

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

立原 正秋

タチハラ マサアキ
たちはら まさあき 小説家 1926・1・6~1980 大韓民国慶尚北道に生まれる。1966(昭和41)年8月『白い罌粟』で直木賞。

掲載作は、1975(昭和50)年7月新潮社刊の畢生の代表作で、三章より成る。第一章「幼年時代」1973(昭和48)年11月、第二章「少年時代」1974(昭和49)年10月、第三章「建覚寺山門前」1975(昭和50)年4月、いずれも「新潮」に初出。『冬のかたみに』は、創作としても精神の自伝(に準じたもの)としても傑出した表現と結晶度をもち、この稀有の大衆的作家の底知れぬ文学・藝術への熱情の表出として、生まれずに置かなかった作者自愛の秀作といえる。遺族のご厚意により掲載のゆるされたのを感謝したい。機械的に再現の難しい文字や表記に、編輯室で苦心の対応をしておりご容赦願う。あやまりあれば直ぐ改めたい。

著者のその他の作品