しめやかなる都の春の夜、已に更けて、暁に近づける頃、ほとほとと戸を叩くは誰が家、内には今しも、窓に倚り眠られぬ苦しさを忘れんと、庭の暗き方を眺めゐる主人、恁る夜更、何人の訪ふならんと、怪しみつゝ戸を開けば、二人の客は衝と内に入り、矢庭に狂せる者の如く、主人を抱きて舞ひ、且つ踊つた。ときの文豪グリゴロヰチ、ネクラソフ等、初めて文壇に顕はれたるドストヱフスキイが処女作、『貧しき人々』の一篇を此夜もすがら、息をも継かず読み了り、嘆賞措く能はず、其侭立つて此真夜中、相携へて、新なる文星を拝せんと、此家に尋ねたのである。
茲に掲げしは『貧しき人々』の中の、其面影の又最も顕はれたる、少女の日記を取りて訳せしもの、他は全篇書翰にてものせらる。
(一)
父上の死去なされたのは、私が十四の歳、思へば一生の中、最も幸福であつた日は、唯幼年時代許り、其時分は都にゐたのではなく、此所よりも未だ程遠い地方の、ある片田舎に住んでゐたので、父は当時、さる公爵家の広大なる所有地の管理人をしてゐた。で、私らも猶且、其公爵家の所有地の中の、一つの村に住んで、静に、安らかに、名も知られず、幸福な日を送つてゐた。……私は活発で、お転婆で、終日畑の中、森の中、園の中を駈け廻つてゐる。自分の事に就いては、誰にも心配などは懸けなかつた。父は職務に閑暇なく、母は家事に追はれて、私は別に何の稽古もしなかつたが、其れは却つて喜ばしかつた。毎朝早く、池に、林に、草刈に、麦刈に、日に照り着けられるのも厭はず、何処を当てに歩むともなく、村から駈け出して行つては、往々木株に躓いて、微傷を拵へたり、着物を掻裂きする事もあつた。家へ帰れば叱られたが、那麼事は何とも思はぬ。
わたしは一生涯、村から出ずに、一つ所に住んで居なければならなかつたとても、寧其方が幸福であつたらう。然るに私は未だ子供で、もう此の懐かしい生れ古郷を離れなければならぬやうになつたので。私等が彼得堡に引越したのは、私の未だ十二歳の時であつた。あゝ私は此悲しい引越を、什麼に心細く記憶えてゐるか! 馴染も深い此の土地を、別れなければならぬと聞いた時の悲しさは、私は甚麼に泣いたか、父の首に縋り着いて、もう少の間でも、村にゐて下さいと泣いて頼んだが、父は私を叱りつけて聴入れぬ。母は泣きながら、止むを得ぬ訳があり、要事があつて、然うせねばならぬのであると、私を諭した。其訳は一家が頼りにしてゐた、老公爵の君が薨れになつて、新たに御世嗣が立たれたが、其の方になつて、今度父上は退職を命ぜられたので、其故父は彼得堡の或人に、若干の金を貸して置いたのを便に、一家の生活を持直す為、彼得堡に住むの必要を認めたのである。私は皆其れを母より聞いたのであった。で、私等はペテルブルグスカヤ、ストロナ街に住む事となり、遂に父の死去るまで、其所に住み通したのである。
新しい生活に慣れるのは、私等の為には非常の困難であった! 私等が彼得堡に向かつて故郷を出発した時は、秋で、其日は何とも云へぬ好い天気の、ほかほかと暖かい小春日和、村の仕事はもう了らうとする所で、麦乾場には、穀物の山、高く高く積まれ、喧しき鳥の声々、什麼にものどかで、面白さうであつた。然れど此所は全然反対で、私等が町に入つた時は、丁度雨天で、而も秋のびしよびしよと降る雨、肌には冷たい霧の立罩められた日、路はぐしやぐしやと泥濘つて歩み悪く、不愛想な、不興気な、腹立つてゐるやうな、何所を見ても、知らぬ者許りの人の群!
(二)
恁くて私等は唯有る家に住ひした。其時の事は記憶えてゐるが、家の内は新な家政の取纒で、一通りならぬ混雑、父は終日家を出てゐる。母はまごまごして落着く時は無い、私などは真個忘れられてゐた。此新しい家に引越した次朝、私は眼の覚めた時、何とも云はれぬ程悲しかつた。家の窓は隣の黄色の塀に向かつてゐて、通を見れば、路は泥濘つて、通行人も極く少なく、皆全身をしつくりと包み廻してゐる。時候が其程に寒いので。
私の家は、毎日淋さと、悲さとが交々至るのみで、親しい親戚、知己などは絶えて無かつた。アンナ、フェオドロウナとは、父は已に絶交してゐたので──彼女に父は何程かの借金が有つたのである。
家には随分さまざまな人が出入りして、議論はする、騒ぐ、叫ぶ、毎も然う云ふ風である。而して父は其後では、屹度一人で不興気な顔をして、大凡一時間も室の中を、那方、這方と歩いて、誰とも口を利かぬ、母は其時は唯黙つてゐる。私も隅の方で小さくなつて、身動きもせず、じつとして書物を読むなどしてゐる。
彼得堡に移つてから三ケ月経つて、私はさる女学校の寄宿舎に入つた。全く知らぬ者許りの他人の中に初めて入つたので、当座のその辛さ! 何事も乾燥無味と云ふより外は無い、附添の女教師は怒鳴つて許りゐる、古い生徒等は邪慳である。私は甚い羞怖やであつたが、其代り、物事厳重に、綿密であつた。学校では何事にも皆其れぞれ、時間が極まつてゐて、食事なども皆一所、教師等は何人も詰らぬ人許り。是等は皆私を苦しめて、夜も眠ることは出来ぬのである、而して一晩中泣明し明しする、其れも寂寥い、長い、寒い、徹夜。夜は毎晩其日の日課を復習するのであつて、私は会話、外国語を書付けなどして、じつとして机に対つてはゐるけれど、心はつひ家に行つてゐる。父や、母や、乳母の事、乳母の話などを考へてゐる。然うすると、もう何とも悲しくなつて堪らなくなる! 家に有る詰らぬ一の物をも、只ならず懐かしく思ひ出される。今時分家にゐたら、甚麼に好からうと其れのみ考へてゐる、あのサモワル(湯沸)の側に皆と一所にゐるであらう! 暖かで可いだらう、母に齧り着いてゐるだらう! 考へて考へて、遂には堪へ切れず、涙を呑んでそつと泣く。然うなると、もう外国語などは頭に少しも入らない。翌日の日課の仕度は、其れでとうとう覚えられずに了ふ。一晩中教師だの、附添の女教師等の夢許り見る、而して夢で猶且、日課を復してゐるが、翌日になれば何にも記憶えてゐぬ。で、膝を屈めさせられる、午食を食べさせられぬ。其上、初めの中は上に立つ生徒も、私を笑つたり、苛めたり、日課を暗記すれば雑返す、午食に並んで食堂に行く時や、お茶の時などは、突つかれたり、抓られたりした事もある。訳も無いのに附添の女教師に告口される。然し土曜日の晩に、屡々乳母が私を向ひに来て呉れる時の嬉しさは! 行成乳母に飛着いて抱き締める、乳母は私に着物を着換へさせ、手も頭もすつかり包んで、而して出掛る、道々彼は私の後を追かける、私は仕切なしに喋り立てゝ、洗浚ひの話を残らず聞かせる。愉快で、元気で、家へ帰つて来れば、十年振の対面のように思はれて、家の人に縋り着く、笑つたり、騒いだり、走つたり、跳ねたり、旋て話が初まる、議論が初まる、父と学問の事、教師の事、仏蘭西語の事、ロモンドの文典の事など語る、何とも愉快であつた。今も是を思ひ出すのは愉快である。其時私は全力を注いで、勉強して父の気に入るやうに為らうと思ひ思ひした。父は私の為に困難の中から、所有を尽して、而して苦労をしてゐる事が、私にも見えたので。
(三)
其れより父は日に増して、憂き事の数々重なるにつけ、不平、憤懣、遣方なく、気質を全然傷はれ、動もすれば怒り荒つのである。勿論、借金は山の如く、事業は成功せぬのであるから、母は時には泣くのをさへ恐れてゐる事がある。一言云ふにもびくびくして、唯もう父を怒らせまいと気を使ふ。其為か、母も健康を害ねて了つて、不好な咳を時々するやうに成つた。私は学校から家へ遊びに行くと、母の悲い顔と、啜泣きの涙とを見る。父は怒り立つて許りゐて、怒鳴つては悪口を吐いてゐる。のみならず、私が親に喜も慰も与へぬとか、私の為に有る物は皆無くして了つたとか、其れでも未だ仏蘭西語が云へぬとか、と、私にも食つて掛る、総ての不成功も、不幸も、皆母と、私とに塗り付けて、腹を立つ。這麼可哀さうな母を、奈何して是程に苦しめられるだらうと、私は母を見ると辛くて、胸が張裂けもしさうな位。母は目を凹まして、頬の削けた、肺病患者其侭の顔をして……何時も詰らぬ事、些細な事から、段々其れが癇癪の種になる。仏蘭西語が拙い、貴様は馬鹿だ、寄宿舎の舎監は不注意だ、馬鹿な女だ、生徒等の行状を投遣にする、俺は今に至るも務の口が見付からぬ、ロモンドの文典はやくざである、ザポリスキイの文典の方が、ずつと優つてゐる、貴様の為に無益に銭を棄てゝ了つた。貴様は無神経のやうな、石のやうな性質だ、などゝ罵つて、折角力の限り勉強した会話や、単語の暗記などは、みな罵倒されて了つて、私が何も、彼も、悪者にされて了ふ。然し父は私を決して愛さぬのではない、私と、母とは、訳の解らぬ程愛してゐたのであるが、恁う云ふ風になつて了つた。
不成功、憤懣、痛恨は、極点に達して、不幸の父を苦しめた。父は人を信用しなくなり、片意地、依怙地、益々募り、屡々自失せるかと思ふ事もある。随つて自分の健康なども、少しも顧みず、其中ふと風邪を引いたのが、それが因で、長くも病はず、とうとう死の手に渡されて了つた。私共は此の俄の大打撃に、数日間は放心して了つて為すことを知らぬ。殊に母は何とも云へぬ程気脱して、気でも狂はなければ可がと思つた位。父の死去を聞くや大勢の高利貸共は、地から湧いたか、天から降って来たかと思ふ許りに、私の家に押寄せ来て、家の中の者は塵一つ残さず、皆手々に持つて行く、猶其上、此所を引移つて半年の後、父が買つた私等の家までも、皆売飛ばされて了つたのである。で、私等は住居もなく、寄方もなく、其日の糧さへ求むるに由なき姿と変つた。加ふるに母は病に悩んでゐる身、明日よりは乞食になるか、死ぬるかの二途である。私は実に其時は年が十四歳、然るに此の際、丁度私等を訪問たのがアンナ、フェオドロウナで、彼は自分が地主をしてゐて、私等に親類に当るものであると云うた。が、彼女は父の存命中は、一度も来た事はなく、母の云ふ所では、彼女は至つて遠い親類に過ぎぬとの事で。彼女は眼に涙を浮べて、私等の悲みと、今の不幸の境遇とに、愁傷の意を表し、大に同情を寄せて、父が這麼境遇になつたのは、自分が悪かつたのであり、詰り、力に余ることを為たからであるとか、自分の力を当に為過したのであるとか云つて、以後はお互に近しくなり、不愉快な心を消して了はうと勧めた。母は是迄とて彼女に少しも不愉快な心など有つてはゐなかつたと云ふたが、彼女は泣かぬ許りに喜んで『愛すべき故人』──さう彼女は父の事を云うた。──の為に、記憶の祈祷を願はうと、母を聖堂に連れて行く。而して彼は母とすつかり仲直り為たのであつた。
アンナ、フェオドロウナは、私等が孤独に為つた事に就いて、また助力者も無い事に就いて、長い前置などいろいろ云つて、私等を自分の家の掛人となれと勧めた。母は喜んで厚意を謝したが、俄には又決心も為兼ねた様子。されど是から別に、奈何と云ふ方法も附かず、差当り途方に暮れてゐるのであるから、遂に其云ふ侭に、私共は此のペテルブルグスカヤ、ストロナの我が家を引払つて、ワシリエフスキイ、オオストロフの彼女が家に移つたので、私は未だ記憶えてゐるが、其朝、秋の晴れた日の、しんしんと寒い朝、母は泣いてゐた、私も悲しく胸が塞がつて、何とも云へぬ情ない思がして来て……ああ、其時の悲しさ……。
(四)
私等は新しい住居に慣れるまでは、何となく、此のアンナ、フェオドロウナの所が、恐ろしいやうな、嫌なやうな気がして堪らなかった。此家はワシリエフスキイ、オオストロフの六丁目で、アンナ、フェオドロウナが所有の家、間数は清潔した室が五つ、其内の三つはアンナ、フェオドロウナと彼女の貰娘の、父も、母もない孤児とで使ひ、其から一つは、私等の住んでゐる室、其から残りの一つには、アンナ、フェオドロウナの同居人ポクロウスキイという貧き大学生、で、アンナ、フェオドロウナは予て想像したよりも、豊に暮してゐたのであるが其身代は先づ幾何位であるか、其家業と同じく甚だ曖昧で、私には解らなかつた。彼女は始終せかせかして、多忙しさうで、日には何度となく、馬車で、或は徒歩で外出する。然し何を彼女は為てゐたのか、何の為に那様にまごまごしてゐるのか、奈何しても私には判断がつかぬ。彼女の交際は広く、出入する人々もさまざまで、仕切無しに客が来る、而して何か訳の解らぬ話をして、何時も何かの用事で来て、一寸で帰つて行つて了ふ。母は呼鈴が鳴ると、急いで私を室へ呼込む。其れでアンナ、フェオドロウナは甚く母を怒つてゐて、余り傲慢だとか、傲慢するやうな所が何所にあるかだとか、頻に云うてゐたが、然し私は奈何して彼女が、這麼事を傲慢と云つて責めるのであるかと思つてゐた、今に至つて思へば、初め母がアンナ、フェドオロウナの家に掛人となる決心が、容易に出来なかつたのも思ひ合はされる。少なくとも察しられる。彼女は悪人である。絶間なく彼女は私等を苦しめてゐたのである。何の為に私等を其家に呼んだのであらうと云ふ事は、今に至るまで私には疑問である。彼女は初の中こそは、随分親切にして呉れたが、追々に、私等が何所も頼る所の無い、行く所の無い者と見た時は、もう自分の本性を残らず顕はした。ずつと後になつてから、私丈に対しては、何とか、彼とか、機嫌を取り、気味の悪い程に好くして呉れたが、其迄の中は、猶且、母と同一に、始終苛めて、自分の恩を繰返して許りゐたので。他人に対して私等を紹介する時には、是は貧しい寡婦と、孤児とで、誠に頼りのない者であるから、クリスチヤンの愛に依つて、自分の家に引取つて遣つたのだと云つてゐる。食事の時などは私等が手を伸すパンの一片毎に睨めてゐる。其癖又食事を為なければ大騒で、私等が不足で食べぬとか、那麼難しい事を云はぬ者だとか、有るもので我慢をしたら可からうとか、お前たちの所だつて、是より結構と云ふ事は無いだらう、とかと、其れはいろいろの当擦りを云ふ。父上の悪口などは、初中終口癖のやうに、●に人並より立越えやうなんぞと思つたからこそ、那の状態に為つたのだ、妻と、娘を乞食にして了つた、憐のある、同情のある親類でも無かつた日には、或は往来の真中で、倒死したかも知れぬとか、なんとかと、随分云ひたい放題の事を云つてゐたが、私は彼女の云ひ草を聞くのを、悲しくもあつが、寧ろ、胸が悪かつた。母は泣いて許りゐる、而して母の身体は日に日に衰弱して来るのが眼に見える。其れでも私等は誂の仕事を取つて、朝から晩まで一心に働いてゐた。其れが又アンナ、フェオドロウナには気に入らぬ、自分の家は仕立屋では無いなどと云ひ云ひしてゐたが、私等も着物も着なければならぬ、何かの時の用意に、少しは蓄へても置かなければならぬ、身に着く銭は是非とも無くてはならぬ、と、塵も積れば山の追々に、蓄へも出来たので、時が来たらば、他所へ引越す事が出来るであらうと、唯其れを張合いに、母も其健康の続く限り、仕事に精を出してゐた。が、母の身体は益悪くなる許り、病は虫でも食つて行くやうに、其命を蝕つて行つて、段々と墓に近かしめるのが、明瞭と見えてゐる。私は何も恁も感じてゐた。有ゆる苦労は為抜いてゐる。以上は皆、私の親しく経験した所なのである。
(五)
一日、二日と日は次第に経つて行つたが、何時も何時も、皆過ぎた日と同一で、私等は実に寂寥く、静に暮して、都に住んでゐるやうでは無いのであつた。アンナ、フェオドロウナは追々に自分の権力を認めるに随つて幾分穏になる。勿論、私等は何と云はれても、今迄一言でも口返しなど為やうとはせぬが。私等の室は、彼女の室の半分から廊下で仕切られてゐて、私の室の並びには、前にも云つた、ポクロウスキイが住んでゐたので。ポクロウスキイは此家の娘のサアシアに、仏蘭西語、独乙語、歴史、地理、──アンナ、フェオドロウナの云ふには、有ゆる学問を教へてゐたとか、其れで彼は此家から、宿と、食事とを給せられてゐた。サアシアは極く活発で、巫山戯もので、呑込の早い、十三歳になる少女、所が或時、アンナ、フェオドロウナは私の為に母に恁う云つたことがある、ワアリアも一緒に稽古させたら奈何です、寄宿舎では中途で止しにして了つたのだから、と、其れで母は喜んで同意して、私は全一年、サアシアと一同にポクロウスキイに教へられた。
ポクロウスキイは貧しい学生で、加之、身体が弱く、大学にも続いて通ふことが出来なかつたが、私等は唯習慣で、彼を大学生と云つてゐた。彼は極めて質素で、又静かで、私の室からは彼の音も聞こえぬ。而して彼の様子は什麼にも変で、歩むにも、礼をするにも、妙に極が悪るさうな、話の為様も変である。私は初の中は彼を見ると笑はずにゐられなかつた。サアシアなどは初中終彼を調戯つて、殊に稽古の時には甚かつた。然るに彼は生付激し易い性質で、始終怒つてゐる、些とした事にも夢中になつて、私等を怒鳴り付ける、訴へる、稽古を半分で止にして了ふ、而して自分の室へ行つて、一日中引込んで、書物をじつと読んでゐる。彼は価の高い、珍い書物を沢山持つてゐるので。彼は此家で教師をしてゐる外に、未だ何所か他の家へも教へに行くのであつて、幾干かの給料を取りさへすれば、直に本を買ひに行くのであつた。
後になつてから私は彼が能く解つて来たが、彼は善良な人間で、私が是迄知つてゐる人の中では、一番立派な人物である、母も彼をば非常に尊敬して居た。私は母を措いては、彼に超した親友は無かつたので。
初め私は這麼に大い娘でありながら、サアシアと一所になつてポクロウスキイを調戯つた。或時は二時間も、三時間も頭を使つて、奈何かして、ポクロウスキイを調戯つて、怒らして遣らうと考へた事がある、彼の怒る様子が面白かつたので。今思ひ出すのも気の毒で堪らぬけれども、一度などは、彼を泣かせるまで怒らした事がある、で、私は彼が私達を悪い子供だと、口惜さうに小声で云ふのを聞いたが、すると今度は急に心配になつて来て、自分ながら恥かしく、彼が気の毒になつて、耳まで真赤になり、眼に涙をさへ湛へて、彼に悪かつた事を謝つたが、彼はとうとう書を閉ぢて、稽古を中途で止にして、自分の室へ行つて了つた。私は一日中心配して、後悔してゐた、子供の癖に、彼を泣かせるまでに怒らして、望み通りに彼に涙を流させたのを思へば、此貧しい不幸な人を、這麼に苛めて、其儚い運命を、強ひて思ひ出させたかと思へば、何とも心に責められて、一晩中後悔して眠られなかつた。後悔は心を安らかにするとか云ふが、私は其反対であつた。而して此後悔の中に、一種の自愛心があつた、私はポクロウスキイに、もう十五歳にもなるものを子供と見做されてゐるのが残念でならなかつた事で。此日よりして私は奈何にかして、ポクロウスキイの私に就いての思はくを変らせたいものと、種々、様々に、心に思つて見、想像をして見たが、現在の私の位置で、是と云つて何を為す事は出来ぬ、其れで、唯妄想に留まつてゐたが、以後、私はもうサアシアと一所になつて、彼を調戯ふ事は為なかつた。随つて彼も亦私等に怒らぬ。然れども私は、私の自愛心を満足させることは出来なかつたのである。
(六)
私は今爰に少しく、今迄に出遇つた人の中で、最も奇妙な、最も面白い、最も哀な一人の人の事を記す。私は此日記の、此の場所に、殊更に此事を書き加へたのは、今迄遂ぞ注意を向けなかつたポクロウスキイの身上に係る事が、俄に私の為に興味を有つて来たからである。
私達の家に、時々何とも云へぬ変な老人が来る。不潔な衣服で、何所から何所まで、小汚ない、背の低い、白髪頭の、極が悪さうな風をして、始終からだを丸く曲げてゐて、其挙動と云ひ、様子と云ひ、些と見ても、頭が確な者では無いと見える。此老人、屡々私等の家に来て、而して屹度玄関の硝子戸の所に立つてゐる。誰か家の者が通ると──私か、サアシアか、下女の中でも自分に親切な者と思つた者が通ると、彼は直ぐに手招きをする、戸の側に行くと、色々な、其れは妙な手態をして見せる。人がゐないから入つても可いと云ふ時には、此方では唯点頭いて見せる。──其れが毎の暗号なので。すると、彼は密と戸を開けて、喜ばしさうに微笑して、両手を揉んで、さも満足との意を表して、爪先で歩みながら、真直に、ポクロウスキイの室に向かつて行く。此の老人はポクロウスキイの父なのである。
後に至つて、私は此不幸なる老人の履歴を詳く知つた。彼はもと何かの官員であつたが、才能などゝ云ふものは、微塵も無いので、随つて其位置も極くの末席。彼は其最初の妻──大学生ポクロウスキイの母──の死んだ時、もう直ぐ二度目の妻を貰ふ意で、さる町人の娘を見付け、其れを後妻とした。彼が家は此の二度目の妻に依つて、甚い有様にされて了ひ、誰も皆生きてゐる空は無い。彼女は家の所有物を悉皆自分の物としても飽足らず、未だ十歳の小児であるポクロウスキイまでも邪魔にして、酷く取扱ふ事は夥しい。然しポクロウスキイは幸にも、運が好く、大地主のブイコフと云ふ、父のポクロウスキイと知己の人間が、取引とつて世話をして呉れた。ブイコフがポクロウスキイを世話した訳は、彼の死んだ母を知つてたからで、其母は娘の時分、アンナ、フェオドロウナに世話になつて、官員のポクロウスキイに嫁かせられたのであるが、ブイコフはアンナ、フェオドロウナの極く親しい知己であつて、唯ほんの義侠心に駆られて、五千円と云ふ持参金を花嫁に呉れて遣つた、が、其金などは何所へ行つて了つたか解らぬ。との事などを、私はアンナ、フェオドロウナから聞いたのである。大学生ポクロウスキイは、決して自分の家庭の事は話さぬ。話に聞けば、彼の母は美人であつたと云ふが、何故に又那麼詰らぬ人間に嫁くやうな、不運になつたのであらうと、私は不思議でならなかつた……彼の母は年未だ若いのに嫁いて其れから僅か四年で死んで了つたので。
少年のポクロウスキイは、小学校から中学に、其より大学に移つたので、ブイコフは彼得堡に屡々出て来たが、其度、猶且、ポクロウスキイを好く世話をした。彼が健康をそこねて、大学にも通ふことが出来なくなつたので、ブイコフ自ら彼をアンナ、フェオドロウナに紹介して、知己とならせ、サアシアに学問を教ふると云ふ条件を以て、此家の寄食人とならせたのである。
老人のポクロウスキイは、妻から虐待されて、自然、自暴自棄となり、遂に悪癖に沈溺して了つて、年中泥酔らつて許りゐる始末。妻は彼を打擲し、台所の隅に追ひ遣り、其処に住まはせるなど、有らん限りの虐待を尽しても、彼をして、此打擲、呵責、虐待に全く慣れしめて、又敢て恨みもせぬやうにまで至らしめた。彼は未だ左程に老年と云ふのでは無かつたが、此の酒と云ふ悪癖の為に、殆ど常識は無くなつて了つてゐる。然し未だ彼の中に、何所か人間らしい、高尚な感情の有つた唯一の徴候は、其子に対する無限の愛で。話には青年のポクロウスキイは、其容顔が死んだ母に瓜二つだとの事、であるから、前の善良なる妻の記念が、此の堕落した老人の心に、自然、ポクロウスキイに対しての無限の愛を惹起さしたのでもあらうか。老人には子息の話の外には何の話も無いのである。一週に二度づゝは屹度来る、而して其れより多くは来ぬのである。と云ふうのは、子息のポクロウスキイが父の来るのを不好がるからで。ポクロウスキイの欠点は、唯父に対しての冷かなる仕向けであつた。勿論、此老人、時には実際、世の中の有ゆる者に立越えて、甚だ迷惑な厄介ものでもあるので。下らぬ事を何でも聞きたがり、眼に触るゝ物を何でも捉へて見たがる、世にも比類無き好奇心、訳の解らぬ質問と、辻褄の合はぬ話とで、勉強の妨害をされ、ぐでぐでに泥酔つて来られるなど、随分堪つたものでは無い。然しポクロウスキイは段々に、此の好奇心や、お喋舌や、悪癖を止めさせて、遂にはポクロウスキイを神のやうに恐れ、其許しがなくては、口が開かぬと云ふやうに至らしめた。
(七)
不幸なる老人は我が子のペエチンカ──彼は子息ポクロウスキイをさう呼んでゐた──を見ては、其度毎に感服して、嬉しさに堪へ切れぬ。が、彼はポクロウスキイの所に来ると、毎度も、心配さうに、怖々して、外に長く立つてゐて内へは入り得ぬ。子息が自分を奈何受けて貰れるかと、唯其れを案じてゞある。私が丁度其時出て行きでもすると、彼は大凡二十分も、ペエチンカは奈何だとか、何にしてゐるかとか、壮健かとか、甚麼心持でゐるだらうかとか、何か大事な用事でも為てゐはせぬかとか、書ものをしてゐるか、或は考へ事でもしてゐるか、と、其れは執拗く尋ね廻す、私は彼に勢を付けて、安心させて遣ると、彼は初めて中に入る気になつて、注意に注意をして戸を開け、初には頭丈差入れて、子息が怒つてゐないで首肯くのを見ると、こそこそと室の内に入る。而して自分の外套や、揉めて穴だらけな、縁のぼろぼろに為つた帽子などを脱いで、其れを一々鈎に懸け、何をするにも静に音も為ないやうにして、其れから何所かの椅子に坐し、さて、子息から眼も離さぬ、我が子のペエチンカの心持を察しやうと思ふので、唯もう其挙動を熟視つてゐる。で、子息が少しでも不機嫌のやうに見受けられた時は、直に椅子から立上つて弁解をする。
『ペエチンカ、私はね、何さ、たゞ私は些と来た許りさ、遠くまで行つて来て、遂傍を通つたから、些と休みに寄つたのさ。』
と、其切、後は畏まつて、何にも一言も云はず、旋て、又自分の外套と帽子とを取り静かに戸を開けて、心一杯の悲しさを抑へて、子息に其れを気付かせまいと、無理に微笑をして、出て行くのである。
又或時には、子息が機嫌よく受ける事もあるが、其の時は老人もう喜に堪へないで、其満足は、顔と、身態と、様子とに溢れてゐる。子息が話掛ければ、彼は何時も椅子から身を抬げて、媚るやうに、又謹んで一々返答をする、而して撰び抜いた文句を用ひやうとしてゐる、が、弁舌は甘く行かないで、往々どま(=シンニュウに貝)着いて、怖気て了ふ。然うすると、何所へ手を置いて可いかと云ふやうにして、穴へでも入りたいやうな風をする。而して猶漸少時、ごとごとと独言を云つて、言損こなつたのを、云直さうとしてゐる。若又、何か甘く答へられた時は、もう其顔は輝くやうに得意らしく為つて、チヨツキだの、襟飾だの、燕尾服などを直したりして、さも自分の真の資格を表はしたと云はぬ許りで、勇み返つて、時に依ると、衝と立上つて、書棚の方に寄り、載せてある書物を取つて、其れが甚麼書物であるだらうが、些と開いて読んで見たりするのである。而して如何にも落着いて、平気で、子息の書物を何時でも恁云ふやうに自由にする事が出来ると云つたやうな顔。又子息の愛想が、自分には少しも珍らしく無いと云つたやうな様子、所が或時、丁度私が見てゐた時、ポクロウスキイが父に、那様に書物を弄らないで呉れと云つた時、彼の其吃驚した風の笑止さは、狼狽{うろうろ}して、周章て書を倒に元の所に立てたのであるが、又其れをどぎまぎして直さうとして、今度は裁目の方を外にして立てた、而して真赤になつて、にやつと笑つて、奈何して此の罪を消さうかと云ふさまであつた。
ポクロウスキイは段々に老人の悪癖を直して行つたが、老人が三度も続いて酔はないで来た時は、其次は屹度帰りに、二十五銭か、五十銭、或はもつと持たせて帰して遣る。時としては靴、襟飾り、チヨツキのやうな物をも買つて遣る、老人が新調の服を着て来た時の様子は面白い、まるで雄鶏のやうに傲然と構へてゐる。時に依ると私等の方にも立寄つて、私と、サアシアに林檎や、鶏の菓子などを持つて来て呉れる。而して話は何時もペエチンカの事許り、善く気を着けて、勉強なさいだとか、言ふ事を善く聴きなさいだとか、ペエチンカは善い子息で、手本になるやうな人間で、其上に学者であると、左の眼をぱちぱちしながら、身体を妙に曲がらせて、其れは面白い様子をして話す、私はもう笑止くて堪らず、吹出して了ふ。然し母は彼を好く待遇つてゐた。彼は又アンナ、フェオドロウナが嫌で、始終悪んでゐる。最も彼は其前に出れば、ぐうの音も出ないで、小さくなつてゐるけれども。
(八)
其後私はポクロウスキイに教へられる事を止めた。が、彼は未だ私を前と同じく、サアシアのやうなお転婆な子供と見做してゐる。私は其れが残念でならぬ、奈何かして前の事を取消さうと、色々に苦心もしたが、先では一向に気が着かぬ。で、私は懊悩て懊悩てゐた。一体ポクロウスキイと私とは、教場の外では話することは滅多に無い、又稀に然云ふ事がある時も、直に真赤になつて、狼狽へて了ふ。後では残念で残念で、隅の方に行つて泣き泣きする。
然るに不思議な事で、私達は互に相近づく機が出来たので。或夜、母がアンナ、フェオドロウナの所に行つてた留守、私は密とポクロウスキイの室に入つて行つた、彼の留守である事を承知してゐながら、奈何云ふ訳か急に彼の室に入つて見たく為つたので、私はもう彼と一年余も隣合つて住んでゐたが、是迄遂ぞ那麼事は無かつたが。さて中に入つて見ると、急に胸がどきどきと激しく鼓動して来て、何だか特別の好奇心を以て其辺を●した。室の中は如何にも何にも無く、其上物の順序も少しも立たず、机の上、椅子の上は、書物と書物が投げ散らかつてゐる! 其の時私は忽ち変な考が起こつて来て、其と共に、何だか不愉快な、残念な感が心に満ちた。彼に対して私は自分の友情と、親愛の心許りでは足りなく覚えたのである。彼は学者であるのに、私は愚で、何も知らぬ、一冊の本も読まれぬ、と。……而して私は書物がぎつしりと載せられて、靱つてゐる長い棚を、羨しさうに眺めてゐたが、残念のやうな、悲しいやうな、一種の感がむらむらと起つて来て、此書籍を残らず読んで学んだら彼と適当な朋友になる事が出来るのであらうと思はれて、急に此書籍を片端から読んで見たくなり、突如、棚に近づいて、何の考もなく、一番に手に触れた塵だらけの一冊を取つた。動悸がする、真赤になる、真青になる、がたがたと顫へる、而して捉んだ書を小腋に為たまゝ、自分の室に急いで持ち帰る。夜になつて母の眠つた後で、有明の灯で読まうと思つたので。
私は自分の室に帰つてから、急いで本を開いて見た所、其れは古蒼た、虫のぼろぼろに蝕つた、ラテン語の書物、えゝ、残念と許り、直ぐに又彼の室に引返したが、本を書棚に置かうとした時、廊下に音がして、誰か近づいて来るやうな足音、私は慌惶て、狼狽て、早く棚に置いて了はうと急つたが、憎らしい書物は棚にぎつしりと積つてゐるので、一冊取つた後は直ぐ塞つて、差込む余地は無いのである。書物を押さうにも力は足りず、と云つて押入れずには置かれぬ場合、力一杯に押して押して間を明けやうと試みる。すると運の尽き、棚の釘は恰も此瞬間を待ついてゐたかのやうに、ピチリと云つて折れて了つた。さあ大変! 棚の一方は下に傾くと同時百雷の音して、書物は皆床の上に散乱する。其と同時、ぱつと戸は開かれてポクロウスキイは室に入つて来たのである。
ポクロウスキイは自分の領分内に於て他人に我物顔をされる位、不好いな事は無いのである。其れを今私は一言の挨拶もなく彼の書物に手を触れたのであるから……厚い、薄い、種々な形の、大小の書籍は、机の下から、椅子の下に至るまで、室中に散乱つた。此時の私の驚愕と云つたら、甚麼で有つたらう。逃げ出さうとも思つたが、もう遅い、奈何する事も出来ぬ。九歳か、十歳の小供のやうな真似をして了つた、実に私は馬鹿である。大馬鹿者である。ポクロウスキイは怒つたの怒らないのと云つて。
『悪戯者、とうとう這麼真似をして。』と、怒鳴り叫ぶ。『ヱ、這麼悪戯をして何とも思ひませんか、何日になつたら貴嬢は尋常になられます。』と、彼は自ら書物を集め初める。で、私も一所に拾はうと思つて身を屈めた。
『可いです、可いです、那様事を為る位なら、何だつて貴嬢の来べき所で無い所へ来たのです!』
と彼は云つて、私の助けるのを拒んだが、私が面目なささうに萎々としてゐる挙動を見て、段々に怒を和らげ前よりは余程調子が穏かになつて、嘗て教師であつた時のやうな口調で以て、又続けて云うたのである。
『ねえ、貴嬢は何日になつたら丁と為ますか、自分を少し考へて御覧なさい、貴嬢はもう小供ぢやないのです、小娘ぢやないのでせう、もう十五歳ぢやありませんか!』
で彼は私を小娘で無いと云うたのが、其通りであるか、奈何かを見やうとしたのか、ひよいと頭を上げて私の顔を凝と見たが、急にぱつと耳まで顔を赤くした。私は何の訳か解らなかつたが、彼の前に突立つたまゝ、眼を見張つて彼を見てゐた。彼は身を起しざま、落着かぬ風で、私に近寄り、甚しくどま(=シンニュウに貝)ついて、何とか云つたやうである、或は私がもう這麼に大きい娘であつたのを、今初めて気が着いて、謝つたのかも知れぬ。私は其時奈何したか記憶えてゐないが、猶且度を失つて、狼狽へて、ポクロウスキイより一層真赤になり、両手で顔を隠したまま、室から駈出した。
私は彼の室にゐたのを、彼に見られたと云ふのが恥しく、奈何したら可いか解らなかつた。三日の間は彼の顔を見る事も出来ないで、一つ事を思出しては、涙が出る程赤くなりなりして、詰らぬ事を色々に考へてゐた。彼の室に行つて、善く言解をして、悉皆打明けて、決して悪戯を為た訳ではなく、善い考で為たのであると、彼に云はうとまで思つた。が、勇気が足りなくて、終に行かなかった。然し若し然うでもしたら、私は甚麼事を為出かしたであらうか、思ひ遣られる、今でも此の事を考へ出すと恥かしい。
(九)
数日を過ぎて、母は俄に重い病気に罹り、もう二日床に就いた切りである。三日目の夜には、熱さへ非常に高まつて、譫言などを云ふのであつた。私は一晩中眠らずに、母の寝床の側にゐて、食物を進め、薬を与へて、一心に看護をしてゐたが、其次の晩には、悉皆疲れて了つて、堪へても堪へても、続様に居眠りが出る。青いやうな光る物が目に閃つく、頭はぐらぐらと廻つて来る、疲れ切つて今にも倒れさうになる。と、母の弱い唸声は又私を呼覚ます。私は喫驚して跳上つて、一分間眼を覚ましては見たが、又つい眠る。すると、何だか非常に恐しい、夢であるか、現であるか、眠りたい、覚めやうと、乱れた頭で争う刹那に、ありありと眼に浮ぶ物影。はつと驚いて眼を開いたが、室の中は真暗で、有明の灯は細く消えやうとして、仄な光線が、俄に室中に行渡るかと思へば、又極めて微な光を、唯壁の上に閃々させる、或は又消えて了つたやうに暗くなる。すると私はもう恐しさに堪へられず、何か又も自分に恐しい物が迫つて来るやうで、私の想像は全で撹乱されて、云ふに云はれぬ悲しさ、苦しさ……、私は椅子から跳上るなり、キヤツと苦しい叫声を上げた。丁度其時戸が開いて、ポクロウスキイは私の室に入つて来た。
ふと気が着いて眼を開けば、私はポクロウスキイに抱かれてゐる。彼は大事に私を椅子に凭らして、コツプに水を汲んで呉れて、さまざまと尋ねて呉れる、が、何と私は答へたか記憶えてはゐぬ。
『貴嬢も工合が悪いですよ、貴嬢も病人なのです。』ポクロウスキイは私の手を捉へて云うた。『熱が有ります、貴嬢は自分の身体を大事に為ないぢや可けません、安心して横になつてお出でなさい、ね、私が二時間経つたら起して上げますから、安心して……、お眠みなさい、よ、お眠みなさいよ!』
と、彼は私に一言も云はせず続けて云うた。私は又疲れて、眼は自然閉がつて了ふ。半時間許り眠らうと思つて、其れなり眠つたが、ぢつと朝まで眠通した。ポクロウスキイは母に薬を与へる時間が来た時、初めて私を起して呉れた。
翌日私は昼少し休んで、もう眠るまいと思つて、母の側に椅子を移して坐らうとした時、丁度十一時であつた、ポクロウスキイは私の室の戸を叩いた。私は直ぐ開けると、
『貴嬢一人で退屈するでせう、本を貸しませう、あ、お取りなさい、少しは退屈凌ぎになるですよ。』
と、彼は一冊の書物を私に貸して呉れた。甚麼書であつたか記憶えていない。一晩中眠らずにゐたけれども、書物などは見る気になれなかつた。胸の中は変に騒いで、動悸がしてゐて、一つ場所にぢつとして坐つてゐる事も出来ぬ。幾度か立上つては、室の中を歩いて見る、何とも云へぬ喜悦が、全身に充ち渡つてゐた。私はポクロウスキイの親切が、沁々と嬉しくて、自分の事を心配して呉れ、気を揉んで呉れるかと思へば、謂はうやうなく満足に堪へぬ、終夜、私は彼の事許りを考へ通して、妄想を画いてゐたが、彼は其夜は遂に来ぬ。私も屹度然うであらうと思つてゐて、翌の夜のことを考へてゐた。
次の夜、家内は皆眠静まつた頃、ポクロウスキイは自分の室の戸を開けて、敷居の所に立つたまゝ、私と話を為たのである。私は其時何を二人で話したか、其れは忘れたが、猶且、どきどきして、狼狽へて、早く話が止めになれば可いと思つて。其癖私は一日中、唯其事を想像して、自分が問うたり、答へたりする事を、色々に考へて、彼と遇ふ事を待ちに待つてゐたのであるけれども。……此夜よりして私達は特別に近しくなつて、母の病気の中は、毎晩数時間づゝ、二人で一所に送るやうになつたのである。其中、私も段々と恥かしいのに勝つて来た。勿論、未だ話をしてから後で、随分歯痒く、残念に思ふやうな事もあつたが。
然し私故に那の憎らしい書物を忘れてゐるかと思へば、何となく自慢のやうな、嬉しいやうな気がしてならぬ。或時笑談話の序に、書物を棚から落とした時の事が出た、私は些と変であつたが、心が熱してゐて、気が浮立つてゐるまゝ、我を忘れて、有丈の事を包まず打明けた。学問して何でも識り度くなつて来た事、自分を小娘だ、小供だと思はれてゐたのが残念で堪らなかつた事、彼に対する自分の友情、彼を愛して一つ心になりたいと思つた事、彼を慰めたい、安心させたいと思つた事などを、眼に涙が溢れる程、非常に心が和らいでゐたので、残りなく彼に話したので、彼は恁くと聞いて、些と度を失つたよやうに、又喫驚したやうに、而して一言も何とも云はぬ。私は彼に自分の心が解らないで、或は又心で笑つてゞもゐはせぬかと、急に悲しく為つて来て、小児のやうにおいおいと泣き出した。恰もヒステリーでも起つたかのやうに。私は何うしたのか、自分で自分を制する事が出来なかつたのである。すると、彼は、私の両の手を捉つて、接吻し、自分の胸にしつかりと引着けて、甚だしく感動した様子で、色々と慰め、且つ云ひ聞かせた。私は泣いたり、笑つたり、又泣いたり、赤くなつたりして、喜の余り、もう一言も後は云はれなかつた。で、胸には烈しく動悸しながらも、ポクロウスキイの様子を見てゐると、彼は何となく沈んでゐる。屹度、彼は私の夢中になつて喜んでゐるのと、突如に燃ゆるやうな熱き友情とを見て満足に堪へなかつたのであらう。或は初はたゞ彼に珍らしく、後には私と同じやうに、単純な、無邪気な感情を以て、私の彼に対しての優しい心、愛嬌の言、慕ふ心根を受けて、此等の事に私と同じ心を以て、親しい朋友、親身の兄弟のやうに為つて呉れた。私の心は謂ひ知らず嬉しく、温で……私は其から何事も隠さず、彼に打明ける。彼は其れを見てゐた、で、一日増に私に心を寄せて来たので。
(十)
不幸の中にも又嬉しき二人が出遇、夜の灯明の火がぶるぶると揺へる光の中で、病める母の枕下で、さても互に何を話したのであつたか、私は忘れた。……頭に浮んだ事、心の中から溢出す事、何も、彼も、自然云ひ出したかつた事は、皆云うたのである。二人は奈何に幸福であつたらうか……、あゝ是は悲しい中にも、嬉しかつた時! 今彼の事を思ひ出せば、又更に悲しく、嬉しいのである。記念と云うものは、総て嬉しい事につけ、悲しい事につけ、同じく苦しいものではある。然し苦しいが又快いものである。憂き事に心は懊悩され、悲しさに堪へ遣らぬ時は、此記念なるものが、如何許り心を洗ひ去るものであるか。金石の溶けもすらん日も暮れた夏の夕、露の滴が、昼の暑さに焼け萎みたる哀れな花を、復活らせると同じやうに。
母はやうやう快方に向かつて来たが、私は猶且、夜毎其枕下に坐つてゐた。ポクロウスキイは私に度々書物を貸して呉れる、私は初は其れを唯眠らぬやうにとまでに読んでゐたが、段々に面白くなつて、注意して読むやうになり、遂には飢えて読むやうになつて、俄に私の目の前には、今迄知らなかつた種々の事が顕はれ来り、新思想、新知識、一時に大河の決するがやうに、心に押寄せ来たのであつた。
其後母の病気もやつと全快したので、是迄の二人の出遇も、長い談話も、又其切に為つて了つたが、猶且、時々は互に言を交してゐた。意味の無い詰らぬ事にも言外の意を含まして、私は聞いてゐた。私の、生活は実に円満で幸福で、安泰であつた。恁くて数週間は過ぎ行いたので。
或時ポクロウスキイの父は、私の室に立寄つて、長い間喋り、何時に無く、愉快さうに、元気よく、例の滑稽な事を語つたりしたが、終に自分の那様に浮立つてゐる訳を話したのであつた。……一週間経つと、ペエチンカの誕生日が来る、其時は新しいチヨツキを着て、此家へ来る、妻は新い靴を買つて呉れると約束したなどゝ云つて、老人はもう大機嫌。頭に浮んだ事は、何も、彼も皆喋つて行つたのである。
ポクロウスキイの誕生日! 私は其日に是非とも二人の友誼の記念として、何がな贈物を彼に為やうと思つた。然し何を贈つたら可いかと、終日、終夜、唯其事を考へてゐたが、終に書物を贈らうと思つた。私は彼が近刊のプシキン全集を欲しがつてゐたので、其れを買ふ事に極めたのであつた。其時に私は丁度三十円許り、仕事で蓄めて置いた金子があつた、其れは衣服を拵へやうと思つて取つて置いたのであるが、是を以て買はうと決した、で、私は為う思ひ着くと同時、下働のマトリョナ老婆に、プシキン全集の代価を聞きに遣つた。所が万事休矣! プシキン全集十一巻揃つて、表紙代まで合せれば、些と見積つて、少なくとも六十円。奈何したら此金が出来るであらう! 私は那か、恁かと、さまざまに智恵を絞り抜いたが、さて、善い思案も浮んで来ぬ、母に事情を話しすれば、むろん、助けて呉れも為るであらうが、然うすれば家中に此事が知れる。而して此贈物が彼に対して、一年間の教師としての骨折と、報酬になつて了ふ。が、私は然うではなく自分の友誼として遣り度いので、彼の骨折に対しては一切報酬を払わずに、一生借りて置きたいのである。所が、遂に私は善事を思ひ着いたのであつた。
(十一)
私はゴスチンヌィ、ドヲルの古本店に、時によると、未だ綺麗な本の出物が往々有つて、代価も新らしい本の半分位で買へるのを思ひ出した。で、是非とも其処へ行こうと考へてゐた所、丁度翌日、私とアンナ、フェオドロウナとは、他へ行かなければならぬ用向が出来た。然るに母は病気揚句だし、アンナ、フェオドロウナも今日は何所へもいきたくないと云ふので、これ幸と私は下女のマトリョナ一人を伴れて、アンナ、フェオドロウナの用事をも兼ねながら出掛けたのである。私は行成其目的の所に行つて見ると、幸にも、表紙も何所も那麼に汚れてゐない、プシキンの全集が直ぐに見当つたので、先づ評価をして見ると、初は新らしい全集より高いことを云うてゐたが、私は幾度か帰る態をしては遂に商人をして、三十五円にまで下げさせる。私は非常に面白かつたが、マトリョナは何の訳で私が這麼高価な本を買ふ意になつたのか解らず、茫然として見てゐた。所が考へると私の懐中には、三十円より金は無い、商人はもう何と云つても、三十五円よりは引かぬ。私は詮方なく頼むやうにして、何卒もう少し引いて呉れと縋つて云つた。で、商人はやつと渋々二円五十銭丈を最後に引いたが、是よりは一文でも引く事は出来ぬ、他の人なら甚麼事があつても三十五円よりは安く售らないのであるが貴嬢は好い嬢様であるから、特別を以て二円五十銭丈け引いて置くのであると云うてゐた、私は残念で泣かうと為た。すると、思ひも寄らぬ事で私は助けられたのてある。
私より少し離れた那方の、猶且、古本店の前に、老人のポクロウスキイがゐた。四五人の古本屋は彼を取囲んで、わいわいと云つて各々自分の品を彼に胡麻化して售附けやうとしてゐる。哀なる彼は何と云ふ事はなく買はうとして、彼らの真中に立つたまま、上気上つたさまでゐる。私は彼に近づいて、何を為てゐるかと問うた時、彼は私を見て非常に喜んだ。老人は私をペエチンカのやうに愛してゐたのである。
『御覧の通りな、本を買つてゐるのでね、ワルワラ、アレキセエウナ、那のペエチンカに本を買はうと思つてさ、彼の誕生日も、もう直に来ます。彼は本が好きだから、其で何さ、私は今、彼に遣る本を買つてゐる所でさ。』
老人は何時も、ものを言ふ時には、極つて妙な言方をするのであるが、今日はまた一層狼狽へてゐるやうで。何れに手を着けても三円五十銭(銀貨の一ルウブリ)、或は七円(銀貨の二ルウブリ)、或は十円五十銭と云ふのであるから、彼はなかなか大きい書物の方へは手も出し難ねたのであるが、猶且、其方を羨しさうに、恨めさうに見て、指で些と頁を剥いで見たり、手の上に取つて廻して見たり、また密と元の処に置いてみたりしてゐる。
『いや、高い高い。』と、老人は小声で然う云つた。『其れぢや、此方の方からでも何か一つ。』と、薄い帳面、歌の本、伝記ものなどの方を一つ一つに選び初めたが、此の方は皆安い品許り。
『那様ものは皆詰らないもの許りですわ。』と、私は云うた。
『うむ、否ね。』老人は答へる。『否ね、御覧なさい、そらな、此所に甚だ結構な本がある。』と、哀れな声で、歌ふもののやうに、があと引張つて言うたのは、善い本は何故高価いかと、残念の余りに、泣く許りで訴へるのであると私には見えた、而して今にも青褪めた頬から、涙の一滴が、其赤い鼻の先へ垂れる許りに思はれる、私は彼に若干許り銭を所持つてゐるのかと聞いた。
『然うな。』と彼は油染た新聞紙に包んである、自分の銭を見せた。『そら五十銭、そら二十銭、銅貨が二十銭。』
私は行成老人を自分のゐた本屋の所に引張つて行く。
『是を些と御覧なさい、十一冊残らずで三十二円五十銭するのです、所が私は三十円の外有つてゐないのです、だから、貴方が二円五十銭是に足して下さい、で、二人してこの書物を買ひませう、悉皆。』
老人は喜んで夢中になつて、紙に包んだ自分の銭を、残らず其処に払き出した。で、遂に私等は此の書物を残らず買つて了つたのである。彼は此の書物を有丈の隠袋に押込み、両手で腋にやつと抱へて、翌日又皆私の所へ持つて来ることを約し、一先づ自分の家に持ち帰つた。
(十二)
翌日果して老人は私等の家に来て、子息の所に一時間許り話してから、私の室に入つて来る。さもさも何か秘密を有つてゐると云ふ自慢な、満足な、其れは極めて滑稽な様子で、手を擦り擦り、微笑して私の側に坐し、而して密と、書物は皆持つて来て、マトリョナに頼んで、台所の隅の方に隠してあると告げる。で、話は自然子息の待遠しい誕生日の事許りで、奈何云ふ風に贈物を出したら可からうなどゝ、色々に話たが、其中に彼は段々と何か言悪い事でもあるやうな言ひたいが、言へぬと云ふやうな態度を見せて来た。何であらうと私は尚黙つて見てゐたが、奈何も例の妙痴奇の挙動や、容顔や、左の眼をぱちぱちさせる中に、奈何しても何か訳がある事が容易く読まれる。而して前の秘密を有つてゐると言ふ満足の様子は、何処かに消えて、何か切りにどま(=シンニュウに貝)々して、心配さうな風。
『聞いて下さい。』と、彼は終に堪へ切れなく為つたと見えて、小声で言ひ出す。
『聞いて下さらんかワルワラ、アレキセエウナ……。』老人は一通りならぬどま(=シンニュウに貝)着き方で、『あのね、ワルワラ、アレキセエウナ……あの何です、其の、那のね、誕生日が来ましたらな、十冊丈貴嬢が御自分で遣つて下さらんか、而して私が其残の一冊を、自分からだつて遣りますから、然うすれば何です、御覧なさい、貴嬢からも何か遣りますし、私からも遣られます、二人して遣る物が有りますが。』
と言うて後は吃つて黙して了つた。私は老人の顔を些と見たが、彼は恐る恐る私の宣告を待つてゐるものゝやうである。
『ですが何故貴方は二人で一緒に上げないやうに為さりたいのです、ねえ、ザハル、ペトロウヰチ。』
『何故でも無いのですが、ワルワラ、アレキセエウナ……唯、其の、然うしたいので……私は……其が、其の何で……。』
老人は真赤になつて、倉皇狼狽して、ぎくぎくと吃り散らして、奈何にも、恁にもならぬ体。
『実は恁云ふ訳なのでね。』と、彼はとうとう打明ける。『私はワルワラ、アレキセエウナ、時々我侭を遣りましてな……、いや、私は貴嬢に白状致しますがね、全く我侭なのでして、而して何時でも我侭でね……、好くないと言ふ事を、其の為たがるので……、いや、何ですがね、戸外が那麼に寒かつたり、時とすると面白く無い事が有つたり、其から又奈何かすると悲しい事が有つたり、好く無い事が有つたりすると、遂もう堪へ切れないで、其の我侭を遣り出すのでね。それ、余計に呑んだり為るのです。ペトルウシヤは其れを甚だ不好がりますのでな、御存じでせう、ワルワラ、アレキセエウナ、怒つてからに、私を叱つて色々説諭をします、其れでゞす、私は今彼に、自分が段々に直つて、品行を正くしてゐると言ふ事を、自分の贈物で証したいのです。で、私は本を買はうと思つて、長時間蓄てゐたのです。私は銭などは何時でも少しも有つてゐないのですが、ペトルウシヤが奈何かすると時々呉れます。其れより外には無いのです、彼も其れを知つて居るので、だから今私が贈物をすれば、彼は私の銭の遣方を見て、自分一人の為に、私が恁うするのだと解ります。』
私は老人が可哀さうに為つて来て、久しくも考へてゐなかつたが、彼はさも不安心に私を見てゐた。
『ぢや、恁う為すつたら奈何です、ザハル、ペトロウヰチ、彼の書物を皆、貴方お一人でお上げなさい。』
『奈何して、皆? 書物を皆ですか?』
『然うです、書物を皆。』
『然うして私からとして?』
『然うです。』
『自分一人で?』
『はあ。』
『あの私の名でゞすか?』
『然うですとも御自分のお名で……』私は明白と云うたのであるが、老人は私の心が解り兼ねて、一つ事を幾度も問うてゐたが。
『うむ、然うと。』今度は考込む。『其れは甚だ喜ばしいですが、いや、至極妙ですが、然らば貴嬢は奈何なさるワラワラ、アレキセエウナ?』
『私? 私は何にも差上げません。』
『奈何して?』老人喫驚して叫ぶ。『其れぢや貴嬢はペエチンカに、何にも遣らないのですか、何にも遣つては下さらんと言ふので?』
と老人は私にも何か贈物を為て貰ひたさに、自分に勧められた事を辞さうと為た。で私は彼に、自分も是非何かを送りたいのは同じ心であるけれども、さて又老人から其満足を奪ひ度く無いのであると、くれぐれも彼に話して。
『御子息も、貴方もご満足でさへあるならば、私は其れで嬉しいので、心では猶且自分も上げた気になつてゐるのですから。』
と云うたら、老人は、其れで初めて安心して、猶二時間程は遊んでゐた。嬉しくて嬉しくて、ぢつとしては居られず捫々して見たり、急に元気を出して見たり、サアシアと巫山戯たり、私を密と接吻したり、手を抓つたり、アンナ、フェオドロウナに些と眼付して、ものを言つたり、今迄に這麼に元気を出した事は無い位。処が彼は終にアンナ、フェオドロウナに、此家から突出されて了つたのである。
(十三)
ポクロウスキイの誕生日、老人はきつかり十二時に、丁と扣鈕の掛つている燕尾服に、新しいチヨツキ、靴を恭しく穿いて、聖堂から直ぐ遣つて来た。私等は丁度アンナ、フェオドロウナの処で、皆寄つてコヒーを飲んでゐた所だつたが、老人は先づ席に就くと、旋てプシキンは偉い詩人であると話し出した。其中に何か言損なつて、又どま(=シンニュウに貝)着いて、今度は品行を正しく為なければならぬものであるとか、人間は若し品行が修まらなければ、是は我侭であるとか、悪癖は人間を滅す原因であるとか、と話を移して来た、其から不摂生な、有害な例を数へ挙げて、自分なども近頃深く感ずる所が有つて、或時から全然、然う言ふ悪癖を止めて了つたと云うて、又更に、子息からの段々の説諭も有るものであるから、実に疾うから止めやうと覚悟をして、やつと此頃は実際に締つて来た、で、今其証として、長時間掛つて溜めて置いた金で、子息に贈物を為るのであると言うた。
私は老人の話を聞いてゐながら、可哀さうでもあり、又必要に迫まれば、可くも那麼に嘘が言へたものと可笑しくもあつた。程なく書物はポクロウスキイの室に持運ばれて、棚の上に飾られる。ポクロウスキイは直に此の贈物に就いての真相を考へ当てたのである。で、老人は今日の昼食に招かれた。食事の後、私達は種々の遊戯をしたり、骨牌を取つたり、サアシアを相手に巫山戯散す。ポクロウスキイは私に対して殊に優しく、二人切で語る機を探してゐたやうで有つたが、私は知つて知らぬ態をしてゐた。思へば此日は、私が此の家に住んでゐた四年間の中で、最も楽しかつた日なのである。
然し今はもう皆這麼事どもは、悲しい、愁い記念になつて了つた。是よりの日記は、私の不幸の日の初幕である。筆も渋つて了ふやうで、書くのも切ない。是迄は、まだしも幸福で有つた日の事とて、謂ふべからざる懐かしさを以て、細々と書きも続けたのてあるが、これは真個の短い月日、忽ちにして最も悲惨なる日は、回転り来たのであつた。
(十四)
私の不幸はポクロウスキイの病気と其死とより始まつた。
彼は誕生日の後、二ケ月許り経つて病気付いたのであるが、其迄は自分の生計に就いて、左や右と、其れを非常に心配してゐた。彼は是迄といふもの、別に何も定つた職務は有つてゐなかつたので、教師の口は他にも一ケ所有つたのであるが、彼は然う云ふ事は元来好まぬ、と云つて、何所ぞ役所の務の口をと思つても、其れは又身体が弱いので続かぬ。其上、始の月給を取るまでの所が、随分久しく待たなければならぬので、彼には迚も其の方は駄目である。那麼やうな訳で、彼の目的は容易に達せられず、徒に苦心して、而も健康は次第々々に悪しくなる。肺病患者には往々有るが、自分は病気を左程にも思はず、死ぬ間際になつても、未だ長く生きてゐる意でゐる、彼も亦其れと同じく、もう死期が近づいて来てゐるのであるが、さりとも思はぬ。毎日薄い外套を着ては、是非何所かに請願して、務の口に有就かんと出掛けて行く。雨に濡れ、雫に足を浸して、帰つて来ることも度々であつたが、間もなく彼は床に就いた。而して又起つ事は出来なかつたのである……秋もやうやう深くなつた十月の末、あゝ遂に彼は故人の数に入つた。
彼の病気中、私は少時も其側を去らず、彼を看護して、幾夜も徹して眠らぬ。彼は床に就いてからは正気でいる時は極めて稀で、大抵は夢中になつて譫言許り言ひ続けてゐた、務の口の事、書物の事、私の事、父の事。……で、私は少しも知らなかつた様々の事を、其譫言で初めて彼から聞いたのであつた。初め彼が病蓐に倒れた当座は、家の人々は皆私を変に思つて、アンナ、フェオドロウナなどは頭を掉つてゐた、が、私は誰に対しても、決して疚しい所は無いから、真直に顔を向けてゐたので、終には誰もポクロウスキイに対して、私の同情を彼れ此れとは言は無くなつた、少なくとも母丈は。
時とするとポクロウスキイは私が解る事も有つたが、其れは真の暫時で、直ぐ又夢中に為つて了ふ。徹宵何か解らぬ事を、誰かと話する意か、長い間云うてゐる。彼の嗄声は狭隘い室の中に、恰も棺箱の中で言つてゐるかのやうに、低く響いて、物凄い事は言ふ許りもない、殊に息を引取る最終の晩などは、気が変にでもなつたと思ふ程、自己を覚えず、甚しく苦しむ様は目も当てられぬ。悲しい呻声は、実に断腸の思である。家人も皆今更のやうに驚いて、狼狽へてゐた。アンナ、フェオドロウナは早く彼の息を引取る事を神に願つて祈祷してゐた位、其れから医師をも招んだが、医師も病人は明朝は屹度死ぬと言切つて帰つた。
老人のポクロウスキイは此夜中を、子息の室の戸口の廊下で、其処に筵を敷いて貰つて送つた。而して一分毎に室の中に入つて来たが、子息を見るさへも恐ろしがつてゐる、彼は此の烈しき悲哀の感に打たれて、全く放心して了つて、頭は恐の為にぶるぶると顫へてゐる、何か口の中で一人言を言つて、頻に議論をしてゐるので、悲哀の余り、気でも狂つたのでは無いかと私には思はれた。
夜明の少し前、老人は心中の苦悶に身は綿のやうに疲れて、筵の上に正体なく眠つて了つた。所が旋て七時過ぎ、ポクロウスキイの様子は俄に危くなつて来たので、私は老人を呼び覚した。不思議にもポクロウスキイは少時正気に立帰つて、皆に別を告げたのである。私は泣く事も出来なかつた。
彼の最後の時! あゝ其時の心苦しさ! 彼は何か廻らぬ舌で長い事、何かを私に頼んでゐたやうであつたが何であるか聞き分けられぬ、私は奈何して可いか胸は張裂けもしさうに愁い、苦しい、彼は一時間中、落着かず、冷い手で、何か手真似をしやうと為てゐる、而して又嗄た幽な声で、何かを頼み初めるのである。其声は少しも連絡の無い只の音で、奈何しても私には聞き取れぬ。で、私は狼狽へて、家の者を連れて来て見たり、水を飲ませて見たりしたが、彼は猶且さもさも悲しげに頭を振つてゐる。其中私はふと其れに気が着いた、彼は窓帷を上げて、窓を開けて呉れと言うてゐたのである。彼はもう一度日を見たく外の明を見たく、太陽を見たかつたので、私は早速窓帷を取退けた、戸外の日の色は、今死なんとし、消えなんとしてゐる人と同じく悲しく、愁はしげに、面を灰色の雲に包んで、雨は涙と降り注ぐ、窓の硝子には細雨頻に砕けて、散つて、冷い水の汚れた線にて、其れを洗つてゐる、室の中には、薄明い光線が懶く、聖像の灯明と光を争うてゐる。死なんとしてゐる彼は、又私を見て微に頭を掉つてゐたが、一分の後、終に瞑目して了つたので。
(十五)
葬式の差図はアンナ、フェオドロウナが万端彼れ此れとして、粗末な棺箱を買ひ、車屋をも頼んだ。で、費用の助けにと、彼女は死者の所持品から、書物に至るまで、悉皆自分の手に入れる。老人は是を見て躍起となつて彼女と喧嘩し、騒動を返して、力の限り彼女から書物を引手繰つて、其れを自分の有丈の隠袋の中に押込み、帽子の中にまで入る丈け詰込んだ、彼は其侭で三日の間、彷徨と歩いてゐる。聖堂に行くのにも其れを放す事は出来なかつた。而して棺箱の側にまごまごして、死者の頭の花冠を直したり、蝋燭を立てたり、取つたり、少しも落着かぬ、聖堂の祈祷には、私と、老人の二人切り、母は病気で来られぬ、アンナ、フェオドロウナも老人と喧嘩したので怒つて来ぬ、祈祷の中、私は一種言ふべからざる恐に心を乱されてゐた。是からさきの身の上を泌々と考へ出したのである。祈祷が了るまで私はやつとの事で立つてゐたが、旋て棺箱を閉ぢ、蓋を釘で打附け、車に載せて輓出した。私は通の果まで見送つたが、其から車は走つて行く、老人も其れに続いて後れじと走りに走る。而して後を追かけ追かけ、大声で泣きながら、声は顫えて駈足の為に度々絶える、其中に帽子を飛して了つたが、彼は其れを立留つて拾ひもせぬ。頭は雨に打たれ、顔は濡れる、風さへ吹添はつて、雨は冷なる事さながら氷のやう、彼は此天気をも感ぜぬと見える。泣き泣き車の右側から左側に、又も右に又も左に、歇めず走り続けてゐる。其古蒼たフロツクコートの裾は、風に煽られて、翼のやうに、舞ひ広がり、有丈の隠袋からは書物が皆突出してゐる。両手にも何かの大きい書物を一生懸命に抱へながら。往来の人は見て棺に十字架を画いてゐる。或者は立留つて此の哀なる老人を驚いて見送つてゐる。書物は仕切無しに、隠袋から泥濘に落ちる。人々は其度老人を呼び留めて報せる、彼は其れを拾つては、又棺の後を追うて走つて行く。通の角で一人の乞食の老婆がゐたが、彼と共に一緒になつて棺を追うて行つた。車は旋て角を曲り、私の眼からは見えずなつた。私は其から家に帰つたが、何とも譬へやうの無い程、悲しくなつて、母の胸に頭を当てゝ、母を抱き締め、接吻し、声を上げて嗚咽泣いた。而して母を死に付すまいと抱き留むるかのやうに、恐る恐る身を寄せて、犇と許り縋つてゐた……然れども死の神は、哀れな母の身の上にもう近く迫つて来てゐたのであつた……。