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高原を行く(抄)

目次

  狂児と女性(一、血で描いた出発の図)

私は腐蝕した鉄の歯車

がりがり人生を噛み

青赤の錆水の中に苦悩して

乱髪を掻き毟りながら居るのだ

私は吃音の怪獣

虚無の泥濘の中に

痩せて骨張つた裸身をころがし

赤肌にガラスの破片を一ぱいたててゐるのだ

私は人間の呪詛によつて生れたもの

人間を呪ひ社会を呪ひ

「温良」な神と戦ひつつあるのだ

父は酒毒に腐敗した紫色の血を 泥のやうに

ヒーズの影に(ふる)へてゐる処女の母の柔肌へ吐きかけた

その暴虐と悔恨によつて生れたのが私だ

敗残の黒旗がなびいてゐる

工場裏の溝の中に生ひ立つたぼうふら

父と母とは其処へぼろに包んだまま捨てて去つた

空には赤い柿の実が淫蕩な鴉に肌を任せ

地には憂鬱な虫螻(むしけら)が交尾の臭を吐いてゐる

生温い疾風は世紀の悪臭高い工場を包んでゐる

狂児

私はやがて地上の植物性臭をたよりに

人生の途上によろめく日が来た

三層楼の沈華な飾窓にはロダンの豊麗な女性が覗いてゐた

板橋の暗い上にはゴッホの病質な美人が凄艶に佇んでゐた

雲雀鳴くあの緑の郊外に行けばミレーの優しい婦人が口を開けて眠つてゐた

私はよろめいて行き過ぎた

ああ そこの地下室の暗い扉の中には

女の陶酔にみちた泣声がもれてくるのではないか

失神した男が女の花恥しい頬を食べてゐるではないか

狂児!

日は土に上り土に落ちて行く

ああ 夜が来たよ

それは黒い苦悩の幕が下りたのだ

眠つてゐると

過去の国の追憶もさんげ(ママ)も拓けてくるのだ

しかし人間は歩まねばならない

夜の巣の中をさまよふのだ

全身は血まみれ あえぎながら。

  道徳家

私が五十日もそこらへ顔を見せないと

死んだと思ふさうである

それはまだ私の人間を知らない友の間ではあるが

もろこしでも焼いて東京の話をしやべつてゐる連中には

私といふ棒切のやうな人間がたまらなく不愉快(ママ)らしい

私は平気でころがつてゐる

私は才子の間に口をきくことが出来ない性分で

おまけにあの鳥のやうな声の出る話といふものが嫌だ

だから私は秋になるともう濁つた頭をよろこんで

一人きりに家にころがつてゐる

私はよく妙な人間に思はれることがある

私は平凡な道徳家(ママ)志してゐるのであつて

色色な動物園に散歩する年頃でもない。

  鈍な娘

哀しい程正直で鈍な娘が好きになつた

ひそかに私を愛してゐたのであつたが

私が木のやうなので外の男を愛するやうになつた

この頃 私はその娘が好きになつて

その娘と話す時間をたのしんでゐる

あの頃は私も若気のいたりでいかもの喰ひで

木のてつぺんで柿を落してゐる娘が好きになつたりして

どこか異質のある女がほしかつた

夏の晩方 ねずみさしの木の蚊やりのかげで

書きものに疲れて立つてゐる私のそばで

胡瓜の皮をむきながら——その手は手甲布あてた跡が白く目立つた――

赤くちぢこまりながら笑顔の花を咲かしたのだが

秋になると 腹が空いてそれでも何もせず

家の中にごろごろしてゐる私に

はづかしい焼米の袋を帯の間から出してくれたのだが

その頃は 月夜になつた野良帰りを

鈴虫のやうに唄つて行く娘の心を知りながら

私は一度も家から滑り出なかつた

いつも私が窓から月を眺めるのは

おまへが寝巻になつて講談雑誌を読む頃だつたらう

平凡で正直な日本娘

私は おまへと結婚する男が羨しくなつた

男も善良で正直なお店者である。

  岡谷景物

お伽噺のないステーションの薄暮

繭の国にころがる繭の話

黒い煤煙 黒い音響

文明の濤が染める工場の窓窓

五月の日 病み呆けて国へ帰る女工があつた

女工さん

辛抱をしよ

今に 蠟燭のやうに青ざめて

おまへのいのちが燃えてしまふのだから

女工さん

金がほしければ死ぬまでおつとめ

いのちがほしければ郷里へおかへり

人間の生命といふものは

あの林檎のやうなもので早く喰べないと腐つてしまふ

けれど おまへさん

郷里へ帰つたがさいご親も兄弟も飢ゑ死ぬんだつて

初夏が来て

静かな青山が諏訪の国を眠らせ

湖の銀鱗も 煤煙で棚引き

赤いおてんとうさまがくるひまはる 落日

落日を見て 病み呆けて国へ帰る女工があつた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/07/21

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竹村 浩

タケムラ ヒロシ
たけむら ひろし 詩人。1901(明治34)年~1925(大正14)年。長野県下伊那郡(現・飯田市)生まれ。貧農の家に育ち小学校卒業後、職を転々としながら1920(大正9)年から「信濃時事新聞」の応募小説で3年連続1位に入選。1924(大正13)年、「抒情詩」の同人となり伊那詩話会を創立、「日本詩人」にも投稿を続けた。ダダイズムの影響を受け、アナーキズム運動にも一時参加し、1925(大正14)年には『高原を行く』と『狂へる太陽』の2冊の詩集を刊行した。上京後、上尾久(荒川区)の泥沼で変死。24歳であった。死後、1926(昭和元)年に長野県で遺稿集出版会が結成され、『竹村浩全集』が刊行された。

掲載作は『高原を行く』から抄録したが、ダダイズムの詩風の中にも、社会的弱者へのあたたかな視線が感じ取られる。底本は日本現代詩大系(河出書房)第10巻によった。なお、文中に差別的な表現も見受けられるが、歴史的作品なので、原文のままとした。

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