公害企業摘発の決意 ~「羅針盤のない歩み」から(抄)~
目次
漁民のうったえ
こうした安全や防災の問題にとりくみながらも、一方で、私自身は前任者からひきついだ密漁漁民の取り締まりをせっせとやっていたのです。
伊勢湾では各漁業組合それぞれに専用の漁場をわりあてているのですが、四日市の漁場は、コンビナートの一日三百五十万トンにもおよぶ工場排水のタレ流しによって、ほとんどの魚が死滅したり奇形魚になってしまい、漁民はまだ魚のとれるよその漁区に侵入して魚をとってくる、つまり密漁をしていたわけです。
ある日、密漁でとらえた一人の年老いた漁民が、取り調べの私の机の前にすわってこういうのです。
「だれが好きこのんで密漁なんかことやるもんか。食うていけんからじゃ。昔は伊勢湾ちゅうのは魚の宝庫やった。ところが、コンビナートがやってきて、汚水でわしらのだいじな魚を根こそぎ殺してしもうた。漁場をあらした工場こそ犯人や。あんたらのいう水産資源を守る法律を破って魚を殺したやつは、向こうやないか。それを取り締まらんで、わしらだけつかまえるのは、あんたら企業の手先か」
私はこの漁民のうったえに、大きなショックを受けて、あらためて水産資源保護法をみなおしてみたのです。そこにははっきりと「魚に有害なものを水面に捨ててはならない」と定めており、違反した者は懲役六か月と書いてあります。調べてみると、この類似の条項が明治五年から存在するのです。ところがわが国では、この法律に違反する主犯格の全国の有害工場排水のタレ流しに、この条項が一度も適用されたことがなかったのです。この法律は完全に死んでいた。そして私たちは被害者である漁民をとらえ、次々に罰金を徴し、結果的にはわずかにのこっていた彼らの生活すらうばっていたのです。
張り込み
海をよごし破壊している真の犯人はだれか。そういう新たな目でみまわしてみると、三菱コンビナートのやみタンカー高砂丸が伊勢湾のどまんなかに毎日のように工場の廃油や有害な化学廃棄物を捨てていることがうかびあがってきたのです。
私たちはさっそく張り込みに入り、苦心して昭和四十三年十一月三日、この船が伊勢湾のまんなかに大量の廃油を投棄する現場をヘリコプターと船のはさみうちでとりおさえ検挙しました。
ところがこれによって産業廃棄物を海に捨てられなくなった工場側に、さっぱりこまったようすがない。「おかしいな」といろいろ調べてみると、取り締まりのきびしくなった四日市をのがれて、今度は隣の愛知県からローリーをよんできて、木曾川や長良川の川下にある屎尿投棄船の船積み場に運搬し、その船に屎尿と廃棄物をいっしょにつみこみ、伊勢湾の同じところに捨てているという情報が入った。
さらに調べてみると、どうやら日本合成ゴム四日市工場がそういうことをやっているというので、さっそくその工場正門のそばに車で張り込んだのです。
そして二日目の深夜零時半、ねらっていた名古屋ナンバーをつけた大型ローリーが正門から出てきたのです。さっそく深夜の名四国道での追跡に入った。しかしなかなかうまくいかない。警戒が厳重なのです。相手に気づかれないように苦労しながらやっと日光川の下流にある屎尿船船積み場に入っていく現場をつきとめたのです。そして草むらに身をかくし、その荷役が終わるのをじっと待ったのです。当時は真冬、付近が沼地で手も足もこおるように冷たくなったのをおぼえています。
こうして長時間の荷役がすんだあと、人影がいなくなったのをみすましてこの船に立ち入り、証拠を手に入れたのです。そしてこれは大きな事件に発展しました。
ところがこの関係者が、
「わしらはこれでもまだ沖合の海にもっていって捨ててるんですよ。排水口からじかに海に有害物をどんどん捨てている工場はどうなるんですか」
というのです。「なるほど……」とまた教えられて、今度は排水口のいっせい点検を始めました。
そうして翌年の八月四日、排水溝のコンクリートがボロボロにとけている現場を発見したのです。調べてみるとPH=0・8という強烈な塩酸をタレ流している。日本アエロジル四日市工場という三菱金属直系の工場なのです。そしてこれを水産資源保護法、港則法で摘発することを決意したのです。塩酸のタレ流しは「水産資源に有害なものを投棄してはならない」という水産資源保護法に違反し、また港の中の船舶の航行の安全を守るための港則法に違反すると考えたのです。これは公害企業を刑事事件として摘発するわが国でもはじめてのケースでした。
海をみる目のちがい
最初にこの塩酸摘発のため日本アエロジル工場に入っていったときは、本邦はじめてのこととあってさすがに緊張しました。
ところが応接にでてきた工場幹部が、はじめは聞かれたことに何でも素直に答えるのです。ところが供述調書をだしてそれを記録しようとすると、びっくりぎょうてんして、
「ここは天下の三菱ですよ。あなたがたは何かかんちがいしているんじゃないですか。いままで行政というものはわれわれといっしょに応接室でコーヒーを飲みながら仲よく会社の将来を心配してくれたものだ。それが行政というものだ。しかるにわれわれを犯罪者あつかいするとは何事ですか」
といって怒るのです。話がまったくかみあわないのです。そしていっしょに排水口に行くと、今度はしんみりした顔をして、
「あなたがたは海の人だから化学を知らないのでしょう。私は化学の専門家だから教えてあげるけど、うちが流しているのは酸です。しかしそれを捨てているこの海はアルカリです。酸とアルカリがであうと、中和するんですよ。そんなことを知らないでこんなことをやっていると、大恥をかきますよ。参考書を貸してあげるから早く読んで、気がついたらおやめなさい。いまやめたら私はだれにもいわない。今日のことはなかったことにしてあげますよ」
といって、むしろ私たちのことを心配してくれているのです。そして次に重要なことをいったのです。
「あなたがたはどうしてそんなにムキになっているのですか。うちの流している排水は一日五百トンだけど、伊勢湾はあんなに広いじゃないですか。私にはあなたがたのムキになっている気持ちがわかりませんよ」
いろいろ話してみると彼は一人の人間としては人柄も善良なインテリなのです。しかし彼の目にうつるこの伊勢湾の海は、広々としたごみ捨て場にすぎない。
一方、私たちがみるこの四日市の海は、年間七万隻ものタンカーが入ってくる海です。そのタンカーはいずれも船底からつきだしているパイプから海水を一秒の休みもなくくみあげてエンジンを冷却している。だからこのパイプから、捨てられた酸が吸入されると、エンジンの冷却水系統の部品がとけて故障してしまうのです。とくに巨大タンカーのエンジンが入港中に故障して、巨大な力で岸壁や桟橋に衝突する、そして外板が破損し積み荷の原油が大量に港内に流れ、そのガスがたちこめ、大爆発が起きる、そうなったら四日市港は大火災になります。昭和四十年の室蘭港のタンカー、ヘイムバード号の爆発もその一つです。
そういうとき、私は、そのガスのたちこめる最前線で指揮をとらなければならない。爆発したら粉々です。そう考えると、四日市港の安全を守るためには、港に酸を捨てるということはきわめて危険なことなのです。そして港は実に貴重な水面なのです。
このように、企業と私たちの間には、同じ海をみているのに決定的な違いがあります。その意識のゆがみを変えなければ、決して公害問題の解決にはならないことを痛感したのです。
硫酸の海ととまどい
この事件の捜査を始めて二か月くらいたったころでした。夜、私の家に匿名の電話がかかってきて、
「あなたがたは一日五百トンの塩酸を取り締まっていますが、その裏に、毎日二十万トンというけたちがいの硫酸をタレ流している石原産業があります」
というのです。
さっそく巡視船で石原産業の排水口の近くに行ってみると、そのコンクリートはボロボロにとけ、まっ赤な色をした硫酸水がどうどうと水しぶきをあげて港にそそいでいるのです。付近はドロッとした赤茶色で、えのぐをとかしたようなすさまじい色をしている。これがあらゆるものをとかしてしまう硫酸の海だと思うとゾッとしました。
さっそく四日市の検察庁に行き、報告をし、この石原産業を摘発したいと申し出たところ、検事が、親身になって、
「君たちは二か月前に塩酸工場を摘発して全国に報道された。それなのに裏のこんな大企業が証拠文書を漫然とのこしているわけはないだろう。工場長が故意にタレ流しを指示したという裏付けも、また捨てられた硫酸の量もきちんとわりださねばならない。証拠がなかったら大変だぞ。それだけの自信があるのか」
とアドバイスしてくれるのです。
しかも考えてみると石原産業の社長、石原宏一郎氏は二・二六事件の黒幕で日本の右翼の総帥といわれ、終戦時、戦争裁判の戦犯にも指定され、また政商ナンバーワンとして吉田茂元首相の親友でもあったといいます。そして四日市では「石原天皇」といわれる大物です。しかも工場は二十万坪、従業員三千人の大工場です。だんだん私も弱気になっていきました。
「とても無理だ。石原の摘発なんてやめよう。もうこの電話のことは忘れよう」
と思ったのです。アエロジルの捜査でさえこんなに苦労し難航しているのに、石原産業は日本の無機化学のトップメーカーで、その規模もけたちがいです。しかも工場の全景をみても堂々たるその偉容は、四日市コンビナートの草分けというだけあって他を圧しています。その姿をみて、もうこの事件は忘れようと思いました。
ところが海上保安部の窓を開けると目の前が石原産業なのです。その煙突がズラリとたちならんで、モクモクと煤煙をふきだしている。毎日忘れようとしても、どうしても忘れられない。
当時はまだ日本の司法の手帳のなかに、公害発生の大企業が犯罪者だなどと、書いていなかった。自宅から毎日塩酸の捜査で行き帰りしているときも、私の官舎のすぐそばに四日市随一の料亭があって、そこで毎晩のように大宴会が行なわれているのです。ときには企業と行政がいっしょになって宴会をしているのが、みなれた車の番号からもわかるのです。その横を私たちは捜査書類をかかえ、疲れきって重い足をひきずりながら通ったものです。私たちはコンビナート企業と行政にかこまれ、まるでドンキホーテが竹やりで風車に向かっているような感じで実に孤立感が強かったのです。
しかし日を経るにしたがって、私の心のなかに、少しずつ何か、抵抗がわいてきた。
私たちが次々につかまえて罰金を科した漁民は、本来私たちの海の仲間です。あの大海原のなかで、水平線のかなたに一隻の船がみえる、双眼鏡でみると日本の漁船です。そして近づくと、皆デッキヘ上がって歓呼の声をあげるのです。怒濤のなかでお互いに生きぬいてきた健闘をたたえあうのです。こういう海の男の連帯感がいかに強いか、陸の人にはわからない。そういう海の仲間を、被害者でありながら私はつかまえてきた。そして実は加害者である工場排水を放置したのです。この借りというのは、かならず返さなければいけないという思いが、静かに心のなかにわいてきたのです。
さらにこの摘発の決意を決定的にしたものは、かつて怒濤のなかでぎりぎりの危険な状況に立たされたときの体験でした。
「鮮烈に生きたい」
昭和四十年のある日、巡視船「ふじ」の船長をしていたときのことです。三陸沖で、猛烈な暴風雨にまきこまれた。船体は山のような大波のなかにつっこんで、まるで潜水艦のように水中に入って浮上しない。エンジンルームから伝声管を通して、
「煙突から海水が入ってくる」
という悲壮な叫び声です。船体は大角度に傾斜し、防水扉から海水が奔流となって
そうするうちに船が、かたむいたまま動かなくなってしまったのです。船体が、キーンというぶきみな振動音をたてる。そういうときがあぶないのです。
「もうだめだな」
と思う瞬間、操舵室のなかの乗組員は皆、船長の顔をみる。そのとき船長の表情に少しでも動揺や不安の色がみえると、船内は大混乱におちいってしまうのです。人間、死の危険に直面すると、人情として自分だけでも助かりたいということになってしまう。だから船長はあくまでもおちついて、自信にみちた顔をしていなければならない。ところが船長には乗組員以上にその危険性がはっきりとわかるのです。私はこのとき、
「もう沈没だ。あの世に行くんだな」
と直感した一瞬がありました。おそらく生死の境をこえるときはこんな状態でしょう。瞬間的にフーッと頭のなかが空白になって、自分の幼いころからの人生の一コマ一コマが走馬灯のようにあざやかにうかんできたのです。そのとき、胸をつきあげるように、
「いままでは何と中途半端な人生だったことか。体をはって自分をかけたことが一度もなかった。こんな人生のままでは絶対に死にたくない」
という生への未練が猛然とわきおこったのです。ハッと我にかえると、船がグーッと海面に浮上しているではありませんか。奇跡的に助かったのです。ことばにいいつくせない喜びが全身をつつみました。
数時間後、母港に帰港すると、みなれたはずの港の景色が目にしみるようにとびこんできます。のんびり魚を釣っている人、のろのろ動いているバス、岸壁を歩いている人など、すべてが新鮮です。あの世に行ったはずの身がふたたび帰ってきてこの景色をみられた、生きかえったのだという感動です。そのとき、心深く、
「これからの人生はおまけなんだ。一日一日を大切にかみしめ、味わいながら生きていこう。そしてこんど人生を終わるとき、二度とあの思いをしないよう、鮮烈に生きたい」
という思いが心深く根づいたのです。その思いが、その後、私の人生に決定的な影響をあたえたのです。
部下の決意
こういう思いがあざやかな回想となって心によみがえってきたとき、私はみちがえるようにすっきりした心境になれた。
「そうだ、この瞬間だ。あの沈没の危機で味わった後悔を二度と味わいたくない。結果は問題じゃない。一歩ふみだそう」
と決意したのです。
そこへ部下の一人がやってきて、こういうのです。
「課長、石原をやりましょう」
そこで、
「おまえたちも大変な苦労をするぞ」
というと、
「いままで船乗りだった私らが、公害捜査のおかげで本当にいろいろと社会のことを勉強させてもらいました。もう昔の私らじゃない。この事件と心中しても本望です」
というのです。平凡な一人の海上保安官がこんなにも成長したのだと思うと、私は胸がいっぱいになりました。こうして私の気持ちはしっかりとかたまったのです。
そして町にはそろそろ師走の雰囲気がながれる十二月十七日、おそろしくこがらしの寒い日でした。裁判所から押収捜索令状をもらい、十三人の部下とともに工場正門に立ったのです。工場の巨大な姿を目の前にして、私たちの心にはふしぎなほど緊張感がありませんでした。それは、ここにくるまで、何度も弱気になって自分に負けそうになりながら、心のなかでわずかにそれをのりこえることができた、そしてようやくこの正門にたどりついたという満足感があったような気がします。これから新しい第一歩が始まるのだという気持ちでした。
難航する捜査
その日からたてつづけに石原産業の工場を三回、大阪本社を二回、東京支社を一回捜索し、約一千点にものぼる膨大な文書を押収したのです。
ところが一方、生産工程と硫酸排出量のおりだしのほうは予想以上に難航しました。工場の建屋のなかは格納庫のように大きく、何十本というパイプが走っている。モーターが巨大なうなりをあげ、複雑な生産設備がぎっしりとならんでいる。そのなかを毎日はいずりまわって調べても、何一つわからないのです。私たちはへとへとに疲れてしまいました。毎日何の収穫もなく帰ってくると、皆お茶を飲む元気もなくなったものです。
こうして何の見通しもないまま苦しい捜査の日々がつづき、半年がすぎてしまったのです。検察庁からは矢の催促です。私たちはすっかり頭をかかえてしまいました。絶望状態になってしまったのです。
ところが、このころからようやく信じられないような奇跡が起きたのです。工場の従業員が通りすがりに、そっとヒントを教えてくれるようになったのです。たとえば、
「硫安工場に原料として廃酸をもちこんでいるから、あちらに行くとその量がはっきりわかるはずだよ」
というような内容で、それが重要なカギになり、一年後には『生産工程と排出硫酸量の全貌』という報告書ができあがったのです。工場側がみてすっかりおどろいたくらいでした。
どうしてこんなことが起きたのか、考えてみました。おそらく、私たちが半年間、泥だらけになって建屋のなかをはいずりまわっている姿を毎日みながら、彼らの心のなかに、
「この連中、何か本気だなあ。この必死になっているのは何だろう。ひょっとしたら、うちの工場のタレ流しは問題があるんじゃないだろうか」
という疑問がふくれあがってきたのではないでしょうか。とすれば、立場をこえて人の心を動かすものは、やはり無心の行動ではないだろうか。
展望のない私たちの生産工程とのたたかいの日々が、いつのまにかこういう交流を生んだのです。いいかえれば反公害とは、人間の対決であると同時に、人間の交流だと思うのです。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/12/15
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