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大逆事件・明治の終焉

   大逆事件

 

  西園寺内閣の毒殺

 日比谷騒擾(そうじょう)事件(=日露戦争の講和条件に不満な大衆が暴動に出た騒ぎ。)ののち、講和条約の後始末が一段落すると、桂(太郎=長州閥の実力者、前総理)は政友会の実権をにぎる原敬を呼んで、政権授受にかんする協議をした。原はその日記にこう記している。

「桂首相会見を望む旨申越(もうしこす)により午後七時半より三田の同人私邸を(おとな)うて会見せり。桂は西園寺(公望)侯と公然会見して内閣授受に関する協議をなし其承諾を得て上奏するに至りたしと云う、桂は西園寺が各元老を訪うて其意思を(たし)かむべき事、政友会内閣なりと標榜(ひょうぼう)せざる事等の注意をなしたり、尚将来互に親密を保ち国家に貢献すべき事を談合したり。」

 こうして西園寺内閣が成立してから一年余りたって、鉄道国有化問題や外交問題、さらには予算案について、西園寺内閣に多少の不手際がみられると、桂はその徒党を動かして不信任案をださせたり、元老を説いて内閣を退陣に追いこもうと努力したりした。

 桂の後ろで糸をひいていた元老山縣も、西園寺内閣の打倒に積極的であった。というのは内務省は山縣派の牙城で、各県知事にいたるまで山縣派にあらざるものは人にあらずという勢いで、板垣(退助)が内務大臣になった一時期を除くと、大臣も次官もすべて山縣派で占められていた。それが原が内務大臣となってからガタガタ崩れてきたのである。はじめはたかをくくっていた山縣派官僚も、原の識見と手腕に押される一方であった。山縣にしてみれば早急に態勢を建て直す必要があった。そのころ山縣は井上(かおる)に、「このままでは外交財政甚だ不安心なり」といい、「罷めるつもりならば早く辞職する必要がある」と語っている。西園寺は各元老から辞職を迫られていた。

 だが(明治)四十一年(1908)五月の総選挙では、憲政本党六十五名にたいし、政友会は一九三名の当選者をだし、議会で過半数をえたのである。政友会は自信をえた。原はその月末の日記にこう書いている。

「余の考にては桂が山縣、松方、井上を利用して財政上の困難によりて内閣を譲り受けんとの野心を生じたるものなれども、少なくとも此冬の議会を過ぎざれば内閣を譲り渡すべき理由なし、殊に財政上は困難には相違なきも、之が為め進退を決すべき程の事なく経済上は漸次向上の形勢あれば是れ亦深く(うれ)うるに足らず」

 戦後の不況のために財政収入が思うにまかせず、せっかく無修正で議会を通った予算も、その実行が困難な状態にあったが、原はなお政権担当に自信をもっていたのである。

 ところが、その原も「其意を解すべからず」と書いているように、西園寺は突然六月末、病気を理由に内閣を投げ出した。内閣の改造もし、議会の絶対多数もえた政友会としては、寝耳に水である。世間もびっくりした。そこから辞職の理由について、世間でいろいろの臆測がおこなわれ、山縣の手による毒殺説などが流れたが、ことは政界のごく上層、雲の上のことであるので、真相はかならずしも明らかではなかった。

 ところが、第二次大戦後、これまでしばしば引用した『原敬日記』が発表されて、真相はついに明るみにでた。原は日記にこう記している。

「六月二十三日  先日徳大寺侍従長より社会党取締に関し尋越(たずねこ)したるに(つき)、病中故警保局長を差出さんと返事せしに、書面にて送附ありたしと云うに付、調書差出し置きたるも、尚お本日参内(さんだい)し親しく侍従長と内談せしに、同人の内話によれば、山縣が陛下に社会党取締の不完全なる事を上奏せしに因り、陛下に(おか)せられても御心配あり、何とか特別に厳重なる取締もありたきものなりとの思召もありたり、山縣が右様讒構(みぎようざんこう)に類する奏上をなしたりと云うに付、尚お詳細今日まで取締の現況を内話して奏上を乞い置きたり。

 山縣の陰険なる事今更驚くにも足らざれども、畢竟内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し此の奸手段に出たるならん。」

 この前日、後述する「赤旗事件」が起こり、社会主義者が大量検挙されるという事態が生じたので、原は内務大臣としてこれを奏上する必要を感じたのであるが、この事件が西園寺内閣の生命取りとなった。原は手段をえらばない山縣の奸計に、にえ湯をのまされる思いであった。

「七月二日  西園寺の言う所によれば、寺内(陸相)は山縣より其職を辞すべき旨勧誘せられたる由内密に物語れりと云う、(けだ)し山縣は之により内閣を破壊せんとしたるものにて、山縣の陰険は実に甚だしと云うべし(先頃は社会党に対する取締の緩慢なる事を内奏し、其他新刑法は不敬罪等に対し緩なるは現政府が忠君の念慮に乏しき為めなりと内奏)」

 

  『暗殺主義』第一巻第一号

 山縣や宮内省が社会主義者に重大な関心をもつようになったのは、これより半年ばかり前のことである。「日本皇帝睦仁君に与ふ」と題する不敬文書が、アメリカから宮内省に送られてきた。実はこの印刷物は四十年十一月三日、天長節の日に、サンフランシスコ総領事館の入口にはりつけられていた。驚愕した領事館が回収しようとして調べてみると、居留民のあいだにバラまかれたばかりでなく、日本にもかなり送られた形跡があった。それは『暗殺主義』第一巻第一号とあって、「我徒は暗殺主義の実行を主張す」というスロ−ガンを記し、つぎのような天皇への公開状をのせていた。

「日本皇帝睦仁君足下(そっか) 余等無政府党革命党暗殺主義者は、今足下に一言せんと欲す。

 足下知るや。足下の祖先なりと称する神武天皇は何者なるかを。日本の史学者は彼を神の子なりといふと(いえど)も、そは只だ足下に阿諛(あゆ)を呈するの言にして虚構也。自然法のゆるさゞるところ也。故に事実上彼また吾人と等しく猿類より進化せる者にして、特別なる権能を有せざるを、今更余等の喋々(ちょうちょう)をまたざる也。

 彼は何処(いずこ)に生れたるやに関しては、今日確実なる論拠なしと雖も、(おそら)く土人にあらずんば、支那或は馬来(マライ)半島辺より漂流せるの人ならん。

 今は足下は、足下の権力を他より害せられざらんが為めに、(しか)して其権力を絶大・無限ならしめんが為めに、其機関として政府を作り、法律を発し、軍隊を集め、警察を組織し、而して他の一方には、人民をして足下に従順ならしめんが為めに、奴隷道徳、即ち忠君愛国主義を土台とせる教育を以てす。而して其必然的結果として生じたるは貴族也、資本家也、官吏也。如斯(かくのごとく)にして日本人民は奴隷となりたる也、自由は絶タイ的に与へられざる也。足下は神聖にして侵すべからざる者となり、紳士閥は泰平楽をならべて、人民はいよいよ苦境におちいれり。

 自由を叫びたる新聞・雑誌記者は、入獄を命ぜられたるにあらずや、単に憲法の範囲内に於る自由を主張したる日本社会党すら、解散を命ぜられたるにあらずや。こゝに(おいて)吾人は断言す。足下は吾人の敵なるを。吾人(いたず)らに暴を好むものにあらず。然れども、暴を以而(もって)圧制する時には、暴を以反抗すべし。遊説や煽動の如き緩慢なる手段を止めて、(すべから)く暗殺を実行すべし。

 睦仁君足下。(あわれ)なる睦仁君足下。足下の(めい)旦夕(たんせき)にせまれり、爆裂弾は足下の周囲にありて、()さに破裂せんとしつゝあり。さらば足下よ。」

 この不敬事件は、おりからカリフォルニアにいた日露開戦七博士の一人である高橋作衛(さくえ)を通して山縣のところにも報ぜられた。正気か狂気か、それとも単なるいたずらか。ともかくショックは大きかった。

 この文書は、正面きって天皇制権力を批判したという点では画期的なものである。日本社会党や社会主義関係者への弾圧を非難している点で、執筆者がその関係者であることはただちに知られる。あわてて領事館や外務省が調べてみると、サンフランシスコの対岸バークレーで、赤くペンキでぬったレッド・ハウスに根拠をおくアナーキストの一団であることが明らかとなった。日本国内のことならただちに引っ捕えるところであるが、不敬罪なるもののないアメリカでは、どうしようもない。

 

  革命運動の潮流

 そもそもこのようなグループが生まれたのは、日露戦争直後、獄中で健康を害した幸徳秋水が,療養を兼ねてこの地に滞在したときの置土産である。

「天皇の毒手の届かない外国」で日本の政治・経済制度を自由に研究しようとした幸徳は、サンフランシスコの自由な空気のなかで思うままに思想を展開させていった。「警部も巡査も平服の刑事も居ない所で、(さる)二月入獄以来の沈黙を始めて破り、自由に正直に『戦後の日本』という問題について、所見を陳ずる一時間半、少しく胸が透いたように思いました」。それから数日後、かれが部屋を借りていたロシアの亡命者フリッチ夫人と「治者暗殺のことを論」じたり、翌三十九年(1906)一月には、ロシアの「血の日曜日」の一周年記念集会にでて、「露国同胞の革命は世界革命の先鋒」と叫んだりした。

 こうした幸徳の思想の推移は、『直言』の後継紙として日本の社会主義者がだしていた『光』の三十九年三月号にのった、かれの「一波万波」によってみることができる。

「革命は来れり――革命は来れり。革命は初まれり。革命は露国より欧洲に、欧洲より世界に、猛火の原を()くが如く蔓延しつつあり。今の世界は革命の世界なり。今の時代は革命の時代なり。我は時代の児なり。革命党たらざる能わず」

「日本は堅牢なる()――日本は神州なりと云う乎。宇内(うだい)に冠絶すると云う乎。能く世界の大勢、時代の潮流以外に、卓然・超然たり得べしという乎。日本の社会組織は、(しか)く堅牢なる乎」

 幸徳の意気軒昂たるところが手にとるようである。かれはその六月、帰国に当たって、かれの周囲に集まっていた青年たちを中心にして、社会革命党を組織した。この名称だけはロシア無政府主義の影響を伝えているが、その宣言・綱領などには、「現時の不公、不正なる社会を改革して、善美なる自由・幸福・平和の社会を建設するは是れ吾人が祖先に対し、同胞に対し、子孫に対する責任なり、義務なり」という以上に、明確な方針は述べられていない。ゼネストなどいってみてもナンセンスだし、アメリカにいる日本人には暗殺すべき治者もいないのであるから、宣言や綱領が抽象的なのはやむをえなかったであろう。

 と同時に幸徳の思想もきれいに整理されているわけではない。爆弾や匕首(あいくち)は「皆な十九世紀前半の遺物のみ」といいながら、治者暗殺の思想がチラチラしている。筆者が第二次大戦後、サンフランシスコで、幸徳の『萬朝報』時代以来の親しい後輩で、かれの渡米をだれよりも喜んで迎えた岡繁樹老にあったとき、幸徳と同じ船で帰国の船中、幸徳は岡青年に、「天皇に近づくため、貴族院の守衛になれ」と熱心にすすめた、とかれは語った。岡青年は幸徳は本気でやる気だと感じた。同じ話は荒畑寒村の『寒村自伝』などのなかにも記されている。幸徳はサンフランシスコ滞在中にも、半ば冗談に天皇暗殺のことなどを青年たちに話していたようである。

 こうした雰囲気は、もちろんその後一年余の日本における社会主義運動の息もつかせぬ弾圧にたいする憤激によって増幅されて、在米社会主義者たちが『暗殺主義』をバラまくこととなるわけである。かれらのばあいにも、言葉の激しいわりに具体的な方策は何もなかったから、社会的反響が意外に大きいことにかれら自身が驚いて、大急ぎで身を隠すという状態であった。

 

  直接行動か議会政策か

 幸徳の帰国第一声は、日本の社会主義者たちにとって大きなショックであった。それは日本社会党の方針であった議会主義を正面から否定した新しい革命運動の提唱だったからである。幸徳はこう叫んだ。

「欧米の同志は、所謂(いわゆる)議会政策以外に於て、社会的革命の手段・方策を求めざるべからず。而して彼はよく之を発見せり。何ぞや、爆弾()匕首(あいくち)乎、竹槍乎、蓆旗(むしろばた)乎。()な、是等は皆な十九世紀前半の遺物のみ。」

「将来革命の手段として欧米同志の執らんとする所は、(しか)く乱暴の物に(あら)ざる也。唯労働者全体が手を(きょう)して何事をも為さざること、数日(もし)くは数週、若くは数月なれば即ち足れり。換言すれば、所謂総同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)を行うに在るのみ。」

 桂内閣ののちに成立した西園寺内閣は、フランス仕込みの首相や内相のもとで、弾圧一辺倒で社会主義を抑えるのは良策でないと考えていたから、三十九年二月、日本社会党の結党届がでると、これを認めたのである。こうして日本で最初の社会主義政党が組織され、活動することとなったが、それはかならずしも社会主義の取締りを緩和することを意味するものではなかった。取締り責任者であった原内相自身が、「山縣等が忠義顔して取締を云々するも、現内閣が社会党など寛仮(かんか)せしことなし。但し其手段は彼等一派の為すが如く狂暴ならざるなり」(『日記』)と書いているとおりである。結党一ヵ月後の、最初の大衆活動である電車賃値上げ反対運動では、西川以下社会党幹部の大半は、兇徒嘯聚(しょうしゅ)罪でゴッソリ検挙されてしまった。

 ところで、幸徳の帰国第一声以後、弾圧のなかで運動の行詰りに焦燥を感じていた年若い社会主義者達は、たちまち直接行動論の(とりこ)となってしまった。四十年二月の社会党大会は、「直接行動」是か、「議会政策」是か、をめぐってはげしい論争がおこなわれた。議会政策を主張したのは田添鉄二(たぞえてつじ)であり、直接行動の提唱者はもちろん幸徳であった。採決の結果は、田添案二票、幸徳案二十二票にたいし、普通選挙運動をするかどうかは党員の随意とする評議員会の折衷案が二十八票であった。だがそれは、分裂をさけようとする考慮の結果であって、大会の空気は圧倒的に幸徳に傾いていた。

 それは、後に山川(ひとし)が自己批判しているように、現実から遊離したはねあがりである。

「なんら大衆とつながりがなく、大衆的な組織や大衆的な運動の観念すら持たなかった者にとっては、革命の手段として直接行動を採用することは、議会主義を弊履(へいり)のごとく捨て去るのとまったく同様に、まことに容易簡単なことであった。恐らくは多くの青年のなかには、革命を成就するためにではなく自分がより革命的であることに満足するために、威勢のよい直接行動論に左袒(さたん)したものが少なくないだろう――少なくとも私はそうであった。」(『山川均自伝』)

 日本社会党はこの決議が直接の原因となって、治安警察法違反で結社を禁止されたのである。

 これより先、一時二派に分かれていた社会主義者も、態勢建直しのため一つとなり、四十年一月から日刊の『平民新聞』を発刊した。ところがこれがまた発売禁止と裁判攻めであった。社会党大会の記事がひっかかって、編集者の石川三四郎は禁錮四ヵ月、つづいて封建的家族制度からの解放を説いた山口孤剣の「父母を蹴れ」で、石川はさらに禁錮六ヵ月が追加され、山口は同三ヵ月、しかも『平民新聞』は発行禁止となってしまった。

 

  赤旗事件

 社会党が禁止され、『平民新聞』が発禁となると、社会主義運動は幸徳ら直接行動派の硬派と、片山・田添ら議会政策派の軟派とに分裂し、硬派は弾圧にたいする反撥もあって、いよいよ過激化していった。

「父母を蹴れ」で仙台の監獄に入れられた山口孤剣は、それまでの分と合わせて一年二ヵ月の刑を終え、四十一年六月出所してきた。先に出獄した石川は、自分がでてきたとき、硬軟両派別々に歓迎会をしてくれたときの寂しさを考え、硬軟両派にはかって、合同で山口の出獄歓迎会を神田錦輝館で開いた。

『寒村自伝』によると、荒畑寒村はこの一両日前、大杉栄と相談し、このさい軟派にたいする示威運動をしようということにし、下宿の主婦に頼んで、赤地の布に「無政府共産」と「無政府」という文字を白テープで縫いつけてもらい、竹竿を買ってきて二本の旗をつくった。当日、

「いよいよ閉会間際になって突如、会場の一隅に二(りゅう)の赤旗がひるがえり一団の青年が革命歌をうたい出した。司会者の石川(三四郎)君が遠慮がちに中止を申入れたが聞かばこそ、私たちは思うがままに歌い赤旗をふりまわして、無政府主義万歳を絶叫してから場外に進出した。旗をかざして飛出すが早いか、待ち構えていた数人の巡査は猛然として私の上に殺到した。やっと身体の自由をとりもどした私が、ふたたび旗を高くかかげながら眺めると、数十歩の前方でも同志と巡査とが一団となってもみ合っている。日の長いさかりの真夏の白昼、濛々と立ちのぼる砂煙りの中に旗の影はたちまち現われたちまち消え、まるで市街戦でも始ったようだ。」(『寒村自伝』)

 熊本の同志に報じたレポートによると、「その低く隠れたるは敵に奪われたるの時にして、其の高く揚りたるは、敵の手より奪い還したるの時」であった。「やがて帽子を飛ばし、衣服は破れ、素足になった私たちは高手籠手(たかてこて)(いまし)められて拘引(こういん)されてしまった。」(同前)

 留置場でもかれらはなお反抗して騒いだということもあるが、取調べは残虐をきわめて、蹴る、殴る、ふんづけるで、さすがの荒畑なども気絶してしまうほどであった。留置場にほうりこまれたのは、騒ぎをとめに入った堺・山川をはじめ男子九名、それに赤旗を警官に渡すまいとした女子四名であった。その一人管野(かんの)スガは、帰りかけて荒畑がつかまったと聞いて、面会するため神田警察署に行ったところを、やにわにつき倒され、立ちあがったところを腕をねじられ、有無をいわせず留置場にほうりこまれたのである。警察の理不尽な暴虐にたいして管野の血は煮えたぎった。この日、彼女は権力にたいする復讐を心に誓ったのである。

 これがいわゆる「赤旗(せっき)事件」であるが、すでにこれ以前に、山縣が西園寺内閣の社会主義取締りが手ぬるいと天皇に密奏し、そうした雲行きは原にも伝わっていたから、警察も取締りを厳重にしていた矢先である。東京の町なかで騒がれた警察は、いきおい取調べにたいしても残虐をきわめることになった。その意味では、強行弾圧の機会をねらっていた警察のわなにかかったようなものである。しかもそれに付録までついた。だれが書いたかわからないが、留置場の壁に、

   一刀両断天王首

   落日光寒巴黎城(パリじょう)

と書いたものがあった。これはいうまでもなく、ギロチンでルイ十六世の首を落としたフランス革命の詩であるが、当然に大問題となった。原は六月二十九日の『日記』にこう書いている。

千家(せんけ)法相来訪し、去二十二日社会党の暴行に際し取押えたる十六名中、拘留所に於て『天王斬殺すべし』と板壁に箸にて記載したるものあるに因り、之が処分に関し田中宮相(きゅうしょう)とも内談せり、とて余の意見を求むるにより、余は厳重に処分する方可ならんと返事。」

 けっきょく年若い社会主義者の一人が、犯人として不敬罪で三年六ヵ月の宣告をうけた。

 そのうえ、それまで第一審でも第二審でも無罪の判決のあった電車賃値上げ反対の兇徒嘯聚事件が、大審院で判決破棄となり、六月、宮城(みやぎ)控訴院で全員有罪に一変した。

 

  四面楚歌

 赤旗事件が起こったとき、幸徳秋水は母と妻千代子を伴って、故郷の土佐中村に帰っていた。

「同志諸君、小生は今月(四十年十一月)限り東京を引払い、一家をあげて郷里土佐に移転することになりました。それは小生の四年越しの病気未だ癒えず、いつも寒さの時分に悪くなりますので、今年の冬は成るべくシクジらないようにしたいのと、荊妻(けいさい)がリウマチで手足が利かなくなったのと、東京の生活費が高くて病人の稼ぎではヤリ切れないのと、その他いろいろの事情によるのです」

 幸徳は郷里でせっせと自分たちの運動の指導理論である、クロポトキン『パンの略取』を翻訳していた。そこへ「サカイヤラレタスグカエレ」の電報が、東京から届いたのである。自分の健康もさることながら、組織の維持はかれに課せられた任務である。『パンの略取』の仕事が終わると、訳稿をたずさえて幸徳はただちに上京の旅にでた。その途上、和歌山県新宮(しんぐう)にたちより、同志である医師大石誠之助宅に半月ばかり滞在し、爆弾の製法を大石に聞いたりして、英気を養ったうえで、東京についたのは八月中旬であった。

 上京すると赤旗事件の公判である。判決はむやみにきびしいものであった。仲裁以外何もしなかった堺や山川が重禁錮二年、先頭をきってあばれた大杉が二年半、荒畑一年半である。「二三ヵ月避暑にでもいくさ」くらいに考えていた堺らにとっては、従来の経験では考えられない意外千万の判決であった。

 ところで、赤旗事件が直接の原因で西園寺が内閣を投げ出し、第二次桂(太郎)内閣となると、それから以後は、社会主義者一人々々に尾行をつけ、大衆との接触をたち切るという弾圧の強化と、手も足もでない無政府主義者のいっそうの急進化とが、いたちごっこで進行する。もちろんその途中で、歴史は社会主義の実現の方向に一歩々々進んでいる、革命は近いのだ、という夢――それは当時の社会主義者のだれもがもっていた理論であり、夢であった――が破れ、先に木下尚江が去っていったように、社会主義運動から去るものも少なからず現われた。西川光二郎もその一人であった。かれは電車事件の刑期が終わって出獄すると、『心懐語(しんかいご)』を著わして転向を声明した。それは「社会主義者の詫証文(わびじょうもん)」といわれた。

 反面、手足をもがれたなかで闘争を具体化しようとすればするほど、数年前幸徳が「爆弾乎、匕首(あいくち)乎、竹槍乎、蓆旗乎。否な、是等は皆な十九世紀前半の遺物のみ」と批判して、捨て去ってしまったはずの手段が、もう一度真剣に考えられるようになったとしても、あえて不思議ではないであろう。そういった幸徳自身の血肉のなかには、まだ志士仁人的な気風も残っていたし、冗談半分ながら、爆弾や匕首のことも、仲間うちではときに話題になってきたのである。

 (明治)四十一年(1908)十一月には、どこからともなく、『入獄記念無政府共産』と題する赤旗事件を記念するパンフレットが、社会主義者たちに届けられた。そこには「無政府共産ということが意得せられて、ダイナマイトを投ずることを辞せぬという人は一人も多くに伝道して貰いたい」というたぐいの過激な文字が書き連ねられていた。つづいて『帝国軍人座右之銘』という勇ましい題で、中身は反軍国主義の怪文書も現われた。その製作者はあとでわかったことであるが、箱根大平台(おおひらだい)の僧内山愚童であった。

 一方、復讐の執念にもえた管野(スガ)は、四十二年に入ると幸徳を助けて、同志の連絡をとるための機関紙の発行に情熱を傾けるが、ようやくだした『自由思想』はたちまち差し押えられてしまう。その第二号に彼女はこう書いた。

「この儘で進んだら、退いて餓死するか、進んで爆発するか、二者一を選ばなければならない運命に到達する事を信じます。物ずきな日本政府は斯くして多くの謀叛人を製造してくれるのでございます。」

『自由思想』がとりもった自由恋愛の結果とでもいったらよいか、四十二年はじめに上京した妻千代子を、足手まといということで幸徳は離縁してしまった。そして間もなく管野と同棲するのである。秋水にせよ、管野にせよ、男女関係では従前からかなりルーズであったから、それだけのことなら、同志のあいだでも困ったことだくらいですんだのであるが、このばあいはそうはいかなかった。というのは、赤旗事件のしばらく前まで管野は荒畑(寒村)と同棲しており、そのころも入獄中の荒畑の愛人と考えられていたからである。運動のために入獄中の同志から愛人を奪うとは、同志の風上におけない、というわけである。電車事件の刑期を終わって出獄した吉川守圀(もりくに)が、このスキャンダルを憤慨し、幸徳を訪れて詰問すると、幸徳はその心境をこう語った。

「実はこの間題では山口も赤羽も先日出獄するとすぐやって来て、君と符節を合するような詰問をしていった。赤羽は散々罵り散らし、席をけって帰りざま僕に向って、男ならば恥を知れと繰返して云っていた。僕は謹んで承った。あれ程親しくしていた為子(堺)や保子(大杉)も――イヤ誰れ彼れという差別なしに皆が皆絶交して来た。まったく在京の同志は全部をあげて僕に愛憎(あいそ)つかしをしている形だ。然し僕としても又別途の意味から彼等にはほとほと愛憎が尽きはてた。

 今吾々に対する迫害は言語に絶している。退いて餓死を待つか、進んで社会に革命を起すかの瀬戸際に立っているのだ。」(吉川『荊逆星霜史』)

 出獄した荒畑が、にえたぎる思いで、ひそかに手に入れたピストルをもって、幸徳・管野が泊まっていた湯河原にでかけたのは、四十三年五月のことであった。幸か不幸か、そのときかれらはちょうど上京していて不在であった。悄然として帰りかけると雨さえふりだし、疲労と空腹で一歩も歩けなかった。いっさいが空しく思われた。

 そのころ幸徳の周囲に残ったのは、管野のほか、新村(にいむら)忠雄と古河力作(ふるかわりきさく)くらいのものであった。

 

  天皇暗殺の計画

 五月末、宮下太吉・新村忠雄・同善兵衛の三名が突如検挙され、六月に入ると幸徳が湯河原で逮捕された。つづいて検挙の網は全国にひろげられ、無政府主義者・急進的社会主義者と目されたものは、だれかれの容赦なく拘引され、その数は数百名にのぼった。間もなく事件は、皇室に危害を加えようとした大逆罪(たいぎゃくざい)であることが知られたが、これは世間はもちろん、とくに社会主義者に激甚なショックを与えた。というのは大逆罪を規定した刑法第七十三条によれば、皇室にたいし「危害ヲ加ヘ、又ハ加ヘントシタルモノハ、死刑ニ処ス」となっていたからである。本気で暗殺のことなど考えたことのない社会主義者たちは、赤旗事件のころから、当局の有無をいわせない強引なやり方に憤懣と不安を抱いていたから、これといったこともしない同志が、つぎつぎ大逆罪で拘引される騒ぎに、いよいよ最後のときがきたかとさえ考えたのである。

 大逆罪は大審院だけの一審制である。起訴された二十六名の裁判は非公開で進められ、(明治)四十四年(1911)一月判決がくだった。幸徳・管野以下死刑二十四名である。判決文はその理由をこう説明している。

「被告管野すがは無政府主義に()するや漸く革命思想を抱き、明治四十一年世に所謂(いわゆる)錦輝館赤旗事件に坐して入獄し無罪の判決を受けたりと(いえど)も、忿意(ふんい)の情禁じ難く心(ひそか)に報復を期し、一夜其心事を幸徳伝次郎に告げ伝次郎は協力事をあげん事を約し且夫婦の契を結ぶに至る。

 赤旗事件発生し、数人の同主義者遂に有罪の判決を受くるや、之を見聞したる同主義者往々警察官吏の処置と裁判とに(たい)らならず、此を以て政府が同主義者を迫害する意に出たるものと()して大に之を憤慨し、其報復を図るべきことを口にする者あり、爾来同主義者反抗の念愈(いよいよ)(さかん)にして秘密出版の手段による過激の文書相尋(あいつい)で世に()で、当局の警戒注視(ますます)厳密を加うるの()むを得ざるに至る。

 被告幸徳伝次郎は四十一年七月上京の途につき被告大石誠之助を迂路(うろ)和歌山県新宮町に訪い、誠之助及び被告成石(なるいし)平四郎、高木顕明(けんめい)、峰尾節堂、崎久保誓一(さきくぼせいいち)と会見して、政府の迫害甚しきに由り反抗の必要なることを説き、越えて八月被告内山愚童を箱根林泉寺に訪い赤旗事件報復の必要なることを談じ、帰京の後同主義者に対し常に暴力の反抗の必要なる旨を唱導せり。

 同年十一月誠之助の伝次郎を訪うや伝次郎は森近運平(もりちかうんぺい)、誠之助に対し、赤旗事件連累者の出獄を待ち決死の士数十人を募りて富豪の財を奪い、貧民を(にぎわ)し、諸官衙(かんが)焼燬(しょうき)し、当路の顕官を殺し、且つ宮城に迫りて大逆罪を犯す意あることを説き、(あらかじ)め決死の士を募らんことを託し、運平、誠之助は之に同意したり。

 明治四十二年九月上旬伝次郎、すが、新村忠雄の三人伝次郎宅に於て相議(あいぎ)して、明治四十三年秋季を期し爆裂弾を(もちい)て大逆罪を遂行せんことを定め、忠雄は其議を(もた)らして被告宮下太吉を長野県東筑摩郡東川手村に訪れて之を告ぐ。被告太吉は塩酸加里(かり)六分鶏冠石四分の割に小豆大の(こいし)約二十顆を混じて一鑵に装填(そうてん)し、同年十一月明科(あかしな)附近の山中に到り之を投擲(とうてき)したるに爆発の効力甚だ大なり。

 四十三年五月一日すが、忠雄、古河力作の三人すがの寓所に相会して大逆罪の部署を議し、一旦抽籤(ちゅうせん)してすが、力作先発者となり、忠雄、太吉の両人は後発者となりしが、忠雄は之を遺憾となし翌日力作に対して之を変更せんことを求め遂に機を見て再び部署を議定すべきことを相約(あいやく)せり。」

 ところがここで、宮下が明科山中で実験した爆裂弾の音響から足がつき、一網打尽ということになったわけである。

 判決の翌日、死刑の判決をうけたもののうち十二名は待つ間もあらばこそ一週間後に処刑されてしまった。

 この判決については、取調中からフレーム・アップ(=でっちあげ)の噂が高かった。事件の中心人物であった管野すがは、獄中で書いた「死出の道草」に、

「検事の所謂幸徳直轄の下の陰謀予備、即ち幸徳・宮下・新村・古河・私と此五人の陰謀の外は、総て煙の様な過去の座談を、強いて此事件に結びつけて了ったのである。」

といっているが、事件の弁護に当たった今村力三郎も後年、

「幸徳事件にありて、幸徳伝次郎、管野すが、宮下太吉、新村忠雄の四名は事実上に(あらそい)なきも、其他の二十名に至りては果して大逆罪の犯意ありしや否やは大なる疑問にして、大多数の被告は不敬罪に過ぎざるものと認むるを当れりとせん。

 予は今日に至るも該判決に心服するものに非ず。殊に裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く、一の証人すら之を許さざりしは、予の最も遺憾とする所なり」

と記し、幸徳はその首謀者でなかったばかりでなく、途中からはその謀議からも遠ざかった旨を述べている。それは最近の研究でもだいたい確認されているところである。

 この事件の経緯を耳にした原敬は、その『日記』にこう書いた。

「余は在職中、陛下に対し取締の緩慢を誣奏(ぶそう)せし元老あり、官僚派は頻りに余輩を攻撃せしが、今彼等果して如何の感をなすか、彼等の政略は鎮圧々迫にあり、然るに圧迫は却て此主義者を隠密の間に蔓延せしむるものにて取締上全く反対の結果を生ずるものなり。今回の大不敬の如き実は官僚派が之を産出せりと云うも弁解の辞なかるべしと思う。」(四十三年七月二十三日)

「此裁判に関し弁護の任に当りたる弁護士中鵜沢総明などの云う所によれば、四名は止むを得ざる者なるも他は決して大不敬の考にては(これ)なかりしが如しといえり。」(四十四年二月十一日)

 

 「謀叛論」

 大逆事件の判決に大きなショックをうけた一人は、徳富蘆花であった。判決を知った翌日は、夫婦で「終日かの二十四人の事件につきかたりくら」した。かれらの動機に深く共感していた蘆花は、なんとか死刑を取止めにしてもらいたいと考え、さらに桂首相の側近であった兄蘇峰に、「死する十二人は百二十人となりて復活し来るべく、彼等が残年の計数に幾層倍して皇室の命脈は縮まり申すべく候」と書いて、桂(太郎)に減刑の忠告をするよう依頼した。悶々としているところに、一高生二人が演説を頼みに来た。弁論部の委員で、その一人はのちの社会党委員長河上丈太郎であった。用件を伝えると、蘆花はすぐ「よろしい」とひきうけ、題について尋ねると、灰の上に火箸で「謀叛論」と書いた。「命乞いのためにも」と考えたのである。その晩、眠れないままにいろいろ思いあぐねたすえ、うす暗いうちに起きて、「天皇陛下に願い奉る」上奏文一篇を(そう)し、これを『朝日新聞』の池辺三山に送り、掲載を依頼した。

「彼等も亦陛下の赤子(せきし)、元来火を放ち人を殺すただの賊徒には無之(これなく)、平素世の為人の為にと心がけ居候者にて、此度の不心得も一は有司共が忠義(だて)のあまり彼等を(いじ)め過ぎ候より彼等もヤケに相成候意味も有之(これあり)、親殺しの企てたる鬼子として打殺し候は如何にも残念に奉存(ぞんじたてまつり)侯」

 だがこれを書いたとき、幸徳らの死刑はすでに執行されていた。午後きた新聞でそのことを知った蘆花は、大声で妻愛子に叫んだ。

「オヽイもう殺しちまったよ。みんな死んだよ」

 蘆花は新聞を声をだして読みながら、無念の涙にくれる妻に「泣くな泣くな」といったが、実は自分も声がつまり、流れ出る涙をとめることができなかった。それから蘆花は一高での演説草稿を作るのに心血をそそいだ。一稿、二稿と書いては消し、消しては書き改めた。「(とむらい)の演説」である。

 蘆花きたるというので演説会はたいへんな人気で、聴衆は演壇の上まで埋まっていた。和服に黒紋付、黒い眼鏡をかけた蘆花は、四年前、「勝の哀しみ」を語ったその講壇で、ふたたび静かに口を開いた。

「明治初年の日本の意気は実に凄まじいもので、五ヶ条の誓文(せいもん)が天から降る、藩主が封土を投げ出す、武士が両刀を投げ出す、自由平等革新の空気は磅礴(ほうばく)として、其空気に蒸されていた。

 誰が其潮流を導いたか。我先覚の志士である。所謂(いわゆる)志士苦心多しで、新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打開を事とした勤王攘夷の処士(しょし)にせよ、時の権力から云えばみな謀叛人であった。彼等が千荊万棘(せんけいばんきょく)(わた)った困難辛苦――中々一朝一夕に説き尽せるものではない。

 旧組織が崩れ出したら案外(すみやか)にばたばたいってしまうものだ。だが地下に火が廻る時日は長い。人知れず働く犠牲の数が要る。然し犠牲の種類も一つではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。僕は()う思いながら常に井伊直弼(なおすけ)の墓のある豪徳寺と松陰(しょういん)神社と谷一つ隔てて並んでいる世田谷(せたがや)を過ぎていた。思っていたが、実に思いがけなく今明治四十四年(1911)の劈頭(へきとう)に於て、我々は早くも(ここ)に十二名の謀叛人を殺すこととなった。たった一週間前のことである。

 諸君、僕は幸徳君等と多少立場を異にする者である。僕は臆病者で血を流すのは嫌である。幸徳君等に悉く大逆をやる意志があったか無かったか、僕は知らぬ。彼等の一人大石誠之助君が云ったと云う如く、今度のことは嘘から出た(まこと)で、はずみにのせられ、足もとを見る(いとま)もなく陥穿(おとしあな)に落ちたのか如何(どう)か、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死者狂(しにものぐるい)になって、天皇陛下と無理心中を企てたのか、否か。僕は知らぬ」

 会場の空気は極度に緊張し、拍手もなければ、咳払いするものもない。

「大逆罪の(くわだて)に万不同意であると同時に、彼等十二名も殺したくなかった。生かして置きたかった。彼等は乱臣賊子(ぞくし)の名を受けてもただの賊ではない、志士である、自由平等の新天新地を夢み身を(ささ)げて人類の為に尽さんとする志士である。其行為は仮令(たとい)狂に近いとも、其志は憐むべきではないか。

 国家百年の大計から云えば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種子を播いて了うた。忠義(だて)して謀反人十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣である。

 諸君、幸徳君等は時の政府の謀坂人と見做されて殺された。が謀叛を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」

 蘆花が静かに降壇すると、われに返った聴衆の万雷の拍手に、講堂は割れんばかりであった。

 蘆花のこの講演は、だれかがいわねばならないのに、だれもいいえなかったことを率直に語ったものである。この支配権力に向けられた無遠慮な批判演説にたいし、文部省はその責任を追及した。大逆犯人を志士扱いする演説会を開いたのは怪しからぬ、というのである。一高校長新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、いっさいの責任を自分にひきうけた。

 

 「時代閉塞の現状」

 だが、大逆事件でさらに大きなショックをうけたのは、上京して『朝日新聞』の校正係をしていた石川啄木である。かれは事件をきっかけにして、かえって「社会主義に関する書籍雑誌を(あつ)」め、読み始めた。(明治)四十三年(1910)を回顕して、かれは日記にこう書いた。

「思想上に於て重大なる年なりき。予はこの年に於て予の性格、趣味、傾向を統一すべき一鎖鑰(いちさやく)を発見したり。社会主義問題これなり。予は特にこの問題について思考し、読書し、談話すること多かりき。ただ為政者の抑圧非理を極め、予をしてこれを発表する能わざらしめたり。」

 実はこの年八月、かれは「時代閉塞の現状」と題する日の目を見なかった一大論文を書いた。

 その直接のきっかけは、かつて藤村操の死に刺戟され、個人主義のチャンピオンとなった魚住影雄が、『朝日新聞』に書いた「自己主張としての自然主義」である。魚住はそこで当時の流行であった自然主義をとりあげ、「一見矛盾に見える自然主義と自己主張との関係に就て」論じ、こう主張した。

「現実的、科学的、従って運命論的な思想が、意志の力をもって自己を拡充せんとする自意識の盛んな思想と結合して居る。此の奇なる結合の名が自然主義である。彼等は結合せんためには共同の怨敵(おんてき)()って居る。即ちオーソリティである。」

「殊に吾等日本人に取っては家族と云うオーソリティが二千年来の歴史の権威と結合して個人の独立と発展とを妨害して居る」(『折蘆遺稿』)

 啄木は、運命論的、自己否定的な「純粋自然主義」は、すでに理論上「最後を告げている」と考え、その自然主義は日本ではロマン主義的な自己主張と結びつくことによって、積極的な意味をもったという魚住の主張を認めながら、この奇妙な結合をもたらしたのが国家権力であった、という論点を批判するのである。

「我々日本の青年は未だ(かつ)て彼の強権に対して何等の確執をも(かも)した事が無いのである。従って国家が我々に取って怨敵となるべき機会も未だ嘗て無かったのである。」

 自然主義はかつて田山花袋がいったように、「何事も真相でなければならん、何事も自然でなければならぬ」として、いっさいの虚飾を去ってあるがままの姿を明らかにしようとし、そのためには「世間に対して戦うと共に自己に対しても勇敢に戦」ってはきた。にもかかわらず、これまで強権を敵と認めることはできなかった自分たちの弱さを、啄木は、大逆事件に触発されて反省するのである。

「今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今(なお)理想を失い、方向を失い、出口を失った状態に於て、長い間欝積(うっせき)して来た(それ)自身の力を独りで持て余しているのである。すべて今日の我々青年が有っている内訌的(ないこうてき)、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語っている。――そうしてこれは実に『時代閉塞』の結果なのである。」

「斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から、脱出する為に、遂に其『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。我々は一斉に起って先ず此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」

 啄木は(高山)樗牛(ちょぎゅう)以来の自然主義を考察しながら、権力を批判し、時代を組織的に考察する立脚点として、社会主義を設定するのである。

 その啄木は大逆事件の判決のあった日、日記にこう書いた。

「今日程予の頭の昂奮していた日はなかった。二時半過ぎた頃でもあったろうか。『二人だけ生きる、二人だけ生きる』『あとは皆死刑だ』『ああ二十四人!』そういう声が耳に入った。予はそのまま何も考えなかった。ただすぐ家へ帰って寝たいと思った。『日本はダメだ』」

 翌日も新聞を読んで涙がで、「畜生!駄目だ」という言葉がわれ知らずに口にでた。その数ヵ月後、かれの作った詩、

 

 われは知る、テロリストの

 かなしき心を――

 言葉とおこなひとを分ちがたき

 ただひとつの心を、

 奪はれたる言葉のかはりに

 おこなひをもて語らんとする心を、

 われとわがからだを敵に()げつくる心を

 しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に()つかなしみなり。

 

 はてしなき議論の後の

 ()めたるココアのひと匙を(すす)りて、

 そのうすにがき舌触りに、

 われは知る、テロリストの

 かなしき、かなしき心を。

 

 その啄木は(翌)明治四十五年(1912)四月、貧窮のうちに骨と皮ばかりにやせ衰えて死んだ。

 

   明治の終焉

 

  済生の途

大逆事件でショックを受けたのは、啄木や蘆花ばかりではなかった。その波紋は国民の心のなかにさまざまのあやを生み出していった。だが、もっとも大きなショックを受けたのは、明治天皇と天皇をとりまく元老らであったといえよう。天皇を神聖化し神格化してきた努力、それにたいしては一言の批判も許されなかった天皇制観を、啄木流にいえば「奪われたる言葉のかわりに、おこないをもって」否定しようというものが現れたのである。

 傷つけられた天皇観は、もう一度補修されなければならない。その準備はこれ以前から少しずつ進められていた。それは日露戦争後の家族的国家観の形成であり、天皇をその中心にすえればよかったわけである。天皇は日本国という大家族の父であり、国民を赤子(せきし)としていつくしむ親である、とすることである。天皇が絶対化され、国民からあまりに遠い存在となってしまったマイナスの側面をカバーし、天皇と国民とを結びつける論理と倫理が必要となったわけである。

 大逆事件の死刑執行直後の紀元節に、「紀元節の大詔」がだされた。大詔は「経済ノ状況(ようやく)(あらた)マリ人心動(やや)モスレバ其ノ帰向ヲ誤ラントス」という危機の認識のうえにたって、「無告ノ窮民ニシテ医薬給セズ、天寿ヲ終フルコト能ハザルハ朕ガ最モ軫念(しんねん)シテ()カザル所ナリ、(すなわ)チ施薬救療以テ済生ノ道ヲ弘メントス。(ここ)内帑(ないど)ノ金ヲ出シ其ノ資ニ()テシム」という具体的な対策を打ち出したのである。思想的な危機が深刻であったのにたいして、対策として打ち出されたのが窮民に医薬を支給するという慈恵的施策だけであり、しかもそれが「済生ノ途」であるというのは、危機の真相を理解していないようにも見える。だが、そこには重大な意味が含まれていた。

 第一に、天皇は従来のように「神聖ニシテ侵スべカラ」ざる存在としてだけではなく、慈愛に満ちた全国民の「父」であるという側面が強調されていることである。当面の責任者であった内務大臣平田東助は、「聖恩ノ慈雨ノ如クナルニ感泣」すると語り、三井(みつい)(財閥)の実力者早川千吉郎は、「至仁至慈なる今上(きんじょう)陛下が臣民を赤子(せきし)となし、常に其の休戚(きゅうせき)を軫念あらせらるる大御心(おおみこころ)の程は申すも(かしこ)きこと」といっているのは、このような消息を示すものである。

 だが、もう一つ注目されることは、その内容がどれほど不十分であるとしても、詔勅が具体的な施策を示し、それが制度的に実現されたことである。桂(太郎)総理は、内帑金(ないどきん)百五十万円をもとにして、恩賜財団済生会を創設し、全国の富豪・官吏などから寄附を集めた。財界も大いに協力し、三井・岩崎・大倉の各百万円を筆頭に、二千数百万の募金に成功した。

 日露戦争後、大企業が経営家族主義を確立していくために、共済制度を作り上げることに努力したのと同じように、産業革命をへて日本の社会が日本なりに近代化し、行政機構も確立されていくにともなって、天皇の慈恵も単に心情的なものだけでは不十分になり、社会的な機構として制度化される必要が生じてきたのである。

 慈恵が制度化されるという点で、もう一つ注目されることが生じた。済生会と時を同じくして、四十四年三月に、長年の懸案であった工場法が議会を通過したのである。日清戦争後、労働問題がやかましくなって以来、国は幼少年労働者や女子労働者を保護する必要があるということから、工場法の制定が問題となってきたが、これにたいしては当の工場経営者たちが断乎反対であった。労働者の保護などしていては、後進国日本の興行は先進国と太刀打ちできないと主張し、寄宿舎での生活は牢獄同様だ、悲惨だという非難にたいしては、女工たちの育った農家の生活よりはましだ、と弁護もした。こうした資本家たちの反対で、工場法はいつも握りつぶされてきたのである。

 その工場法が、大逆事件のあと、済生会の準備が進められているなかで議会を通過した。この通過に尽力したのは、日露戦争前には工場法反対の急先鋒であった渋沢栄一である。渋沢は工場法制定について、「もう今日はなお早いとは申さぬでもよかろうと思う」といって、法案を審議する政府調査会の委員長を引き受けたのである。こうして慈恵的な労働者保護も、工場主一人一人の恩恵としてではなく、機構的に制定されることとなる。

 

  操り人形の体制

 東京帝国大学の教授で宮内省御用掛であったドイツ人医師ベルツは、宮中はじめ上層部に信用があって、その消息に通じていたが、その『日記』につぎのようなことを記している。

「伊藤(博文)の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく『皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、至るところで礼式(エチケット)の鎖でしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。」

 ベルツもいっているように、たださえ天皇に「ありとあらゆる尊敬を払いながら、何らの自主性も与えようとしていない」日本の政治体制は、このころ、ますますその機構を整備したのである。

 官僚機構が整備すればするほど、天皇は準備された舞台で、脚本どおりに動かされることになる、という避けがたい傾向もないわけではない。だが、元老たちや宮中には、もう一つの深刻な心配があった。それは次代の天皇、東宮の身心のひ弱さであった。侍医ベルツはこう書いている。

「東宮は、二週間このかた、急に目立って体重が減ってこられた。だから、体内のどこかで潜伏的に病勢が進んでいるかもしれない懸念があるわけだ。もともと東宮は、幼時のご病気以来おちついて一つのことに専念するのを好まれない性質なのだが、近頃はこれが旅行好きの形をとって現われてきた。」

 したがって、元老・重臣たちにとっては、操りのからくりのほうをしっかり固めておくことが、何よりも重要な問題であった。天皇の個人的な英邁さにいつまでも依存できないとすれば、大日本帝国の安泰は、国家の機構を確固・安全なものとしていくほかないわけである。

 

  大帝崩御

 明治天皇は「日本人としては大柄で、恰幅(かっぷく)がよ」(ベルツ)く、壮健であった。だが、日露戦争のころから急に年をとられ、健康のおとろえが目立ってきた。国力を賭して戦った日露戦争の二年間の心労が、生命(いのち)とりの原因になった。

 講和条約反対から起きた日比谷騒擾事件では、宮城のなかにまで市中の騒音が地鳴りのように伝わってきた。侍従職出仕(しゅっし)石山基陽(もとあき)の記すところによると、天皇は、「御心配のあまり、御居間からお縁側までお出ましになって、騒ぎの様子をうかがって」いたが、

「そのうち『ズドン』と一発銃声がひびくと、『アッ、憲兵が撃った』と御仰せになって、何とも申しあげようのない御悲痛の御気色(みけしき)が、見る見る御()なざしのあたりに現われ、龍顔曇らせ給う御様子に拝せられました。」(『明治大帝』)

 そのようなとき、『暗殺主義』から大逆事件にいたる無政府主義者の無気味な活動も、天皇の心労をますものとなった。

 四十五年(1912)七月二十日、「天皇陛下去十四日ヨリ御病気ノ処、昨今御重態」の旨公表され、つづいて、「十九日午後ヨリ御精神少シク恍惚ノ御状態ニテ御脳症アラセラレ、同日夕刻ヨリ突然御発熱、御体温四十度五分ニ昇騰、御脈百四御呼吸三十八回」、尿毒症である旨が発表された。

 その日はちょうど両国の川開きの日であったが、警視庁はこれを中止させた。この公表のショックで株式市場は恐慌状態に陥った。その後の状況を内務大臣原敬は、『日記』にこう書きつづっている。

「二十二日 此際国民謹慎を表し居るは至当の事ながら、之が為めに細民の困難をかもす様の事ありては却て大御心(おおみこころ)に背くの(おそれ)なきにあらざるに因り()よりその旨訓示する事となし、東京府知事、警視総監を本省に招きて其趣旨を伝達し、地方長官にも其趣意書を以て通牒せり。国民恐懼(きょうく)謹慎の状は到底筆紙の尽す所にあらず。

 二十五日 拝診の報告は官城前に張出し(其都度)又二重橋内の電灯は点火する事となせりと宮相いえり、宮城前二重橋前等は御平癒を祷願する人民群をなしたるに因る。

 二十六日 閣議後参内(さんだい)、今朝九時拝診の報告を聞くに、大体に於て御衰弱加わり甚だ憂慮に堪えず。

 二十八日 午後御容態御不良に渡らせらるる急報に接し直に参内して天機を奉伺(ほうし)せり、閣僚一同と共に内閣にて徹夜せり。

 二十九日 午前五時半退出の時宮城前広庭は群集徹夜なお去らずして追々増加の情況なりしは、国民の如何に沈痛せしやを知るに足る。

 午前十一時余等閣員一同召され、香川皇后宮大夫案内にて御寝所に於て拝謁仰付(おおせつ)けられたり。御床数尺の前にて拝謁せしが、此御景況を拝しては実に感に堪えざるものありき。

 午後十時四十分天皇陛下崩御あらせらる。実に維新後始めて遭遇したる事とて種々に協議を要する事多かりしなり。

 崩御は三十日零時四十三分として発表することに宮中に於て御決定ありたり、践祚(せんそ)の御式挙行の時間なき為めならんかと拝察せり。」

 明治という治世に育った国民にとっては、起こるべからざることが起こったのである。

「暗雲深く大内山を(とざ)して、慟哭の声野に満てり。あわれ悲しき明治四十五年七月三十日よ、聖天子遂に神さり給いぬ、此月此日恨極りなし。

 三十日午前零時半、月色にわかに(くら)く雨ハラハラと降る、されど千に余る宮城前の祈願者は、只一心に祈願を凝らして身じろぎするものなし、潮の如き群衆もまた帰途に就かんとするものなく、二重橋より坂下門にかけて一帯人垣をつくれり、二時前二十分、突如崩御の号外群衆の手に配布さるるや一種名状すべからぎる悲痛の声は群衆の中に起りぬ、歔欷(きょき)するもの嗚咽(おえつ)するもの一時死せるが如くなりし群衆の絶望の声は、今や一に集りて物凄き響きとなって闇に流れぬ」(「萬朝報」)

 

  大日本帝国の象徴

 徳富蘇峰は明治天皇の死に言及して、

「国家の一大秩序は、実にわが明治天皇の御一身につながりしなり。国民が陛下の崩御とともに、この一大秩序を見失いたるは、まことに憐むべきの至りならずや」(『大正政局史論』)

と書いたが、明治天皇の一生は、近代日本の形成、大日本帝国の成立と表裏一体の関係にあった。

 明治天皇は政治のからくりに操られる単なる人形ではなかった。明治天皇という特定の人柄が、権力の中心としての天皇という枠をこえて何か引きつける力をもち、影響力をもっていた。このような権威のあり方を社会学者はカリスマと呼んでいる。明治天皇はカリスマ的な天皇であった。

 カリスマ的な天皇は、その言動がそのまま国の秩序を形成するという側面をもっている。蘇峰が「国家の一大秩序は、明治天皇御一身につなが」っていた、というのはその意味である。したがってまた、蘇峰がつづけていうように、日本は明治天皇の「崩御とともに、この一大秩序を見失」うことともなったのである。

 元老・重臣達は、いつの日にかこのような事態が生じることを覚悟していたし、そのための用意もしてきた。それは国の秩序を天皇個人の存在からきりはなし、機構の中に制度化することであった。政治のからくりを整備し、舞台でのせりふしぐさを決め、監督する機関を充実することである。

 その準備が日露戦争後、着々進められてきたことは前に述べたとおりである。済生会もそうであったし、工場法もそうであったが、日露戦争後、在郷軍人会を組織したり、青年団を再編成したりしたのもそのためであった。地方行政に力が入れられたり、枢密院の力が強くなってきたりしたのも、その現われである。

 明治天皇の重態が伝えられたとき、桂(太郎)は外遊してモスクワにいた。旅程を変更して大急ぎで帰国した桂を待っていたのは、天皇輔弼(ほひつ)の任に当たる内大臣兼侍従長のポストであった。これより先、桂は日英同盟の功労で伯爵となり、日露戦争中首相であったことによって侯爵となり、さらに韓国併合で公爵となっていた。維新の元勲井上馨は侯爵で、政治的にははるかに先輩の元老松方正義も侯爵であった。山縣も含めて元老たちは、得意満面の桂に好意を寄せなかった。桂にもっとも近かった蘇峰は、この間の状況をこう記している。

(もと)より新天皇に(かしづ)き奉る内大臣としては、公は適任であったかも知れない。しかもある観察者の所見によれば、これは公を宮中に封じ込めて、再び政界に出さぬ秘策であるなどという者もあり、今更ら辞退することも出来ず、実は余り心では進まなかったが、それを引受けた。

 引受けて見れば、思うたよりも公にとっては窮屈でもあり、且つ手持不沙汰でもあり、それにて一生を終ることは、すこぶる不本意であったに相違あるまい」(『蘇峰自伝」)

 これにたいして反藩閥の原敬は、かなり違った判断をしていた。

「桂太郎侍従長兼内大臣に任ぜらる、山縣一派の陰謀にて枢府並に宮中を一切彼等の手に収めんとの(くわだて)に出たること明かなり」(『日記』)

 桂の一身が宮中に封じ込められたかどうかは別として、藩閥としてみれば、原がいうように宮中・枢府を掌中ににぎり、新天皇下の日本を、一つの機構として動かしていく体制を固めようとしたことは、否定し得ない事実であろう。

 明治の日本はその幕を閉じ、第二幕の用意がととのえられたのである。

 

  大喪の夜

「(大正元年九月十三日)千代田の森に暮色迫り、風あり粛殺として吹く。

 宮城前より馬場先門(ばばさきもん)に至る御道筋には堵列兵森々(しんしん)として整列す、其後なる芝草青き四個の広場には都下各学校代表者約五万余人あり。

 時は(いよい)よ移りて夜更けんとし、宮城前の人愈よ静かに天地声を呑む、仰げば大内山、夜の空に黒み清浄の霊気世を蔽うかとぞ思わるる、一発の砲声あり、正に午後八時霊柩御発引(れいきゅうごはついん)の号砲なり。

 御先登は近衛軍楽隊なり、『(かなしみ)(きわみ)』を奏す、調曲無限の悲を惹く」(『萬朝報』)

 こうして明治天皇の大葬の開始を報じる号砲が東京の空に鳴り響いたとき、日露戦争にさいし、第三軍を指揮して旅順攻略に当たり、その後、学習院長をしていた乃木希典(まれすけ)とその妻静子は、明治天皇のあとを追って、東京赤坂の自邸で殉死した。

 その遺書にはこう書かれていた。

「自分此度(このたび)御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候段恐レ入リ候儀其罪ハ軽カラズ存ジ候、(しか)ル処明治十年ノ(えき)(西南戦争)ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死処得度ク心掛ケ候モ其機ヲ得ズ、皇恩ノ厚キニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙リ、追々老衰最早御役ニ立チ候時モ余日無ク侯折柄、此度ノ御大変何共恐レ入リ候次第、(ここ)に覚悟相定メ候事ニ候」

 日露戟争にさいし、数万の兵士を無謀な旅順攻略のために殺したことも、かれの心を苦しめつづけてきたことであった。旅順総攻撃が甚大な損害をだして、二度三度失敗に終わったとき、山縣参謀総長は乃木司令官の更迭(こうてつ)を決意して、明治天皇にその意見を奏上した。天皇は、「そうしたら乃木は生きていまい」といわれて、このことは沙汰やみとなった。明治天皇は乃木の生命の恩人であったのである。

 その死が突然であり、しかも予想もされなかったことであるから、沈んだ国民の心に大きな衝撃を与えた。犬死(いぬじに)というものもあれば、封建の遺風というものもあり、その忠誠を称賛してやまないものもある、といった状況である。

 同じ陸軍に籍を置いて、乃木のこともよく知っていた森鴎外も、乃木殉死のことを聞いたときは半信半疑であった。かれは日記にこう書いている。

「大正元年九月十三日 轜車(じしゃ)扈随(こずい)して宮城より青山に至る。翌日午前二時青山を出でて帰る。途上乃木希典夫妻の死を説くものあり。余半信半疑す。

 九月十八日 午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す。」

 鴎外は多忙な三、四日間に一気呵成に歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』を書き上げたのである。それは遺言の形をとり、つぎのような書出しになっている。

(それがし)儀今月今日切腹して相果(あいはて)候事如何にも唐突の至にて、弥五右衛門()老耄したるか、乱心したるかと申候者も(これ)有る可く候へ(ども)、決して左様の事に之無く候」

 それは明白に乃木の死を弁護したものである。主人公弥五右衛門は、三十年前、主君細川三斎公の命で、長崎に南蛮渡来の香木を買いに行き、香木などに多額の無駄金を使う必要はないと主張する相役(あいやく)横田を切ってしまう。「(それがし)一身に取りては、長崎に於て相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿(しょうこうじどの)(三斎)一命を御救助下され、此再造(さいぞう)の大恩ある主君御卒去(あそば)され候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候」と、その殉死の理由を説明している。鴎外には乃木の殉死した気持がわかるような気がしたのである。

 

  明治のフィナーレ

 日本を大日本帝国たらしめるために全生涯をかけた、明治の外交官僚のホープ小村壽太郎は、日露戦争から講和条約にかけてその全エネルギーを消耗し、明治天皇の死に先だつこと八ヵ月、四十四年十一月、肺患が悪化して世を去った。かれは壮年の日、藩閥をシャドウ(影)にすぎないと評したが、外交官として同輩であった原敬は、その葬儀の日の日記に、「官僚系(藩閥)の重用する所となりて遂に侯爵にものぼりたるは、彼に取りては幸運の事と云うべし」と記している。かれはけっきょく典型的な天皇制官僚であった。『小村外交史』は、「乃木将軍殉死後、頭山満(とうやまみつる)が客に『先帝には小村を先供に、乃木を後供にせられて御満足でしょう』と語った」という言葉で、筆をおいている。

 明治天皇が亡くなってから一年、大正二年八月、渡良瀬川沿岸農民のためにその一生を捧げた田中正造は、今日も村から村へ農民たちを訊ねていた。そして農家の縁先に倒れたまま、動けなくなった。正造危篤の報に、栃木県下はいうまでもなく、群馬、茨城や東京からも見舞にくる者がひきもきらなかった。木下尚江もとるものもとりあえずやってきた。九月に入ると容態は悪化した。四日朝、木下が枕許にいって、「どうですか」と聞くと、正造は静かに眼を開き、眉をしかめていった。

「これからの日本の乱れ!」

 やがて静かに、

「鉱毒事件で、多年有志の人達を奔走させたが、ただ教育ということをしなかった。教育をしなかったのではない。実は教育ということを知らなかった」

といった。この明治人は一人の志士仁人として農民大衆のために闘ってき、それゆえに明治天皇に直訴もしたのである。だがそれでは駄目だということを、死の床で覚ったのである。農民を組織し、これを立ち上がらせることは、次代の人にのこした仕事である。

 その昼、正造は木下に支えられて身体を起こし、八回、九回大きく呼吸したかと思うと、そのまま息を引き取った。庭には残暑の日ざかりに虫の音が聞こえるばかりである。遺品は菅笠と頭陀袋(ずだぶくろ)一つ。翌日遺骸の前で頭陀袋を開いてみると、中にあったのは、新約聖書一冊、日記帖三冊、ちり紙少々だけであった。

 

 明治は去っていった。そして新しい時代が始まろうとしている。財閥を中心とする独占資本は日本の経済を指導する体制を固め、政治の世界でも官僚機構が確立し、組織がものをいう時代に変わろうとしている。社会関係の動揺は温情的な家族主義で補修され、家族も経営も国も、これによって新しい事態に対応しようとしている。

 眼を中国に転ずると、孫文や宮崎滔天(とうてん)らが長年苦労してきた中国革命は、ようやく成功のきっかけをつかみ、(明治)四十四年十月、揚子江中流武昌(ぶしょう)で起こした武力蜂起は成功し、翌年二月、清朝の宣統帝は上諭してその主権を放棄した。清朝は倒れ、孫文は推されて臨時大総統となった。新しい時代が近づいてきているのである。

 ところで、歴史の時期を区切るのに、明治時代、大正時代と天皇の治世をもってすることは、学問的ではない。天皇の死がただちに歴史を変えることとはならないからである。だが、だれの眼から見ても、日露戦争から第一次大戦初期にかけての時期は、日本歴史の一つの変りめである。その転換のときに明治天皇が亡くなられたわけである。しかもこのカリスマ天皇の死は、この歴史の転換を表徴している。この巻が明治天皇の死をもって幕を閉じるのはそれゆえである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/03/24

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隅谷 三喜男

スミヤ ミキオ
すみや みきお 歴史家 1916~2003・2・22 東京に生まれる。東京大学名誉教授・日本学士院会員。労働問題の理論的、実証的研究を通じて、新たな労働経済理論を形成し学界に新風を送った。日本労働協会会長、社会保障制度審議会等の会長を務め、世界平和アピール7人委員会委員でもあった。

掲載作は、昭和49年8月10日初版の中央公論社版「日本の歴史」第22巻『大日本帝国の試煉』最終2章を抄出し「明治」と近代日本の嶮しい道のりの一端を優れた歴史記述により示した。先立つ色川大吉『自由民権 請願の波』また続く今井清一『関東大震災』等とともに日本の近代推移の実況と問題を「主権在民」への願いと共に読み取って欲しい。

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