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オレンジダイヤモンド

ことごとく裏切ってきたやもしれぬ父の(くれない)ルビーの指輪

 

きらきらと語りつづくる人のあり星の溢るる稲村ヶ崎

 

妻たるを拒みはせねど「私」のアメリカンです君()る「妻」は

 

飽きるほど()ねてたたいてパンを焼く狂えず狂えず女は一期(いちご)

 

掲げねばならぬ旗などないけれどつまりは自己愛少し強くて

 

あるいは 影の如きか日時計の濃きも淡きも妻とう女

 

家計簿もつけますだから今すこし影も曳きます青春すこし

 

渡るも愛渡らぬも愛天と地に愛を糺して北十字(ノウザンクロス)

 

なにもかも私の籠に摘みたくてナズナ・スズシロ・修羅・ホトケノザ

 

パンドラの箱にひとまずひそませて消えないように燃えないように

 

飲みくだすワインも嘘も愛のうち トルコ桔梗と都合で呼んで

 

父の弾く「菩提樹」一条の木漏れ日のごとわが森を射す

 

女に生れてまことにうれし青嵐の坂を下りて自在の翼

 

天球にはつかわたしも凍ててゆく見えぬリゲルに舌かみながら

 

漆黒の髪よピアノよアルゲリッチよ 技巧とは詩情なりき

 

薔薇(そうび)(とも)して雪降る妻の庭かくもやさしき無念もあるも

 

いでてゆくノラのかばんに何世紀詰むれば女の自律はあるか

 

矜恃なき愛は信じぬ重ねいる冬の盃みちくるは吾

 

哭くごとく怒れるごとく風前に古仏 わたくし微笑をかわす

 

風鈴の音にひねもすくらすなり西瓜売り来て吾を(あや)めよ

 

神経のやすらひにゆく五月闇グレン・グールド官能なりき

 

まつたうに愛しあひたるいちにんをそもそも夫となしたる不覚

 

ノラの鈍アンナの阿呆わがために生きてこそ咲く日車の花

 

妻は座に執するものとなにとなく思ひしならむロマンチックね

 

はれやかに女ひとりに凍ててゆけ星は昴と清女は言ひき

 

白蓮のやうにはいかね告ぐるほかすべなき恋の顛末ありき

 

ひさかたの寧楽(なら)の三条ひんやりと古墨を()りてやりすごす雨

 

ひそかなる暴悪大笑たのしかりやさしさごっこの尽きたるのちは

 

逆立ちをすれば奈落も陽ざかりに寒の椿を咲かせてをりぬ

 

かなしきと人に告げえぬ今帰仁の城にうちよすニライの光

 

y軸をあなたが降りてくるまでにaはa’とならねばならぬ

 

ポニーテール似合ひしころにプライドとブラインドのこと父は語りし

 

口ごたへせねど言はねどまつろはぬ吾を゛爆弾゛と名づけしは母

 

涼州詞()してメドックのみほせば天のまほらをゆく月の舟

 

たはやすく婚から婚へ渡らぬもさりとて忍ぶ世紀でもなく

 

あとかたもなきもよからむ時雨亭見て来し冬の覚悟のひとつ

 

須弥山へつれだつひとりしはぶけば冬の駅よりミモザこぼるる

 

茂兵衞とふそば屋のわきを通りぬけ離れられぬと帰りきたりき

 

らいてうの勇は明治のはなやかさ冥さを巻きて咲きいづる薔薇

 

逢はばまた天の川など流れゐてそれぞれのこと語る夜ならむ

 

十勝川かつもまけるも恋なりき人にかよひし心と思ふ

 

逢ひたいと言はせぬ人の逢ひたさを思ひ旅よりとどけしはがき

 

思ひ寝の寝覚めにひびく夕立の夕顔の花うつにあらずや

 

愛人も妻もまつぴらごめんなさいアンモナイトに吾はなりたき

 

いつしんに男となりて来し朝の花のなかなる金色ボタン

 

天の池あふれてにほふ沈丁花とつておきなるこころを抱け

 

男なき殺風景にも耐えてみるそののち逢はばやロビン・フッドよ

 

しなやかに空をたづねて立葵もはやかくせぬわが思ひ人

 

もうなにも言はぬと決めし肩ならむ母の紬の花は撫子

 

瀬をはやみジャズの夜の淵吾が恋の一の坂川空へつづける

 

三十八歳貴妃の逝きたるその歳のわたくしをつれ馬嵬駅まで

 

馬嵬坡に遭はねばならぬいちにんのこころがひたに声となるまで

 

茘枝くる千門紅塵うちながめ笑ひし女の驪山のほとり

 

長生殿七月七日の私語よりも逢ひて逢はざる詩にたちつくす

 

万里なす北京青(ベイジンブルー)はなやかにそしてひとりの秋にもにたる

 

君に逢ふたびにもとめし汕頭のハンカチーフの花を咲かせむ

 

めぐり逢ひし時こそ素敵陝西に君ありて吾を生かしめよ冬

 

ああプレートテクトニクスに生涯を浮かべて旅の歌に死せむや

 

労働へはた傍注へ降りゆかむウォーキングヒール黒カバンさげ

 

函谷関越えてとどきて朋よりのこころがともすはつはるの歌

 

かの日日よならびて画きし静物画父の工学吾が感傷賦

 

たそがれの文物天地あゆませる吾が影ほどの恋もあれかし

 

あきらめし冬の幾夜のはてに咲くさくら思へよ興慶公園(シンチンゴンユエン)

 

魑魅なるか螢なるかと思はする君にひかれて仙游寺まで

 

ひと飛びに帰れぬこころ北京に徐悲鴻の馬ながめゐたりき

 

吹くほどに夜は淵なすアダージョに耐へてひさしき男のたより

 

ドクトルにあらねば逐電思ふのみこのかなしみのきららなすまで

 

潮の香のすこしはとどきここに在る在るは楽しく半月(バンユエ)が在る

 

つつぬけのつつぬけきらぬ青水無月思ひに()くる言葉死ぬべく

 

明日が来ぬ駅かもしれず旅はよきバート・メルゲントハイムは素敵

 

ノイシュヴァンよばれしままにさすらひのこころをすつる八月の谷

 

天の氷よとけて流れよ柏尾川生きて緋色の桜に逢はむ

 

逢ひたくて会はずに春の淺水湾レトロに君を恋ふひとときは

 

レヴァインよりハイティング選り宵闇をゆるやかに寄す梅雨のブラームス

 

相愛より和平を選び三つ撞く君と鐘撞く青龍寺なる

 

噫ラウンド東経95度は小雨降る吾は至れりオアシス敦煌

 

天帝の涙もふりぬ莫高窟ほほゑみひとつ探しに来たり

 

暁粧のあかきくちびる羅をまとふ菩薩に逢ひて泣く鳴沙山

 

空は疎にあらず密にもあらずかし秘色の瓷器に立ちつくす夏

 

支配者も従者もいらぬひとり居を近所の朝顔()でつつくらす

 

走るより逢ふより抱くより思ふ夜の濃きに傷みし青春がある

 

春窮はたのしからずや米壺に米入れず差す桃の一枝

 

遠き別れミステリーならむ夜の椅子青梅雨の足しめりてきたり

 

日本は海の長堤オーシャンブルー泣いてもよいか旅してよいか

 

空へ書く文の軽さをあやぶめばはろばろと飛び水鳥が来し

 

瑞雲が夢幻時空を飛行する静止に似たり「飛青磁」見つ

 

しんしんと雪積む音のリヒテルの音もかそけく世紀は尽くる

 

会ひたさに会ひしに寒月宵闇にしろがねの蜜輝きゐたり

 

水にそひ空にそひたる村の名をバイブリーとぞ水仙の国

 

消息に鳥の切手を貼るときも風は寂しく髪を匂はす

 

寂しさの果ての街にて乾きゆく心に送る恋の真水を

 

会はざりし月日ほそぼそ父は生きわれは悔しみ父の死を見つ

 

魂を信じぬ父のたまきはる耐へむとしたり午後みじろがず

 

煙なく形うせゆくちちのみの父をこころに(かたど)りをりぬ

 

ゴンドラに涙壺なるルイーズ湖間氷期なる時代のわれら

 

雨をやる夏のひるまの西の京意志かぎりなき甍をみあぐ

 

秋されば秋づく雲よ骨が鳴る父連れて来し大谷本廟

 

亡き父が愛妻主義を守りしも合理と思ふ思ひて合掌す

 

恋はず会ふあひて藹藹 千年の終はりの冬の不思議のひとつ

 

能楽堂冬のふかみに出でゆけり生きぬく愛を踏みしめ立ちぬ

 

御衣黄は過ぎし哀しみ万本の桜花を見たり蝦夷の五月に

 

はろばろと天心をゆく月見れば月と教えしは父よと思ふ

 

若き日の沈思黙考 旅人に睡蓮咲きみつ雪舟心字池

 

油煙溶く指よりにほふ藍墨に行成の筆をどる初空

 

憎しみに点滴のごと詩をそそぎある夜悲しみ湧くを快楽(けらく)

 

父を呼ぶスニオン岬 しろがねの波がこがねにオレンジダイヤモンド

 

彩文の器はとりどりにをかしかりさもうららかに文明ありき

 

島中のオリーブの木のオリーブが音たつほどの風吹きおろせ

 

Get away ブルードルフィン北は海風の迷宮に(もだ)深くせり

 

去りかねて思惟にしたたる石だたみ金の両刃の斧(ラビリス)飾る夕まぐれ

 

死が生へ向ひて放つ華やぎを照りて皐月の周防灘なる

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/10/24

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高崎 淳子

タカサキ アツコ
たかさき あつこ 歌人 1954年 山口県に生まれる。

掲載作は、2002(平成14)年10月、歌集『寒昴』『夜想曲』『一の坂川』『バンユエ』『風の迷宮』より「ペン電子文藝館」出稿のために111首を自選。

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