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言葉の華  ――耳に残るセリフ――

 つらね

 

 「太初(はじめ)(ことば)あり」

 新約聖書ヨハネ伝はこの一節から始まる。

さらには「これに命あり、この命はひとの光なりき」とも。

 その言葉が、日本では最近はとみに乱れてきたといわれる。もちろん人間が置かれた環境によって言葉が変化するのはいたし方のないことで、これまでだって時に応じて、突然生まれ、簡単に使い捨てにされていった言葉は沢山ある。だからといって、それまで常用していた言葉の数々が不用品として大量処分されてしまうことはなかった。多くは普遍性を持つものとして存続し、人間形成に深く関わってきたのである。

 言葉に命があり、それが人の光となるならば、言葉の退化、廃棄は、人間性の腐敗を加速する大きな要因となるに違いない。

 言葉は人類史上最大、最高の発明である。人間に生まれた以上、言葉をより豊なものにしていくことは使命であると同時に、人間だけがもつ権利であり娯楽でもある。

 言葉には人間の英知が篭められている。わけても芝居のセリフには機知と色鮮やかな華やぎがある。

 さて、ここもとお目に供するは、日本の風土が産み出した芸能の一つ、歌舞伎の舞台の名セリフ。それをいささか料理して、おめず臆せずご披露しようとの魂胆。

 日本語の達人たちが編み出した軽妙洒脱、華麗典雅、重厚深遠な言の葉の数々を、しばし目の端心の隅に甦らせていただければ望外の喜び、とホホ敬って申す。

 

 

1「それ世は末世に及ぶといえども日月(じつげつ)未だ地に落ちたまわず」

 

  勧進帳 ――武蔵坊弁慶――

 

 都会の空は短冊型をしている。

 道路の両側に建つビルに区切られ、経済が高度成長を遂げるのと歩を合わせて、悲しや空は、道幅に順じた形でしか存在することができなくなった。

 それでも一つしかない空だから、たまには見上げてみるのだが、たいてい夜空はどんより濁っていて、星は数えるほどしか見えず、無数を意味する「星の数ほど」という形容は、もう使えないのではないかと、憂鬱な気持ちになるくらい。

 月にしても春だけでなく、ほとんど四季を通じておぼろ月だ。昼間の太陽だって、オレンジ色のまばゆい光が、その輪郭がぼけるほど360度ぐるりと放出している様を目にすることは、まあ少ない。大体、空が空色をしていることは稀で、今や土着の都会ッ子といった感じでスモッグが居座っているから、いつだって淀んだ色をしていて、まるで疲れて、たるんで、皺だらけになった老人の肌をみるようだ。

 夕方、淀んだ空に沈んでいく太陽の貧弱なこと。安物の口紅みたいな色をして、とても本物とは思えないくらい妙にきちんとしたまん丸で、ああ、こういうお日様どこかで見たことがあると思ったら、通信販売の新聞広告に出ている掛け軸に描かれた初日の出の絵だった。

 西の空の一角で、夕日は居丈高に聳える高層ビルに押し潰され、林立するアンテナ、電線、避雷針に串刺しにされながら息も絶え絶えに沈んで行く。それはさながら太陽の断末魔を見るようで、恐ろしくもまた哀れな景色で、もしかするとこのまま太陽は沈んだきりで、明日の朝は、もう昇ってこないのではないかしら、と不吉な予感さえ抱いてしまう。でも、日も月もちゃんと地球を経巡って翌日には、よろよろしながらも、ちゃんと姿を現してくれる。ああ、まだこの世の終わりではなかったと胸なでおろすひとときだ。

 そして、そのあと、自然の産物でありながら自然のサイクルから外れてしまった人間が自然を浪費しながら生き長らえてきたことに思いを馳せる。そろそろつけが回って来る頃だと。

『それ、世は末世に及ぶといえども日月未だ地に落ちたまわず』

 弁慶が血を吐くような思いで口にするこのセリフ。ここに至るまでの過程はこうだ。

 兄、頼朝の勘気に触れた源義経は、山伏姿の武蔵坊弁慶以下数人の供を引き連れ、強力に姿を変えて陸奥を目指す。陸奥には幼少の頃世話になった豪族藤原秀衝がおり、そこを頼っての逃避行である。

 道中、いたる所に関所がある。折から一行は北陸、安宅の関にさしかかる。義経一行を捕らえるために設けた新関である。

 関守は所の豪族、富樫左衛門。そこで義経は『判官殿に似たり』と見咎められ、すでに命も危うくなりかけた時,咄嗟の機転で弁慶は強力姿の義経を大声で罵り、彼が持っていた金剛杖をひったくって、さんざんに打ち据える。

『判官殿に似たる強力めが。一期の思い出な腹立ちや、日高くば能登の国まで越そうずろうと思いをるに、わずかな(おい)ひとつ背負うて後に下がればこそ人も怪しむれ。総じてこのほどよりややもすれば判官殿よと怪しめらるるはおのれの業の拙きゆえなり。思えば憎し、憎し憎し、いでもの見せん』

 まさか家来が主人を打つことはあるまい、という世の常識を弁慶は逆手にとった。そして弁慶の思惑通りこの行動は図に当たり、関守の疑いがとけて、一行は無事に関所を通過する。実はすべてを理解した関守が見逃してくれたのだが…

 やがて一行は人目につかぬ海沿いの道に出たところでほっと一息つく。そこで義経は、弁慶の咄嗟の機転を誉めるのだ。

『いかに弁慶、さても今日の機転さらに凡慮の及ぶ所にあらず、とかくの是非を争わずしてただ下人のごとくさんざんに、我を打って助けしは、まさに天の加護、弓矢正八幡の神慮と思えば忝く思うぞよ』

 義経はやさしい。いかに命を助けるためとはいえ、主人を打ったことで弁慶がきっと自己嫌悪に陥っているに違いないと思いやっての先回り、打たれた自分の方から慰めている。

これじゃ弁慶も感激しますわな。で、『それ世は末世に及ぶといえども… 』に繋がってゆく。

 たとえ計略であっても、家来の身で主人を打擲(ちょうちゃく)するということが、いかに天地天然の定めに反した所業であるかを表現したセリフである。本来なら天地がひっくり返ったって絶対にやってはならないことなのだ。

 天罰が下るのではないかと空恐ろしく腕がしびれるようであったと弁慶は嘆き、ついには、生涯にただ一度の泣き顔を見せるに至る。 

  弁慶は一度といっていつも泣き

 江戸の人たちは度々上演される『勧進帳』に好意を寄せながらも、川柳でちょっと皮肉をいってみたりもする。

 歌舞伎で能の『安宅』を本歌とした『勧進帳』が上演されたのは天保11年(1840)3月江戸河原崎座で、弁慶には当時五世海老蔵を名乗っていた七代目市川団十郎が扮していた。以来今日に至るまで繰返し上演されている人気狂言である。

 ナレーション役に相当する長唄にもなかなかいい曲がついていて、耳で聴くだけでも面白いところから長唄単独でもよく演奏されるし、一時間以上に及ぶ上演時間の中に、役者のセリフ術を存分に堪能させる『山伏問答』あり、舞踊の素養を際立たせる『延年の舞』あり、人間の情愛を感じさせる件あり、と緩急取り混ぜていろいろな要素が詰めこまれていることが観客に支持される要因であろう。

 観客にすれば面白いから何回も見る。その度に弁慶は必ず泣く。そういう筋に出来あがっているのだから当然なのだが、

「なんだ、また泣いてやがる。弁慶は泣き虫なんだなあ」

 見ている本人がつい、ホロリとしてしまうのを隠す手立てに、川柳を利用していたのかもしれない。江戸っ子はシャイで、負け惜しみが強くて、涙もろいのだ。

 もっとも弁慶が泣くのは『勧進帳』だけではなく、義太夫狂言『御所桜堀川夜討』(ごしょざくらほりかわようち)の三段目、通称『弁慶上使』でも生涯にたった一度と断って大泣きする件がある。18年ぶりに逢った娘を自らの手で殺し、主君の身替りにするときだ。しかも、この場の弁慶ときたら、『勧進帳』の弁慶が、萎れかかった鬼薊が霜の上にひとしずく露を落とすように、ひそやかな泣き方をしたのと違って、頑是無い子どものように、手放しで大声あげてわんわん泣くのだ。豪傑弁慶、泣き方も豪快である。

 

 弁慶という人、歴史上、実際に存在したのかどうか定かではない。正史といわれる記録にはほとんど登場していないし、度々その名が見られるのは物語性の強い『義経記』くらい。それがかえって庶民の心を捉えたのであろうか、能の世界に活躍の場を与えられ、江戸時代には、庶民のヒーローにさえなった。いうなればウルトラマン。

 なにしろ強い。絶対に負けない。そして自分が苦境に陥っても決してひるむことなく、強きをくじき弱きを助ける正義の味方。弁慶!といえば強い!とこだまが返ってくるくらい弁慶と強いは同義語だった。そんな弁慶だって泣きたいこともあらアな。

「いいってことよ、存分にお泣きよ」

 江戸っ子は、やさしく泣き虫弁慶を受け入れてやる。

「そりゃあ、向うずねを打ってみねえな。痛いぜ。どんなに堪えたって堪えられたものじゃあねえ、実に涙がでるぜ」

 俗に言う弁慶の泣き所。あんなに強い弁慶だって、ここを打ちゃあ泣くさ。俺が泣いてなにが悪い? と世の中のお父さんたち、強い弁慶を引き合いに出して自分の弱さの盾に使う。 江戸の人たち、いい訳にも洒落がきいている。

  一方義経は、強い弁慶に対して常に悲劇の二文字がついて回る。『勧進帳』のなかでも、一命は兄頼朝に捧げ、体は西海の波の沈める覚悟で平家との合戦に臨んできたのに、三年たつやたたずで、信頼していた兄に追われる身の上になってしまった。なんと悲しいことであろう、と一同が嘆く件がある。

 日本人は、功をまともに評価されず不運に見まわれる英雄が好きだ。いわゆる判官贔屓(ほうがんびいき)。その起源がこの源九郎判官義経で、日本史に登場する人物のなかでも特に人気者、というよりアイドル的存在になっている。だからいろんな芝居に登場するのだが、意外にしどころは少ない。

 登場の頻度は高いし、ストーリーも彼を中心に展開して行くのだが、見物の喝采はみんな、ほかの役に行くように、たいていの芝居は出来あがっている。『勧進帳』の義経にしても一時間以上、ほとんどなにもしないで座っているだけ。実際に動き回っているのは弁慶と関守の富樫とお供の四天王や番卒どもばかりである。 

 ではそんな、なにもしない役なら誰でもできるかというと、そうはいかない。なにしろ義経一人のためにほかの登場人物すべてが命をかけているのだ。

 富樫にしても、あとで切腹する覚悟をつけた上で義経一行を見逃しているし、弁慶以下四天王の面々にいたっては、もとより一寸先の命の保証がないまま陸奥への旅を続けている。じっと座っている義経には、それらの人々の強烈なエネルギーを受け止められるだけの存在感と品格と、アイドルとしてのオーラが絶対に必要なのだ。

 アイドル義経は常にその登場を人々に待ち望まれている。なにもしないでいい、出てくるだけでいい、ほんのちょっとでも顔を出してくれさえすればいい。それで人々は納得して、今日はいい芝居を見た、という気持ちになれる。

 というわけで昔、田舎廻りの芝居では、上演中の芝居がどんな時代背景を持っていようとお構いなく、必ずそこに義経公を登場させたそうだ。そうしなければ見物が納得しないのだという。

『かかるところへ義経公しずしずと出でまして、あたりをちょっと見まわし給い、さしたる用もなかりせば一間のうちにぞ入りたもう』

 ナレーション役の義太夫がこう語ると、この文句通りに義経公が登場し、文句通りに退場して行くのだそうで、『さしたる用もなかりせば』と断っているところがなんともおかしい。

 とにかくどんな無理をしてでも登場させなければならないほど義経は古今を通じてのアイドルだった。そういう人を打ち打擲してしまったのだもの、弁慶が天罰のほども恐ろしいと嘆くのも無理はない。

 ひるがえって現代、地球温暖化が叫ばれ、人類は自然を使い捨てにしてきた罪に気付き始めてはいるが、改善の道はまだまだ遠い。  

 それでも日月は、人間にあいそを尽かすことなく、時が来ればまた昇ってきてくれる。

『日月未だ地に落ちたまわず』

 天道の大きさに、人間はまだまだ甘えてゆくのだろう。

 

 

2「よそはときめく春ながら、花の咲かざる身の上じゃなあ」

 

  御所五郎蔵(ごしょのごろぞう) ――傾城皐月――  

 

 大名家の腰元であった女が、同じ家の近習と不義をして駆け落ちした。ありそでなさそで、なさそでありそなお話が、まずは、この芝居の発端。

 手鍋下げての裏店(うらだな)住まいも若い二人には苦にならぬ。それもそのはず、不義はお家のご法度で、ことが露見した暁にはお手討ちに合うのが御定法だが、二人は一命をとり留めた。主家の若殿様方のお情けで見逃してもらえたからである。二人は追放という形で主家を出た。

 命ひとつ助かりはしたものの、いざ町屋住まいになると、武士というもの、まるで潰しがきかない。手に職がないくせにプライドだけは一人前以上あるという厄介な代物なのだ。腰元皐月の相手、近習の須崎角弥もご多分に漏れずその手の武士だった。

 取得は男前で剣の腕がたつこと。まあ一応の教育もうけているから文字も読めるし、口のきき方にも筋が通っている。そこで浪人してからついた職業が男伊達だった。

 男伊達ってなに? 広辞苑をひいてみた。

――男子としての面目を立てるために、強きをくじき弱きを助け、仁義を重んじ、そのためには身をすてても惜しまぬこと。また、そういう人。任侠。侠客――

 要するに才覚さえあれば世渡りできる商売。

皐月の夫はここに目をつけた。

 名もそれまでの、いかにも近習でございますといった須崎角弥を改めて、強そで洒落た御所五郎蔵を通り名に見事、男伊達に変身する。そしてたちまちご町内から半径4,5キロ以内の土地では、誰知らぬものもないほどの有名人になった。

 それもこれも、みな殿様、若殿様のお情けあったればこそ。五郎蔵も腰元皐月、いや今は女房となった皐月も、主家のご恩を片時も忘れたことはない。

 若殿様がお健やかにましますよう、立派にお家の跡目を継がれ、家臣にも領民にも慕われ敬われるご当主になられますよう、不愉快なことは少なく、いいことばかりが訪れますよう、と日が昇ったといっては、月が出たといっては、主家にとってはなくてはならぬ大事な跡取り、若殿様の御仕合わせばかりを念じている。

 こちらが思えば先き様も、やはり二人を忘れずに、士分を離れ身分違いの町人になっていることもお厭いあそばさず、なにかにつけて便りを下さる。

「実にありがたいことだ」と五郎蔵夫婦しきりに感激するのだが、この若殿様、なんといっても世間知らず。やっと持てた新所帯のふところ都合などまるでお構いなしで、「近くに遊びに来ているのだけれど持ち合わせがないから、ちょっとお前、立替といてくれないか」と使いを寄越す。

 大恩人の若殿様の頼みとあれば、まさか「あまったれるな」と、突き放すわけにも行かず、

取るものも取りあえず現場へ駆けつけて、話をつける。それも一度や二度でなく番度(ばんたび)。しかも、しかも、一回の遊興費がまたべらぼうなのだ。

 なにしろお大名の若殿様、金銭感覚というものが、庶民とはまるっきりずれている。

 たいそうお気に入りの傾城がいて、何日も何日もこの傾城を一人占めにしている。この傾城、そんじょそこらの遊女ではなく、逢州という名高いお職。三千人もいる吉原の遊女のトップに立つ、つまりは器量、容色、稼ぎも含めてのナンバーワン。遊女とはいえ、そんなゴージャスな女性を毎日毎日お側近くに引き寄せていたのでは、揚げ代金が嵩むのも当然なのだが、それでも五郎蔵、皐月は嫌とはいえない。

 なにしろ人が一生を送るのに、なくてはならぬ基での命を助けてくれたお方、頼まれれば、助けられた命を賭けても応じなければ浮世の義理も立たないし、人間としての本分にもとる。「かしこまりました」と五郎蔵夫婦請合って金の工面に走り回る。

 初めのうちはなけなしの所帯道具、皐月が持っていたわずかばかりの櫛笄(くしこうがい)着物などを売り払って調達してみたけれど結果は焼け石に水。遊興費の内金にもならない。  

 そこへ知恵者が現れて耳寄りな情報をもたらしてくれる。

「廓は不景気知らずですから、お内儀をお売りになさい」

 早い話が遊女になれということ。

 女房皐月はまだまだ若い。おまけに浅間家家臣団のなかでも特に腰元たちの憧れの的であった須崎角弥が、数多の誘いを振りきって選んだミス浅間家の腰元皐月。美人であることはいうまでもなく、知的で優雅でコケティッシュときている。

 さすがに夫は逡巡したが、利発な女房は、自ら進んで身売りを承諾した。

 あの時死んでいるはずの命を助かって、束の間でも好きな人と所帯を持ち、「こちのひと」「女房ども」といいつ、いわれつして暮らせたのだから、思い残す事はありません。若殿様に助けていただいた命でござんすもの若殿様のお役に立てるのが筋というものでござんしょう、と女房皐月はどこまでも健気。

 とはいえ廓に売られるということは、つまり娼婦になるということ。まあ、幸いに皐月はいわゆる「上玉」だったから、大籬(おおまがき)に抱えられ、すぐに花形になったけれど、どんなに気取って見せたところで娼婦は娼婦、売るものは一つである。

『貧に迫って千人の客を取るのも合点で売った女房皐月だから…』亭主の五郎蔵もその辺はしっかり承知している。

 心の中では泣きながら、しかしそこは元武家勤め、毅然とした態度を崩さぬまま皐月は廓へ売られて行った。

 それで万事がおさまれば売られた皐月も諦めがつくだろうが、困ったことに若殿様のご遊興は一向に治まらない。従って、皐月の身代金でやっと精算できた遊興費も、またまた積もって借金はふくらむばかり。今日も今日とて逢州の揚げ代金の期限が来て、若殿様行き付けの茶屋から五郎蔵のところへ矢の催促だ。金額を聞けばなんと大枚二百両。

 庶民が普段使う貨幣は一文二文の小銭か目方で測る鐚銭(びたせん)ばかり。生涯、小判を知らずに死んで行くものさえいる中へ、二百両とは、やはり若殿様の金銭感覚は普通じゃない。五郎蔵困った。

 若殿様のお役に立ちたい。立ちたいけれどない袖は振れない。切羽詰った五郎蔵が、金の工面を頼んだ先はやっぱり女房皐月である。

 頼まれた皐月も困った。お金がないから身売りしたのに、またお金。「いいかげんにしてよ」と、並みの女なら怒鳴り散らすところだが、皐月は並みの女ではないから怒鳴りつけるどころか、自分の非力を悔やみさえする。

『よそはときめく春ながら、花の咲かざる身の上じゃなあ』

 年期を増すか、客に無心するか、二つに一つの選択しかないわけで、そのどちらも自分のプライドと体をずたずたにしなければならないことは目に見えている。

 

 ここでちょと廓の仕組みをご説明しておこう。廓といっても西東いろいろあり、時代によっても仕組みが異なるが、代表して爛熟期の吉原について簡単に。

 吉原では客にも遊女にも店にも厳しい階級が定められており、その格付けによって座敷へ通る手順からなにから、すべてが違ってくる。若殿様ほどの上客が通う場合は、まず引き手茶屋に行って芸者幇間を呼んで酒宴を催し、それからみんなで遊女屋まで送って行く。遊女が茶屋まで迎えに来ることもあり、その場合はそろって廓内を道中して行くのである。ここポイント。『御所五郎蔵』の舞台でも遊女と客が揃ってのんびりと、深夜の吉原を道中してい行く様子が見られる。(因みにさらに詳しく知りたい方は、三谷一馬著 『江戸吉原図聚』<立風書房>をお読みください)

 さて、皐月はけなげに夫のため、なんとかお金を作ろうと、考えに考えた挙句かつての夫の同僚で腰元時代の皐月を共に争った相手から借金することに心を決めた。

 相手の名前は星影土右衛門。この男も大名家の勤めを止めているが、商才があったのか、ハッタリがきいたのか、今や剣術指南の大先生でたいそう羽振りがいい。だから二百両くらいはした金と(うそぶ)いて憚らない。しかも頼みてがかねてから懸想していた皐月ならこちらから頼んでも借りてもらいたいくらい。

 だが、もちろん無条件に大金を貸してやるほど星影土右衛門、器量が大きくもないし、馬鹿でもない。で、金と引き換えに出した条件が夫へ聚の愛想尽かし。夫と別れて自分の妻になれというわけ。

 今夜に期限の迫ったお金、返さなければ夫の男が廃る。泣く泣く皐月は、折から来合せた夫五郎蔵に向かい、満座の中で心にもない愛想尽かしをいった。

 夫の五郎蔵もちろん怒った。怒った挙句に金を叩き返し、恨みがましい捨て台詞を残して立ち去ってしまう。これでは皐月がなんのために恥を忍び、心にもない愛想尽かしをいったのか分からなくなってしまうではないか。

 夫の急場を救おうと身を捨てる決心をした。意に染まぬ相手に従う決意。普通なら夫に誉められて然るべき行為なのに、逆に恨まれ蔑まれ侮られ辱められた。夫に妻の真心は通じなかった。

 春爛漫の奥座敷で、独り皐月は不気味な唸り声を上げて吹きすさぶ北風の只中にいるような気がしていたのである。どんなことがあろうとも夫にだけは理解されていたかった。その夫に見放されてしまった心細さ。夫を信じこんでいた自分の甘さ。

 大勢に囲まれて、少なくとも見てくれだけは大事に扱われている身の上が、いっそう彼女を惨めにする。

 人里離れた山奥で独り暮しをしているなら自ら選んだことでもあり、それなりの覚悟もできるだろうが、大都会の真中で、或いは大勢の家族に囲まれた団欒のひとときに、ぽつんと独りだけ置いてけぼりにされてしまったときの(むな)しさ淋しさ。

 それは他人が常に所持している習慣的な環境にはあえて踏み込まない、という自制心が招く結果でもあるのだが、そんな自制心をはねのけたい衝動にかられる瞬間だって、人間だもの、あるだろうじゃないか。

 でも、できない。理性が邪魔する皐月にはできない。すると孤独感と一緒に自己嫌悪の感情も自然に発生してきて、わが身を(さいな)むことになる。皐月はまさにこういう状態に身を置いていた。そして皐月はこのとき自害を覚悟するのである。

 夫のためとはいえ愛想尽かしをいって夫に恥をかかせてしまった。その罪の意識。そして生きていれば夫の恋敵である土右衛門に従うことになり、夫への背信の度合いがさらに深まる。もう夫の役に立ってあげることはできない。五郎蔵の妻でいる資格はない。皐月の胸は思案と屈託でいっぱいに塞がる。

 廓は不夜城、夜になっても人出が絶えず、三味線、太鼓の音が響く。まして春ともなれば自然に心浮き立つのが人並みというもの。 

 さんざめく外の気配は家の中にいても伝わってくる。そのなかで皐月は独り。夜鴉の声に不安を感じながらたった独り。

 

 

3「晦日(みそか)に月の出る里も闇があるから覚えていろ」

 

  御所五郎蔵 ――御所五郎蔵 ―― 

 

 前記の皐月に満座の中で愛想ずかしをいわれた五郎蔵は、それが二百両の大金を手に入れるための窮余の一策であったということに気づかない。たちまち腹を立てて背中に差してある尺八を引きぬき、い合わせた者どもを片っ端から叩きのめそうとする。その時いうセリフがまた洒落ている。

『さあこうなったら律も理屈も無理微塵、この尺八の節々の折れるまでたたっ斬るからそう思え』

 作者はリズミカルな七五調のセリフで名高い河竹黙阿弥。この人の作品はどれも、美しい日本語が後から後から魔法のように飛び出してくるから、耳で聞いているだけでも楽しくなる。

 (りつ)とか(りょ)とかいうのは尺八で用いる樂律のこと。

 どういうわけか男伊達はたいてい帯の背中側に尺八をさしている。

 まず五郎蔵の出で立ちは、白羽二重の地に墨絵で描かせた雲に龍の小袖、帯は舶来品の天鵞絨できめ、白鞘の一本刀、意匠を尽くした蒔絵の印籠、象牙の根付。これに柾目の桐に黒緒の下駄をはく。さらに折り目正しく短冊型にたたんだ純白の手ぬぐいを肩にかけ、右手は懐手、左手は指先を軽く刀の柄に置いて胸を張り、人出の多い町中を、肩で風切って闊歩するのである。

 今様に置きかえるなら、ベルサーチのスーツにボルサリーノの帽子、ピカピカのフェラガモの靴はいて、腕時計は燦然と輝くローレックス、といったところか。

 このとき五郎蔵が振りかざした尺八だってブランド品に決まっている。そういうところで派手を競うのが男伊達の男伊達たる所以なのである。そうしてこの尺八も皐月が身銭をきって整えたに違いない。

 その皐月は、心にもない愛想尽かしをいったあと、じっとうつむいていたが,夫が尺八を振り上げると、夫に殺されるなら本望とばかり、五郎蔵に背を向けたまま動かない。

 あわやというところへ走り込んできた一人の女。尺八振り上げた五郎蔵に体ごとぶつかっていってすがり付く、喧嘩の仲裁留女(とめおんな)。彼女こそ誰あろう、五郎蔵、皐月の悲劇の発端に位置する人物。二人の命の大恩人、若殿様が恋して止まぬ今全盛の傾城逢州そのひとであった。

 ここで遅まきながら、ちょっとこの狂言の内容についてご紹介しておく。

 本名題『曾我誘侠御所染』(そがもようたてしのごしょぞめ)通称『御所五郎蔵』河竹黙阿弥作 文久4年(1864)江戸市村座初演。現在もよく上演される人気狂言であるが、元を正せば当時評判のアニメーションの劇化。話の筋は二筋あって、大名の屋敷内で起きる事件と市井に展開する人間の絡み合い。そのどちらにも鍵を握る人物として名前の出てくるのが例の若殿様浅間巴之丞である。このひと、よくよくのお坊ちゃんで苦労知らずを絵に描いたような人物。御殿には奥方がいて愛妾がいて、それでも足りずに傾城逢州に通い詰めて、それが原因で皐月は身売りをし、五郎蔵も自分がしたわけでもない借金のいいわけに四苦八苦する羽目に陥っている。

 五郎蔵は癇癪持ちだが大根(おおね)が真面目。なにがなんでも受けたご恩や浮世の義理を返したいと願い、借金取りがお屋敷に掛け合いに行くというのを、それでは若様のお立場が悪くなると、懸命に引きとめるのだ。暢気な若殿様に苦労性の五郎蔵。相反する性質の男二人がいることで、さまざまな人間模様が繰り広げられていく。

 で、話を元に戻して、尺八振り上げた五郎蔵にすがり付いて止めたのがご主君ご寵愛の逢州となれば五郎蔵も、持って産まれた癇癪の虫をこらえるより仕方がない。

 ひとまずこの場を立ち退いて、尽きぬ恨みは後で晴らすと、ひそかに心を固めながら五郎蔵きっと振りかえり、今や皐月を我が物にできるとほくほくしている恋敵の土右衛門に向かって吐く捨て台詞が、冒頭に掲げた一言である。

『晦日に月の出る里も闇があるから覚えていろ』

「暗がりに気をつけろよ」というわけだが、それにしてもいい回しがきれいではないか。カッコよくみせるのを優先順位の一番初めにおいている男伊達なればこその決めゼリフ。さすがに五郎蔵、根が殿様側近の武士だけに、教養がある。

 しかし、ちょっと待て、不夜城にも闇があるということだが、わざわざ晦日に月が出ると断っているのは、普通は出ないということ? 満月の30日もあれば三日月の15日だってあるではないか。なぜ晦日は闇だと決め付けるのだろう? 

 長年不審に思っていたこの疑問は、私、時代小説を書くようになってから氷解した。なんのことはない旧暦なのである。現在使われている太陽暦と違い、旧暦は月齢で数える。一ト月の真ん中十五日が満月、月の初めが新月、終わりは闇夜、つまり晦日に月は出ないのだ。その辺りの事情がわかっていないと、このセリフ、すとんと胸に落ちてこない。

 しかし、最近イスラム世界の事情が報道されることが多くなって、太陰暦が、そう特殊な問題ではなくなってきた。かえって今のほうが五郎蔵のセリフも、理解されやすいかもしれない。本当は太陰暦の方が、人間の体内時計に馴染みやすいのだ。そういう意味で、地球上の大半の国が太陽暦を用いているのに、頑なに月の満ち欠けを、すべての物事の起点にしているイスラム社会は凄いと思う。

 しかも、かつて日本が使っていた太陰暦は、一応太陽の動きにも配慮して、三年に一回、閏月を設けて季節を調節しているが、イスラム暦は、太陽の動きには目もくれないから、どんどん世界の標準時とずれていってしまう。36年たつとそれは元に戻る勘定だが、その大胆な発想は神秘的でさえある。

 暦の話が出たついでに、ちょっと面白い話をひとつ。

 日本が旧暦(太陰暦)から新暦(太陽暦)に切り替わったのは明治6年、西暦1873年のこと。明治5年は12月2日で終り、一夜明けるといきなり飛んで明治6年の元旦になっていた。

 これまで馴れていた時間と、新しい時間とでは流れ方が変るらしいとあって、一般市民の間にはかなりの混乱が生じた。

 人によって、つい旧暦で物事を決めてしまう者、新しいものにすぐに飛びついてなんの違和感も感じない者とあり、そのために商売だの他人との約束事だのがテンコシャンコになることも多々あったらしい。

 当時の新聞には、嫁入りの日取りが両家の間で食い違い、大騒動になった、などという話が載っている。 

 逆にこの一件を利用して見事な手腕を発揮してみせた人物もいる。早稲田大学の創設者である大隈重信である。当時彼は太政官政府の大蔵省参事官で、ほどなく大蔵卿になった。現在の財務大臣。

 鎖国をやめて近代国家に生まれ変わろうとしたのはいいけれど、なにしろ維新から間もないことで、わが日本、改革どころかすべてが初めの一歩からの出発である。しかも実務に当たる者が素人で、ほとんど手探り状態のうえ、なにをするにも先立てねばならぬ頼りの綱の財政が逼迫している。

 そこで大隈重信考えた。

「12月の2日間をなくしてしまおう」  

 たった2日でも月が変ればそれなりの給料を公務員に支払わなければならないからだ。

 鶴の一声で官公庁の旧暦から最期の12月が抹消された。すなわち11月は2日追加されて31日までとなる。お蔭で公務員は2日間ただ働きするはめになった。

 大英断である。その潔さに、少なからず羨ましささえ感じてしまう。国家的規模でなにかをする場合、それが痛みを伴うものならばなおさらのこと、一番初めに犠牲になるのは、そのことにあたっている閣僚、官僚でなければならないはずなのだ。

 ほんとうに大隈重信の決断は素晴らしかった。それに従ったムカシの閣僚、官僚たちも偉かった。

 それはさておき、かの熱血漢御所五郎蔵。洒落た捨てゼリフ残してその場を立ち去ったものの、満座の中で恥を掻かされた恨みは募るばかり。この上は恥じをかかせた女房を殺すよりほかに手はないとまで思いつめる。

 夜更け、人通りの絶えた廓内で、五郎蔵は傾城皐月の帰りを待ち伏せ、闇夜の中で斬り捨てる。

 ところが五郎蔵は、掛行灯(かけあんどん)の薄明かりにぼんやり映し出された女の顔を見て仰天する。殺した女は女房の皐月ではなくて、主君の愛人逢州だった。

 後悔する五郎蔵は、憎い恋敵の星影土右衛門を殺害したうえで自害しようと決意する。

 と、現行の『御所五郎蔵』はここで終るが、本来はまだあとがあって、五郎蔵はひそかに住処を訪ねてきた皐月と共に自害することになっている。

 二人の間にわだかまっていた誤解も解け、心穏やかに五郎蔵は尺八を、皐月は胡弓を奏でつつ死んで行くのである。死ぬことで二人の結びつきはいっそう深まる。

 忠義だの秩序だの人情だのと、当時の社会通念を彩り豊に描いた作品ではあるが、実は作者の黙阿弥、底の深いところで恋愛を賛美し、断末魔の男女にその尊さを存分に謳わせていたのだ。

 国立劇場が出来て間もない頃、この作品が通しで上演されたことがあり、その時この場面も復活したが、その後はやはり上演されていない。

 なぜカットされるのか? その背景には、息も絶え絶えに尺八を吹くなんて表現が難しい上に見物に理解されにくいという事情が影響しているだろうが、それよりも、日本人には正面きって恋愛を賛美する習慣がないということのほうが大きな原因のような気がする。上方で出来た近松作品の『曽根崎心中』や『心中天網島』にしても、初演当時はともかく、愛するがゆえに心中を決意した男女の死の瞬間までを克明に見せるようになったのは、戦後になってからだろう。少なくとも明治以後、昭和20年までは、見物が恋愛の崇高さを納得し、ただの色恋沙汰をそこまでに昇華させた男女を賛美することなど許されなかったのである。

 昭和28年(1953)『曽根崎心中』が改作上演されて大当たりをとった。これがきっかけとなって心中場面復活に拍車がかかったと記憶している。

 さて、最期にどうしても事件の中心人物若殿様にご登場頂かなければなるまい。

 彼はどうしたか、というと、どうにもなっていない。やっぱり若殿様である。近い将来大名家の跡を継ぐことが約束されている。

 お家は万代不易(ばんだいふえき)御世万歳(みよばんぜい)。めでたしめでたし、なのだ。黙阿弥は、為政者の陰には必ず庶民の犠牲がある現実を、大上段ではなく、あっさりと洒落のめして描いたのである。 

 近年も政財界を巻き込んだ事件で似たような状況を見ることがよくある。逮捕されるのは小者ばかりで、大物は無傷で出世街道まっしぐら。

 思い当たる方は、晦日に月の出る里を歩くとき、用心してください。

 

 

4「あっちからも惚れてもろう気」

 

  摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ) ――玉手御前――

 

 人が人を恋するのになんの不思議もないけれど、それなら誰が誰を恋してもいいかというと人間社会、縦だの横だのいろいろな仕組みが複雑に絡まっていて、そう勝手気ままに行かないのが現実。いくら〇〇課長が好きだからって、その課長に妻子があったら、たとえ相思相愛であっても問題は起こる。青年が人妻に恋した場合だって同様だし、同性の恋愛も、そう簡単にはことが運ばないだろう。

 確かに障害があったほうが、情熱はさらに燃え盛り、ロマンチックな気分もより一層深まりはするだろうが、なんといっても自分たちの欲望が原因で傷つく人を目の当たりにするわけだから、その重荷を生涯背負い続けていくだけの覚悟は必要だ。

 さらにまた、血縁あるもの同士の恋愛となると、かなり成り行きは深刻になる。単に誰かを傷つけるの、倫理がどうの、罪深いだのといっている場合ではなく、人格、人道、人権にまで関わってくるゆゆしき問題だ。

 ギリシャ神話には実母と結婚したオイディプス王、弟と情を通じた王女エレクトラなど凄まじい恋の形が展開する。エレクトラの弟オレステスは別の国の王子ピュラデスともただならぬ関係だが、こんなことは異国の神々の世界でだけ起こったことかというと、なに、日本にだって似たようなケースが存在する。

古事記に登場する兄と妹の情事がそれである。 

 兄は軽太子(かるのひつぎのみこ)妹の名は軽大郎女(かるのおおいらつめ)。このお姫様、着ている物を透き通してしまうほど美しかったので衣通王(そとおしのひめみこ)とあだ名されたという。当時は同じきょうだいでも母親が違えば婚姻も可能であったが、同腹の場合は不倫とされ、罪になった。ところが軽太子は天皇継承者として既に認定されていたため罪に落とすことはできず、可哀相に妹だけ罰せられて伊予の国に流されてしまったのである。

 近親相姦が生物学的によろしくないということは人間以外の動物の社会でもちゃんと分かっていて、それなりの対策がとられているらしいから、まして万物の霊長、人間ならば当然避けて通る道筋であろう。それも時代が下るにつれて、単に科学的な意味合いだけでなく倫理面が強調されてきたのは、やはり上下関係を重んじ、男女間の距離をおく儒教思想が色濃く影響しているからにほかならない。

 そのピークが江戸時代。

 そんな時代に、玉手御前は我が子に恋をしてしまった。

 玉手はれっきとした大名、高安某の奥方。年は二十になるやならずである。そして恋の相手の我が子は、ほぼ同じ年頃の俊徳丸。つまり継子、先妻の子。

 それなら血の繋がりがないのだから問題はないじゃないかと思うのは赤の他人の無責任な見解で、例えば現代だって、現実に後妻と先妻の子の恋愛は、やはり世間に通用しない。まして倫理倫理で凝り固まっている江戸時代、玉手御前の身に雨あられのごとき石礫(つぶて)が襲ってきて当然である。

 その非難轟々(ごうごう)の中に玉手は毅然として立ち上がった。

 玉手御前にとっては命も名誉も投げ出した恋、どうあっても叶えたいという一念がある。しかし、相手の俊徳丸に、そんな一念は通じない。彼には浅香姫という可愛い許婚がいるのだ。

 それに彼は根ッからの堅物、父親の後妻に気を引かれるなど、どう転んでもできそうにない精錬潔白を絵に描いたような貴公子なのである。そこで玉手は考えた。浅香姫がいなければいいわけじゃない、と。

 殺してしまえば手っ取り早いが、玉手はそんな浅はかなことは考えない。ごく自然な形で浅香姫が去って行くように仕向けた。 俊徳丸に毒酒を盛って顔を崩し、盲目にしたのである。こんな惨めな男に世間知らずの若い娘が連れ添っていられるはずがないと見極めたのだ。

 ところが玉手の思惑に反して浅香姫は、深窓に育ったお姫様であるにもかかわらず、しっかり自分というものを持っていて、変わり果てたわが身を恥じ、跡取りの立場を捨てて放浪の旅に出た俊徳丸と共に生きる決意をする。昔から語り伝えられている説話によく見られる「貴人流離譚」の形。

 人の上に立つ人は、世間の底辺の事情を知ったほうが名君になれるという教えで、純粋培養されただけで重職についてしまう今時の判事さんや外交官およびその夫人にも、二人の爪の垢を煎じて飲ませたいくらい。

 というわけでお姫様と貴公子の二人は、様々の辛酸をなめつつ諸所方々をさまよっているうち、ふとした縁である老人に助けられる。そして、その家に導かれて世話を受けるようになった。

 この老人こそ誰あろう玉手御前の父親合邦道人。合邦はもと鎌倉武士だったが、侫臣ばらの讒言(ざんげん)にあって追放されたのをきっかけに『世を見限っての捨て坊主』になった人物である。これまた堅物、一筋縄ではいかない頑固親爺なのだ。

 そういう人だもの、娘の邪恋を許せるわけがない。たぶん今ごろは夫の手で成敗されているであろう。もし運よく生きのびているならば… もし生きていたとしたら、見つけしだい自分の手にかけて殺さなければならぬ。そうでなければ本人も親も、人の道に外れたままあの世へ逝くことになってしまう。娘の不始末は親の罪親の恥と、憐れ、頑固親爺そこまで思いつめていた。

 そんなところへ玉手御前が戻ってくる。家出した俊徳丸の後を慕い、供をも連れずただ一人、人目を忍んで夜道を歩き、やっと辿りついた我が家。しかし、義を尊ぶ父親は娘の顔を見るなり刀に手をかけた。必死で止める母親。その母親は、命を助ける代わりに尼になれという。玉手御前はせせら笑った。

「あたし俊徳様が好きなの。そんなあたしに尼になれですって? 冗談じゃないわ。今までは御殿勤めでお洒落にも制約があったけれど、お屋敷を飛び出したからはすべて自由。今町で流行しているお洒落をとりいれて、粋な格好するつもりよ。きっと俊徳様はあたしを見なおすわ」

 玉手は自信たっぷりにこういいきる。

『あっちからも惚れてもろう気』

 あまつさえ潜んでいる俊徳丸と浅香姫を見つけ出すと、浅香姫をはじき出して俊徳丸を我が物にしようと、目を血走らせ髪振り乱して荒れ狂う。この様子を見かねた父親はついに一人娘の脇腹に刃を立てた。

 苦しむ娘は、ここで意外なことを告白する。

 高安家はお家騒動の家中にあり、跡取りの俊徳丸は命の危険に曝されている。それを救うには、とりあえず当の俊徳丸を騒動の外へ逃すしか方法はない。そこで玉手は毒酒を飲ませて俊徳丸を業病にし、邪恋を仕掛けて屋敷にいられないように仕向けた、というのだ。

 それも初めに業病(ごうびょう)を癒す手段まで確認してあればこそ。その手段とは寅の年寅の月寅の日寅の刻に生まれた女の肝の臓の血潮とある秘薬を調合して飲ませるというもの。

「秘薬は手に入れてある。そして自分こそ、その調合の条件に適った血潮の持ち主」

 玉手の告白を聞いて父親はじめに居あわせた人々は驚き、唖然とする。

 ああ、玉手御前は人でなしではなかった。一命を投げ出して継子を危機から救い、自分の人柄を見こんで後妻にしてくれた大恩人でもある夫の立場も救うような貞女だった。

 人々は初めてここで玉手御前の真意を知ることになるのだ。

 人々の理解の中で玉手御前は修羅道を脱して浄土に達する道筋が出来た。彼女は菩薩のような穏やかな表情で息を引き取る。

 ここでいつも問題になるのは、玉手御前は果たして本当に俊徳丸に恋心を抱いていたのか、それともただ義理と忠節心だけで命がけの働きをしたのか、ということである。

 人によって解釈は異なるが、玉手御前を生涯の当たり役とした七代目尾上梅幸は、恋しているつもりで演じているといい、文楽の人間国宝竹本住太夫からも恋の存在を意識して語っていると聞いた。

 それが自然だろう。玉手は若いのだもの。後妻にと望まれたとき,相手が

「ご主人様ではなく、若様の方だったら文句はないのだがなア」

 くらいの気持ちはあったろう。

 若様俊徳丸は大変な常識人で、ものの道理をしっかり弁えた人。ついこの間まで、お辻という名前で亡くなった母親の召使であった女でも父の後妻になった以上は、自分にとっては母親と即座に認め、敬う態度をとる。

 お辻の玉手にしてみれば、母上、母上と立てられる度かえって

「ああ、俊徳様は私のことなど歯牙にもかけていらっしゃらない」

 身も余もないほど切なく情けなくなってしまうのだ。

 どうすれば俊徳様のお心に自分をしっかり定着させることが出来るか、それが継母になった玉手の切ない悩みだった。

 そこへ降って沸いたように起こったお家騒動。玉手は今こそ自分の潔さを見せるとき、とばかり一命を賭して俊徳丸を救った。これで俊徳丸は生ある限り、玉手御前の存在から逃れることは出来なくなった。彼の体は玉手の命によって活かされたのだから。

 では、玉手がここまで突き詰めて考え、それを実行に移したのは、俊徳丸を恋したということだけが理由なのだろうか。違う、その理由はさらに深い所にあった。

 父親はその性格ゆえに不遇だった。

 頑固で生き方の下手な父親に育てられた娘は、ずっと父親の名誉回復のチャンスをうかがっていた。だから大名家の奥方付き腰元になると、一所懸命に勤め、その人柄が見こまれて後添いになると、お家の発展の為に寝食を忘れて尽くした。自分が認められることは、育んだ親の功績が認められることでもあるからだ。

「ととさんならば、きっとこうなさるはず」

 娘の物差しは常に父親だった。命がけの継子救済も、その物差しで計って出た答えだ。  

 しかし父親は、わが娘がそこまで徹底して自分のDNAを受け継いでいるとは思わなかった。なんといっても娘は女である。古武士の典型のような父親には、女が男も及ばぬ忠誠心を持ち、単身で大胆な行動に出るとはどうしても思えなかったのである。

 玉手がどんなに説明しても、

『口利根にいい回したとて、今となっては暗い言い訳』 

 彼は最後の最後まで娘を信用しなかった。納得したのは、断末魔の娘が、ご恩になったお家を無傷で救うには、自分が悪人になること、自分の生命そのものを俊徳丸に捧げることしかない、と顛末をすっかり話し終えた時である。

『父さん、お疑いは晴れましたか』

 すがる娘に

『おいやい』

 父親は腹の底から絞り出すような声で答える。娘と父親の魂が同時に解放された瞬間である。

『あっちからも惚れてもろう気』

 玉手御前は一番惚れてもらいたかった父親に、生まれて初めて惚れられたのである。

 

 

5「お久がいないよ」

 

  人情噺文七元結 ――お兼――

 

 遠寺の鐘がゴーンと鳴る。

 冷たい冬の長い夜がまだ始まったばかりだというのに、棟割長屋はそっくり闇にくるまれて、まるで夜更けのようにシンとしている。

 冷や飯草履の土を踏む音がひたひた… 年の瀬が近い。

 長屋の木戸を男が一人うつむいて通る。この寒空に素肌の上は色のあせた尻きり半纏一枚。にゅっと出た足の色が、寒さで赤くなっている。

 家の戸をからりと開ける。出入り口の戸に錠もかけていない。

 家の中も真っ暗、鼻をつままれても分からない。誰もいないのか? 

「おい、お兼、おい、明かりくらいつけろ」

 男はこの家の主人、長兵衛。職業は左官屋である。しきりに女房の名前を呼ぶ。いつもなら帰るなり,大声で愚痴だの恨み言だのを並べ立てる女房のお兼のいる気配がない。

 長兵衛さん、少々心配になってさらに大きな声をだし、

「明かりくらい、ちゃんとつけろ」

 と怒鳴ってみる。答えがない。

「おい、お兼、いねえのかよ」

 とたんに暗闇から声がした。

「ここにいるよ」

 長兵衛さん、ちょっと安心する。安心すると早速小言だ。女房とは、顔さえ合えばすぐに喧嘩になる。いつもの伝でぽんぽんいうが、一言いえば十言戻ってくるのが定石の女房が、今日はどうしたことか元気がない。

 その女房、手探りで行灯(あんどん)の側に寄り、火打石をカチカチ鳴らして灯をともすと、いきなりこういった。

『お久がいないよ』

 お久は長兵衛さんとお兼の間に出来た一人娘である。今年十七。そのお久が昼前からどこへとも言わずに家を出たきり帰ってこないというのである。煎餅布団を腰に巻きつけ、寒さに震えていた長兵衛さんの顔色が変った。

「なんだって!」

 いい腕を持ちながら酒と博打に身を持ち崩し、女房娘の着るものから家財道具はもちろんのこと大事な仕事の道具まで質に入れてしまい、せっかく回ってきた仕事まで棒に振る体たらく。毎日毎日借金取りに追いかけられ、あちこち不義理をし尽くして、それでも長兵衛さんの道楽は止まらない。

 今日は所帯を仕舞おうか、明日は夫婦別れをしようかという世話場を毎日見せつけられているのだもの、娘のお久が居たたまれなくなるのも無理ではない。

「お前さんにあいそを尽かしてお久は出て行ってしまったんだよ」

 長屋の衆も手分けしてあちこち探してくれたけれど、かいくれ行方は知れやしない。そんな大騒動の間、

「一体お前さんはどこをほっつき歩いていたんだよ」

 お兼が怒るのはもっともだ。

 さすがの長兵衛さんも、この一件では歩が悪い。長兵衛さんにとってお久は何物にも替え難い宝物なのである。

『お久がいないよ』

 お兼の一言には万感の思いがこもっていた。

 十七といえば今も昔も危険な年齢。おとなと子どもの間を行ったり来たり、居場所が定まらずに我知らず揺れ動いているような年頃だ。ひょんなことがきっかけで、どんなひょんなことに出っ食わさないとも限らない。

「よし、俺もこれから探しに行こう」

 長兵衛さん、尻きり半纏ひとつで寒空の中へ飛び出しかけたそのときに、訪ねてきたのは吉原の大籬、角海老の若い者藤助さん。角海老も不義理を重ねている得意先ゆえ、長兵衛さんてっきりお小言かと先走ったが、なんとお久を預かっているからちょっと顔を出せという、おかみさんからの使いだった。 

 なにはともあれ角海老へと、長兵衛さん、飛び出そうとしたが待てしばし。脛を二本剥き出しにした姿でどうして得意先を訪ねて行かれるものか。

 見かねて藤助が、自分の着てきた羽織を貸しましょうと申し出る。このときの藤助のセリフがまた無類だ。

『親方、あなたお怒りなすっちゃいけませんよ。怒らないで下さいましよ』

 差し出がましいことをして申し訳ありませんと、まずのっけに自分のやり方を謝ってから羽織りの提供を申し出る。

 貧乏人とはいえ相手は手に職をつけた立派な左官の親方、藤助は人に使われる奉公人。立場の差、年齢の違いをきちんと弁え、どこまでも相手の人格を尊重し、善意の押し付けになることを怖れつつ口をきいているのである。決して恵まれて育ったとも思えぬ藤助だが、さすが大きな店に勤めているだけあって、誰とでも応分の口が利ける教養を身につけている。

 単純な長兵衛さんにも藤助の思いやりはよく分かって、四の五のいわずに素直に従い、女房が着ている着物を脱がせて身にまとい、その上から借り着の羽織りを引っ掛けて角海老に(おもむ)いた。

 吉原の角海老は今夜も大繁盛。そのご内証に案内されると、いたいたお久が。行灯の蔭に隠れるようにして身をちじめて座っている。

「どうしたんだお久、おっかさんが朝からずっと心配して探し回っていたんだぞ」

 長兵衛さん、口では叱ってみたが、無事なお久の顔を見て、とにかくほっとした。 

 長火鉢を前に座っているおかみさんが事の顛末を説明してくれる。

 昼間、店の前を何度も何度も行ったり来たりしている女の子がいる。以前、仕事中の父親にお弁当を届けに来ていたことがあって、なんとなく顔を知っていた若い者が声をかけ、おかみさんに取り次ぐ。

 若い娘がたった一人で吉原の遊女屋を訪ねてくるなんて、よくせきの訳があるに違いないと、おかみさんもすぐにご内証に招き入れて様子を訊いた。

 娘はおずおずと話し出す。

「親の恥を申しますようですが、おとっつあんが酒と博打で稼ぎを全部使ってしまい、この暮れが越せません。両親は顔さえ合わせれば、所帯を仕舞うの夫婦別れをするのと喧嘩ばかり。それをただ見ているだけでは子の役目が勤まりませんから、なんとか手助けしたいと思います。つきましては、どうぞこちらのお店で私をお買いなされてくださいませ。そのお金で諸方の借金の片をつけ、両親仲良く暮らさせとうございます」

 健気な娘の心情を聞いておかみさんは感激し、お久の願いを叶えてやることにした。

 そこで長兵衛さんを呼びにやったわけだが、早速おかみさんは、五十両という大金を用意して、長兵衛さんに渡した。

「このお金を無駄に使ったらね、神仏の罰は当たらなくとも、この子の罰が当たりますよ」

 さすが大きな店を切り盛りするおかみさん、抜群の貫禄を示して出入りの職人、左官の長兵衛を懇々と諭す。

 長兵衛さんは、有難涙にくれながら娘のお蔭の五十両を推し頂いた。

 このときおかみさんの出した条件は、借金の期限は来年三月であること。それまでは小間遣いとしておかみさんの手許に置いておくこと。しかし、もし三月までに五十両返済できなかったら、お久を店に出すこと。

 大事な大事な一人娘、それが来年三月までに借金の片をつけないと遊女にされてしまう。考えただけで、長兵衛さんは気が狂いそうになる。

 仰せの通りに致しますと、五十両懐にしっかり抱えて帰る道すがら、大川端にさしかかったところで長兵衛さんは、身投げ寸前の若い男を助けた。

 男は文七という小間物商の手代で、さるお屋敷へ掛取りに行き、五十両受け取って帰る途中その金を掏られてしまい、ご主人への申し訳に死ぬつもりだという。

 長兵衛さんは三ヶ月後に返済する約束で五十両借りた自分の例を引き合いに出して、誰かから五十両借りて三ヶ月後に返したらよかろう、と提案するのだが、若い奉公人に、そんな離れ業ができるわけがない。

 現代なら手取り20万のサラリーマンが500万の借金を3ヶ月で返すようなもの。腕のいい職人の長兵衛さんなら、本来それくらいの働きがあって然るべきなのだが。

 「人の命は金には替えられねえ」

 咄嗟の判断で長兵衛さん、天にも地にも替えがたい大事な五十両を、見ず知らずの若い男に投げつけて逃げてしまう。

 なんという不条理。当然女房は納得しない。

「どこの世界に娘の身代金を、どこの誰兵衛さんとも知れない人にただやってしまう人間がいるものかよ」

「ここにいらあ」

 家に戻った途端、夜も明けぬうちから長屋中をまきこんで、ちゃんちゃんばらばら。その真っ最中、見るからに大商人らしい立派な風体の旦那様が訪ねてきて慇懃に挨拶し、連れてきた若い男を長兵衛さんに引き合わす。

「あ、お前は夕べの身投げ!」

 聞けば掏られたと思っていた五十両、実は先方に置き忘れていて、お屋敷のお使いが、文七が帰るより先に届けてくれていたとのこと。思案に暮れた文七が、夕べあの場で死んでいたら、取り返しのつかないことになっていた。

「命の親の長兵衛様」

 文七の主人、伊勢屋の旦那様は丁重に長兵衛に礼を述べて頭を下げる。

「冗談じゃねえぜ」

 長兵衛さん、ほっと一息つくと同時に、さっきから三里四方に届きそうな大声で亭主を罵り続けている女房に向かい、

「ほら見ろ、俺はこの人に五十両くれてやったんだ」

 と胸をはり、ここを先途と怒鳴り返した。

 このときの長兵衛さんには、五十両の出所も行方も、或いは渡した相手の正体も、まるで眼中にないのである。あるのはただ、自分の名誉回復だけ。

 五十両もの大金を見ず知らずの男にやってしまった話は決して嘘ではなかったということが、証明されさえすれば満足だったのである。だから、五十両が戻り、伊勢屋の旦那の計らいで角海老との貸借も無事に話がつき、お久が両親の手許に帰ってくると、もうどうしていいか分からなくなってしまうのだ。

 おまけに、伊勢屋の旦那は、実直な文七をこの際のれん分けして独立させたい。ついてはお久を文七の嫁にもらえまいか、と結構ずくめの大団円。

『お久がいないよ』

 心配で胸が塞がり、苦しさのあまり突剣呑になる女房お兼の一言で始まった長兵衛さんの長い一夜は、賑やかで穏やかな新年を間近にして、めでたしめでたしで明ける。

 登場人物が全員善人。それぞれが社会性というものを会得しているから顔を合わせれば、とりあえずきちんと挨拶する。時には見当違いだったり、勇み足になったりするけれど、相手のことを思いやるのが当たり前という人たちの勢ぞろいだ。

 日ごろから、なにげない挨拶を交わしてさえいれば大きな騒ぎにならないですんだであろうと思われるような事件が多い昨今、「挨拶は社会生活の基本」キャンペーンを実行し、そのモデルに長兵衛さんと、その周囲の人たちを起用してポスターを作ったらどうだろう。

 

 

6「割下水までともどもにお連れ申してあげましょう」

 

  三人吉三廓初買 ――おとせ――

 

 大川橋蔵という俳優がいた。

 昭和20年代から30年代にかけて彼は菊五郎劇団に所属していた。

 菊五郎劇団というのは、名優六代目尾上菊五郎が残していった劇団で、その薫陶を受けた人々が団員または客員として活躍していた。【現在は七代目尾上菊五郎が劇団を率いている】当時、劇団の立女方(たておやま)は尾上梅幸、二番目に中村福助(のちの七代目芝翫)そして三番目に位置していたのが若手の成長株大川橋蔵だった。20代やっと半ばにさしかかった年頃だった彼は、痩せ方ですらりと背が高く、甘い顔立ちの美しい女方だった。

 その頃はまだ戦争の傷跡が随所に残っていて劇場の数も少なく、日本橋のデパート三越本店のホールでも歌舞伎が定期的に上演されていた。昭和20年代以降の歌舞伎界を背負って立った俳優たちの多くが、ここから巣立っていったのだが、まもなく大劇場が復興してきて幹部俳優の出演は稀になり、三越劇場は若手の勉強の場になった。数回催され、若い情熱がみなぎる舞台を展開していた三越青年歌舞伎がこれである。 

 大川橋蔵は、この三越青年歌舞伎の立役者であった。兼ねる役者六代目尾上菊五郎の手許で育っただけあって橋蔵も、本来は女方であるが二枚目役にも果敢に挑戦していて、『妹背山』のお三輪『鏡山』のお初それに『野崎村』のお光など、女方の大役のほかに『傾城三度笠』の亀屋忠兵衛や『津山の月』の名古屋山三などの二枚目役も勤めていた。

 しかし先輩たちに囲まれた大きな舞台では、当然それほどの大役には恵まれない。それでも彼が舞台に出てくると、それがどんな些細な役であろうとも、なんとなく舞台に華やぎが出て、そこに橋蔵がいる、という強い印象を見物に与えていた。いわゆる華のある役者なのである。それもぱっと強烈に咲き誇る色の濃い大輪の花ではなくて、重なり合った若葉越しに見る淡い(とき)色の八重桜のような、控えめな咲き方をする花で、それがまた一層彼の美しさ、存在感を際立たせるといった感のある俳優であった。

 彼は特に世話物の娘役がよかった。

 たとえば宇野信夫作『人情噺小判一両』に出てくる茶屋の娘。たいした見せ場はないのだが、行きずりの子どもに一文凧(いちもんたこ)を買ってやりたい(ざる)屋が売り手の凧屋と小銭のあるなしで言い争っているところへ、やさしく割って入って帯に挟んである財布から小粒を取り出して笊屋の急場を救ってやる気のきいた役である。

 うっかりすると小生意気な厭味な小娘になってしまうところを橋蔵は、しがない行商の笊屋が示した男気を理解し、彼の誇りを傷つけないよう、さりげなく、実にさりげなく自分のお小遣いを出すやさしさを、これまたさりげなく見せていた。

 髪は赤い手柄をかけた結綿に摘まみのかんざしが一つ。黄八丈の着物に板締め縮緬と黒繻子の腹合わせの帯という典型的な町娘の拵えが、また橋蔵は実によく似合った。

 一文凧を手にして、うれしそうにしている子どもの傍らにそっと寄って、共に喜んでやる仕草のなんとやさしく、美しかったことか。 

 昔は近所に、口はきいたことがないが、さりとてまるで知らないわけでもないというような人がいたものだ。それがこんなきれいなお姉さんだったら、どんなにいいだろう、と思わせる風情が、橋蔵の町娘にはあった。誰だって、きれいなお姉さんが好きに決まっている。

 この芝居、結局は笊屋の見せた男気がかえって他人を不幸にする、といった人間のプライドをテーマにした話なのだが、それだけに、橋蔵扮する茶屋娘の、人の難儀を見過しにできない、さりとて人の心の中に必要以上に立ち入らない、といった分を心得た振るまいが印象に残る作品であった。

 そんな彼の魅力を一番感じさせた当たり役が『三人吉三』に登場する娘おとせだった。

 娘といっても『小判一両』の茶屋娘のように、ごく普通の暮らしをしている標準的な町娘ではない。職業は夜鷹。道行く男の袖を引き、土手の道芝を枕に春をひさぐ最下層の遊女である。まだ十代という若い身空で、泥水に首までどっぷり浸かっているのだが、その心は清く正しく、人を信じ愛し、あまねく衆生をやさしく包み込む豊ささえ備えているような娘なのだ。

 一夜、おとせは若いお(たな)者を客にした。その若者は、夜鷹を相手にするような階層とも思えなかったが、互いになぜか引かれるものがあってごく自然に束の間の夢をむさぼる。と、突然、「喧嘩だ喧嘩だ」という声。人目については大変と、若いお店者は取るものも取りあえずその場を去る。大枚百両を置き忘れたまま。おそらく掛取りに行った帰り道であったろう、お店の金を紛失して、さぞや困っていなさるだろうと、おとせは大金を懐に若者を訪ねつつ帰る道すがら、夜更けの大川端で、友禅の大振袖、朱珍の帯をだらりに締めた人柄造りのお嬢様に声をかけられ、小梅への道を訊ねられる。

『連れてまいりし供にはぐれ、難儀いたしておりまする』

 小梅という土地は大商人の別荘などもある所。善意のおとせは、「さぞお困りでございましょう」とばかり、

『この道を真っ直ぐに、突き当たったら左へ折れ…』 

 と口で説明するのだが、お嬢様一人ではとても行きつくまいと察して同行を申し出る。

『と、さあ、詳しゅうお教え申してもお前様には知れますまい。どうでわたしも帰り道、割下水(わりげすい)までともどもにお連れ申してあげましょう』

 本所割下水、大江戸をほぼ南北に流れる隅田川の西側は繁華な町中、東側は大名家や大商人が別荘地として利用していた鄙びた場所。お嬢様が訪ねる小梅も、おとせの家がある割下水も距離にすればそれほど離れてはいないけれど、建つ家の体裁も規模も、そこに住む人間の暮らし振りにも、天と地ほどの隔たりがある。

 瀟洒な寮(別荘)が点在する小梅と違い、割下水はどぶ板続きの棟割長屋がひしめく所。そこに住むのは因果物師だの夜鷹宿の元締めだの、世間を狭く暮らす手合いばかりだ。

 夜道を女一人で歩くことに慣れていて、なんの不安も感じない自分。夜道が怖くてすくんでいるお嬢様。年の頃は十七、八。年の差はそうないはずだが、着るものから言葉つき、些細なしぐさの一つ一つまで、あまりに違う相手の様子に、おとせは知らず知らず我が身を恥じると共に、こんなすてきなお嬢様に声をかけられた幸運に少なからず喜びさえ感じてしまうのである。

 実の父親の手許で育ちながら惨めな稼業に日を送り、憐れな境遇を憐れとも思わずに暮らしてきた娘が、生まれて初めてよその娘と自分の差に気づいた瞬間である。

 橋蔵はその瞬間を、全身から滲み出る無垢の善意ぐるみ、美しくも哀れに映し出して見せた。薄幸な、いかにも薄幸な娘の姿がそこにはあった。

 実はこのお嬢様、女装の盗人で、人呼んでお嬢吉三。おとせの懐中にある百両に目をつけて、ずっと後をつけてきたのである。夜道が怖いなんてとんでもない。まんまと百両を奪い、おとせを川の中に蹴込んでしまうような極め付けの悪党なのだ。

『三人吉三』の外題(げだい)からも知れる通りこの芝居、吉三を名乗る三人の盗人が主役で、所化崩れの和尚吉三、元は旗本の跡取りで坊ちゃん育ちのお坊吉三、それにお嬢の三人組。見知らぬ同士の三人が兄弟分になったのも悪事が結んだ縁というわけで、次から次へとお天道様の下では通用しないような話ばかりが出てくる。

 泥棒、淫売、人殺し、詐欺に騙りにかどわかし、社会の底辺に蠢く人間どもと、おとせが拾った百両とが巡り巡って、こんがらかった因果の糸を解きほぐして行く筋立て。

 作者は河竹黙阿弥で、七五調の流麗な名セリフを耳にすると、つい江戸前の粋で華麗で心地よい、すっきり系の内容かと勘違いしてしまうが、この芝居、実は、膿んでどろどろになった人間の業が全体を覆い尽くし、遂には双子のきょうだいの近親相姦まで登場するといった、毛筋ほどの光さえ感じさせない暗く重い内容なのである。

 生まれたとき、おとせは双子で、もう一人は男の子だった。当時双子の誕生は世間を憚ることだった。父親の伝吉は生れ落ちるとすぐ男の子の方を寺の門前に捨てた。なにしろ娘を夜鷹で稼がせるような父親である、金になりにくい男の子を捨てるくらい朝飯前だ。 

 幸い男の子はやさしい人に拾われ、十三郎と名づけられて道具屋の手代になるまでに成長した。おとせに袖を引かれて客になり、騒ぎに紛れて百両を忘れていった男こそ誰あろう、その十三郎だったのだ。

 十三郎もおとせも、自分たちが双子であったことを知らない。まして束の間、草を枕に契りを交わした相手がその同胞(はらから)だったことなど分かる由もない。

 お嬢吉三に殺されかけたおとせは、舟で野菜を輸送していた八百屋に助けられ、百両失くした申し訳に身投げをしようと思い立った十三郎は通りかかった老人に救われて、そこの家に身を寄せる。

 老人とは誰あろう実の父親の伝吉、またおとせが助けられた八百屋は十三郎の養父。偶然が彩なす因果の綴れ織りだ。

 そして伝吉は、十三郎の身の上話から助けた男が、昔捨てたわが子と悟り、双子の同胞がそれと知らぬまま契りを重ねている事実を目の当たりにして、今更ながら自らが犯した罪の深さを知る。

 そんな恐ろしい事実を知らないおとせと十三郎は再会を喜び、きっかけが不純であったことも忘れてお互いに相手を受け入れあう。「十三さん、十三さん」と、おとせは、もう十三郎と離れる暮らしなど考えられないほど幸せの只中にいる。十三郎も入り婿にでもなった気分で、甘い毎日を送っている。

 ところが二人の兄にあたる和尚吉三が、ひょんなことからこの恐ろしい事実を知ってしまう。彼は、すべての罪を自分が着る覚悟で実の妹弟のおとせ十三郎を吉祥院の墓場で斬り殺すのだ。同時にそれは、義兄弟の契りを結んだお坊吉三、お嬢吉三の身替りとして役立つことにもなる。すでに三人吉三の悪事は露見し、捕り手に追われる身の上になっていたのだ。

 おとせは因果の経緯を知らぬまま十三郎と手を取り合って息絶え、三人吉三も結局は捉えられて処刑される。

 社会の底辺に蠢く人々に焦点を当て、しかも登場人物のほとんどが死んでしまうという、考えれば考えるほど陰惨な芝居なのだが、そこはそれ作者が江戸前の河竹黙阿弥。粋仕立てになっているせいか後味を悪くない。橋蔵のおとせには、そんな黙阿弥の作風にぴったりの泥田に舞い降りた白鷺のような風情があった。

 その後橋蔵は歌舞伎をやめて映画俳優になり、東映時代劇の黄金時代を築いた。さらにテレビの連続ドラマ『銭形平次』に主演し、長期連続主演のレコードも作る一方、毎年歌舞伎座や明治座で座頭公演を行い、その度に歌舞伎俳優時代に培った実力を示していた。

 そんな彼が55歳の若さで他界したのは1984年。

 薄倖が似合う幸福な俳優であった。

 

 

7「年はいざよう我が子の年ばえ」

 

  熊谷陣屋 ――熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)――

     

 思えば、人間という生き物は戦いのない生き方を選べない性質をもっているのかもしれない。紛争からはなにも産み出されないと分かっているのに、なにかというと戦いに活路を見出す。 

 長い間、緊張を余儀なくされていた東西の冷戦がやっと終結したと思ったら、今度は世界の各地で民族間、部族間の争いが熾烈(しれつ)になってしまった。

 ボスニアの紛争では、昨日まで仲良く暮らしていた隣人同士が憎みあい、殺し合う状況が続く。

 パレスチナ、イスラエルの攻撃、報復の繰返しは単に宗教の問題だけでなく、もっと根の深いところに原因があるのだろうし、アフガンの紛争も、近隣諸国ほとんどがイスラムであることを考えると、異教徒同士の対立とは別の所に、深い問題が根強く埋まっているのだろう。大国と発展途上国との落差が、ゲリラの活動を活発にしているということだが、貧富の差なんて、スケールの違いこそあれ、世界中どこにでも日常的に存在している現実で、この件もまた直接紛争の火種に結びつけるのは、ちょっと無謀なような気がする。要するにどの場合も紛争の原因や実体が分からず、なぜ? の数ばかりがやたらに増えてゆく。

 分からないままに憂い、憂いているのに傍観しているだけの自分を偽善者だとも思う。そこで終り。もう先へ進めななくなって振り出しに戻り、また一からなぜ? を繰返すおとになる。

 しかし、一つだけ分かることがある。四方を海に囲まれ、山あり谷あり、四季にも恵まれている日本にいて、地上に引いた一本の線が国境になる大陸の事情や、厳しい気象条件と険阻な山岳地帯のほかは、ほとんどが砂漠という風土に住む人たちを理解するのはとても難しいということだ。

 いずれにしても人が戦闘を繰返すのは、誰しもがもつ、他人より自分が優位に立ちたいとの願望によるものだろう。

 その願望をかなぐり捨てた時、人間は、初めて争いの外に身を置けるようになるのだと思う。本名題『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)三段目『熊谷陣屋』の場の熊谷次郎直実は、まさに、それを実行した人物である。彼は一軍を率いる将でありながら、源平合戦の真っ只中に戦線を離脱し、出家してしまうのだ。

 平安時代末期(1156~1185)同じ国に住み、同じ文明を所有しながら死闘を繰り広げた源氏と平家の合戦は、いわば民族紛争であった。

 リーダーたちが若いころは理想国家を目指し、たとえ部族、種族が違っても、共通の目標に向かって各自が邁進して行くが、ある程度の成功を見てしまうと、どうしても自分が所属する部族をより優位な地位につけたくなるものらしい。これは昔も今も、どの社会にも存在する人間の業だ。そして、血で血を洗う粛清が行われ、ついには互いに数万の兵力を競う合戦に発展する。

 熊谷次郎直実は源氏方の大将である。

 須磨の浦辺で十六,七の平家の公達を見かけた熊谷は、呼びとめて戦いを挑む。公達は無官太夫敦盛。熊谷の一子小次郎とほぼ同年だ。この君一人助けたとて勝ち軍が負けにもなるまいと、いったんは熊谷も敦盛を助けようとするのだが、梶原、土肥など、源氏方が手ぐすね引いて後方に控えていることを思えば、ここを逃れても命はあるまい、惨めな殺され方をするよりは、自分の手にかけ、誇り高い死を迎えさせるべきではないかと、考え直して討ち果たし、首を落とす。

『あわれ弓矢とる身ほど口惜しかりけることはなし。武芸の家に生まれずば何しにただ今かかる憂き目をば見るべき』

 熊谷の心境を、平家物語はこう記している。そして熊谷は、これを機縁として出家を決意することになるのだ。

 この件りを劇化したものが『一谷嫩軍記』である。宝暦1年(1751)まず人形浄瑠璃で初演され、続いて歌舞伎に導入された。

 劇中の熊谷は敦盛を討たない。外目には討ったように見せかけているが、実は我が子の小次郎と敦盛をすり替えて、須磨の浦で討ち果たしたのは小次郎だったということになっている。この経緯は観客にさえ、はっきりとは明かされない。セリフの端端でどうぞお察し下さい、というやりかたなのだ。

 はるばる武蔵国から須磨の陣屋まで訪ねてきた妻の相模も、首実検に備えた首を垣間見るまで、討ち取られたのは敦盛だと思いこんでいる。相模が百里あまりの道程を歩いてつい戦場まで来てしまったのも、初陣の我が子小次郎の消息が知りたいばっかり。手傷少々負ったと聞いただけでうろたえるほど、甘い母親なのだ。

 折りからこの陣屋には、戦場には不似合いな女性がもう一人いた。追っ手を逃れてこの陣屋に逃げ込んできた平家方の藤の方である。 

彼女は平経盛の妻であるが、以前は後白河の院の寵愛を受けており、懐胎したまま臣下に下げ渡されたという経緯がある。経盛のもとに嫁いでから産まれたのが敦盛。相模の言葉を借りれば『敦盛卿は院のお胤』なのである。

 その敦盛卿を熊谷直実が討ったと聞いて、相模も藤の方も仰天した。藤の方は熊谷を『我が子の(かたき)』と斬りつけるし、相模はそれを必死で留めながらも、熊谷になぜ斬ったと迫る有様。それというのも熊谷、相模とも、以前は藤の方に仕えていたことがあるからで、密かに忍び逢っていた二人は、藤の方の計らいで無事に夫婦になれたという過去をもつ。

 熊谷は二人に、討つも討たれるも戦場の習慣(ならい)であることを納得させるために、『敦盛卿を討ったる次第』を物語る。

 一谷の合戦で源氏が勝利した後、須磨の浜辺で平家方の公達を見つけたこと、太刀を二討ち三討ち合わせたけれども決着がつかず、『いでや組まん』と組討ちになり、その若武者を組み敷いたことなどを話し、

『おん顔を見たてまつれば、鉄漿(かね)黒々と細眉に年はいざよう我が子の年ばえ』

 公達と我が子を重ね合わせていたことを伝える。

 作者は『いざよう』という(みやび)な言葉を東国の武者に使わせて、十六夜(いざよい)の月から十六歳という年齢を偲ばせ、少年の命のはかなさと、討たねばならなかった熊谷の無常感を表現してみせた。十六夜という言葉には、ためらう、たゆとう、という意味があるそうだ。

 近年、盛んに十七歳が問題視されるが、人生五十年の時代も少年から青年にさしかかる年頃の子どもたちには、いろいろな意味でたゆたいがあったのだろう。十五夜にたった一晩遅れただけで月は、ためらいがちに山の端に顔をのぞかせる。上代から使われていた言葉だそうだが、自然に親しみつつ暮らしていた昔の人は、毎晩変る月の形にさえ、やさしい思いやりをもって接していたのである。

 十六歳の少年。どんなに輝かしい未来が待っていようか、と誰もが思う。そして、戦争が起こると必ずといっていいほど、この年頃の子どもたちが男女を問わず犠牲になるのだ。

 第二次世界大戦末期、日本では多くの少年兵が志願して肉弾となったし、地上戦に巻きこまれて死んでいった。ドイツでもベルリン陥落の際、最期までその地に踏みとどまって、学習した通りに戦いつづけていたのは、幼顔の残るヒトラーユーゲントの団員たちだった。

今、繰り返し報道されるアフガンの紛争でもやはり目に付くのは年端も行かない子どもたちの戦う姿だ。どの時代も、どの場所でも、戦の庭に出てゆく子どもたちに共通しているものは鮮明な使命感の所持である。彼らは自分たちが必要とされていることに誇りを持って、使命を全うしようとしているのだ。

 ひるがえって昨今、日本では未来に希望を持っている少年がいないといわれる。当たり前ではないか。少なくとも15や16まで未来なんて言葉さえ明確に意識しているはずがない。少年たちの未来は遠くはるばるとした所にあって、希望と絶望との区別がつかないくらい混沌としたものなのだ。もし明確に未来を把握し、希望を見出している少年がいたとしたら、かえってそれは不健康だといっていい。

 今時の子どもたちには希望がないと、決め付けること自体、大人の横暴ではないのか。おとなの役目は、未来には希望があることを有形無形に、日頃から自分自身で示して行くことだ。おとなの背中に希望がなくて、どうして子どもたちに希望を持たせることができるだろう。

 しかし悲しいことに、戦う子どもたちの使命感の先には希望が存在する。自分たちが使命を果たすことで明るい未来が到来するという明確すぎるほどの希望が。

 少年たちにそういう希望を持たせたのもまた、おとなである。しかし、使命を果たした少年たちには、希望を実現する未来はないのだ。

 十六歳の少年たちよ、たゆたえ!ためらえ! 輝かしい未来は混沌の彼方にあるのだから。

『年はいざよう我が子の年ばえ』

 熊谷は我が子にためらう隙も与えず、玉の緒の命を絶った。我が子がかつての主君の身替りになったと悟った妻の相模は、それまで自分の子が熊谷に殺されたとばかり思って逆上していた藤の方に向かってこういう。

 『私がお館にて熊谷殿と忍び逢い、身持ちながらに東へ下り、産み落としたはな、この敦盛様。そのときあなたもご懐胎、誕生ありしそのお子が、無官太夫様。両方ながらお腹にもち国を隔てて十六年。音信(いんしん)不通の主従がお役に立てたも因縁かや』

 ところで身替りの問題だが、これは現在でもけっこう存在している習慣らしく、名乗り出た犯人が身替りだったなんて記事を新聞紙上で見かけることがよくある。どの場合も利己的でいじましい話しだが、芝居に出てくる身替りは自分の利益ではなく、他人の利益の為にする場合がほとんどである。それもたいていは主君の身替り。

 歌舞伎や文楽が発展した江戸時代は、孝行や忠義がすべてに優先する時代であったから

それも納得できるのだが,どうもそれだけではないような気がする。より優秀で強靭な種を保存しようという、極めて原始的な発想があったのではないか。集団を統率してきた主君の血筋は統率されてきた家臣の血筋よりも優秀という考え方である。動物がオス同士の力関係によって交配の順位を定め、よりよい種の保存を図るのに似たシステムである。つまり身替りとは、人間がまだ単なる生物としての生き方を保っている証拠なのだ。

 史実の熊谷次郎直実の血筋は平家である。源平の合戦のとき、平家の出自でありながら源氏に味方した武将はほかにもいる。畠山、梶原、三浦、土肥、北条など。

 時代の推移につれて民族、種族の純粋性は次第に薄れる。同じ民族同士が殺し殺される環境は、他人より優位に立ちたいという願望を人間がもつ限り、いつでもどこでも簡単に整ってゆくのだ。

 最後に、出家した熊谷直実はこうつぶやく。

『十六年は一昔、夢であったなあ』

 子どもが生まれて死ぬまでを、自分の目で見届けてしまった父親の述懐である。

──了──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/02/07

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竹田 真砂子

タケダ マサコ
たけだ まさこ 小説家・舞台台本作家 東京都牛込に生れる。1982(昭和57)年「十六夜に」で、オール読物新人賞。

掲載作は2002(平成14)年1月、「電子文学館」に書き下ろし。

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