クレバスに立つ
リューマチを
屋根裏を這ふズイムシのぼとぼとと夜更けし囲炉裏の灰中に落つ
白雪に蟻うごめけば冬ふけて病みこやる吾をののきにける
半天がずり落ちしごとく平野断つ雷雲に
丸き実をザボンと言ひて恥ぢらひし少女駆け去る青竹の陰に
雪原にひともと残る
参観者みな去りし後知能低き児の母訥々と懇願したり
弁解の巧弁はかく限りなく彼は冷静を取り戻したり
孤りなる行方おもへば空限る
木枯らしのとだえし
ほととぎす幾朝聞けど
万年雪の跡はいちづになびき伏す枯れ色の草に秋日なごめる
けふ一日曇りに聳ゆる
きはまれるきみのしぐさのかなしければ葦の一葉の揺れに揺れにき
夜更けし
狂ほしき夜あけてまた君を抱く耐へ耐へて来ぬ恐れ恐れ来ぬ
夜ふけて募る吹雪に遠く来し妻の冷えたる唇吸ひつ
物みなの臭ひに敏く痩せ痩せて身籠る妻が吾をも疎む
産み終へてまどろむならし深々と清き平安を女は占むる
低俗に妥協し過ごす
あかときの雲吹きのぼる
火口湖の真中に雲の触るるときひろがる波の幽かなりけり
おのづからなる響きあげて雪渓の下にただちに藍をなす水
雪残るチルクスタールに雲落とす影は移ろふ這松のうへに
雨含む雲おもむろに皺みゆくカール由々しく午後荒るるらし
蒼穹を鋭く黒く抉る山雪を止めず今日ぞ窮めむ
あした湧く霧の
干柿を吊る軒下に筵敷き柿の皮干せりなべて
茜さす空削ぎ
ガス動く雪渓ふたつここに合ひ大きく捩れクレバス走る
夕づきてたちまち寒しクレバスに渦巻く霧の烈しくなりつつ
雪渓をスキーに下りくる一人をり翔ぶがごとくに遊ぶごとくに
月山は天の極みに時雨るるか虹ふたつ
黄の余光受けて片照る月山の雪深々と曇りに聳ゆ
生き返るごとく清しく水ひびき雪田のめぐり水芭蕉咲く
絶壁の崩るるごと来し鉄砲水夜の闇に見てただにをののく
沢ふたつ合ふ濁流の天に響きまだ逃れ来ぬ友ひとり居り
夕べより天狗岳めざし我歩み大朝日岳に銀河傾く
疲れきり峰に仰向きに臥すしばし触るるばかりに銀河迫り来
雲海を見下ろす尾根に星垂れてつなぎ止め得し命かなしむ
行者のごと心つつましく歩み入る樹氷のひまに月山も見ゆ
空の藍窮まりて黒し幾千と樹氷群れゐて心充ちゆく
背に負へる子は癒え来しか唄うたひ白くたたなはる山夕焼けつ
狭き家を子らはうとみて雪道に走りつ転びつ我にまつはる
光彩のごとく近づき笑む君になごみてけふの仕事はかどる
冬の雲の奥に日いづるかぎろひも寂しかりけり会はぬうつつに
スト回避に論落ち着くか懐炉出し火をつけて吹く教師老いたり
開けて寝し窓に星群れて
貧しきはいささかの金に諍ふを父母に見たりき今日われと妻
手に唾し乏しき銭を数へゐる
あとは子を生まぬと不意に言ふ妻の今年の白髪を吾は抜きをり
手指荒れ冬水に
戸を閉めし響きに百合の花落ちつ率然として老いは襲ふか
小型核を自衛のために持ち得ると記す白書に幾日こだはる
残り湯に浸りつつ今宵思ふなり媚びず
目を瞑り命疲れて聞くものか庭の松の葉に降り細る雨
かく病みて生きむわが子か背に負ひて夕の吹雪に向きて帰り来
今日ひと日心寂しく勤めたり至誠と言ふも簡単ならず
わが白髪抜くといふ子よ体弱き汝{な}が
どくだみを採りて洗ひて吊り干せしにほひ手にあり妻抱くとき
狭きテラスに妻の
酒に酔ふわれをいたはるごとく言ふこの少年もいま反抗期
リューマチに膝腫れし妻が風邪の子を背負ひて行くを黙し見送る
六百万の金思ひきり借り受けて昨夜の眠りのまどかなりけり
盛り上がる潮おし戻し海に入る冬最上川を
雲透す光芒ふたつゆふべ照る駿河の海を山越しに見つ
寂しさは悪寒にも似し年の暮命令形に子らにもの言ふ
氷のごとき心に酒を飲む夜半の空に響かふこほろぎのこゑ
夜半の田を見え隠れ飛ぶ蛍居り窮めがたきをおもひて久し
うつぶせに臥して怒りを静めをり汗冷えゆけばいのち寂しき
三月見ぬ母はまた少し小さくなりわが後につき雪道歩く
母老いてなに願ふらむ慈恩寺にもコロリ観音あるとふと言ふ
用のなく生くる辛さを言ふ母よ趣味ひとつ無く農に老いたり
コマクサの見るかぎり咲くこの峰に神のごとくにわれ沈黙す
いのち充つるものの静けさ雨のなか泰山木の花咲かむとす
有明けの月照れる野の果てしなし或いは道東に生きむ我なりし
陸橋を夕上りきて時雨止む北空低く虹たちわたる
罪人のごと慎みてゐるひと日人来たり笑ふケラケラケラと
農継ぎし兄も母に似て腰病めり年々の冬の土方三十年
妻と子の諍ふ声す黙し聞き子より妻よりわれ寂しくて
いそしみし甲斐あらざりし生徒呼び励ますわれのことば平凡
茫々と炬燵に寄りてひとり居り過ぎ行く日々も来る日も虚し
友と来し日は若かりき静かなりき日のくれぐれの庭と石と苔
盆地跨ぎ立つ冬虹を仰ぎゐつこの頃とみに心すさむなり
木枯らしの遠退く音を聞きすまし夜更けひとりの酒飲まむとす
口論し和解し酒を飲みつづく酔へば病も死をも恐れず
霧寒きいただきにしばし歌碑を撫づ生ける茂吉に触るるごとくに
大晦日の夕暗む道来る妻は幸買ひしごと花の鉢持つ
雨の中
足曲がらぬ友が非常階段下りゆくを追ひ越すときに少しこだはる
咲き初めし
埃かぶる厚き聖書を拾ひ読むわが寂しさは君知らざらむ
コンプレックスに触れずに話終へしとき穏やかな眼を
生き過ぎて顧みられぬ侘びしさを漏らす日多き母となりたり
月山の峰下り来る山伏の錫杖ひびき
月山湖の上に月あり
白人が日本語静かに話しゆく苔青々と冬に入る庭
鳥ひとつ飛ばぬ高原夕づきて白き樹氷の雫も止みぬ
樹氷の影長く延びきて山に降る
夕づきていたく幽かなる茜染む樹氷群のなかにわれひとり居り
国原はひと日靄だつうへに照る日差しのありて
九十になりたる母よよく笑ひ
合歓咲けり合歓咲きたりとひとりごつ登校拒否の生徒
授業見せるために指導案書くこともこれが最後か少し気負ひて
おのづから間無く散り来る藤の花かくのごときか細胞の死も
幸せを忘れしごとき顔写りルゴールを喉にわれ塗りてをり
歩く自然体考へる自然体こんなことを念ふ歳にわれ入る
咲き残るサフランモドキとひと日居り人間モドキが来たりては去る
風呂出でて水虫に薬塗りてをり足いたはらず長く生き来ぬ
目も耳もいたく老いにしわが母よ
百までも生きむ母かと言ふ兄の辟易したるごときその声
母の遺影幾たびも見て一日過ぐ母より父よりわが享けしもの
はらからを離れて見つつゐる煙母のいのちは天に抱かる
亡き夫のもとへ飛天となりて翔ぶ母をまぼろしに蒼天見つむ
納まりて音なき母の骨箱を抱きて歩む村の細き道
教師とし最後の年を争はず生きむとしつつ今日もいらだつ
酔へばすぐ軍歌を唄ふ友と飲むこの付き合ひの長からざらむ
瞑想中を捕らへしとニュース繰り返すやうやくかと言ひ我は座を立つ
座禅草の花に高原の日は差せり糞食らへショウコウ、ゲダツ、ポア
「サイタイホ」も日常茶飯の語と化して今日は教祖と銀行理事長
露天風呂に降る春雨は霧に似て毀誉褒貶に遠くわが居り
李白詩集携へてきて今宵読む消灯迫る病室のすみに
わが尿に酒のにほひの朝も夜も無き日々つづき病癒えゆく
仰向きに病み臥す暑き昨日今日生けるミイラのわれに汗出づ
人の
人込み合ふ地下鉄にサリン撒きたるを恥ぢ言ふ男うそぶく教祖
人滅ぶる予言の本は昨日読みき
ホルマリンに四十年保つ茂吉の脳生ける人のごとわが前にあり
茂吉逝きし昭和二十八年遥かなりわが青春の始まりし年
さりげなき君のことばに
岩険しきガレバを越えて息あえぐ妻よそらそこに
職無きは楽しかりけり雨のなかつぎつぎに咲く合歓見つつ今日
灯りひとつ無きパグデインの夜更けて全天銀河なだるるごとし
夜更けし僧院のうへに月照れりそがひに白くアマダブラム聳ゆ
夕映えは高きエベレストにローツエに残りて渓の冷えくる早し
壮大に夕焼けの色の動きゐてアンナプルナ聳ゆマチャプチャレ聳ゆ
氷河
カラコルムも氷河の後退進むかと見下ろすモレーンの乱雑に過ぐ
午後早く岩尾根の影伸びきたる荒き氷河にわが歩み寄る
ラカポシの峰離れたる月細く杏咲くフンザの村を照らせり
ほしいままにカラコルム見むと登りきぬ薄明に白く天のなかの峰
雲切れてああ遥かなる高みなり孤峰ナンガパルバット
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/07/18
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