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結婚まで

   一

 

 信一は、笹島さんを彼女を恋して居る、この心持は段々にそれと自分に分つたが、信一は彼女をはつきりと思ふ工合になつても、この一の心持は誰れにも秘めてヂツと堪えて居た。彼女に付いて知識は実になかつたが、姓だけで、名も年齢も、信一は未だ知らないのだが……。

 其姓は、去年我孫子(あびこ)に居て始めてきゝ、覚えた。近くの菅さんで、菅さんに向ひ夫人のてい子さんは「笹島さん笹島さん」と曰ひ、笹島さんはある産婆の内に居たが、もう一人立ちで開業のできる人と噂された。彼女は我孫子へは折折たづねてきたが信一は本人に会はなかつた。秋の日だつたか菅さんの京都に移る別れを惜む泊り客できたが、信一は其客の跡へ行つたら、長女のルリ子さんは信一に向ひ「今笹島さんを停車場でお見送りしてきたのよ」といつた。それは我孫子の枯葭(かれあし)などと共に憶ひ出される。

 この七月十三日、粟田口(あはたぐち)で信一は、かざらぬ束髪のましろい手術着の笹島さんが、奥の病室より廊下へたち出た所を見た。夫人の看護にけさ京都にきた。「てい子のかんごは笹島さんなら安心だ」と菅さんのことばやまた産婆とおぼえて居た信一は、年のいつた婦人とのみ思ひこむだが、会ふと未だ若かつた。初対面の信一は改めて紹介はされなかつた。菅さんは「君は我孫子で会つたと思つた」とあとで曰つた。

 信一は(おなじ)く我孫子から移つた蒲生君の(うち)にをるのだが、この蒲生君たちにも彼女は噂された。赤児の仮死で生れた折のことを

「笹島さんはハル子の両足をもち上げ逆様に振つてさ、我孫子の医者はうろたへて笹島さんに叱られて見え、全く回春堂一人では危なかつたよ……ハル子よ、笹島さんはお前の恩人だよ」といふのだつた。

 菅さんの宅で、信一は奥の病室へは行かなかつた。病人を疲らすと思ひ、また衰へたてい子さんに会ふと恐はいやうな心持だつた。で、笹島さんを近くで見たことは、七歳のルリ子さんの発病の時からだつた。――

 七月の二十日、朝から少し熱のあつたルリ子さんは、病気にはすぐ弱るたちで大人しく下にゐたが、寝床を出て一人で妹のチヅ子さんの便器に掛つた。それからすぐ奥へきて「青いうんこしたわ、この鑵と同じ色」とロオト硬膏の鑵をもち上げてをしへた。熱は高かつた。すぐきた小児科の医者は「疫痢(えきり)」とみた。

 蒲生君が電話でよばれて行つた。信一は晩に見舞ひに行くとルリ子さんは座敷の方だつた。菅さんは「手あての手おくれはないと思ふ」と曰つた。腸洗滌(ちやうせんじやう)と云ふことや、食塩注射や、ヒマシ油や。ヒマシ油は口に入れるとツキあげて傍の者まであぶらだらけだが、子供は「サイダーと一しよならのむ、あとで沢庵たべる、オルガン買つて下さればのむ」と色々にいつていやがつた。菅さんはオルガンの音は厭で前にも欲しいといはれて断つたのだが、かふ約束した。得心したらヒマシ油は少し通ほつた。皆んなの顔色は(やうやく)明るくなつた。次は再び腸洗滌で子供は実に災難にあつたが、笹島さんが器具を手に持上げるのだつた。彼女の白い手術着は油や水だらけだつた。

 この晩、入院ときまつて京都病院の自動車が廻された。ルリ子さんは出際に「お母さんにあはせて」と曰ひ、菅さんは泪ぐむで「何だ、お父さんは泣いたりなどして」と自分にいつて、子供を抱きあげ奥の室へと立つて行つた。奥の室の夫人は大きい藁布団のうへに仰向きの容態だつた。

 菅さんと蒲生君と附添ひで行つた。菅さんは麻布へやる知らせの手紙を信一に代筆させた。

 

 粟田口に二人病人ができて信一は毎日手助けに行くのだつた。

 ルリ子さんの経過は良好で、子供は、看護婦と(また)知つた人と傍に居て欲しく、信一は日中居て、夕方蒲生君が代つて、十二時ごろお父さんが泊るのだつた。

 菅さんは、宅のこんな状態についていふのだつた。「この頃ずつと寝不足で、僕は此暑中よく体が持つと思ふ位だ。僕よりまた笹島さんは上ワ手だ。笹島さんはこちらにきて以来一ト晩も安眠をしないが、寝たと思つてもすぐ起きて、てい子の氷嚢を一時間目には取替へる。笹島さんは実によくつゞく。それで、倒れるとこまるモ一人たのもうか、と云ふと、看護婦は奥さんの為にならばよんで頂いてもよろしいが、(わたし)の為云つて下さるのでしたら沢山です、といふ風だ」と。

 今日も笹島さんは、三人の女中を(つか)ふ家政もとつたが、疲労の面持はなかつた。信一が宵の口、座敷で四ツのチヅ子さんの相手になつてやがて子供がうたゝねをしたら、彼女は湯上りの浴衣に手にうちはを持ち出てきて、睡入つた子供を抱き上げ寝室の方へ行つた。信一は、彼女がいつもの手術着でない浴衣がけは初めてだが、浴衣の上から肩や腕はわり合にほつそりしてゐてしなやかに目にうつるのだつた。――

 信一はこんな風で、笹島さんに毎日会ふのだつた。互に会ふあひだに信一は、「若し好きになつたらイヤそれも面白いだらう」とこんな考へを(ひそ)かに抱くのだつたが、両方独り者でこの事の道徳上の用心はいらなかつたが、亦この事に臆病の方ぢやなかつたが、宅の状態から何か(ゆつ)くり語り合ふ機会はなかつたし、只毎日顔見合ふだけだつた。気持はあつたがごく控へ目だつた。

 さうしてこんな信一が帰る折には、彼女や女中や皆んな式台に立つて見送るのだつたが、信一は皆んなに目礼する折殊(こと)に笹島さんの目もとには正しく目合せ、信一は何時もそれで別れて戻るのだつた。(信一は人を見送つた時に相手の目がふれなくて淋しく思つた経験を持つたから)亦こんな仕種(しぐさ)からも彼女の心持を次第に捉へ得たと思ふ……。

 八月に入り、信一は〆切日の近づいた仕事に従つた。七日程ひきこもるのだつた。信一は机に向つて居ると頭の向きは段々粟田口に行きたくなるのだつた。笹島さんに彼女に会ひに。僅か一日二日書斎にひきこもつて過しただけだが、(しき)りに彼女に思ひは移つて仕方がないのだつた。一人居ると露骨にさうだつた。そこでこの気持の真面目である自分自身に今更心付いておどろいた。

 信一は「何であつても心持の芽生えは育てるべきだ」とこんな考へから、自分の恋心を大切に守る気持だつた。此方の気持だけで相手のそれは未だ図ることはできないが、此方の気持だけだつてもこれは好いなと思つた。

 さうして、机から離れ今直ぐにも行きたくなるのだつたが、これぢや仕事の方がダメだと思つてこらへた。仕事は今仕事やれんと云つても自分は此生活を仕て居るのだからとさういふ言訳は持てたが、仕事は捨てられないのだつた。が、彼女には会ひたかつた。信一は窓の向ふに、日ノ岡の山がさへぎつて居たから、

  大比枝(おほひれ)や、小比枝(をひれ)の山は、寄りてこそ、

  寄りてこそ、山は寄らなれや、遠妻(とほめ)晴れと。

と云ふ東遊(あづまあそび)の一首を思ひうかべなど仕た。

 

 さうして七八日目で信一は粟田口ヘ行つたら、菅さんの宅では夫人の病気が大分快方に向いたと云はれた。

 それは一月目で他の医者にみせることとなつた。其産科のA博士はみて「前の医者のてあてを止めてほしい、病気をかう加工せずに、病気を露骨にして見れば病源も分るから、その上で治す方針を立てる」といつた。A博士の態度のはつきりして居ることは気持よかつたし、病人も得心した。で、さうした。それで前の医者の注射など断はつて氷嚢も次第に退けてより発熱もさがり快方に向つたと云ふことだつた。これは大学病院などでも病源がはつきり分らず仕舞に病気の治る例はある由をあとで聴いた。

「Iさん(初めの医者)が如何にも人が善いので永くかゝつてゐたが」と菅さんは笑つて云ふのだつた。

 また、ルリ子さんは退院できたが、未だ着物の上から腹部に小さい毛布を()き着けて、妹達と一しよだつた。子供たちの食事の折、ルリ子さんは皆んなと一様にたべたがると、情に脆いお父さんは「ルリ子は完全に治つて、笹島さんのおゆるしがでたら、上げる」と笹島さんの助けをかりて、子供に逆ふ役目はそちらに廻はすのだった。笹島さんはいつも「女丈夫」でやつてゐたから。

 晩飯の時、信一や蒲生君や菅さんの従弟のSさんや、皆んな客間から立つて行つて食卓につくと、菅さんは「夏すき焼は暑いけれど手がないからね」といふのだつた。笹島さんがコツプの載つた盆か何か持つてきた。信一はこの時七八日目で顔見合せたが、彼女の(おも)てに一寸複雑な表情があると思つた。彼女はすぐにはづしたから、信一も何気なく食事をした。

 宵歩きに出て、菅さんは四条の襟店で「三十位の婦人の半幅(はんはゞ)単帯(ひとへおび)」といつて品物を見た。二タ色あつて「蒲生君、笹島さんにはどれがよいかね」ときいて、蒲生君は黒地に銀のウロコの模様をえらむだ。信一は「ウロコは下品だ、それよりは」と水色の地に霞の模様のある別の一ト色を指さした。信一は笹島さんの物なのでさう口だしたのだつた。それでそれに定められたが、また信一は「三十位の婦人」ときゝ、年齢は三十すぎかと思つた。自分は三十歳だが、年齢は年上でもよいなど思つた。

 信一は段々に分つた自分の心持を友だちに語りたかつたが、語ればすぐに彼女が引合に廻され、つまり彼女に迷惑だつたらと云ふ場合が思ひやられた。未だ感情だけの場合で、事務とまで至らないから、他人にたのむ()う云ふ風には未だ思ひ付かぬのだつた。自分で成遂げるべき事だと云ふ風に思つた。此事が自分だけで済む場合は、後でこんなことがあつたと語ればよいと思つた。人に語るには今尚確めて彼女に迷惑でないと定つた時、と思つた。未だ実に成らないことだと思つた。

 翌日一日笹島さんは()の涼しさうな幅せまの単帯しめてゐたが、それは一日だけでまた普段のめりんすの帯と()へた。倹約屋だと思はれた。

 こんな風に信一は一人角力をとつて居たが、またこれが一人角力ではないと思はれる折が、折々あつた。

 客の入浴の場合に女中が湯加減を見て桶へ湯をとりなどしたが、信一は体を拭いてあがると、えもん棹の着物をはづして肩へきせかけられ、いつもきまつて笹島さんの手でされ、信一は彼女が特別に自分に仕向ける仕種(しぐさ)だと思つた。こんな仕種から彼女が心持を伝へると思つた。

 信一のかいた短篇集二冊と長い小説のある雑誌と、奥の室に見えた。笹島さんはそれをひまひまによむだ。

 信一は大方自分の材料をかいた小説だから、笹島さんは自分に付いての知識は凡そ得ると思つた。始めの方にも述べた如く、信一は彼女に付いて知識は実になかつたが、知識は段段に知りたく聴きたいのぞみが(しき)りに起きた。で、さう云ふ自分と彼女と思ひ合せなど仕た。

 

   二

 

 こんな風に八月の日が経ち、そこへ、九月一日の東京の震災が、皆んなに(つたは)つた。

 一日の(ひる)、信一は畳の上で新聞をよむで居たら、不図(ふと)よみ難くなり「オヤ俺の頭どうかなつたぞ」と曰つたが、すぐ次ぎには別状がなかつた。大地震の余波をあの折うけたとあとで知つた。

 午後、信一は粟田口の郵便局へ為替(かわせ)の用で行つて「東京方面の電報は受けたらあかんで、故障があるのどす」などの局員の会話をきいた。ぶらぶらと歩く道で、紙片れに東海道の汽車不通と出された地震の号外をみた。

 のん気から信一は左程(さほど)のことにも思はなかつたが、翌日の朝になつて、菅さんから蒲生君へ電話で、東京の惨害が大きいらしいから、一しよに東京へ行きたいと云ふのだつた。蒲生君は本郷に親たちがあつた。蒲生君はまづ粟田口にいつた。信一は異常時に際会してはづむだ気分であとから行つた。

 菅さんは、昨日の朝の特急で帰京された麻布のお父さんが途中からの行先が案じられ、また女ばかりの麻布の宅の方も気になつた。

 笹島さんは、芝の巴町の笹原と云ふ産婆の内から京都へきたが、その安否をきゝたかつた。また「もし八王子の方をお通りになれば八王子の様子をおたづね下さいますやうに」と菅さんに頼んだ。彼女は八王子に親たちがあつた。

 菅さんは廻れたら八王子に廻るといひ、笹島さんから、「宅は郡役所の隣の植木屋ですけれど」と云ふ(その)所ガキをきいて手帖にとめた。それから「君の方は」と信一に向いた。信一は差当つて安否を知りたい所はなかつたからさういふと、「()う差当つてないね」と菅さんは笑つて、「では留守をたのむ」と曰つた。

 てい子さんは病床からやうやく()てる位で、見送りに起つてきて、「あぶないところへはお近寄りになつてはいやあよ、ずゐ分とお気をお付け遊ばせよ、ほんとにいやあよ」と、今年前厄(まへやく)と云ふ良人(をつと)の年から、心配で仕方がなかつた。菅さんは「大丈夫々々々」と繰返した。

 信一は停車場へ送つて行つた。京都駅は平日のとほりだが、案内所には東京附近の線路の図が、汽車不通の所に朱をつけて貼り出された。菅さんは信越線廻はりで川口町へ向ふのだつた。

 未だ時間があつたから駅の階上の西洋料理店で食事した。蒲生君が食料など買ひあつめて、編むだシヨヒゴをふくらませて入つて来た。信一はけさ別れたなりだつたが、いま同じ料理をたべる蒲生君に向ひ、「東京へついたら泣き出さんやうに、もう焼野原になつてるらしいからな」といふのだつた。東京生れの友だちが焦土になつた町を眺める心持は常談を曰ひながら思ひやられた。菅さんは、昨日見た博物館の陳列替の話して「こんども又、相阿弥の絵が沢山出たよ中々好いね、未だ四時前で開いてるから、君は帰りに寄るといゝ」といつた。信一は戻りには博物館へ立ち寄りたかつた。この春京都にきて以来、絵は好きで毎月掛け替へのたびに各々見て廻ったが、先月は相阿弥の大仙院の襖絵だつたと云ふ墨絵の大幅(たいふく)にひきこまれ、之は皆んなで感服したのだつた。それで信一は二人を見送つてから、博物館の絵の室にはひり、今日の東京の震災の出来事などが思ひ合されて何百年も前の物がかく無事に伝はつたことを有難く思ひ、また自分を仕合せ者と思ひ、夕方粟田口に戻るのだつた。

 粟田口で、信一は「東京の新聞がこないから、大阪の朝日毎日両方入れるやうにきめませう」といひ、近所の新聞販売店へ自分で出かけた。また庸子さん(蒲生君の夫人)が、蒲生君は東京へ行つたし今日は一人ヂツとして居れんからと見舞かたがた子供をつれてやつてきて居た。晩になつて共に山科へ帰るのだつた。

 信一はかへり支度(じたく)の庸子さんを待ち、門内の石だたみに立つと菅さんの留守と云ふことが何だか頭につくのだつた。笹島さんが、蒲生君の子供を抱き上げ見送りに出た。信一は「さ、いらつしやい」と子供を受取る折に、彼女の手に手はふれ合ひ、両方共、詞いはずに暫時、小さい子供の腰のあたりで互の手は握りかはされた。信一は彼女と心持はほゞ伝はりわかり合つて居たが、この晩二人だけで佇むとすぐこんなに打明け合ふのだつた。格子戸から外に出て彼女は子供を抱き小さい背のあたりで互の手は握りかはされ、両方共子供に何か曰ひ曰ひやゝ歩くのだつた。門燈の下より出てくる妊娠の目につく庸子さんを、立ちどまつて待ち、笹島さんは停留所まで見送るといひ、やはり子供を抱きながらきた。信一は電車がきたから、おもたい子供を受取るのだつた。

 

 翌日、信一は机に向ひ彼女へやる手紙をかきはじめた。けさてい子さんから、菅さんの留守中心細いから庸子さんやハル子ちやんや皆んな一しよに泊りにきてくれと、()うたのまれた。また笹島さんの芝の巴町の宅は焼けたらしいと云はれた。で、信一は今笹島さんを何か慰めねばならぬと思つた。未だ語り合ふ折はないから手紙でと思つた。信一は机に向ひ、昨夜打明けた時何も云はなかつたから此方の心持は述べた方がよいと思ひ、(しか)し手紙は他愛のないラヴレターでは、しつかり者の彼女に笑はれるぞと思ひ思ひ手紙をかくのだつた。――

 私はいつも顔を合せ顔みるのをたのしみにしてゐました。互の心持は前から互に感じてゐたと思ひます。心持は互にもはや知合つて居るので今沢山は云ひませぬ。

 東京の方が大変な場合で、遠く隔たつた故郷の安否の気遣はれるあなたの心持を察します、が、こちらに居て命拾ひした事と又私の心持があなたのものになつた事を幸福と思つて下さい。私は心からあなたの力になります。

 皆んなの難儀を聞いて安閑として居られませぬ、私は折を見て上京したい考へで居ります、私は多分新聞とか雑誌とかの仕事を手伝ふ事になるでせう、が、あなたがこちらに居られる間私もゐるでせう、あなたが東京へ行かれる折、私も一しよに行くと思ひます、あなたもこの上特別な事の起きない限り今急には行かないでせう、行かれるとこちらの皆んなに困るから、 けふ

 ――日附はけふとかき宛名も何も抜きで、手渡しのできるやうに小さい結び文に造つた。信一は誰れにも秘めてヂツと堪へて思ひの重荷に圧されてならないのだつたが、自分のこの心持から推して笹島さんが中々辛抱強いが一人つらいだらうと思ひやられた。信一は、菅さんや蒲生君が戻れば(やつ)と話が出来ると思ひ、この事は皆んなに打明けたら、らくになれると思ふのだつた。一人机の前でこの事を思ふのだつた。

 信一は晩にハル子ちやんを手で背中へ負ひ、庸子さんは風呂敷包をさげて、山科から出かけた。

 さうして信一は手紙やる折を待つのだつたが、やつと寝る前に奥の室の蚊帳と蚊帳とのせまい所で、彼女の脊から「手紙」と囁いて手に持たせたら、何か分らないらしかつたが手の中には受取つた。信一はヂカに心持を伝へたかつたから、肩を抱き〆め頬のあたりに唇がブツかると彼女はすぐドギマギと脱れ出て行くのだつた。信一は微笑みたい気持を押包んで、表座敷の方に戻つて、夫人や庸子さんやの話にしばらく混るのだつた。

 それから次の室の白い蚊帳の傍に電気スタンドをともして一人、信一は寝床で本をよむのだつた。信一の方の白い蚊帳は明るくて隣室の蚊帳から一ト見えだと思はれたが、別に恥かしがる所はなかつた。向うの蚊帳には夫人と上の子たち二人と笹島さんとがやすむだ。

 信一は本をよみ本から頭は外れて、彼女のことを(しき)りに思ふのだつた。互に打明けた上に手紙などやり、共にまた宿り合せた今晩自分は落着かぬが之が本当だが、今晩彼女の方も眠らないだろ、とこんなに思ふのだつた。信一は本を伏せて電気スタンドを消したら、茶の間の方の明りから座敷の蚊帳が透いて、一番こちらがはにやすむだ、笹島さんがすぐ傍の所に見え、思つたより近くで信一はなほ眠れなかつた。で、再び明りをつけ本を開いた。

 夜中に子供がオシツコか何かに起きたら、笹島さんは附添つて行つて、戻りに向ふの電気を消すのだつた。暫時して信一も明りを消したが中々眠れなかつた。信一はたゝみへ片手を伸ばすと彼女の手にブツかつた。手さぐりに手を握つたら、やはり眠れなかつた様子で握り返した。真ツ暗で分らない安心からユツクリさうされた。心持をこめて手を握りしめてやつた。また互に代り番こに締め合つた。二人とも無言だが、実によく気持が伝はつた。信一は手を解き、彼女の手を押しやつて自分も元へ引き込め、やつと落付いて枕につくのだつた。

 

 次の晩も殆ど同じ風だつた。笹島さんは一番あと蚊帳にはひるのだつたが、寝しなに、茶の間の方に一ツ点いた電気を立つていつて消すのだつた。信一には彼女の下心が分るのだつた。暫時して信一も電気スタンドの明りを消すのだつた。真ツ暗で、やがて皆んなの寝息をうかゞふ様にして、互に手を握り締め合つた。昨夜は満足だつたが今晩は単にこれだけでは物足りなかつた。心持は充分知つたから、ヂカな気持からは手と手位だけでは足りなかつた。モツト何かと云ふ慾望が出てくるのだつた。信一はたゝみの上へ乗り出いて、首を俯むけて肩にたれた蚊帳の端を()たなり手探ぐりで乳にさはつてやつた。彼女は大胆さにはやゝびつくりしたが、顔はぐつと近寄つた。あはてることなしに接吻した。彼女はかたく歯をくひしばつて唇をおしあてた。信一は漸く窮屈になつたから、元へ引き戻るのだつた。自分の蚊帳からまた再び手を握り合ふのだつた。

 信一は彼女のあまりにたやすくかうなつたことが、また色々にとれるのだつた。キツスも上手だと思ひ、或ひは前に既に経験があるのぢやあないかなど思ひ、三十近い年齢であり人づき合の多い彼女の生活から見て邪推深く云へば、今日までどんな場合もがあり得ただらうと思はれた。(冒涜的な思ひ廻はしだが)信一はそれにしろ彼女を少しも咎める気持は持たなかつた。自分が誘惑者の一人だからさう云へば自分が非難に価ひしたし、又何を比べたつて自分の現在の満足の方が大きいから、以前のそんな事はなんでもないのだつた。信一は仮令(たとへ)さうだつたにしろ有勝の事だし情愛深さも好いなど思つた。かく簡単に片付け、あつさり片付けて差支へないと腹をきめた。自分はさんざん勝手を仕てきたし、処女は今更望めない事と思ひこむで居たから。信一は彼女をさうとると共に肉情がつのるのだつた。否、肉情が先に立つてこんな風に思ひ廻はした。

 また次の晩は、笹島さんが例の一ツの電気を消しかけたら、夫人は蚊帳からとめて「それを消さずにおいといて、(わたし)夜中に目がさめて明りがないとそれは厭やなの」といつてとめた。――てい子さんは菅さんの立つた晩から早や心配で又ルリ子さんは「父さん帰つて帰つて」と呼んだが、それは去年我孫子(あびこ)で隣家の主人が頓死した時となりの子供らが田圃(たんぼ)の井戸端に出て「父さん帰つて帰つて」と迷信からよぶ声がきこえ、ルリ子さんは不図(ふと)真似たのだが、てい子さんはこんな事からも尚心細くなつて山科から皆んなに泊りにきてもらつた。新聞には毎日日ましに震災の惨害が大きく出て、けふは被服廠の焼跡と云ふ写真の号外に、一目で目を反らしたが全くおびやかされた。てい子さんは見舞に行つた良人の上などが心配で心配で、ヒドイ神経衰弱に罹りさうだつた。

 夫人にとめられて、笹島さんは明りをつけて、寝るのだつた。

 信一は前の晩は彼女が此方の室にきたらよいなど思ひ流石にさうはされなかつたが、今晩は電気がついて尚六しいのだつた。自分では毎晩人の寝息をうかゞふ様な仕種(しぐさ)に腹を立てたり心持は真直ぐだと思つたり仕たが、やはり人目は憚られた。人目があつて今晩駄目と分ると、信一は却つて漸く落付くのだつた。笹島さんは病床の夫人に悪い悪いと思ひ、きがねしていままでがせい一杯だつたから、で、あやまつた事は仕出来さなかつた。

 

 七日の昼、大阪から電話がかゝつて、蒲生君の声で、「菅さんと共に汽船で大阪についたがいま飯をたべてすぐ戻る。東京の知合は総べて無事」と云ふ電話だつた。留守宅では思つたより早い戻りで、夫人はじめ皆んな悦び合つた。而して二人は戻つた。

 菅さんは地震後の朝鮮人騒ぎが関西にうつつてないかと案じて急いで戻つたと曰つた。東京の親たち、親戚、友だち、皆んな無事で、吾々の知合は各々不思議な位に無事だと曰つた。下町は見渡すかぎり焼野原だつたと云ふ話から、今日大阪につき北浜の灘万食堂の上から市街の屋根々々を見たら、「これらの建物が皆燃え草だ」と()う思つた、と曰ふのだつた。

 菅さんは(しり)根太ト(ねぶと)が出来て、往きの汽車では腰かけると痛くて()へりの汽船では()られていくらかましだつたと曰つて、吸出膏薬など貼つた。蒲生君も湯上りの浴衣がけでくつろいだ。

 晩に信一がハル子ちやんを手で背中へ負ひ、蒲生君や庸子さんとともに、山科へ戻るのだつた。

 九日のあさ信一へ、菅さんから電話で「君はMと一しよに今日東京へ行かないか」といつた。信一は前の日(かね)て話があつたから、承知の返事をした。

 粟田口に行くとMさんが居た。――Mさんは日向(ひゆうが)の村で震災のことをきいて、直ぐ立つて五日に京都へきたが、五日から震災地へ向ふ者は震災地に住所或は親族がある事の地方長官の証明書がいると云ふ触れが出て、Mさんは東京のお母さんを真先に案じたが、京都で証明書がとれなくて留められた。八日に漸く大阪でとれた。――信一にMさんは向いて「君が共に行つてくれると心強い、君は書付けが今日とれなかつたら僕は待つてもいゝ、東京の方は菅がお母さんに会つてきたから安心だし、急がなくてもよい」と曰つた。

 菅さんは、朝日毎日二つの新聞を見較べながら「これは朝日の方落付いてゐていゝね」といつた。朝日は第一面は普段の通りで中の方に震災記事を載せ、毎日は第一面が震災記事で埋つて刺激が強かつた。菅さんは震災地を見てきた気持から成るべく早く落付きをのぞむだ。

 信一はそれから、区役所、警察署、府庁などと歩き廻つて漸く書付けがとれた。東京に住所も親族もなかつたけれど区役所の役人のSさんの口きゝで証明書がとれた。夕方戻つたら菅さんは「それはよかつた、ぢや今晩立つといゝ」といつて、北陸線廻りで行く汽車の時間をしらべ、九時の富山行に定めた。

 支度にと一遍山科にもどる信一に、夫人は「では夕御飯を先に召上がれ」と曰ひ、また「笹島さんもごいつしよにすましになつたらいゝわ」と、夫人から曰はれて茶の間で二人は向ひ合つてすませた。二人で食事は初めてだつた。信一は山科の宅では旅支度をまとめながら、色々の思ひから、また彼女にやる手紙をいそいで次の様に書くのだつた。これは二遍目にやる手紙だが。

 私は今上京してもすぐ戻ります、それまであなたは待つてゐて下さい、あなたの上京の時また私は送つて行つてあげます、あなたはあなたの心持をてい子さんに話したらどう、もし私の所へお嫁にきてもよいのでしたら、そしてこれが諒解してもらへたらこちらで二人の行動も自由でせう、その方がよいと思ひますが、あなたの諾否は私に早くしらせて下さい、首をタテにうなづくか横にふるかで分ります、   九日

 信一はこれだけかき例の結び文に造り、持ち行き手渡した。笹島さんはすぐかくれて読むだが、出てきても普段の面持だつた。立ち際に、彼女は巴町の先生――赤坂の避難先の宅で五日に菅さんが会つたと云ふ元気な老婆――へやる手紙を托した。信一は受取つてポケツトに入れた。

 菅さん、蒲生君二人に停車場へ送られMさんと信一は汽車に乗込むだ。あとで信一は托された名刺や手紙などを改めて内ポケツトにしまふ折に手紙の彼女の名をみるのだつた。名前は(こゝ)で初めて知るのだつたが、笹島レン、と簡明に書かれてあつた……レン蓮子と呼ぶわけかと思つた。

 

   三

 

 十五日の晩、信一は山科の停車場に下りた。御陵まで一ト停留所乗馴れた電車で行つた。電車から離れたら夜寒ムの澄切つた星空がふり仰がれた。自分の白い麻の服は冷え冷えされた。初秋を沁々(しみじみ)覚えた。田圃(たんぼ)の向うの明りのついた自分たちの二階をながめ、漸く戻つたと思ふのだつた。

 宅につくと、蒲生君が二階から下りて来て、庸子さんは「まあ、お早かつたですわね」と曰つた。信一は風呂に入りたかつたが今日はたゝないと云はれ、風呂は粟田口にいつてはひることゝした。勝手の方で、庸子さんの国元からきた女中がひきあはされニコニコと温和な女だつた。信一は汚れた服を脱いで、香ばしい珈琲が出て暫時話した。

 信一は蒲生君と一しよに粟田口ヘいつた。菅さんはT君(東京からきた泊り客)と出かけてゐたが、病気全快の夫人は茶の間に出て、次に笹島さんが奥の方から出てきた。七日目だつた。

「お風呂は(わたし)いまいたゞいて、跡ですけれど」と笹島さんはいつて、信一は立つといつものやうに湯殿にきたが、二人はすぐに手を握り合つた。

 無性髯ののびた信一は湯上りでさつぱりした。東京に三晩泊り、かへりも北陸線にのりこれが一等近道だつたと曰つた。笹島さんには巴町の先生に会つてきたと告げた。手紙の返事をあづかつていかうといふとお婆さんは郵便が行くやうになつたからあとで郵便で出します出しますといひ、自分は再びいふと同じ返事だつたが気づよいお婆さんと思はれた。八王子の方は、中央線が開通したから帰途それとなく彼女の実家を見たい考へだつたが、十三日の雨で又トンネルが崩れて、よう立寄らずだつた。(まは)り路して立寄つてきたらよかつたと今思ふのだつたが……。

 次ぎの日の晩、笹島さんが門口に出てひとり佇むだから、信一は続いて外に出て、何か話懸ける振りで歩き出したら、彼女はつき従つた。二人(きり)で歩くことが初めてだつた。広い石だたみの小上りになつた坂路から智恩院の方角に向つた。

「僕らのこと、てい子さんにつげた」

「いゝえ、まだですわ」

「なぜ」

「でも、あたし……」

 粟田御所の楠木の大きい枝を見上げ、二人肩と肩とくつ着けつゝ手は交しつゝ、歩いていつた。

「雑誌の僕の長い小説読むだ」

「よみましたわ」

「あれは、大体自分のことをかいたんで、僕は以前にはあんなことがあつた。が、かまはない」

「えゝ、事実と思ひましたわ。松子さんは、松子さんてかいてありましたわねえ、もう亡くなつたんですから。(わたし)それは別に、何も気に懸けませんわ」

「それならよいけれど」

「……」

「年は幾つ」

「あなたの二下ですわ」

()う、僕は同い年位かと思つてゐたが、左うか」

 信一は年齢を聴いて不図(ふと)(おも)ふのだつた……去年の二月亡くなつたあれはやはり二年下だつたが、又名も(小説には松子としたが本名はれんと云ひ)同名だから、偶然の符合だが暫時不思議な心持にされた。

「お前さんの名はこのあひだ東京へ届けた手紙の裏を見たから、初めて分つたが、僕の亡くなつた人もれんと云つたが、同名だ。いま又年齢が同い年で、をかしいな」

「さうを、松子さんはれん子さんと仰有つたの。妾と名もお年もおンなじですわね。ヘンですわねえ」

 と彼女が同感を持つた。暫時口を(つぐ)むだ。信一は彼女に付いてもつと知識を得たかつたから次ぎに聴いた。

「家にはお父さんやお母さんや、兄弟たちはある」

「えゝ、皆んな達者で。両親と兄さんと弟が二人ですわ」

「僕は親父と妹と三人だが、兄弟たちが多いと心丈夫だらうな。……それで僕の所にくる。いま居る巴町の笹原さんはどう云ふ風になつて居るの」

「えゝ、笹原さんなら、あすこ何時(いつ)出てもよいのですわ」

「左う」

「結婚はあたし初めてですから、あたしのうちには、あなたも初めてと云つて下さるでしよ、ねえ」

 と、彼女は取縋る風に寄添ひいふのだつた。智恩院の黒門の前から右手の寺中の境内の方へと向つた。広い路傍の片方の木立に行きこゝではユツクリ接吻できた。再び歩きだして話した。

「結婚のこと()しお父さんが聴きいれなかつた場合、それでも僕の所にくる」

「えゝ、来ますわ」

「親たちをすてゝくる」

 彼女は俯向勝(うつむきがち)に足をはこむだが、これには直ぐに返事されない風に黙つたが、漸くにふかく点頭(うなづ)いて「まゐりますわ」といつた。

 信一は自分を立貫く心持だつたからかく手づよく念をおしたが、之は彼女に背負はせるには荷が勝つかも知れないけれど、仕方がなかつた。深く点頭いたのを見ていぢらしく思つた。こゝの古門と云ふ門のわりに大きい(しきゐ)から街に出で、白川に沿ひ片側町をさかのぼり、宅の方の小路にはひらずに尚あるいていつた。「妾は昨晩湯殿で妙に心細く哀しくなりましてボロボロ泪が出て仕方がなかつたの。今日はお帰りになるかと待つても見えないしそれで心細かつたのでせうかしら。しますとお戻りになつた声がしたのでまあよかつたと思ひましたわ」と、彼女は頬笑みこんなに曰つた。また一昨日は南禅寺から銀閣寺などへ菅さんに案内され(くるま)で見物にいつた話をした。話しつゝ疏水端(そすいばた)、広道など歩き、粟田神社の前から宅の方に向ひ、近所の染物工場の窓の下で再び接吻を交してこゝで別れ、彼女は背を見せて門口ヘいそいだ。

 かく話が進むだから信一は、今日は菅さんや蒲生君たちに告げたいと思つた。菅さんは毎日客が一しよだつた。どうも云ひ出す機会が見つからなんだ。と夫人に見とほされ、てい子さんの方から先に曰はれるのだつた。

 この日信一は夏の麦稈帽(むぎわらぼう)も冠れないので鳥打帽がほしくて、こんな買物は蒲生君が明るいので共に丸善に行き、「この会社のは質実でよい」と蒲生君にいはれてエーガーといふ英国のマークのあるやつを買つて()ぶり、それから新京極など歩いて晩に粟田口に立寄るのだつた。

 菅さんは見えなかつたが夫人は座敷に出て二人に会つた。笹島さんが、出て来ないので、夫人は「こちらにいらつしやらない、ねえいゝことよ」と招き、彼女は茶の間から振向き、容易に出て来なんだ。暫時居て二人は立ち、玄関に立つた。夫人は「(わたし)おたづね致したい事があるの一寸(ちよつと)」と信一に近づき、すぐに導きつゝ座敷のまた奥の室に行つた。箪笥の傍に夫人は立つた。信一は自分たちの事と様子から分つた。先夜泊つた晩の事など多分さとられたと思ひ廻したり、又旅行に立つ時彼女と二人食事などさせられた事が夫人の心尽しと取れたから。

「先程(わたし)の方から笹島さんにおたづね致したのよ。妾承はりましたけれど……、このことはねえ、御自身で菅に仰有つたらどうお。菅にさう仰有つて頂けば、妾それですむことに思ひますわ。なぜ仰有らないの」

「僕、いはうと思つて居たんですが、皆んなの前ではいひ難いし」

「えゝ、ねえ」

「このあひだ中から話さねば悪いのですが。急に東京に行き、戻つても菅さんはいつもお客さんが一しよだし、話の機会が見つからなんだもので」

「えゝさうですわ。御自身で菅に仰有つてごらん遊ばせよね、それできつとお(よろ)しいことよ」

「えゝ僕から話します」

 立話で、両方笑を湛へ、これで、信一は玄関に戻つた。蒲生君は帽を被ぶり立つて居た。買立ての帽を被つた信一は、

「御新調で」と夫人にいはれた。

 信一は、蒲生君とはしじう機会を持ち、最初に菅さんにいはねばならぬと云ふ心持から、蒲生君には悪かつたが未だよう持出さないのだつた。事柄の関係上、菅さんに第一番に話したかつた。信一にこんな堅くるしさがあつた。

 次の日それで出向いたら丁度、菅さん一人だつた。差向ひに坐つたが信一は、太い庭の松など眺め、未だもぢもぢして居た。

「少しあるきませうか」

「うん、出よう、今日は中々いゝ天気だ」

 信一と菅さんと二人歩くと二人共に足早やになるくせがあつた。近所のいつもの広い石畳の坂路を上つて真直ぐに向いた。

「このあひだ中から話したかつたけれど、いつもお客さんがあつて、工合悪かつたりしました」

「うん、うん」

「僕、笹島さんが好きになつて……。これはずつと前からですが、ずつと前に自分の気持に心づきはつきり心持は極つたんですが、皆んなに、こちらの気持丈け曰つて仕舞ふことはどうかしらと思つて、黙つて居たんです。今月の初めになつて、両方同じだつたことが知れたんです」

「うん、うん」

「それで一昨日の晩に、このあたり二人して歩き廻つたりしたわけです。段段に話あつたら、笹島さんは僕の所にくるやうなことを云つた次第です」

 信一は急ぎ勝に要点を思ひ、細々(こまごま)よう話さずに、足りない気もされ大体これだけだと思つたりした。菅さんは、聴きとつた。

「うん、てい子は、何か二人がそんな様子らしいと、いつて居たやうだ。てい子は昨日の昼笹島さんにたづねたら、向ふも白状したさうだよ……二人がさうなつたら、てい子の此の夏の理由の分らぬ病気に(やつ)と意味が出てくるわけだね」

 と、軽く笑つて菅さんは、さらに聴き直した。

「結婚の話まで運んだのか」

「えゝさう」

「そりやあ、いゝだらう、賛成だ。……君と笹島さんなら、鬼に金棒だらう」

「えゝありがたう」

「僕は、君は未だ一人身もよからうと思つて居たが、未だ三十だから急がないでもね」

 と、信一に思つて居た事を告げ、また

「笹島さんはあゝ云つた勝気だから、見合などのお嫁入には承諾できない側で、今日まで独身で居たやうだ。当人にめづらしく結婚する心持が起きたと云ふなら、これは当人にとつていゝ事だと思ふね。こんな機会が来なかつたら結婚できない人だらうよ。……()うでなかつたら、先生の笹原婆さん(ずつと独身で来た)がまたお手本だね」

 と菅さんは、笹島さんが段々婚期が過ぎて行くからかく見て気にかけて居たのだつた。

 信一は、話の結果快活にされた。往来から、小高い広場の真葛原に入り真向きに歩きつゝ、信一は先日菅さんの一の意見に無闇と反対した、あれを謝りたい気持で序でに持出した。

「先日、三十日の晩三条大橋から歩いて、恋愛結婚より見合結婚の方がよい様に云はれた折、僕は無闇と反対したんですが、あれは笹島さんに心持があつて、今日の下心があつたからです。又僕の下心があの晩さとられ意見されるのかと思つたんです」

 真葛原がつきて、突当りの崖は、人の踏禿げた路跡を附けてゐた。「(こゝ)に登らうか」と菅さんは人の踏禿げの小径に近づいて登つて行き、直ぐ後ろに信一は従つた。上に登ると(やゝ)平らで、二人は、高く持上げられた気持がされた。高台寺の屋根が下に見えた。椎松杉其他の蘚着(こけづい)た木立の中に入りずつと足許は平らになつた。

「あの晩は君にそんな事があると気付かなんだ。××君などの場合を考へたからだ。××君が東京でカフエーなどの若い女を選ぶんだつたら……左う云ふ場合は自分一人の狭い範囲で選ぶわけだが、それより見合などの方、多人数の助力があるから選ぶ範囲が広いと思つた。結婚は結局一人を選び出すのだ。恋愛と結婚とは別々だと思つた。あの晩は左う話したやうだ」

 信一は首肯(うなづ)いて、また友達の××君を思ひ、すぐに自分の現在に頭は還つた。菅さんは、夫婦生活について心付いた事を信一に振向いていつた。

「僕の祖母は中々気性の強いたちだつたが、家庭の事は一切自分で取仕切つてやつて居て、家事以外祖父のやる方面には、又決して一切口だし仕ない方針だつた。それが極めて工合よくいつた。君の所も左ういくといゝと思ふね。笹島さんは中々勝気だから」

 信一は聴いて菅さんの作に描かれたお祖母さんを思ひ出し、前から親し味を抱いて居たが、今お祖母さんを例に持出されて有難いと思つた。自分たちも左う行きたいと思つた。

 森の中から出て、ずつと下り坂路で足許(あしもと)は下つて居た。岨路(そわみち)に日が射した。稚児淵と云ふ瀦水池(ちよすゐち)の傍通つた。信一は、水引の花を一筋摘取つた。信一は花など持ち今日はふさはしい気持がされ、却つて気になり、暫時して捨てた。又路傍に咲いてゐたから手翫(てすさ)びに摘取つた。

「君の長篇は未だ完成しなかつたね。続きをかくといゝが、笹島さんから文句が出ると工合が悪いから、最初に云つて納得さすんだね」

 信一は以前の女のことをかいたラヴストリーのことをいはれた。

「僕の小説は大方読んだやうです。あれは事実だと曰つたら、亡くなつた女と云ふ点で納得したんです。小説を作る場合は何も曰はないでせう」

「うん、それならいゝがね。……これから笹島さんは君が浮気をしたらきつとこはいだらうよ。浮気、できないね」

 二人共笑つた。すぐ路は広い往来に合はさつた。「花山洞」のトンネルを出た往来だつた。駄菓子置いた茶店、牛車、行商人など、急に鄙びた風物だつた。往来から手の下には山科の村里が点々と指さゝれた。

「すつかり好い秋だね。どこもかしこも実に好い気持だ」

「こゝは田舎びて居ますな」

「こゝから竹鼻は僅かだらう。竹鼻に別荘の貸家があるさうだ。粟田口の宅は裏の部屋が冬寒い、子供のためによくないからね。きたついでにこゝから貸家に廻つて見ないか」

「行つて見ませう」

 粟田口から殆ど一息にやつてきたが、又すぐ歩き出した。

 

   四

 

 信一は、「僕は笹島さんと一しよになるかも知らぬ」と、蒲生君と食卓に向合つて曰つた。庸子さんは一寸何か曰ひ好意をみせた。蒲生君夫婦は両方共好きで一しよになつたから、かくいふ詞から凡そ察した。信一は他に別に曰はなかつたが次ぎに「さうなつて、当分此内へ一つになつても、いゝ」と(あらかじ)め、諾否を聴きたくて持出した。「笹島さんなら私共遠慮がいりませんし、ねえ」と庸子さんが良人に向いた。何時(いつ)も口数の少ない男の蒲生君は只首肯いた。信一はしじう勝手我儘を曰つて居たから、かく事務的に曰つて受容れられた。

 皆んなに話して、信一は肩の荷がとれた。又皆んなから、何気なく見られた。之までとちがつて二人一しよの待遇される風になつた、と信一は思つた。笹島さんは季節にいる衣類など夫人に相談して拵へた――所持品の震災で焼けたことが笹原さんからの手紙で知れ、持物は少しづつ更に拵へるのだ――。東京行の汽車も平常に復つたが、彼女が戻るなど信一には考へ得られなかつた。

 女中に留守居させて散歩旁々(かたがた)粟田口に行つた。「彼岸の好い天気だ。皆んな一しよに出よう」と、菅さんはいつた。夫人は七月の発病以来今日初めて戸外を見ると云はれた。疲れる用心から下の子供を抱き俥の上で緩々(ゆるゆる)行くのだつた。円山(まるやま)の日曜の人出の中を通り、病後のやつれの目に立つ夫人は、歩きたい風で、それから代つて子供三人が相乗(あひのり)積込(つみこま)れた。菅さんが連立つてくるといつでも高台寺の甘酒屋で休む例で、甘酒屋の「蘭の湯」を今日は笹島さんがめづらしさうに呑んでみた。電車道に出で、赤鳥居の立並むだ狭い路地の中に子供や女連が見に入つた。ほの明い路地の内に彼女の顔がくつきりと浮出た。四条通のシーウインドウ、シーウインドウに皆んな近寄り近寄り、(ある)めりんす店で、女連は買物の見立に(ゆつ)くりかゝつた。(こゝ)からてい子さんは俥で一足先にと戻つた。他の者は新京極、三条通を歩いて戻るのだつた。或量器店から笹島さんは出て、二尺差と一尺差と手に持つた。信一は彼女に、「晩に山科にこない」、「え、まゐりますわ」と曰つた。

 粟田口で晩飯と雑談で九時頃になつたが信一等の立ちかけた時、彼女は夫人に向いて

「今晩あちらで何か話があるといはれましたから」

 と、出かけたいやうに曰つた。信一は先程から一しよに行きたかつたが

「今晩は遅いから」

 と傍でいつた。菅さんと夫人から

「行くといゝだらう」

「若し遅くなるやうでしたら、お泊りになつても宜しいでしよ、ねえ」

 と左ういはれて、一しよに出かけるのだつた。

 宅に戻つた。蒲生君夫婦は下の部屋にはひつた。二人は二階の座敷の卓に差向ひに坐つた。ゆき(女中)が紅茶の道具と熱い湯を持ち運んだ。卓の上に紅茶と菓子と置かれ、互に別段に語り合ふ程はなかつた。――彼女は二三日前子供たちと茲へ初めて遊びにきてあたりの景色に見とれ、昨日(信一が菅さんに話した次の日)は大津石山見物にいつたと云ひ、菅さんは往きの電車の窓から「未だ寝てゐるね」といつて二階の吊つた蚊帳が見えた等、いろいろ話の種があつた――今晩は只顔眺め合つて居る工合だつた。

「泊つたらどう」

「でも、妾……」

「かまはないと思ふが、皆んなに話したんだし。これでいゝのぢやあ、ないかな」

「でも、今晩はあたし、いけないのですもの。ねえ、今晩はかへつた方がよろしいの」

 此詞から体の方の故障が聴きとれた。

「では。送つてあげよう」

 電車道に出る小径で、信一はいまは宜い様に思ひ

「これまで大切に守つて居た」

 ときいた。彼女は深く点頭(うなづ)いた。

()う。処女」

「えゝ、それはもう」

「初めてか、有難う有難う。これまで左うと信じられないで、処女でないたつてよいと思つた位だ」

「どうして」

「いや僕は、年頃以上の女に処女なんてごくまれだ位に思つた。無礼だが御免なさい。僕は近づいた女が玄人だつたから、つまり経験が未だなかつたので、自分の物知らずから無礼な見方をしたが……」

 信一は之までの女性観が改まる思ひがされた。偏つた見方だつたが、直つた。結婚前の婦人の大部分はやはり処女だと思つた。また世間の婦人に抱く疑惑が漸くとれた。

「あたしは大丈夫よ」

「有難う。礼を云ひたい、礼を云ひたい。大切なものを持つてゐるんだなあ宝物を。僕は仕合せ者だ」

「え、悦んで頂いていゝの」

 そして歩きたくて歩くのだつた。明るい電車は傍通つて過ぎた。月夜の日岡の峠路を上つて下るのだつた。彼女はセルの着物の肩や袖の上を手で撫で気にした。折々気にした。肩に夜露を感じるか、冷え冷えしてきたのだらう。粟田口に行きついたら寝鎮つて居た。門叩いたら、女中が出て開けた。信一は玄関までおくり届けて、別れて引還へした。やつと終ひ電車に乗込むだ。

 

 次の日例の通りやつてきた信一は、奥の室の夫人に呼ばれてそこに行つて坐ると

「こよみを見ましたらお嫁入には二十六日と二十九日と日が()いさうですけれど。今笹島さんとお話して居る所ですわ。私共と蒲生さんと、皆んなご一しよにどこかで御飯をいたゞいて、披露つてことになさいましたら、いかが」

 と、いはれて信一は、またトントンと運ぶやうに思つた。昨夜戻つて一人枕に付き、二人が一しよになるには何か祝ひがあつても宜いと思つたが、どんな形でやるかは未だうまく思ひ付かなんだ。てい子さんの思ひ付きは宜かつたから信一は首肯いた。

「日はどちらになさいますか、いつそ二十六日にきめたら、いかゞ。二十六日と云へば明日ですわね。お早い方がいゝでしよ。(わたし)病気してからこつち大分せつかちになりましたのよ。笹島さん明日で宜しいこと」

 と、夫人にいはれて、笹島さんは頬笑み点頭いた。菅さんが外から戻つてきて、この話に混つて

「それでいゝが。笹島さん、家の方は、大丈夫かね」

「えゝ。大丈夫です。あとから手紙をやります」

「まあ子供ぢやあ、ないのだから」

 と菅さんは曰ふのだつた。信一はこのあひだの晩あのやうに曰つて彼女は深く首肯いたわけだから、いま「大丈夫」と返事したと思った。これで話は定つた。

 彼女は晩に、襦袢のえりか何か買物に行きたいといふと、夫人から「ご一しよにいつて頂いて見立(みたて)ておもらひになつたら」と曰はれた。また夫人から「明日座敷に花が欲しいのですからお帰りに花屋へお寄りになつて」と信一はいはれた。

 明るい月魄(つきしろ)が見え一しよに円山の方角に向つた。人に見られない所人のきてない所と選むで、智恩院の境内に入り、上の一心院の中抜けて円山に出ようかと登つたら寺の門が開かなんだからまた引還へし、こんどは鐘楼の傍を通つて、見晴しの場所に出た。月に浮かれた人々に混つた。街の賑やかな燈火や郊外遠くまでキラキラうごく電燈などに向いて暫時たゝずむだ。長楽寺に下りて堂の横で、また唇と唇を合はせ、「明日まで待ちきれない位だ」とこんなに曰ふのだつた。それですぐに人の声のする方にと出て行つた。四条寺町の「襟正」で彼女は帯止も半襟と同じ藤色にした。信一は買物の金をやつて出た。夏の晩菅さんたちと行つて単帯(ひとへおび)を選むだ話など笑つて曰つた。祇園の花屋から中で一等目立つ雁来紅を手に取つて出た。還へり路、明日は何処へ飯をくひに行くか話合つたが、手頃な家が思ひ当らなんだ。

 戻ると夫人から「まあきれいな花。でもこれは一本花ではいけないことよ」と、いはれた。彼女が明日の朝早く別に取つてくるといつた。「明日はどこへ行くかきまつたかね。四条の神田川のうなぎはどうだ。細く長くと云ふ諺もあるから、いゝだらう」と菅さんが笑つていつた。其処にきめた。

 午前から支度して皆んなで出ようとしたところへ、蒲生君宛の電報がきて、庸子さんの兄さんが今日国からつくと云ふのだつた。で、庸子さんはのこることになつた。信一は不意に一人抜けたから此日の気持から一寸の間何か淋しかつた。

 粟田口では、床の間の朝鮮の壷に今日は紫苑(しをん)が沢山挿し込んであつた。「紫苑がきれいだね」と菅さんは眺めて居た。信一はこの日写真をとつて親たちに送つてやりたいと思つた。菅さんの器械の残りのフイルムで足りぬから四条まで出て行つた。フイルムを持ち、戻つてきた。彼女はてい子さんから借りた紋附の支度ができた。信一は羽織袴を著た。菅さんもさうした。

 座敷の方から間の唐紙(からかみ)しめて、四人坐るのだつた。ルリ子さんがきて、朱い三組の盃と銚子との傍にすわつた。昆布などの肴の品も用意されてあるのだつた。菅さんと夫人と「こちらから先きでしよ」「左うかね」などと指図で、ルリ子さんが銚子を持上げて、朱い盃が何遍も取交されるのだつた。信一は形式に()かず離れずの心持だつた。菅さんの夫人の心づくしは詞なく有難く思つた。彼女も()うのやうだつた。

 このあと、座敷の縁側に革座布団を敷き四人並むだ図を、蒲生君が庭先から写真に撮るのだつた。庭に残暑の強い光りが射込んで居た。菅さんは袴の膝に埋る工合に手を組み、夫人と彼女も膝に手を重ねたが、信一は真似る風だつたから両膝に手をおき真直ぐに向いたら写された。両人のは二枚撮つたが信一はワザと平気にして却つて落付かなんだ。また普段のなりで銘々一人づつ、子供達なども、あるだけのフイルムに撮るのだつた。

 電車で「神田川」へと向つた。鴨川沿ひの二階座敷に上り、向ひ側の屋根の上にずつと見える、東山は西日が上の方を照して鮮かだつた。信一は酒飲ではないが今日は酒が(うま)く厚味があると思つた。「うん、酒がうまいね」と酒飲でない菅さんも同感を持つた。うなぎは東京風の焼方だ。菅さんは女中と「神田川」の話などをした。真向の東山に月魄(つきしろ)が見え初め「あの月の出るまで居よう」と眺めて居た。

 戸外に出て、「少し散歩しないか。てい子は先に俥で還つた方がよいよ、未だ夜分は用心しないと」と菅さんは曰つた。子供達はお母さんとかへると云つたから、俥二台よんで、一台にルリ子さんとチヅ子さんと相乗(あひのり)で行くのだつた。庸子さんにと、土産の折などさげた、蒲生君は客があるから一足先きに戻ると云つたから、信一は「今晩お客さんは下にやすむで欲しいな」とこんなに曰ふと、蒲生君は点頭(うなづ)いた。菅さんと新京極のキネマ倶楽部に入つた。京都の活動小屋を彼女は初めて見た。終りの一見残して「もうよからう」と菅さんがいつて起つのだつた。

 …………………

 …………………

「今日すぐに、菅さんへ一しよにお礼に行かうよ」

「えゝ。あたしは持つてくる荷物もありますし」

 あさ起きると二人は()う曰つた。信一は何よりも感謝の気持が一杯だつた。

 粟田口では子供たちが先づ曰つた。

「笹島さん、ゆうべ蒲生チヤンにお泊りになつたの」

「笹島さんは竹内さんのおくさんに、おなりですよ」

 と、笑ひ顔のお母さんからいはれて子供たちはケゲンな笑顔で見戌(みまも)つた。

「ねえ、笹島さんではをかしいわね。お名前に致しましよね。れん子さんですわね」

 と夫人はいふのだつた。――あとでも夫人からフイと「笹島さん」が出た。子供たちはなほ(むつか)しかつた。信一自身から「れん子」と呼び難く、詞かけるをり「あの」とか「おい」位だつた。――信一は彼女と荷物の傍へ行つた。大きい信玄袋一と風呂敷包二あつたが、今日は手にさげられる分のみ持ち戻るのだつた。

 宵に二人は二階に上り、まもなく彼女が床のべるのだつた。信一は「まだやつと八時だ」と笑ふと、彼女は「する用がほかにありませんもの」と無邪気に曰つた。次の晩は彼女が「床とつておく」といふ気持ではなく早く床()べるのだつた。

 信一は食物の好みがかはつた。淡泊なものより、油コイものがよくなつた。今日も鋤焼(すきやき)明日も鋤焼で、飽かなんだ。一しよに出歩けば、寺町の村瀬や三島亭に立寄り鋤焼で飯を喰べた。鯉こくを喰べたいなあ、といつて錦から鯉をさげてきた。彼女は料理の上手な蒲生君夫婦から煮たきを教はるのだつた。信一は、支那の小説の金瓶梅(きんぺいばい)をよみ、金瓶梅は性慾生活が主に描いてある、中に料理のうまさうな食物のことがしばしば出て、たべ物のことを沢山附加へた作者はよく見て居ると思つた。

 信一は「小さい賛沢」と自分からいつて、乱費家の気持になつた。一人者だと用心したが彼女がきてから自分の用心はいらなくなつた心持だつた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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瀧井 孝作

タキイ コウサク
たきい こうさく 小説家・俳人 1894~1984 岐阜県に生まれる。文化功労者。『俳人仲間』により日本文学大賞。

志賀直哉に私淑して久しく、1927(昭和2)年1月「中央公論」初出の掲載作にも、直哉一家が京都粟田口の頃の日々に溶け合うように、作者とその夫人の記念の日々が好もしく木訥に語り継がれ、瀧井文学代表作の一つと成っている。芥川龍之介の死の前年であり、瀧井は終生芥川賞の選者を真摯に務めた。

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