大逆事件・明治の終焉
大逆事件
西園寺内閣の毒殺
日比谷
「桂首相会見を望む
こうして西園寺内閣が成立してから一年余りたって、鉄道国有化問題や外交問題、さらには予算案について、西園寺内閣に多少の不手際がみられると、桂はその徒党を動かして不信任案をださせたり、元老を説いて内閣を退陣に追いこもうと努力したりした。
桂の後ろで糸をひいていた元老山縣も、西園寺内閣の打倒に積極的であった。というのは内務省は山縣派の牙城で、各県知事にいたるまで山縣派にあらざるものは人にあらずという勢いで、板垣(退助)が内務大臣になった一時期を除くと、大臣も次官もすべて山縣派で占められていた。それが原が内務大臣となってからガタガタ崩れてきたのである。はじめはたかをくくっていた山縣派官僚も、原の識見と手腕に押される一方であった。山縣にしてみれば早急に態勢を建て直す必要があった。そのころ山縣は井上
だが(明治)四十一年(1908)五月の総選挙では、憲政本党六十五名にたいし、政友会は一九三名の当選者をだし、議会で過半数をえたのである。政友会は自信をえた。原はその月末の日記にこう書いている。
「余の考にては桂が山縣、松方、井上を利用して財政上の困難によりて内閣を譲り受けんとの野心を生じたるものなれども、少なくとも此冬の議会を過ぎざれば内閣を譲り渡すべき理由なし、殊に財政上は困難には相違なきも、之が為め進退を決すべき程の事なく経済上は漸次向上の形勢あれば是れ亦深く
戦後の不況のために財政収入が思うにまかせず、せっかく無修正で議会を通った予算も、その実行が困難な状態にあったが、原はなお政権担当に自信をもっていたのである。
ところが、その原も「其意を解すべからず」と書いているように、西園寺は突然六月末、病気を理由に内閣を投げ出した。内閣の改造もし、議会の絶対多数もえた政友会としては、寝耳に水である。世間もびっくりした。そこから辞職の理由について、世間でいろいろの臆測がおこなわれ、山縣の手による毒殺説などが流れたが、ことは政界のごく上層、雲の上のことであるので、真相はかならずしも明らかではなかった。
ところが、第二次大戦後、これまでしばしば引用した『原敬日記』が発表されて、真相はついに明るみにでた。原は日記にこう記している。
「六月二十三日 先日徳大寺侍従長より社会党取締に関し
山縣の陰険なる事今更驚くにも足らざれども、畢竟内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し此の奸手段に出たるならん。」
この前日、後述する「赤旗事件」が起こり、社会主義者が大量検挙されるという事態が生じたので、原は内務大臣としてこれを奏上する必要を感じたのであるが、この事件が西園寺内閣の生命取りとなった。原は手段をえらばない山縣の奸計に、にえ湯をのまされる思いであった。
「七月二日 西園寺の言う所によれば、寺内(陸相)は山縣より其職を辞すべき旨勧誘せられたる由内密に物語れりと云う、
『暗殺主義』第一巻第一号
山縣や宮内省が社会主義者に重大な関心をもつようになったのは、これより半年ばかり前のことである。「日本皇帝睦仁君に与ふ」と題する不敬文書が、アメリカから宮内省に送られてきた。実はこの印刷物は四十年十一月三日、天長節の日に、サンフランシスコ総領事館の入口にはりつけられていた。驚愕した領事館が回収しようとして調べてみると、居留民のあいだにバラまかれたばかりでなく、日本にもかなり送られた形跡があった。それは『暗殺主義』第一巻第一号とあって、「我徒は暗殺主義の実行を主張す」というスロ−ガンを記し、つぎのような天皇への公開状をのせていた。
「日本皇帝睦仁君
足下知るや。足下の祖先なりと称する神武天皇は何者なるかを。日本の史学者は彼を神の子なりといふと
彼は
今は足下は、足下の権力を他より害せられざらんが為めに、
自由を叫びたる新聞・雑誌記者は、入獄を命ぜられたるにあらずや、単に憲法の範囲内に於る自由を主張したる日本社会党すら、解散を命ぜられたるにあらずや。こゝに
睦仁君足下。
この不敬事件は、おりからカリフォルニアにいた日露開戦七博士の一人である高橋
この文書は、正面きって天皇制権力を批判したという点では画期的なものである。日本社会党や社会主義関係者への弾圧を非難している点で、執筆者がその関係者であることはただちに知られる。あわてて領事館や外務省が調べてみると、サンフランシスコの対岸バークレーで、赤くペンキでぬったレッド・ハウスに根拠をおくアナーキストの一団であることが明らかとなった。日本国内のことならただちに引っ捕えるところであるが、不敬罪なるもののないアメリカでは、どうしようもない。
革命運動の潮流
そもそもこのようなグループが生まれたのは、日露戦争直後、獄中で健康を害した幸徳秋水が,療養を兼ねてこの地に滞在したときの置土産である。
「天皇の毒手の届かない外国」で日本の政治・経済制度を自由に研究しようとした幸徳は、サンフランシスコの自由な空気のなかで思うままに思想を展開させていった。「警部も巡査も平服の刑事も居ない所で、
こうした幸徳の思想の推移は、『直言』の後継紙として日本の社会主義者がだしていた『光』の三十九年三月号にのった、かれの「一波万波」によってみることができる。
「革命は来れり――革命は来れり。革命は初まれり。革命は露国より欧洲に、欧洲より世界に、猛火の原を
「日本は堅牢なる
幸徳の意気軒昂たるところが手にとるようである。かれはその六月、帰国に当たって、かれの周囲に集まっていた青年たちを中心にして、社会革命党を組織した。この名称だけはロシア無政府主義の影響を伝えているが、その宣言・綱領などには、「現時の不公、不正なる社会を改革して、善美なる自由・幸福・平和の社会を建設するは是れ吾人が祖先に対し、同胞に対し、子孫に対する責任なり、義務なり」という以上に、明確な方針は述べられていない。ゼネストなどいってみてもナンセンスだし、アメリカにいる日本人には暗殺すべき治者もいないのであるから、宣言や綱領が抽象的なのはやむをえなかったであろう。
と同時に幸徳の思想もきれいに整理されているわけではない。爆弾や
こうした雰囲気は、もちろんその後一年余の日本における社会主義運動の息もつかせぬ弾圧にたいする憤激によって増幅されて、在米社会主義者たちが『暗殺主義』をバラまくこととなるわけである。かれらのばあいにも、言葉の激しいわりに具体的な方策は何もなかったから、社会的反響が意外に大きいことにかれら自身が驚いて、大急ぎで身を隠すという状態であった。
直接行動か議会政策か
幸徳の帰国第一声は、日本の社会主義者たちにとって大きなショックであった。それは日本社会党の方針であった議会主義を正面から否定した新しい革命運動の提唱だったからである。幸徳はこう叫んだ。
「欧米の同志は、
「将来革命の手段として欧米同志の執らんとする所は、
桂内閣ののちに成立した西園寺内閣は、フランス仕込みの首相や内相のもとで、弾圧一辺倒で社会主義を抑えるのは良策でないと考えていたから、三十九年二月、日本社会党の結党届がでると、これを認めたのである。こうして日本で最初の社会主義政党が組織され、活動することとなったが、それはかならずしも社会主義の取締りを緩和することを意味するものではなかった。取締り責任者であった原内相自身が、「山縣等が忠義顔して取締を云々するも、現内閣が社会党など
ところで、幸徳の帰国第一声以後、弾圧のなかで運動の行詰りに焦燥を感じていた年若い社会主義者達は、たちまち直接行動論の
それは、後に山川
「なんら大衆とつながりがなく、大衆的な組織や大衆的な運動の観念すら持たなかった者にとっては、革命の手段として直接行動を採用することは、議会主義を
日本社会党はこの決議が直接の原因となって、治安警察法違反で結社を禁止されたのである。
これより先、一時二派に分かれていた社会主義者も、態勢建直しのため一つとなり、四十年一月から日刊の『平民新聞』を発刊した。ところがこれがまた発売禁止と裁判攻めであった。社会党大会の記事がひっかかって、編集者の石川三四郎は禁錮四ヵ月、つづいて封建的家族制度からの解放を説いた山口孤剣の「父母を蹴れ」で、石川はさらに禁錮六ヵ月が追加され、山口は同三ヵ月、しかも『平民新聞』は発行禁止となってしまった。
赤旗事件
社会党が禁止され、『平民新聞』が発禁となると、社会主義運動は幸徳ら直接行動派の硬派と、片山・田添ら議会政策派の軟派とに分裂し、硬派は弾圧にたいする反撥もあって、いよいよ過激化していった。
「父母を蹴れ」で仙台の監獄に入れられた山口孤剣は、それまでの分と合わせて一年二ヵ月の刑を終え、四十一年六月出所してきた。先に出獄した石川は、自分がでてきたとき、硬軟両派別々に歓迎会をしてくれたときの寂しさを考え、硬軟両派にはかって、合同で山口の出獄歓迎会を神田錦輝館で開いた。
『寒村自伝』によると、荒畑寒村はこの一両日前、大杉栄と相談し、このさい軟派にたいする示威運動をしようということにし、下宿の主婦に頼んで、赤地の布に「無政府共産」と「無政府」という文字を白テープで縫いつけてもらい、竹竿を買ってきて二本の旗をつくった。当日、
「いよいよ閉会間際になって突如、会場の一隅に二
熊本の同志に報じたレポートによると、「その低く隠れたるは敵に奪われたるの時にして、其の高く揚りたるは、敵の手より奪い還したるの時」であった。「やがて帽子を飛ばし、衣服は破れ、素足になった私たちは
留置場でもかれらはなお反抗して騒いだということもあるが、取調べは残虐をきわめて、蹴る、殴る、ふんづけるで、さすがの荒畑なども気絶してしまうほどであった。留置場にほうりこまれたのは、騒ぎをとめに入った堺・山川をはじめ男子九名、それに赤旗を警官に渡すまいとした女子四名であった。その一人
これがいわゆる「
一刀両断天王首
落日光寒
と書いたものがあった。これはいうまでもなく、ギロチンでルイ十六世の首を落としたフランス革命の詩であるが、当然に大問題となった。原は六月二十九日の『日記』にこう書いている。
「
けっきょく年若い社会主義者の一人が、犯人として不敬罪で三年六ヵ月の宣告をうけた。
そのうえ、それまで第一審でも第二審でも無罪の判決のあった電車賃値上げ反対の兇徒嘯聚事件が、大審院で判決破棄となり、六月、
四面楚歌
赤旗事件が起こったとき、幸徳秋水は母と妻千代子を伴って、故郷の土佐中村に帰っていた。
「同志諸君、小生は今月(四十年十一月)限り東京を引払い、一家をあげて郷里土佐に移転することになりました。それは小生の四年越しの病気未だ癒えず、いつも寒さの時分に悪くなりますので、今年の冬は成るべくシクジらないようにしたいのと、
幸徳は郷里でせっせと自分たちの運動の指導理論である、クロポトキン『パンの略取』を翻訳していた。そこへ「サカイヤラレタスグカエレ」の電報が、東京から届いたのである。自分の健康もさることながら、組織の維持はかれに課せられた任務である。『パンの略取』の仕事が終わると、訳稿をたずさえて幸徳はただちに上京の旅にでた。その途上、和歌山県
上京すると赤旗事件の公判である。判決はむやみにきびしいものであった。仲裁以外何もしなかった堺や山川が重禁錮二年、先頭をきってあばれた大杉が二年半、荒畑一年半である。「二三ヵ月避暑にでもいくさ」くらいに考えていた堺らにとっては、従来の経験では考えられない意外千万の判決であった。
ところで、赤旗事件が直接の原因で西園寺が内閣を投げ出し、第二次桂(太郎)内閣となると、それから以後は、社会主義者一人々々に尾行をつけ、大衆との接触をたち切るという弾圧の強化と、手も足もでない無政府主義者のいっそうの急進化とが、いたちごっこで進行する。もちろんその途中で、歴史は社会主義の実現の方向に一歩々々進んでいる、革命は近いのだ、という夢――それは当時の社会主義者のだれもがもっていた理論であり、夢であった――が破れ、先に木下尚江が去っていったように、社会主義運動から去るものも少なからず現われた。西川光二郎もその一人であった。かれは電車事件の刑期が終わって出獄すると、『
反面、手足をもがれたなかで闘争を具体化しようとすればするほど、数年前幸徳が「爆弾乎、
(明治)四十一年(1908)十一月には、どこからともなく、『入獄記念無政府共産』と題する赤旗事件を記念するパンフレットが、社会主義者たちに届けられた。そこには「無政府共産ということが意得せられて、ダイナマイトを投ずることを辞せぬという人は一人も多くに伝道して貰いたい」というたぐいの過激な文字が書き連ねられていた。つづいて『帝国軍人座右之銘』という勇ましい題で、中身は反軍国主義の怪文書も現われた。その製作者はあとでわかったことであるが、箱根
一方、復讐の執念にもえた管野(スガ)は、四十二年に入ると幸徳を助けて、同志の連絡をとるための機関紙の発行に情熱を傾けるが、ようやくだした『自由思想』はたちまち差し押えられてしまう。その第二号に彼女はこう書いた。
「この儘で進んだら、退いて餓死するか、進んで爆発するか、二者一を選ばなければならない運命に到達する事を信じます。物ずきな日本政府は斯くして多くの謀叛人を製造してくれるのでございます。」
『自由思想』がとりもった自由恋愛の結果とでもいったらよいか、四十二年はじめに上京した妻千代子を、足手まといということで幸徳は離縁してしまった。そして間もなく管野と同棲するのである。秋水にせよ、管野にせよ、男女関係では従前からかなりルーズであったから、それだけのことなら、同志のあいだでも困ったことだくらいですんだのであるが、このばあいはそうはいかなかった。というのは、赤旗事件のしばらく前まで管野は荒畑(寒村)と同棲しており、そのころも入獄中の荒畑の愛人と考えられていたからである。運動のために入獄中の同志から愛人を奪うとは、同志の風上におけない、というわけである。電車事件の刑期を終わって出獄した吉川
「実はこの間題では山口も赤羽も先日出獄するとすぐやって来て、君と符節を合するような詰問をしていった。赤羽は散々罵り散らし、席をけって帰りざま僕に向って、男ならば恥を知れと繰返して云っていた。僕は謹んで承った。あれ程親しくしていた為子(堺)や保子(大杉)も――イヤ誰れ彼れという差別なしに皆が皆絶交して来た。まったく在京の同志は全部をあげて僕に
今吾々に対する迫害は言語に絶している。退いて餓死を待つか、進んで社会に革命を起すかの瀬戸際に立っているのだ。」(吉川『荊逆星霜史』)
出獄した荒畑が、にえたぎる思いで、ひそかに手に入れたピストルをもって、幸徳・管野が泊まっていた湯河原にでかけたのは、四十三年五月のことであった。幸か不幸か、そのときかれらはちょうど上京していて不在であった。悄然として帰りかけると雨さえふりだし、疲労と空腹で一歩も歩けなかった。いっさいが空しく思われた。
そのころ幸徳の周囲に残ったのは、管野のほか、
天皇暗殺の計画
五月末、宮下太吉・新村忠雄・同善兵衛の三名が突如検挙され、六月に入ると幸徳が湯河原で逮捕された。つづいて検挙の網は全国にひろげられ、無政府主義者・急進的社会主義者と目されたものは、だれかれの容赦なく拘引され、その数は数百名にのぼった。間もなく事件は、皇室に危害を加えようとした
大逆罪は大審院だけの一審制である。起訴された二十六名の裁判は非公開で進められ、(明治)四十四年(1911)一月判決がくだった。幸徳・管野以下死刑二十四名である。判決文はその理由をこう説明している。
「被告管野すがは無政府主義に
赤旗事件発生し、数人の同主義者遂に有罪の判決を受くるや、之を見聞したる同主義者往々警察官吏の処置と裁判とに
被告幸徳伝次郎は四十一年七月上京の途につき被告大石誠之助を
同年十一月誠之助の伝次郎を訪うや伝次郎は
明治四十二年九月上旬伝次郎、すが、新村忠雄の三人伝次郎宅に於て
四十三年五月一日すが、忠雄、古河力作の三人すがの寓所に相会して大逆罪の部署を議し、一旦
ところがここで、宮下が明科山中で実験した爆裂弾の音響から足がつき、一網打尽ということになったわけである。
判決の翌日、死刑の判決をうけたもののうち十二名は待つ間もあらばこそ一週間後に処刑されてしまった。
この判決については、取調中からフレーム・アップ(=でっちあげ)の噂が高かった。事件の中心人物であった管野すがは、獄中で書いた「死出の道草」に、
「検事の所謂幸徳直轄の下の陰謀予備、即ち幸徳・宮下・新村・古河・私と此五人の陰謀の外は、総て煙の様な過去の座談を、強いて此事件に結びつけて了ったのである。」
といっているが、事件の弁護に当たった今村力三郎も後年、
「幸徳事件にありて、幸徳伝次郎、管野すが、宮下太吉、新村忠雄の四名は事実上に
予は今日に至るも該判決に心服するものに非ず。殊に裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く、一の証人すら之を許さざりしは、予の最も遺憾とする所なり」
と記し、幸徳はその首謀者でなかったばかりでなく、途中からはその謀議からも遠ざかった旨を述べている。それは最近の研究でもだいたい確認されているところである。
この事件の経緯を耳にした原敬は、その『日記』にこう書いた。
「余は在職中、陛下に対し取締の緩慢を
「此裁判に関し弁護の任に当りたる弁護士中鵜沢総明などの云う所によれば、四名は止むを得ざる者なるも他は決して大不敬の考にては
「謀叛論」
大逆事件の判決に大きなショックをうけた一人は、徳富蘆花であった。判決を知った翌日は、夫婦で「終日かの二十四人の事件につきかたりくら」した。かれらの動機に深く共感していた蘆花は、なんとか死刑を取止めにしてもらいたいと考え、さらに桂首相の側近であった兄蘇峰に、「死する十二人は百二十人となりて復活し来るべく、彼等が残年の計数に幾層倍して皇室の命脈は縮まり申すべく候」と書いて、桂(太郎)に減刑の忠告をするよう依頼した。悶々としているところに、一高生二人が演説を頼みに来た。弁論部の委員で、その一人はのちの社会党委員長河上丈太郎であった。用件を伝えると、蘆花はすぐ「よろしい」とひきうけ、題について尋ねると、灰の上に火箸で「謀叛論」と書いた。「命乞いのためにも」と考えたのである。その晩、眠れないままにいろいろ思いあぐねたすえ、うす暗いうちに起きて、「天皇陛下に願い奉る」上奏文一篇を
「彼等も亦陛下の
だがこれを書いたとき、幸徳らの死刑はすでに執行されていた。午後きた新聞でそのことを知った蘆花は、大声で妻愛子に叫んだ。
「オヽイもう殺しちまったよ。みんな死んだよ」
蘆花は新聞を声をだして読みながら、無念の涙にくれる妻に「泣くな泣くな」といったが、実は自分も声がつまり、流れ出る涙をとめることができなかった。それから蘆花は一高での演説草稿を作るのに心血をそそいだ。一稿、二稿と書いては消し、消しては書き改めた。「
蘆花きたるというので演説会はたいへんな人気で、聴衆は演壇の上まで埋まっていた。和服に黒紋付、黒い眼鏡をかけた蘆花は、四年前、「勝の哀しみ」を語ったその講壇で、ふたたび静かに口を開いた。
「明治初年の日本の意気は実に凄まじいもので、五ヶ条の
誰が其潮流を導いたか。我先覚の志士である。
旧組織が崩れ出したら案外
諸君、僕は幸徳君等と多少立場を異にする者である。僕は臆病者で血を流すのは嫌である。幸徳君等に悉く大逆をやる意志があったか無かったか、僕は知らぬ。彼等の一人大石誠之助君が云ったと云う如く、今度のことは嘘から出た
会場の空気は極度に緊張し、拍手もなければ、咳払いするものもない。
「大逆罪の
国家百年の大計から云えば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種子を播いて了うた。忠義
諸君、幸徳君等は時の政府の謀坂人と見做されて殺された。が謀叛を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」
蘆花が静かに降壇すると、われに返った聴衆の万雷の拍手に、講堂は割れんばかりであった。
蘆花のこの講演は、だれかがいわねばならないのに、だれもいいえなかったことを率直に語ったものである。この支配権力に向けられた無遠慮な批判演説にたいし、文部省はその責任を追及した。大逆犯人を志士扱いする演説会を開いたのは怪しからぬ、というのである。一高校長
「時代閉塞の現状」
だが、大逆事件でさらに大きなショックをうけたのは、上京して『朝日新聞』の校正係をしていた石川啄木である。かれは事件をきっかけにして、かえって「社会主義に関する書籍雑誌を
「思想上に於て重大なる年なりき。予はこの年に於て予の性格、趣味、傾向を統一すべき
実はこの年八月、かれは「時代閉塞の現状」と題する日の目を見なかった一大論文を書いた。
その直接のきっかけは、かつて藤村操の死に刺戟され、個人主義のチャンピオンとなった魚住影雄が、『朝日新聞』に書いた「自己主張としての自然主義」である。魚住はそこで当時の流行であった自然主義をとりあげ、「一見矛盾に見える自然主義と自己主張との関係に就て」論じ、こう主張した。
「現実的、科学的、従って運命論的な思想が、意志の力をもって自己を拡充せんとする自意識の盛んな思想と結合して居る。此の奇なる結合の名が自然主義である。彼等は結合せんためには共同の
「殊に吾等日本人に取っては家族と云うオーソリティが二千年来の歴史の権威と結合して個人の独立と発展とを妨害して居る」(『折蘆遺稿』)
啄木は、運命論的、自己否定的な「純粋自然主義」は、すでに理論上「最後を告げている」と考え、その自然主義は日本ではロマン主義的な自己主張と結びつくことによって、積極的な意味をもったという魚住の主張を認めながら、この奇妙な結合をもたらしたのが国家権力であった、という論点を批判するのである。
「我々日本の青年は未だ
自然主義はかつて田山花袋がいったように、「何事も真相でなければならん、何事も自然でなければならぬ」として、いっさいの虚飾を去ってあるがままの姿を明らかにしようとし、そのためには「世間に対して戦うと共に自己に対しても勇敢に戦」ってはきた。にもかかわらず、これまで強権を敵と認めることはできなかった自分たちの弱さを、啄木は、大逆事件に触発されて反省するのである。
「今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今
「斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から、脱出する為に、遂に其『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。我々は一斉に起って先ず此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」
啄木は(高山)
その啄木は大逆事件の判決のあった日、日記にこう書いた。
「今日程予の頭の昂奮していた日はなかった。二時半過ぎた頃でもあったろうか。『二人だけ生きる、二人だけ生きる』『あとは皆死刑だ』『ああ二十四人!』そういう声が耳に入った。予はそのまま何も考えなかった。ただすぐ家へ帰って寝たいと思った。『日本はダメだ』」
翌日も新聞を読んで涙がで、「畜生!駄目だ」という言葉がわれ知らずに口にでた。その数ヵ月後、かれの作った詩、
われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に
はてしなき議論の後の
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
その啄木は(翌)明治四十五年(1912)四月、貧窮のうちに骨と皮ばかりにやせ衰えて死んだ。
明治の終焉
済生の途
大逆事件でショックを受けたのは、啄木や蘆花ばかりではなかった。その波紋は国民の心のなかにさまざまのあやを生み出していった。だが、もっとも大きなショックを受けたのは、明治天皇と天皇をとりまく元老らであったといえよう。天皇を神聖化し神格化してきた努力、それにたいしては一言の批判も許されなかった天皇制観を、啄木流にいえば「奪われたる言葉のかわりに、おこないをもって」否定しようというものが現れたのである。
傷つけられた天皇観は、もう一度補修されなければならない。その準備はこれ以前から少しずつ進められていた。それは日露戦争後の家族的国家観の形成であり、天皇をその中心にすえればよかったわけである。天皇は日本国という大家族の父であり、国民を
大逆事件の死刑執行直後の紀元節に、「紀元節の大詔」がだされた。大詔は「経済ノ状況
第一に、天皇は従来のように「神聖ニシテ侵スべカラ」ざる存在としてだけではなく、慈愛に満ちた全国民の「父」であるという側面が強調されていることである。当面の責任者であった内務大臣平田東助は、「聖恩ノ慈雨ノ如クナルニ感泣」すると語り、
だが、もう一つ注目されることは、その内容がどれほど不十分であるとしても、詔勅が具体的な施策を示し、それが制度的に実現されたことである。桂(太郎)総理は、
日露戦争後、大企業が経営家族主義を確立していくために、共済制度を作り上げることに努力したのと同じように、産業革命をへて日本の社会が日本なりに近代化し、行政機構も確立されていくにともなって、天皇の慈恵も単に心情的なものだけでは不十分になり、社会的な機構として制度化される必要が生じてきたのである。
慈恵が制度化されるという点で、もう一つ注目されることが生じた。済生会と時を同じくして、四十四年三月に、長年の懸案であった工場法が議会を通過したのである。日清戦争後、労働問題がやかましくなって以来、国は幼少年労働者や女子労働者を保護する必要があるということから、工場法の制定が問題となってきたが、これにたいしては当の工場経営者たちが断乎反対であった。労働者の保護などしていては、後進国日本の興行は先進国と太刀打ちできないと主張し、寄宿舎での生活は牢獄同様だ、悲惨だという非難にたいしては、女工たちの育った農家の生活よりはましだ、と弁護もした。こうした資本家たちの反対で、工場法はいつも握りつぶされてきたのである。
その工場法が、大逆事件のあと、済生会の準備が進められているなかで議会を通過した。この通過に尽力したのは、日露戦争前には工場法反対の急先鋒であった渋沢栄一である。渋沢は工場法制定について、「もう今日はなお早いとは申さぬでもよかろうと思う」といって、法案を審議する政府調査会の委員長を引き受けたのである。こうして慈恵的な労働者保護も、工場主一人一人の恩恵としてではなく、機構的に制定されることとなる。
操り人形の体制
東京帝国大学の教授で宮内省御用掛であったドイツ人医師ベルツは、宮中はじめ上層部に信用があって、その消息に通じていたが、その『日記』につぎのようなことを記している。
「伊藤(博文)の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく『皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、至るところで
ベルツもいっているように、たださえ天皇に「ありとあらゆる尊敬を払いながら、何らの自主性も与えようとしていない」日本の政治体制は、このころ、ますますその機構を整備したのである。
官僚機構が整備すればするほど、天皇は準備された舞台で、脚本どおりに動かされることになる、という避けがたい傾向もないわけではない。だが、元老たちや宮中には、もう一つの深刻な心配があった。それは次代の天皇、東宮の身心のひ弱さであった。侍医ベルツはこう書いている。
「東宮は、二週間このかた、急に目立って体重が減ってこられた。だから、体内のどこかで潜伏的に病勢が進んでいるかもしれない懸念があるわけだ。もともと東宮は、幼時のご病気以来おちついて一つのことに専念するのを好まれない性質なのだが、近頃はこれが旅行好きの形をとって現われてきた。」
したがって、元老・重臣たちにとっては、操りのからくりのほうをしっかり固めておくことが、何よりも重要な問題であった。天皇の個人的な英邁さにいつまでも依存できないとすれば、大日本帝国の安泰は、国家の機構を確固・安全なものとしていくほかないわけである。
大帝崩御
明治天皇は「日本人としては大柄で、
講和条約反対から起きた日比谷騒擾事件では、宮城のなかにまで市中の騒音が地鳴りのように伝わってきた。侍従職
「そのうち『ズドン』と一発銃声がひびくと、『アッ、憲兵が撃った』と御仰せになって、何とも申しあげようのない御悲痛の
そのようなとき、『暗殺主義』から大逆事件にいたる無政府主義者の無気味な活動も、天皇の心労をますものとなった。
四十五年(1912)七月二十日、「天皇陛下去十四日ヨリ御病気ノ処、昨今御重態」の旨公表され、つづいて、「十九日午後ヨリ御精神少シク恍惚ノ御状態ニテ御脳症アラセラレ、同日夕刻ヨリ突然御発熱、御体温四十度五分ニ昇騰、御脈百四御呼吸三十八回」、尿毒症である旨が発表された。
その日はちょうど両国の川開きの日であったが、警視庁はこれを中止させた。この公表のショックで株式市場は恐慌状態に陥った。その後の状況を内務大臣原敬は、『日記』にこう書きつづっている。
「二十二日 此際国民謹慎を表し居るは至当の事ながら、之が為めに細民の困難をかもす様の事ありては却て
二十五日 拝診の報告は官城前に張出し(其都度)又二重橋内の電灯は点火する事となせりと宮相いえり、宮城前二重橋前等は御平癒を祷願する人民群をなしたるに因る。
二十六日 閣議後
二十八日 午後御容態御不良に渡らせらるる急報に接し直に参内して天機を
二十九日 午前五時半退出の時宮城前広庭は群集徹夜なお去らずして追々増加の情況なりしは、国民の如何に沈痛せしやを知るに足る。
午前十一時余等閣員一同召され、香川皇后宮大夫案内にて御寝所に於て拝謁
午後十時四十分天皇陛下崩御あらせらる。実に維新後始めて遭遇したる事とて種々に協議を要する事多かりしなり。
崩御は三十日零時四十三分として発表することに宮中に於て御決定ありたり、
明治という治世に育った国民にとっては、起こるべからざることが起こったのである。
「暗雲深く大内山を
三十日午前零時半、月色にわかに
大日本帝国の象徴
徳富蘇峰は明治天皇の死に言及して、
「国家の一大秩序は、実にわが明治天皇の御一身につながりしなり。国民が陛下の崩御とともに、この一大秩序を見失いたるは、まことに憐むべきの至りならずや」(『大正政局史論』)
と書いたが、明治天皇の一生は、近代日本の形成、大日本帝国の成立と表裏一体の関係にあった。
明治天皇は政治のからくりに操られる単なる人形ではなかった。明治天皇という特定の人柄が、権力の中心としての天皇という枠をこえて何か引きつける力をもち、影響力をもっていた。このような権威のあり方を社会学者はカリスマと呼んでいる。明治天皇はカリスマ的な天皇であった。
カリスマ的な天皇は、その言動がそのまま国の秩序を形成するという側面をもっている。蘇峰が「国家の一大秩序は、明治天皇御一身につなが」っていた、というのはその意味である。したがってまた、蘇峰がつづけていうように、日本は明治天皇の「崩御とともに、この一大秩序を見失」うことともなったのである。
元老・重臣達は、いつの日にかこのような事態が生じることを覚悟していたし、そのための用意もしてきた。それは国の秩序を天皇個人の存在からきりはなし、機構の中に制度化することであった。政治のからくりを整備し、舞台でのせりふやしぐさを決め、監督する機関を充実することである。
その準備が日露戦争後、着々進められてきたことは前に述べたとおりである。済生会もそうであったし、工場法もそうであったが、日露戦争後、在郷軍人会を組織したり、青年団を再編成したりしたのもそのためであった。地方行政に力が入れられたり、枢密院の力が強くなってきたりしたのも、その現われである。
明治天皇の重態が伝えられたとき、桂(太郎)は外遊してモスクワにいた。旅程を変更して大急ぎで帰国した桂を待っていたのは、天皇
「
引受けて見れば、思うたよりも公にとっては窮屈でもあり、且つ手持不沙汰でもあり、それにて一生を終ることは、すこぶる不本意であったに相違あるまい」(『蘇峰自伝」)
これにたいして反藩閥の原敬は、かなり違った判断をしていた。
「桂太郎侍従長兼内大臣に任ぜらる、山縣一派の陰謀にて枢府並に宮中を一切彼等の手に収めんとの
桂の一身が宮中に封じ込められたかどうかは別として、藩閥としてみれば、原がいうように宮中・枢府を掌中ににぎり、新天皇下の日本を、一つの機構として動かしていく体制を固めようとしたことは、否定し得ない事実であろう。
明治の日本はその幕を閉じ、第二幕の用意がととのえられたのである。
大喪の夜
「(大正元年九月十三日)千代田の森に暮色迫り、風あり粛殺として吹く。
宮城前より
時は
御先登は近衛軍楽隊なり、『
こうして明治天皇の大葬の開始を報じる号砲が東京の空に鳴り響いたとき、日露戦争にさいし、第三軍を指揮して旅順攻略に当たり、その後、学習院長をしていた乃木
その遺書にはこう書かれていた。
「自分
日露戟争にさいし、数万の兵士を無謀な旅順攻略のために殺したことも、かれの心を苦しめつづけてきたことであった。旅順総攻撃が甚大な損害をだして、二度三度失敗に終わったとき、山縣参謀総長は乃木司令官の
その死が突然であり、しかも予想もされなかったことであるから、沈んだ国民の心に大きな衝撃を与えた。
同じ陸軍に籍を置いて、乃木のこともよく知っていた森鴎外も、乃木殉死のことを聞いたときは半信半疑であった。かれは日記にこう書いている。
「大正元年九月十三日
九月十八日 午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す。」
鴎外は多忙な三、四日間に一気呵成に歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』を書き上げたのである。それは遺言の形をとり、つぎのような書出しになっている。
「
それは明白に乃木の死を弁護したものである。主人公弥五右衛門は、三十年前、主君細川三斎公の命で、長崎に南蛮渡来の香木を買いに行き、香木などに多額の無駄金を使う必要はないと主張する
明治のフィナーレ
日本を大日本帝国たらしめるために全生涯をかけた、明治の外交官僚のホープ小村壽太郎は、日露戦争から講和条約にかけてその全エネルギーを消耗し、明治天皇の死に先だつこと八ヵ月、四十四年十一月、肺患が悪化して世を去った。かれは壮年の日、藩閥をシャドウ(影)にすぎないと評したが、外交官として同輩であった原敬は、その葬儀の日の日記に、「官僚系(藩閥)の重用する所となりて遂に侯爵にものぼりたるは、彼に取りては幸運の事と云うべし」と記している。かれはけっきょく典型的な天皇制官僚であった。『小村外交史』は、「乃木将軍殉死後、
明治天皇が亡くなってから一年、大正二年八月、渡良瀬川沿岸農民のためにその一生を捧げた田中正造は、今日も村から村へ農民たちを訊ねていた。そして農家の縁先に倒れたまま、動けなくなった。正造危篤の報に、栃木県下はいうまでもなく、群馬、茨城や東京からも見舞にくる者がひきもきらなかった。木下尚江もとるものもとりあえずやってきた。九月に入ると容態は悪化した。四日朝、木下が枕許にいって、「どうですか」と聞くと、正造は静かに眼を開き、眉をしかめていった。
「これからの日本の乱れ!」
やがて静かに、
「鉱毒事件で、多年有志の人達を奔走させたが、ただ教育ということをしなかった。教育をしなかったのではない。実は教育ということを知らなかった」
といった。この明治人は一人の志士仁人として農民大衆のために闘ってき、それゆえに明治天皇に直訴もしたのである。だがそれでは駄目だということを、死の床で覚ったのである。農民を組織し、これを立ち上がらせることは、次代の人にのこした仕事である。
その昼、正造は木下に支えられて身体を起こし、八回、九回大きく呼吸したかと思うと、そのまま息を引き取った。庭には残暑の日ざかりに虫の音が聞こえるばかりである。遺品は菅笠と
明治は去っていった。そして新しい時代が始まろうとしている。財閥を中心とする独占資本は日本の経済を指導する体制を固め、政治の世界でも官僚機構が確立し、組織がものをいう時代に変わろうとしている。社会関係の動揺は温情的な家族主義で補修され、家族も経営も国も、これによって新しい事態に対応しようとしている。
眼を中国に転ずると、孫文や宮崎
ところで、歴史の時期を区切るのに、明治時代、大正時代と天皇の治世をもってすることは、学問的ではない。天皇の死がただちに歴史を変えることとはならないからである。だが、だれの眼から見ても、日露戦争から第一次大戦初期にかけての時期は、日本歴史の一つの変りめである。その転換のときに明治天皇が亡くなられたわけである。しかもこのカリスマ天皇の死は、この歴史の転換を表徴している。この巻が明治天皇の死をもって幕を閉じるのはそれゆえである。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/03/24
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