ゲーテの言葉
序に代えて
太陽が照れば
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考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに
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人間のあやまちこそ人間をほんとうに愛すべきものにする。 (「格言と反省」から)
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鉄の忍耐、石の辛抱。 (一七八〇年五月末の日記から)
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真理に対する愛は、至る
人間と人間性について
人間こそ、人間にとって最も興味あるものであり、おそらくはまた人間だけが人間に興味を感じさせるものであろう。 (「ヴィルヘルムマイスターの修業時代」第二巻第四章から)
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各個人に、彼をひきつけ、彼を喜ばせ、有用だと思われることに従事する自由が残されているがよい。しかし、人類の本来の研究対象は人間である。 (「親和力」第二部第七章から)
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人間は、生来のものであるばかりでなく、獲得されたものでもある。 (「格言と反省」から)
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人間は、なんと知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう! (「イタリア紀行」ナポリ、一七八七年三月一七日、から)
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碑 銘
少年のころは、打ちとけず、反抗的で、
青年のころは、高慢で、御しにくく、
おとなとなっては、実行にはげみ、
老人となっては、気がるで、気まぐれ!――
君の墓石にこう記されるだろう。
たしかにそれは人間であったのだ。 (「警句的」から)
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「何をそんなに考えていらっしゃるんでしょう。人間は決して考えてはなりません。考えると年をとるばかりです。・・・・・・人間は一つのことに執着してはなりません。そんなことをすると、気が変になります。われわれは色々なことを雑然と頭の中に持っていなければなりません。」 (「イタリア紀行」から)(一七八六年一〇月二五夜ペルジヤで。馬車に同乗したローマ法王庁の一大尉が、考えこんでいるゲーテに向かってイタリア語で言ったことば。)
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人間というものは、自分の欲するままにどちらに向こうと、どんなことを企てようと、結局はいつでも、自然によって
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全く人間と言う
どいつもこいつも違えばこそ。
隣の人が不幸に襲われれば、大口あいて喜んでいる。
恐ろしい火の手が上がると、それっと皆駆け出す。
痛ましや、哀れな罪人が仕置場にひかれて行くと言えば、みな見に出る。
今日も今日とて、罪もない避難民の気の毒な様を見に、
みな
いずれは自分の身の上を見舞うことを考える者とてありません。
こうした浮わついた気持は勘弁なりませぬが、やはり人間の持ち前ですなあ。 (「ヘルマンとドロテーア」第一の歌から)
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「完全は天ののっとるところ、完全なものを望むのは、人ののっとるところ。」 (「格言と反省」から)
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天才的な営み
こうしてわたしは、たえまなく
聖ディオゲネスのように、わたしのたるをころがす。
まじめなことあり、冗談のことあり、
愛あり、憎しみあり、
これかと思えば、あれ、
無かと思えば、何かあるもの。
こうしてわたしは、たえまなく、
聖ディオゲネスのように、わたしのたるをころがす。 (「警句的」から) (ディオゲネス(前四一二~三二三ころ)ギリシャの哲学者で、原始的な生活を実践した。)
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人間があんなに犬をかわいがるのに不思議はない。お互いに
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人間の中には、奉仕を欲する性質がある。それゆえ、フランス人の騎土道は一つの奉仕であった。 (「格言と反省」から)
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人間が、かつてできたことを今でもできると考えるのは、きわめて自然である。
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自分と似たものを愛し求める人もあれば、自分と反対なものを愛しこれを追究する人もある。 (「格言と反省」から)
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人間は、何を
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人問がほんとに悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる。 (「格言と反省」から)
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能あるものは、そっと黙っていよ。
そっとしておいてもおのずから現れて来る。
どんなに装ってみても、
結局は、人の問題だ。 (「温順なクセーニエン」第三集から)
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人類ですって? そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。
将来も存在するのは人間だけでしょう。 (ルーデンへ、一八〇六年)
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憎しみは積極的不満で、
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人間はけだかくあれ、
情けぶかくやさしくあれ!
そのことだけが、
われらの知っている
一切のものと
人間とを区別する。 (「神性」という詩から。一七八一年ころの作)
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人間というこの世界の小さい神さまは今も同じ型にできていて、
天地の最初の日と同じように気まぐれです。
あなたがあいつに天の光のうつしを与えなかったら、
もすこし
人間はあれを理性と呼んで、それを
動物よりもっと動物らしくするためにだけ使っています。
・・・・・・・・・・・・・・・
人間という
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印象を
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人の霊は
水にも似たるかな。
空より来たり、
空へ昇る。
再びくだっては
大地にもどり、
永久に変わりてやまず。 (「水上の精の歌」一七七九年一〇月作詩、から)
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否定するすべての霊の中で、
わしが一ばん
人間の活動はしょっちゅうたゆみがちだ。
ともすると絶対的な休息をしたがる。
そこでわしは、刺激したりひねったりする
人間の仲間にしておいて、悪魔として働かせるのだ。 (「ファゥスト」天上の序曲、三三八~三四三行)
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人間であることが許されないほど腹だたしいことはない。 (「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」第一幕から)
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すべての階級を通じて、一段と気高い人はだれか。
どんな長所を持っていても、常に心の平衡を失わぬ人。 (「四季」秋の部から)
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なんじが終わりえないことが、なんじを偉大にする。 (西東詩編「ハーフィズの書」から)
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私の著作と生活との意味と意義は純粋な人間性の勝利である。 (シュトロノガノフ伯との晩年の談話から。年月日不明)
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私があやまつと、だれでも気づく。うそをつくと、だれも気づかない。 (「格言と反省」から)
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すべての人間らしいあやまちを
清い人間性がつぐなう。 (クリューゲルへ、一八二七年三月三一日、「イフィゲーニエ」について)
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私のあやまちを忍ぶものは、私の主人である。たといそれが私のしもべであろうと。 (「格言と反省」から)
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誤りは真理に対して、睡眠が
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誤りはわれわれを決して去らない。だが、より高い要求が、努力する精神をたえず真理へ静かに引きあげる。 (「四季」秋の部から)
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信用というものは妙なものだ。ただひとりの言うことを聞くと、まちがったり誤解したりしていることがある。多くの人の言うことを聞いてみても、やはり同じ事情にある。普通、多ぜいの言うことを聞くと、全く真相を聞き出すことができない。 (「格言と反省」から)
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道理にかなったことをしようと心がけたことがないばかりに、全然あやまちを犯すことのない人がある。 (「格言と反省」から)
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若いよい頭脳が、他の人々によって既に認められた真理を認めると、それによって独創性を失うもののように思うなら、それは
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どんなに理にそむいたことでも、分別か偶然によって正道に引きもどされないものはない。どんなに理にかなったことでも、無分別と偶然によって邪道に導かれ得ないものはない。 (「格言と反省」から)
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人間と、人間をとりかこむ色々な条件とから、直接生ずる誤りはゆるすべく、往々尊敬に値する。しかし、誤りの後を追う者はそんなに公平に遇されるわけには行かない。
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誤りを認めるのは、真理を見いだすのより
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真理と誤りが同一の源泉から発するのは、不思議であるが、確かである。それゆえ、誤りをぞんざいにしてはならぬことが多い。それは同時に真理を傷つけるからである。 (「格言と反省」から)
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真理は人に属し、誤りは時代に属する。それゆえ、並はずれた人について、次のように言われる。「時代の弊風が彼のあやまちをひき起こした。しかし彼の精神力がそれを離脱させ、光栄を得させた」と。 (「格言と反省」から)
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誤りも、われわれが若いうちは、きわめて結構だ。ただそれを年をとるまで引きずって行ってはならない。 (「格言と反省」から)
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山と谷を越え、
迷いに迷いをかさねたのち、
再び広野に出るが、
そこはまたあまり広すぎて、
いくばくもなくまた新たに
迷路と山を求める。 (「温順なクセーニエン」第一集から)
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ほんとにたくさんの矛盾のうなっているところ私は何よりも好んでさすらう。
だれも他人に――ほんとにおかしいことだが――迷う権利を許さない。 (「温順なクセーニエン」第一集から)
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どんなにたびたび他人を誤解するかということを意識したら、だれも集会であまり多くを語らないだろう。 (「親和力」第二部第四章から)
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もし賢い人がまちがいをしないとしたら、愚か者は絶望するほかないだろう。 (「格言と反省」から)
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権威。権威がなくては、人間は存在し得ない。しかし、権威は真理と同様に誤りを伴うものである。それは、個々のものとして消滅すべきものを永遠に伝え、固く
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努力する人間の困難な問題は、先輩の功を認め、しかも彼らの欠点によって妨げられないことである。 (「格言と反省」から)
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友だちの欠点をあげつらう人々がある。それによって何の得るところもない。私は常に敵の功績に注意を払い、それによって利益を得た。 (「格言と反省」から)
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われわれの持っている天性で、徳となり得ぬ欠点はなく、欠点となり得ぬ徳もない。 (「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第一巻第一〇章から)
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ある欠点は個人の存在には必要である。もし旧友がある特性をなくしたとしたら、われわれには不愉快だろう。 (「親和力」第二部第四章から)
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才能は静けさの中で作られ、
性格は世の激流の中で作られる。 (「タッソー」三〇四~五行)
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個々の人間は、一つの性格を完全なかたちで持ち得るものではありません。それでは生きることができないでしょう。生存するためには、人は雑多な性質を持たねばなりません。 (カロリーネ・ヘルダーへ、一七八八年)
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真に行為する人間を作るものは、才能や、あれこれのことに対する技能ではない。性格は人格にもとづくものであって、才能にもとづくものではない。 (「西東詩編」に対する解説、一八一九年、から)
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大小を問わず、性格とは、人間が自分のできると感じたことを首尾一貫させることである。 (「格言と反省」から)
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人間は、その及ぼし得る一切の影響を、その人格によって人間に及ぼすものである。青年は最も強く青年に影響を及ぼし、そこに最も純粋な影響が生じる。 (「詩と真実」第二部第一〇巻から)
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ああぼくの知ることは、だれでも知り得るのだ。――ぼくの
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地上のあらゆる所有の中で、自分のハートが最も貴重なものである。 (「フランクフルト学者報知」一七七二年八月)
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大きな思想と清い心、それこそ、われわれが神に
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君の胸から出たものでなければ、
人の胸を胸にひきつけることは決してできない。 (「ファゥスト」第一部五四四—五行)
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心をよみがえらす泉は自分の胸中からわいてこねば、心身をよみがえらすことはできない。 (「ファゥスト」第一部五六八—九行)
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頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ! (ヘルダーへ、一七七二年七月一〇日)
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人は、少女については、そのあるところのものを愛し、少年については、それが予想させるものを愛する。 (「詩と真実」第三部第一四巻から)
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青年は教えられるより、刺激されることを欲する。 (「詩と真実」第二部第八巻から)
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若ものよ、精神と感覚ののびるうちに、心せよ、芸術の神は君の道づれにはなるが、君を導くことはできないことを。 (「温順なクセーニエン」遺稿から)
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今日と明日の間には
長い期間が横たわっている。
君がまだ元気なうちに
早く処理することを学べ。 (「格言的」から)
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若者は条理にそむくと、
そのため長い苦痛に陥る。
老人は条理にそむいてはならない。
命が短いのだから。 (「温順なクセーニエン」第二集から)
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試練は年齢と共に高まる。 (「格言と反省」から)
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体験したことをだれしも尊ぶことを知っている。年をとって思索し沈思する人は特にそうである。これだけはだれからも奪い取られないということを、彼は確信と心やすらかさをもって感じている。 (「格言と反省」から)
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人は一生のうちにしばしば述懐する。色々なことに手を出すのを避けなければならない、特に、年をとればとるほど新しい仕事につくことを避けなければならない、と。だが、そんなことを言ったって、自他を戒めたって、だめだ。年をとるということが既に、新しい仕事につくことなのだ。すべての事情は変わって行く。われわれは活動することを全然やめるか、進んで自覚をもって、新しい役割を引受けるか、どちらかを選ぶほかない。 (「格言と反省」から)
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年をとることにも一つの取り
それは、年をとってもあやまちは避けられないとしても、
すぐ落ち着きを取りもどすことができるということです。 (「タッソー」二一七一三行)
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寛大になるには、年をとりさえすればよい。どんなあやまちを見ても、自分の犯しかねなかったものばかりだ。 (「格言と反省」から)
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年をとることは、何の秘術でもない。
老年に堪えることは、秘術である。 (「温順なクセーニエン」第一集から)
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老人は人間の最大の人権の一つを失う。老人は対等なものからもはや批判されない。 (「格言と反省」から)
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ある年とった男が若い女を得ようと苦労するのを、人が悪く言った。「これが若返りの
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当為と能力があるが、意欲がない。
意欲と能力があるが、当為がない。
なすべきことを欲しはするが、それをなし得ない。
なすべきことをなし得るが、それを欲しない。
欲し
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人間の最大の値打は、人間が外界の事情にできるだけ左右されず、できるだけこれを左右するところにある。世界の一切は、建築家の前にある大きな石切場と同じように、われわれの前に横たわっている。建築家の本領は、この偶然自然の
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植物学者が「不完全種」と名づけている植物の部類がある。同様に不完全な人間があるということも言える。あこがれと努力とが行為と能力とにつり合わぬような人間がそれである。 (「格言と反省」から)
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内面のものを熱望する者は
すでに偉大で富んでいる。 (「エピメニデスの目ざめ」一八一四年、から)
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安らかに寝ることを欲するか。
私は内的な戦いを愛する。
なぜなら、もし疑うことがなかったら、
確実なことを知る喜びがどこにあろう? (「温順なクセーニエン」第一集から)
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有為な人間は、すぐに外面から内面へ向かって自己を教養する。 (「ヴィルヘルム・マィスターの遍歴時代」第二巻第三章から)
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ただちに内部に向かえ、
そのなかに中心が見つかる。
どんな貴人もそれを疑いはしない。
きっとそこに規則が見つかるだろう。
独立の良心こそ
君の道義の日の太陽なのだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ほどよく充実と浄福を楽しめ、
生が生を楽しむところには
常に理性をあらしめよ。
そうすれば、過去は常住にあり、
未来はあらかじめ生き、
瞬間は永遠となる。 (「遺言」一八二九年二月作詩、から)
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人間は見ることをやめないためにのみ、夢みるのだと、私は思う。いつか内部の光がわれわれの中から輝き出て、それでもう他の光はいらなくなるようなことがあるかも知れない。 (「親和力」第二部第三章から)
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人は子どもを大目に見るように、老人を大目に見る。 (「格言と反省」から)
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ニューヨークには、九十もの異ったキリスト教の宗派がある。しかもその
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あなた方を一つの屋根の下に、一つの狭い小屋の中に押しこめる窮乏は、あなた方をお互いに寛容にしないのでしょうか。あなた方やあなた方の一族に対して絶えず起きる大事件でたくさんではありませんか。そうして自分のことに励み、元来あなたから何ものをも奪取しようとはしない人々に対して、控え目に理性的に振舞うことはできないでしようか。それともあなた方の心は、世界のでき事や雷雨やその他の自然現象のように、ただ盲目的に絶え間なく働き暴れねば承知しないのでしょうか。 (「ドイツ避難民の談話」一七九三年、から)
芸術と文学について
よいものを
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芸術も人生と同じく、深く入りこめば入りこむほど、広くなるものである。 (「イタリア紀行」一七八六年一〇月一九日夜、から)
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取扱われた対象の内的実質こそ芸術の初めにして終わりである。なるほど、天才なり、修練を積んだ芸術的才能なりは、取扱い方一つで、どんなものからでもどんなものでも作ることができ、どんなに始末におえない材料でもこなすことができるということを否定しはしないであろう。しかし、よく見ると、そういう場合にできるものは芸術品というよりむしろ技巧品である。芸術品というものは価値ある対象に基づくべきもので、最後にその取扱い方の巧妙さと苦心と努力によって、材料の価値を一段とよく見事にあらわすていのものでなければならない。 (「詩と真実」第二部第七巻から)
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想像力は芸術によってのみ、特に詩によって制御される。趣味のない想像力より恐ろしいものはない。 (「格言と反省」から)
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芸術は真の媒介者である。芸術について語ることは
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素材はだれの前にでもころがっている。内容を見いだすのは、それに働きかけようとする者だけだ。形式はたいていの者にとって一つの秘密だ。 (「格言と反省」から)
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ユーモアは天才の一要素である。しかし、それが勝ち過ぎると、天才の代用品に過ぎなくなる。それは、芸術の下落を伴い、ついには芸術を破壊し、滅ぼしてしまう。 (「格言と反省」から)
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自然の公然の秘密をうかがい始めた者は、自然の最も貴い解釈者である芸術に対して、逆らいがたいあこがれを感じる。 (「格言と反省」から)
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人間の作品においても、自然の作品においても、本来特に注目に値するのは、その意図である。 (「格言と反省」から)
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芸術そのものは本来気高い。それゆえ、芸術家は俗なものを恐れない。
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悪趣味な者に技術が結びつくと、これより恐ろしい芸術の敵はない。 (「格言と反省」から)
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芸術は、見るに堪えないものを表してはならない。 (「格言と反省」から)
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芸術を促進させ得るのは、名人上手だけである。保護者は芸術家を促進させる。それは当を得た結構なことである。しかしそれによって必ずしも芸術は促進されない。 (「格言と反省」から)
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われわれは芸術によって最も確実に俗世間を避けることができる。同時に芸術によって最も確実に俗世間と結びつくことができる。 (「親和力」第二部第五章から)
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今後は何らかの芸術あるいは手工芸に留意しないものは不幸であろう。知識はこの目まぐるしい世の中ではもはや
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「
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これまでもあったし、今日でもあることだが、造形美術の作品を初めて見た際、自分の目がそこまで至っていないため、それが自分の気に入らないことがある。しかしその作品にいいところがあると感じたら、私はそれに近づくことに努める。そうすると、きわめて喜ばしい発見をするのが常である。作品については新しい特性を認め、自分自身については新しい能力を認める。 (「格言と反省」から)
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古典的なものを私は健全なものと呼び、ロマン的なものを病的と呼ぶ。この意味でニーベルンゲンはホメロスと同様、古典的である。なぜなら、両者とも健全で、力があるから。新しいものの大部分は、新しいからロマン的なのではなく、弱々しく病的で、実際むしばまれているから、ロマン的なのだ。古いものは古いから古典的なのではなく、強く生き生きとして、快活で、健康だから、古典的なのである。そういう性質に従って、 古典的なものとロマン的なものとを区別すれば、事は容易に明らかになるだろう。 (エッカーマン「ゲーテとの対話」一八二九年四月二日、から)
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形作れ! 芸術家よ! 語るな!
ただ一つの
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最高の幸福の瞬間にも極度な逆境の瞬間にも、われわれは芸術家を必要とする。 (「親和力」第二部第五章から)
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私がドイツ人一般に対し、特に若い詩人たちに対し、どんな役割をしたかを言わなければならないとしたら、私は彼らの解放者であったと言ってもいいだろう。なぜなら、彼らは私によって、人間は内から生きなければならないように、芸術家はたといどのように振舞っても、常に彼の個性を明るみに出すことによって、内から働かねばならないということを悟ったからである。
芸術家は生き生きと楽しく仕事に向かうと、それによって彼の生活の価値や、自然から与えられた崇高さ、あるいは優美さ、恐らくは優美な崇高さをきっと体現するのである。・・・・・・・・・
文学的内容はしかし自己の生活の内容である。・・・・・・・・・・・
諸君は一つ一つの詩について、それが体験されたものを含んでいるかどうか、また、この体験されたものが諸君を進歩させたかどうかを、問うてみればよい。もし諸君が、離別、不実、死などによって失った愛人をたえず嘆き続けているならば、諸君は進歩されていない。それは全く無価値である。たとい更に多くの技能才能を犠牲にするとしても。
進歩する生活にしっかりつかまって、折りにふれて自己を検討せよ。そうすることによって、われわれが生きているかどうかが即座に明らかになり、後日の観察によって、われわれが生きていたかどうかが明らかになるのであるから。 (「なお一言、若き詩人たちのために」という題で、一八三三年遣稿集の中に発表されたものから)
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ディレッタントの誤り。それは、空想と技術を直接に結びつけようとするところにある。 (「格言と反省」から)
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音楽は最もよい意味で、比較的新奇を必要としない。
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芸術の品位は音楽においておそらく最も高貴に現れている。それは、音楽には取り除かれねばならないような素材がないからである。音楽は全く形式と内容だけで、その表現する一切のものを高め、気高くする。 (「格言と反省」から)
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われわれのところでは、唱歌が教養の第一段階である。他のすべてはこれに関連し、これによって仲介される。ごく単純な楽しみも教えも、われわれのところでは唱歌によって活気づけられ、心にきざみつけられる。われわれの伝える信仰や道徳でさえ、唱歌によって伝えられる。独立の目的に対する他の利益がすぐにこれと結びつく。子どもたちに発する音声を記号で写字板に書くことを教えたり、この記号をたよりにそれを発声させたり、さらにその下に歌詞を書きこませたりして、われわれは子どもたちの手や耳や目を同時に発達させるようにするので、彼らは、普通考えられるより早く、正しく美しく書けるようになる。そしてこういうことはみな結局、まぎれのない尺度と、きちんときめられた数にしたがって練習され修得されなければならないので、測量と計算の貴重なことを、他のどんな方法によるより早く理解する。それゆえ、われわれはあらゆるものの中で音楽を教育の基本に選んだ。音楽からあらゆる方面へなめらかな道が通じているのであるから。 (「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第二巻第一章から)
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最後の一筆がなし得ることを、最初の一筆が既にはっきりと表さなければならない。なさるべきことが、既にここに決定されておらねばならない。 (「格言と反省」から)
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「私の絵をかいではいけません。絵の具は健康に害があります。」レンブラント。 (「格言と反省」から)
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詩的作品は、測りきれなければきれないほど、理知でつかみがたければがたいほど、よりよい。 (エッカーマン「ゲーテとの対話」一八二七年五月六日、から)
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詩作を知ろうと思ったら、
詩の国へ行かねばならぬ。
詩人を知ろうと思ったら、
詩人の国へ行かねばならぬ。 (「西東詩編」解説の標語。一八一九年四月)
*
世界歴史の中に生きるものは
瞬間を標準とすべきであろうか。
時代を透察し、時代に働きかけるもののみが、
語り、
*
歌ったり、語ったりするものがこんなに多ぜいいるのは、
すこぶる私の気に食わんと知れ!
詩をこの世から追い払っているのはだれだ?
詩人たちだ。 (西東詩編「ことわざの書」から)
*
告 白
隠しがたいのは何か。火だ!
昼には煙が、
夜には炎が、この怪物を暴露するから。
さらに隠しがたいのは愛だ。
まだそっと抱かれているのに、
たやすく目から発露する。
最も隠し
*
要 素
いくつの要素から
真の詩は養われるべきか。
俗人も喜んで感じ、
名人も喜びをもって聞くには。
愛が、何をおいても、
われらの歌う時の標題であれ。
愛が歌にしみわたったら、
一そうよく響くだろう。
つぎには杯が響きをたて
ブドウ酒がルビー色に輝かねばならない・・・・・・
だが、最後に欠かしがたいのは、
詩人が、堪えがたく醜い色々のものを
憎むことである。
それを美しいもののように生かさぬこと。 (西東詩編「歌人の書」から。一八一四年七月)
*
一人間の一生、それがなんだろう? だが、幾千の人は
ひとりの人のしたことをとやかくとあげつらう。
一片の詩にいたっては更にささやかなものだ。だが、幾千の人は
それを楽しんだり非難したりする。友よ、ただ生きよ、詩作しつづけよ!(「ヴェニス警句」から)
*
詩なんてものは、傑作であるか、さもなくば、全然存在してはならない。最上のものを作る素質のないものは、芸術を断念し、その誘惑に対してまじめに警戒するようにすべきである。もちろん、どんな人間にも、自分の見たものを模倣しようとする
*
叙情的のものはすべて全体としては、きわめて理性的であるが、個々の点ではすこしばかり非理性的であらねばならない。 (「格言と反省」から)
*
小説は一つの主観的な叙事詩である。その中で著者は、世界を自分の流儀で取扱う許可を求める。問題はただ、一つの流儀を持っているかどうかという点にある。その他のことはおのずと発見される。 (「格言と反省」から)
*
小説でも戯曲でも、われわれが見るのは、人間の性質と行為とである。両者の差別は単に外形にあるのではない。
小説では特に心情と事件とが現されねばならない。戯曲では性格と行為とが現されねばならない。小説は徐々に進行し、主人公の心情が、どんな方法によるにせよ、全体の急速な進展を引きとめるのでなければならない。戯曲は急ぐべきもので、主人公の性格は終局に向かってまっしぐらに進むべきであって、ただそれが食い止められているのでなければならない。小説の主人公は受動的であるべく、少なくとも
小説では偶然の働きを許すことはできるが、それは常に人物の心情によって導かれねばならない。これに反し、人間の関与をまたず、独立した外的の事情によって不測の破局へ人間を駆って行く運命は戯曲にのみ存在する。偶然というものは、愁嘆場をひき起こしはするが、悲劇的な情態を作り出すことはできない。これに反し、運命は常に恐ろしいものでなければならない。そして、罪のある、あるいは罪のない、互いに独立した行為を、不幸に結びつけるような場合には、運命は最も高い意味で悲劇的となる。
こういう考察は再び、あの驚嘆すべきハムレットと、この作品の特性との考察にもどった。みんなは次のように言った。この主人公は元来心情を持つだけである。また彼に起こって来るものは事件だけである。したがってこの戯曲には小説のように間ののびたところがある。しかし全体の結構は運命の描くところであり、全曲は恐ろしい行為から出発している。また主人公はたえず恐ろしい行為に向かって駆り立てられている。したがってこの戯曲は最高の意味で悲劇的であり、悲劇的結末に終わるほかないのである。 (「ヴィルヘルム・マィスターの修業時代」第五巻第七章から)
*
メルクは言った。「君の努力、君の変更し難い方向は、現実のものに詩的な形を与えることだ。他の人々はいわゆる詩的なもの空想的なものを現実化しようと試みるが、それによってできるものは愚劣なものに過ぎない。」 (「詩と真実」第四部第一八巻から) (メルクは若きゲーテの友人で、メフィストのモデルと言われている。痛烈な批評によって青年ゲーテに強い刺激を与えた。)
*
私の発表した一切のものは、大きな告白の断片に過ぎない。 (「詩と真実」第二部第七巻から)
*
この瞬間にわたしは何が詩人を作るかを感じる。それは一つの感情に満ちあふれる心だ。 (「ゲッソ」第一幕の終わり)
*
われわれ(詩人)は女のようなものだ。女はお産をする時は、もう二度と男の側に寝まいと誓う。しかもいつの間にか、また身ごもっている。 (エッカーマン「ゲーテとの対話」一八二九年二月二〇日、から)
*
人生の行路の秘密を明らかにしてはならないし、明らかにすることはできない。そこには、すべての旅人が必ずつまずくところのつまずきの石がある。しかし、詩人がその石のあるところを暗示する。 (「格言と反省」から)
*
近ごろの詩人たちはインキに水をたくさんまぜる。 (「格言と反省」から)
*
歴史家と詩人はどちらがまさっているかというような問いは、提出さるべきでない。競走者と
*
翻訳者はまめな
*
文学は、人間が堕落する度合だけ堕落する。 (「格言と反省」から)
*
しかも、文学がこのように全く不完全なものであるにかかわらず、われわれはその中に無数の繰返しを
*
文学は断編の断編である。起こったこと、語られたことのごく
*
芽ばえつつある才能にとっては、シェイクスピアを読むことは危険である。シェイクスピアは
*
『ヴェルテル』が自分のためにだけ書かれたと思われるような時期を一生に一度も持たない人があったら、気の毒だと言わなければならないだろう。 (エッカーマン「ゲーテとの対話」一八二四年一月二日、から)
*
なつかしい昔の故人については、
説明を必要とし、注釈を欲する。
新しい人を理解することは素手でできると思う。
だが、これも通訳なしでは行くまい。 (「格言的」から)
*
古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である。 (「格言と反省」から)
*
だれでも話しているので、それでもうことばについて語る資格があるように思っている。 (「格言と反省」から)
*
外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない。 (「格言と反省」から)
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ドイツ人はすべての国語を学ぶべきである。外国人がドイツに来た時、気楽に感じ、ドイツ人が外国に行った時、どこに行っても、わが家にある思いがするように。 (「格言と反省」から)
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フランス語は、書かれたラテン語からではなく、話されたラテン語から生じた。 (「格言(と反省」から)
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しばしば言い慣らわされている色々の格言も、後世になって与えられるのとは全く別な意味を持っていた。 (「格言と反省」から)
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それによってすべてを知るが、結局かんじんなことは何もわからないような本がある。 (「格言と反省」から)
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実際はわれわれは、われわれが批判し得ないような書物からのみ学ぶ。われわれが批判し得るような書物の著者はわれわれから学ばねばならぬであろう。 (「格言と反省」から)
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読 本
書物の中のいとも
愛の書なり。
われ、心してそれを読みしに、
喜びを語るページはまれにして、
全巻これ悩みなり。
一章は別離に占められ、
再会の章は短く断片なり。
憂いの巻は長々と説き記され、
綿々として尽くるところを知らず。 (西東詩編「愛の書」から。一八一五年一二月作)
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気のいい人たちは、読むことを学ぶのにどのくらい時間と骨折りがいるものか、知らない。私はそれに八十年を費やしたが、今でもまだ目ざすところに達したとは言えない。 (エッカーマン「ゲーテとの対話」一八三〇年一月二五日、から)
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著者が読者に対して払い得る最大の敬意は、人の期待するものをもたらすことではなくて、著者自身が自他の教養のその時々の段階で正しく有用だと思うものをもたらすことである。 (「格言と反省」から)
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どんな読者を私は望むか。私をも自分をも世界をも忘れて、本の中にのみ生きる無私虚心な読者を。 (「四季」秋の部から)
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気高い人間が狭い範囲に教養を負うことはあり得ない。 (「タッソー」二九三行)
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本の中には、それを読んでわれわれが学ぶためでなく、著者が何かを知っていたということをわれわれに知らせるために書かれたと思われるような本がある。 (「格言と反省」から)
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私の確信するところによれば、聖書をよく理解すればするほど、
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それゆえ、聖書は永遠に感化を与える書物である。なぜなら世界のある限り、「私は聖善を全体としても個々についても理解している」と言うような人は現れないであろうから。われわれはむしろ「これは全体として尊ぶべく、個々については応用し得る」と、
幸福について
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偉大なもの、美しいものを、進んで喜んで
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喜んで事をなし、なされた事を喜ぶ人は、幸福である。 (「格言と反省」から)
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欠点を改め、あやまちを償うことは、最高の幸福である。 (「格言と反省」から)
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自由に自分自身の幸福を鍛えることより、この上なく美しい平和を一体なにがわれわれに与えるか。 (「格言的」から)
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地上の子の最高の幸福は人格なれ。 (西東詩編「ズライカの巻」から。一八一五年九月二六日)
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自分を満足さすことは全くまれである。それだけ、他の人を満足させたということは、一段とうれしいことである。 (「格言と反省」から)
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世の中のものはなんでも我慢できる。
幸福な日の連続だけは我慢できない。 (「格言的」から)
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何か一つの仕事を、活動的ではあるが、翌日に持ちこさず、働いている瞬間には勤勉と確実とが必要だが、前後の配慮はいらないような仕事を知っていたら、ぼくは制限の中にあっても幸福であり得よう。だれにも劣らず幸福であり得よう。このことをこの数日ほど、はっきり感じたことはなかった。すべての職人が私には最も幸福な人間に思われる。彼のなすべきことは明らかだ。彼のなし得ることはきまっている。人が自分に求めることに思い
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自分の一生の終わりを初めと結びつけることのできる人は最も幸福である。 (「格言と反省」から)
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人が苦悩の中に黙している時、
私の悩みのほどを言う力を、神様は私に与えてくださった。 (「タッソー」三四三二—三行)
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いずれは同じ
控え目な者は忍従せねばならぬ。
図々しい者は苦悩せねばならぬ。
図々しくても、控え目にしても、
結局、おいめを受けることは同じだ。 (「警句的」から)
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喜びには悩みが、悩みには喜びがなければならない。 (「ファゥスト」第一部二九二三行)
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苦しみが残して行ったものを味わえ!
苦難も過ぎてしまえば、甘い。 (「格言的」から)
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孤独はよいものです。自分自身と平和のうちに生き、何かなすべきしっかりしたことがあれば。 (シュタイン夫人へ、一七七九年三月四日)
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もちろん、世の中に出ながら、孤独で通そうというのは、常軌を逸した行為だと思われる。 (「イタリア紀行」ナポリ、一七八七年三月一日、から)
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だれひとり知る人もない人ごみの中をかき分けて行く時ほど、痛切に孤独を感ずることはない。 (「イタリア紀行」ヴェニス、一七八六年九月二八日、から)
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かくも無数の、おやみなく動いている群衆の間を抜けて行くのは、珍しくもあり、からだのためにもいい。人波に入り乱れて流れるが、各人それぞれ道と目的とを
私はよくルッソーと彼の憂うつ病の悲惨さとを思い出すが、あのように立派な頭脳がどうして狂ったかが理解される。もし私が自然の事物に対して今ほどの興味を抱いていなかったら、また測量師が線を引いて色々のこまかい測定を試みるように、一見
自我と自由と節度について
自分自身をなくしさえせねば
どんな生活を送るもよい。
すべてを失ってもいい、
自分のあるところのものでいつもあれば。 (西東詩編「ズライカの巻」から)
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「人間の持つものの中で、自分自身に基礎をおかぬ力ほど不安定で、はかないものはない。」 (「格言と反省」から) (古代ローマの史家タキトゥスのことばをすこし変えたもの)
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人はそれぞれ特性を持っていて、それを脱することができない。しかも、自分の特性のために、しばしば最も無邪気な特性のために、破滅するものが少なくない。 (「格言と反省」から)
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自分に属するものから脱することはできない。たといそれを投げ
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どうしたら、それができるか。
みなめいめい自己の内部で完成されてあれ。 (「四季」秋の部から)
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知識欲の衝動から解放されたこの胸は
今後どんな苦痛も辞しはしない。
全人類の受くべきものを
わしの内部の自我で味わおう。
わしの精神で最高のものと最深のものを捕らえ、
わしの自我を人類の自我に拡大し、
人類そのもののように、わしもついには破滅しよう。 (「ファゥスト」第一部一七六八—七五行)
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彼女の愛は、完全になるためには、全く没我的にならなければならないことが、彼女にははっきりした。実際ある瞬間には彼女はもうこの高さに達したように思った。彼女はただ友の幸福を願い、もし彼が幸福であることを知りさえすれば、彼を断念することができると思った。 (「親和力」第二部第九章から)
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私が特にスピノザにひきつけられたのは、その一句一句から無際限な没我主義が輝き出ていたからである。「真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならない」というあの感嘆すべきことばは、その一切の前提と、それから生ずる一切の帰結と共に、私の
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われわれ自身を制御することをなさしめないで、われわれの精神を解放するものはすべて危険である。 (「格言と反省」から)
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放縦な精神は
完成の清く高い境地を目ざしてもむだであろう。
偉大なことを欲するものは、心を集中しなければならない。
制限の中に初めて名人が現れる。
そして法則のみが、われわれに自由を与えることができる。 (「われらの出しもの」第一九場、一八〇二年作)
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個人は何ものかに達するためには、自己を
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人はめいめい自分の流儀に従って考えねばならない。なぜなら、人は自分のやり方によって常に真理、あるいは一生を通じて役に立つ一種の真理を見いだすのであるから。ただ放逸に流れてはならない。自制しなければならない。単なる赤裸々な本能は人間にふさわしくない。 (「格言と反省」から)
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無制限な活動は、どんな種類のものであろうと、結局破産する。 (「格言と反省」から)
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年をとればとるほど、人は活動しようと思うなら、一そう自分を制限しなければなりません。気をつけないと、縁のうすい色々のことに気をとられて、ただ興味や批評を事として、精神と肉体の力を
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一切の生活、一切の活動、一切の技術に先だって、手のわざがこなければならない。それはただ制限によってのみ得られる。一つのことを正しく知り
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人間は、彼の制約されない努力が限界を定めないうちは幸福になれない。 (「ヴィルヘルム・マィスターの修業時代」第八巻第五章から)
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上に向かって下から奉仕すること、それこそ至る
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愛のもたらす犠牲は
あらゆる犠牲の中で最も高価なものだ。
だが、自分の最も独特な点に打ち勝つものは
最も美しい運命にあずかる。 (「温順なクセーニエン」第八集から)
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生活をもてあそぶものは、
決して正しいものになれない。
自分に命令しないものは、
いつになっても、しもべにとどまる。 (「温順なクセーニエン」第八集から)
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自負し過ぎない者は、自分で思っている以上の人間である。 (「格言と反省」から)
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人が実際の値打以上に思い上がること、実際の値打以下に自分を評価すること、共に、大きな誤りである。 (「格言と反省」から)
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自分の知っていることは自慢し、知らないことに対しては高慢に構える者が少なくない。 (「格言と反省」から)
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だれでも、人々が自分を救世主として待望しているなどとは思わないでくれ!(「格言と反省」から)
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一般的な概念と大きな自負は、ともすれば恐ろしい不幸をひき起こす。 (「格言と反省」から)
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人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。多く知るにつれ、次第に疑いが生じて来るものです。 (ツェルターへ、一八二八年)
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願望したものを持っていると思いこんでいる時ほど、願望から遠ざかっていることはない。 (「親和力」第二部第五章から)
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しかし、だれが他人に対する自分の優越を時おり露骨な仕方で主張しないほど教養を積んでいるでしょう。 (「親和力」第一部第二章から)
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自分を他の人の立場におけば、われわれがしばしば他の人に対して感ずる
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水車屋は、自分の水車を回転さすためだけに、小麦ははえると思っている。 (「格言と反省」から)
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鳥を見よ! 木から木へ飛びせわしく木の実をついばみあさる。
鳥に問え。きっとぺちゃぺちゃと、口はばったいことを言うだろう。
高い自然のおごそかな秘密をついばむのだ、と。 (「バキスの予言」から)
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つちでもって壁をたたいてまわって、そのつどくぎの頭をあやまたずたたいていると思っている者が少なくない。 (「格言と反省」から)
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知恵を大げさに自慢し見せびらかすのをやめよ。
君は青年時代のあやまちを卒業するか、せぬうちに、
もうきっと老年時代のあやまちを犯すだろう。 (「温順なクセーニエン」第一集から)
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始終自分を他の人と同列に置こうとばかりしなかったら、人々は互いにもっとよく知り合うだろう。 (「格言と反省」から)
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気前が
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自由でないのに、自分は自由だと思っているものほど
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すべての人間が、自由を得るや、その欠点を発揮する。強い者は度を超え、弱い者は怠ける。 (「格言と反省」から)
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自由というものは妙なものだ。だれでもみずから足るを知って暮らすことを心得たら、容易に満足する。用いることのできない過度の自由がなんの役に立とう。 (エッカーマン「ゲーテとの対話」一八二七年一月一八日、から)
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結局みんな我がまま勝手をしたがっていたのだ。
多くの人を解放しようと思うなら、進んで多くの人に仕えてみよ。 (「ヴェニス警句」から)
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情熱は告白によって高められ、またやわらげられる。おそらく何ごとよりも、われわれの愛する人々に対する打ちあけと沈黙の時ほど、中道の願わしいことはないだろう。 (「親和力」第二部第四章から)
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善いもの正しいものを完成させるための純粋な中庸を得た活動はきわめてまれである。通常われわれが見るのは、もったいぶってだらだら長びかせる偏屈か、性急に功を急ぐ図々しさかである。 (「格言と反省」から)
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豊かさは節度の中にだけある。 (クリストフ・カイザーへ、一七八〇年一月二○日)
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最も恵まれた天才も決して成功しないだろう。
自然と本能だけで、非凡なものへ飛躍することは。 (「芸術家の讃仰」一七七四年七月六日作詩、から)
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天才も不滅ではないということほど、凡庸なものにとって慰めになることはない。 (「親和力」第二部第五章から)
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天才が天才としてなすことはすべて無意識になされると思います。天才人も分別をもって、熟慮をかさねた上、確信を抱いて行動することができます。しかしそれはほんの付随的なことです。天才のどんな作品も、反省とその直接の結果によって、改められ、欠点を除かれ得るものではありません。しかし、天才も反省と行為によって次第に向上して、ついに模範的な作品を生み出すということはあります。その世紀が多くの天才を擁していればいるほど、個々の天才は進歩させられます。 (シラーへ、一八〇一年四月三日)
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名人気質は往々利己主義と見なされる。 (「格言と反省」から)
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すぐれた人で、即席やお座なりには何もできない人がある。そういう人は性質として、その時々の
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有能な人は、常に学ぶ人である。 (ローマの諷刺家マルティアリス(四〇頃—一〇四頃)のことばからとったもの。本来は「よき人は常に初心者である」という意味であった。)
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有能なものは、まちがっていても、
毎日毎日、家から家へ働きを及ぼす。
有能なものが、ほんものであったら、
あらゆる時代を越えて働きを及ぼす。 (「温順なクセーニエン」第二集から)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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